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エディ・ゲレロ

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エディ・ゲレロ
エディ・ゲレロの画像
プロフィール
リングネーム エディ・ゲレロ
ブラック・タイガー(2代目だいめ
本名ほんみょう エドゥアルド・ゴリー・ゲレロ・ジャネス
ニックネーム ラティーノ・ヒート
2代目だいめ暗黒あんこく猛虎もうこ
身長しんちょう 173cm
体重たいじゅう 100kg
誕生たんじょう 1967ねん10月9にち
死亡しぼう (2005-11-13) 2005ねん11月13にち(38さいぼつ
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
テキサス州の旗 テキサスしゅう
エルパソぐんエルパソ
デビュー 1987ねん
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エディ・ゲレロEddie Guerrero1967ねん10月9にち - 2005ねん11月13にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくプロレスラーテキサスしゅうエルパソ出身しゅっしんメキシコけいアメリカじん

人物じんぶつ

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本名ほんみょうエドゥアルド・ゴリー・ゲレロ・ジャネスEduardo Gory Guerrero Llanes[1]。アメリカとメキシコ両方りょうほう市民しみんけんゆうする(国籍こくせきはメキシコ)。最終さいしゅう所属しょぞくWWESmackDownである。

ラティーノ・ヒートばれている激情げきじょうプロレス名門めいもん一家いっかゲレロ・ファミリーの一員いちいんである[2]父親ちちおやゴリー・ゲレロあにチャボ・ゲレロ・シニアマンド・ゲレロヘクター・ゲレロ、チャボの息子むすこであるおいチャボ・ゲレロ・ジュニアもプロレスラーである。つまヴィッキー・ゲレロはWWEと契約けいやくしてRAWSmackDownのGMをつとめている。また、むすめシャウル・ゲレロもプロレスラーとして活動かつどうし、現在げんざいはラクエル・ディアスのリングネームでWWE傘下さんか団体だんたいNXT所属しょぞくしている。

メキシコひとギミックとしての「Lie Cheat and Steal!(ズルしてだましてぬすれ)」を合言葉あいことばに、意表いひょうく「ズルい」(という設定せっていの)戦法せんぽう多用たようし、ギミックとしては相手あいて正面しょうめんからいどむタイプのファイターではないが、とくに、スペインぜたり、ロック同様どうようスラング駆使くししての軽妙けいみょうなトークが特徴とくちょうであった(J SPORTS字幕じまくではスペインなまりを表現ひょうげんするため「オイラ」「〜だっての」とうやくされた)。

来歴らいれき

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武者むしゃ修行しゅぎょう

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プロレス一家いっかだったこともあり、リングデビューははやい。3さいドロップキックをマスターしたとされ、7さいときには、当時とうじ4さいおいであるチャボ・ゲレロ・ジュニアと、興行こうぎょう休憩きゅうけいちゅう余興よきょうてき試合しあいおこなったところ、観客かんきゃく夢中むちゅうになり、売店ばいてんいとな親族しんぞくからものれなくなるからやめるようにたのまれたエピソードがある[よう出典しゅってん]。プロレスラーとして正式せいしきにデビューしたのは1987ねんときである。3にんあにたちとのコンビでCMLL主戦しゅせんじょうとした。この時期じきワールド・レスリング・アソシエーションWCWにも参戦さんせんしている。

しん日本にっぽんプロレスへ参戦さんせん

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1992ねん素顔すがおしん日本にっぽんプロレスはつ来日らいにち。このときは、正統せいとうてきうごきのなかれのある空中くうちゅうわざ披露ひろうし、天才てんさいレスラーととなえられた。また、このころ出会であったクリス・ベノワディーン・マレンコとは生涯しょうがいにわたって親友しんゆうなかになり、その行動こうどうともにしていく。おなごろ、CMLLでマスカラ・マヒカという覆面ふくめんレスラーへの変身へんしんめいじられる。しかし、自身じしんあつかいに不満ふまんち、新興しんこうのライバル団体だんたいAAA電撃でんげき移籍いせきみずからマスクをいで正体しょうたいかしたルチャリブレ史上しじょう唯一ゆいいつ選手せんしゅとなった。AAAではトップ選手せんしゅエル・イホ・デル・サントと「ニュー・アトミック・ペア」を結成けっせい初代しょだいアトミック・ペアはたがいの実父じっぷであるエル・サント&ゴリー・ゲレロ)した。

