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エリザベス・アン・シートン

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひじりエリザベス・アン・シートン
学校がっこう修道院しゅうどういん設立せつりつしゃ教育きょういく
生誕せいたん (1774-08-28) 1774ねん8がつ28にち
イギリス帝国ていこく
ニューヨーク州 ニューヨークしゅう
ニューヨーク
死没しぼつ 1821ねん1がつ4にち(1821-01-04)(46さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
メリーランド州 メリーランドしゅう
エミツバーグ
崇敬すうけいする教派きょうは カトリック教会きょうかい 米国べいこくせい公会こうかい (アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)
れつぶく 1963ねん3がつ7にち
れつぶく決定けっていしゃ ひじりヨハネ23せい
列聖れっせい 1975ねん9がつ14にち
列聖れっせい決定けっていしゃ 教皇きょうこうパウロ6せい
主要しゅよう聖地せいち ひじりエリザベス・アン・シートンだい聖堂せいどう メリーランドしゅうエミツバーグ (埋葬まいそう)
ひじりエリザベス・アン・ベイリー・シートン聖堂せいどう ニューヨーク (住居じゅうきょ跡地あとち)
記念きねん 1がつ4にち
守護しゅご対象たいしょう カトリックけい学校がっこう
ルイジアナしゅうシュリーブポート
メリーランドしゅう
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エリザベス・アン・ベイリー・シートンえいElizabeth Ann Bayley Seton 1774ねん8がつ28にち - 1821ねん1がつ4にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく最初さいしょカトリックけい女学校じょがっこうメリーランドしゅうエミツバーグ英語えいごばん設立せつりつし、また、おなじく同国どうこく最初さいしょ修道しゅうどうおんな共同きょうどうたいとなる「あいとく修道しゅうどうおんなかい(the Sisters of Charity)」を設立せつりつした人物じんぶつ1975ねん9月14にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくまれの国民こくみんとしてはじめて列聖れっせいされ、聖人せいじんとなる[1] [2]

生涯しょうがい

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幼少ようしょう

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エリザベスは1774ねん8がつ28にちニューヨーク社会しゃかいてき著名ちょめい夫妻ふさいのリチャード・ベイリー博士はかせとキャサリン・チャールトンの2番目ばんめ子供こどもとしてまれた[3]。ベイリーおよびキャサリンの一族いちぞくは、ニューヨーク区域くいきでは初期しょきヨーロッパからの移住いじゅうみんである。エリザベスの父親ちちおや両親りょうしんフランスじんで、カルヴァンプロテスタント教徒きょうと(ユグノー)であり、ニューヨークしゅうのニューロシェルにんでいた。

父親ちちおやのベイリー博士はかせはニューヨーク衛生えいせい管理かんりかんたちのちょうとして、ふねニューヨークわんのスタテンとう上陸じょうりくする移民いみんたちを世話せわすることに専念せんねんした。黄熱病おうねつびょうがこのまちおそったときにも、それと同様どうようにニューヨークの住民じゅうみんたちを看病かんびょうした(黄熱病おうねつびょうは、1785ねんに4ヵ月かげつで700にんもの死者ししゃしている。)[4]。ベイリー博士はかせのちコロンビア大学ころんびあだいがく最初さいしょ解剖かいぼうがく教授きょうじゅとして奉職ほうしょくした[5]。エリザベスの母親ははおやイングランド国教こっきょうかい司祭しさいむすめである。この司祭しさい・エリザベスの祖父そふは、ニューヨークのスタテンとうにあるひじりアンドリュー教会きょうかいせいアンデレ教会きょうかい)で30年間ねんかん教会きょうかい主管しゅかんしゃつとめた。つまりエリザベスは、(アメリカ独立どくりつ革命かくめい以後いごせい公会こうかい環境かんきょうそだてられたのである。

1777ねん、エリザベスが3さいとき母親ははおやのキャサリンが逝去せいきょした。その死因しいん一番いちばん子供こども出産しゅっさん起因きいんするとかんがえられている。母親ははおやのキャサリンがんだ翌年よくねんはじめ、エリザベスの父親ちちおやのこされた2人ふたり子供こども母親ははおやあたえようとして、シャーロット・アメリア・バークレイと結婚けっこんした。彼女かのじょはジェコブス・ジェームズ・ルーズベルト一員いちいんだった。このあたらしい母親ははおやは、教会きょうかい社会しゃかい奉仕ほうし活動かつどう参加さんかしており、奉仕ほうし巡回じゅんかいとして自分じぶんまずしいひといえ訪問ほうもんもの必要ひつよう物資ぶっしあたえるときに、おさないエリザベスをれてった。

