エリザベス・アン・ベイリー・シートン (英 えい :Elizabeth Ann Bayley Seton 1774年 ねん 8月 がつ 28日 にち - 1821年 ねん 1月 がつ 4日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく で最初 さいしょ のカトリック 系 けい 女学校 じょがっこう をメリーランド州 しゅう ・エミツバーグ (英語 えいご 版 ばん ) に設立 せつりつ し、また、同 おな じく同国 どうこく で最初 さいしょ の修道 しゅうどう 女 おんな の共同 きょうどう 体 たい となる「愛 あい 徳 とく 修道 しゅうどう 女 おんな 会 かい (the Sisters of Charity)」を設立 せつりつ した人物 じんぶつ 。1975年 ねん 9月14日 にち にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 生 う まれの国民 こくみん として初 はじ めて列聖 れっせい され、聖人 せいじん となる[ 1] [ 2] 。
エリザベスは1774年 ねん 8月 がつ 28日 にち にニューヨーク市 し で社会 しゃかい 的 てき に著名 ちょめい な夫妻 ふさい のリチャード・ベイリー博士 はかせ とキャサリン・チャールトンの2番目 ばんめ の子供 こども として生 う まれた[ 3] 。ベイリー及 およ びキャサリンの一族 いちぞく は、ニューヨーク区域 くいき では初期 しょき のヨーロッパ からの移住 いじゅう 民 みん である。エリザベスの父親 ちちおや の両親 りょうしん はフランス人 じん で、カルヴァン派 は のプロテスタント 教徒 きょうと (ユグノー )であり、ニューヨーク州 しゅう のニューロシェルに住 す んでいた。
父親 ちちおや のベイリー博士 はかせ はニューヨーク衛生 えいせい 管理 かんり 官 かん たちの長 ちょう として、船 ふね でニューヨーク湾 わん のスタテン島 とう に上陸 じょうりく する移民 いみん たちを世話 せわ することに専念 せんねん した。黄熱病 おうねつびょう がこの街 まち を襲 おそ った時 とき にも、それと同様 どうよう にニューヨークの住民 じゅうみん たちを看病 かんびょう した(黄熱病 おうねつびょう は、1785年 ねん に4ヵ月 かげつ で700人 にん もの死者 ししゃ を出 だ している。)[ 4] 。ベイリー博士 はかせ は後 のち にコロンビア大学 ころんびあだいがく で最初 さいしょ の解剖 かいぼう 学 がく の教授 きょうじゅ として奉職 ほうしょく した[ 5] 。エリザベスの母親 ははおや はイングランド国教 こっきょう 会 かい の司祭 しさい の娘 むすめ である。この司祭 しさい ・エリザベスの祖父 そふ は、ニューヨークのスタテン島 とう にある聖 ひじり アンドリュー教会 きょうかい (聖 せい アンデレ教会 きょうかい )で30年間 ねんかん 教会 きょうかい 主管 しゅかん 者 しゃ を務 つと めた。つまりエリザベスは、(アメリカ独立 どくりつ 革命 かくめい 以後 いご )聖 せい 公会 こうかい の環境 かんきょう で育 そだ てられたのである。
1777年 ねん 、エリザベスが3歳 さい の時 とき に母親 ははおや のキャサリンが逝去 せいきょ した。その死因 しいん は一番 いちばん 下 か の子供 こども の出産 しゅっさん に起因 きいん すると考 かんが えられている。母親 ははおや のキャサリンが死 し んだ翌年 よくねん の始 はじ め、エリザベスの父親 ちちおや は残 のこ された2人 ふたり の子供 こども に母親 ははおや を与 あた えようとして、シャーロット・アメリア・バークレイと結婚 けっこん した。彼女 かのじょ はジェコブス・ジェームズ・ルーズベルト家 か の一員 いちいん だった。この新 あたら しい母親 ははおや は、教会 きょうかい の社会 しゃかい 奉仕 ほうし 活動 かつどう に参加 さんか しており、奉仕 ほうし 巡回 じゅんかい として自分 じぶん が貧 まず しい人 ひと の家 いえ を訪問 ほうもん し食 た べ物 もの や必要 ひつよう 物資 ぶっし を与 あた える時 とき に、幼 おさな いエリザベスを連 つ れて行 い った。