日本にっぽんでの活躍かつやく

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この時期じき日本にっぽんとメキシコとを往復おうふくし、日本にっぽんでは2代目だいめブラック・タイガーとしてしししんサンダー・ライガー3代目だいめタイガーマスク、ベノワ、マレンコらとしん日本にっぽんジュニアの黄金おうごん時代じだいきずいた。メキシコではサントを裏切うらぎるとルードに転向てんこう、“ラブ・マシーン”アート・バーロス・グリンコス・ロコス(イカレたアメリカじんたち)を結成けっせい、トップヒールとなった。

ちなみに1996ねんにはしん日本にっぽんプロレスが主催しゅさいするジュニアヘビーきゅう選手権せんしゅけんBEST OF THE SUPER Jr.において優勝ゆうしょうしている。

ECWからWCWへ

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1994ねん11月、ECWとの契約けいやくはなしすすなか、アートが急死きゅうし死因しいん日頃ひごろ過剰かじょう薬物やくぶつ摂取せっしゅであった。パートナーである以前いぜんだい親友しんゆうであったアートの衝撃しょうげきは、そののエディの人生じんせいにもおおきな影響えいきょうあたえた。

1995ねん5月、ECWに移籍いせき。デビューしてすぐ2コールド・スコーピオからTV王座おうざ奪取だっしゅする。そのTV王座おうざけい2かい獲得かくとくするなどの活躍かつやくせ、とくさきにECWに参戦さんせんしていたマレンコ、ベノワらとの試合しあいでECWのマニアたちからも熱狂ねっきょうてき支持しじけた。8月、3にんWCWへと移籍いせき。マレンコとECW最後さいご試合しあいのぞんだには、"please don't go"(かないで)というチャントがこったほどかれらはファンにしたわれていた。

WCWへ移籍いせき

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かつて在籍ざいせきしていたころとはちがふく社長しゃちょうエリック・ビショフとヘビーきゅうのベテラン選手せんしゅたちが権力けんりょく独占どくせんするWCWでは、クリス・ジェリコレイ・ミステリオウルティモ・ドラゴン、チャボ・ジュニアといったクルーザーきゅう選手せんしゅたちとのめい勝負しょうぶ連発れんぱつするも、トップグループのポジションがあたえられることはなかった。デビュー初期しょきはダークマッチにおいてアレックス・ライトらと対戦たいせんしていた。1995ねんスターケードにおいてWCWたい新日本しんにほんプロレスがおこなわれたさい、エディは大谷おおやすすむ二郎じろう対戦たいせん敗北はいぼくしている。1996ねんにはWCW・US王座おうざをめぐりコナンリック・フレアー抗争こうそうしている。96ねん晩年ばんねんにはDDPとのこうそうはいった。1997ねんにはスコット・ノートンやジェリコ、マレンコとのUS王座おうざめぐこうそう展開てんかいする。王座おうざうしなったのちにクリス・ジェリコのWCWクルーザーきゅう王座おうざけ、抗争こうそうする。王座おうざ獲得かくとくするとレイ・ミステリオ・ジュニアとのこうそうはじまり、マスクまでけた試合しあい発展はってんする。この時期じきどう王座おうざウルティモ・ドラゴンうばわれている。そのおいのチャボ・ゲレロとのスキットなどがあったが、中堅ちゅうけんてき位置いち相変あいかわらずだった。nWoだいブームが下火したびになったころ、エディはメキシコけいレスラーで結成けっせいされたLWo(ラティーノ・ワールド・オーダー)を結成けっせいして活動かつどう開始かいし同時どうじ睡眠薬すいみんやく過剰かじょう摂取せっしゅなどもこの時期じきからはじまった。だが、くすり過剰かじょう摂取せっしゅ原因げんいん1999ねんにエディがこした交通こうつう事故じこにより、LWoのストーリーはられた。事故じこの6かげつには復帰ふっきをするが、今度こんど鎮痛ちんつうざい摂取せっしゅはじまる。WCWには2000ねんまで在籍ざいせきしたが、内部ないぶ腐敗ふはいあつかいにれず、移籍いせき決意けついする。

