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延喜えんぎしきかみめいちょう」のはんあいだ差分さぶん

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[[ファイル:Engishiki Jingi cropped Engishiki Vol 2 Flame 37.jpg|thumb|300px|日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の本文ほんぶん<ref>{{Cite book|和書わしょ |title=日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう 延喜えんぎしき だい |year=1929 |publisher=日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい |page=65 |editor=[[正宗まさむね敦夫あつお]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1912589/1/36}}</ref>]]
{{出典しゅってん明記めいき|date=2017ねん8がつ28にち (月)げつ 05:00 (UTC)}}
'''延喜えんぎしきかみめいちょう'''(えんぎしき じんみょうちょう、しんめいちょう)は、[[延長えんちょう (元号げんごう)|延長えんちょう]]5ねん([[927ねん]])にまとめられた『[[延喜えんぎしき]]』のまききゅうじゅうかみめいしきじょうしたのことで,この部分ぶぶんだけがとくにされて「延喜えんぎしきかみめいちょう」<ref>{{Cite book|和書わしょ |title=延喜えんぎしきかみめいちょう じょう |year=1939 |publisher=古典こてん保存ほぞんかい |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3438688 |editor=}}</ref>とばれるようになった<ref name=":0">{{Kotobank|かみめいちょう}}</ref>。延喜えんぎしきによって「[[かんぬさしゃ|かんしゃ]]」に指定していする[[神社じんじゃ]]一覧いちらんである。独立どくりつ写本しゃほんなどがつくられるようになった時期じき明確めいかくでないが,おそらく中世ちゅうせい初期しょきのこととおもわれる<ref name=":0" />。
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'''延喜えんぎしきかみめいちょう'''(えんぎしき じんみょうちょう)は、[[延長えんちょう (元号げんごう)|延長えんちょう]]5ねん([[927ねん]])にまとめられた『[[延喜えんぎしき]]』のまききゅうじゅうのことで、当時とうじ「[[かんぬさしゃ|かんしゃ]]」に指定していされていた全国ぜんこくの[[神社じんじゃ]]一覧いちらんである。


== かみめいちょう性質せいしつ成立せいりつ ==
== 概要がいよう ==
延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいされた神社じんじゃ、および現代げんだいにおけるその[[#ろんしゃ|ろんしゃ]]を「延喜えんぎしきうち記載きさいされた神社じんじゃ」の意味いみで'''延喜えんぎ式内しきないしゃ'''、またはたんに'''式内しきないしゃ'''(しきないしゃ)、'''しきしゃ'''(しきしゃ)といい、一種いっしゅの[[社格しゃかく]]となっている。本来ほんらいかみめいちょう」とは、古代こだい[[律令制りつりょうせい]]における[[神祇官じんぎかん]]が作成さくせいしたかんしゃ一覧いちらんひょうし、かんしゃちょうともいう。くに・[[ぐん]]べつ神社じんじゃ羅列られつされ、かんぬさくにぬさべつ大社たいしゃ小社しょうしゃべつすう幣帛へいはくける祭祀さいしべつ明記めいきするのみで、かく式内しきないしゃ祭神さいじんめい由緒ゆいしょなどの記載きさいはない。延喜えんぎしきかみめいちょうとは、延喜えんぎしき成立せいりつ当時とうじかみめいちょう掲載けいさいしたものである。延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいされた神社じんじゃ式内しきないしゃ)は全国ぜんこくで2861しゃで、そこに鎮座ちんざする[[かみ (神道しんとう)|かみ]]のかずは3132である。
本来ほんらいかみめいちょう」とは、古代こだい[[律令制りつりょうせい]]における[[神祇官じんぎかん]]が作成さくせいしたかんしゃ一覧いちらんひょうし、かんしゃちょうともいう。くに・[[ぐん]]べつ神社じんじゃ羅列られつされ、かんぬさくにぬさべつ大社たいしゃ小社しょうしゃべつすう幣帛へいはくける祭祀さいしべつ明記めいきするのみで、かく式内しきないしゃ祭神さいじんめい由緒ゆいしょなどの記載きさいはない。延喜えんぎしきかみめいちょうとは、延喜えんぎしき成立せいりつ当時とうじかみめいちょう掲載けいさいしたものである。


