クリストファー・コロンブス

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クリストファー・コロンバス(えい
クリストーフォロ・コロンボ(
クリストバル・コロン(西にし
Christopher Columbus
Cristoforo Colombo
Cristóbal Colón
生誕せいたん 1451ねん
ジェノヴァ共和きょうわこく ジェノヴァ
死没しぼつ 1506ねん5がつ20日はつか
カスティーリャ王国おうこく バリャドリッド
職業しょくぎょう

大洋たいよう提督ていとく インディアスの総督そうとくふくおう

カスティーリャ王国おうこく国務こくむいん議員ぎいん
配偶はいぐうしゃ フェリパ・ペレストレリョ・エ・モイス
ベアトリス・エンリケス・デ・アラーナスペインばん内縁ないえん
子供こども ディエゴ・コロン
エルナンド・コロンスペインばん
おや

ちち : ドメニコ・コロンボ

はは : スサナ・フォンタナロサ
署名しょめい
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クリストファー・コロンブス1451ねん [ちゅう 1]- 1506ねん5がつ20日はつか)は、だい航海こうかい時代じだい探検たんけん航海こうかいしゃコンキスタドール奴隷どれい商人しょうにん定説ていせつではイタリアジェノヴァ出身しゅっしん[1]ランス・オ・メドー発見はっけんされるまではキリスト教きりすときょう世界せかい白人はくじんとしては最初さいしょアメリカ海域かいいき到達とうたつしたとされていた。

かれ実績じっせきによりかれ子孫しそんスペイン王室おうしつよりベラグア公爵こうしゃくラ・ベガ公爵こうしゃくスペインばんじょされ、2024ねん現在げんざいまでスペイン貴族きぞく公爵こうしゃくいえとしてつづいている。

名前なまえについて[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは普通ふつうクリストファー・コロンブスとばれているが、これはかれ元々もともとせいラテン語らてんご[ちゅう 2]によって表記ひょうきしたものが、そのまま英語えいご[ちゅう 3]れられて、日本にっぽんにもつたわり、一般いっぱんしたものである[2]

ジェノヴァ出身しゅっしんかれ元々もともと姓名せいめいはクリストーフォロ・コロンボ[ちゅう 4]であった。しかし、スペインにうつんでからはクリストバル・コロン[ちゅう 5]えている。当時とうじのスペインで作成さくせいされた文献ぶんけんのほとんどすべてにおいてかれは「コロン」とばれていることからも、本人ほんにん名乗なのっていた名前なまえは「クリストバル・コロン」であったとかんがえられる。

ジェノヴァ時代じだい[編集へんしゅう]

生誕せいたん[編集へんしゅう]

コロンブスは、1451ねん8がつ25にちから10がつまつまでのあいだに、ジェノヴァもしくはその近郊きんこうまれたというせつ主流しゅりゅうであった[3]が、これについては史料しりょうとして裏付うらづけとなる根拠こんきょがなく、異説いせつおおいため、はっきりした事実じじつ判明はんめいしていない。

通説つうせつ(ジェノヴァせつ)では、毛織物けおりもの職人しょくにん一家いっかそだったちちドメニコ・コロンボとははスサナ・フォンタナローサのあいだにはクリストファーをふくみ7にんがいたが、うえ2人ふたりわかくして死亡しぼうしたとかんがえられ、なん記録きろくのこっていない[3]

おとうとは1 - 2さいバルトロメと17さいにジャコモ(のちにディエゴとばれる)、いもうとは2にんいたが記録きろくのこるのはピアンチネータの一人ひとりだけである[3]ちち毛織物けおりものぎょう自営じえいしていたが一家いっかけっして裕福ゆうふくではなく、ワインチーズ売買ばいばいおこなっていた。

ジェノヴァにあるコロンブスのモニュメント

うみとのかかわり[編集へんしゅう]

コロンブスとうみとのかかわりは10代のころからはじまった。最初さいしょ父親ちちおや仕事しごと手伝てつだってふねり、1472ねんにはアンジューこうルネから対立たいりつするアラゴン王国おうこくガレーせん・フェルナンディアごう拿捕だほいのちけたふねってチュニスかったというせつもある[ちゅう 6]。1475ねんから翌年よくねんにはジェノヴァのチェントリオーネやとわれ[4][ちゅう 7]、ローナごう[5]ゲ海げかいヒオスとうって乳香にゅうこうマスティーハ取引とりひきかかわったと、だいいち航海こうかいにてべられている。

