クリストファー・コロンブス (1451年 ねん [注 ちゅう 1] - 1506年 ねん 5月 がつ 20日 はつか )は、大 だい 航海 こうかい 時代 じだい の探検 たんけん 家 か ・航海 こうかい 者 しゃ ・コンキスタドール 、奴隷 どれい 商人 しょうにん 。定説 ていせつ ではイタリア のジェノヴァ 出身 しゅっしん [1] 。ランス・オ・メドー が発見 はっけん されるまではキリスト教 きりすときょう 世界 せかい の白人 はくじん としては最初 さいしょ にアメリカ 海域 かいいき へ到達 とうたつ したとされていた。
彼 かれ の実績 じっせき により彼 かれ の子孫 しそん はスペイン王室 おうしつ よりベラグア公爵 こうしゃく とラ・ベガ公爵 こうしゃく (スペイン語 ご 版 ばん ) に叙 じょ され、2024年 ねん 現在 げんざい までスペイン貴族 きぞく の公爵 こうしゃく 家 いえ として続 つづ いている。
日本 にっぽん では普通 ふつう クリストファー・コロンブスと呼 よ ばれているが、これは彼 かれ の元々 もともと の姓 せい をラテン語 らてんご [注 ちゅう 2] によって表記 ひょうき したものが、そのまま英語 えいご [注 ちゅう 3] に取 と り入 い れられて、日本 にっぽん にも伝 つた わり、一般 いっぱん 化 か したものである[2] 。
ジェノヴァ出身 しゅっしん の彼 かれ の元々 もともと の姓名 せいめい はクリストーフォロ・コロンボ[注 ちゅう 4] であった。しかし、スペインに移 うつ り住 す んでからはクリストバル・コロン[注 ちゅう 5] に変 か えている。当時 とうじ のスペインで作成 さくせい された文献 ぶんけん のほとんど全 すべ てにおいて彼 かれ は「コロン」と呼 よ ばれていることからも、本人 ほんにん が名乗 なの っていた名前 なまえ は「クリストバル・コロン」であったと考 かんが えられる。
コロンブスは、1451年 ねん 8月 がつ 25日 にち から10月 がつ 末 まつ までの間 あいだ に、ジェノヴァもしくはその近郊 きんこう で生 う まれたという説 せつ が主流 しゅりゅう であった[3] が、これについては史料 しりょう として裏付 うらづ けとなる根拠 こんきょ がなく、異説 いせつ も多 おお いため、はっきりした事実 じじつ は判明 はんめい していない。
通説 つうせつ (ジェノヴァ説 せつ )では、毛織物 けおりもの 職人 しょくにん 一家 いっか で育 そだ った父 ちち ドメニコ・コロンボと母 はは スサナ・フォンタナローサの間 あいだ にはクリストファーを含 ふく み7人 にん の子 こ がいたが、上 うえ の2人 ふたり の子 こ は若 わか くして死亡 しぼう したと考 かんが えられ、何 なん の記録 きろく も残 のこ っていない[3] 。
弟 おとうと は1 - 2歳 さい 下 か にバルトロメ と17歳 さい 下 か にジャコモ(のちにディエゴと呼 よ ばれる)、妹 いもうと は2人 にん いたが記録 きろく に残 のこ るのはピアンチネータの一人 ひとり だけである[3] 。父 ちち は毛織物 けおりもの 業 ぎょう を自営 じえい していたが一家 いっか は決 けっ して裕福 ゆうふく ではなく、ワイン やチーズ の売買 ばいばい も行 おこな っていた。
ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント
コロンブスと海 うみ とのかかわりは10代のころから始 はじ まった。最初 さいしょ は父親 ちちおや の仕事 しごと を手伝 てつだ って船 ふね に乗 の り、1472年 ねん にはアンジュー公 こう ルネ から対立 たいりつ するアラゴン王国 おうこく のガレー船 せん ・フェルナンディア号 ごう 拿捕 だほ の命 いのち を受 う けた船 ふね に乗 の ってチュニス に向 む かったという説 せつ もある[注 ちゅう 6] 。1475年 ねん から翌年 よくねん にはジェノヴァのチェントリオーネ家 か に雇 やと われ[4] [注 ちゅう 7] 、ローナ号 ごう で[5] エ え ーゲ海 げかい のヒオス島 とう へ行 い って乳香 にゅうこう (マスティーハ )取引 とりひき に関 かか わったと、第 だい 一 いち 次 じ 航海 こうかい 誌 し にて述 の べられている。
1476年 ねん 5月 がつ にはチェントリオーネ家 か やスピノラ家 か 、ディ・ネグロ家 か などジェノヴァ商人 しょうにん 団 だん に雇 やと われ、乳香 にゅうこう をイギリス やフランドル へ運 はこ ぶ商船 しょうせん 隊 たい に参加 さんか し、ベカッラ号 ごう に乗 の り込 こ んだ。しかし8月 がつ 13日 にち [5] 、この船団 せんだん がブルゴーニュ の旗 はた を掲 かか げていたため、ポルトガル のサン・ヴィセンテ岬 みさき 沖 おき で当時 とうじ 敵対 てきたい していたフランス 艦船 かんせん から攻撃 こうげき を受 う け、船 ふね は沈没 ちんぼつ した。コロンブスは櫂 かい につかまって泳 およ ぎ、ポルトガルのラゴス(en) までたどり着 つ いた。なお、コロンブスが乗船 じょうせん していたのはフランスとカタルーニャ 連合 れんごう の船 ふね であり、いわばジェノヴァ船団 せんだん を攻撃 こうげき した側 がわ にいたという主張 しゅちょう もある[注 ちゅう 8] 。
彼 かれ はジェノヴァ人 じん 共同 きょうどう 体 たい の助 たす けを借 か りてリスボン へ移 うつ った[3] 。この時期 じき は1477年 ねん 春 はる 以降 いこう と考 かんが えられる[6] 。そこには、地図 ちず 製作 せいさく に従事 じゅうじ する弟 おとうと のバルトロメが住 す んでおり、コロンブスは弟 おとうと と一緒 いっしょ に地図 ちず 作成 さくせい や売買 ばいばい をしながら、たびたび航海 こうかい にも加 くわ わっていた。1477年 ねん 2月 がつ には、イギリスのブリストル を経 へ てアイルランド のゴールウェイ 、そしてアイスランド まで向 む かった。アイスランドには、かつてヴァイキング が北 きた アメリカ に植民 しょくみん 地 ち を築 きず いたという「ヴィンランド 伝説 でんせつ 」があったが、コロンブスがこの伝承 でんしょう を耳 みみ にしたかどうかは分 わ かっていない[7] 。
1479年 ねん 末 まつ 、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ[8] )・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ[9] )と結婚 けっこん した。ロス・サントス修道院 しゅうどういん のミサで彼女 かのじょ を見初 みそ めたのがなれそめという[3] 。しかし、フェリパの父 ちち はマデイラ諸島 しょとう にあるポルト・サント島 とう の世襲 せしゅう 領主 りょうしゅ バルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族 きぞく 階級 かいきゅう の女性 じょせい であった。この釣 つ り合 あ わない結婚 けっこん の背景 はいけい には、フェリパが25歳 さい という、当時 とうじ としては晩婚 ばんこん と言 い える年齢 ねんれい であったこと、父 ちち バルトロメウは20年 ねん 前 まえ に死去 しきょ し、以後 いご のペレストレリョ家 か は没落 ぼつらく しており持参 じさん 金 きん を準備 じゅんび できなかったこと、逆 ぎゃく にコロンブスは航海 こうかい 士 し ・地図 ちず 製作 せいさく 者 しゃ として一定 いってい の成功 せいこう を収 おさ めていたことなどがあったと推察 すいさつ されている[8] [9] [10] 。