エリザベス・アン・シートン アップルトン画 が
キャサリンの父 ちち と継母 けいぼ の間 あいだ には5人 にん の子供 こども ができたが、この夫婦 ふうふ は離婚 りこん する結末 けつまつ となった。結婚 けっこん 生活 せいかつ が破 は たんした時 とき 、継母 けいぼ であるキャサリンは、エリザベスと姉 あね を拒絶 きょぜつ した。するとエリザベスの父 ちち は更 さら なる医学 いがく 研究 けんきゅう のため、ロンドンに旅立 たびだ った。そのため、エリザベスとその姉 あね は、一時 いちじ 的 てき に父方 ちちかた のおじであるウィリアム・ベイリー、その妻 つま サラ・ペル・ベイリーと共 とも にニューロシェル で暮 く らすことになった。
エリザベスは暗闇 くらやみ に包 つつ まれたこの期間 きかん を経験 けいけん したし、二人 ふたり 目 め の母 はは を失 うしな って感 かん じた喪失 そうしつ 感 かん が、後 のち にエリザベスの日記 にっき に表 あらわ れている。これらの日記 にっき には、自然 しぜん ・詩 し そして音楽 おんがく 、特 とく にピアノに対 たい する彼女 かのじょ の愛情 あいじょう 、読 よ んだ本 ほん からのお気 き に入 い りの一節 いっせつ 、それと同 おな じように、宗教 しゅうきょう 的 てき な情熱 じょうねつ 、内観 ないかん や黙想 もくそう を好 この んだことが書 か かれている。
エリザベスは流暢 りゅうちょう なフランス語 ふらんすご の使 つか い手 て 、素晴 すば らしい演奏 えんそう 者 しゃ 、努力 どりょく 家 か の乗馬 じょうば の騎手 きしゅ でもあった[ 6] 。
1794年 ねん 1月 がつ 25日 にち にエリザベスは19歳 さい でウィリアム・マギー・シートンと結婚 けっこん した。ウィリアムは25歳 さい で、裕福 ゆうふく な輸入 ゆにゅう 貿易 ぼうえき を営 いとな む実業 じつぎょう 家 か だった。ニューヨークで最初 さいしょ に英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい の主教 しゅきょう となったサミュエル・プロヴォスト (英語 えいご 版 ばん ) が、二人 ふたり の結婚 けっこん を挙式 きょしき した[ 7] 。
エリザベスの夫 おっと ウィリアムの父親 ちちおや であるウィリアム・シートンは 貧 まず しいが由緒 ゆいしょ 正 ただ しいスコットランドの家 いえ の出 だし であり、1758年 ねん にニューヨークへ移民 いみん し、ニュージャージー州 しゅう のリングウッドで鉄 てつ 工場 こうじょう の監督 かんとく や協同 きょうどう 所有 しょゆう 者 しゃ となった。ロイヤリスト であり、ニューヨーク州 しゅう ・ニューヨーク市 し における最後 さいご の英国 えいこく 王室 おうしつ の公証 こうしょう 人 じん であった。自分 じぶん の息子 むすこ たち、ウィリアム(エリザベスの夫 おっと )とジェームスを輸出入 ゆしゅつにゅう 貿易 ぼうえき を営 いとな む商社 しょうしゃ 、ウィリアム・シートン社 しゃ に入 い れた。この会社 かいしゃ は1793年 ねん にシートン・マイトランド社 しゃ となった。エリザベスの夫 おっと ウィリアムは、1788年 ねん にヨーロッパの有力 ゆうりょく な会計 かいけい 事務所 じむしょ を訪問 ほうもん した。またイタリアのリボルノで著名 ちょめい な商人 しょうにん のフィリッポ・フィリッチと友人 ゆうじん となり、彼 かれ の会社 かいしゃ と商 しょう 取引 とりひき を行 おこな い、ストラディバリウス のバイオリンをアメリカにもたらした[ 4] 。