1476ねん5がつにはチェントリオーネやスピノラ、ディ・ネグロなどジェノヴァ商人しょうにんだんやとわれ、乳香にゅうこうイギリスフランドルはこ商船しょうせんたい参加さんかし、ベカッラごうんだ。しかし8がつ13にち[5]、この船団せんだんブルゴーニュはたかかげていたため、ポルトガルサン・ヴィセンテみさきおき当時とうじ敵対てきたいしていたフランス艦船かんせんから攻撃こうげきけ、ふね沈没ちんぼつした。コロンブスはかいにつかまっておよぎ、ポルトガルのラゴス(en)までたどりいた。なお、コロンブスが乗船じょうせんしていたのはフランスとカタルーニャ連合れんごうふねであり、いわばジェノヴァ船団せんだん攻撃こうげきしたがわにいたという主張しゅちょうもある[ちゅう 8]

ポルトガル時代じだい[編集へんしゅう]

リスボンでのコロンブス[編集へんしゅう]

かれはジェノヴァじん共同きょうどうたいたすけをりてリスボンうつった[3]。この時期じきは1477ねんはる以降いこうかんがえられる[6]。そこには、地図ちず製作せいさく従事じゅうじするおとうとのバルトロメがんでおり、コロンブスはおとうと一緒いっしょ地図ちず作成さくせい売買ばいばいをしながら、たびたび航海こうかいにもくわわっていた。1477ねん2がつには、イギリスのブリストルアイルランドゴールウェイ、そしてアイスランドまでかった。アイスランドには、かつてヴァイキングきたアメリカ植民しょくみんきずいたという「ヴィンランド伝説でんせつ」があったが、コロンブスがこの伝承でんしょうみみにしたかどうかはかっていない[7]

1479ねんまつ、コロンブスはフェリパ・ペレストレリョ(ペレストレーロ[8])・エ・モイス(またはフェリパ・モニス・ペレストレロ[9])と結婚けっこんした。ロス・サントス修道院しゅうどういんのミサで彼女かのじょ見初みそめたのがなれそめという[3]。しかし、フェリパのちちマデイラ諸島しょとうにあるポルト・サントとう世襲せしゅう領主りょうしゅバルトロメウ・ペレストレリョ(ペレストレーロ)であり、いわば貴族きぞく階級かいきゅう女性じょせいであった。このわない結婚けっこん背景はいけいには、フェリパが25さいという、当時とうじとしては晩婚ばんこんえる年齢ねんれいであったこと、ちちバルトロメウは20ねんまえ死去しきょし、以後いごのペレストレリョ没落ぼつらくしており持参じさんきん準備じゅんびできなかったこと、ぎゃくにコロンブスは航海こうかい地図ちず製作せいさくしゃとして一定いってい成功せいこうおさめていたことなどがあったと推察すいさつされている[8][9][10]

西にしまわ航海こうかい着想ちゃくそう[編集へんしゅう]

結婚けっこんつまのゆかりのポルト・サントとう(またはマデイラとう)に夫婦ふうふくこともあり、1480ねんごろにそこで長男ちょうなんディエゴめぐまれた。1481ねんディオゴ・デ・アザンプージャ英語えいごばん西にしアフリカ南下なんかし、エルミナじょうきず航海こうかいているが、これにコロンブスがくわわりギニア黄金おうごん海岸かいがんまでった[11]かんがえられている。ポルトガルがわにこれを証拠しょうこづける資料しりょうはないが、コロンブスはだいいち航海こうかい日誌にっしバルトロメ・デ・ラス・カサス編纂へんさん)にて西にしアフリカの情景じょうけいいにしているところや[10]所蔵しょぞうしていたピエール・ダイイちょ『イマゴ・ムンディ(世界せかいぞう)』の「熱帯ねったい地方ちほうには人間にんげんめない」という箇所かしょに「実際じっさいってみたが、熱帯ねったいにもひとんでいた」とんでいる[12]てんがその根拠こんきょとされる。

