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ふじ (砕氷艦) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ふじ (砕氷さいひょうかん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ふじ AGB-5001
名古屋港ガーデンふ頭に係留されているふじ
名古屋なごやこうガーデンふとう係留けいりゅうされているふじ
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 日本鋼管にほんこうかん鶴見つるみ造船ぞうせんしょ
運用うんようしゃ 防衛庁ぼうえいちょう
かんしゅ 砕氷さいひょうかん
きゅうめい ふじがた砕氷さいひょうかん
まえきゅう
つぎきゅう しらせがた砕氷さいひょうかん (初代しょだい)
母港ぼこう 横須賀よこすか
かんれき
計画けいかく 宗谷そうやだいせん計画けいかく
発注はっちゅう 文部省もんぶしょう
起工きこう 1964ねん昭和しょうわ39ねん8がつ28にち[1]
進水しんすい 1965ねん昭和しょうわ40ねん3月18にち[1]
竣工しゅんこう 1965ねん昭和しょうわ40ねん7がつ15にち[1]
退役たいえき 1984ねん昭和しょうわ59ねん4がつ11にち
その 記念きねんかんとして公開こうかい
要目ようもく
基準きじゅん排水はいすいりょう 5,250t
満載まんさい排水はいすいりょう 9,120t[1]
全長ぜんちょう 100m[1]
最大さいだいはば 22.0m[1]
ふか 11.8m[1]
吃水きっすい 8.3m[1]
機関きかん ディーゼル・エレクトリック方式ほうしき
出力しゅつりょく 12,000馬力ばりき[1]
推進すいしん スクリュープロペラじく[1]
速力そくりょく 17.2kt[1]
燃料ねんりょう 重油じゅうゆ:2.180t[1]
航続こうぞく距離きょり 15.000うみさと(15kt巡航じゅんこう[1]
乗員じょういん
  • 200めい
  • 観測かんそく隊員たいいん:35めい[1]
搭載とうさい能力のうりょく 500t[1]
搭載とうさい
レーダー
  • OPS-4D×1
  • OPS-16×1[1]
  • ソナー
  • SQS-11A×1
  • OQN-4はか信義のぶよし×1[1]
  • その
  • 10t電動でんどうクレーン×1
  • 8t電動でんどうクレーン×1
  • 6t電動でんどうクレーン×2
  • 砕氷さいひょう能力のうりょく連続れんぞく80cmで3ktチャージングで最大さいだい6m[1]
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    「ふじ」により採取さいしゅされた南極なんきょくいし富士山ふじさん本宮ほんぐう浅間あさま大社たいしゃ

    ふじ(JMSDF AGB FUJI class)は、日本にっぽん文部省もんぶしょうの2代目だいめ南極なんきょく観測かんそくせんであり、日本にっぽんでははつとなる極地きょくちよう本格ほんかくてき砕氷さいひょうかんとして建造けんぞうされた。自衛じえいかんとしてははつのヘリコプター搭載とうさいかんでもある。

    海上かいじょう自衛隊じえいたいかん番号ばんごうAGB-5001。1965ねん昭和しょうわ40ねん)3がつ18にち進水しんすい、7がつ15にち竣工しゅんこう同年どうねんから南極なんきょく観測かんそくせんとしての役割やくわり海上保安庁かいじょうほあんちょうの「宗谷そうや(そうや)」より引継ひきつぎ、1983ねん昭和しょうわ58ねん)4がつまで海上かいじょう自衛隊じえいたいにより運用うんようされ南極なんきょく地域ちいき観測かんそくたい輸送ゆそう従事じゅうじした。

    1984ねん昭和しょうわ59ねん)4がつ11にち退役たいえき退役たいえきのち南極なんきょく観測かんそくかんする博物館はくぶつかんとして名古屋なごやこうガーデンふとう係留けいりゅうされ1985ねん昭和しょうわ60ねん)8がつから一般いっぱん公開こうかいされている。船内せんない食堂しょくどう居室きょしつ診療しんりょうしょ理髪りはつてんなどをろう人形にんぎょう再現さいげんし、それを通路つうろからまどしに見学けんがくできるようになっている。後継こうけいかん「しらせ」(初代しょだい)