エリザベス・アン・シートン アップルトン

キャサリンのちち継母けいぼあいだには5にん子供こどもができたが、この夫婦ふうふ離婚りこんする結末けつまつとなった。結婚けっこん生活せいかつたんしたとき継母けいぼであるキャサリンは、エリザベスとあね拒絶きょぜつした。するとエリザベスのちちさらなる医学いがく研究けんきゅうのため、ロンドンに旅立たびだった。そのため、エリザベスとそのあねは、一時いちじてき父方ちちかたのおじであるウィリアム・ベイリー、そのつまサラ・ペル・ベイリーとともニューロシェルらすことになった。

エリザベスは暗闇くらやみつつまれたこの期間きかん経験けいけんしたし、二人ふたりははうしなってかんじた喪失そうしつかんが、のちにエリザベスの日記にっきあらわれている。これらの日記にっきには、自然しぜんそして音楽おんがくとくにピアノにたいする彼女かのじょ愛情あいじょうんだほんからのおりの一節いっせつ、それとおなじように、宗教しゅうきょうてき情熱じょうねつ内観ないかん黙想もくそうこのんだことがかれている。 エリザベスは流暢りゅうちょうフランス語ふらんすご使つか素晴すばらしい演奏えんそうしゃ努力どりょく乗馬じょうば騎手きしゅでもあった[6]

結婚けっこん母親ははおやとして

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1794ねん1がつ25にちにエリザベスは19さいでウィリアム・マギー・シートンと結婚けっこんした。ウィリアムは25さいで、裕福ゆうふく輸入ゆにゅう貿易ぼうえきいとな実業じつぎょうだった。ニューヨークで最初さいしょ英国えいこく国教こっきょうかい主教しゅきょうとなったサミュエル・プロヴォスト英語えいごばんが、二人ふたり結婚けっこん挙式きょしきした[7]

エリザベスのおっとウィリアムの父親ちちおやであるウィリアム・シートンは まずしいが由緒ゆいしょただしいスコットランドのいえだしであり、1758ねんにニューヨークへ移民いみんし、ニュージャージーしゅうのリングウッドでてつ工場こうじょう監督かんとく協同きょうどう所有しょゆうしゃとなった。ロイヤリストであり、ニューヨークしゅう・ニューヨークにおける最後さいご英国えいこく王室おうしつ公証こうしょうじんであった。自分じぶん息子むすこたち、ウィリアム(エリザベスのおっと)とジェームスを輸出入ゆしゅつにゅう貿易ぼうえきいとな商社しょうしゃ、ウィリアム・シートンしゃれた。この会社かいしゃは1793ねんにシートン・マイトランドしゃとなった。エリザベスのおっとウィリアムは、1788ねんにヨーロッパの有力ゆうりょく会計かいけい事務所じむしょ訪問ほうもんした。またイタリアのリボルノで著名ちょめい商人しょうにんのフィリッポ・フィリッチと友人ゆうじんとなり、かれ会社かいしゃしょう取引とりひきおこない、ストラディバリウスのバイオリンをアメリカにもたらした[4]

ウィリアムとエリザベスが結婚けっこんしてあいだもなく、この夫婦ふうふウォール・ストリート瀟洒しょうしゃまいにした。ニューヨークの社交しゃこうかいでは著名ちょめいになり、シートンはブロードウェイやウォール・ストリートのちかくにあるせい公会こうかいけい教会きょうかいぞくした。敬虔けいけん信者しんじゃだったエリザベスはのち主教しゅきょうとなったジョン・ヘンリー・ホバート英語えいごばん霊的れいてき指導しどうしゃとした。義理ぎり姉妹しまいで、最愛さいあいなるしんからの友人ゆうじん・レベッカ・メアリー・シートンとともに、エリザベスは継母けいぼ慈善じぜん事業じぎょういだ。この事業じぎょう病人びょうにんむかえる人々ひとびと親身しんみになって看病かんびょうするものだった。エリザベスは父親ちちおやから影響えいきょうけ、1797ねんちいさな子供こども未亡人みぼうじん救援きゅうえんする団体だんたい特別とくべつ会員かいいんとなり、その団体だんたい会計かいけいがかりとして奉仕ほうしした[8]