西 にし 廻 まわ り航海 こうかい の着想 ちゃくそう [ 編集 へんしゅう ]
結婚 けっこん 後 ご は妻 つま のゆかりの地 ち ポルト・サント島 とう (またはマデイラ島 とう )に夫婦 ふうふ で行 い くこともあり、1480年 ねん ごろにそこで長男 ちょうなん ディエゴ に恵 めぐ まれた。1481年 ねん 、ディオゴ・デ・アザンプージャ (英語 えいご 版 ばん ) が 西 にし アフリカ を南下 なんか し、エルミナ城 じょう を築 きず く航海 こうかい に出 で ているが、これにコロンブスが加 くわ わりギニア と黄金 おうごん 海岸 かいがん まで行 い った[11] と考 かんが えられている。ポルトガル側 がわ にこれを証拠 しょうこ づける資料 しりょう はないが、コロンブスは第 だい 一 いち 次 じ 航海 こうかい の日誌 にっし (バルトロメ・デ・ラス・カサス 編纂 へんさん )にて西 にし アフリカの情景 じょうけい を引 ひ き合 あ いに出 だ しているところや[10] 、所蔵 しょぞう していたピエール・ダイイ 著 ちょ 『イマゴ・ムンディ(世界 せかい 像 ぞう )』の「熱帯 ねったい 地方 ちほう には人間 にんげん は住 す めない」という箇所 かしょ に「実際 じっさい に行 い ってみたが、熱帯 ねったい にも人 ひと は住 す んでいた」と書 か き込 こ んでいる[12] 点 てん がその根拠 こんきょ とされる。
また、当時 とうじ のある事件 じけん をラス・カサスは『インディアス史 し 』(第 だい 一 いち 巻 かん 十 じゅう 四 よん 章 しょう )に記 しる している。それは、マデイラ島 とう に漂着 ひょうちゃく した白人 はくじん 漂流 ひょうりゅう 者 しゃ がいたというものである。この漂流 ひょうりゅう 者 しゃ はポルトガル交易 こうえき 船員 せんいん だったが、嵐 あらし のためにキューバ まで流 なが されてしまい、船 ふね を修理 しゅうり して東 ひがし へ出航 しゅっこう したが生 い きてマデイラ島 とう にたどり着 つ いた数 すう 名 めい はほとんどすぐ死 し に、最後 さいご の一人 ひとり をコロンブスが保護 ほご したが、やがて彼 かれ も亡 な くなった。『インディアス自然 しぜん 一般 いっぱん 史 し (Historia General y Natural de las Indias)』を著 あらわ したフェルナンデス・オヴェイド(en) も1535年 ねん にこの説話 せつわ を懐疑 かいぎ 的 てき ながら採録 さいろく している。コロンブス自身 じしん が著述 ちょじゅつ したどの文章 ぶんしょう にもこの話 はなし は書 か かれていないが、ラス・カサスはこの事件 じけん がコロンブスをして西 にし 廻 まわ り航路 こうろ の発想 はっそう に至 いた らす原点 げんてん になったと述 の べている[注 ちゅう 9] 。
このころ、コロンブスは積極 せっきょく 的 てき にスペイン語 ご やラテン語 らてんご などの言語 げんご や天文学 てんもんがく ・地理 ちり 、そして航海 こうかい 術 じゅつ の習得 しゅうとく に努 つと めた。仕事 しごと の拠点 きょてん であるリスボンでパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ と知 し り合 あ う機会 きかい を得 え て、手紙 てがみ の交換 こうかん をしている。当時 とうじ はすでに地球 ちきゅう 球体 きゅうたい 説 せつ は一般 いっぱん に信 しん じられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロ の考 かんが えを取 と り入 い れ、大西洋 たいせいよう を挟 はさ んだヨーロッパとアジアの距離 きょり はプトレマイオス の試算 しさん よりもずっと短 みじか いと主張 しゅちょう していた。『東方 とうほう 見聞 けんぶん 録 ろく 』にある黄金 おうごん の国 くに ・ジパング に惹 ひ かれていたコロンブスはここに西 にし 廻 まわ りでアジアに向 む かう計画 けいかく に現実 げんじつ 性 せい を見出 みいだ した。また、現存 げんそん する最古 さいこ の地球儀 ちきゅうぎ を作 つく ったマルティン・ベハイム とも交流 こうりゅう を持 も ち意見 いけん を交換 こうかん した説 せつ もある[13] [2- 1] 。これらの収集 しゅうしゅう 情報 じょうほう や考察 こうさつ を経 へ てコロンブスは西 にし 廻 まわ り航海 こうかい が可能 かのう だとする5つの理論 りろん 根拠 こんきょ を構築 こうちく した。ラス・カサス『インディアス史 し 』(第 だい 5章 しょう )に記載 きさい されたその内容 ないよう は、[14]
地球 ちきゅう は球体 きゅうたい であり、西 にし に進 すす めば東 ひがし 端 はし にたどりつく。
地球 ちきゅう の未知 みち の部分 ぶぶん はアジア東端 ひがしばた からベルデ岬 みさき 諸島 しょとう 以西 いせい だけになった。
2世紀 せいき のギリシア 人 ひと 地理 ちり 学者 がくしゃ のマリヌス はヨーロッパからアジアまでは地球 ちきゅう の15/24に当 あ たるという。したがって未知 みち の領域 りょういき は9/24=約 やく 1/3となる。
マリヌスが認識 にんしき していたアジアは(当時 とうじ 認識 にんしき されていたという意味 いみ で)現在 げんざい のアジア東端 ひがしばた までに比 くら べれば狭 せま い。したがって未知 みち の領域 りょういき はさらに狭 せま くなる。
9世紀 せいき のイスラム 人 ひと 天文学 てんもんがく 者 しゃ アルフラガヌス は経度 けいど 1度 ど =約 やく 56.6マイルと計算 けいさん した。したがって未知 みち の領域 りょういき は56.6×360/3=約 やく 6,800マイル。しかもこれは赤道 せきどう 上 じょう であり北 きた 寄 よせ 航路 こうろ ならば距離 きょり はさらに縮 ちぢ まる。
この考 かんが えの根底 こんてい にはアリストテレス の地理 ちり 観 かん を引 ひ き継 つ いだ中世 ちゅうせい キリスト教 きりすときょう の普遍 ふへん 史 し 観 かん から、世界 せかい はヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸 たいりく で成 な り立 た っていたという概念 がいねん がある。地球 ちきゅう の大 おお きさについても、北緯 ほくい 28度 ど におけるカナリア諸島 かなりあしょとう から日本 にっぽん までを実際 じっさい の10,600海 うみ 里 さと に対 たい しコロンブスは2,400海里 かいり と、非常 ひじょう に小 ちい さく見積 みつ もっていた[15] 。
