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哲学 てつがく におけるアナムネーシス (ギリシア語 ご : ἀνάμνησις )とはプラトン の認識 にんしき 論 ろん 的 てき ・心理 しんり 学 がく 的 てき 理論 りろん で使 つか われる概念 がいねん 。日本語 にほんご では想起 そうき という訳語 やくご が与 あた えられる。この概念 がいねん はプラトンの対話 たいわ 篇 へん の中 なか でも『メノン 』および『パイドン 』で発展 はってん させられ、『パイドロス 』でもそれとなく言及 げんきゅう されている。
『メノン』において、プラトンのキャラクター(そしてかつての師 し )のソクラテス はメノンから挑戦 ちょうせん を受 う ける。これはソフィストのパラドックス、もしくは知識 ちしき のパラドックスとして知 し られるようになった:
:メノン: それではどのやうにして
探究 たんきゅう なさるのですか、ソクラテス、
一般 いっぱん に
何 なに であるか
知 し らないものを。その
中 なか の
如何 いか なるものを
問題 もんだい にして
探究 たんきゅう なさるのですか。いや、ともかくそれを
探求 たんきゅう して
得 え た
場合 ばあい に、
知 し らなかつた
所 ところ のものがそれであるということをどうして
知 し り
得 え るのですか。
— プラトン『メノン』80d[1]
い換 いか えれば、あるものが何 なに であるかを識別 しきべつ する属性 ぞくせい 、特性 とくせい 、その他 た の記述 きじゅつ 的 てき な目印 めじるし (例 たと えば物質 ぶっしつ 的 てき なものだとか、その他 た の特徴 とくちょう )を全 まった く知 し らなければ、実際 じっさい にそのあるものに到達 とうたつ したとしてもそれを認識 にんしき することはない。また、結果 けっか 的 てき に、逆 ぎゃく が真 しん で、そのあるものの属性 ぞくせい 、特性 とくせい 、その他 た の記述 きじゅつ 的 てき な目印 めじるし を知 し っているならば、そのあるものを探 さが し求 もと める必要 ひつよう が全 まった くなくなってしまう。この議論 ぎろん の流 なが れの結果 けっか として、どちらの場合 ばあい に転 ころ んでも「あるもの」を得 え ようとするのは無駄 むだ だということになる。『メノン』の場合 ばあい は、知識 ちしき を得 え るのは無駄 むだ だということになる。
これに対 たい するソクラテスの応答 おうとう によって「想起 そうき 」説 せつ が発展 はってん することとなった。魂 たましい は不死 ふし であり、繰 く り返 かえ し甦 よみがえ ってくると彼 かれ は主張 しゅちょう した。彼 かれ によれば、実 じつ は知識 ちしき はいつも魂 たましい に内在 ないざい している(『メノン』86b)が、魂 たましい が復活 ふっかつ するたびに誕生 たんじょう の衝撃 しょうげき で忘 わす れてしまう。そこで、人 ひと が学 まな び知 し ったものとは、実 じつ は忘 わす れていたものを回収 かいしゅう しただけだということになる(一 いち たびあるものが思 おも い出 だ されるとそれは真 しん なる信念 しんねん であり、理解 りかい による真 しん の知識 ちしき だったということになる)。そしてこのためにソクラテス(とプラトン)は自身 じしん を教師 きょうし ではなく産婆 さんば とみなし、元 もと から弟子 でし の中 なか に存在 そんざい した知識 ちしき を生 う まれさせる手助 てだす けをした。
この理論 りろん は、ソクラテスが奴隷 どれい の少年 しょうねん に幾何 きか 学 がく に関 かん する問 と いを問 と うているという構図 こうず で説明 せつめい される。まず少年 しょうねん が間違 まちが った答 こた えを答 こた える。間違 まちが っていることを指摘 してき されると彼 かれ は混乱 こんらん するが、問 と いに答 こた えることによってソクラテスは少年 しょうねん を真 しん の答 こた えに導 みちび くことができる。少年 しょうねん は答 こた えを教 おし えられることなく、かつて知 し っていたが忘 わす れてしまったものを思 おも い出 だ すことで真理 しんり に到達 とうたつ する、というように話 はなし が終 お わることが多 おお い。
『パイドン』では、プラトンはイデア論 ろん と組 く み合 あ わせることである程度 ていど 「想起 そうき 」説 せつ を発展 はってん させている。まず、彼 かれ は「想起 そうき 」はいかにして達成 たっせい できるのかを周到 しゅうとう に考 かんが える。『メノン』ではソクラテスの問答 もんどう 法 ほう 以外 いがい に何 なに も提起 ていき されていないのに反 はん して、『パイドン』では「カタルシス 」(ギリシア語 ご : καθαρσις 、罪 つみ や汚染 おせん からの浄化 じょうか )を通 つう じて肉体 にくたい の本性 ほんしょう に打 う ち勝 か つ生 い き方 かた を提案 ていあん している。肉体 にくたい とその感覚 かんかく は間違 まちが いの源 みなもと である。知識 ちしき は理性 りせい を使 つか うこと、魂 たましい によって物事 ものごと を熟考 じゅっこう すること(ノエシス )によってのみ取 と り戻 もど せる(66 b–dを参照 さんしょう ).