エリザベスのおっと父親ちちおやくなったとき、シートン運命うんめいは1812ねんべいえい戦争せんそうまえ不安定ふあんてい経済けいざい情勢じょうせいにより下降かこうせんをたどりはじめた。エリザベスとおっとウィリアムのあいだには、アンナ・メアリー、ウィリアム2せい、リチャード、キャサリン、レベッカ・メアリーの5にん子供こどもたちがいたが、エリザベスのおっと・ウィリアムにはしたに7さいから17さいまでのおとうといもうとが6にんいて、夫妻ふさいかれらをり、夫妻ふさい子供こどもたち5にんかれらがくわわることとなった[6]。このことから、エリザベスは、おおきな邸宅ていたくうつ必要ひつようがあった。

未亡人みぼうじん時代じだい そして カトリック教会きょうかいへのかえりただし

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シートン一家いっか住居じゅうきょあと エリザベスをとなえ、ロザリオの聖母せいぼ教会きょうかい敷地しきちないてられている。隣接りんせつするのはジェームズ・ワトソン・ハウス

1798ねんから1800ねんにかけて擬似ぎじ戦争せんそうが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく革命かくめいフランスとのあいだ勃発ぼっぱつした。この戦争せんそうによって、アメリカの輸送ゆそうせん一連いちれん打撃だげきけた。エリザベスのおっと、ウィリアム・シートンは、海上かいじょう船舶せんぱくすうせきうしない、イギリスのフランス封鎖ふうさもあって破産はさんいやられ、シートン一家いっかマンハッタン南端なんたんにあったいえうしなった[7]

そのつぎなつ、エリザベスと子供こどもたちはエリザベスの父親ちちおやもと滞在たいざいした。エリザベスのちちはその当時とうじ、まだニューヨークこうのスタテンとう衛生えいせい管理かんりかんつとめていた。1801ねんから1803ねんにかけて、シートン一家いっかは8ステート・ストリートにあるいえらした。ここは現在げんざい、ロザリオの聖母せいぼ教会きょうかい(1964ねん建造けんぞう)の敷地しきちである。エリザベスのおっと、ウィリアム・シートンは、結婚けっこん生活せいかつのほぼ大半たいはん肺結核はいけっかくんでおり、ストレスによりやまいをさらに悪化あっかしたため、主治医しゅじいたちはウィリアムをあたたかい気候きこうのイタリアにおくり、エリザベスとその長女ちょうじょはウィリアムに同行どうこうした。イタリアのレグホンみなと到着とうちゃくすると同時どうじに、いちぎょうは1ヵ月かげつあいだ隔離かくりされた。これは、現地げんち当局とうきょくがニューヨークから黄熱病おうねつびょうまれるかもしれないとおそれたためである。ウィリアムは1803ねん12月27にち逝去せいきょ[5]、イタリアのリボルノに埋葬まいそうされた。

エリザベスは、むすめのアンナ・メアリーとともに、おっと晩年ばんねんイタリアでのビジネス・パートナーの家族かぞくたちにれられた。そしてこのイタリアの人々ひとびとたちがエリザベスをカトリック教会きょうかいみちびくこととなる。

1805ねん3月14にち未亡人みぼうじんとなったエリザベスはニューヨークへもどるとすぐに、ニューヨークにあるひじりパウロカトリック教会きょうかい司祭しさいマシュー・オブライエンにより、カトリック教会きょうかいへのかえりただしみとめられた。その教会きょうかいは、ニューヨークでたったひとつのカトリック教会きょうかいであった[8]はんカトリックほうがそのすうねんまえ撤廃てっぱいされた)。すうねん、エリザベスはけんしん秘跡ひせきボルチモアのジョン・キャロル司教しきょうからけた。この司教しきょう当時とうじ、アメリカで唯一ゆいいつのカトリック教会きょうかい司教しきょうだった。

エリザベスは、みずからの生活せいかつ子供こどもたちをやしなうため、わか女性じょせいのための学校がっこうひらいた。このように学校がっこうひらくのは、当時とうじ社会しゃかいてき地位ちい未亡人みぼうじんがよくおこなうことであったが、エリザベスがカトリック教会きょうかいかえりただしたことが周囲しゅういわたると、だい部分ぶぶん人々ひとびと自分じぶんむすめをエリザベスの学校がっこうからげた。エリザベスは、1807ねんには、地元じもとプロテスタントけい学校がっこうかよっている生徒せいとたちを、マンハッタンとうのスタイフェサント路地ろじひじりマルコ教会きょうかいちかくにあった自宅じたく下宿げしゅくせいとしてれていた[9]