    概要がいよう

    [編集へんしゅう]

    かんめい日本にっぽん最高峰さいこうほうである富士山ふじさん由来ゆらいし、同名どうめい艦艇かんていとしては大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんスループ富士山ふじさん」および戦艦せんかん富士ふじ」にいで3代目だいめとなる[2]砕氷さいひょうせんとして、一般いっぱん船舶せんぱくくらべてよこはばひろいのが特徴とくちょうである。

    連続れんぞく砕氷さいひょう可能かのうこおりあつさは80~120cm、最大さいだい砕氷さいひょう能力のうりょくは6m。貨物かもつろしようかん前部ぜんぶに2後部こうぶに2のクレーンをゆうしている。

    かん後部こうぶにはヘリコプター格納庫かくのうこおよヘリコプター甲板かんぱんとなっており、偵察ていさつおよ輸送ゆそうようS-61A-1を2こおりじょう調査ちょうさようベル47G2Aを1搭載とうさいしている。

    設計せっけい

    [編集へんしゅう]

    1962ねん昭和しょうわ37ねん)8がつ21にち防衛庁ぼうえいちょう文部省もんぶしょうから非公式ひこうしき要請ようせいをうけて「宗谷そうや」のだいふね建造けんぞうかんする研究けんきゅう調査ちょうさ開始かいしした[3]日本にっぽんでは1921ねん大正たいしょう10ねん)にきゅう海軍かいぐん北方ほっぽう海域かいいき警備けいびのため砕氷さいひょうかんだいはく川崎重工かわさきじゅうこう神戸造船所こうべぞうせんしょ竣工しゅんこうさせたが、その建造けんぞう経験けいけんがなく、極地きょくちよう本格ほんかくてき砕氷さいひょうかん設計せっけい研究けんきゅう開発かいはつからしなければならなかった。設計せっけい方針ほうしんかんがえるうえ当時とうじアメリカ海軍かいぐん最新さいしん砕氷さいひょうかん「グレーシャーごう」を参考さんこうとし調査ちょうさ開始かいしした。

    1963ねん昭和しょうわ38ねん)8がつ20日はつか閣議かくぎにおいて南極なんきょく観測かんそく再開さいかい輸送ゆそう担当たんとう防衛庁ぼうえいちょうとすることが決定けっていされ文部省もんぶしょうおよ防衛庁ぼうえいちょうにおいて新船しんふね建造けんぞう準備じゅんび作業さぎょうがすすめられることになった[4]

    南極なんきょく本部ほんぶでは「しん船舶せんぱく設計せっけい委員いいんかい」が設立せつりつされ、しん船舶せんぱく要求ようきゅうおよび設計せっけい内容ないよう審議しんぎすることになった。基本きほん設計せっけい担当たんとうする防衛庁ぼうえいちょう技術ぎじゅつ研究けんきゅう本部ほんぶでは、いまだかつて経験けいけんのないふねだけに南極なんきょく観測かんそくせんとしての特殊とくしゅ事項じこうについて、各界かくかい学識がくしき経験けいけんしゃ設計せっけい技術ぎじゅつ顧問こもんとしてまねき「南極なんきょく観測かんそく設計せっけい研究けんきゅうかい」をもうけて学識がくしき経験けいけんしゃ助言じょげんもとめた。基本きほん設計せっけい作業さぎょう先立さきだって、かく観測かんそく部門ぶもん宗谷そうや運航うんこう実績じっせきについて研究けんきゅうかいかく専門せんもんから意見いけん聴取ちょうしゅし、設計せっけい必要ひつよう技術ぎじゅつ資料しりょう収集しゅうしゅうおこなった[4]。この研究けんきゅうかい総会そうかいのほか、航海こうかい砕氷さいひょう航空こうくう輸送ゆそう船体せんたい構造こうぞうとう分科ぶんかかいひらいた。研究けんきゅうかい成果せいかまえて本格ほんかくてき設計せっけいすすめられた。その結果けっか、ふじは宗谷そうやおなじく砕氷さいひょうかん輸送ゆそうかん観測かんそくかん、ヘリコプター母艦ぼかんという複数ふくすう任務にんむ背負しょ多目的たもくてき砕氷さいひょうかんとなった。当時とうじしょ外国がいこく観測かんそくたい砕氷さいひょうせん補給ほきゅうせん調査ちょうさせんなどのすうせき編成へんせいされているのが一般いっぱんてきだった。