WWF時代じだい

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ラディカルズからシングル路線ろせんまで

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2000ねんにベノワ、マレンコ、ペリー・サターンとWWF(のWWE)へ移籍いせき、4にんでラディカルズなるユニットを結成けっせい早速さっそくレッスルマニア2000トゥー・クール (グランマスタ・セクシー&スコッティ・2・ホッティ)&チャイナ試合しあいをするがやぶれてしまう。これをチャイナとの熱愛ねつあいメロドラマを展開てんかい人気にんきはくす。チャイナに積極せっきょくてきにアピールするという役割やくわりで、チャイナが『PLAYBOY登場とうじょうするさいには撮影さつえい現場げんばったエディが警備けいびいんにたたきされる光景こうけい監視かんしカメラの映像えいぞうからながした。当時とうじなんでもりだったWWFを象徴しょうちょうする光景こうけいひとつであり、2003ねんおこなわれたRaw10周年しゅうねん特番とくばんでも「だまってキスしてしょう」のひとつにノミネートされていた。WWFにおけるはつタイトルはジェリコから奪取だっしゅしたヨーロピアン王座おうざであるが、これはチャイナの手助てだすけのおかげであった。そのはマレンコやサターンとの王座おうざめぐ内輪うちわもめをえんじることとなり、サターンに王座おうざうばわれる。結局けっきょくはエディの浮気うわき原因げんいんられてしまう。2000ねん9がつIC王座おうざれるが、相手あいて皮肉ひにくにもチャイナであった。そのD-ジェネレーションXロード・ドッグビリー・ガン中心ちゅうしんとする)との軍団ぐんだんこうそう展開てんかいサバイバー・シリーズ2000勝利しょうりする。そのハーディー・ボーイズとのこうそう(この時期じきにベノワはシングル路線ろせん専念せんねんのため離脱りだつしている)を開始かいし

2001ねんはいりジェリコのインターコンチネンタル王座おうざをめぐるあらそいがベノワ、Xパックとのよんにんあいだおこなわれる。そのレッスルマニアX-Sevenにおいてテストとヨーロピアン王座おうざをかけて勝負しょうぶ勝利しょうりする。ハーディー・ボーイズとのこうそう再燃さいねんするなどしていたが、プリンス・アルバートとの試合しあい怪我けがう。

解雇かいこからの復帰ふっき

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不幸ふこうかさなり過度かどアルコール使用しよう障害しょうがいなど問題もんだいおおく、2001ねん11月9にち飲酒いんしゅ運転うんてん事故じここし、そのさんにちにWWFを解雇かいこされている。

WWFから解雇かいこされたのちふたたびリングにがれるくらいまで回復かいふくしてからは、ROHWWA、FWAにIWAミッドサウスなどちいさな団体だんたいにあがりつづけた。また、この時期じきに1シリーズだけTEAM 2000一員いちいんとしてしん日本にっぽんプロレスに久々ひさびさ参戦さんせんたしている。

WWE復帰ふっき

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2002ねんはいり、WWEとさい契約けいやく。4月にはいおなじくフロッグスプラッシュを得意とくいわざとするロブ・ヴァン・ダムとIC王座おうざあらそう。このとき度目どめどう王座おうざ獲得かくとくとなる。かれはラダー・マッチで王座おうざをRVDにうばわれるが、この試合しあいでファンが乱入らんにゅうする珍事ちんじがあった。どう時期じきにベノワが怪我けがから復帰ふっき、リック・フレアーと抗争こうそうするもキング・オブ・ザ・リング2002やぶれる。ザ・ロックWWE統一とういつ王座おうざ挑戦ちょうせんする権利けんりるためにロックにいどやぶれている。

