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'''クリミア・タタール人'''({{lang-crh|qırımtatar}}<nowiki/>lar、qırımlılar、{{lang-uk|кримські татари}}、{{lang-ru|крымские татары}})は、[[クリミア半島]]に起源をもつ[[テュルク]]系民族である。 |
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'''クリミア・タタール人'''({{lang-crh|qırımtatarlar、qırımlılar、qırımlar}}、{{lang-uk|кримські татари}}、{{lang-ru|крымские татары}})は、[[クリミア半島]]に起源をもつ[[テュルク]]系先住民族である。 |
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クリミアの先住民族であることを強調して「クルムル」({{lang-crh|qırımlı}}、{{lang-ru|крымцы}};意訳:「クリミア人」「クリミア出身者」)という名称で言及されることもある。 |
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クリミアの先住民族であることを強調して、「クルムル」({{lang-crh|qırımlılar}}、{{lang-uk|кримці}}、{{lang-ru|крымцы}};意訳:「クリミア人」「クリミア出身者」)という名称で言及されることもある。 |
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クリミア・タタール人(クリミア・タタール語: qırımtatarlar、qırımlılar、qırımlar、ウクライナ語: кримські татари、ロシア語: крымские татары)は、クリミア半島に起源をもつテュルク系先住民族である。
クリミア・タタール語を母語とし、スンニ派ムスリムが大半を占める。
クリミアの先住民族であることを強調して、「クルムル」(クリミア・タタール語: qırımlılar、ウクライナ語: кримці、ロシア語: крымцы;意訳:「クリミア人」「クリミア出身者」)という名称で言及されることもある。
人口
2007年時点では、ウクライナのクリミア自治共和国内に25万人のクリミア・タタール人が居住しているとみられる。
また、トルコ共和国には、アンカラやエスキシェヒルを中心に、旧クリミア・ハン国からの移住者の子孫が数百万人居住しているとされ、ルーマニアとブルガリアにも同様の住民が約2万7千人住んでいる。
また、スターリンによる強制移住政策の結果、ウズベキスタンを初めとする中央アジア諸国にも約15万人の住民がいる。
歴史
民族形成
クリミア・タタール人は、13世紀から18世紀にかけてクリミア半島を中心に南ロシアを支配したクリミア・ハン国のテュルク系ムスリム住民を起源とする。
クリミア・ハン国時代のタタールは、クリミア半島中央部を中心とするタタール(クリミア・タタール)と黒海北岸にかけて広がるノガイ(ノガイ・タタール)の二大グループに分かれており、タタール人は主に農民、ノガイ人は遊牧民であった
[3]:78。
この時代のクリミア経済を支えた重要な柱にウクライナ人奴隷の貿易があり、クリミア・ハン国の宗主権下で自立的な行動を行っていたノガイ人たちは15世紀から18世紀にかけて、毎年のようにリトアニア大公国とポーランド王国の支配下に置かれたウクライナへの襲撃(英語版)を繰り返し、捕虜を奴隷としてタタール人に売却していた[3]:79。タタール人に捕らえられて売却されたウクライナ出身奴隷としては、スレイマン1世治下のオスマン帝国に奴隷として売られ、後に後宮(ハーレム)での権力争いを制してスレイマン1世の正式な皇后にまで登り詰めたヒュッレムが有名である。
現在のクリミア・タタール民族は、キプチャク系遊牧民のノガイとオグズ系のトルコ民族、南部の山岳地帯や海岸部に住む非テュルクの諸民族の子孫が混交して形成された。ノガイらテュルク系民族はクリミア半島においては北部のステップに居住し、遊牧生活をやめた後も牧畜を中心に生計を立てていたが、南部の人々はギリシャ人、ジェノヴァ人、ゴート系、スキタイ系、キンメリア系、ハザールなどの子孫からなる混成集団で、園芸、菜園、手工業、牧羊などで生活を営んでいた。今日のクリミア・タタール人は北部の遊牧民の末裔と南部の14世紀以降にキリスト教からイスラム教に改宗した諸民族が混交して形成され、現在も南北で別々のサブグループに分かれると考えられている[4]:74。
ロシア支配下でのクリミア・タタール人社会
1768-1774年の露土戦争の結果、1783年に、クリミアはロシア帝国に併合され、旧クリミア・ハン国の有力者層の多くは、オスマン帝国領内に亡命した。また、ロシア人、ウクライナ人をはじめとする移民がクリミアに押し寄せたため、19世紀の初めには、クリミア・タタール人はクリミア半島での少数派となる。