    宗谷そうや経験けいけんからかん基地きちあいだ輸送ゆそうすうじゅうマイルはなれた氷海ひょうかいからヘリコプター空輸くうゆすることを基本きほんに、船型せんけい船首せんしゅろう船尾せんびまでばし、さんそうとも全通ぜんつう甲板かんぱんとし後部こうぶはヘリ3格納庫かくのうこおよヘリコプター発着はっちゃく甲板かんぱんにした。航空こうくう輸送ゆそう能力のうりょく昭和しょうわ基地きちから40マイルはなれたところから、4日間にちかんで300t、6日間にちかんで400tの物資ぶっしはこべることを目途もくとにした。

    基準きじゅん排水はいすいりょうは5,250t、満載まんさい9,120t。しゅ機関きかんは4、2じく、12,000馬力ばりきとし、2、2じく場合ばあいでも15ノットの航海こうかい速力そくりょくられるようにした。 推進すいしん方式ほうしきはグレーシャーごうおよびオビごうならってディーゼル機関きかん発電はつでん電力でんりょくでスクリューをまわ電気でんき推進すいしん方式ほうしき採用さいようされ、艦橋かんきょう中央ちゅうおうりょう舷側げんそく上部じょうぶ操舵そうだしょ機関きかん操縦そうじゅうしつの5ヵ所かしょ操縦そうじゅう可能かのう[5]

    艦上かんじょう観測かんそくようとして、気象きしょう高層こうそう気象きしょう電離層でんりそう宇宙うちゅうせん夜光やこう極光きょっこう海洋かいよう生物せいぶつ地磁気ちじき地震じしん重力じゅうりょくとうの11部門ぶもん設備せつび保有ほゆう[5]

    砕氷さいひょう能力のうりょくはチャージングによる最大さいだい破壊はかいごおりあつ重視じゅうし連続れんぞく砕氷さいひょう可能かのうこおりあつさは80~120cm、最大さいだい砕氷さいひょう能力のうりょくはチャージングで6mを目標もくひょうとした[5]

    ふねから構造こうぞうには日本にっぽん海事かいじ協会きょうかい規則きそく適用てきよう砕氷さいひょうせんとしてのふねから補強ほきょうにはノルウェー船級せんきゅう協会きょうかい規則きそく一部いちぶ適用てきようした。たいごおりたい部分ぶぶんそとばんには低温ていおん靱性にすぐれた、あつさ35~45mmのこう張力ちょうりょくこうもちい、400mm間隔かんかく肋骨あばらぼね配置はいちして補強ほきょうし、隔壁かくへきあいだにウェブフレームを配置はいちして強力きょうりょく格子こうし構造こうぞう形成けいせいしてこおりあつえることとした。だい3甲板かんぱん以下いかじゅうせんから構造こうぞうとしこの部分ぶぶん燃料ねんりょうタンクに充当じゅうとうした[5]

    艤装ぎそうとして最大さいだい500t荷物にもつ積載せきさいすることができるほか荷役にやく設備せつびとして、電動でんどうクレーン410t×1、8t×1、6t×2、エレベーター1、コンベレーター2、フォークリフト2ゆうしている[5]。ビルジキールのわりによこ削減さくげんのため日本鋼管にほんこうかん海上保安庁かいじょうほあんちょう技術ぎじゅつ共同きょうどう開発かいはつしたげんゆらタンクを装備そうび[5]

