耽 羅
ハングル: | 탐라、탐모라、둔라 |
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| |
タムナ、タンモラ、トゥルラ | |
たんら、ちんら、たむら・たんもら、とんら | |
Tamna,Tammora,Dulla |
濊 貊 |
沃 沮 | |||||||||
42- 562 |
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676-892 |
668-756 |
渤海 698-926 | ||||||||
-935 |
892 -936 |
901-918 |
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( | ||||||||||
アメリカ |
ソビエト | |||||||||
1948- |
1948- | |||||||||
Portal: |
略 年表
この
紀元前 58年 -紀元前 7年 高 厚 、高 清 、高 季 などは新 羅 入朝 [2][3]。- 476
年 4月 百済 の文 周 王 に朝貢 した(『三 国史 記 』)。 - 498
年 9月百 済 の東城 王 に服属 した(『三 国史 記 』)。 - 508
年 12月南海 中 の耽 羅 人 が初 めて百済 国 と通 じた(『日本書紀 』)[4]。 - 661
年 5月王子 の阿波 伎らを派遣 して日本 に対 して初 めて朝貢 を行 った[5]。 - 662
年 2月新 羅 の文武 王 に来 降 し、これ以後 は新 羅 の属国 となった(『三 国史 記 』)。 - 665
年 8月 日本 へ使者 を送 って来朝 した[6]。 - 666
年 1月 王子 の姑 如らを日本 に派遣 して朝貢 した[7]。 - 667
年 7月 佐平 の椽磨らを日本 に派遣 して朝貢 した[8]。 - 669
年 3月 王子 の久 麻 伎(久 麻 藝 )らを送 って日本 に朝貢 した。日本 は耽 羅 王 に五穀 の種 を賜 い、その上 で耽 羅 の王子 らは帰国 した[9]。 - 673
年 5月王子 の久 麻 藝 や都 羅 、宇麻らを送 って日本 に朝貢 した[10]。 - 673
年 8月 天武天皇 即位 にあたり耽 羅 王 と王子 の久 麻 藝 らに大 乙 上 の冠 位 を賜 る。 - 675
年 9月王子 の久 麻 伎が入貢 し筑紫 に宿泊 する。 - 675
年 9月 耽 羅 王 姑 如が難波 に来朝 する。 - 676
年 2月 天武天皇 が耽 羅 の使者 に船 一 艘 を賜 る。 - 677
年 8月 王子 の都 羅 らを日本 に送 って朝貢 した。
歴史
『
935
1121
1368
文化 ・言語 系統
『
アレキサンダー・ボビンは
支配 者
耽 羅 王国 時代
ハングル | |
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고을라왕 | |
건왕 | |
삼계왕 | |
일망왕 | |
도제왕 | |
언경왕 | 彦卿 |
보명왕 | |
행천왕 | |
환왕 | 歓王 |
식왕 | 湜王 |
욱왕 | 煜王 |
황왕 | 煌王 |
위왕 | |
영왕 | |
후왕 | |
두명왕 | |
선주왕 | |
지남왕 | |
성방왕 | |
문성왕 | |
익왕 | |
지효왕 | |
숙왕 | |
현방왕 | |
기왕 | 璣王 |
담왕 | 聃王 |
지운왕 | |
서왕 | |
다명왕 | |
담왕 | |
체삼왕 | |
성진왕 | |
홍왕 | |
처량왕 | |
원왕 | |
표륜왕 | |
형왕 | 迥王 |
치도왕 | 致道 |
욱왕 | |
천원왕 | |
호공왕 | |
소왕 | |
경직왕 | |
민왕 | 岷王 |
자견왕 |
耽 羅 郡 (済州 )時代
ハングル | |
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고자견 | |
말로왕 | |
고유 | |
고조기 | |
고정익 | |
고적 | |
고여림 | |
고정간 | |
고순 | |
고복수 | |
고인단 | |
고수좌 | |
고석 | |
고순량 | |
고순원 | |
고명걸 | |
고신걸 | |
고봉예 |
脚注
註釈
- ^ 『
古事 類 苑 』、神宮 司 庁 、1903年 、269頁 、「耽 羅 ハ一二耽牟羅二作ル、或 ハ度 羅 二 作 ル」とされ、同 頁 の和漢 三 才 図会 十 三 異国 人物 耽 羅 耽 牟羅の記載 において、耽 羅 のふりがなに「ちんら」がみえる。 - ^ 『
日本 史 小 辞典 』、山川 出版 社 、1957年 、505頁 、辞典 内 で「耽 羅 島 (とむらのしま)」と読 み仮名 が付 けられている。ここで言 う耽 羅 島 は済州 島 を指 すものの、説明 に耽 羅 (とむら)についても述 べている。 - ^ ほかに、
