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ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット

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ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボット
William Henry Fox Talbot
19世紀せいきなかばの肖像しょうぞう撮影さつえいしゃ Ivan Szabo (1822-1858)
生誕せいたん 1800ねん2がつ11にち
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国おうこく
イングランドの旗 イングランドドーセットメルベリー
死没しぼつ (1877-09-17) 1877ねん9月17にち(77さいぼつ
イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランドウィルトシャーしゅうラコック・アビー英語えいごばん
著名ちょめい実績じっせき カロタイプ発明はつめい
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ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットWilliam Henry Fox Talbot1800ねん2がつ11にち - 1877ねん9月17にち)は写真しゃしん技術ぎじゅつ先駆せんくしゃ一人ひとりで、カロタイプばれる初期しょき写真しゃしん発明はつめいした人物じんぶつ政治せいじ考古学こうこがくもの語源ごげん学者がくしゃでもあった。イギリスじんせいは、トルボットとも表記ひょうきする[1]

1831ねん王立おうりつ協会きょうかいフェロー選出せんしゅつされている[2]

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フォックス・タルボットは1800ねんグレートブリテン王国おうこく現在げんざいイギリス)・イングランドドーセットにあるメルベリー(Melbury)[3]というまちで、ウィリアム・ダヴェンポート・タルボットと、夫人ふじんエリザベス・フォックス・ストラングウェイズ(だい2だいイルチェスターはくヘンリー・フォックス・ストラングウェイズのむすめ)のあいだ一人ひとり息子むすことしてまれた。かれ1817ねんハーローこうからケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくトリニティ・カレッジ進学しんがくし、1820ねんにパーソン・プライズを受賞じゅしょうし、よく1821ねん数学すうがく学位がくい試験しけん優秀ゆうしゅう成績せいせき合格ごうかくした。

1822ねんから1872ねんにかけて、かれ王立おうりつ協会きょうかいおも数学すうがくについての論文ろんぶんおお投稿とうこうしている。研究けんきゅう生活せいかつ初期しょきかれ光学こうがく研究けんきゅうおこない、これがのち写真しゃしんじゅつとして結実けつじつした。1826ねん、エジンバラ・ジャーナル・オブ・サイエンスに『有色ゆうしょくほのおについての研究けんきゅう(Some Experiments on Colored Flame)』とだいした論文ろんぶんを、1827ねんにはクオータリー・ジャーナル・オブ・サイエンスに『単色たんしょくひかりMonochromatic Light )』とだいした論文ろんぶん寄稿きこうし、「フィロソフィカル・マガジンには『化学かがく作用さようによるいろ変化へんかChemical Changes of Colour )』など化学かがくについての論文ろんぶん多数たすう寄稿きこうしている。

1827ねんからくなるまで、ウィルトシャーしゅうにあるラコック・アビー住居じゅうきょとしていた。

カロタイプの発明はつめい

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フランスルイ・ジャック・マンデ・ダゲール1839ねん太陽光たいようこうったぎんばん写真しゃしんダゲレオタイプ)を発表はっぴょうするよりはやく、タルボットは写真しゃしん実験じっけんにとりかかっている。かれ写真しゃしん技術ぎじゅつをつけたきっかけは1833ねんイタリア新婚しんこん旅行りょこうったさいのことだった。かれ描画びょうが補助ほじょ器具きぐカメラ・ルシダカメラ・オブスクラ使つかって旅先たびさき風景ふうけいをスケッチしたがうまく風景ふうけいえがのこせず、この方法ほうほう失望しつぼうしてしまった。しかしカメラ・オブスクラのなかうつ縮小しゅくしょうされた自然しぜん風景ふうけいしんかれ、このうつくしい映像えいぞう永久えいきゅうのこ方法ほうほうはないかとかんがえた。これが、ひかりかみ直接ちょくせつ光景こうけいける研究けんきゅう開始かいしつながったといわれる。かれ硝酸銀しょうさんぎん溶液ようえきをしみこませたかみ使つか感光かんこうつくり、黒白くろしろ反転はんてんした陰画いんが固定こていして、印画いんが陽画ようがけるというネガポジしき手段しゅだん1835ねん発見はっけんしていたが、一旦いったん中断ちゅうだん数学すうがく研究けんきゅうつづけていた。

