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クラスヌイ・スリン市 し の紋章 もんしょう
クラスヌイ・スリンのスヴェト=ポクロフスキー聖堂 せいどう (生神 うるかみ 女 おんな 庇護 ひご 聖堂 せいどう )
スリンスキー冶金 やきん 工場 こうじょう の門 もん
クラスヌイ・スリン (クラースヌイ・スリン、ロシア語 ご : Красный Сулин , Krasny Sulin)はロシア 南部 なんぶ のロストフ州 しゅう の都市 とし 。人口 じんこう は3万 まん 5697人 にん (2021年 ねん )[ 1] 。ウクライナ との国境 こっきょう に近 ちか い鉄 てつ 鉱山 こうざん と金属 きんぞく 工業 こうぎょう の町 まち である。州都 しゅうと ロストフ・ナ・ドヌ の北東 ほくとう 100キロメートルに位置 いち する。最寄 もよ りの都市 とし は元 もと 炭鉱 たんこう の町 まち であったシャフティ とノヴォシャフチンスク 。
ウクライナ 南東 なんとう 部 ぶ からロシアに伸 の びるドネツ丘陵 きゅうりょう の東麓 ひがしふもと にあり、ドネツ川 がわ の支流 しりゅう クンドリュチヤ川 がわ が流 なが れる。クラスヌイ・スリンは同名 どうめい の地区 ちく (クラスノスリンスキー地区 ちく )の行政 ぎょうせい 中心 ちゅうしん 地 ち でもある。
モスクワ ~ヴォロネジ ~ロストフ・ナ・ドヌ を結 むす ぶ鉄道 てつどう が通 とお り、鉄道 てつどう 駅 えき がある。町 まち の数 すう キロメートル東 ひがし には、モスクワからロストフ・ナ・ドヌを結 むす ぶロシア連邦 れんぽう 道路 どうろ M4 が通 とお る。
1797年 ねん 、コサック のアンドレイ・スリンが、今日 きょう のクラスヌイ・スリン市 し がある場所 ばしょ に村 むら を築 きず いた。
1860年代 ねんだい にはモスクワとロストフ・ナ・ドヌを結 むす ぶ鉄道 てつどう が村 むら の近 ちか くを通 とお って開通 かいつう した。この近 ちか くには鉄鉱 てっこう 床 ゆか があることから、1870年 ねん に鋳鉄 ちゅうてつ 所 しょ が作 つく られ(現在 げんざい のスリンスキー冶金 やきん 工場 こうじょう )、労働 ろうどう 者 しゃ 集落 しゅうらく が築 きず かれた。1870年代 ねんだい にはコサックのスリン村 むら と労働 ろうどう 者 しゃ 集落 しゅうらく がともに拡大 かくだい し、1917年 ねん の十 じゅう 月 がつ 革命 かくめい までにスリン村 むら とその周囲 しゅうい の村 むら の人口 じんこう は1万 まん 8千 せん 人 にん を数 かぞ えた。1920年代 ねんだい 、スリン村 むら は共産 きょうさん 主義 しゅぎ の高 たか まりの中 なか で「赤 あか い」を意味 いみ する「クラースヌイ」という形容詞 けいようし をつけて呼 よ ばれるようになり、1926年 ねん にはクラスヌイ・スリンの名 な で市 し に昇格 しょうかく した。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん (大 だい 祖国 そこく 戦争 せんそう )時 じ には、1942年 ねん 7月 がつ 21日 にち にドイツ軍 ぐん に占領 せんりょう され、1943年 ねん 2月 がつ 14日 にち にヴォロシロフグラード(現在 げんざい のルハーンシク )へ向 む かう赤軍 せきぐん 南西 なんせい 戦線 せんせん により奪還 だっかん された。
戦後 せんご は金属 きんぞく 工業 こうぎょう の都市 とし として復興 ふっこう したが、長年 ながねん この町 まち の最大 さいだい の雇用 こよう 主 ぬし であったスリンスキー冶金 やきん 工場 こうじょう は1998年 ねん のロシア財政 ざいせい 危機 きき で打撃 だげき を受 う け給与 きゅうよ の遅配 ちはい が続 つづ き、2009年 ねん には完全 かんぜん に操業 そうぎょう を停止 ていし し翌年 よくねん に破綻 はたん した。
冶金 やきん のほか、建材 けんざい 製造 せいぞう 、食品 しょくひん 工業 こうぎょう などの軽工業 けいこうぎょう が中心 ちゅうしん になっている。クラスノスリンスキー地区 ちく 内 ない では、ドンバス の他 ほか の地域 ちいき 同様 どうよう に炭鉱 たんこう もある。