王室 おうしつ への提案 ていあん [ 編集 へんしゅう ]
1484年 ねん 末 まつ [注 ちゅう 10] 、コロンブスはポルトガル王 おう ジョアン2世 せい に航海 こうかい のための援助 えんじょ を求 もと め、その自信 じしん に溢 あふ れた弁舌 べんぜつ に[2- 2] 、ジョアン2世 せい は興味 きょうみ をそそられた[16] 。コロンブスは資金 しきん 援助 えんじょ に加 くわ え成功 せいこう 報酬 ほうしゅう も求 もと めたが、高 たか い地位 ちい や権利 けんり 、そして収益 しゅうえき の10%という大 おお きなものだった[注 ちゅう 11] 。王室 おうしつ は数学 すうがく 委員 いいん 会 かい (フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問 しもん にかけて検討 けんとう したが、回答 かいとう は否決 ひけつ だった。コロンブス以前 いぜん にも大西洋 たいせいよう への航海 こうかい は何 なん 度 ど か試 こころ みられたがすべて失敗 しっぱい し、一方 いっぽう でアフリカ探検 たんけん はディオゴ・カン がコンゴ王国 おうこく との接触 せっしょく に成功 せいこう し[16] 喜 き 望 もち 峰 ほう に達 たっ する寸前 すんぜん まで来 き ていたこと、さらにコロンブスの要求 ようきゅう があまりに過剰 かじょう だと受 う け止 と められたことも影響 えいきょう した[17] 。
再度 さいど コロンブスは提案 ていあん を上奏 じょうそう したが決定 けってい は覆 くつがえ らず[17] 、ジョアン2世 せい はコロンブスが自費 じひ で航海 こうかい をするならばよいと言 い うのみだったが、コロンブスにはそのような資金 しきん がなく[16] 、借金 しゃっきん さえ抱 かか えていた[6] 。このころ、コロンブスは妻 つま フェリパを亡 な くし、1485年 ねん 半 なか ばごろ、8年間 ねんかん 過 す ごしたポルトガルに別 わか れを告 つ げる決心 けっしん をつけた[6] 。
コロンブスはリスボンから海路 かいろ 、スペインのパロス に着 つ き、そこからウエルバ のティント川 かわ 沿 ぞ いの丘 おか に建 た つラ・ラビダ修道院 しゅうどういん を訪 たず ねた[注 ちゅう 12] 。5歳 さい の息子 むすこ ディエゴを伴 ともな った彼 かれ を招 まね き入 い れた修道院 しゅうどういん 長 ちょう のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父 しんぷ はコロンブスの話 はなし に感銘 かんめい を受 う け、彼 かれ に天文学 てんもんがく 者 しゃ でもある[18] セビリア のアントニオ・マルチェーナ神父 しんぷ を紹介 しょうかい し、そこへ向 む かうために息子 むすこ ディエゴを修道院 しゅうどういん で預 あず かった。さらにコロンブスはスペイン貴族 きぞく の第 だい 2代 だい メディナ=シドニア公爵 こうしゃく ドン ・エンリケ・デ・グスマン (スペイン語 ご 版 ばん ) [16] 、そして初代 しょだい メディナセリ公爵 こうしゃく (スペイン語 ご 版 ばん ) (5代 だい メディナセリ伯爵 はくしゃく (スペイン語 ご 版 ばん ) [18] )ドン・ルイス・デ・ラ・セルダ (スペイン語 ご 版 ばん ) [16] と面会 めんかい する機会 きかい を得 え た。メディナセリ公 こう は興味 きょうみ を抱 いだ き、コロンブスが求 もと めた数 すう 隻 せき の船 ふね や食料 しょくりょう など3,000 - 4,000ドゥカート 相当 そうとう の物資 ぶっし を準備 じゅんび することに合意 ごうい した[18] [2- 3] 。
コロンブスが作成 さくせい したと言 い われる地図 ちず 。これは19世紀 せいき に発見 はっけん されたものだが、アイスランドとフェローズ諸島 しょとう の位置 いち が逆 ぎゃく になっているなど、疑問 ぎもん も提示 ていじ されている[19] 。
カトリック両 りょう 王 おう への売 う り込 こ み [ 編集 へんしゅう ]
コロンブスへの援助 えんじょ に同意 どうい したメディナセリ公 こう だったが、このような計画 けいかく は王室 おうしつ への許可 きょか を得 え るべきだと考 かんが えカスティーリャ のイサベル1世 せい へ計画 けいかく を知 し らせると、彼女 かのじょ 自身 じしん がこれに興味 きょうみ を覚 おぼ えた[16] 。1486年 ねん 5月 がつ 1日 にち [注 ちゅう 13] 、メディナセリ公 こう が紹介 しょうかい してコロンブスはコルドバ でイサベル1世 せい とその夫 おっと フェルナンド2世 せい (カトリック両 りょう 王 おう )に謁見 えっけん した。コロンブスの話 はなし にフェルナンド2世 せい はあまり興味 きょうみ を持 も たなかったが、イサベル1世 せい は惹 ひ きつけられた。計画 けいかく は、懺悔 ざんげ 聴聞 ちょうもん 師 し のエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父 しんぷ を中心 ちゅうしん とする諮問 しもん 委員 いいん 会 かい が設 もう けられ、そこで評価 ひょうか されることになった。1486年 ねん だけで二 に 度 ど [注 ちゅう 14] 委員 いいん 会 かい は開 ひら かれたが、コロンブスが示 しめ したアジアまでの距離 きょり が特 とく に疑問 ぎもん 視 し され、結論 けつろん は持 も ち越 こ された。
コロンブスはメディナセリ公 こう の支援 しえん を受 う けながらコルドバの彼 かれ の城 しろ に滞在 たいざい し、カトリック両 りょう 王 おう との面談 めんだん を模索 もさく する一方 いっぽう で、交流 こうりゅう を持 も った医師 いし や学者 がくしゃ らの中 なか の一人 ひとり から当時 とうじ 20歳 さい (または21歳 さい )の小作 こさく 人 じん の娘 むすめ ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナ (スペイン語 ご 版 ばん ) と[20] 恋愛 れんあい 関係 かんけい となり、1488年 ねん 8月 がつ 15日 にち にフェルナンド (スペイン語 ご 版 ばん ) が生 う まれたが、コロンブスはベアトリスと正式 せいしき に結婚 けっこん しなかった。
しかしスペイン王室 おうしつ からの返事 へんじ はなかなか届 とど かなかった。コロンブスに好意 こうい を持 も った委員 いいん 会長 かいちょう のタラベラや、メンバーの1人 ひとり であるドミニコ会 かい のディエゴ・デ・デサらは、委員 いいん 会 かい が否定 ひてい 的 てき 結論 けつろん を出 だ そうとすると引 ひ き延 の ばしにかかっていた[16] [注 ちゅう 15] 。コロンブスはポルトガルのジョアン2世 せい に手紙 てがみ を送 おく ったが、バルトロメウ・ディアス の喜 き 望 もち 峰 ほう 発見 はっけん もあって話 はなし がまとまることはなかった[注 ちゅう 16] 。また、弟 おとうと バルトロメをイギリス のヘンリー7世 せい やフランス のシャルル8世 せい の下 した に差 さ し向 む け、計画 けいかく の宣伝 せんでん をさせた。いずれの王 おう からも支持 しじ は得 え られなかったが、シャルル8世 せい の姉 あね アンヌ・ド・ボージュー の歓待 かんたい を得 え て、バルトロメはフォンテーヌブロー の宮殿 きゅうでん に数 すう 年間 ねんかん 滞在 たいざい した[21] 。しかしこれらの行動 こうどう も実 み を結 むす ばなかった。