ウィリアムとエリザベスが結婚 けっこん して間 あいだ もなく、この夫婦 ふうふ はウォール・ストリート の瀟洒 しょうしゃ な住 す まいに引 ひ っ越 こ した。ニューヨークの社交 しゃこう 界 かい では著名 ちょめい になり、シートン家 か はブロードウェイやウォール・ストリートの近 ちか くにある聖 せい 公会 こうかい 系 けい の教会 きょうかい に属 ぞく した。敬虔 けいけん な信者 しんじゃ だったエリザベスは後 のち に主教 しゅきょう となったジョン・ヘンリー・ホバート (英語 えいご 版 ばん ) を霊的 れいてき な指導 しどう 者 しゃ とした。義理 ぎり の姉妹 しまい で、最愛 さいあい なる心 しん からの友人 ゆうじん ・レベッカ・メアリー・シートンと共 とも に、エリザベスは継母 けいぼ の慈善 じぜん 事業 じぎょう を引 ひ き継 つ いだ。この事業 じぎょう は病人 びょうにん や死 し を迎 むか える人々 ひとびと を親身 しんみ になって看病 かんびょう するものだった。エリザベスは実 み の父親 ちちおや から影響 えいきょう を受 う け、1797年 ねん に小 ちい さな子供 こども を持 も つ未亡人 みぼうじん を救援 きゅうえん する団体 だんたい の特別 とくべつ 会員 かいいん となり、その団体 だんたい の会計 かいけい 係 がかり として奉仕 ほうし した[ 8] 。
エリザベスの夫 おっと の父親 ちちおや が亡 な くなった時 とき 、シートン家 か の運命 うんめい は1812年 ねん ・米 べい 英 えい 戦争 せんそう 前 まえ の不安定 ふあんてい な経済 けいざい 情勢 じょうせい により下降 かこう 線 せん をたどり始 はじ めた。エリザベスと夫 おっと ウィリアムの間 あいだ には、アンナ・メアリー、ウィリアム2世 せい 、リチャード、キャサリン、レベッカ・メアリーの5人 にん の子供 こども たちがいたが、エリザベスの夫 おっと ・ウィリアムには下 した に7歳 さい から17歳 さい までの弟 おとうと ・妹 いもうと が6人 にん いて、夫妻 ふさい は彼 かれ らを引 ひ き取 と り、夫妻 ふさい の子供 こども たち5人 にん に彼 かれ らが加 くわ わることとなった[ 6] 。このことから、エリザベスは、大 おお きな邸宅 ていたく に移 うつ る必要 ひつよう があった。
未亡人 みぼうじん 時代 じだい そして カトリック教会 きょうかい への帰 かえり 正 ただし [ 編集 へんしゅう ]
シートン一家 いっか の住居 じゅうきょ 跡 あと エリザベスを称 とな え、ロザリオの聖母 せいぼ 教会 きょうかい 敷地 しきち 内 ない に建 た てられている。隣接 りんせつ するのはジェームズ・ワトソン・ハウス
1798年 ねん から1800年 ねん にかけて擬似 ぎじ 戦争 せんそう が、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく と革命 かくめい 後 ご のフランス との間 あいだ で勃発 ぼっぱつ した。この戦争 せんそう によって、アメリカの輸送 ゆそう 船 せん は一連 いちれん の打撃 だげき を受 う けた。エリザベスの夫 おっと 、ウィリアム・シートンは、海上 かいじょう で船舶 せんぱく を数 すう 隻 せき も失 うしな い、イギリス のフランス封鎖 ふうさ もあって破産 はさん に追 お いやられ、シートン一家 いっか はマンハッタン 南端 なんたん 部 ぶ にあった家 いえ を失 うしな った[ 7] 。
その次 つぎ の夏 なつ 、エリザベスと子供 こども たちはエリザベスの父親 ちちおや の元 もと に滞在 たいざい した。エリザベスの父 ちち はその当時 とうじ 、まだニューヨーク港 こう のスタテン島 とう で衛生 えいせい 管理 かんり 官 かん を務 つと めていた。1801年 ねん から1803年 ねん にかけて、シートン一家 いっか は8ステート・ストリートにある家 いえ で暮 く らした。ここは現在 げんざい 、ロザリオの聖母 せいぼ 教会 きょうかい (1964年 ねん 建造 けんぞう )の敷地 しきち である。エリザベスの夫 おっと 、ウィリアム・シートンは、結婚 けっこん 生活 せいかつ のほぼ大半 たいはん 、肺結核 はいけっかく を病 や んでおり、ストレスにより病 やまい をさらに悪化 あっか したため、主治医 しゅじい たちはウィリアムを暖 あたた かい気候 きこう のイタリアに送 おく り、エリザベスとその長女 ちょうじょ はウィリアムに同行 どうこう した。イタリア のレグホン港 みなと に到着 とうちゃく すると同時 どうじ に、一 いち 行 ぎょう は1ヵ月 かげつ 間 あいだ 、隔離 かくり された。これは、現地 げんち の当局 とうきょく がニューヨークから黄熱病 おうねつびょう を持 も ち込 こ まれるかもしれないと恐 おそ れたためである。ウィリアムは1803年 ねん 12月27日 にち に逝去 せいきょ し[ 5] 、イタリアのリボルノに埋葬 まいそう された。
