たとえ話 はなし (譬 たと え話 ばなし 、たとえばなし)とは、ある事柄 ことがら を理解 りかい できるようにするために、他 た の事柄 ことがら に置 お き換 か えて説明 せつめい するものである。散文 さんぶん でも韻文 いんぶん でも綴 つづ られることがあり、道徳 どうとく 的 てき ないし宗教 しゅうきょう 的 てき な教訓 きょうくん を示 しめ すことが多 おお い。特 とく に西洋 せいよう においては、この広義 こうぎ のたとえ話 はなし のうち、人間 にんげん が中心 ちゅうしん になっているものを、動物 どうぶつ や植物 しょくぶつ 、無生物 むせいぶつ を自然 しぜん 界 かい の力 ちから などを擬人 ぎじん 化 か して登場 とうじょう させるものと区別 くべつ する用語 ようご 法 ほう が一般 いっぱん 的 てき になっており、人間 にんげん 中心 ちゅうしん で、より日常 にちじょう 的 てき な物語 ものがたり となる前者 ぜんしゃ を「英語 えいご : parable 」と呼 よ んでおり、狭義 きょうぎ での「たとえ話 はなし 」はその訳語 やくご である。これに対 たい し、超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 、非 ひ 現実 げんじつ 的 てき な物語 ものがたり としての後者 こうしゃ は「英語 えいご : fable 」と呼 よ ばれ、日本語 にほんご では「寓話 ぐうわ 」と訳 やく されることが多 おお い。たとえ話 はなし はまた、類推 るいすい (英語 えいご : analogy )のひとつのタイプである[ 1] 。
広義 こうぎ のたとえ話 はなし は、洋 よう の東西 とうざい を問 と わず古代 こだい から用 もち いられており、例 たと えば仏典 ぶってん の中 なか にも、涅槃 ねはん 経 けい の「五味 ごみ 相生 あいおい の譬 たとえ 」や、法華経 ほけきょう の「法華 ほっけ 七 なな 喩 たとえ 」のようなたとえ話 はなし が伝 つた えられている。
「盲人 もうじん と足 あし なえ 」などの作者 さくしゃ イグナツィ・クラシツキ の肖像 しょうぞう
英語 えいご の「parable」など、多 おお くのヨーロッパ諸語 しょご でたとえ話 はなし に相当 そうとう する言葉 ことば は、ギリシア語 ご の「παραβολή (パラボレ)」に由来 ゆらい しているが、この言葉 ことば はギリシア の修辞 しゅうじ 学 がく においては、架空 かくう の短 みじか い物語 ものがたり で何 なに かを説明 せつめい することを広 ひろ く意味 いみ していた。後年 こうねん になると、この言葉 ことば は、架空 かくう の物語 ものがたり によって、現実 げんじつ に自然 しぜん な形 かたち で起 お こるかもしれないことについて、霊的 れいてき な事柄 ことがら や道徳 どうとく 的 てき な事柄 ことがら が伝 つた えられることを意味 いみ するようになった[ 2] 。
たとえ話 はなし (parable)は、短 みじか い話 はなし で普遍 ふへん 的 てき な真理 しんり を説明 せつめい するものであり、物語 ものがたり の中 なか でも最 もっと も単純 たんじゅん なもののひとつである。たとえ話 はなし においては、まず状況 じょうきょう が簡単 かんたん に説明 せつめい され、次 つぎ に行動 こうどう が描写 びょうしゃ され、最後 さいご にその結果 けっか が示 しめ される。しばしば、道徳 どうとく 的 てき なジレンマ に直面 ちょくめん する人物 じんぶつ や、危 あや うい判断 はんだん をした末 すえ その結果 けっか に苛 さいな まれる人物 じんぶつ が登場 とうじょう する。寓話 ぐうわ と同様 どうよう に、たとえ話 はなし でも、主題 しゅだい と無関係 むかんけい な細部 さいぶ や散漫 さんまん な周辺 しゅうへん 描写 びょうしゃ は省 はぶ かれ、通常 つうじょう はひとつの単純 たんじゅん で一貫 いっかん 性 せい のある行動 こうどう について話 はなし が語 かた られる。たとえ話 はなし の例 れい としては、イグナツィ・クラシツキ 作 さく の「息子 むすこ と父親 ちちおや 」、「農夫 のうふ 」、「訴訟 そしょう 人 じん たち 」が挙 あ げられる。