エリザベスが せいスルピスかい所属しょぞくのカトリック司祭しさい、ルイス・ウィリアム・ヴァレンタイン・デュプールったのは、エリザベスがカナダ移住いじゅうしようしていたそのときであった。ルイスはフランスからの移民いみんせいスピルスかい司祭しさいたちのコミュニティの一員いちいんであり、セント・メアリー大学だいがく学長がくちょうだった。この時代じだいにフランスでは、カトリックにたいする恐怖きょうふ政治せいじおこなわれていたが、そのためせいスピルスかいたちはフランスからアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく亡命ぼうめいし、このくに最初さいしょのカトリックによる学校がっこう設立せつりつしようしていた。デュプールすう年間ねんかん修道院しゅうどういん経営けいえい学校がっこう構想こうそうしていた。これはちいさなカトリック・コミュニティをこのくにくことが必要ひつようだということに直面ちょくめんしたからである[8]

女性じょせい学校がっこう創立そうりつしゃとして

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エリザベスは、すう年間ねんかんいくつかの試行錯誤しこうさくごつづけ、困難こんなん年月としつきごしたが、それでも彼女かのじょ努力どりょくつづけた。その、エリザベスは1809ねんせいスルピスかいからさそわれ、メリーランドのエミスバーグに移住いじゅうした。いちねんにエリザベスはセント・ジョゼフス・アカデミー・アンド・フリー・スクール(Saint Joseph's Academy and Free School:せいヨゼフ学園がくえん自由じゆう学校がっこう)を設立せつりつした。これはカトリックの女子じょし教育きょういく専心せんしんした学校がっこうだった。財政ざいせいてき支援しえんは、資産しさんでカトリックへのかえりせいしゃだったサミュエル・サザーランド・コッパーがけた。この当時とうじ、セント・メアリー大学だいがくがジョン・デュボイスときよしスピルスかいたちによって設立せつりつされた。サミュエルはこの大学だいがく学生がくせいでもあった[5]

このとし7がつ31にちエリザベスはエミスバーグにまずしい子供こどもたちを世話せわすることを目的もくてきとした共同きょうどうたい設立せつりつした。アメリカで最初さいしょ設立せつりつされた修道しゅうどうおんな共同きょうどうたいで、この共同きょうどうたいによる学校がっこうはアメリカで最初さいしょてられた無料むりょうのカトリック学校がっこうだった。この学校がっこうひかえめに開講かいこうされたが、アメリカでのカトリック教区きょうくによる学校がっこう組織そしき先駆せんくとして注目ちゅうもくされた[10]

この共同きょうどうたいは、当初とうしょせいヨセフあいとく修道しゅうどうおんなかいばれた。ここからエリザベスは「マザー・シートン」[11]とよばれるようになった。この修道しゅうどうおんなたちはフランスのあいとく姉妹しまいかいせいビンセンシオ・ア・パウロによる会則かいそくしたがった[10]

晩年ばんねん死去しきょ

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エリザベスの晩年ばんねんは、このあたらしい共同きょうどうたいみちびき、発展はってんさせることについやされた。エリザベス、マザー・シートンはチャーミングで教養きょうようある婦人ふじんとしてえがかれた。エリザベスは宗教しゅうきょうてき使命しめいにより慈善じぜん活動かつどうおこな決心けっしんをしたとき、エリザベスがつニューヨーク社交しゃこうかい人脈じんみゃくみずからきずきあげたあたらしい生活せいかつたいする社会しゃかいてきあつりょくにより、この決心けっしんおもとどまることはなかった。は。おこな使命しめいみずかつくげた彼女かのじょ自身じしんあたらしい生活せいかつはなれることへの社会しゃかいてき圧力あつりょくともなうことは、けっして宗教しゅうきょうとしての彼女かのじょ仕事しごと慈善じぜん事業じぎょう任務にんむおこなうことをおもいとどまらせることはなかった。エリザベスが直面ちょくめんした最大さいだい困難こんなんは、誤解ごかいによる内面ないめんてきなもの、他人たにんとの葛藤かっとう二人ふたりむすめあいするひと、そして共同きょうどうたいわか修道しゅうどうおんなたちだった。