団体だんたい人気にんきしゃ

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WWEタッグ王座おうざ新設しんせつされると、チャボ・ゲレロ・ジュニアとロス・ゲレロス結成けっせいカート・アングル&クリス・ベノワ、エッジ&レイ・ミステリオ、そのシェルトン・ベンジャミン&チャーリー・ハース王座おうざめぐこうそうひろげ、レッスルマニアXIXでも王座おうざいどむが敗北はいぼくする。

また、チームのキャッチコピーが、「うそつき」や「ずるい」とされるメキシコひとギミック「Lie Cheat Steal(ズルして、ダマして、ぬすれ)」と設定せっていされてコミカルな試合しあいおこなえるようになり、チャボとともにずるかしこいファイトスタイルで人気にんきげていくこととなった。

WWEタッグ王者おうじゃ時代じだい

ロス・ゲレロス時代じだい途中とちゅうにチャボが怪我けが離脱りだつしたさいは、タジリとコンビをむ。このタッグのさいに、入場にゅうじょう毎回まいかいちがったローライダー(メキシコけいアメリカじんこのむ。さらにエディが会場かいじょうきゃくものぬすんだものわれている)にって登場とうじょうし、ハイドロ(ここでは車体しゃたい油圧ゆあつによりげすること)で観客かんきゃくかせるようになる。ちなみに、このローライダーでの入場にゅうじょうシーンのおかげで、アメリカのローライダー専門せんもん雑誌ざっし表紙ひょうしをつとめたこともある。なお、ストーリーじょうはタジリが「くるまぬすんで会場かいじょうこう」と提案ていあんしたことをエディがけて、くるまぬすしたことになっている。

タジリとのタッグ解散かいさん復活ふっかつしたUS王座おうざ戦線せんせんくわわり、トーナメント決勝けっしょうでベノワに勝利しょうり初代しょだい王者おうじゃとなった。どう王座おうざめぐジョン・シナこうそうこうそうのクライマックスとして駐車ちゅうしゃじょうでのストリートファイトさいにチャボが救援きゅうえんけつけ、ロス・ゲレロスとして活動かつどう再開さいかいしている。このころには、観客かんきゃくのエディへの声援せいえん歓声かんせい団体だんたいでも一番いちばんっていいほどにおおきくなっていた。

WWE王座おうざ奪取だっしゅ

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しかしながらビッグ・ショーにUS王座おうざうばわれ2004ねん1がつ、タッグ王座おうざ陥落かんらくにロス・ゲレロスの活動かつどう仲間割なかまわれによって終了しゅうりょう仲裁ちゅうさいやくあらわれたあにチャボ・ゲレロ・シニアにも裏切うらぎられエディは不運ふうんつづきとなる。そのチャボに復讐ふくしゅうたすとシングルプレーヤーに転向てんこうする。ロイヤルランブルでのチャボとの試合しあいせいしたあと、WWE王座おうざ挑戦ちょうせんけんけたバトルロイヤルで最後さいごまでのこったカート・アングルを退しりぞ優勝ゆうしょうノー・ウェイ・アウト2004で当時とうじのWWE王者おうじゃであったブロック・レスナー挑戦ちょうせん、レスナーから散々さんざんいぬばわりされながらもラティーノ・ヒート(ラテンの情熱じょうねつ)をがらせくちげき下馬評げばひょうくつがえ史上しじょうはつのメキシコけい&史上しじょうもっと小柄こがらなWWE王者おうじゃとなった。レッスルマニア20ではアングルを相手あいて防衛ぼうえい成功せいこう、またクリス・ベノワ世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃとなり、二人ふたりきながらった。そのグレート・アメリカン・バッシュ2004でJBL相手あいて王座おうざとす。7月の日本武道館にほんぶどうかん公演こうえんでは因縁いんねんのJBL、ゼネラルマネージャーから電撃でんげきてき復帰ふっきたしたカート・アングル相手あいてに、はかじんギミックで久々ひさびさ来日らいにちとなったジ・アンダーテイカーんで対戦たいせん勝利しょうりにテイカーのめずらしいマイクアピールをした。(エディがマイクアピールしたのち、テイカーに「ヘイ、あんたもトーキョーのアミーゴになにったらどうなの?あ、そっか。あんたんでっからしゃべんねえんだったな」とるとテイカーがやおらにばして「マイクをよこせ」と無言むごんでアピール。武道館ぶどうかんがどよめいた)