ダゲールがひかりぞうぎんばん定着ていちゃくさせる技術ぎじゅつ開発かいはつしたという第一報だいいっぽう発表はっぴょうされた直後ちょくご1839ねん1がつ25にちにタルボットは4ねんまえ発明はつめいしていたという画像がぞうすうまい王立おうりつ協会きょうかい公開こうかいした。さらに2週間しゅうかん以内いないにタルボットは王立おうりつ協会きょうかいたいし、ひかりえがくという自分じぶん技術ぎじゅつ当時とうじは「写真しゃしん」、photograph ではなく、「フォトジェニック・ドローイング」、photogenic drawing とんでいた)の詳細しょうさい公開こうかいした(ダゲールが自分じぶん技術ぎじゅつ詳細しょうさいをフランス学士がくしいん科学かがくアカデミーで公表こうひょうするのはこののちの8がつになる)。

タルボットのったカロタイプ。ウィルトシャーしゅうはたら大工だいく、1842-43ねん

タルボットは、ジョン・ハーシェルおおくの科学かがくしゃから協力きょうりょく研究けんきゅうすすめ、1840ねんまでに技術ぎじゅつ完成かんせいさせた。1841ねんにはカロタイプ、または発明はつめいしゃをとりタルボタイプ(talbotype )とよばれる写真しゃしん製法せいほう発表はっぴょうした。これはハーシェルやジョゼフ・バンクロフト・リードJoseph Bancroft Reade)らの先行せんこうする研究けんきゅう反映はんえいさせたもので、タルボットの独自どくじ貢献こうけん陰画いんが(ネガ)をつくり、そこから多数たすう陽画ようが(ポジ)をけることを可能かのうにするというアイデアだった(ネガとポジという言葉ことば自体じたいはハーシェルの発案はつあんである)。また没食子もっしょくしさんもちいてせんぞう現像げんぞうするのもタルボットのアイデアだった。

かれはこの技術ぎじゅつによって王立おうりつ協会きょうかいから1837ねんベーカリアン・メダル1838ねんロイヤル・メダル1842ねんランフォード・メダル受賞じゅしょうした。また1843ねん写真しゃしん工房こうぼうつくり、複製ふくせい能力のうりょくかした写真しゃしんしゅう出版しゅっぱん開始かいしした。1844ねん出版しゅっぱんした世界せかい最古さいこ写真しゃしんしゅう自然しぜん鉛筆えんぴつPencil of Nature )』はとく有名ゆうめいである。

特許とっきょめぐ紛争ふんそう

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1841ねん2がつ、タルボットはカロタイプについての特許とっきょ取得しゅとくした。当初とうしょかれ特許とっきょ使用しようりょういちかいたいし20ポンドでっていたが、のちにこれを4ポンドにげ、った写真しゃしんかれもととどけたものたいしては無料むりょうにする措置そちをとった。しかし職業しょくぎょう写真しゃしん最大さいだいとし300ポンドの特許とっきょ使用しようりょうかれはらうことになっていた。タルボットの特許とっきょりょうかせぎはひろ範囲はんいから批判ひはんされ、とくフレデリック・スコット・アーチャー1851ねんにガラスばん使つかったネガポジしき写真しゃしん製法せいほうコロジオンほう湿式しっしきコロジオンほう)を発明はつめいしたのちのタルボットのいには非難ひなんこった。タルボットは、アーチャーが発明はつめいした技法ぎほう使つかものはカロタイプの特許とっきょ使用しようりょうはらわなければならないと宣言せんげんしたのである(アーチャーはぎゃくに、コロジオンほう特許とっきょけっして取得しゅとくしようとしなかった)。

タルボットとダゲールの特許とっきょたいするちが

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タルボットの肖像しょうぞう写真しゃしんダゲレオタイプ、1844ねん