また、当時とうじのある事件じけんをラス・カサスは『インディアス』(だいいちかんじゅうよんしょう)にしるしている。それは、マデイラとう漂着ひょうちゃくした白人はくじん漂流ひょうりゅうしゃがいたというものである。この漂流ひょうりゅうしゃはポルトガル交易こうえき船員せんいんだったが、あらしのためにキューバまでながされてしまい、ふね修理しゅうりしてひがし出航しゅっこうしたがきてマデイラとうにたどりいたすうめいはほとんどすぐに、最後さいご一人ひとりをコロンブスが保護ほごしたが、やがてかれくなった。『インディアス自然しぜん一般いっぱん (Historia General y Natural de las Indias)』をあらわしたフェルナンデス・オヴェイド(en)も1535ねんにこの説話せつわ懐疑かいぎてきながら採録さいろくしている。コロンブス自身じしん著述ちょじゅつしたどの文章ぶんしょうにもこのはなしかれていないが、ラス・カサスはこの事件じけんがコロンブスをして西にしまわ航路こうろ発想はっそういたらす原点げんてんになったとべている[ちゅう 9]

このころ、コロンブスは積極せっきょくてきスペインラテン語らてんごなどの言語げんご天文学てんもんがく地理ちり、そして航海こうかいじゅつ習得しゅうとくつとめた。仕事しごと拠点きょてんであるリスボンでパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ機会きかいて、手紙てがみ交換こうかんをしている。当時とうじはすでに地球ちきゅう球体きゅうたいせつ一般いっぱんしんじられていたが、トスカネッリはマルコ・ポーロかんがえをれ、大西洋たいせいようはさんだヨーロッパとアジアの距離きょりプトレマイオス試算しさんよりもずっとみじかいと主張しゅちょうしていた。『東方とうほう見聞けんぶんろく』にある黄金おうごんくにジパングかれていたコロンブスはここに西にしまわりでアジアにかう計画けいかく現実げんじつせい見出みいだした。また、現存げんそんする最古さいこ地球儀ちきゅうぎつくったマルティン・ベハイムとも交流こうりゅう意見いけん交換こうかんしたせつもある[13][2- 1]。これらの収集しゅうしゅう情報じょうほう考察こうさつてコロンブスは西にしまわ航海こうかい可能かのうだとする5つの理論りろん根拠こんきょ構築こうちくした。ラス・カサス『インディアス』(だい5しょう)に記載きさいされたその内容ないようは、[14]

  1. 地球ちきゅう球体きゅうたいであり、西にしすすめばひがしはしにたどりつく。
  2. 地球ちきゅう未知みち部分ぶぶんはアジア東端ひがしばたからベルデみさき諸島しょとう以西いせいだけになった。
  3. 2世紀せいきギリシアひと地理ちり学者がくしゃマリヌスはヨーロッパからアジアまでは地球ちきゅうの15/24にたるという。したがって未知みち領域りょういきは9/24=やく1/3となる。
  4. マリヌスが認識にんしきしていたアジアは(当時とうじ認識にんしきされていたという意味いみで)現在げんざいのアジア東端ひがしばたまでにくらべればせまい。したがって未知みち領域りょういきはさらにせまくなる。
  5. 9世紀せいきイスラムひと天文学てんもんがくしゃアルフラガヌス経度けいど1=やく56.6マイルと計算けいさんした。したがって未知みち領域りょういきは56.6×360/3=やく6,800マイル。しかもこれは赤道せきどうじょうでありきたよせ航路こうろならば距離きょりはさらにちぢまる。

このかんがえの根底こんていにはアリストテレス地理ちりかんいだ中世ちゅうせいキリスト教きりすときょう普遍ふへんかんから、世界せかいはヨーロッパ・アジア・アフリカの3大陸たいりくっていたという概念がいねんがある。地球ちきゅうおおきさについても、北緯ほくい28におけるカナリア諸島かなりあしょとうから日本にっぽんまでを実際じっさいの10,600うみさとたいしコロンブスは2,400海里かいりと、非常ひじょうちいさく見積みつもっていた[15]

王室おうしつへの提案ていあん[編集へんしゅう]

1484ねんまつ[ちゅう 10]、コロンブスはポルトガルおうジョアン2せい航海こうかいのための援助えんじょもとめ、その自信じしんあふれた弁舌べんぜつ[2- 2]、ジョアン2せい興味きょうみをそそられた[16]。コロンブスは資金しきん援助えんじょくわ成功せいこう報酬ほうしゅうもとめたが、たか地位ちい権利けんり、そして収益しゅうえきの10%というおおきなものだった[ちゅう 11]王室おうしつ数学すうがく委員いいんかい(フンタ・ドス・マテマティコス)の諮問しもんにかけて検討けんとうしたが、回答かいとう否決ひけつだった。コロンブス以前いぜんにも大西洋たいせいようへの航海こうかいなんこころみられたがすべて失敗しっぱいし、一方いっぽうでアフリカ探検たんけんディオゴ・カンコンゴ王国おうこくとの接触せっしょく成功せいこう[16]もちほうたっする寸前すんぜんまでていたこと、さらにコロンブスの要求ようきゅうがあまりに過剰かじょうだとめられたことも影響えいきょうした[17]