一方 いっぽう のスペイン王室 おうしつ は、1489年 ねん 5月 がつ 12日 にち 付 づけ でコロンブスが王室 おうしつ に謁見 えっけん するときに必要 ひつよう な宿泊 しゅくはく 費 ひ を無料 むりょう にする通達 つうたつ を出 だ す[21] など、不完全 ふかんぜん ではあるが金銭 きんせん 的 てき 援助 えんじょ を行 おこな い[19] 、決 けっ して彼 かれ を邪険 じゃけん にしていたわけではなかった。しかし1490年 ねん 、タラベラの委員 いいん 会 かい は提案 ていあん に反対 はんたい する結論 けつろん を出 だ したことでコロンブスは諦 あきら め気味 ぎみ にパロスに戻 もど り、ラ・ラビダ修道院 しゅうどういん に向 む かった。話 はなし を聞 き いたペレス院長 いんちょう はコロンブスを慰留 いりゅう し、イサベル1世 せい の側近 そっきん セバスチャン・ロドリゲスを頼 たよ り、王室 おうしつ に再 さい 検討 けんとう を促 うなが した。このわずか2週間 しゅうかん 後 ご 、コロンブスのもとに王室 おうしつ の書簡 しょかん が届 とど き、旅 たび 金 きん を添 そ えて出頭 しゅっとう するよう勧告 かんこく する内容 ないよう があった。提案 ていあん の検討 けんとう はカスティリャ枢機 すうき 院 いん に移 うつ された。
イザベル1世 せい とコロンブス(カリフォルニア州 しゅう 議事堂 ぎじどう )
しかし1491年 ねん 、枢機 すうき 院 いん にも案 あん を否決 ひけつ されたために、万策 ばんさく 尽 つ きたコロンブスは弟 おとうと バルトロメが滞在 たいざい するフランスへ向 む かう決意 けつい を固 かた めた。ここにルイス・デ・サンタンヘル (スペイン語 ご 版 ばん ) が登場 とうじょう する。財務 ざいむ 長官 ちょうかん であった彼 かれ は女王 じょおう 説得 せっとく に乗 の り出 だ し、コロンブスが提示 ていじ した条件 じょうけん は見込 みこ める収入 しゅうにゅう からすれば充分 じゅうぶん に折 お り合 あ い、また必要 ひつよう な経費 けいひ も自 みずか らが都合 つごう をつけると申 もう し出 で た。
1492年 ねん 1月 がつ 2日 にち に、ムーア人 じん の最後 さいご の拠点 きょてん であったグラナダが陥落 かんらく したことで、スペインに財政 ざいせい 上 じょう の余裕 よゆう ができたことをサンタンヘルは指摘 してき した[22] 。もともと興味 きょうみ を持 も っていたイサベル1世 せい はこれで勢 いきお いを得 え てフェルナンド2世 せい を説 と き伏 ふ せ、スペインはついにコロンブスの計画 けいかく を承認 しょうにん した。このとき、コロンブスはまさにフランスへ向 む けてグラナダを出発 しゅっぱつ したところだった。女王 じょおう の伝令 でんれい は彼 かれ を追 お いかけ、15キロほど先 さき のピノス・プエンテ村 むら の橋 はし の上 うえ でコロンブスに追 お いついた。この橋 はし には、劇的 げきてき ともいえる出来事 できごと を解説 かいせつ する銅版 どうはん がある[23] 。
1492年 ねん 4月 がつ 17日 にち 、グラナダ 郊外 こうがい のサンタ・フェ にて、コロンブスは王室 おうしつ と「サンタフェ契約 けいやく 」を締結 ていけつ した。その内容 ないよう は、
コロンブスは発見 はっけん された土地 とち の終身 しゅうしん 提督 ていとく (アルーランテ)となり、この地位 ちい は相続 そうぞく される。
コロンブスは発見 はっけん された土地 とち の副 ふく 王 おう (ピリレイ)および総督 そうとく (ゴベルナドール・ヘネラール)の任 にん に就 つ く。各地 かくち の統治 とうち 者 しゃ は3名 めい の候補 こうほ をコロンブスが推挙 すいきょ し、この中 なか から選 えら ばれる。
提督 ていとく 領 りょう から得 え られたすべての純益 じゅんえき のうち10%はコロンブスの取 と り分 ぶん とする。
提督 ていとく 領 りょう から得 え られた物品 ぶっぴん の交易 こうえき において生 しょう じた紛争 ふんそう は、コロンブスが裁判 さいばん 権 けん を持 も つ。
コロンブスが今後 こんご 行 おこな う航海 こうかい において費用 ひよう の8分 ぶん の1をコロンブスが負担 ふたん する場合 ばあい 、利益 りえき の8分 ぶん の1をコロンブスの取 と り分 ぶん とする。
というものだった。[24]
航海 こうかい の経費 けいひ は、ルイス・デ・サンタンヘルが中心 ちゅうしん となって調達 ちょうたつ された。彼 かれ は、警察 けいさつ 機構 きこう サンタ・エルマンダーの経理 けいり 担当 たんとう であったジェノヴァ人 じん フランチェスコ・ピネリと協力 きょうりょく して140万 まん マラベディ を、さらにアラゴン王国 おうこく の国庫 こっこ から35万 まん マラベディを調達 ちょうたつ し、コロンブスに提供 ていきょう した[25] 。これは、イサベル1世 せい が戴冠 たいかん 用 よう 宝玉 ほうぎょく を担保 たんぽ に供出 きょうしゅつ することを防 ふせ ぐことが目的 もくてき だった[26] 。コロンブスは25万 まん マラベディを調達 ちょうたつ したが、これはメディナセリ公 こう やセビリアのフィレンツェ人 じん 銀行 ぎんこう 家 か ベラルディなどから借金 しゃっきん をしてかき集 あつ めたものだった[27] 。
この
節 ふし には
複数 ふくすう の問題 もんだい があります。
改善 かいぜん や
ノートページ での
議論 ぎろん にご
協力 きょうりょく ください。
1492年 ねん 8月 がつ 3日 にち 、スペインウェルバのパロス 港 みなと からインド (インディア)を目指 めざ して大西 おおにし 洋 ひろし へ出航 しゅっこう した。このときの編成 へんせい はキャラベル船 せん のニーニャ号 ごう とピンタ号 ごう 、ナオ船 せん のサンタ・マリア号 ごう の3隻 せき で総 そう 乗組 のりくみ 員数 いんずう は約 やく 90人 にん (120人 にん という説 せつ も)。
いったんカナリア諸島 かなりあしょとう へ寄 よ り、大 だい 航海 こうかい の準備 じゅんび を整 ととの えたあと、一気 いっき に西進 せいしん した。大西洋 たいせいよう は極端 きょくたん に島 しま の少 すく ない大洋 たいよう であり、船員 せんいん の間 あいだ には次第 しだい に不安 ふあん が募 つの っていった。当時 とうじ の最新 さいしん 科学 かがく では地球 ちきゅう が球体 きゅうたい であるということはほぼ常識 じょうしき となっていたが、船員 せんいん の間 あいだ では地球 ちきゅう を平面 へいめん とする旧来 きゅうらい の考 かんが えも根強 ねづよ く残 のこ っていた。