タルボットがカロタイプの特許とっきょった理由りゆうひとつは、ライバルのダゲールが写真しゃしん技術ぎじゅつ開発かいはつつづけていることを意識いしきしていたため、多額たがく研究けんきゅう必要ひつようとしていたからである。タルボットは当初とうしょすう年間ねんかんにわたりすうせんポンドの資金しきんとうじてなお写真しゃしん技術ぎじゅつ詳細しょうさいられず、すくなくない資産しさんうしなったことも特許とっきょりょう徴収ちょうしゅう背景はいけいにある。

かれは「自然しぜん鉛筆えんぴつ」とんだ自身じしん写真しゃしんじゅつ実現じつげんするにあたり、当初とうしょ直接ちょくせつ印画いんがもちい、光源こうげん印画いんがあいだ物体ぶったいくことで印画いんが物体ぶったい黒白くろしろ反転はんてん陰画いんがのこすことに成功せいこうした。カロタイプはこれを洗練せんれんさせた技法ぎほうで、ぞう(ネガ、陰画いんが)を直接ちょくせつうつした陰画いんがしたに、印画いんがいてぞう(ポジ、陽画ようが)をける方式ほうしきだった。ハーシェルの示唆しさで、チオ硫酸りゅうさんナトリウムったおけなか印画いんがひたすことで感光かんこうめてぞう定着ていちゃくする方法ほうほう確立かくりつされた。ネガポジしき利点りてんは、写真しゃしんなんまいでも必要ひつようなだけプリントすることが出来できてんにあった。ダゲレオタイプはぎんばん直接ちょくせつぞうのこすもので、ポラロイド同様どうよういちてんのみで複製ふくせい不可能ふかのうであった。一方いっぽうでカロタイプは、ぞう鮮明せんめいにするために陰画いんがあぶらるなどの工夫くふうをしていたが、繊維せんい出来できかみあらさでは、金属きんぞくばん使つかったダゲレオタイプのぞうのシャープさにはかなわなかった。

両者りょうしゃ欠点けってん解決かいけつしたのが、ダゲールがんだ1851ねん完成かんせいした湿式しっしきコロジオンほうで、ネガ部分ぶぶんに、かみ使つかうカロタイプのわりにガラスをもちいることで、複製ふくせい製造せいぞうでき、しかも鮮明せんめいぞうることができた。

一方いっぽう、ダゲールもタルボットがカロタイプの技術ぎじゅつ発表はっぴょうしたのち研究けんきゅう前進ぜんしんさせていることを意識いしきしていた。かれ特許とっきょ政府せいふってもらい、研究けんきゅうをフランス政府せいふ支援しえんかれ自身じしん年金ねんきんをもらうようにした。共同きょうどう研究けんきゅうしゃニセフォール・ニエプスはすでにほろび年金ねんきんれなかったが、かれ息子むすこ共同きょうどう研究けんきゅういだイジドール・ニエプスが年金ねんきんにした。ダゲールは必要ひつよう研究けんきゅう生涯しょうがい年金ねんきんからはらうかわりにダゲレオタイプをぜん世界せかいてき特許とっきょなしで公開こうかいし、普及ふきゅうさせることに成功せいこうした。この無料むりょう使用しようはイギリスにおいてのみ適用てきようされなかったが、その措置そちはダゲールがにダゲレオタイプがおとろえる1861ねんごろまでつづいた。

写真しゃしんをめぐる特許とっきょ紛争ふんそうわり

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1852ねん8がつタイムズかみ王立おうりつ協会きょうかい会長かいちょうロスきょう王立おうりつ芸術げいじゅつアカデミー会長かいちょうのチャールズ・ロック・イーストレイクの公開こうかい書簡しょかん掲載けいさいした。かれらはタルボットに、写真しゃしん技術ぎじゅつ進歩しんぽ促進そくしんするために特許とっきょりょう圧力あつりょく緩和かんわしてほしいとうったえた。タルボットはこれにこたえ、アマチュア写真しゃしんからの特許とっきょ使用しようりょう徴収ちょうしゅうをやめたが、プロの肖像しょうぞう写真しゃしんへの特許とっきょりょう徴収ちょうしゅうつづけようとし、その結果けっかいくつもの裁判さいばん敗訴はいそした。当時とうじ販売はんばいよう肖像しょうぞう写真しゃしんつくろうとするものへの特許とっきょ使用しようりょう最初さいしょの1ねんで100ポンド、その毎年まいとし150ポンドというがくであった。