再度さいどコロンブスは提案ていあん上奏じょうそうしたが決定けっていくつがえらず[17]、ジョアン2せいはコロンブスが自費じひ航海こうかいをするならばよいとうのみだったが、コロンブスにはそのような資金しきんがなく[16]借金しゃっきんさえかかえていた[6]。このころ、コロンブスはつまフェリパをくし、1485ねんなかばごろ、8年間ねんかんごしたポルトガルにわかれをげる決心けっしんをつけた[6]

スペイン時代じだい[編集へんしゅう]

コロンブスはリスボンから海路かいろ、スペインのパロスき、そこからウエルバのティントかわ沿いのおかつラ・ラビダ修道院しゅうどういんたずねた[ちゅう 12]。5さい息子むすこディエゴをともなったかれまねれた修道院しゅうどういんちょうのフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父しんぷはコロンブスのはなし感銘かんめいけ、かれ天文学てんもんがくしゃでもある[18]セビリアのアントニオ・マルチェーナ神父しんぷ紹介しょうかいし、そこへかうために息子むすこディエゴを修道院しゅうどういんあずかった。さらにコロンブスはスペイン貴族きぞくだい2だいメディナ=シドニア公爵こうしゃくドンエンリケ・デ・グスマンスペインばん[16]、そして初代しょだいメディナセリ公爵こうしゃくスペインばん(5だいメディナセリ伯爵はくしゃくスペインばん[18])ドン・ルイス・デ・ラ・セルダスペインばん[16]面会めんかいする機会きかいた。メディナセリこう興味きょうみいだき、コロンブスがもとめたすうせきふね食料しょくりょうなど3,000 - 4,000ドゥカート相当そうとう物資ぶっし準備じゅんびすることに合意ごういした[18][2- 3]

コロンブスが作成さくせいしたとわれる地図ちず。これは19世紀せいき発見はっけんされたものだが、アイスランドとフェローズ諸島しょとう位置いちぎゃくになっているなど、疑問ぎもん提示ていじされている[19]

カトリックりょうおうへの[編集へんしゅう]

コロンブスへの援助えんじょ同意どういしたメディナセリこうだったが、このような計画けいかく王室おうしつへの許可きょかるべきだとかんがカスティーリャイサベル1せい計画けいかくらせると、彼女かのじょ自身じしんがこれに興味きょうみおぼえた[16]。1486ねん5がつ1にち[ちゅう 13]、メディナセリこう紹介しょうかいしてコロンブスはコルドバでイサベル1せいとそのおっとフェルナンド2せいカトリックりょうおう)に謁見えっけんした。コロンブスのはなしにフェルナンド2せいはあまり興味きょうみたなかったが、イサベル1せいきつけられた。計画けいかくは、懺悔ざんげ聴聞ちょうもんのエルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父しんぷ中心ちゅうしんとする諮問しもん委員いいんかいもうけられ、そこで評価ひょうかされることになった。1486ねんだけで[ちゅう 14]委員いいんかいひらかれたが、コロンブスがしめしたアジアまでの距離きょりとく疑問ぎもんされ、結論けつろんされた。

コロンブスはメディナセリこう支援しえんけながらコルドバのかれしろ滞在たいざいし、カトリックりょうおうとの面談めんだん模索もさくする一方いっぽうで、交流こうりゅうった医師いし学者がくしゃらのなか一人ひとりから当時とうじ20さい(または21さい)の小作こさくじんむすめベアトリス・エンリケス・デ・アラーナスペインばん[20]恋愛れんあい関係かんけいとなり、1488ねん8がつ15にちフェルナンドスペインばんまれたが、コロンブスはベアトリスと正式せいしき結婚けっこんしなかった。