=== 式内しきないしゃ ===
式内しきないしゃは、延喜えんぎしき成立せいりつした10世紀せいき初頭しょとう朝廷ちょうていからかんしゃして認識にんしきされていた神社じんじゃその選定せんてい背景はいけいには政治せいじしょくつよくみえる。当時とうじすでに存在そんざいしたが延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいがない神社じんじゃを'''しきがいしゃ'''(しきげしゃ)という。しきがいしゃには、朝廷ちょうてい勢力せいりょく範囲はんいがい神社じんじゃや、独自どくじ勢力せいりょくった神社じんじゃ{{Efn2|たとえば[[熊野くまの那智なち大社たいしゃ]]など。}}、また、[[神仏しんぶつ習合しゅうごう]]によりほとけまつてらとなった神社じんじゃ、[[そう|僧侶そうりょ]]が管理かんりした神社じんじゃ{{Efn2|たとえば[[石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう]]など。}}、正式せいしき社殿しゃでんがなかった神社じんじゃなどがふくまれるしきがいしゃだが[[ろく国史こくし]]に記載きさいがある神社じんじゃとくに'''国史こくしげん在社ざいしゃ'''(国史こくし在社ざいしゃとも)とぶ{{Efn2|広義こうぎには式内しきないしゃふくむ。}}
延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいされた神社じんじゃ、および現代げんだいにおけるその[[延喜えんぎしきかみめいちょう#ろんしゃ|ろんしゃ]]を「延喜えんぎしきうち記載きさいされた神社じんじゃ」の意味いみで'''延喜えんぎ式内しきないしゃ'''、またはたんに'''式内しきないしゃ'''(しきないしゃ)、'''しきしゃ'''(しきしゃ)といい、一種いっしゅの[[社格しゃかく]]となっている。

延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいされた神社じんじゃ式内しきないしゃ)は全国ぜんこくで2861しゃで、そこに鎮座ちんざする[[かみ (神道しんとう)|かみ]]のかずは3132<ref>{{Cite book|和書わしょ |title=延喜えんぎしきかみめいちょう じょう |year=1939 |publisher=古典こてん保存ほぞんかい |author=[[藤原ふじわらたいら]] とう奉勅ほうちょくせん |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/3438688/1/5}}</ref>である。

式内しきないしゃは、延喜えんぎしき成立せいりつした10世紀せいき初頭しょとうには朝廷ちょうていからかんしゃとして認識にんしきされていた神社じんじゃで、その選定せんてい背景はいけいには政治せいじしょくつよくみえる。

=== しきがいしゃ ===
これたいして、当時とうじすでに存在そんざいしたが延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいがない神社じんじゃを'''しきがいしゃ'''(しきげしゃ)という。しきがいしゃには、朝廷ちょうてい勢力せいりょく範囲はんいがい神社じんじゃや、独自どくじ勢力せいりょくった神社じんじゃ{{Efn2|たとえば[[熊野くまの那智なち大社たいしゃ]]など。}}、また、[[神仏しんぶつ習合しゅうごう]]によりほとけまつてらとなった神社じんじゃ、[[そう|僧侶そうりょ]]が管理かんりした神社じんじゃ{{Efn2|たとえば[[石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう]]など。}}、正式せいしき社殿しゃでんがなかった神社じんじゃなどがふくまれる。

=== 国史こくしげん在社ざいしゃ ===
しきがいしゃだが延喜えんぎしき成立せいりつ以前いぜん成立せいりつした[[ろく国史こくし]]に社名しゃめいえながら、延喜えんぎしき登載とうさいされなかった神社じんじゃを「国史こくしげん在社ざいしゃ」あるいはりゃくして「げん在社ざいしゃ」といい{{Efn2|広義こうぎには式内しきないしゃふくむ。}}、[[石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう]]、[[大原野おおはらの神社じんじゃ]]などがある<ref>{{Cite book|和書わしょ |title=神典しんてん解説かいせつ 下巻げかん |year=1939 |publisher=大倉おおくら精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ |page=207 |editor=[[大倉おおくら精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ ]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1920679/1/111}}</ref>。

=== ろんしゃ ===
式内しきないしゃ後裔こうえい現在げんざいのどの神社じんじゃなのかを比定ひていする研究けんきゅうふるくからおこなわれている。現代げんだいにおいて、延喜えんぎしき記載きさいされた神社じんじゃ同一どういつもしくはその後裔こうえい推定すいていされる神社じんじゃのことを'''ろんしゃ'''(ろんしゃ)・'''比定ひていしゃ'''(ひていしゃ)などとばれる。