エリザベスは1821ねん1がつ4にちに46さい死去しきょした。死因しいん結核けっかくだった。エリザベスのはかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく・メリーランドしゅうひじりエリザベス・アン・シートンだい聖堂せいどうにある。

1830ねんまでに、エリザベスが創立そうりつした共同きょうどうたい修道しゅうどうおんなたちはとお西にしかい、シンシナティそしてニューオリンズで、孤児こじいん学校がっこう経営けいえいしていた[10]

遺産いさん

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聖堂せいどう看板かんばん
セント・レイモンズ墓地ぼちてられたひじりエリザベス・アン・シートンぞう

エリザベスは聖餐せいさん聖典せいてん、そして聖母せいぼマリアふか傾倒けいとうしていた。詩篇しへん23へんはエリザベスが生涯しょうがいとおしてこのんだいのりである。エリザベスは、きよしルイーズ・ド・マリヤックせいビンセンシオ・ア・パウロの精神せいしんれたいのりや奉仕ほうしをする女性じょせいだった。しかし ナポレオン戦争せんそうにより、フランスからの物資ぶっし禁輸きんゆとなり、フランスのあいとく姉妹しまいかいとの関係かんけいたれてしまった。エリザベスは、エミスバーグの共同きょうどうたいがフランスのあいとく姉妹しまいかい合流ごうりゅうし、アメリカにおける支部しぶとなることを構想こうそうしていた。これが実現じつげんするのは1850ねんはいってからである。

今日きょう、エミスバーグのせいヨセフあいとく修道しゅうどうおんなかいにその発祥はっしょう共同きょうどうたいが6つある。もととなったエミスバーグにある修道しゅうどうおんなたちの共同きょうどうたい現在げんざいあいとく姉妹しまいかい合流ごうりゅう)にくわえて、これらの共同きょうどうたいは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくではニューヨーク、オハイオしゅうシンシナティニュージャージーしゅう・コンベント・ステーション、ペンシルバニアしゅうグリーンズバーグカナダノバスコシアしゅうハリファックス所在しょざいしている。

メリーランドしゅう・エミスバーグにあるマザー・シートン学校がっこうは、セント・ジョゼフス・アカデミー・アンド・フリー・スクールがそのもととなっている。その校舎こうしゃは、もとにあった場所ばしょと1マイルもはなれておらず、ヴィンセンシアン系列けいれつ共同きょうどうたいにより経営けいえいされている[12]

フィリピンラスピニャス、BFリゾート・ヴィレッジには、エリザベス・シートンこうが1975ねん設立せつりつされた。このとしはエリザベスが列聖れっせいされたとしである。この学校がっこうはこのもっとおおきいカトリックこうである[13]。シートン家庭かてい学習がくしゅうこうヴァージニアしゅう拠点きょてんつカトリック教会きょうかい家庭かてい学習がくしゅうプログラムであり、ひじりエリザベス・シートンにちなんでそのをつけられた。

シートン・ホール単科大学たんかだいがく正式せいしき設立せつりつされたのが1856ねん9がつ1にちで、ニュージャージーしゅうニューアーク教区きょうく司教しきょう・ジェームス・ルーズベルト・ベイリー(セオドア・ルーズベルト大統領だいとうりょうのいとこでもある。)によって設立せつりつされた。かれはエリザベスのおいでもあり、叔母おばにちなんで命名めいめいした。

シートン・ヒルズこう (現在げんざいのシートン・ヒルズ大学だいがく)は、ひじりエリザベス・アン・シートンにちなんで命名めいめいされ、1885ねんあいとく修道しゅうどうおんなかいによって設立せつりつされ、現在げんざいでもペンシルバニアしゅう・グリーンバーグで、どうかいによって経営けいえいされている。

すうおおくのカトリック教会きょうかいがマザー・シートンにちなんで命名めいめいされているが、メリーランドしゅうのクロフトンには、1975ねん設立せつりつされたひじりエリザベス・アン・シートンしょう教区きょうく教会きょうかいがある。バルチモア大司教だいしきょうぞくし、おな管区かんくないにはエリザベスが設立せつりつしたセント・ジョゼフス・アカデミー・アンド・フリー・スクールがある[14]