ヒールへ転身てんしん急死きゅうし

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陥落かんらくはアングルとのこうそうもどり、またふたたびWWE王座おうざ戦線せんせんもどるも奪回だっかいはできなかった。2005ねん、レイ・ミステリオとタッグ王座おうざふたた獲得かくとくレッスルマニア21以降いこう本人ほんにん希望きぼうによりヒールターン、ミステリオを裏切うらぎこうそう開始かいししミステリオの息子むすこであるドミニク親権しんけんんだディープなこうそうとなった。ミステリオを金網かなあみせんやぶったことでこうそう決着けっちゃくした。 [3] 10月にベビーターン(ストーリーじょうは「せかけ」であった可能かのうせいたかい)。バティスタ世界せかい王座おうざいどんだりタッグをむなどしていた。また、親友しんゆうになったあかしとして、バティスタからローライダーがおくられ、それにっての入場にゅうじょうシーンが復活ふっかつした。生涯しょうがい最後さいご試合しあいは11月8にち収録しゅうろくどう11にち放送ほうそうのスマックダウンでケン・ケネディせんで、パイプ椅子いすなぐられたふりをしての反則はんそくちをおさめた。

2005ねん11月13にち早朝そうちょう遠征えんせいさきミネアポリスのホテルで死去しきょ。38さいぼつ死因しいん動脈どうみゃく硬化こうかせい疾患しっかん

よく14にち収録しゅうろくされたRAWスマックダウン合同ごうどうスーパーショーは本来ほんらいのストーリーをすべ変更へんこうし、エディの追悼ついとう大会たいかいとなった。テレビでは放送ほうそうされなかっただい1試合しあい終了しゅうりょうにWWE所属しょぞくぜんレスラーがタイタントロン集合しゅうごうし、WWEオーナーであるビンス・マクマホン弔辞ちょうじともに、追悼ついとうの10カウントゴングをおこなった。その最中さいちゅう、カメラが会場かいじょう観客かんきゃくやレスラーの様子ようすうつしており、母親ははおやむね号泣ごうきゅうする子供こども映像えいぞうや、TVではけっしてせることが屈強くっきょうなレスラーたちなみだなが姿すがたうつされた。10カウントゴング、エディの追悼ついとうビデオがながされ、観客かんきゃくからは「Thank you, Eddie」(ありがとう、エディ)と声援せいえんがあがり、故人こじん冥福めいふくいのった。

エディの死後しご

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エディの死後しご、スマックダウンのバックステージはおおきなあなひらいたようにさびしくなったという。親友しんゆうだったクリス・ベノワ、兄弟きょうだい同然どうぜんなかだったレイ・ミステリオ・ジュニア、おいであるチャボ・ゲレロ・ジュニアなどがエディへのリスペクトとして、かれわざ(フロッグ・スプラッシュやスリーアミーゴズ)を相手あいてにかけると、客席きゃくせきからは「エディ!エディ!」とれんばかりの歓声かんせいがるという現象げんしょうこった。

2006ねん2がつ4にち5にちのスマックダウン横浜よこはまアリーナ大会たいかいでも日本にっぽんのファンはエディの功績こうせきとなえ、おおくの歓声かんせいがり、事実じじつじょう追悼ついとう大会たいかいとなった。また、この衝撃しょうげきけたタジリ自主じしゅてき退団たいだんしている。