式内しきないしゃ後裔こうえいとしてほぼ確実視かくじつしされている神社じんじゃでも、確実かくじつ証拠しょうこはほとんどく、伝承でんしょうにより後裔こうえい可能かのうせいがきわめてたかろんしゃというあつかいである。延喜えんぎしき編纂へんさん以降いこう社名しゃめい祭神さいじん鎮座ちんざなどが変更へんこうされたり、神社じんじゃ合祀ごうしされたり、また、荒廃こうはいしたのち復興ふっこうされたりした場合ばあい式内しきないしゃ後裔こうえいされる神社じんじゃ複数ふくすうになることもある。

ろんしゃには、研究けんきゅうによって後裔こうえいしゃだとみなされることもあるが、その神社じんじゃみずか式内しきないしゃだと主張しゅちょうすることもおおい。


== 式内しきないしゃ社格しゃかく ==
== 式内しきないしゃ社格しゃかく ==
[[ファイル:Engishiki cropped Engishiki Vol 2 Flame 67.jpg|thumb|200px|日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の「遠江とおのえこく」の部分ぶぶん<ref>[[正宗まさむね敦夫あつお]]編纂へんさん延喜えんぎしき』2かん日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1929ねん、125ぺーじ</ref>]]
[[ファイル:Engishiki cropped Engishiki Vol 2 Flame 67.jpg|thumb|200px|日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の「遠江とおのえこく」の部分ぶぶん<ref>{{Cite book|和書わしょ |title=日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう 延喜えんぎしき だい |year=1929 |publisher=日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい |page=65 |editor=[[正宗まさむね敦夫あつお]] |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1912589/1/36}}</ref>]]
[[ファイル:Engishiki cropped Engishiki Vol 2 Flame 69.jpg|thumb|200px|日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の「駿河するがこく」の部分ぶぶん<ref>[[正宗まさむね敦夫あつお]]編纂へんさん延喜えんぎしき』2かん日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1929ねん129ぺーじ</ref>]]
[[ファイル:Engishiki cropped Engishiki Vol 2 Flame 69.jpg|thumb|200px|日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の「駿河するがこく」の部分ぶぶん<ref>{{Cite book|和書わしょ |title=日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう 延喜えんぎしき だい |year=1929 |publisher=日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい |page=129 |editor=正宗まさむね敦夫あつお |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/1912589/1/68}}</ref>]]
式内しきないしゃ各種かくしゅ種別しゅべつがある。まずかんぬさしゃ国幣社こくへいしゃべつである。かんしゃとは、毎年まいとし2がつの[[祈年祭としごいのまつり]]に[[神祇官じんぎかん]]から[[幣帛へいはく]]をける神社じんじゃのことで、かく神社じんじゃの[[しゅく]](ほうりべ、{{smaller|[[きゅう仮名遣かなづかい]]:}}はふりべ)が神祇官じんぎかんあつまり幣帛へいはくっていた。その[[平安へいあん時代じだい]]の[[のべれき]]17ねん([[798ねん]])に、つづき[[神祇官じんぎかん]]から幣帛へいはくける[[かんぬさしゃ]]と、[[国司こくし]]から幣帛へいはくける国幣社こくへいしゃとにけられた。式内しきないしゃでは、かんぬさしゃが573しゃ 737国幣社こくへいしゃが2288しゃ 2395である。[[国幣社こくへいしゃ]]がもうけられたのは、遠方えんぽう神社じんじゃではしゅく上京じょうきょう困難こんなんなためとかんがえられるが、遠方えんぽうでも重要じゅうよう神社じんじゃかんぬさしゃとなっている。
式内しきないしゃ各種かくしゅ種別しゅべつがある。まずかんぬさしゃ国幣社こくへいしゃべつである。かんしゃとは、毎年まいとし2がつの[[祈年祭としごいのまつり]]に[[神祇官じんぎかん]]から[[幣帛へいはく]]をける神社じんじゃのことで、かく神社じんじゃの[[しゅく]](ほうりべ、{{smaller|[[きゅう仮名遣かなづかい]]:}}はふりべ)が神祇官じんぎかんあつまり幣帛へいはくっていた。その[[平安へいあん時代じだい]]の[[のべれき]]17ねん([[798ねん]])に、つづき[[神祇官じんぎかん]]から幣帛へいはくける[[かんぬさしゃ]]と、[[国司こくし]]から幣帛へいはくける国幣社こくへいしゃとにけられた。式内しきないしゃでは、かんぬさしゃが573しゃ 737国幣社こくへいしゃが2288しゃ 2395である。[[国幣社こくへいしゃ]]がもうけられたのは、遠方えんぽう神社じんじゃではしゅく上京じょうきょう困難こんなんなためとかんがえられるが、遠方えんぽうでも重要じゅうよう神社じんじゃかんぬさしゃとなっている。