コロンブス自身 じしん は平気 へいき なふりをしていたが、計算 けいさん を越 こ えて長 なが い航海 こうかい となったことに不安 ふあん を感 かん じるようになる。10月6日 にち には小規模 しょうきぼ な暴動 ぼうどう が起 お こり、3日 にち 後 ご には船員 せんいん の不安 ふあん は頂点 ちょうてん に達 たっ し、コロンブスに迫 せま って「あと3日 にち で陸地 りくち が見 み つからなかったら引 ひ き返 かえ す」と約束 やくそく させた。その後 ご 、流木 りゅうぼく などを発見 はっけん し陸 りく が近 ちか くにあると船員 せんいん を説得 せっとく する。
1492年 ねん 「新大陸 しんたいりく 」上陸 じょうりく [ 編集 へんしゅう ]
コロンブスの航路 こうろ
そして10月11日 にち の日付 ひづけ が変 か わろうとするとき、ピンタ号 ごう の水夫 すいふ が陸地 りくち を発見 はっけん した。翌朝 よくあさ 、コロンブスはその島 しま に上陸 じょうりく し、ここを占領 せんりょう してサン・サルバドル島 とう と名 な づける。
最初 さいしょ に上陸 じょうりく した島 しま でコロンブス一行 いっこう は、アラワク族 ぞく インディアン たちから歓待 かんたい を受 う ける。アラワク族 ぞく は船 ふね から上 あ がったコロンブスたちに水 みず や食料 しょくりょう を贈 おく り、オウムや綿 めん の玉 たま 、槍 やり やその他 た 見 み たことのないたくさんのものを持 も ってきた。コロンブス一行 いっこう はそれをガラスのビーズや鷹 たか の鈴 すず と交換 こうかん した。しかしコロンブスの興味 きょうみ は、ただ黄金 おうごん にしかなかった。彼 かれ はこう書 か き残 のこ している。[28]
「彼 かれ らと友好 ゆうこう を結 むす ぶため、それにまた、彼 かれ らは力 ちから ではなく愛 あい をもって接 せっ すれば、より速 すみ やかに解放 かいほう され、我 われ らの聖 せい なる信仰 しんこう に帰依 きえ すると分 わ かったので、彼 かれ らの何人 なんにん かに赤 あか いボンネット帽 ぼう や首 くび にかけるガラス玉 だま の数珠 じゅず といった安価 あんか な品 しな をいくつか与 あた えたところ、彼 かれ らはとても喜 よろこ び、我々 われわれ も驚 おどろ くほど和 なご やかな間柄 あいだがら になった。(中略 ちゅうりゃく )
彼 かれ らは良 よ き僕 ぼく になるに違 ちが いない。なぜならわたしが見 み るに、彼 かれ らはわたしが話 はな すことすべて、すぐにあとについて口 くち にするからである。また、わたしは彼 かれ らは速 すみ やかにキリスト教徒 きりすときょうと になると信 しん じる。なぜならいかなる宗派 しゅうは ももっていないように思 おも われたからである」
コロンブスはこの島 しま で略奪 りゃくだつ を働 はたら き、次 つぎ に現在 げんざい のキューバ 島 しま を発見 はっけん した。ここを「フアナ島 とう 」と名 な づけたあと、ピンタ号 ごう 船長 せんちょう であるマルティン・アロンソ・ピンソン の独断 どくだん によりピンタ号 ごう が一時 いちじ 離脱 りだつ してしまうが、12月6日 にち にはイスパニョーラ島 とう と名 な づけた島 しま に到達 とうたつ 。24日 にち にサンタ・マリア号 ごう が座礁 ざしょう してしまう。しかし、その残骸 ざんがい を利用 りよう して要塞 ようさい を作 つく り、アメリカにおけるスペイン初 はつ の入植 にゅうしょく 地 ち を作 つく った。この入植 にゅうしょく 地 ち には39名 めい の男性 だんせい が残 のこ った。
年 とし が明 あ け、1493年 ねん 1月 がつ 6日 にち にピンタ号 ごう と再 ふたた び合流 ごうりゅう する。1月 がつ 16日 にち 、スペインへの帰還 きかん を命 めい じ、3月15日 にち にパロス港 こう へ帰還 きかん した。
帰還 きかん したコロンブスを歓迎 かんげい して宮殿 きゅうでん では盛大 せいだい な式典 しきてん が開 ひら かれた。コロンブスは航海 こうかい に先 さき んじて、発見 はっけん 地 ち の総督 そうとく 職 しょく 、世襲 せしゅう 提督 ていとく の地位 ちい 、発見 はっけん 地 ち から上 あ がる収益 しゅうえき の10分 ぶん の1を貰 もら う契約 けいやく を交 か わしていた。この取 と り決 き めに従 したが い、コロンブスはインディアン から強奪 ごうだつ した金銀 きんぎん 宝石 ほうせき 、真珠 しんじゅ などの戦利 せんり 品 ひん の10分 ぶん の1を手 て に入 い れた。また陸地 りくち を発見 はっけん した者 もの には賞金 しょうきん がカトリック両 りょう 王 おう から与 あた えられることになっていたが、コロンブスは自分 じぶん が先 さき に発見 はっけん したとい張 いは り、これをせしめている。
国王 こくおう に調査 ちょうさ 報告 ほうこく を終 お え、少 すこ しばかりの援助 えんじょ を求 もと めたコロンブスは、次 つぎ の航海 こうかい 目標 もくひょう としてこう述 の べている。
「彼 かれ らが必要 ひつよう とするだけのありったけの黄金 おうごん …彼 かれ らが欲 ほ しがるだけのありったけの奴隷 どれい を連 つ れてくるつもりだ。このように、永遠 えいえん なる我々 われわれ の神 かみ は、一見 いっけん 不可能 ふかのう なことであっても、主 おも の仰 おお せに従 したが う者 もの たちには、勝利 しょうり を与 あた えるものなのだ」
1493年 ねん 5月 がつ 4日 にち 、ロ ろ ーマ法王 まほうおう 勅書 ちょくしょ はアゾレス諸島 しょとう の西 にし 100リーグの分界 ぶんかい 線 せん を定 さだ め、スペインはこれによって新大陸 しんたいりく を探検 たんけん し植民 しょくみん する独占 どくせん 的 てき な権利 けんり を手 て にした[29] 。折 おり からの関心 かんしん の高 たか まりによって、コロンブスは2回 かい 目 め の航海 こうかい の資金 しきん を難 なん なく作 つく ることができた[29] 。
1493年 ねん の9月 がつ に17隻 せき 1,500人 にん で出発 しゅっぱつ したコロンブスの2度目 どめ の航海 こうかい は、その乗員 じょういん の中 なか に農民 のうみん や坑夫 こうふ を含 ふく み、植民 しょくみん 目的 もくてき であった。11月にドミニカ島 とう と名 な づけた島 しま に到着 とうちゃく したが、前回 ぜんかい 作 つく った植民 しょくみん 地 ち に行 い ってみると基地 きち は原住民 げんじゅうみん であるインディアン により破壊 はかい されており、残 のこ した人間 にんげん はすべて殺 ころ されていた。コロンブスはここを放棄 ほうき して新 あたら しく「イサベル植民 しょくみん 地 ち 」を築 きず いた。しかし白人 はくじん 入植 にゅうしょく 者 しゃ の間 あいだ では植民 しょくみん 地 ち での生活 せいかつ に不満 ふまん の声 こえ が上 あ がり、周辺 しゅうへん 諸島 しょとう ではアラワク族 ぞく 、タイノ族 ぞく 、ルカヤン族 ぞく 、カリブ族 ぞく などのインディアンの間 あいだ で白人 はくじん の行為 こうい に対 たい して怒 いか りが重 じゅう 積 せき していた。