エリザベスは、娘 むすめ のアンナ・メアリーと共 とも に、夫 おっと が晩年 ばんねん イタリアでのビジネス・パートナーの家族 かぞく たちに受 う け入 い れられた。そしてこのイタリアの人々 ひとびと たちがエリザベスをカトリック教会 きょうかい に導 みちび くこととなる。
1805年 ねん 3月14日 にち 、未亡人 みぼうじん となったエリザベスはニューヨークへ戻 もど るとすぐに、ニューヨークにある聖 ひじり パウロカトリック教会 きょうかい の司祭 しさい マシュー・オブライエン師 し により、カトリック教会 きょうかい への帰 かえり 正 ただし が認 みと められた。その教会 きょうかい は、ニューヨークでたった一 ひと つのカトリック教会 きょうかい であった[ 8] (反 はん カトリック法 ほう がその数 すう 年 ねん 前 まえ に撤廃 てっぱい された)。数 すう 年 ねん 後 ご 、エリザベスは堅 けん 信 しん の秘跡 ひせき をボルチモア のジョン・キャロル司教 しきょう から受 う けた。この司教 しきょう は当時 とうじ 、アメリカで唯一 ゆいいつ のカトリック教会 きょうかい の司教 しきょう だった。
エリザベスは、自 みずか らの生活 せいかつ と子供 こども たちを養 やしな うため、若 わか い女性 じょせい のための学校 がっこう を開 ひら いた。このように学校 がっこう を開 ひら くのは、当時 とうじ の社会 しゃかい 的 てき 地位 ちい を持 も つ未亡人 みぼうじん がよく行 おこな うことであったが、エリザベスがカトリック教会 きょうかい へ帰 かえり 正 ただ したことが周囲 しゅうい に知 し れ渡 わた ると、大 だい 部分 ぶぶん の人々 ひとびと が自分 じぶん の娘 むすめ をエリザベスの学校 がっこう から引 ひ き上 あ げた。エリザベスは、1807年 ねん には、地元 じもと プロテスタント系 けい の学校 がっこう に通 かよ っている生徒 せいと たちを、マンハッタン島 とう のスタイフェサント路地 ろじ 、聖 ひじり マルコ教会 きょうかい の近 ちか くにあった自宅 じたく に下宿 げしゅく 生 せい として受 う け入 い れていた[ 9] 。
エリザベスが 聖 せい スルピス会 かい 所属 しょぞく のカトリック司祭 しさい 、ルイス・ウィリアム・ヴァレンタイン・デュプール師 し に会 あ ったのは、エリザベスがカナダ へ移住 いじゅう しようしていたその時 とき であった。ルイス師 し はフランスからの移民 いみん で聖 せい スピルス会 かい 士 し 司祭 しさい たちのコミュニティの一員 いちいん であり、セント・メアリー大学 だいがく の学長 がくちょう だった。この時代 じだい にフランスでは、カトリックに対 たい する恐怖 きょうふ 政治 せいじ が行 おこな われていたが、そのため聖 せい スピルス会 かい 士 し たちはフランスからアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に亡命 ぼうめい し、この国 くに で最初 さいしょ のカトリックによる学校 がっこう を設立 せつりつ しようしていた。デュプール師 し は数 すう 年間 ねんかん 、修道院 しゅうどういん 経営 けいえい の学校 がっこう を構想 こうそう していた。これは小 ちい さなカトリック・コミュニティをこの国 くに に置 お くことが必要 ひつよう だということに直面 ちょくめん したからである[ 8] 。
