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カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル

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カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル
Carl-Heinrich von Stülpnagel
1941ねん
生誕せいたん 1886ねん1がつ2にち
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく
ベルリン
死没しぼつ (1944-08-30) 1944ねん8がつ30にち(58さいぼつ
ナチス・ドイツの旗 ドイツこく
プロイセン自由じゆうしゅう
ベルリン
所属しょぞく組織そしき ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
ヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐん
ドイツ国防こくぼうぐん陸軍りくぐん
ぐんれき 1904ねん - 1944ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 大将たいしょう
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カール=ハインリヒ・ルドルフ・ヴィルヘルム・フォン・シュテュルプナーゲル(Carl-Heinrich Rudolf Wilhelm von Stülpnagel, 1886ねん1がつ2にち - 1944ねん8がつ30にち)は、ドイツ軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん歩兵ほへい大将たいしょう1944ねん7がつヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく加担かたんし、失敗しっぱいして処刑しょけいされた。

経歴けいれき

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ブランデンブルク名門めいもん貴族きぞくプロイセン王国おうこく軍人ぐんじんヘルマン・フォン・シュテュルプナーゲル中将ちゅうじょうと、男爵だんしゃく家出いえでははあいだに、ベルリンまれる。だいいち世界せかい大戦たいせん従軍じゅうぐんし、1914ねんだいきゅうだいいちきゅうてつじゅうあきら受章じゅしょう1916ねん荘園しょうえん所有しょゆうする男爵だんしゃく令嬢れいじょう結婚けっこんした。

陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶだいさん課長かちょう外国がいこく陸軍りくぐんおよび駐在ちゅうざい武官ぶかん担当たんとう[1]て、1938ねんから1940ねんのあいだ歩兵ほへい大将たいしょうとして陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ次長じちょうつとめる。だい世界せかい大戦たいせん初期しょきの1940ねん西方せいほう電撃でんげきせんフランス降伏ごうぶくすると、どくふつ停戦ていせん委員いいんかい委員いいんちょうを12月までつとめた。ついで1941ねん10がつまでだい17ぐん司令しれいかん

どくせん初期しょきの1941ねん7がつ1にち、シュテュルプナーゲルのだい17ぐんひがしガリツィアのリヴィウ占領せんりょうすると、ドイツのゲシュタポおよ親衛隊しんえいたい保安ほあん部隊ぶたい特務とくむグループ、ドイツぐん協力きょうりょくする外国がいこくじん志願しがんへい地元じもとウクライナじん市民しみんなどが同市どうしユダヤじん4000にん殺害さつがいした。ソビエト連邦れんぽうがわ発表はっぴょうによれば、このポグロムだい17ぐん司令しれい教唆きょうさによるもので、ナチス・ドイツ指導しどうもこの出来事できごとを「自浄じじょう作用さよう」と肯定こうていてき評価ひょうかしたという。シュテュルプナーゲル個人こじんがこの出来事できごとにどの程度ていどかかわっていたかはあきらかではない。ただしこのせつとなえているのはスターリン時代じだいプロパガンダのみで、史料しりょうのこっていない。

1941ねん11月、フランス軍政ぐんせい長官ちょうかんてんじ、パリ駐在ちゅうざいする[2]前任ぜんにん軍政ぐんせい長官ちょうかんオットー・フォン・シュテュルプナーゲルドイツばんとお親戚しんせきたる。

ヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく加担かたんするが、1944ねん7がつ20日はつか決行けっこうでは、シュテュルプナーゲルはパリのクーデターがわとして、SS兵士へいしや、カール・オーベルク親衛隊しんえいたい中将ちゅうじょうヘルムート・クノッヘン大佐たいさ逮捕たいほ成功せいこうし、日付ひづけわった7がつ20にち午前ごぜん0時点じてんで、SD職員しょくいん1200めい逮捕たいほ成功せいこうした[3]。しかし、結局けっきょくベルリンのクーデターは失敗しっぱいわり、SSの面子めんつのためにも、国防こくぼうぐんとのあいだでパリのクーデターは演習えんしゅうということにして片付かたづけられ、シュテュルプナーゲルは逮捕たいほされた[4][5]拳銃けんじゅう自殺じさつこころみて失敗しっぱいしシュテュルプナーゲルは、人民じんみん法廷ほうてい死刑しけい判決はんけつけ、ベルリン・プレッツェンゼーの監獄かんごく絞首刑こうしゅけいとなった[6]

エピソード

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1945ねん刊行かんこうされたエルンスト・ユンガー著書ちょしょ、『平和へいわ―ヨーロッパの青年せいねんへの言葉ことば世界せかい青年せいねんへの言葉ことば』の序文じょぶんにはシュテュルプナーゲルへの賛辞さんじべられている。本書ほんしょ元々もともと1941ねんかれ1943ねんにはほぼ全体ぜんたい完成かんせいしていたが、以前いぜんからナチにをつけられていたユンガーは出版しゅっぱん断念だんねんしており、国防こくぼうぐんにおけるかれ上司じょうしであったシュテュルプナーゲルはかれ原稿げんこう庇護ひごにつとめ、戦後せんご、ユンガーから「騎士きしてき人物じんぶつ」と称賛しょうさんされた。[7]

参考さんこう文献ぶんけん

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翻訳ほんやくもとドイツ語どいつごばんげられているもの)

  • Genealogisches Handbuch des Adels (GHdA), Adelige Häuser A Band XVIII, Seite 429, Band 87 der Gesamtreihe, C. A. Starke Verlag, Limburg (Lahn) 1985, ISSN 0435-2408.
  • Heinrich Bücheler: Carl-Heinrich von Stülpnagel, Soldat – Philosoph – Verschwörer. Ullstein, Berlin 1989, ISBN 3-550-07300-3.
  • Friedrich-Christian Stahl: General Karl-Heinrich von Stülpnagel; in: Gerd R. Ueberschär (へん): Hitlers militärische Elite. Von den Anfängen des Regimes bis Kriegsbeginn Bd. 1, Primus Verlag, Darmstadt 1998, ISBN 3-89678-083-2, Seite 240-247
  • Barbara Koehn: Carl-Heinrich von Stülpnagel: Offizier und Widerstandskämpfer, Eine Verteidigung. (Zeitgeschichtliche Forschungen 34), Duncker & Humblot, Berlin 2008, ISBN 978-3-428-12892-1.
  • グイド・クノップ しる高木たかぎれい わけ『ヒトラー暗殺あんさつ計画けいかく : ドキュメント』はら書房しょぼう、2008ねんISBN 978-456204143-5 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ カナリス防諜ぼうちょう部長ぶちょう推進すいしんしていたにちどく防共ぼうきょう協定きょうてい構想こうそうたいして、陸軍りくぐん主流しゅりゅう同様どうよう否定ひていてき立場たちばをとった。
  2. ^ クノップ(2008ねん、123ぺーじ
  3. ^ クノップ(2008ねん、315-317ぺーじ
  4. ^ クノップ(2008ねん、331ぺーじ
  5. ^ おなじく計画けいかく加担かたんしていたBぐん集団しゅうだん参謀さんぼうちょうハンス・シュパイデル裏切うらぎりにより逮捕たいほされたとするせつもある[1]
  6. ^ クノップ(2008ねん、332ぺーじ
  7. ^ 川合かわいちょんひろし (2016). 『ユンガー政治せいじ評論ひょうろんせん』. 月曜げつようしゃ. P,123

外部がいぶリンク

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