レディ・アラベラ・ステュアート (Lady Arabella Stuart , 1575年 ねん – 1615年 ねん 9月25日 にち 、アーベラ・ステュワート ( Arbella Stewart)とも表記 ひょうき )は、しばしばイングランド 女王 じょおう エリザベス1世 せい の有力 ゆうりょく な後継 こうけい 者 しゃ とみなされたイングランドの貴族 きぞく 女性 じょせい 。
アラベラは、第 だい 3期 き 初代 しょだい レノックス伯 はく チャールズ・ステュアート とその妻 つま エリザベス・キャヴェンディッシュ の唯一 ゆいいつ の子供 こども だった。 彼女 かのじょ は第 だい 2期 き 第 だい 4代 だい レノックス伯 はく マシュー・ステュアート とレディ・マーガレット・ダグラス の孫娘 まごむすめ であり、祖母 そぼ マーガレットはイングランド王 おう ヘンリー7世 せい の娘 むすめ でスコットランド 王 おう ジェームズ4世 せい の未亡人 みぼうじん であるマーガレット・テューダー とその2番目 ばんめ の夫 おっと 第 だい 6代 だい アンガス伯 はく アーチボルド・ダグラス(英語 えいご 版 ばん ) の娘 むすめ だった。アラベラはヘンリー7世 せい の玄孫 げんそん であるがゆえに、彼女 かのじょ 自身 じしん が望 のぞ まずとも、イングランドの有力 ゆうりょく な王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん 者 しゃ であった[ 1] 。
父方 ちちかた の祖父母 そふぼ 、第 だい 4代 だい レノックス伯 はく とマーガレット・ダグラスは8人 にん の子 こ をもうけたが、幼少 ようしょう 期 き を生 い き延 の びたのは、アラベラの父 ちち チャールズと、その兄 あに でスコットランド女王 じょおう メアリー の2番目 ばんめ の夫 おっと となるダーンリー卿 きょう ヘンリー・ステュアート の2人 ふたり の息子 むすこ だけだった。アラベラの父方 ちちかた の従兄 じゅうけい はスコットランド、イングランド、アイルランドの王 おう ジェームズ6世 せい /1世 せい だった。彼女 かのじょ の母方 ははかた の祖父母 そふぼ はサー・ウィリアム・キャヴェンディッシュ とその妻 つま で「ハードウィックのベス」としてよく知 し られたエリザベス (英語 えいご 版 ばん ) だった。
ロンドン塔 とう の囚人 しゅうじん としての末期 まっき 、アラベラ・ビーチャム(彼女 かのじょ の結婚 けっこん 後 ご の名前 なまえ )は食 た べることを拒否 きょひ して病 やまい に倒 たお れ、1615年 ねん 9月25日 にち に亡 な くなった。彼女 かのじょ は1615年 ねん 9月29日 にち にウェストミンスター寺院 じいん に埋葬 まいそう された。19世紀 せいき 、ジェームズ6世 せい /1世 せい の墓 はか を探 さが していたところ、スコットランド女王 じょおう メアリーの棺 かん 保護 ほご 容器 ようき から、メアリー女王 じょおう の棺 かん の上 うえ に直接 ちょくせつ 置 お かれたアラベラの鉛 なまり 棺 かん が発見 はっけん された[ 2] 。
幼少 ようしょう 期 き のアラベラ・ステュアート
1576年 ねん にアラベラの父 ちち が死去 しきょ した時 とき 、彼女 かのじょ はまだ乳幼児 にゅうようじ だった。1582年 ねん までは母 はは であるレノックス伯爵 はくしゃく 夫人 ふじん エリザベス・キャヴェンディッシュ に育 そだ てられた[ 3] 。母 はは の死 し により7歳 さい でアラベラは孤児 こじ となり、その後 ご 、期待 きたい された後見 こうけん 裁判所 さいばんしょ (Court of Wards )の長官 ちょうかん のバーリー卿 きょう ウィリアム・セシル ではなく、母方 ははかた の祖母 そぼ ベス (英語 えいご 版 ばん ) の後見 こうけん を受 う けることとなった[ 4] 。