最終 さいしゅう 的 てき に、コロンブスの率 ひき いるスペイン軍 ぐん はインディアンに対 たい して徹底的 てっていてき な虐殺 ぎゃくさつ 弾圧 だんあつ を行 おこな った。
1495年 ねん 3月 がつ 、コロンブスは数 すう 百 ひゃく 人 にん の装甲 そうこう 兵 へい と騎兵隊 きへいたい 、そして訓練 くんれん された軍用 ぐんよう 犬 けん からなる一大 いちだい 軍団 ぐんだん を組織 そしき した。再 ふたた び船旅 ふなたび に出 で たコロンブスは、スペイン人 じん の持 も ち込 こ んだ病 やめ いに倒 たお れたインディアンの村 むら 々を徹底的 てっていてき に攻撃 こうげき し、数 すう 千 せん 人 にん 単位 たんい の虐殺 ぎゃくさつ を指揮 しき した。コロンブスの襲撃 しゅうげき 戦略 せんりゃく は以後 いご 10年間 ねんかん 、欧州 おうしゅう 人 じん が繰 く り返 かえ した殺戮 さつりく モデルとなった[30] 。
コロンブスは、イスパニョーラ島 とう のインディアン部族 ぶぞく の指導 しどう 者 しゃ と睨 にら んでいた一人 ひとり の酋長 しゅうちょう を殺 ころ さずに、引 ひ き回 まわ しの刑 けい と投獄 とうごく のあと、鎖 くさり につないで船 ふね に乗 の せ、スペインへ連行 れんこう しようとした。しかし他 た のインディアンたちと同様 どうよう に、この男性 だんせい は劣悪 れつあく な船内 せんない 環境 かんきょう の中 なか 、セビリアに着 つ く前 まえ に死 し んでいる。
また一方 いっぽう で、カリブ族 ぞく の中 なか では人 ひと が人 ひと を食 た べる習俗 しゅうぞく のカニバリズムがある。この事 こと はコロンブスによってスペインに報告 ほうこく され、その後 ご 、人 ひと 肉 にく を食 く らう裸族 らぞく の想像 そうぞう 画 が をともないながらヨーロッパ世界 せかい に広 ひろ がっていった。
植民 しょくみん 地 ち の管理 かんり を弟 おとうと に任 まか せて、コロンブスは先住民 せんじゅうみん の王 おう と共 とも にスペイン本国 ほんごく に帰国 きこく し、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ に登場 とうじょう する土地 とち オフィール (英語 えいご 版 ばん ) を発見 はっけん したと報告 ほうこく した[31] 。
コロンブスがカリブ海 かりぶかい 諸島 しょとう で指揮 しき した行 ゆ き当 あ たりばったりの大 だい 虐殺 ぎゃくさつ は、「黄金 おうごん 探 さが し」を使命 しめい としたスペイン海軍 かいぐん によって体系 たいけい 化 か され、 あらゆる部族 ぶぞく の子供 こども 以外 いがい のインディアンが、3か月 げつ 以内 いない に一定 いってい 量 りょう の黄金 おうごん を差 さ し出 だ すよう脅迫 きょうはく された。金 かね を届 とど けたインディアンには、「スペイン人 じん に敬意 けいい を表 あらわ した」という証 あか しとして、その男女 だんじょ に首 くび かけの標 しめぎ 章 あきら が贈 おく られた。金 かね の量 りょう が足 た りなかった者 もの は、男 おとこ だろうと女 おんな だろうと手首 てくび が斬 き り落 お とされた。
コロンブスらスペイン人 じん の幻想 げんそう よりも当地 とうち の金 かね の量 りょう ははるかに少 すく なかったため、死 し にたくなかったインディアンたちは、生活 せいかつ を犠牲 ぎせい にして金 かね を捜 さが さざるを得 え なかった。インディアンが逃亡 とうぼう を始 はじ めると飢饉 ききん はさらに悪化 あっか した。コロンブスらスペイン人 じん が運 はこ び込 こ んだ疫病 えきびょう は、栄養失調 えいようしっちょう となったインディアンたちの弱 よわ められた身体 しんたい をより激 はげ しく蝕 むしば んだ。そしてコロンブスたちと同 おな じく、スペイン軍 ぐん は面白 おもしろ 半分 はんぶん に男 おとこ を殺 ころ し女 おんな を犯 おか す楽 たの しみを決 けっ してやめなかった。
1498年 ねん 5月、6隻 せき の船 ふね で3度目 どめ の航海 こうかい に出 で る。今度 こんど は南 みなみ よりの航路 こうろ をとり、現在 げんざい のベネズエラ のオリノコ川 がわ の河口 かこう に上陸 じょうりく した。その膨大 ぼうだい な量 りょう の河水 こうすい が海水 かいすい ではなく真水 まみず であったことから、それだけの大河 たいが を蓄 たくわ えるのは島 しま ではなく大陸 たいりく であるということをコロンブスは認 みと めざるを得 え なかった。それと同時 どうじ に、オリノコ川 がわ は上方 かみがた の地上 ちじょう の楽園 らくえん から流 なが れて来 き ていると考 かんが えていた[31] (当時 とうじ の世界 せかい 観 かん ではエデンの園 えん を水源 すいげん とする4つの川 かわ が東方 とうほう を流 なが れていると考 かんが えられていた[32] )。
その後 ご 、北上 ほくじょう してサントドミンゴ に着 つ くと後 ご を任 まか せていた弟 おとうと ・バルトロメの統治 とうち の悪 わる さから反乱 はんらん が起 お きていた。コロンブスは説得 せっとく を続 つづ けるが、入植 にゅうしょく 者 しゃ たちはこれをなかなか受 う け入 い れず、1500年 ねん 8月 がつ に本国 ほんごく から来 き た査察 ささつ 官 かん により逮捕 たいほ され、本国 ほんごく へと送還 そうかん された。罪 つみ に問 と われる事 こと は免 まぬか れたものの、すべての地位 ちい を剥奪 はくだつ される。
それでもコロンブスは4度目 どめ となる航海 こうかい を企画 きかく するが、王 おう からの援助 えんじょ は小型 こがた のボロ舟 ふね 4隻 せき というものであった。1502年 ねん に出航 しゅっこう したが、イスパニョーラ島 とう への寄港 きこう は禁 きん じられており、パナマ周辺 しゅうへん を6か月 げつ さまよったが、最後 さいご は難破 なんぱ して救助 きゅうじょ され、1504年 ねん 11月にスペインへ戻 もど った。しかし1504年 ねん 末 まつ にイサベル女王 じょおう が死去 しきょ し、スペイン王室 おうしつ はコロンブスに対 たい してさらに冷淡 れいたん になった。
帰国 きこく 後 ご は病気 びょうき になり、1506年 ねん 5月 がつ 20日 はつか スペイン のバリャドリッド にて死去 しきょ 。その遺骨 いこつ はセビリア の修道院 しゅうどういん に納 おさ められたが1542年 ねん にサントドミンゴ の大 だい 聖堂 せいどう に移 うつ された。晩年 ばんねん は金銭 きんせん 的 てき には恵 めぐ まれていたが、最期 さいご まで自 みずか らが発見 はっけん した島 しま をアジアだと主張 しゅちょう し続 つづ けていた[33] 。