    搭載とうさいヘリは偵察ていさつおよ輸送ゆそうようシコルスキー S-61を2こおりじょう調査ちょうさようベル47G2Aを1搭載とうさい[5]。これらの搭載とうさいは「ふじ」が南極なんきょく観測かんそくにんかれたのち、「しらせ」に搭載とうさいされた。

    歴史れきし

    [編集へんしゅう]

    日本にっぽん南極なんきょく観測かんそくは、1962ねん昭和しょうわ37ねん)のだい6観測かんそくたい以降いこう一時いちじ中断ちゅうだんしていたが、1963ねん昭和しょうわ38ねん)8がつ20日はつか閣議かくぎ決定けってい南極なんきょく地域ちいき観測かんそく再開さいかいについて」にもとづき再開さいかいされることとなった。どう閣議かくぎ決定けっていでは輸送ゆそう手段しゅだんについて、防衛庁ぼうえいちょう担当たんとうとされこの決定けっていにともなって、あいだをおいて自衛隊じえいたいほう改正かいせいうえしん南極なんきょく観測かんそくせん防衛庁ぼうえいちょう運用うんようすることとなった[6]1964ねん昭和しょうわ39ねん)8がつ文部省もんぶしょう日本にっぽん鋼管こうかんあいだ船体せんたい調達ちょうたつかんする契約けいやく締結ていけつされ8がつ28にち日本鋼管にほんこうかん鶴見つるみ造船ぞうせんしょにおいて起工きこうされ、同年どうねん11がつには船台せんだい搭載とうさい開始かいしされ、船台せんだい期間きかん4かげつ1965ねん昭和しょうわ40ねん)3がつ18にち進水しんすいというきゅうピッチでふねから工事こうじすすめられた[7]

    また南極なんきょく本部ほんぶ新船しんふねふねめい一般いっぱん公募こうぼのうえ選定せんてい決定けっていすることにし1965ねん昭和しょうわ40ねん)1がつ11にちから2がつ20日はつかまで一般いっぱん公募こうぼおこない、総数そうすう44まんつうにのぼった応募おうぼせんめいなかから選考せんこうした結果けっか「ふじ」とすることに決定けっていした[8]。1965ねん昭和しょうわ40ねん)2がつ自衛隊じえいたいほう改正かいせいにともない、予算よさん文部省もんぶしょうから防衛庁ぼうえいちょううつり、ふねからかんになった[5]

    進水しんすい作業さぎょうたっては、ぜん後部こうぶ船型せんけいきわめてやせていることと、進水しんすい重量じゅうりょうふねおおきさのわりおおきいことから、進水しんすい船尾せんび浮場までの走行そうこう距離きょりながく、また喫水きっすいおおきく広範囲こうはんい浚渫しゅんせつ必要ひつようとするとうおおくの問題もんだいしょうじた。進水しんすいしょもと検討けんとうした結果けっか進水しんすい通常つうじょう方式ほうしきでは不可能ふかのうであり、進水しんすい固定こていだい延長えんちょう浮力ふりょくタンクのけという異例いれい進水しんすい計画けいかくてられた。船台せんだいにはやく30mの仮設かせつ固定こていだい設置せっちされ、船体せんたいまえなか後部こうぶ浮力ふりょくタンクがけられ、細心さいしん注意ちゅういはらって進水しんすいしき準備じゅんびすすめられた[9]

    しん南極なんきょく観測かんそくせんは、1965ねん昭和しょうわ40ねん)3がつ18にち午後ごご445ふん皇太子こうたいし同妃どうひ臨席りんせきのもと「ふじ」と命名めいめいされ無事ぶじ進水しんすいし、6月28にちからおおやけ試運転しうんてんはいり、7かい海上かいじょう運転うんてんのち、7がつ15にち予定よていどおりにわたしが完了かんりょうし、砕氷さいひょうかん「ふじ」が誕生たんじょうした[10]