しかしスペイン王室おうしつからの返事へんじはなかなかとどかなかった。コロンブスに好意こういった委員いいん会長かいちょうのタラベラや、メンバーの1人ひとりであるドミニコかいのディエゴ・デ・デサらは、委員いいんかい否定ひていてき結論けつろんそうとするとばしにかかっていた[16][ちゅう 15]。コロンブスはポルトガルのジョアン2せい手紙てがみおくったが、バルトロメウ・ディアスもちほう発見はっけんもあってはなしがまとまることはなかった[ちゅう 16]。また、おとうとバルトロメをイギリスヘンリー7せいフランスシャルル8せいしたけ、計画けいかく宣伝せんでんをさせた。いずれのおうからも支持しじられなかったが、シャルル8せいあねアンヌ・ド・ボージュー歓待かんたいて、バルトロメはフォンテーヌブロー宮殿きゅうでんすう年間ねんかん滞在たいざいした[21]。しかしこれらの行動こうどうむすばなかった。

一方いっぽうのスペイン王室おうしつは、1489ねん5がつ12にちづけでコロンブスが王室おうしつ謁見えっけんするときに必要ひつよう宿泊しゅくはく無料むりょうにする通達つうたつ[21]など、不完全ふかんぜんではあるが金銭きんせんてき援助えんじょおこな[19]けっしてかれ邪険じゃけんにしていたわけではなかった。しかし1490ねん、タラベラの委員いいんかい提案ていあん反対はんたいする結論けつろんしたことでコロンブスはあきら気味ぎみにパロスにもどり、ラ・ラビダ修道院しゅうどういんかった。はなしいたペレス院長いんちょうはコロンブスを慰留いりゅうし、イサベル1せい側近そっきんセバスチャン・ロドリゲスをたより、王室おうしつさい検討けんとううながした。このわずか2週間しゅうかん、コロンブスのもとに王室おうしつ書簡しょかんとどき、たびきんえて出頭しゅっとうするよう勧告かんこくする内容ないようがあった。提案ていあん検討けんとうはカスティリャ枢機すうきいんうつされた。

イザベル1せいとコロンブス(カリフォルニアしゅう議事堂ぎじどう

しかし1491ねん枢機すうきいんにもあん否決ひけつされたために、万策ばんさくきたコロンブスはおとうとバルトロメが滞在たいざいするフランスへかう決意けついかためた。ここにルイス・デ・サンタンヘルスペインばん登場とうじょうする。財務ざいむ長官ちょうかんであったかれ女王じょおう説得せっとくし、コロンブスが提示ていじした条件じょうけん見込みこめる収入しゅうにゅうからすれば充分じゅうぶんい、また必要ひつよう経費けいひみずからが都合つごうをつけるともうた。

1492ねん1がつ2にちに、ムーアじん最後さいご拠点きょてんであったグラナダが陥落かんらくしたことで、スペインに財政ざいせいじょう余裕よゆうができたことをサンタンヘルは指摘してきした[22]。もともと興味きょうみっていたイサベル1せいはこれでいきおいをてフェルナンド2せいせ、スペインはついにコロンブスの計画けいかく承認しょうにんした。このとき、コロンブスはまさにフランスへけてグラナダを出発しゅっぱつしたところだった。女王じょおう伝令でんれいかれいかけ、15キロほどさきのピノス・プエンテむらはしうえでコロンブスにいついた。このはしには、劇的げきてきともいえる出来事できごと解説かいせつする銅版どうはんがある[23]

サンタ・フェ契約けいやく[編集へんしゅう]

1492ねん4がつ17にちグラナダ郊外こうがいサンタ・フェにて、コロンブスは王室おうしつと「サンタフェ契約けいやく」を締結ていけつした。その内容ないようは、

  1. コロンブスは発見はっけんされた土地とち終身しゅうしん提督ていとく(アルーランテ)となり、この地位ちい相続そうぞくされる。
  2. コロンブスは発見はっけんされた土地とちふくおう(ピリレイ)および総督そうとく(ゴベルナドール・ヘネラール)のにんく。各地かくち統治とうちしゃは3めい候補こうほをコロンブスが推挙すいきょし、このなかからえらばれる。
  3. 提督ていとくりょうからられたすべての純益じゅんえきのうち10%はコロンブスのぶんとする。
  4. 提督ていとくりょうからられた物品ぶっぴん交易こうえきにおいてしょうじた紛争ふんそうは、コロンブスが裁判さいばんけんつ。
  5. コロンブスが今後こんごおこな航海こうかいにおいて費用ひようの8ぶんの1をコロンブスが負担ふたんする場合ばあい利益りえきの8ぶんの1をコロンブスのぶんとする。

