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'''クリミア・タタールじん'''({{lang-crh|qırımtatar}}<nowiki/>lar、qırımlılar、{{lang-uk|кримські татари}}、{{lang-ru|крымские татары}})は、[[クリミア半島くりみあはんとう]]に起源きげんをもつ[[テュルク]]けい民族みんぞくである。
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[[クリミア・タタール]]を母語ぼごとし、[[スンナ|スンニ]][[ムスリム]]が大半たいはんめる。
[[クリミア・タタール]]を母語ぼごとし、[[スンナ|スンニ]][[ムスリム]]が大半たいはんめる。


クリミアの先住民せんじゅうみんぞくであることを強調きょうちょうして「クルムル」({{lang-crh|qırımlı}}、{{lang-ru|крымцы}};意訳いやく:「クリミアじん」「クリミア出身しゅっしんしゃ」)という名称めいしょう言及げんきゅうされることもある。
クリミアの先住民せんじゅうみんぞくであることを強調きょうちょうして「クルムル」({{lang-crh|qırımlılar}}、{{lang-uk|кримці}}、{{lang-ru|крымцы}};意訳いやく:「クリミアじん」「クリミア出身しゅっしんしゃ」)という名称めいしょう言及げんきゅうされることもある。


== 人口じんこう ==
== 人口じんこう ==

2020ねん12月13にち (日)にち 18:18時点じてんにおけるはん

タタール > クリミア・タタールじん
Crimean Tatars
(Qırımtatarlar)
クリミア・タタールの家族かぞくムッラー(1862ねん
(500,000-2,000,000)
居住きょじゅう地域ちいき
クリミアの旗 クリミア: 248,200[1]
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン150,000
トルコの旗 トルコ1,000,000以下いか
ルーマニアの旗 ルーマニア24,137[2]
言語げんご
クリミア・タタール, トルコ
宗教しゅうきょう
イスラム教いすらむきょう

クリミア・タタールじんクリミア・タタール: qırımtatarlar、qırımlılar、qırımlarウクライナ: кримські татариロシア: крымские татары)は、クリミア半島くりみあはんとう起源きげんをもつテュルクけい先住民せんじゅうみんぞくである。 クリミア・タタール母語ぼごとし、スンニムスリム大半たいはんめる。

クリミアの先住民せんじゅうみんぞくであることを強調きょうちょうして、「クルムル」(クリミア・タタール: qırımlılarウクライナ: кримціロシア: крымцы意訳いやく:「クリミアじん」「クリミア出身しゅっしんしゃ」)という名称めいしょう言及げんきゅうされることもある。

人口じんこう

1926ねん
2001ねん

2007ねん時点じてんでは、ウクライナクリミア自治じち共和きょうわこくうちに25まんにんのクリミア・タタールじん居住きょじゅうしているとみられる。

また、トルコ共和きょうわこくには、アンカラエスキシェヒル中心ちゅうしんに、きゅうクリミア・ハンこくからの移住いじゅうしゃ子孫しそんすうひゃくまんにん居住きょじゅうしているとされ、ルーマニアブルガリアにも同様どうよう住民じゅうみんやく2まん7せんにんんでいる。

また、スターリンによる強制きょうせい移住いじゅう政策せいさく結果けっかウズベキスタンはじめとする中央ちゅうおうアジア諸国しょこくにもやく15まんにん住民じゅうみんがいる。

歴史れきし

民族みんぞく形成けいせい

クリミア・タタールじんは、13世紀せいきから18世紀せいきにかけてクリミア半島くりみあはんとう中心ちゅうしんみなみロシアを支配しはいしたクリミア・ハンこくのテュルクけいムスリム住民じゅうみん起源きげんとする。

クリミア・ハンこく時代じだいのタタールは、クリミア半島くりみあはんとう中央ちゅうおう中心ちゅうしんとするタタール(クリミア・タタール)と黒海こっかい北岸ほくがんにかけてひろがるノガイ(ノガイ・タタール)のだいグループにかれており、タタールじんおも農民のうみん、ノガイじん遊牧民ゆうぼくみんであった [3]:78

この時代じだいのクリミア経済けいざいささえた重要じゅうようはしらウクライナじん奴隷どれい貿易ぼうえきがあり、クリミア・ハンこく宗主そうしゅけん自立じりつてき行動こうどうおこなっていたノガイじんたちは15世紀せいきから18世紀せいきにかけて、毎年まいとしのようにリトアニア大公たいこうこくポーランド王国おうこく支配しはいかれたウクライナへの襲撃しゅうげき英語えいごばんかえし、捕虜ほりょ奴隷どれいとしてタタールじん売却ばいきゃくしていた[3]:79。タタールじんらえられて売却ばいきゃくされたウクライナ出身しゅっしん奴隷どれいとしては、スレイマン1せい治下ちかオスマン帝国ていこく奴隷どれいとしてられ、のち後宮こうきゅう(ハーレム)での権力けんりょくあらそいをせいしてスレイマン1せい正式せいしき皇后こうごうにまでのぼめたヒュッレム有名ゆうめいである。