コロンブスの死後 しご 、ドイツの地理 ちり 学者 がくしゃ マルティン・ヴァルトゼーミュラー が手 て がけた地図 ちず には、南米 なんべい 大陸 たいりく の「発見 はっけん 者 しゃ 」としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチ の名前 なまえ が記 しる された。この結果 けっか 、ヨーロッパでは「新大陸 しんたいりく 」全域 ぜんいき を指 さ す言葉 ことば として「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使 つか われるようになった(ただし、18世紀 せいき 以降 いこう アメリカの雅称 がしょう として「コロンビア 」も用 もち いられる)。
航海 こうかい などの関係 かんけい 略 りゃく 年表 ねんぴょう [ 編集 へんしゅう ]
出自 しゅつじ に関 かん する諸説 しょせつ [ 編集 へんしゅう ]
コロンブスに関 かん してはその出自 しゅつじ が明 あき らかではないこと、また大 だい 航海 こうかい の目的 もくてき 自体 じたい があまり明確 めいかく に語 かた り継 つ がれていないことなどから、さまざまな異聞 いぶん が流 なが れている。また、残 のこ されている肖像 しょうぞう 画 が はすべて本人 ほんにん の死後 しご に描 えが かれたものであり、今 いま となってはコロンブスの真 しん の素顔 すがお を知 し るすべはない。
レオナルド・ダ・ヴィンチの日記 にっき の中 なか に「ジェノヴァ人 じん の船乗 ふなの りと地球 ちきゅう について話 はな す」という興味深 きょうみぶか い記述 きじゅつ があることから [要 よう 出典 しゅってん ] 、両者 りょうしゃ の間 あいだ に面識 めんしき があったのではないかという説 せつ がある。
多 おお く語 かた られているものとしては、コロンブスはユダヤ人 じん の片親 かたおや から生 う まれたのではないかとする奇 き 説 せつ である。
1492年 ねん 、スペイン王家 おうけ は同 どう 国内 こくない に住 す むユダヤ人 じん に対 たい し8月 がつ 2日 にち を期限 きげん とする国外 こくがい 追放 ついほう 令 れい を発布 はっぷ したが、コロンブスがスペイン王家 おうけ の支援 しえん を受 う けて出航 しゅっこう したのは翌 よく 8月 がつ 3日 にち である。このことから、コロンブス出航 しゅっこう の真 しん の目的 もくてき はユダヤ人 じん の移住 いじゅう 地 ち 探 さが しではないかとする説 せつ も存在 そんざい する。また、教皇 きょうこう インノケンティウス8世 せい の落胤 らくいん ではないかとする説 せつ も存在 そんざい する。しかし、これらの仮説 かせつ を支持 しじ する研究 けんきゅう 者 しゃ は少 すく なく、俗説 ぞくせつ の域 いき を出 で ていない。
ヴワディスワフ3世 せい (アレクサンデル・レッセル 画 が )
アメリカ、ノースカロライナ州 しゅう にあるデューク大学 だいがく でITアナリストとして働 はたら くアマチュア歴史 れきし 家 か のマヌエル・ロサ [34] は、2010年 ねん 10月 にスペイン で出版 しゅっぱん した『コロンブス:語 かた られなかったストーリー』の中 なか で、コロンブスがポーランド王 おう ヴワディスワフ3世 せい (晩年 ばんねん にかけてはウラースロー1世 せい としてハンガリー王 おう も兼 けん 位 い )の実 み の息子 むすこ であるとの説 せつ を主張 しゅちょう している。
新大陸 しんたいりく 発見 はっけん を祝 いわ う凱旋 がいせん 式典 しきてん で「誰 だれ でも西 にし へ行 い けば陸地 りくち にぶつかる。造作 ぞうさ もないことだ」などとコロンブスの成功 せいこう を妬 ねた む人々 ひとびと に対 たい し、コロンブスは「誰 だれ かこの卵 たまご を机 つくえ に立 た ててみて下 くだ さい」と言 い い、誰 だれ もできなかったあとでコロンブスは軽 かる く卵 たまご の先 さき を割 わ ってから机 つくえ に立 た てた。「そんな方法 ほうほう なら誰 だれ でもできる」と言 い う人々 ひとびと に対 たい し、コロンブスは「人 ひと のした後 のち では造作 ぞうさく もないことです」と返 かえ した。これが『コロンブスの卵 たまご (Egg of Columbus)』の逸話 いつわ であり、「誰 だれ でもできることでも、最初 さいしょ に実行 じっこう するのは至難 しなん であり、柔軟 じゅうなん な発想 はっそう 力 りょく が必要 ひつよう 」「逆転 ぎゃくてん の発想 はっそう 」という意 い の故事 こじ 成語 せいご として今日 きょう 使 つか われている[注 ちゅう 17] 。
しかし、ヴォルテール は『習俗 しゅうぞく 論 ろん 』(第 だい 145章 しょう )にて「これは建築 けんちく 家 か フィリッポ・ブルネレスキ の逸話 いつわ が元 もと になった創作 そうさく だ」と指摘 してき し、会話 かいわ の内容 ないよう などもそのまま流用 りゅうよう されていると説明 せつめい した[35] 。逸話 いつわ の内容 ないよう は1410年代 ねんだい 、『フィレンツェ のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大 だい 聖堂 せいどう のクーポラ(ドーム部分 ぶぶん )の設計 せっけい にみな難儀 なんぎ していた際 さい 、ブルネレスキは設計 せっけい 図面 ずめん も完成 かんせい 模型 もけい も見 み せないまま「私 わたし に建築 けんちく させて下 くだ さい」と立候補 りっこうほ した。ほかの建築 けんちく 家 か たちが大 だい 反対 はんたい したところ、ブルネレスキは「大理石 だいりせき の上 うえ に卵 たまご を立 た てられる人 ひと に建築 けんちく を任 まか せてみてはどうか」と提案 ていあん 。誰 だれ もできなかった中 なか で、ブルネレスキは卵 たまご の底 そこ を潰 つぶ して立 だ てた。当然 とうぜん のごとく周囲 しゅうい から批判 ひはん されたが、ブルネレスキは「最初 さいしょ にやるのがもっとも難 むずか しい。もし先 さき に図面 ずめん を見 み せたら、あなたたちは真似 まね をするでしょう?」と切 き り返 かえ した』というものである。
旧 きゅう 5000イタリア・リレ紙幣 しへい (1971年 ねん にデザインを変更 へんこう した後期 こうき バージョン)
紙幣 しへい では、イタリアで1964年 ねん から1979年 ねん まで発行 はっこう されていた5,000リラ 札 さつ 、スペインで1992年 ねん から2001年 ねん まで発行 はっこう されていた5,000ペセタ 札 さつ 、エルサルバドル で2001年 ねん まで流通 りゅうつう していた全 ぜん 額面 がくめん のコロン 札 さつ でその肖像 しょうぞう が使用 しよう されていた。