次 つぎ に彼 かれ は、せいぜい真 しん なる信念 しんねん にすぎないもの(ドクサ )に対 たい して、真 しん の知識 ちしき はその内容 ないよう とは区別 くべつ されることを明言 めいげん する。常 つね に魂 たましい の中 なか にある真理 しんり が存在 そんざい するからこそ人 ひと は永遠 えいえん の真理 しんり を知 し ることができる。例 たと えばロンドン からオックスフォード までの最短 さいたん 経路 けいろ のような真 しん なる信念 しんねん を知 し っていると大変 たいへん 便利 べんり ではあるが、そういった信念 しんねん が知識 ちしき の資格 しかく を得 え ることはない。どうしてヒトの魂 たましい がそのような偶然 ぐうぜん 的 てき な事実 じじつ に基 もと づいた命題 めいだい をいつも知 し っていることがあろうか?
後代 こうだい のプラトン解釈 かいしゃく 者 しゃ にとって、「想起 そうき 」は認識 にんしき 論 ろん 的 てき 主張 しゅちょう というより存在 そんざい 論 ろん 的 てき 主張 しゅちょう であった。プロティノス 自身 じしん は厳密 げんみつ な意味 いみ での想起 そうき を仮定 かてい しなかった、というのは普遍 ふへん 的 てき に重要 じゅうよう なイデアの知識 ちしき (ロゴス )は全 すべ て時間 じかん の外部 がいぶ に存在 そんざい する源 みなもと (二 に 性 せい つまり神 しん 的 てき なヌース )から生 しょう じ、瞑想 めいそう によって魂 たましい をノエシスの一環 いっかん とすることでアクセスできるからである。それらは想起 そうき というよりむしろ経験 けいけん 、内的 ないてき 知識 ちしき 、識見 しきけん の対象 たいしょう である。それにもかかわらず、ネオプラトニズムでは、「想起 そうき 」説 せつ は魂 たましい の還 かえ 帰 き の神話 しんわ の一部 いちぶ となった。
テュロスのポルピュリオス の短 みじか い作品 さくひん 『ニンフたちの洞窟 どうくつ から』(表面 ひょうめん 上 じょう は『オデュッセイアー 』13の短 みじか い一説 いっせつ に対 たい する評論 ひょうろん である)ではこの考 かんが えが説明 せつめい されている。同様 どうよう に、マクロビウス のより長 なが い『スキピオの夢 ゆめ に対 たい する評論 ひょうろん 』でもこの考 かんが えが説明 せつめい されている。ネオプラトニスト達 たち はこの霊的 れいてき な記憶 きおく という考 かんが えを使 つか って魂 たましい の天 てん 的 てき ・非 ひ 物質 ぶっしつ 的 てき な起源 きげん について論証 ろんしょう し、宇宙 うちゅう 霊魂 れいこん の記憶 きおく はいかにして毎日 まいにち 人 じん によって思 おも い出 だ されるのかを説明 せつめい した。こうして、霊的 れいてき な記憶 きおく はプラトンの魂 たましい の概念 がいねん それ自体 じたい と本質 ほんしつ 的 てき に接続 せつぞく された。個々人 ここじん の持 も つ「質料 しつりょう 的 てき 」つまり肉体 にくたい 的 てき な記憶 きおく は些末なことなので、宇宙 うちゅう 的 てき なイデア、つまり神 かみ 的 てき なものの想起 そうき だけが人間 にんげん を不死 ふし なる存在 そんざい の源 みなもと へと引 ひ っ張 ぱ り上 あ げることができる。
「アナムネーシス」は、魂 たましい が物質 ぶっしつ に煩 わずら わされるのに優先 ゆうせん して自由 じゆう になることを人間 にんげん の心 しん が感 かん じられるようになるもっとも手 て ごろな方法 ほうほう である。復活 ふっかつ の過程 かてい はネオプラトニズムでは、魂 たましい が経験 けいけん (と、そしてしばしば魂 たましい 自身 じしん の神 かみ 的 てき な起源 きげん )を忘 わす れてしまうような衝撃 しょうげき であるとされる。
^ 『プラトン全集 ぜんしゅう 第 だい 二 に 巻 かん 』岡田 おかだ 正三 しょうさん 訳 わけ 、全国 ぜんこく 書房 しょぼう 、1946年 ねん 10月 がつ 5日 にち 、ISBN:978-4062585156 、p165
Plato Phaedo , 1911: edited with introduction and notes by John Burnet (Oxford: Clarendon Press)
Jane M. Day 1994 Plato's Meno in Focus (London: Routledge) — contains an introduction and full translation by Day, together with papers on Meno by various philosophers
Don S. Armentrout and Robert Boak Slocum [edd], An Episcopal Dictionary of the Church, A User Friendly Reference for Episcopalians (New York, Church Publishing Incorporated)
Jacob Klein, A Commentary on Plato's Meno (Chicago, 1989), pp. 103–173.
Norman Gulley, Plato's Theory of Knowledge (London, 1962) pp. 1–47.