幼少 ようしょう 期 き のほとんどの間 あいだ 、アラベラは、1568年 ねん に第 だい 6代 だい シュルーズベリー伯 はく ジョージ・タルボット と再婚 さいこん していた祖母 そぼ とダービーシャー にあるハードウィック・ホール (英語 えいご 版 ばん ) で保護 ほご 的 てき 隔離 かくり されたなかで暮 く らした。アラベラは1587年 ねん と1588年 ねん の夏 なつ と1591年 ねん 11月から1592年 ねん 7月 がつ まで宮廷 きゅうてい を含 ふく むロンドンへの定期 ていき 的 てき な訪問 ほうもん を楽 たの しんだようである[ 5] 。
ハードウィックのベスからバーリー卿 きょう への1592年 ねん 9月21日 にち 付 づけ の急使 きゅうし で報告 ほうこく されたように、“とあるモーリーが...アラベラに仕 つか え、彼女 かのじょ に読 よ み聞 き かせる”ことが1589年 ねん 初頭 しょとう またはその頃 ころ に始 はじ まっていた[ 6] 。ベスはモーリーのアラベラへの奉仕 ほうし が“3年 ねん 半 はん ”超 ちょう にわたると詳述 しょうじゅつ した。ベスはまた、彼 かれ が“大学 だいがく を離 はな れることによって大 おお きな損害 そんがい を与 あた えた(すなわちそれほどに金 かね がない)”という事実 じじつ に基 もと づき、彼 かれ がアラベラから年 とし £40(2023年 ねん 時点 じてん の£14,000と同等 どうとう )の年金 ねんきん を期待 きたい していることに気 き づいた。これがモーリーが詩人 しじん クリストファー・マーロウ [ 7] ではないかという憶測 おくそく につながった(彼 かれ の名前 なまえ (Marlowe)は時折 ときおり そのよう(Morley)に綴 つづ られた)。
イングランド王位 おうい の女子 じょし 相続 そうぞく 人 じん [ 編集 へんしゅう ]
1592年 ねん 以前 いぜん のしばらくの間 あいだ 、アラベラは父方 ちちかた の祖母 そぼ マーガレット の従妹 じゅうまい である女王 じょおう エリザベス1世 せい の後継 こうけい 候補 こうほ の適任 てきにん 者 しゃ の一人 ひとり であるとみなされた[ 8] 。しかしながら、1592年 ねん 末 まつ から1593年 ねん 春 はる までの間 あいだ に、影響 えいきょう 力 りょく のあるセシル親子 おやこ (エリザベス朝 あさ の大蔵 おおくら 卿 きょう (英語 えいご 版 ばん ) のバーリー卿 きょう とその息子 むすこ で国王 こくおう 秘書 ひしょ 長官 ちょうかん のサー・ロバート・セシル )は、アラベラから彼女 かのじょ の従兄 じゅうけい にあたるスコットランド王 おう ジェームズ6世 せい へと関心 かんしん を逸 そ らし、彼 かれ の方 ほう が好 この ましい継承 けいしょう 者 しゃ とみなした[ 9] 。
時折 ときおり アラベラはエリザベス1世 せい の宮廷 きゅうてい に招 まね かれたが、しかしほとんどの時間 じかん を母方 ははかた の祖母 そぼ ベスと暮 く らして過 す ごした。 彼女 かのじょ の教育 きょういく は20代 だい まで続 つづ き、彼女 かのじょ はいくつかの言語 げんご を学 まな び、リュート 、ヴァイオル 、ヴァージナル が演奏 えんそう できた[ 10] 。
1603年 ねん 、スコットランド王 おう ジェームズ6世 せい のジェームズ1世 せい としてのイングランド王位 おうい 継承 けいしょう 後 ご 、メイン陰謀 いんぼう 事件 じけん の関係 かんけい 者 しゃ は彼 かれ を打倒 だとう してアラベラを王位 おうい に就 つ ける陰謀 いんぼう を企 くわだ てたと言 い われている。アラベラはスペイン 王 おう フェリペ3世 せい から書面 しょめん で同意 どうい して参画 さんかく するよう誘 さそ いかけられたが、しかし、彼女 かのじょ はすぐに勧誘 かんゆう の件 けん をジェームズ1世 せい に報告 ほうこく した[ 11] 。
王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん 者 しゃ としてのアラベラの立場 たちば のために、彼女 かのじょ の幼少 ようしょう 期 き から適切 てきせつ な結婚 けっこん についての議論 ぎろん があった。