エリザベスは、数 すう 年間 ねんかん いくつかの試行錯誤 しこうさくご を続 つづ け、困難 こんなん な年月 としつき を過 す ごしたが、それでも彼女 かのじょ は努力 どりょく し続 つづ けた。その後 ご 、エリザベスは1809年 ねん に聖 せい スルピス会 かい から誘 さそ われ、メリーランドのエミスバーグに移住 いじゅう した。一 いち 年 ねん 後 ご にエリザベスはセント・ジョゼフス・アカデミー・アンド・フリー・スクール(Saint Joseph's Academy and Free School:聖 せい ヨゼフ学園 がくえん と自由 じゆう 学校 がっこう )を設立 せつりつ した。これはカトリックの女子 じょし 教育 きょういく に専心 せんしん した学校 がっこう だった。財政 ざいせい 的 てき 支援 しえん は、資産 しさん 家 か でカトリックへの帰 かえり 正 せい 者 しゃ だったサミュエル・サザーランド・コッパーが引 ひ き受 う けた。この当時 とうじ 、セント・メアリー大学 だいがく がジョン・デュボイスと聖 きよし スピルス会 かい 士 し たちによって設立 せつりつ された。サミュエルはこの大学 だいがく の学生 がくせい でもあった[ 5] 。
この年 とし の7月 がつ 31日 にち エリザベスはエミスバーグに貧 まず しい子供 こども たちを世話 せわ することを目的 もくてき とした共同 きょうどう 体 たい を設立 せつりつ した。アメリカで最初 さいしょ に設立 せつりつ された修道 しゅうどう 女 おんな の共同 きょうどう 体 たい で、この共同 きょうどう 体 たい による学校 がっこう はアメリカで最初 さいしょ に建 た てられた無料 むりょう のカトリック学校 がっこう だった。この学校 がっこう は控 ひか えめに開講 かいこう されたが、アメリカでのカトリック教区 きょうく による学校 がっこう 組織 そしき の先駆 せんく として注目 ちゅうもく された[ 10] 。
この共同 きょうどう 体 たい は、当初 とうしょ 、聖 せい ヨセフ愛 あい 徳 とく 修道 しゅうどう 女 おんな 会 かい と呼 よ ばれた。ここからエリザベスは「マザー・シートン」[ 11] とよばれるようになった。この修道 しゅうどう 女 おんな たちはフランスの愛 あい 徳 とく 姉妹 しまい 会 かい の聖 せい ビンセンシオ・ア・パウロ による会則 かいそく に従 したが った[ 10] 。
エリザベスの晩年 ばんねん は、この新 あたら しい共同 きょうどう 体 たい を導 みちび き、発展 はってん させることに費 つい やされた。エリザベス、マザー・シートンはチャーミングで教養 きょうよう ある婦人 ふじん として描 えが かれた。エリザベスは宗教 しゅうきょう 的 てき 使命 しめい により慈善 じぜん 活動 かつどう を行 おこな う決心 けっしん をした時 とき 、エリザベスが持 も つニューヨーク社交 しゃこう 界 かい の人脈 じんみゃく 、自 みずか らき上 ずきあ げた新 あたら しい生活 せいかつ に対 たい する社会 しゃかい 的 てき な圧 あつ 力 りょく により、この決心 けっしん を思 おも い止 とど まることはなかった。は。行 おこな う使命 しめい 自 みずか ら作 つく り上 あ げた彼女 かのじょ 自身 じしん の新 あたら しい生活 せいかつ を離 はな れることへの社会 しゃかい 的 てき 圧力 あつりょく が伴 ともな うことは、決 けっ して宗教 しゅうきょう 家 か としての彼女 かのじょ の仕事 しごと と慈善 じぜん 事業 じぎょう の任務 にんむ を行 おこな うことを思 おも いとどまらせることはなかった。エリザベスが直面 ちょくめん した最大 さいだい の困難 こんなん は、誤解 ごかい による内面 ないめん 的 てき なもの、他人 たにん との葛藤 かっとう 、二人 ふたり の娘 むすめ の死 し 、他 た を愛 あい する人 ひと 、そして共同 きょうどう 体 たい の若 わか い修道 しゅうどう 女 おんな たちだった。
エリザベスは1821年 ねん 1月 がつ 4日 にち に46歳 さい で死去 しきょ した。死因 しいん は結核 けっかく だった。エリザベスの墓 はか はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ・メリーランド州 しゅう の聖 ひじり エリザベス・アン・シートン大 だい 聖堂 せいどう にある。
1830年 ねん までに、エリザベスが創立 そうりつ した共同 きょうどう 体 たい の修道 しゅうどう 女 おんな たちは遠 とお く西 にし へ向 む かい、シンシナティ そしてニューオリンズ で、孤児 こじ 院 いん や学校 がっこう を経営 けいえい していた[ 10] 。
聖堂 せいどう の看板 かんばん