^ コロンブスは1470年 ねん 10月 がつ 31日 にち 付 づけ の公正 こうせい 証書 しょうしょ において「満 まん 19歳 さい 」、ジェノヴァで開 ひら かれた裁判 さいばん で1479年 ねん 8月 がつ 25日 にち に証言 しょうげん した際 さい に「満 まん 27歳 さい 」と述 の べており、これら2 ふた つの証言 しょうげん から1451年 ねん の8月 がつ 26日 にち から10月 がつ 31日 にち までの間 あいだ に出生 しゅっしょう したと考 かんが えられる。(青木 あおき (1993)、p.444)
^ Christophorus Columbus
^ Christopher Columbus
^ イタリア語 ご : Cristoforo Colombo
^ スペイン語 ご : Cristóbal Colón
^ これはコロンブスがカトリック両 りょう 王 おう に送 おく った手紙 てがみ の断片 だんぺん をフェルナンドが記録 きろく したものにあるが、この説明 せつめい には矛盾 むじゅん がある。航海 こうかい 当時 とうじ 20歳 さい 前後 ぜんこう のコロンブスが船長 せんちょう を務 つと めるには若 わか すぎる事 こと (笈川 おいかわ p23-24 )、サルディニア で敵 てき の艦隊 かんたい が見 み つかったため北 きた へ引 ひ き返 かえ そうとする船員 せんいん たちを、方位 ほうい 磁針 じしん の文字 もじ 板 ばん を南北 なんぼく 逆 ぎゃく にして騙 だま し南 みなみ へ向 む かったという点 てん に、太陽 たいよう の位置 いち から船員 せんいん らが方角 ほうがく を間違 まちが えるはずが無 な い(笈川 おいかわ p23-24 、ルケーヌp25-28 )という点 てん が指摘 してき されている。しかしルケーヌは、スペインと敵対 てきたい した行為 こうい を、しかも標的 ひょうてき が「フェルナンディア号 ごう 」であったことをスペインの「フェルナンド2世 せい 」が読 よ む手紙 てがみ に自 みずか らへの心象 しんしょう を傷 きず つける可能 かのう 性 せい がありながら記 しる している点 てん から、脚色 きゃくしょく を含 ふく みつつも航海 こうかい そのものは事実 じじつ だったと推察 すいさつ している(ルケーヌp28-29 )。
^ 笈川 おいかわ p27 では「1478年 ねん から翌年 よくねん 」とあるが、同 どう 箇所 かしょ には乗船 じょうせん が沈没 ちんぼつ しポルトガルに渡 わた った時 とき を「1476年 ねん 8月 がつ 」と明記 めいき しており、矛盾 むじゅん がある。
^ ルケーヌp32 でルケーヌは、この海戦 かいせん は本当 ほんとう はフランス・カタルーニャ連合 れんごう に加 くわ わっていたカズノヴ・クーロン船長 せんちょう の私 わたし 掠 かすめ 船 せん にコロンブスが乗 の っていた際 さい の戦 たたか いを指 さ していたものを、同郷 どうきょう 人 じん の船 ふね を襲 おそ った良心 りょうしん の呵責 かしゃく から偽 いつわ って1485年 ねん に起 お こった別 べつ の海戦 かいせん の内容 ないよう へ差 さ し替 か えたと主張 しゅちょう している。
^ 笈川 おいかわ p.98-100 、ただし増田 ますだ p.75 では西 にし アフリカ航海 こうかい 中 ちゅう に漂流 ひょうりゅう 者 しゃ を拾 ひろ い上 あ げたとある。
^ 増田 ますだ p.28 では1483年 ねん 末 まつ 。
^ ラス・カサス『インディアス史 し 』にある内容 ないよう だが、これは後 のち にスペイン王室 おうしつ と結 むす んだサンタフェ条約 じょうやく とまったく同一 どういつ であり、笈川 おいかわ (p45) はラス・カサスが誤 あやま った可能 かのう 性 せい を示唆 しさ している。
^ この行動 こうどう について、ルケーヌp.50 は亡 な き妻 つま フェリパの姉妹 しまい が当地 とうち におり、その伝 つて を頼 たよ ったという。同書 どうしょ では、修道院 しゅうどういん 長 ちょう のフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父 しんぷ はポルトガル人 じん で、この姉妹 しまい と面識 めんしき があった可能 かのう 性 せい を示唆 しさ している。
^ ルケーヌp.51 によると「4月 がつ または5月 がつ 」
^ 林屋 はやしや 、解説 かいせつ p.283 (第 だい 1回 かい 会議 かいぎ は1486 年 ねん 夏 なつ にコルドバにて、第 だい 2回 かい は同年 どうねん にサラマンカ にて)に準拠 じゅんきょ する。増田 ますだ p.33 は1486年 ねん 秋 あき と1487年 ねん 春 はる と表記 ひょうき 。笈川 おいかわ p.49 は増田 ますだ が示 しめ す場所 ばしょ のみ表記 ひょうき し、時期 じき には触 ふ れず。
^ 委員 いいん 長 ちょう のタラベラが取 と った態度 たいど について、文献 ぶんけん に差 さ がある。増田 ますだ p.33-34 では「コロンブスに好意 こうい 的 てき 」と言 い う。ところがルケーヌp.53 では、サンタフェ条約 じょうやく 締結 ていけつ 後 ご にタラベラはイサベル1世 せい に手紙 てがみ を送 おく り、世界 せかい の果 は てを越 こ えることは神 かみ に対 たい する不遜 ふそん な行為 こうい であり、コロンブスを異端 いたん 審問 しんもん にかけるよう主張 しゅちょう したとある。
^ 増田 ますだ p.34-36 の内容 ないよう に準 じゅん ずる。笈川 おいかわ p.50 ではジョアン2世 せい はコロンブスを招待 しょうたい したが喜 き 望 もち 峰 ほう の件 けん で頓挫 とんざ したと、林屋 はやしや 、解説 かいせつ p.283 ではコロンブスはポルトガルに向 む かい再度 さいど 謁見 えっけん したが同 おな じ理由 りゆう で立 た ち消 ぎ えになったとある。ルケーヌp.53-54 では、手紙 てがみ の返事 へんじ にジョアン2世 せい は旅券 りょけん を送 おく ったが、コロンブスは用心深 ようじんぶか くポルトガルに向 む かわなかったとある。
^ 天才 てんさい パズル作家 さっか サム・ロイド は別 べつ に9つの点 てん を4本 ほん の線 せん でつなぐパズルなど2つを「コロンブスの卵 たまご 」と名 な づけている(Nine dots puzzle) 。
本 ほん 脚注 きゃくちゅう は、出典 しゅってん ・脚注 きゃくちゅう 内 ない で提示 ていじ されている「出典 しゅってん 」を示 しめ しています。
^ アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般 いっぱん 史 し 』17世紀 せいき
^ ポルトガル王室 おうしつ 付 つ き歴史 れきし 家 か ジョアン・デ・バロス (1496年 ねん - 1570年 ねん )『アジア』
^ ラス・カサス『インディアス史 し 』
・冨田 とみた 晃 あきら 「コロンブスと食 しょく 人 じん 伝説 でんせつ カニバリズム」ISSN04391713
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