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豊後国 - Wikipedia

豊後ぶんごこく

遠国おんごくぞくするれいせいこくひと

豊後ぶんごこく(ぶんごのくに、7世紀せいきすえ - 1872ねん)は、かつて日本にっぽん地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶんだったれいせいこくひとつ。西海にしうみみちぞくし、現在げんざい大分おおいたけんぞくする。

豊後ぶんごこく

-豊後ぶんごこく
-西海にしうみみち
別称べっしょう ゆたかしゅう(ほうしゅう)
ゆたか(にほう)[注釈ちゅうしゃく 1]
所属しょぞく 西海にしうみみち
相当そうとう領域りょういき 大分おおいたけんだい部分ぶぶん宇佐うさ中津なかつのぞく)
しょもと
国力こくりょく うえこく
距離きょり 遠国おんごく
ぐんさとかず 8ぐん44さと
国内こくない主要しゅよう施設しせつ
豊後ぶんご国府こくふ 大分おおいたけん大分おおいた
豊後国分ぶんごこくぶてら 大分おおいたけん大分おおいた豊後国分ぶんごこくぶ寺跡てらあと
豊後国分ぶんごこくぶ尼寺あまでら推定すいてい大分おおいたけん大分おおいた
一宮いちのみや 西にしさむ神社じんじゃ大分おおいたけん大分おおいた
柞原くばら八幡宮はちまんぐう大分おおいたけん大分おおいた
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領域りょういき

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明治維新めいじいしん直前ちょくぜん領域りょういきは、現在げんざい大分おおいたけんから下記かきのぞいた区域くいき相当そうとうする。

沿革えんかく

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古墳こふん時代じだいには国東半島くにさきはんとう中心ちゅうしんとした地域ちいきくにぜん国造くにのみやつこ大分おおいたぐん中心ちゅうしんとした地域ちいき大分おおいた国造くにのみやつこ日田にったぐん中心ちゅうしんとした地域ちいき国造くにのみやつこ設置せっちされた。

飛鳥あすか時代ときよ大化たいか改新かいしんのあとの701ねん律令制りつりょうせい大宝たいほう律令りつりょう)が施行しこうされ、九州きゅうしゅう全体ぜんたい西海にしうみみち一部いちぶになり、それまでの豊国ほうこく(とよのくに)が分割ぶんかつされ、豊後ぶんごこく豊前ぶぜんこくもうけられた(ぞく日本にっぽん)。

また8世紀せいき前半ぜんはん編纂へんさんとされている『豊後ぶんごこく風土記ふどき』は、全国ぜんこくで5つだけのほぼ完全かんぜんかたちのこ風土記ふどきの1つである。

豊後ぶんごこくは、平安へいあん時代じだいまで和名わみょうで「とよ くにの みちのしり」とんだ。[注釈ちゅうしゃく 2]

中世ちゅうせい

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平安へいあん時代じだい末期まっきの1185ねんうけたまわ寿ことぶきひさしらん源平げんぺい合戦かっせん)で平家ひらかほろびたのちみなもと頼朝よりともおや平家へいけかたであった九州きゅうしゅう在地ざいち武家ぶけおさえこむため、あたらしく東国とうごく御家人ごけにん大友おおとも守護しゅごとして九州きゅうしゅうおくんだ。豊後ぶんごこくでは大友おおとももんしゅいち萬田まんだ大友おおともくだしゅ次第しだい勢力せいりょくつよめ、くにしゅであったうるししま宇佐うさ大神おおがみ清原きよはら藤原ふじわら阿南あなみ稙田大野おおの臼杵うすき緒方おがた賀来かく佐伯さえき橋爪はしづめ徳丸とくまるなど在地ざいち武家ぶけおさんだ。

鎌倉かまくら時代ときよから室町むろまち時代ときよ大友おおとも守護しゅごであり、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけてはあらそいごともさかんにきた。

21代目だいめ大友おおとも宗麟そうりん時代じだいには、ポルトガルカンボジアとの交易こうえき拡大かくだいした。

豊臣とよとみ政権せいけんにおいて検地けんち太閤たいこう検地けんち)が実施じっしされ、42まんせきそう石高こくだかとされた[1]