2006ねん1がつには、エディの地元じもとであるテキサスしゅうエルパソから地元じもと発展はってん貢献こうけんしたとのことで市民しみん栄誉えいよしょう受賞じゅしょうし、ヴィッキーがしょうった。さらに、同年どうねん4がつ、これまでの功績こうせきとなえられWWE殿堂でんどうむかえられた(プレゼンターはチャボ、ベノワ、ミステリオ)。

さらに日本にっぽん団体だんたいでも、しん日本にっぽんプロレスなどで追悼ついとうムードがたかまり、かく団体だんたいでは10カウント・ゴングがらされた。全日本ぜんにほんプロレス11月20にち後楽園こうらくえん大会たいかいではディーロ・ブラウンがエディしきローダウンとしょうしてフロッグ・スプラッシュを、だい日本にっぽんプロレス11月22にち後楽園こうらくえん大会たいかいではMASADAGENTAROが、スリーアミーゴズとフロッグ・スプラッシュをそれぞれ披露ひろうした。

得意とくいわざ

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フロッグ・スプラッシュ
フロッグ・スプラッシュ
本家ほんけであったアート・バー(ラブ・マシーン)からいだ必殺ひっさつわざ。トップロープからの屈伸くっしんしきのダイビング・ボディ・プレス。
ラソ・フロム・エルパソ
変形へんけいレッグロックや変形へんけいテキサスクローバーホールドとう、そのときによってかたまったちがっていた。本来ほんらいラソとはメキシカンレスラーが使つかボストンクラブ自身じしんかたひざ相手あいてこし支点してんにしてげるわざで、2002ねんごろ一時期いちじきのみフィニッシュムーブだったが、2005ねんにヒールターンした直後ちょくご使用しようはじめた。
フランケンシュタイナー相手あいてをマットにたたきつけ、相手あいて両足りょうあし交差こうささせて右足みぎあしでまたいでマットにたおみ、相手あいて両足りょうあし自身じしん両足りょうあしはさんでよこ方向ほうこうころがし、相手あいて右足みぎあしわきかかえてアキレス腱あきれすけんしぼげる。
フランケンシュタイナー相手あいてをマットにたたきつけ、自身じしんころがしてがり、相手あいて両足りょうあし交差こうささせてのぎゃくエビがために移行いこうする。3種類しゅるい使用しよう
スリー・アミーゴス
3連続れんぞく高速こうそくブレーンバスター。2003ねんごろから使用しよう。ここからフロッグスプラッシュにつなぐのがかれ必勝ひっしょうパターンだった。マレンコはクリス・ベノワ追悼ついとうインタビューのさい、スリーの意味いみたんなる数字すうじてき意味合いみあいではなく「エディ・ベノワ・マレンコ」という友人ゆうじんあいだでの意味合いみあいだった、と供述きょうじゅつしている。
追悼ついとう大会たいかいでは、チャボ・ゲレロ・ジュニアがこのわざ使用しようして叔父おじエディへささげた。日本にっぽんでも田口たぐちたかしゆう新日本しんにほん)、さとAEW)が使用しようしている。
BTボム(ブラック・タイガー・ボム)
女子じょしプロレスラーダイナマイト・関西かんさい必殺ひっさつわざスプラッシュマウンテン」と同系どうけいわざ。ブラック・タイガー時代じだいのフィニッシュムーブ。ザ・グレート・サスケ雪崩なだれしき見舞みまおうとしたとき、ウラカン・ラナかえされ、失神しっしんしてしまったことがある。ちょう重量じゅうりょうきゅうおおいWWEでは、軽量けいりょうのエディがかかげられるレスラーがかぎられているため、軽量けいりょう相手あいてすうかい使用しようしたのみである。
スイングDDT
しん日本にっぽん在籍ざいせきのブラック・タイガー時代じだい得意とくいわざ。コーナーじょうからだけでなくはしんで仕掛しかけることもあった。
垂直すいちょく落下らっかしきブレーンバスター
おなじくしん日本にっぽん在籍ざいせきのブラック・タイガー時代じだい使用しようしていた。上記じょうきスリーアミーゴスの要領ようりょうわざけたのちがり、連発れんぱつ見舞みまこともあった。
WWEではあたまからとすわざ規制きせいがかかるため使用しようしていない。
スプリングボード・ハリケーン・ラナ
相手あいてうでねじってロープをがり反転はんてんしつつ跳躍ちょうやくして旋回せんかいしきのコルバタを見舞みまう。
ゴリー・スペシャル
ちちゴリーが発明はつめいしたゲレロ代表だいひょうするわざ本人ほんにんいわだい一番いちばんでしか使用しようしなかった。
「ズルしていただき」
わざではなくエディの「レフェリーをあざむ勝利しょうりる」ファイトスタイルをしょうする言葉ことば
れい最後さいご試合しあいとなったケン・ケネディせんでは、試合しあいまれたレフェリーがダウンしているあいだに、パイプイスをみケネディを攻撃こうげきしようとしたがレフェリーが回復かいふくきざしをせたため、パイプイスでキャンバスをたたくとそのままそのパイプイスをケネディにわたし、自身じしんはリングにたおれこみながらパイプイスをっているケネディを指差ゆびさしながらかれ反則はんそくをアピールした。これをたレフェリーは、ケネディが反則はんそく攻撃こうげきおこなったと誤認ごにんしてエディを反則はんそくちとした。