現在げんざいのクリミア・タタール民族みんぞくは、キプチャクけい遊牧民ゆうぼくみんのノガイとオグズけいトルコ民族みんぞく南部なんぶ山岳さんがく地帯ちたい海岸かいがんテュルクのしょ民族みんぞく子孫しそん混交こんこうして形成けいせいされた。ノガイらテュルクけい民族みんぞくクリミア半島くりみあはんとうにおいては北部ほくぶのステップに居住きょじゅうし、遊牧ゆうぼく生活せいかつをやめたのち牧畜ぼくちく中心ちゅうしん生計せいけいてていたが、南部なんぶ人々ひとびとギリシャじんジェノヴァじんゴートけいスキタイけいキンメリアけいハザールなどの子孫しそんからなる混成こんせい集団しゅうだんで、園芸えんげい菜園さいえん手工業しゅこうぎょう牧羊ぼくようなどで生活せいかついとなんでいた。今日きょうのクリミア・タタールじん北部ほくぶ遊牧民ゆうぼくみん末裔まつえい南部なんぶの14世紀せいき以降いこうキリスト教きりすときょうからイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅうしたしょ民族みんぞく混交こんこうして形成けいせいされ、現在げんざい南北なんぼく別々べつべつのサブグループにかれるとかんがえられている[4]:74

ロシア支配しはいでのクリミア・タタールじん社会しゃかい

1768-1774ねん戦争せんそう結果けっか、1783ねんに、クリミアはロシア帝国ていこく併合へいごうされ、きゅうクリミア・ハンこく有力ゆうりょくしゃそうおおくは、オスマン帝国ていこく領内りょうない亡命ぼうめいした。また、ロシアじん、ウクライナじんをはじめとする移民いみんがクリミアにせたため、19世紀せいきはじめには、クリミア・タタールじんクリミア半島くりみあはんとうでの少数しょうすうとなる。

クリミアにおけるクリミア・タタールじん人口じんこう(1939ねん
クリミアにおけるクリミア・タタールじん人口じんこう(2001ねん

19世紀せいきまつには、きゅうハンこく貴族きぞく階級かいきゅう出身しゅっしんイスマイル・ガスプラリ(ガスプリンスキー)が、クリミアのバフチサライで、西洋せいようしき教育きょういく普及ふきゅう運動うんどうジャディード運動うんどう)を開始かいしし、クリミア・タタールじんからおおくの民族みんぞく知識ちしきじん輩出はいしゅつされた。

1917ねんロシア革命かくめいときには、ノーマン・チェレビジハンや、ジャフェル・セイダフメト民族みんぞく知識ちしきじんにより、「クリミア人民じんみん共和きょうわこく」の設立せつりつ宣言せんげんされるが、ソビエト政権せいけんがこれを解散かいさんさせて1921ねんクリミア自治じちソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく設立せつりつさせた。

だい世界せかい大戦たいせんなか、クリミアタタールじんおおくが赤軍せきぐん参加さんかさせられたが、1944ねんには、スターリンによりクリミア・タタールじんたいどく協力きょうりょく嫌疑けんぎをかけられ、ぜん住民じゅうみん中央ちゅうおうアジアに強制きょうせい移住いじゅう余儀よぎなくされた。強制きょうせい移住いじゅう過程かていで、住民じゅうみんおおくがいのちとした。この出来事できごとは「クリミア・タタールじん追放ついほう(Sürgün)」として、現在げんざいでも、クリミア・タタールじんあいだひろ記憶きおくされている。

スターリン死後しご、1967ねんにクリミア・タタールじんへの追放ついほう措置そち解除かいじょされ、クリミアへの帰還きかん運動うんどうはじめられた。1991ねんには、ムスタファ・ジェミーレフ(クルムオグル)ら民族みんぞく活動かつどう運動うんどうにより、ソ連邦それんぽうないぜんクリミア・タタールじんから代議員だいぎいん選出せんしゅつされ、最高さいこう意思いし決定けってい機関きかんであるクリミア・タタール民族みんぞく大会たいかいクルルタイ)が開催かいさいされ、クリミアへの帰還きかんけての努力どりょくすすめられた。クルルタイは常設じょうせつ機関きかんとしてクリミア・タタール民族みんぞく会議かいぎ(メジュリス)を設置せっちし、ジェミーレフが初代しょだい議長ぎちょうとなった。