江戸えど時代じだい

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1803ねん唐橋からはしずみ編纂へんさんした『豊後ぶんごこくこころざし』に当時とうじ豊後ぶんごこくかんする趨勢すうせい統計とうけい史跡しせき史実しじつまとめられている。

近世きんせい以降いこう沿革えんかく

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国内こくない施設しせつ

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国府こくふ大分おおいたぐんにあった。現在げんざい大分おおいた古国府ふるごう推定すいていされるが、遺跡いせきはまだつかっていない。

国分寺こくぶんじ国分こくぶ尼寺あまでら

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豊後国分ぶんごこくぶてら
現在げんざい金光明寺こんこうみょうじ大分おおいたけん大分おおいた国分こくぶ)。

神社じんじゃ

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延喜えんぎ式内しきないしゃ
延喜えんぎしきかみめいちょう』には、以下いかしめ大社たいしゃ11しゃ小社しょうしゃ54しゃけい65しゃ記載きさいされている(「豊後ぶんごこく式内しきないしゃ一覧いちらん参照さんしょう)。大社たいしゃ1しゃは、名神めいしん大社たいしゃではない。
総社そうじゃ一宮いちのみや

二宮にのみや以下いかしょうである。

安国寺あんこくじ利生りしょうとう

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豊後ぶんごこくこころざし復刻ふっこくばんよりきゅう大分おおいたけんぐんり(1931ねん)。[注釈ちゅうしゃく 3]
特記とっきした以外いがいは『豊後ぶんごこく風土記ふどき』での表記ひょうきによる。

江戸えど時代じだいはん

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人物じんぶつ

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国司こくし豊後ぶんごまもる豊後ぶんごかい

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鎌倉かまくら幕府ばくふ

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室町むろまち幕府ばくふ

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戦国せんごく時代じだい

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戦国せんごく大名だいみょう

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  • 大友おおとも豊後ぶんご筑後ちくごこく守護しゅごにんじられていたが、義鑑よしあきだい肥後ひご進出しんしゅつし1543ねんには肥後ひご守護しゅご補任ほにんされる。義鎮よししげ宗麟そうりん)の治世ちせい最盛さいせいむかえ、肥前ひぜん豊前ぶぜん筑前ちくぜんにも進出しんしゅつして1554ねん肥前ひぜん守護しゅご、1559ねん豊前ぶぜん筑前ちくぜん守護しゅご補任ほにん九州きゅうしゅう6ヶ国かこく守護しゅごとなり、龍造寺りゅうぞうじ島津しまつ九州きゅうしゅうきそった。徐々じょじょ衰退すいたいしてゆたか合戦かっせん島津しまつやぶれ、豊臣とよとみ九州きゅうしゅう平定へいていのちには豊後ぶんご1こくのみを安堵あんどされる。

豊臣とよとみ政権せいけん大名だいみょう

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武家ぶけ官位かんいとしての豊後ぶんごまもる

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江戸えど時代じだい以前いぜん

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江戸えど時代じだい

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 別称べっしょうの「ゆたかしゅう」は、豊前ぶぜんこくとあわせて、または単独たんどくでの呼称こしょう。また、「ゆたか」は、豊前ぶぜんこくとあわせての呼称こしょう
  2. ^ ゆたか(とよ)こく(くにの)(みちのしり)と、漢文かんぶんがえみにかたである。同様どうように、豊前ぶぜんこくのほうは、「とよ くにの みちのくち」とんだ。
  3. ^ 豊前ぶぜんこく宇佐うさぐん併合へいごうされたのち
  4. ^ 和名わみょう類聚るいじゅうしょう』での表記ひょうき
  5. ^ a b 近世きんせい表記ひょうき

出典しゅってん

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  1. ^ 大分おおいたけん総務そうむ総務そうむ 1990, p. 4.
  2. ^ a b 末広すえひろとしじん日田にったけんかん実体じったい : 佐伯さいきはんあずかところ場合ばあい」『大分おおいたけん地方ちほうだい105ごう大分おおいたけん地方ちほう研究けんきゅうかい、1982ねん3がつ、20-37ぺーじNAID 120004878384 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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