入場にゅうじょうきょく

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  • Radicalz
  • Viva La Raza
  • Lie Cheat Steal
  • Latino Heat
  • Crackin

タイトルれき

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WWE
ECW
WCW
AAA
  • AAA殿堂でんどう
しん日本にっぽんプロレス
ワールド・レスリング・オールスターズ
  • WWA世界せかいクルーザーきゅう王座おうざ : 1かい
ワールド・レスリング・アソシエーション
ラテン・アメリカン・レスリング・アソシエーション
  • LAWA ヘビーきゅう王座おうざ : 1かい
プロ・レスリング・フェデレーション
IWAミッドサウス

その

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  • 2004ねんにはWWE王座おうざ獲得かくとくにより、WWE史上しじょう5にんグランドスラム達成たっせい
  • エディのこれまでの功績こうせきとなえてつくられたトリビュート・ビデオには3ドアーズ・ダウンの"Here Without You" や Boyce Avenueの"Hear Me Now"、追悼ついとうビデオにはスティービー・ワンダーの"Lately"が使つかわれた。
  • 2006ねん、これまでの功績こうせきとなえられWWE殿堂でんどうりをたした。
  • 試合しあいはこびやパンプがたくみで、エディ自身じしんうごきもスピーディーであったことから、日本にっぽん米国べいこくわずレスラー仲間なかまからも信頼しんらい尊敬そんけいあつめていた。
  • 以前いぜんにTAKAみちのくが「世界せかい一番いちばんはやいレスラー」としょうしたことがある。またタジリ本人ほんにんまえにしながら、「身体しんたいちいさいけれどプロレスの神様かみさま」、CIMAもかつてWCWに参戦さんせんしたころかれて「これは世界せかい最高峰さいこうほうだ」とかんじたとインタビューでかたっている。
  • エディはシナともふか親友しんゆう関係かんけいがあり、二人ふたりでシンガポールにかけたこともある。
  • リングじょうではあかるくおちゃらけたキャラクターだったが、実際じっさいには物静ものしずかでシャイな性格せいかくであった。アルコールや薬物やくぶつなどの問題もんだいもあり、複雑ふくざつ心理しんり状態じょうたいかかえていたとおもわれる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Eddie Guerrero”. Wrestlingdata.com. 2016ねん2がつ2にち閲覧えつらん
  2. ^ Guerrero Family”. Online World of Wrestling. 2016ねん4がつ26にち閲覧えつらん
  3. ^ その名残なごりかドミニク自身じしんもエディのフェイバリットわざであるスリー・アミーゴスやフロッグ・スプラッシュを使つかっている。

外部がいぶリンク

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