民話 みんわ の多 おお くも、たとえ話 はなし を拡大 かくだい したものと見 み なすことができ、おとぎ話 ばなし も同様 どうよう であるが、状況 じょうきょう 設定 せってい で魔法 まほう が前提 ぜんてい とされるところは異 こと なる。プロトタイプ のたとえ話 はなし はアポローグ (誇張 こちょう を含 ふく む短 みじか いたとえ話 はなし )とは異 こと なり、写実 しゃじつ 主義 しゅぎ 的 てき で、人生 じんせい のよくある状況 じょうきょう の中 なか で実際 じっさい に起 お こるかもしれないと思 おも わせるものである。
たとえ話 はなし は、メタファー (隠喩 いんゆ )と同様 どうよう に、短 みじか い一貫 いっかん した架空 かくう の物語 ものがたり に拡張 かくちょう される。キリスト教 きょう のたとえ話 はなし は、近年 きんねん では拡張 かくちょう されたメタファーとして研究 けんきゅう されている[ 3] 。それを担 にな っているのは、例 たと えば、「たとえ話 はなし とは、普通 ふつう の男女 だんじょ が、日常 にちじょう 的 てき な生活 せいかつ の中 なか で、驚 おどろ くべき出来事 できごと に遭遇 そうぐう するという筋 すじ の話 はなし のこと」だと気 き づいた書 か き手 て である。たとえ話 はなし は宗教 しゅうきょう 的 てき な展望 てんぼう をもった「信仰 しんこう の巨人 きょじん たち」についての話 はなし ではない[ 4] 。言 い うまでもなく、「拡張 かくちょう されたメタファー」であるというだけでは、たとえ話 はなし を説明 せつめい したことにはならないが、「拡張 かくちょう されたメタファー」の特徴 とくちょう は、たとえ話 はなし にも共通 きょうつう しているし、アレゴリー (寓意 ぐうい )の基本 きほん 的 てき 要素 ようそ になっている。
直喩 ちょくゆ の場合 ばあい とは異 こと なり、たとえ話 はなし においては、表面 ひょうめん 上 じょう の物語 ものがたり と平行 へいこう するもうひとつの意味 いみ は、通常 つうじょう は秘密 ひみつ として隠 かく されている訳 わけ ではないが、直接 ちょくせつ 語 かた られることはなく、示唆 しさ されるだけである。たとえ話 はなし の特徴 とくちょう は、人 ひと がいかに振 ふ る舞 ま うべきか、信 しん じるべきかを示唆 しさ する規範 きはん 的 てき なサブテキスト (いわゆる「行間 ぎょうかん 」のメッセージ)が存在 そんざい していることにある。たとえ話 はなし には、人生 じんせい の中 なか で適切 てきせつ な行動 こうどう とは何 なに かを導 みちび き、示唆 しさ することに加 くわ え、頻繁 ひんぱん にメタファーな言葉 ことば 遣 づか いを用 もち いることで、難解 なんかい であったり複雑 ふくざつ であったりする概念 がいねん を、より簡単 かんたん に論 ろん じることができるようにする働 はたら きがある。プラトン の『国家 こっか 』では、「洞窟 どうくつ のたとえ 」(真理 しんり の理解 りかい について、洞窟 どうくつ の壁 かべ に投 とう じられた影 かげ に欺 あざむ かれる話 はなし によって、説明 せつめい される)のように、分 わ かりやすい具体 ぐたい 的 てき な物語 ものがたり を使 つか って、抽象 ちゅうしょう 的 てき な議論 ぎろん を教 おし えている[ 2] 。
『イソップ寓話 ぐうわ 』を英訳 えいやく したジョージ・ファイラー・タウンゼント は、その序文 じょぶん で「たとえ話 はなし (parable)」を「言葉 ことば 自体 じたい に込 こ められた意味 いみ とは異 こと なる、隠 かく された秘密 ひみつ の意味 いみ を伝達 でんたつ することを意図 いと して、言葉 ことば をデザインしながら用 もち いることであり、き手 きて や読者 どくしゃ に特段 とくだん の関 かか わりをもっていることもあれば、そうではないこともあるもの」であると述 の べている[ 5] 。