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=== 注釈ちゅうしゃく ===
=== 注釈ちゅうしゃく ===
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=== 出典しゅってん ===
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== 関連かんれん資料しりょう ==
== 関連かんれん資料しりょう ==
{{参照さんしょう方法ほうほう|date=2018ねん6がつ|section=1}}
* 式内しきないしゃ調査ちょうさ報告ほうこく,式内しきないしゃ研究けんきゅうかいへん,[[皇學館大学こうがくかんだいがく]]出版しゅっぱん 1977-86
* 式内しきないしゃ調査ちょうさ報告ほうこく,式内しきないしゃ研究けんきゅうかいへん,[[皇學館大学こうがくかんだいがく]]出版しゅっぱん 1977-86
* 式内しきないしゃ研究けんきゅう,志賀しがつよし,[[雄山閣ゆうざんかく]] 1977-87
* 式内しきないしゃ研究けんきゅう,志賀しがつよし,[[雄山閣ゆうざんかく]] 1977-87

2024ねん5がつ22にち (水)すい 17:08時点じてんにおける最新さいしんばん

日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の本文ほんぶん[1]

延喜えんぎしきかみめいちょう(えんぎしき じんみょうちょう、しんめいちょう)は、延長えんちょう5ねん927ねん)にまとめられた『延喜えんぎしき』のまききゅうじゅうかみめいしきじょうしたのことで,この部分ぶぶんだけがとくにされて「延喜えんぎしきかみめいちょう[2]ばれるようになった[3]延喜えんぎしきによって「かんしゃ」に指定していする神社じんじゃ一覧いちらんである。独立どくりつ写本しゃほんなどがつくられるようになった時期じき明確めいかくでないが,おそらく中世ちゅうせい初期しょきのこととおもわれる[3]

かみめいちょう性質せいしつ成立せいりつ

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本来ほんらいかみめいちょう」とは、古代こだい律令制りつりょうせいにおける神祇官じんぎかん作成さくせいしたかんしゃ一覧いちらんひょうし、かんしゃちょうともいう。くにぐんべつ神社じんじゃ羅列られつされ、かんぬさくにぬさべつ大社たいしゃ小社しょうしゃべつすう幣帛へいはくける祭祀さいしべつ明記めいきするのみで、かく式内しきないしゃ祭神さいじんめい由緒ゆいしょなどの記載きさいはない。延喜えんぎしきかみめいちょうとは、延喜えんぎしき成立せいりつ当時とうじかみめいちょう掲載けいさいしたものである。

式内しきないしゃ

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延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいされた神社じんじゃ、および現代げんだいにおけるそのろんしゃを「延喜えんぎしきうち記載きさいされた神社じんじゃ」の意味いみ延喜えんぎ式内しきないしゃ、またはたん式内しきないしゃ(しきないしゃ)、しきしゃ(しきしゃ)といい、一種いっしゅ社格しゃかくとなっている。

延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいされた神社じんじゃ式内しきないしゃ)は全国ぜんこくで2861しゃで、そこに鎮座ちんざするかみかずは3132[4]である。

式内しきないしゃは、延喜えんぎしき成立せいりつした10世紀せいき初頭しょとうには朝廷ちょうていからかんしゃとして認識にんしきされていた神社じんじゃで、その選定せんてい背景はいけいには政治せいじしょくつよくみえる。