    1965ねん昭和しょうわ40ねん)11がつ20日はつか東京とうきょう晴海はるみとう出港しゅっこう奄美あまみ大島おおしま南東なんとう海上かいじょうだい1航空こうくうたいP2V-7投下とうかしたメッセージや新聞しんぶんなどをおさめたコンテナを[11]航行こうこうちゅう部署ぶしょ訓練くんれんおこないつつフィリピンおきだい2大戦たいせん戦没せんぼつしゃたいする洋上ようじょう慰霊いれいさいおこなう。12月5にちフリーマントル寄港きこうした。寄港きこうちゅう整備せいび補給ほきゅう休養きゅうようおよび親善しんぜん行事ぎょうじ実施じっしし、11にち出港しゅっこうした。17にち南緯なんい55通過つうか南極なんきょくけん進入しんにゅう20日はつか航空機こうくうきぼうさび解除かいじょ、27にち昭和しょうわ基地きちおき流氷りゅうひょうえん流氷りゅうひょういき進入しんにゅう開始かいしした。30にち昭和しょうわ基地きちから3138海里かいり定着ていちゃくごおり到達とうたつ1966ねん昭和しょうわ41ねん)1がつ3にちから本格ほんかくてき空輸くうゆ開始かいしし、20日はつかには昭和しょうわ基地きち再開さいかいされた。25にちから空輸くうゆ並行へいこうして、リュツォホルムわん内方ないほう進入しんにゅう、27にち昭和しょうわ基地きち接岸せつがん雪上せつじょうしゃおよび大型おおがた物資ぶっし陸揚りくあげし、ぜん物資ぶっし435tの輸送ゆそう完了かんりょうした。2月1にちだい7越冬えっとうたい成立せいりつ同日どうじつふじは昭和しょうわ基地きちはなれがん、2にち流氷りゅうひょうえんはなれ、3にちソ連それんのマラジョーナ基地きち訪問ほうもん同日どうじつオビごう会合かいごう、6にちどう基地きちはつ西にしこう開始かいし10日とおかベルギーのロワボードワン基地きち訪問ほうもん、13にち南極大陸なんきょくたいりくのちにして、ケープタウンにかった。18にち南緯なんい55通過つうかし、24にちケープタウン入港にゅうこう、3月3にちはつ、19にちコロンボ入港にゅうこう、23にちはつ、このあいだかく寄港きこうにおいて整備せいび補給ほきゅう休養きゅうようおよび各種かくしゅ交歓こうかん行事ぎょうじ実施じっしし、4がつ8にち東京とうきょう晴海はるみとう帰港きこうした[12]そう行動こうどう日数にっすう140にちそうこうほど22,500海里かいりおよ行動こうどうであり、観測かんそく隊員たいいん40めい、オブサーバー7めい観測かんそく隊員たいいん物資ぶっし435tの輸送ゆそう完遂かんすいしたほか、昭和しょうわ基地きち接岸せつがん外国がいこく基地きち訪問ほうもんリュツォホルムわん野外やがい観測かんそくおよび基地きち作業さぎょう支援しえんおこなった。

    観測かんそく再開さいかいとなった1965ねん昭和しょうわ40ねん)のだい7たいよりもちいられ、1983ねん昭和しょうわ58ねん)のだい24たいまで使つかわれている[10]

    1970ねん昭和しょうわ45ねん)2がつ南極なんきょくかいでプロペラ(原文げんぶんママ)がれて往生おうじょう余儀よぎなくされ、救援きゅうえん要請ようせいをアメリカとソ連それんしたが[13]同年どうねん3がつはいこおりじょう好転こうてん[14]自力じりき脱出だっしゅつすることに成功せいこうした。