19世紀 せいき 末 まつ を生 い きたタウンゼントは、曖昧 あいまい であることを意味 いみ する、当時 とうじ あった「to speak in parables (たとえ話 はなし で話 はな す)」という表現 ひょうげん に、影響 えいきょう されていた可能 かのう 性 せい もある。はっきりと重要 じゅうよう 性 せい が指摘 してき されているわけではないが、現代 げんだい の用法 ようほう における「たとえ話 はなし (parable)」は、一般 いっぱん 的 てき に、意味 いみ が隠 かく されたり秘密 ひみつ にされているというよりは、全 まった く逆 ぎゃく に直截 ちょくせつ 的 てき で明白 めいはく である場合 ばあい が典型 てんけい 的 てき である。隠 かく された意味 いみ が重要 じゅうよう になる典型 てんけい 的 てき な表現 ひょうげん は、アレゴリーである。H・W・ファウラー は『Modern English Usage 』の中 なか で、たとえ話 はなし もアレゴリーも、目的 もくてき は「き手 きて に、当人 とうにん には直接 ちょくせつ の関 かか わりがない、したがって利害 りがい に関 かか わらない立場 たちば からの判断 はんだん を引 ひ き出 だ すことが期待 きたい できるような事案 じあん を提示 ていじ し、き手 きて 自身 じしん が正 ただ しい判断 はんだん を悟 さと るよう啓蒙 けいもう する」ことであると述 の べている。その上 うえ でファウラーは、たとえ話 はなし は、アレゴリーよりも濃密 のうみつ であり、読者 どくしゃ なりき手 きて には、この結論 けつろん は当人 とうにん の関心事 かんしんじ にも同 おな じように当 あ てはまるのだ、という原理 げんり が生 う まれ、教訓 きょうくん が演繹 えんえき されるのだとしている[ 2] 。
ヒエロニムス・ボス 作 さく 『放蕩 ほうとう 息子 むすこ 』
たとえ話 はなし は、霊的 れいてき な概念 がいねん の表現 ひょうげん に好 この んで使 つか われる。キリスト教 きりすときょう においては、たとえ話 はなし の最 もっと も有名 ゆうめい な源泉 げんせん は『聖書 せいしょ 』であり、特 とく に新約 しんやく 聖書 せいしょ の福音 ふくいん 書 しょ には、多数 たすう のたとえ話 はなし が登場 とうじょう する。イエスのたとえ話 はなし は、多 おお くの典拠 てんきょ で検証 けんしょう され、広 ひろ く歴史 れきし 的 てき 事実 じじつ であると見 み なされているが、ジョン・P・マイヤー(John P. Meier)ら研究 けんきゅう 者 しゃ たちは、それがヘブライ語 ご の諺 ことわざ 、格言 かくげん などを意味 いみ する表現 ひょうげん であるマーシャル/マシャリム に由来 ゆらい するものと考 かんが えている[ 6] 。イエスのたとえ話 はなし の例 れい としては、「善 よ きサマリア人 じん 」と「放蕩 ほうとう 息子 むすこ 」がある。旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 由来 ゆらい のマシャリムには、ナタン がダビデ に語 かた る「小 しょう 羊 ひつじ のたとえ話 はなし 」(サムエル記 き 下 か 12:1-9 : 2 Samuel 12:1-9 )や、「テコアの女 おんな 」のたとえ話 はなし (サムエル記 き 下 か 14:1-13 : 2 Samuel 14:1-13 )などがある。
新約 しんやく 聖書 せいしょ 研究 けんきゅう 者 しゃ の中 なか には、イエスのたとえ話 はなし についてだけ、「たとえ話 はなし (parable)」という表現 ひょうげん を使 つか う者 もの もいるが[ 6] 、そのように限定 げんてい した用語 ようご 法 ほう は一般 いっぱん 的 てき なものではない。「放蕩 ほうとう 息子 むすこ のたとえ話 はなし 」のように、たとえ話 はなし はイエス の教 おし え方 かた の中心 ちゅうしん となった方法 ほうほう であり、それは正 せい 典 てん においても外典 げてん においても同様 どうよう である。