しきがいしゃ

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これにたいして、当時とうじすでに存在そんざいしたが延喜えんぎしきかみめいちょう記載きさいがない神社じんじゃしきがいしゃ(しきげしゃ)という。しきがいしゃには、朝廷ちょうてい勢力せいりょく範囲はんいがい神社じんじゃや、独自どくじ勢力せいりょくった神社じんじゃ[ちゅう 1]、また、神仏しんぶつ習合しゅうごうによりほとけまつてらとなった神社じんじゃ僧侶そうりょ管理かんりした神社じんじゃ[ちゅう 2]正式せいしき社殿しゃでんがなかった神社じんじゃなどがふくまれる。

国史こくしげん在社ざいしゃ

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しきがいしゃだが延喜えんぎしき成立せいりつ以前いぜん成立せいりつしたろく国史こくし社名しゃめいえながら、延喜えんぎしき登載とうさいされなかった神社じんじゃを「国史こくしげん在社ざいしゃ」あるいはりゃくして「げん在社ざいしゃ」といい[ちゅう 3]石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう大原野おおはらの神社じんじゃなどがある[5]

ろんしゃ

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式内しきないしゃ後裔こうえい現在げんざいのどの神社じんじゃなのかを比定ひていする研究けんきゅうふるくからおこなわれている。現代げんだいにおいて、延喜えんぎしき記載きさいされた神社じんじゃ同一どういつもしくはその後裔こうえい推定すいていされる神社じんじゃのことをろんしゃ(ろんしゃ)・比定ひていしゃ(ひていしゃ)などとばれる。

式内しきないしゃ後裔こうえいとしてほぼ確実視かくじつしされている神社じんじゃでも、確実かくじつ証拠しょうこはほとんどく、伝承でんしょうにより後裔こうえい可能かのうせいがきわめてたかろんしゃというあつかいである。延喜えんぎしき編纂へんさん以降いこう社名しゃめい祭神さいじん鎮座ちんざなどが変更へんこうされたり、神社じんじゃ合祀ごうしされたり、また、荒廃こうはいしたのち復興ふっこうされたりした場合ばあい式内しきないしゃ後裔こうえいされる神社じんじゃ複数ふくすうになることもある。

ろんしゃには、研究けんきゅうによって後裔こうえいしゃだとみなされることもあるが、その神社じんじゃみずか式内しきないしゃだと主張しゅちょうすることもおおい。

式内しきないしゃ社格しゃかく

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日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の「遠江とおのえこく」の部分ぶぶん[6]
日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう収録しゅうろくされた『延喜えんぎしきまき9の「駿河するがこく」の部分ぶぶん[7]

式内しきないしゃ各種かくしゅ種別しゅべつがある。まずかんぬさしゃ国幣社こくへいしゃべつである。かんしゃとは、毎年まいとし2がつ祈年祭としごいのまつり神祇官じんぎかんから幣帛へいはくける神社じんじゃのことで、かく神社じんじゃしゅく(ほうりべ、きゅう仮名遣かなづかいはふりべ)が神祇官じんぎかんあつまり幣帛へいはくっていた。その平安へいあん時代じだいのべれき17ねん798ねん)に、つづ神祇官じんぎかんから幣帛へいはくけるかんぬさしゃと、国司こくしから幣帛へいはくける国幣社こくへいしゃとにけられた。式内しきないしゃでは、かんぬさしゃが573しゃ 737国幣社こくへいしゃが2288しゃ 2395である。国幣社こくへいしゃもうけられたのは、遠方えんぽう神社じんじゃではしゅく上京じょうきょう困難こんなんなためとかんがえられるが、遠方えんぽうでも重要じゅうよう神社じんじゃかんぬさしゃとなっている。

つぎ大社たいしゃ小社しょうしゃべつである。このべつはその神社じんじゃ重要じゅうようしゃぜいによったとかんがえられる。かんぬさしゃ国幣社こくへいしゃおよび大社たいしゃ小社しょうしゃはすべての式内しきないしゃについてさだめられたので、式内しきないしゃ以下いかの4つに分類ぶんるいされることとなる。

かんぬさ大社たいしゃ 0198しゃ 0304
くにぬさ大社たいしゃ 0155しゃ 0188
かんぬさ小社しょうしゃ 0375しゃ 0433
くにぬさ小社しょうしゃ 2133しゃ 2207