1854ねん、タルボットは1855ねんれる特許とっきょの14年間ねんかん延長えんちょう申請しんせいした。当時とうじかれかかえていた裁判さいばんひとつに湿式しっしきコロジオンほう使つか写真しゃしんマーティン・ラローシュにたいするものがあったが、この裁判さいばんがタルボットの特許とっきょ紛争ふんそう転回てんかいてんとなった。ラローシュがわ特許とっきょ自体じたい無効むこうせいうったえ、その理由りゆうとしてジョゼフ・リードがカロタイプと同様どうよう手法しゅほうさき考案こうあんしていたことをげた。湿式しっしきコロジオンほう利用りようについても、カロタイプとコロジオンほうおなじネガポジしきながら重大じゅうだいちがいがいろいろとあるため特許とっきょ侵害しんがいではないと主張しゅちょうした。判決はんけつで、判事はんじはカロタイプの特許とっきょ延長えんちょう是認ぜにんしたが、ラローシュがコロジオンほう使つかうことはカロタイプの特許とっきょ侵害しんがいにあたらないとみとめた。この判決はんけつ失望しつぼうしたタルボットは、特許とっきょ延長えんちょうりやめた。写真しゃしんじゅつは、やっと特許とっきょから自由じゆうになったのである。

カロタイプ以外いがい活動かつどう

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タルボットは、ホイッグとう支持しじする傾向けいこうのある穏健おんけんてき改革かいかく一人ひとりとして、政治せいじてき活動かつどうおこなった。かれは1832ねんから1835ねんまでのあいだ、チッペンハム選出せんしゅつ議員ぎいんとして国会こっかいにもていた。かれは1840ねんにはウィルトシャーしゅうしゅう長官ちょうかん(High Sheriff)もつとめた。

科学かがく研究けんきゅうたずさわるあいだにも、かれはよりおおくの時間じかん考古学こうこがくいていた。『Hermes, or Classical and Antiquarian Researches (ヘルメス、または古典こてん古代こだい研究けんきゅう)』(1838ねん - 1839ねん)、『Illustrations of the Antiquity of the Book of Genesis創世そうせい古代こだい解説かいせつ)』(1839ねん)のような著書ちょしょもある。また東洋とうよう学者がくしゃサー・ヘンリー・ローリンソンアッシリアがく専門せんもんエドワード・ヒンクス博士はかせらとともに、ニネヴェから発掘はっくつされた粘土ねんどばん楔形文字くさびがたもじ最初さいしょ解読かいどくしゃとしての栄誉えいよにしている。語源ごげんがくにも関心かんしんち、1846ねんには『English Etymologies英語えいご語源ごげん)』を執筆しっぴつした。

出典しゅってん

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  1. ^ トルボット『自然しぜん鉛筆えんぴつ』、赤々あかあかしゃ、2016ねん
  2. ^ "Talbot; William Henry Fox (1800 - 1877)". Record (英語えいご). The Royal Society. 2012ねん1がつ14にち閲覧えつらん
  3. ^ BBC - History - William Henry Fox Talbot” (英語えいご). www.bbc.co.uk. 2020ねん10がつ8にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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グレートブリテンおよびアイルランド連合れんごう王国おうこく議会ぎかい
先代せんだい
ジョゼフ・ニールド英語えいごばん
ヘンリー・ジョージ・ボルデロ英語えいごばん
チペナム選挙せんきょ英語えいごばん選出せんしゅつ庶民しょみんいん議員ぎいん
どういち選挙せんきょ同時どうじ当選とうせんしゃ
ジョゼフ・ニールド

1832ねん英語えいごばん1835ねん英語えいごばん
次代じだい
ジョゼフ・ニールド
ヘンリー・ジョージ・ボルデロ