1588年 ねん 、スコットランド王 おう ジェームズ6世 せい は父方 ちちかた のはとこにあたる第 だい 2代 だい レノックス公 こう ルドヴィック・ステュワート(英語 えいご 版 ばん ) とアラベラが結婚 けっこん すべきだと提案 ていあん したが、しかしこの提案 ていあん は何 なに ももたらさなかったようである[ 12] 。ほかの可能 かのう 性 せい のある組 く み合 あ わせには、ジョン・オブ・ゴーント の子孫 しそん としてイングランドの王位 おうい を請求 せいきゅう できたパルマ公 こう アレッサンドロ・ファルネーゼ の息子 むすこ たちがいた。この考 かんが えはイングランドのカトリック教徒 きょうと への寛容 かんよう の確保 かくほ 、またはアラベラのカトリック信仰 しんこう を得 え ることだった。しかし長男 ちょうなん のラヌッチョ はすでに結婚 けっこん していたし、弟 おとうと のオドアルド (英語 えいご 版 ばん ) は枢機卿 すうききょう だった。ローマ教皇 きょうこう はオドアルドを彼 かれ の義務 ぎむ から免除 めんじょ する準備 じゅんび ができていると伝 つた え聞 き いていたが、しかしこのような結婚 けっこん はエリザベス1世 せい の抵抗 ていこう によっておそらくアラベラに持 も ちかけられる前 まえ に計画 けいかく を差 さ し止 と められた。
エリザベス1世 せい の治世 ちせい 末期 まっき の数ヶ月 すうかげつ 、アラベラは著名 ちょめい なシーモア家 か の一員 いちいん であるエドワード・シーモアと結婚 けっこん するつもりであるという報告 ほうこく 書 しょ によって苦境 くきょう に陥 おちい った。これは噂 うわさ の新郎 しんろう の祖父 そふ である初代 しょだい ハートフォード伯 はく エドワード・シーモア によって女王 じょおう に報告 ほうこく された。アラベラは女王 じょおう の許可 きょか なく如何 いか なる結婚 けっこん もするつもりはないと否定 ひてい した。1604年 ねん にはポーランド 王 おう ジグムント3世 せい がアラベラを彼 かれ の妻 つま に求 もと める使節 しせつ をイングランドに送 おく ったが、この申 もう し入 い れは拒否 きょひ された[ 13] 。
第 だい 2代 だい サマセット公 こう ウィリアム・シーモア
アラベラ・ステュアートとウィリアム・シーモアの逮捕 たいほ 令状 れいじょう 、1611年 ねん
1610年 ねん 、イングランド王位 おうい 継承 けいしょう 順位 じゅんい 4位 い のアラベラは、当時 とうじ ビーチャム卿 きょう として知 し られ、のちに第 だい 2代 だい サマセット公 こう となるウィリアム・シーモア との結婚 けっこん を計画 けいかく したことで再 ふたた び苦境 くきょう に陥 おちい った。ウィリアムは先年 せんねん 問題 もんだい になったエドワード・シーモアの弟 おとうと で、ジェーン・グレイ の妹 いもうと キャサリン・グレイ (英語 えいご 版 ばん ) の孫 まご であり、キャサリンはヘンリー8世 せい とアラベラの曽 そ 祖母 そぼ マーガレット・テューダー の妹 いもうと メアリー・テューダー の孫 まご であることから、ウィリアムはヘンリー7世 せい の来 らい 孫 まご にあたり王位 おうい 継承 けいしょう 順位 じゅんい 6位 い だった。このような状況 じょうきょう 下 か で、国王 こくおう ジェームズ1世 せい はこの結婚 けっこん が王位 おうい を奪 うば う試 こころ みの前触 まえぶ れではないかと疑念 ぎねん を抱 だ いた。
当初 とうしょ 2人 にん は彼 かれ らの間 あいだ にあるどんな取 と り決 き めも否定 ひてい していたが、その後 ご 1610年 ねん 6月22日 にち にグリニッジ宮殿 きゅうでん で秘密 ひみつ 結婚 けっこん した。国王 こくおう の許可 きょか を得 え ない結婚 けっこん のため、ジェームズ1世 せい はアラベラをランベス のサー・トマス・ペリー宅 たく に監禁 かんきん し、ビーチャム卿 きょう ウィリアムはロンドン塔 とう に投獄 とうごく した。2人 ふたり はそれらの建物 たてもの 内 ない ではある程度 ていど の自由 じゆう があり、この時期 じき のウィリアムとジェームズ1世 せい 宛 あ てのアラベラの手紙 てがみ がいくつか現存 げんそん している。しかし、ジェームズ1世 せい がウィリアムへのアラベラの手紙 てがみ のことを知 し ると、王 おう はアラベラをダラム司教 しきょう (英語 えいご 版 ばん ) ウィリアム・ジェームズ (英語 えいご 版 ばん ) の監督 かんとく 下 か に移 うつ すよう命 めい じた。アラベラが病気 びょうき であると主張 しゅちょう したため、ダラム への出発 しゅっぱつ は延期 えんき された。