中世 ちゅうせい には、聖書 せいしょ の解釈 かいしゃく において、イエスのたとえ話 はなし を細部 さいぶ にわたるアレゴリーとして扱 あつか うことがしばしばあり、短 みじか い物語 ものがたり のあらゆる要素 ようそ について、象徴 しょうちょう 的 てき にそれに対応 たいおう するものを比定 ひてい して論 ろん じることがあった。しかし、アドルフ・ユーリヒャー 以降 いこう 、近代 きんだい の批評 ひひょう 家 か は、こうした解釈 かいしゃく を不適切 ふてきせつ な、批判 ひはん に耐 た えないものとしている[ 7] 。ユーリヒャーは、こうしたたとえ話 はなし について、普通 ふつう はひとつだけ重要 じゅうよう なことを伝 つた えようと意図 いと されているのだと主張 しゅちょう し、この意見 いけん は近年 きんねん のほとんどの研究 けんきゅう 者 しゃ によって支持 しじ されている[ 6] 。
イスラム教 いすらむきょう の神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 哲学 てつがく であるスーフィズム の伝統 でんとう においては、たとえ話 はなし (「教訓 きょうくん 譚 たん 」)は、教訓 きょうくん や価値 かち を分 わ け与 あた える手法 しゅほう とされている。近年 きんねん の論者 ろんしゃ でも、イドリース・シャー やアンソニー・デ・メロ は、スーフィー のサークル外 がい にこうした話 はなし を広 ひろ める助 たす けとなっている。
現代 げんだい における話 はなし も、たとえ話 はなし として使 つか われる場合 ばあい がある。19世紀 せいき 半 なか ばに生 う まれた「割 わ れ窓 まど の寓話 ぐうわ 」のたとえ話 はなし は、経済 けいざい 学的 がくてき に誤 あやま った考 かんが えを例示 れいじ するものとなっている。
^ David B. Gowler (2000年 ねん ). “What are they saying about the parables ”. What are they saying about the parables . pp. 99,137,63,132,133,. 2010年 ねん 2月 がつ 19日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c H.W. Fowler , Modern English Usage , Oxford, Clarendon Press, 1958.
^ 研究 けんきゅう 例 れい としては次 つぎ のようなものが挙 あ げられる。Amos Wilder, The Language of the Gospel: Early Christian Rhetoric (New York: Harper & Row) 1964; Robert W, Funk, Language, Hermeneutic and Word of God: The Problem of Language in the New Testament and Contemporary Theology (New York: Harper & Row) 1966; Dan O. Via Jr, The Parables: Their Literary and Existential Dimension (Philadelphia: Fortress) 1967; Sallie TeSelle, Speaking in Parables: A Study in Metaphore and Theology (Philadelphia: Fortress) 1975.
^ Sallie McFague TeSelle, "Parable, Metaphor, and Theology," Journal of the American Academy of Religion , 42 .4 (December 1974:630-645).
^ George Fyler Townsend , translator's preface to Aesop's Fables , Belford, Clarke & Co., 1887.
^ a b c John P. Meier , A Marginal Jew , volume II, Doubleday, 1994.
^ Adolf Jülicher, Die Gleichnisreden Jesu (2 vols; Tübingen: Mohr [Siebeck], 1888, 1899).