現在げんざいやく25まんにんのクリミア・タタールじんがクリミアへの帰還きかんたし、クリミアのぜん人口じんこうの1わりめるまでになったが、移民いみん生活せいかつ基盤きばん整備せいび政治せいじ参加さんか方法ほうほうとう移住いじゅう問題もんだいのこっている。

2014ねんクリミア危機ききによる影響えいきょう

2014ねんウクライナ騒乱そうらんのちしょうじたクリミア危機ききで、クリミア・タタールじんは1944ねんの「クリミア・タタールじん追放ついほう」と同様どうよう強制きょうせい移住いじゅうにつながると懸念けねん表明ひょうめいしていた[5]が、2014ねん3がつ16にちクリミア半島くりみあはんとう地域ちいきでの「住民じゅうみん投票とうひょう」でロシアとの統合とうごう多数たすうめ、3月17にちクリミア共和きょうわこく主権しゅけん宣言せんげんされた。これにたいしてメジュリスのムスタファ・ジェミーレフぜん議長ぎちょうは「住民じゅうみん投票とうひょうをタタールじんみとめたことも、みとめることもない」と主張しゅちょうしている[6]。しかし2015ねんの3がつ14にち時点じてんで、クリミア・タタール住民じゅうみんやく26まんにんのうち、ロシア国籍こくせきではなくウクライナ国籍こくせきえらんだものは500にんにすぎない。なお、メジュリスはロシア政府せいふによって過激かげき認定にんていされ、活動かつどう禁止きんしめいじられた[7]

国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ(ICJ)は2017ねん4がつ19にち、クリミア・タタールじんへの差別さべつ存在そんざいすると認定にんていし、ウクライナ教育きょういく機会きかい提供ていきょうやメジュリスへの活動かつどう制限せいげん停止ていしなどをもとめるかり保全ほぜん措置そちめいじた[8]

ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、クリミア併合へいごう反対はんたいしたタタールじんは、ロシアから迫害はくがいけていると報告ほうこくしている[9]

関連かんれん項目こうもく

脚注きゃくちゅう

  1. ^ Results / General results of the census / National composition of population”. 2001年度ねんどぜんウクライナ国勢調査こくせいちょうさ (2001ねん12がつ). 2007ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ Recensamant Romania 2002” (Romanian). Agentia Nationala pentru Intreprinderi Mici si Mijlocii (2002ねん). 2007ねん8がつ5にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 黒川くろかわ祐次ゆうじ物語ものがたりウクライナの歴史れきし : ヨーロッパ最後さいご大国たいこく中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2002ねんISBN 4-12-101655-6NCID BA58381220 
  4. ^ 早坂はやさか真理まり『ウクライナ : 歴史れきし復元ふくげん模索もさくする』リブロポート、1994ねんISBN 4-8457-0973-2NCID BN11848882 
  5. ^ U.N. human rights team aims for quick access to Crimea - official”. 20 March 2014閲覧えつらん
  6. ^ 時事通信じじつうしん「クリミア住民じゅうみん投票とうひょうみとめず=タタールじん代表だいひょう会見かいけん-トルコ」[1]
  7. ^ クリミア:先住民せんじゅうみんを「過激かげき」に指定してい がわ裁判所さいばんしょ”. 2016ねん5がつ2にち閲覧えつらん
  8. ^ 国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ ウクライナ紛争ふんそう支援しえんを「証拠しょうこ不十分ふじゅうぶん」”. 毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん. (2017ねん4がつ21にち). http://mainichi.jp/articles/20170421/k00/00m/030/063000c 
  9. ^ “プーチン大統領だいとうりょうクリミア視察しさつ併合へいごうから2ねん. フランス通信つうしんしゃ. (2016ねん3がつ19にち). http://www.afpbb.com/articles/-/3080995 2016ねん3がつ20日はつか閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

  • 日本語にほんご 伊東いとう孝之たかゆき, 井内いうち敏夫としお, 中井なかい和夫かずおへん 『ポーランド・ウクライナ・バルト』 (世界せかい各国かっこく; 20)-東京とうきょう: 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ, 1998ねん. ISBN 9784634415003
  • 日本語にほんご 黒川くろかわ祐次ゆうじちょ 『物語ものがたりウクライナの歴史れきし : ヨーロッパ最後さいご大国たいこく』 (中公新書ちゅうこうしんしょ; 1655)-東京とうきょう : 中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ, 2002ねん. ISBN 4121016556
  • Fisher, Alan W. 1978. The Crimean Tatars. Stanford, CA: Hoover Institution Press. (ISBN 0-8179-6661-7)
  • 『テュルクをるための61しょう小松こまつ久男ひさお 編著へんちょ明石書店あかししょてん、2016年刊ねんかんhttp://www.akashi.co.jp/book/b244171.html

外部がいぶリンク