2人 ふたり はこの延期 えんき を彼 かれ らの逃亡 とうぼう に利用 りよう した。アラベラは男装 だんそう してケント のリー(Lee)に逃亡 とうぼう したが、ウィリアムはフランス 行 い きの彼 かれ らの逃亡 とうぼう 船 せん が出航 しゅっこう するまでにアラベラに会 あ えなかった。Sara Jayne Steenによれば、ウィリアム・シェイクスピア の戯曲 ぎきょく 『シンベリン 』(1610-1611) に登場 とうじょう する高潔 こうけつ な男装 だんそう のヒロイン・イモージェンは、しばしばアラベラを指 さ し示 しめ すものと解釈 かいしゃく されたとされる[ 14] 。ウィリアムはロンドン塔 とう から脱獄 だつごく したが、リーにたどり着 つ いたその時 とき にはアラベラは去 さ っていたので、彼 かれ はフランドル 行 い きの次 つぎ の船 ふね をつかまえた。アラベラの船 ふね はフランスのカレー に到着 とうちゃく する直前 ちょくぜん にジェームズ1世 せい の追 お っ手 て に追 お いつかれた。彼女 かのじょ はイングランドに連 つ れ戻 もど され、ロンドン塔 とう に投獄 とうごく された。彼女 かのじょ は再 ふたた び夫 おっと を見 み ることなく、彼女 かのじょ の拒 こばめ 食 しょく による病気 びょうき の悪化 あっか のため、1615年 ねん 9月25日 にち にロンドン塔 とう で死去 しきょ した。
アラベラによって書 か かれた100通 つう 以上 いじょう の手紙 てがみ が現存 げんそん している。1993年 ねん 、それらのコレクションがSara Jayne Steenによって編集 へんしゅう 、出版 しゅっぱん され、彼女 かのじょ の行動 こうどう や考 かんが えの詳細 しょうさい を提供 ていきょう した。1948年 ねん 、イギリスの小説 しょうせつ 家 か で歴史 れきし 的 てき 伝記 でんき 作家 さっか のDoris Leslie は『Wreath for Arabella』を著 あらわ した。エミリア・ラニエ (英語 えいご 版 ばん ) の詩 し 「Salve Deus Rex Judaeorum 」はアラベラに捧 ささ げられた。ラニエは報 むく われなかったアラベラとのかつての個人 こじん 的 てき な友好 ゆうこう を思 おも い起 お こし、"Great learned Ladie ... whom long I have known but not known so much as I desired"と彼女 かのじょ に呼 よ びかけた。
フェリシア・ヘマンズ (英語 えいご 版 ばん ) の詩 し 「Arabella Stuart 」は、監獄 かんごく で亡 な くなった彼女 かのじょ の想 おも いをイメージしたアラベラについての作品 さくひん である。2005年 ねん 、サラ・グリストウッド (英語 えいご 版 ばん ) は『Arbella: England's Lost Queen』を出版 しゅっぱん した。
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Marshall, Rosalind. "Arabella Stuart." Dictionary of National Biography . Oxford: Oxford University Press, 2004.
『西洋 せいよう 人物 じんぶつ レファレンス事典 じてん 女性 じょせい 篇 へん 』日外 にちがい アソシエーツ 、2016年 ねん 。ISBN 978-4-8169-2616-7 。
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