セント・レイモンズ墓地 ぼち に建 た てられた聖 ひじり エリザベス・アン・シートン像 ぞう
エリザベスは聖餐 せいさん 、聖典 せいてん 、そして聖母 せいぼ マリア に深 ふか く傾倒 けいとう していた。詩篇 しへん 23篇 へん はエリザベスが生涯 しょうがい を通 とお して好 この んだ祈 いの りである。エリザベスは、聖 きよし ルイーズ・ド・マリヤック や聖 せい ビンセンシオ・ア・パウロの精神 せいしん を取 と り入 い れた祈 いの りや奉仕 ほうし をする女性 じょせい だった。しかし ナポレオン戦争 せんそう により、フランスからの物資 ぶっし は禁輸 きんゆ となり、フランスの愛 あい 徳 とく 姉妹 しまい 会 かい との関係 かんけい は絶 た たれてしまった。エリザベスは、エミスバーグの共同 きょうどう 体 たい がフランスの愛 あい 徳 とく 姉妹 しまい 会 かい と合流 ごうりゅう し、アメリカにおける支部 しぶ となることを構想 こうそう していた。これが実現 じつげん するのは1850年 ねん に入 はい ってからである。
今日 きょう 、エミスバーグの聖 せい ヨセフ愛 あい 徳 とく 修道 しゅうどう 女 おんな 会 かい にその発祥 はっしょう を持 も つ共同 きょうどう 体 たい が6つある。元 もと となったエミスバーグにある修道 しゅうどう 女 おんな たちの共同 きょうどう 体 たい (現在 げんざい は愛 あい 徳 とく 姉妹 しまい 会 かい と合流 ごうりゅう )に加 くわ えて、これらの共同 きょうどう 体 たい は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ではニューヨーク、オハイオ州 しゅう ・シンシナティ 、ニュージャージー州 しゅう ・コンベント・ステーション、ペンシルバニア州 しゅう ・グリーンズバーグ 、カナダ のノバスコシア州 しゅう ・ハリファックス に所在 しょざい している。
メリーランド州 しゅう ・エミスバーグにあるマザー・シートン学校 がっこう は、セント・ジョゼフス・アカデミー・アンド・フリー・スクールがその元 もと となっている。その校舎 こうしゃ は、元 もと にあった場所 ばしょ と1マイルも離 はな れておらず、ヴィンセンシアン系列 けいれつ の共同 きょうどう 体 たい により経営 けいえい されている[ 12] 。
フィリピン のラスピニャス 、BFリゾート・ヴィレッジには、エリザベス・シートン校 こう が1975年 ねん に設立 せつりつ された。この年 とし はエリザベスが列聖 れっせい された年 とし である。この学校 がっこう はこの市 し で最 もっと も大 おお きいカトリック校 こう である[ 13] 。シートン家庭 かてい 学習 がくしゅう 校 こう はヴァージニア州 しゅう に拠点 きょてん を持 も つカトリック教会 きょうかい の家庭 かてい 学習 がくしゅう プログラムであり、聖 ひじり エリザベス・シートンにちなんでその名 な をつけられた。
シートン・ホール単科大学 たんかだいがく は正式 せいしき に設立 せつりつ されたのが1856年 ねん 9月 がつ 1日 にち で、ニュージャージー州 しゅう ・ニューアーク 教区 きょうく の司教 しきょう ・ジェームス・ルーズベルト・ベイリー(セオドア・ルーズベルト 大統領 だいとうりょう のいとこでもある。)によって設立 せつりつ された。彼 かれ はエリザベスの甥 おい でもあり、叔母 おば にちなんで命名 めいめい した。
シートン・ヒルズ校 こう (現在 げんざい のシートン・ヒルズ大学 だいがく )は、聖 ひじり エリザベス・アン・シートンにちなんで命名 めいめい され、1885年 ねん に愛 あい 徳 とく 修道 しゅうどう 女 おんな 会 かい によって設立 せつりつ され、現在 げんざい でもペンシルバニア州 しゅう ・グリーンバーグで、同 どう 会 かい によって経営 けいえい されている。
数 すう 多 おお くのカトリック教会 きょうかい がマザー・シートンにちなんで命名 めいめい されているが、メリーランド州 しゅう のクロフトンには、1975年 ねん に設立 せつりつ された聖 ひじり エリザベス・アン・シートン小 しょう 教区 きょうく 教会 きょうかい がある。バルチモア大司教 だいしきょう 区 く に属 ぞく し、同 おな じ管区 かんく 内 ない にはエリザベスが設立 せつりつ したセント・ジョゼフス・アカデミー・アンド・フリー・スクールがある[ 14] 。