州 胡 (チュホ)、渉 羅 (ソムナ)、純 羅 (スルラ)、度 羅 (トラ)という表記 も見 られる。 - ^
耽 羅 縣 在 全羅道 南海 中 。其古記 云 :「太初 無 人物 ,三 神人 ,從 地 聳 出 ,〈其主山北 麓 ,有 穴 曰毛興 ,是 其地也。〉長 曰良乙 那 ,次 曰高乙 那 ,三 曰夫乙 那 。三 人 遊獵 荒 僻 ,皮 衣 肉食 。一日見紫泥封藏木函,浮至于東海濱 ,就而開 之 ,函 內又有 石 函 ,有 一 紅 帶 紫衣 使者 ,隨 來 。開 石 函 ,出現 靑 衣 處女 三 ,及諸駒 犢五穀 種 。乃曰:『我 是 日本國 使 也。吾 王 生 此三 女 云 ,「西海 中嶽 ,降 神子 三 人 ,將 欲 開國 ,而無配 匹 。」於是,命 臣 侍 三 女 ,以來 爾 。宜 作 配 ,以成大業 』。
瀛州と呼 ばれ、未 だ人 の住 まない太古 の済州 に、良 乙 那 、高 乙 那 、夫 乙 那 の3つの姓 のある三 人 の神人 が、漢 拏山の北山 麓 の地 の、三 姓 穴 に現 れ、これが済州 人 の先祖 である。ある日 、漢 拏山を展望 していた彼 らは、北 の海 の方 から流 れてくる木 の箱 を発見 した。開 けてみると、箱 の中 には東国 の日本 国 から来 たという使者 と美 しい三 人 の姫 、家畜 や五穀 の種 が入 っていた。三 人 の神人 は、彼女 達 を妻 として迎 え、産業 と五穀 の栽培 を始 めて集落 をつくった。 —高 麗 史 、巻 五 十 七
出典
- ^
文 (2008:16-21) - ^ a b
星 主 - ^ 탐라국 종묘 대제전 개최
- ^ 『
日本書紀 』19継 体 天皇 2年 12月 南海 中 耽 羅 人 初 通 百済 国 。 - ^ 『
日本書紀 』26斉 明天 皇 7年 5月 丁 巳 条 耽 羅 始 遣 王子 阿波 伎等貢獻 。 - ^ 『
日本書紀 』27天智天皇 4年 8月 条 耽 羅 遣 使 来朝 。 - ^ 『
日本書紀 』27天智天皇 5年 春 正月 戊 寅 条 是 日 耽 羅 遣 王子 姑 如等貢獻 。 - ^ 『
日本書紀 』27天智天皇 6年 7月 己 巳 条 秋 七 月 己 未 朔 己 巳 。耽 羅 遣 佐平 椽磨等 貢獻 。 - ^ 『
日本書紀 』27天智天皇 8年 条 己 卯 朔 。己 丑 (3月 11日 )耽 羅 遣 王子 久 麻 伎等貢獻 。丙 申 (3月 18日 )賜 耽 羅 王 五穀 種 。是 日 王子 久 麻 伎等罷 歸 。 - ^ 『
日本書紀 』29天武天皇 2年 5月 壬 辰 条 耽 羅 遣 王子 久 麻 藝 都 羅宇 麻 等 朝貢 。 - ^
鳥越 憲 三郎 『古代 朝鮮 と倭 族 神話 解読 と現地 踏査 』中央公論社 〈中公新書 1085〉、1992年 7月 、70頁 。ISBN 978-4121010858。 - ^
浦野 起 央 『朝鮮 の領土 :【分析 ・資料 ・文献 】』三和 書籍 、2016年 9月 、332頁 。ISBN 978-4862512024。 - ^ a b
又 有 州 胡 在 馬 韓 之 西海 中 大島上 ,其人差 短小 ,言語 不 與 韓 同 ,皆 髠頭如鮮卑,但 衣 韋,好 養 牛 及豬。其衣有 上 無下 ,略 如裸勢 。乘船 往來 ,市 買 韓 中 。 —魏 志 、巻 三 十 、烏丸 鮮卑東夷 傳 - ^ 『
三 国史 記 』26百済 本紀 4(文 周 王 2年 4月 条 ):耽 羅 國 獻 方 物 。王 喜 拜 使者 爲 恩 率 。 - ^ 『
三 国史 記 』26百済 本紀 4(東城 王 20年 8月 条 ):王 以耽羅 不 修 貢 賦 親 征 至 武 珍 州 。耽 羅 聞之遣 使 乞罪乃止。耽 羅 即 耽 牟羅。 - ^ 『
三 国史 記 』6新 羅 本紀 6(文武 王 2年 2月 6日 条 ):耽 羅 國主 佐平 徒 冬 音律 【一作 津 】來 降 。耽 羅 自 武德 以來 臣 屬 百 濟 。故 以佐平 爲 官 號 。至 是 降 爲 屬國 。 - ^
文 (2008:22-23) - ^
文 (2008:24) - ^
高野 (1996:16) - ^
文 (2008:24-25) - ^ a b
文 (2008:25) - ^
文 (2008:26) - ^
文 (2008:28) - ^ Vovin, Alexander (2013-01-01). “From Koguryǒ to T’amna: Slowly riding to the South with speakers of Proto-Korean” (
英語 ). Korean Linguistics 15 (2): 222–240. doi:10.1075/kl.15.2.03vov. ISSN 0257-3784 . - ^ Go Jagyeon, formerly King Jagyeon of Tamna was Governor of Tamna from 933-938