    1978ねん昭和しょうわ53ねん)7がつ3にち、ヘリコプター搭載とうさいがた巡視じゅんしせんそうや」の進水しんすいしき参加さんか[15]同年どうねん12がつ31にちだい29かい紅白こうはく歌合戦うたがっせんさい春日かすが八郎はちろうがさよなら宗谷そうやうたまえにふじ艦内かんない電話でんわがつながった。

    1982ねん昭和しょうわ57ねん)11月25にちふね科学かがくかんまえ宗谷そうや汽笛きてきけたのち東京とうきょうわんにおいて同年どうねん11がつ12にち就役しゅうえきした「しらせ」とだい37護衛ごえいたい(「あやせ」、「ちとせ」)に歓送かんそうされ最後さいご南極なんきょくゆき出発しゅっぱつした[16]。これが「しらせ」の自衛じえいかんとして最初さいしょ任務にんむとなった。

    1982ねん昭和しょうわ57ねん)12月、カナダ規則きそくにおいて規定きていされた世界せかい砕氷さいひょうせんのランクけでアークティッククラス2.9で世界せかい12評価ひょうかされた[17]

    1983ねん昭和しょうわ58ねん)4がつ20日はつか晴海はるみ埠頭ふとう航海こうかいをもって、南極なんきょく観測かんそくせん役目やくめを「しらせ」にゆず代目だいめ南極なんきょく観測かんそくせんとしての役目やくめえた。

    行動こうどう日数にっすうは2,869にち輸送ゆそう人員じんいんは800めい輸送ゆそうりょうは8,529.5t、氷海ひょうかいでのチャージング回数かいすうは23,416かいであった[10]

    ふじは先代せんだいの「宗谷そうや[18]よりも大型おおがた砕氷さいひょう性能せいのう上回うわまわっていたが、過酷かこく南極なんきょく観測かんそく任務にんむにおいておおくの困難こんなん見舞みまわれた。だい7からだい11までは連続れんぞく接岸せつがん成功せいこうしたが、だい11行動こうどう帰路きろさいみぎ推進すいしんつばさ4まいぜん折損せっそん事故じこのち老朽ろうきゅうえはじめ、こののち昭和しょうわ基地きちへの接岸せつがんだい19観測かんそくのみになり、18かいちゅう6かい接岸せつがんにとどまったが、接岸せつがんできなくても計画けいかくどおりに行動こうどうし、任務にんむ完遂かんすいさせた[19]

