出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
|
|
1行目: |
1行目: |
|
{{分割提案|[[日本ホーリネス教会]]|date=2010年3月16日}} |
|
|
{{ホーリネス}}'''日本ホーリネス教団'''(にほんホーリネスきょうだん)は、[[東京都]][[東村山市]]に本部を置く[[プロテスタント]]系の[[キリスト]]教団。[[ホーリネス運動]]の流れを組む。[[日本福音同盟]]に加盟している。 |
|
{{ホーリネス}}'''日本ホーリネス教団'''(にほんホーリネスきょうだん)は、[[東京都]][[東村山市]]に本部を置く[[プロテスタント]]系の[[キリスト]]教団。[[ホーリネス運動]]の流れを組む。[[日本福音同盟]]に加盟している。 |
|
|
|
|
2010年3月18日 (木) 14:34時点における版
日本ホーリネス教団(にほんホーリネスきょうだん)は、東京都東村山市に本部を置くプロテスタント系のキリスト教団。ホーリネス運動の流れを組む。日本福音同盟に加盟している。
沿革
日本ホーリネス教会を参照
創立
1945年、第二次世界大戦は終り、信仰の自由は回復され、ホーリネスの伝道者たちも復職した。戦後もなお暫らくは日本基督教団の中にあって、ホーリネスの群を組織し、ホーリネス信仰を守ってきたことではあるが、合同教団内にあっては、聖書信仰、四重の福音、中でも明確なる聖潔の旗印は、いつしかボヤかされるおそれが感じられた。かかる時、そのことを痛感しつつあった車田秋次のところに、当時、レテー・カウマン(″荒野の泉″その他の著者)が第2代総理となっていた東洋宣教会の本部(米国)より、ホーリネス教会再建に関する申入れが寄せられた。これに励まされた車田は、1949年6月6日東京台東区の桂山まさ宅に集まり、「日本ホーリネス教団」を設立して、日本基督教団を離脱する宣言書を発表した。さらに、1949年(昭和24年)10、日本基督教団ホーリネスの群の年会において、日本基督教団離脱とホーリネス教会復興の決意を発表し正式に教団として発足した。
最初は、志を同じくする者必ずしも多くなく、前途困難を思わされたが、幸いにその後各地より同志起り、遂に同年6月6、7日に、東京都台東区の上野教会(当時桂山宅におかれていた)において「日本ホーリネス教会」創立総会を開くに到った。席上、新教会(教団)創立に関する議決がなされ、その宣言が行われた。
宣言書
我等は従来日本基督教団の中に在りてホーリネスの群を形成し、聖潔の証を立てて来たのである。今回一教団として自主的行動をとる必要を痛感して、同志の協力を得、旧新約聖書を神の言と信じ四重の福音を骨子とする日本ホーリネス教会を組織し、もって日本教化の大業に任ずべきことを宣言する。
昭和二十四年六月六日
日本ホーリネス教会
代表 車田 秋次
外 五十三名
この「日本ホーリネス教会」は、その後間もなく日本ホーリネス教団と改められ、かくてここに組織された新しいホーリネス教団は東洋宣教会との提携のもとに働きが進められることになり、車田秋次が初代総理に就任した。その後、戦前のホーリネス系の伝道者の復帰するもの、および復興後の東京聖書学院を卒業するもの相加わり、1964年(昭和39年)の第16年会では、教会数106、会員数4,877名、教役者数 222名を数えるに至った。
戦後
東京聖書学院は1904年以来、東京都新宿区柏木に移り、少くとも千数百名の伝道者を巣立たせたが、1963年秋、東京都東村山市廻田町に移転し、それに伴って教団本部もここに移り、現在に至っている。
1967年の第7総会においては、教団規則の大幅な改正を行い、特に「総理制」から「委員制」に変え、責任役員9人とその中で代表役員に本郷善次郎を選挙した。そして、1997年の第34総会における報告にみるように、教団は教会数164、会員数12,448名、教役者数368名を数えるようになった。
また、同総会で「日本ホーリネス教団の信仰告白」と「日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白」を審議し、決議した。こうして、教団は信仰告白を明白にし、また、時代に対応し、課題と取り組み、前進しているのである。
主な牧師
外部リンク