ヴァージニア州 しゅう ・マナサスのシートン校 こう もマザー・シートンにちなんで名 な づけられた。他 た にはテキサス州 しゅう に聖 ひじり エリザベス・シートンカトリック教会 きょうかい がある。
オハイオ州 しゅう ・コロンブス、聖 ひじり パトリック・カトリック教会 きょうかい にある聖 ひじり エリザベス・アン・シートン遺跡 いせき の標識 ひょうしき
エリザベス・アン・シートンは1963年 ねん 3月17日 にち 、教皇 きょうこう ヨハネ23世 せい によって 列 れつ 福 ぶく された。この時 とき 教皇 きょうこう 演説 えんぜつ は「とても小 ちい さな家 いえ の中 なか でも、そこは慈悲 じひ 深 ふか い行 おこな いをするのには十分 じゅうぶん なスペースである。エリザベス・アン・シートンがアメリカに蒔 ま いた種 たね は神 かみ の恵 めぐ みにより大 たい きなきに成長 せいちょう した。」というものだった。[ 15]
1975年 ねん 9月 がつ 14日 にち には教皇 きょうこう パウロ6世 せい によって 列聖 れっせい され、それを祝 いわ う式典 しきてん で [ 1] の教皇 きょうこう の言葉 ことば は「エリザベス・アン・シートンは、聖人 せいじん であり、聖 ひじり エリザベス・アン・シートンはアメリカ人 じん である。私 わたし たち全 すべ ては特別 とくべつ な喜 よろこ びを持 も ち、そして、聖人 せいじん 暦 れき の中 なか の最初 さいしょ の花 はな として彼女 かのじょ を輩出 はいしゅつ した国土 こくど と国家 こっか を称 とな え、このように言 い う。エリザベスシートンは、完全 かんぜん にアメリカ人 じん である!あなたの素晴 すば らしい娘 むすめ を喜 よろこ び祝 いわ いなさい。彼女 かのじょ を誇 ほこ りに思 おも いなさい。そして彼女 かのじょ が実 みの らせた遺産 いさん をどのように保 たも つか、その方法 ほうほう を知 し っておくようにしなさい。」 [ 1]
聖 ひじり エリザベス・アン・シートンの祝日 しゅくじつ は1月 がつ 4日 にち である[ 16] 。
エリザベス・シートンは航海 こうかい による旅人 たびびと の保護 ほご 聖人 せいじん である[ 17] 。
^ a b c “Biography of St. Elizabeth Ann Seton ”. National Shrine of St. Elizabeth Ann Seton. 2013年 ねん 12月26日 にち 閲覧 えつらん 。
^ アメリカ人 じん として初 はじ めて聖人 せいじん となったのはフランシス・エグザビァ・キャブリニ (英語 えいご 版 ばん ) であるが、フランシスは移民 いみん であった。フランシスは、現在 げんざい のイタリア のロンバルディア州 しゅう ローディ県 けん (当時 とうじ はオーストリア帝国 ていこく の一部 いちぶ )にあるサンタンジェロ・ロディジャーノ の生 う まれ。
^ National Shrine of Saint Elizabeth Ann Seton|date=September 15, 2010 |work=The Seton Legacy|publisher=The National Shrine of Saint Elizabeth Ann Seton
^ a b Barkley, Elizabeth Bookser. "Elizabeth Ann Seton: A Profoundly Human Saint", St. Anthony Messenger , Francscan Media
^ a b c Randolph, Bartholomew. "St. Elizabeth Ann Seton." The Catholic Encyclopedia. Vol. 13. New York: Robert Appleton Company, 1912. 2 Jul. 2013
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