    歴代れきだい艦長かんちょう

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    歴代れきだい艦長かんちょう特記とっきないかぎ1とううみ
    だい 氏名しめい 在任ざいにん期間きかん 出身しゅっしんこう ぜんしょく こうしょく 備考びこう
    1 本多ほんだ敏治としはる 1965.7.15 - 1966.6.30 海兵かいへい64 ふじ艤装ぎそういんちょう 海上かいじょう幕僚監部ばくりょうかんぶ防衛ぼうえいづけ ならまつがた駆逐くちくかん艦長かんちょう
    2 松浦まつうら光利みつとし 1966.7.1 - 1967.5.15 神戸こうべ高等こうとう商船しょうせん ふじ副長ふくちょう 横須賀よこすか地方ちほう総監そうかんづけ
    →1967.12.16 だい7護衛ごえいたい司令しれい
    3 本多ほんだ敏治としはる 1967.5.16 - 1968.5.15 海兵かいへい64 海上かいじょう幕僚監部ばくりょうかんぶづけ 海上かいじょう幕僚監部ばくりょうかんぶ防衛ぼうえいづけ
    →1968.7.1 海上かいじょう幕僚監部ばくりょうかんぶ監察かんさつかん
    1968.1.1うみしょう昇任しょうにん 
    4 松島まつしま茂雄しげお 1968.5.16 - 1969.5.19 海兵かいへい66 ふじ副長ふくちょう 横須賀よこすか地方ちほう総監そうかんづけ
    →1969.7.16 東京とうきょう業務ぎょうむたいづけ
    →1969.10.1 退職たいしょく
    ごうだいさんひゃくろくじゅうきゅう潜水せんすいかん艦長かんちょう
    5 磯辺いそべ秀雄ひでお 1969.5.20 - 1970.5.31 海兵かいへい68 大湊おおみなと地方ちほう総監そうかん防衛ぼうえい部長ぶちょう
    6 大森おおもり正人まさと 1970.6.1 - 1971.5.31 海兵かいへい70 海上かいじょう幕僚監部ばくりょうかんぶ防衛ぼうえい
    南極なんきょく観測かんそく支援しえん室長しつちょう
    横須賀よこすか地方ちほう総監そうかんづけ
    →1971.7.16 だい1海上かいじょう訓練くんれん指導しどうたい司令しれい
    7 前田まえだ冬樹ふゆき 1971.6.1 -1973.5.31 海兵かいへい71 横須賀よこすか防備ぼうびたい司令しれい
    8 森田もりた まもる 1973.6.1 - 1975.6.30 海兵かいへい73 横須賀よこすか地方ちほう総監そうかんづけ
    →1975.11.15 下関しものせき基地きちたい司令しれい
    9 蔵本くらもとひさしづくり 1975.7.1 - 1977.5.31 海兵かいへい75 東京とうきょう業務ぎょうむたいづけ
    →1977.7.1 はまな艦長かんちょう
    もと運用うんようちょう
    10 田辺たなべもとおこり 1977.6.1 - 1979.6.30 海兵かいへい76 横須賀よこすか地方ちほう総監そうかんづけ
    →1979.9.1 だい1練習れんしゅうたい司令しれい
    11 根井ねい しげる 1979.7.1 -1981.7.14 早大そうだい
    3みきこう
    開発かいはつ指導しどうたいぐん司令しれいづけ
    →1981.9.1 だい2海上かいじょう訓練くんれん指導しどうたい司令しれい
    だい16.17 副長ふくちょう
    12 竹内たけうち秀一ひでかず 1981.7.15 - 1983.6.1 金沢かなざわまさる
    4みきこう
    だい32護衛ごえいたい司令しれい 自衛じえい艦隊かんたい司令しれいづけ
    →1983.8.1 海洋かいよう業務ぎょうむぐん司令しれい
    13 倉田くらた あつし 1983.6.2 - 1984.4.11 海保かいほだい3
    8みきこう
    海上かいじょう幕僚監部ばくりょうかんぶ防衛ぼうえい
    南極なんきょく観測かんそく支援しえんしつ
    横須賀よこすか地方ちほう総監そうかんづけ 2とううみ
    しらせだい2だい艦長かんちょう

    その

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    記念きねん切手きって南極なんきょく地域ちいき観測かんそく再開さいかい記念きねん」(1965ねん昭和しょうわ40ねん)11がつ20日はつか発行はっこう)および、記念きねん切手きってシール「南極なんきょく地域ちいき観測かんそく事業じぎょう開始かいし50周年しゅうねん」(2007ねん平成へいせい19ねん)1がつ23にち発行はっこう)の切手きってに、宗谷そうや、ふじ、しらせがえがかれている。また、記念きねん切手きって名古屋なごやこう 東海とうかい - 40(愛知あいちけん)」(2007ねん平成へいせい19ねん)11月5にち発行はっこう)のなかの、「名古屋なごやこう愛知あいちけん」という切手きってで、ふじがえがかれている。

    だい7および19観測かんそく記念きねんスタンプとしてふじが登場とうじょうしている。

    ふじは総合そうごう訓練くんれん寄港きこうにおいて一般いっぱん公開こうかい実施じっし昭和しょうわ40~55ねんかけての見学けんがくしゃすうは128まんにんえた[20]

    2017ねん平成へいせい29ねん)8がつ28にち船内せんない理髪りはつしつ全国ぜんこく理容りよう生活せいかつ衛生えいせい同業どうぎょう組合くみあい連合れんごうかいより理容りよう遺産いさんとして認定にんていされ船内せんない認定にんていしょう授与じゅよしきおこなわれた[1]

