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苦しみ - Wikipedia

くるしみ

あくてき心境しんきょうおよ物質ぶっしつてき様態ようたいから不快ふかいさにもとづいた概念がいねん

くるしみくるしみあるいは 苦痛くつう (Suffering or pain)とは、あくてき心境しんきょうおよ物質ぶっしつてき様態ようたいから不快ふかいさにもとづいた基礎きそてき概念がいねんである。なやかなしみくやしみ、悪感あっかん不安ふあん後悔こうかいはじ緊張きんちょう感情かんじょうてき傷害しょうがいなどからなる精神せいしんてきつらや、物質ぶっしつてき傷害しょうがい生体せいたい科学かがくてき傷害しょうがいなどからなるいた不快ふかいさにもとづいた心身しんしんにおけるあくてき様態ようたいす。しんいたみにおけるうつ症状しょうじょうや、危害きがいむすけられた嫌悪けんおあるいは個人こじんにおける危害きがいおそれを場合ばあいもある。

概要がいよう

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くるしみは、だいいち身体しんたいてき過程かてい精神せいしんてき過程かていのいずれにむすびついているのかに依存いぞんしているゆえに、「身体しんたいてき」あるいは「精神せいしんてき」とばれるかもしれない。身体しんたいてきくるしみのれいは、いた呼吸こきゅう困難こんなんかゆである。精神せいしんてきくるしみのれいは、不安ふあんなげにくしみ退屈たいくつである。

くるしみのつよさはすべての程度ていどにおいて、つまらないかるいものから筆舌ひつぜつくしがたいがたいものにいたる。しょうじた事態じたい持続じぞくせい頻度ひんど要素ようそは、しばしばそのつよさにしたがって考慮こうりょされる。

いたみにたいする人々ひとびと態度たいどは、どの程度ていどそれが、かるいあるいはおもい、回避かいひ可能かのうあるいは回避かいひ不能ふのうやくつあるいはやくにたない、些細ささいあるいは重大じゅうだい適切てきせつあるいは不適切ふてきせつえらばれたあるいはのぞまれない、れられるあるいはれられない、となされるかにしたがって非常ひじょう変化へんかする。

苦痛くつういたみ)」 (pain) と「くるしみ」 (suffering) というかたりは、混同こんどうされるし注意深ちゅういぶかあつかいが要求ようきゅうされる。(1) それらは、しばしば同義語どうぎごであり、交換こうかん可能かのうである。 (2) それらは、しばしば相互そうご対比たいひして使用しようされる。 (3) 一方いっぽう他方たほう指示しじする様々さまざまなものをしばしば指示しじする。たとえば、「いたみは身体しんたいてきくるしみである」とか「くるしみははげしい身体しんたいてきないし精神せいしんてき苦痛くつうである」等々とうとう。 (4) しかし、しばしば人々ひとびとはそれらをべつ仕方しかたもちいたりもする。

すべての感覚かんかくをもつ存在そんざいしゃは、その生存せいぞんあいだに、様々さまざま仕方しかたでしばしば劇的げきてきに、くるしみをもつ。人間にんげんてき活動かつどうすべての領域りょういきくるしみにかんするあらゆる問題もんだいかかわるわけではないが、おおくの事柄ことがらがその性質せいしつ過程かてい起源きげん原因げんいん意味いみ重要じゅうようせい、その関係かんけいする個人こじんてき社会しゃかいてき文化ぶんかてき行為こうい、その救済きゅうさいあつかい、使用しよう等々とうとうかかわっている。

哲学てつがくてき倫理りんりがくてき観点かんてん

編集へんしゅう

倫理りんり学理がくりろんとしての快楽かいらく主義しゅぎは、きものとしきものは究極きゅうきょくてき快楽かいらく苦痛くつうそんしていると主張しゅちょうする。エピクロスのようなおおくの快楽かいらく主義しゅぎしゃは、快楽かいらく追求ついきゅうよりもくるしみの回避かいひ強調きょうちょうした。なぜならかれらは、最大さいだい幸福こうふく苦痛くつうから自由じゆう快楽かいらくのわずらわしい追求ついきゅう余計よけい帰結きけつから自由じゆう平静へいせい状態じょうたいアタラクシア)のうちにある、と主張しゅちょうしたからである。ストアにとって、最大さいだいぜん理性りせいとくのうちにあり、たましい快楽かいらく苦痛くつうへのあるしゅ関心かんしんアパテイア)をつうじてもっともよくそれに到達とうたつする。結果けっかとして、この学説がくせつはもっともわるくるしみをまえにしてさえ自制じせいすることと同一どういつされた。