19世紀末には、旧ハン国の貴族階級出身のイスマイル・ガスプラリ(ガスプリンスキー)が、クリミアのバフチサライで、西洋式教育の普及運動(ジャディード運動)を開始し、クリミア・タタール人から多くの民族知識人が輩出された。
1917年のロシア革命時には、ノーマン・チェレビジハンや、ジャフェル・セイダフメトら民族派知識人により、「クリミア人民共和国」の設立が宣言されるが、ソビエト政権がこれを解散させて1921年にクリミア自治ソビエト社会主義共和国を設立させた。
第二次世界大戦中、クリミアタタール人の多くが赤軍に参加させられたが、1944年には、スターリンによりクリミア・タタール人は対独協力の嫌疑をかけられ、全住民が中央アジアに強制移住を余儀なくされた。強制移住の過程で、住民の多くが命を落とした。この出来事は「クリミア・タタール人追放(Sürgün)」として、現在でも、クリミア・タタール人の間で広く記憶されている。
スターリンの死後、1967年にクリミア・タタール人への追放措置は解除され、クリミアへの帰還運動が始められた。1991年には、ムスタファ・ジェミーレフ(クルムオグル)ら民族活動家の運動により、ソ連邦内の全クリミア・タタール人から代議員が選出され、最高意思決定機関であるクリミア・タタール民族大会(クルルタイ)が開催され、クリミアへの帰還に向けての努力が進められた。クルルタイは常設機関としてクリミア・タタール民族会議(メジュリス)を設置し、ジェミーレフが初代議長となった。
現在、約25万人のクリミア・タタール人がクリミアへの帰還を果たし、クリミアの全人口の1割を占めるまでになったが、移民の生活基盤の整備、政治参加の方法等、移住後の問題は残っている。
2014年クリミア危機による影響
2014年ウクライナ騒乱の後に生じたクリミア危機で、クリミア・タタール人は1944年の「クリミア・タタール人追放」と同様の強制移住につながると懸念を表明していた[5]が、2014年3月16日にクリミア半島地域での「住民投票」でロシアとの統合が多数を占め、3月17日にクリミア共和国の主権が宣言された。これに対してメジュリスのムスタファ・ジェミーレフ前議長は「住民投票をタタール人が認めたことも、認めることもない」と主張している[6]。しかし2015年の3月14日の時点で、クリミア・タタール住民約26万人のうち、ロシア国籍ではなくウクライナ国籍を選んだ者は500人にすぎない。なお、メジュリスはロシア政府によって過激派と認定され、活動禁止を命じられた[7]。
国際司法裁判所(ICJ)は2017年4月19日、クリミア・タタール人への差別が存在すると認定し、ウクライナ語教育の機会提供やメジュリスへの活動制限の停止などを求める仮保全措置を命じた[8]。
ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、クリミア併合に反対したタタール人は、ロシアから迫害を受けていると報告している[9]。
関連項目
脚注
- ^ “Results / General results of the census / National composition of population”. 2001年度全ウクライナ国勢調査 (2001年12月). 2007年8月5日閲覧。
- ^ “Recensamant Romania 2002” (Romanian). Agentia Nationala pentru Intreprinderi Mici si Mijlocii (2002年). 2007年8月5日閲覧。
- ^ a b 黒川祐次『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』中央公論新社、2002年。ISBN 4-12-101655-6。 NCID BA58381220。
- ^ 早坂真理『ウクライナ : 歴史の復元を模索する』リブロポート、1994年。ISBN 4-8457-0973-2。 NCID BN11848882。
- ^ “U.N. human rights team aims for quick access to Crimea - official”. 20 March 2014閲覧。
- ^ 時事通信「クリミア住民投票認めず=タタール人代表と会見-トルコ」[1]
- ^ “クリミア:先住民を「過激派」に指定 露側裁判所”. 2016年5月2日閲覧。
- ^ “国際司法裁判所 ウクライナ紛争の露支援を「証拠不十分」”. 毎日新聞朝刊. (2017年4月21日). http://mainichi.jp/articles/20170421/k00/00m/030/063000c
- ^ “プーチン露大統領クリミア視察、併合から2年”. フランス通信社. (2016年3月19日). http://www.afpbb.com/articles/-/3080995 2016年3月20日閲覧。
参考文献
外部リンク