    出典しゅってん

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    • 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん文部省もんぶしょう、1982ねん
    • 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん文部省もんぶしょう、2007ねん
    • 小島こじま敏男としお南極なんきょく観測かんそくせんものがたり』(成山なりやまどう、2005ねんISBN 4425947118
    • 大野おおのかおる特務とくむかん宗谷そうや」の昭和しょうわ文庫ぶんこばん新潮社しんちょうしゃ、2011ねん改題かいだい)ISBN 978410133222
    • 山田やまだともたかし氷海ひょうかいざされた1296あいだだい12越冬えっとうたい記録きろく』(成山なりやまどう、2012ねんISBN 978-4-425-57051-5
    • 海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』1978ねん9がつごう
    • 海人あましゃ世界せかい艦船かんせん』1983ねん2がつごう

    脚注きゃくちゅう

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    1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 404 - 405ぺーじ
    2. ^ なお海上かいじょう自衛隊じえいたいには過去かこ同名どうめいゆりがた警備けいびてい「ふじ」が在籍ざいせきしていたが、こちらは植物しょくぶつふじ由来ゆらいとしており、名称めいしょうとしてはまったべつのものである。
    3. ^ 南極なんきょく観測かんそくせんものがたり』113ぺーじ
    4. ^ a b 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 33ぺーじ
    5. ^ a b c d e f g h 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 34ぺーじ
    6. ^ 国土こくど地理ちりいん南極なんきょく地域ちいき観測かんそく事業じぎょう50ねん変遷へんせん
    7. ^ 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 33-34ぺーじ
    8. ^ 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 8ぺーじ
    9. ^ 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 34ぺーじ
    10. ^ a b c 南極なんきょく地域ちいき観測かんそくへの参加さんかおよ南極なんきょく地域ちいき観測かんそく統合とうごう推進すいしん本部ほんぶ設置せっちについて 防衛ぼうえいしょう資料しりょう 2008ねん
    11. ^ P2V‐7 (5) | チャンネルNippon - 投下とうかしたパイロットの回想かいそうろく
    12. ^ 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 302ぺーじ
    13. ^ ふじ べいソに救援きゅうえん要請ようせい朝日新聞あさひしんぶん1975ねん昭和しょうわ50ねん)2がつ27にち朝刊ちょうかん 12はん 15めん
    14. ^ こおりじょう好転こうてん 「ふじ」の周辺しゅうへん朝日新聞あさひしんぶん』1970ねん昭和しょうわ45ねん)3がつ12にち 12はん 15めん
    15. ^ 世界せかい艦船かんせん1978ねん9がつごう
    16. ^ 世界せかい艦船かんせん1983ねん2がつごう しんきゅうのコントラスト14ぺーじはんこうするふじとしらせ 124ぺーじ
    17. ^ しらせは4.1で当時とうじ世界せかい5世界せかい艦船かんせん1983ねん2がつごう 82ぺーじ
    18. ^ 宗谷そうやは、砕氷さいひょう能力のうりょくおと小型こがたてい性能せいのう老朽ろうきゅうせんながらおおくの任務にんむ成功せいこうさせる幸運こううんめぐまれ、「奇跡きせきふね」としょうされた。
    19. ^ 南極なんきょく観測かんそくせん「しらせ」の状況じょうきょうについて 文部もんぶ科学かがくしょう 2013ねん1がつ11にち
    20. ^ 南極なんきょく観測かんそくじゅうねん 36ぺーじ

    関連かんれん項目こうもく

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    外部がいぶリンク

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    座標ざひょう: 北緯ほくい3505ふん26びょう 東経とうけい13652ふん50びょう / 北緯ほくい35.090658 東経とうけい136.880507 / 35.090658; 136.880507 (ふじ (砕氷さいひょうかん))