かんぬさ大社たいしゃ畿内きない集中しゅうちゅうしているが、かんぬさ小社しょうしゃすべ畿内きないに、くにぬさ大社たいしゃくにぬさ小社しょうしゃすべて畿外にある。なお、近代きんだい社格しゃかく制度せいどにもおな名称めいしょう社格しゃかくがあるが、式内しきないしゃ社格しゃかくとは意味いみことなる。また、近代きんだい社格しゃかく制度せいど社格しゃかく延喜えんぎしきにおける社格しゃかくとは無関係むかんけいで、制定せいてい重要じゅうようしゃぜいおうじてさだめられた。

式内しきないしゃなかには、祈年祭としごいのまつり以外いがいまつりにも幣帛へいはくける神社じんじゃがあり、社格しゃかくとともにしるされた。

名神めいしん 名神めいしんさいおこなわれる神社じんじゃ[ちゅう 4]
月次げつじ 月次げつじさい幣帛へいはくける神社じんじゃ
あい あい嘗祭おこなわれる神社じんじゃ
しん 新嘗祭にいなめさい幣帛へいはくける神社じんじゃ

ろんしゃ

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式内しきないしゃ後裔こうえい現在げんざいのどの神社じんじゃなのかを比定ひていする研究けんきゅうふるくからおこなわれている。現代げんだいにおいて、延喜えんぎしき記載きさいされた神社じんじゃ同一どういつもしくはその後裔こうえい推定すいていされる神社じんじゃのことをろんしゃ(ろんしゃ)・比定ひていしゃ(ひていしゃ)などとばれる。

式内しきないしゃ後裔こうえいとしてほぼ確実視かくじつしされている神社じんじゃでも、確実かくじつ証拠しょうこはほとんどく、伝承でんしょうにより後裔こうえい可能かのうせいがきわめてたかろんしゃというあつかいである。延喜えんぎしき編纂へんさん以降いこう社名しゃめい祭神さいじん鎮座ちんざなどが変更へんこうされたり、神社じんじゃ合祀ごうしされたり、また、荒廃こうはいしたのち復興ふっこうされたりした場合ばあい式内しきないしゃ後裔こうえいされる神社じんじゃ複数ふくすうになることもある。

ろんしゃには、研究けんきゅうによって後裔こうえいしゃだとみなされることもあるが、その神社じんじゃみずか式内しきないしゃだと主張しゅちょうすることもおおい。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ たとえば熊野くまの那智なち大社たいしゃなど。
  2. ^ たとえば石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうなど。
  3. ^ 広義こうぎには式内しきないしゃふくむ。
  4. ^ すべて大社たいしゃのため、名神めいしん大社たいしゃともいう。

出典しゅってん

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  1. ^ 正宗まさむね敦夫あつお へん日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう 延喜えんぎしき だい日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1929ねん、65ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1912589/1/36 
  2. ^ 延喜えんぎしきかみめいちょう じょう古典こてん保存ほぞんかい、1939ねんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3438688 
  3. ^ a b かみめいちょう』 - コトバンク
  4. ^ 藤原ふじわらひらた とう奉勅ほうちょくせん延喜えんぎしきかみめいちょう じょう古典こてん保存ほぞんかい、1939ねんhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3438688/1/5 
  5. ^ 大倉おおくら精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ へん神典しんてん解説かいせつ 下巻げかん大倉おおくら精神せいしん文化ぶんか研究所けんきゅうじょ、1939ねん、207ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1920679/1/111 
  6. ^ 正宗まさむね敦夫あつお へん日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう 延喜えんぎしき だい日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1929ねん、65ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1912589/1/36 
  7. ^ 正宗まさむね敦夫あつお へん日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう 延喜えんぎしき だい日本にっぽん古典こてん全集ぜんしゅう刊行かんこうかい、1929ねん、129ぺーじhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1912589/1/68 

関連かんれん資料しりょう

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  • 式内しきないしゃ調査ちょうさ報告ほうこく,式内しきないしゃ研究けんきゅうかいへん,皇學館大学こうがくかんだいがく出版しゅっぱん 1977-86
  • 式内しきないしゃ研究けんきゅう,志賀しがつよし,雄山閣ゆうざんかく 1977-87
  • 西牟田にしむたたかしせい延喜えんぎしきかみめいちょう研究けんきゅう』(初版しょはん国書刊行会こくしょかんこうかい原著げんちょ1996ねん8がつ8にち)。ISBN 9784336038081 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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