ジェレミー・ベンサムは、倫理りんりがく政治せいじがく経済けいざいがくにおいて大衆たいしゅうてき学説がくせつである快楽かいらく主義しゅぎてき功利こうり主義しゅぎ展開てんかいした。ベンサムはただしい行為こうい政策せいさくは「最大さいだい多数たすう最大さいだい幸福こうふく」をこすだろうものであるとろんじる。かれは、いかにおおくの快楽かいらく苦痛くつうがなんらかの行為こういから帰結きけつするだろうかを規定きていするために、快楽かいらく計算けいさんあるいは幸福こうふく計算けいさんばれる手続てつづきを提出ていしゅつした。ジョン・スチュアート・ミル快楽かいらく主義しゅぎてき功利こうり主義しゅぎ学説がくせつ改善かいぜん推進すいしんした。カール・ポパーは、『ひらかれた社会しゃかいとそのてき』において、功利こうりについてかたさい幸福こうふく増進ぞうしんよりもくるしみの縮減しゅくげん優先ゆうせんさせる消極しょうきょくてき功利こうり主義しゅぎ提案ていあんした。すなわち、「倫理りんりてき観点かんてんから、くるしみと幸福こうふく、あるいは苦痛くつう快楽かいらくあいだのいかなる対称たいしょうせい存在そんざいしないとわたししんじる。 (…) 人間にんげんくるしみはたすけにたいする直接的ちょくせつてき道徳どうとくてき懇願こんがんつくる。なににせようまくやっているひと幸福こうふく拡大かくだいすることにたいしていかなるたような使命しめい存在そんざいしない」。デイヴィド・ピアース功利こうり主義しゅぎ率直そっちょくくるしみ(ここでは、「生物せいぶつがくてき神経しんけいがくてき心理しんりがくてき諸相しょそう」のしたよ)の廃絶はいぜつ要求ようきゅうしている。おおくの功利こうり主義しゅぎしゃは、ベンサム以来いらい存在そんざいしゃ道徳どうとくてき状態じょうたい快楽かいらく苦痛くつうかんじる能力のうりょく由来ゆらいしており、したがって道徳どうとくてき行為こういしゃ人間にんげん存在そんざい利益りえきだけでなく動物どうぶつ利益りえき考慮こうりょれる、とかんがえている。リチャード・D・ライダーは、そのような見解けんかいを「たね差別さべつ」 (speciesism) や「苦痛くつう主義しゅぎ」 (painism) の概念がいねんにおいて展開てんかいした。ピーター・シンガーは、かれ著作ちょさく動物どうぶつ解放かいほう』 (Animal Liberation) や著作ちょさくとともに、このたね功利こうり主義しゅぎ最先端さいせんたんしめしている。

くるしみの救済きゅうさいかかわるほか学説がくせつは、人道じんどう主義しゅぎ (humanitarianism) である(人道じんどう支援しえん (humanitarian aid) や人道的じんどうてき社会しゃかい (humane society) もよ)。「人道じんどう主義しゅぎてき努力どりょく感覚かんかく存在そんざいしゃたいする積極せっきょくてき付加ふかぶつ見出みいだすところでは、幸福こうふくなるものをより幸福こうふくにするよりはむしろ不幸ふこうなるものを幸福こうふくにする。 (...) [人道じんどう主義しゅぎは]、おおくの社会しゃかいてき様態ようたい構成こうせい要素ようそである。現代げんだい社会しゃかいにおいては、様々さまざま動機どうき見出みいだされるので、それ自身じしん存在そんざいしているとえるものはほとんどありえない」[1]

悲観ひかん主義しゅぎ (pessimism) は、アルトゥル・ショーペンハウアーがよくられたかたちべるように、この世界せかいを、悪化あっかめられないくるしみになやまされる可能かのうかぎもっとわるいものとみなす。ショーペンハウアーは、芸術げいじゅつ哲学てつがくせいへの意志いし喪失そうしつや「くるしむ仲間なかま」 (fellow-sufferers) についての寛容かんようさのようなものに逃避とうひすることをすすめる。フリードリヒ・ニーチェは、最初さいしょはショーペンハウアーの影響えいきょうけたが、ちからへの意志いしとなえ、弱者じゃくしゃへの同情どうじょうあわれみを軽蔑けいべつし、最大さいだいくるしみの「永遠えいえん回帰かいき」をみずかれるというまったべつ態度たいどのち展開てんかいした。

いたは、感覚かんかく知覚ちかくとしては痛覚つうかく集中しゅうちゅうするが、その内容ないようおおくはくるしみ一般いっぱんにもかかわるのである。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Crane Brinton, article Humanitarianism, Encyclopaedia of the Social Sciences, 1937

関連かんれん項目こうもく

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