ヴァージニアしゅう・マナサスのシートンこうもマザー・シートンにちなんでづけられた。にはテキサスしゅうひじりエリザベス・シートンカトリック教会きょうかいがある。

列聖れっせい

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オハイオしゅう・コロンブス、ひじりパトリック・カトリック教会きょうかいにあるひじりエリザベス・アン・シートン遺跡いせき標識ひょうしき 

エリザベス・アン・シートンは1963ねん3月17にち教皇きょうこうヨハネ23せいによって れつぶくされた。このとき教皇きょうこう演説えんぜつは「とてもちいさないえなかでも、そこは慈悲じひふかおこないをするのには十分じゅうぶんなスペースである。エリザベス・アン・シートンがアメリカにいたたねかみめぐみによりたいきなきに成長せいちょうした。」というものだった。[15]

1975ねん9がつ14にちには教皇きょうこうパウロ6せいによって 列聖れっせいされ、それをいわ式典しきてん[1]教皇きょうこう言葉ことばは「エリザベス・アン・シートンは、聖人せいじんであり、ひじりエリザベス・アン・シートンはアメリカじんである。わたしたちすべては特別とくべつよろこびをち、そして、聖人せいじんれきなか最初さいしょはなとして彼女かのじょ輩出はいしゅつした国土こくど国家こっかとなえ、このようにう。エリザベスシートンは、完全かんぜんにアメリカじんである!あなたの素晴すばらしいむすめよろこいわいなさい。彼女かのじょほこりにおもいなさい。そして彼女かのじょみのらせた遺産いさんをどのようにたもつか、その方法ほうほうっておくようにしなさい。」 [1]

ひじりエリザベス・アン・シートンの祝日しゅくじつ1がつ4にちである[16]

エリザベス・シートンは航海こうかいによる旅人たびびと保護ほご聖人せいじんである[17]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c Biography of St. Elizabeth Ann Seton”. National Shrine of St. Elizabeth Ann Seton. 2013ねん12月26にち閲覧えつらん
  2. ^ アメリカじんとしてはじめて聖人せいじんとなったのはフランシス・エグザビァ・キャブリニ英語えいごばんであるが、フランシスは移民いみんであった。フランシスは、現在げんざいイタリアロンバルディアしゅうローディけん当時とうじオーストリア帝国ていこく一部いちぶ)にあるサンタンジェロ・ロディジャーノまれ。
  3. ^ National Shrine of Saint Elizabeth Ann Seton|date=September 15, 2010 |work=The Seton Legacy|publisher=The National Shrine of Saint Elizabeth Ann Seton
  4. ^ a b Barkley, Elizabeth Bookser. "Elizabeth Ann Seton: A Profoundly Human Saint", St. Anthony Messenger, Francscan Media
  5. ^ a b c Randolph, Bartholomew. "St. Elizabeth Ann Seton." The Catholic Encyclopedia. Vol. 13. New York: Robert Appleton Company, 1912. 2 Jul. 2013
  6. ^ a b "Biography of Elizabeth Ann Seton", St. Elizabeth Ann Seton Roman Catholic Church, Crystal Lake, Illinois
  7. ^ a b Emmitsburgh Area Historical Society
  8. ^ a b c St. Elizabeth Ann Seton biography, Archdiocese of Baltimore
  9. ^ Corrigan, Michael, Augustine. Historical Records and Studies, Volume 2, United States Catholic Historical Society, New York, 1901, p.434
  10. ^ a b c "St. Elizabeth Ann Seton (1774 – 1821)", Seton Healthcare Family
  11. ^ 「マザー(Mother)」は女性じょせい修道院しゅうどういんちょう敬称けいしょう
  12. ^ Mother Seton School, Emmitsburg, Maryland
  13. ^ School History”. Elizabeth Seton School. 2015ねん9がつ14にち閲覧えつらん
  14. ^ "History", St. Elizabeth Ann Seton Catholic Parish
  15. ^ History: A Historical Perspective”. Three Bridges, New Jersey: St Elizabeth Ann Seton Parish. 2013ねん12月26にち閲覧えつらん
  16. ^ Foley O.F.M., Leonard. "St. Elizabeth Ann Seton", Saint of the Day, Lives, Lessons and Feast, (revised by Pat McCloskey O.F.M.), Franciscan Media
  17. ^ "St. Elizabeth Seton", Catholic Maritime News, Vol.75, Spring 2014, p.3

外部がいぶリンク

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