というものだった。[24]

航海こうかい経費けいひは、ルイス・デ・サンタンヘルが中心ちゅうしんとなって調達ちょうたつされた。かれは、警察けいさつ機構きこうサンタ・エルマンダーの経理けいり担当たんとうであったジェノヴァじんフランチェスコ・ピネリと協力きょうりょくして140まんマラベディを、さらにアラゴン王国おうこく国庫こっこから35まんマラベディを調達ちょうたつし、コロンブスに提供ていきょうした[25]。これは、イサベル1せい戴冠たいかんよう宝玉ほうぎょく担保たんぽ供出きょうしゅつすることをふせぐことが目的もくてきだった[26]。コロンブスは25まんマラベディを調達ちょうたつしたが、これはメディナセリこうやセビリアのフィレンツェじん銀行ぎんこうベラルディなどから借金しゃっきんをしてかきあつめたものだった[27]

航海こうかい[編集へんしゅう]

船出ふなで[編集へんしゅう]

1492ねん8がつ3にちスペインウェルバのパロスみなとからインド(インディア)を目指めざして大西おおにしひろし出航しゅっこうした。このときの編成へんせいキャラベルせんニーニャごうピンタごうナオせんサンタ・マリアごうの3せきそう乗組のりくみ員数いんずうやく90にん(120にんというせつも)。

いったんカナリア諸島かなりあしょとうり、だい航海こうかい準備じゅんびととのえたあと、一気いっき西進せいしんした。大西洋たいせいよう極端きょくたんしますくない大洋たいようであり、船員せんいんあいだには次第しだい不安ふあんつのっていった。当時とうじ最新さいしん科学かがくでは地球ちきゅう球体きゅうたいであるということはほぼ常識じょうしきとなっていたが、船員せんいんあいだでは地球ちきゅう平面へいめんとする旧来きゅうらいかんがえも根強ねづよのこっていた。

コロンブス自身じしん平気へいきなふりをしていたが、計算けいさんえてなが航海こうかいとなったことに不安ふあんかんじるようになる。10月6にちには小規模しょうきぼ暴動ぼうどうこり、3にちには船員せんいん不安ふあん頂点ちょうてんたっし、コロンブスにせまって「あと3にち陸地りくちつからなかったらかえす」と約束やくそくさせた。その流木りゅうぼくなどを発見はっけんりくちかくにあると船員せんいん説得せっとくする。

1492ねん新大陸しんたいりく上陸じょうりく[編集へんしゅう]

コロンブスの航路こうろ

そして10月11にち日付ひづけわろうとするとき、ピンタごう水夫すいふ陸地りくち発見はっけんした。翌朝よくあさ、コロンブスはそのしま上陸じょうりくし、ここを占領せんりょうしてサン・サルバドルとうづける。

最初さいしょ上陸じょうりくしたしまでコロンブス一行いっこうは、アラワクぞくインディアンたちから歓待かんたいける。アラワクぞくふねからがったコロンブスたちにみず食料しょくりょうおくり、オウムや綿めんたまやりやそのたことのないたくさんのものをってきた。コロンブス一行いっこうはそれをガラスのビーズやたかすず交換こうかんした。しかしコロンブスの興味きょうみは、ただ黄金おうごんにしかなかった。かれはこうのこしている。[28]

かれらと友好ゆうこうむすぶため、それにまた、かれらはちからではなくあいをもってせっすれば、よりすみやかに解放かいほうされ、われらのせいなる信仰しんこう帰依きえするとかったので、かれらの何人なんにんかにあかいボンネットぼうくびにかけるガラスだま数珠じゅずといった安価あんかしなをいくつかあたえたところ、かれらはとてもよろこび、我々われわれおどろくほどなごやかな間柄あいだがらになった。(中略ちゅうりゃく)
かれらはぼくになるにちがいない。なぜならわたしがるに、かれらはわたしがはなすことすべて、すぐにあとについてくちにするからである。また、わたしはかれらはすみやかにキリスト教徒きりすときょうとになるとしんじる。なぜならいかなる宗派しゅうはももっていないようにおもわれたからである」

コロンブスはこのしま略奪りゃくだつはたらき、つぎ現在げんざいキューバしま発見はっけんした。ここを「フアナとう」とづけたあと、ピンタごう船長せんちょうであるマルティン・アロンソ・ピンソン独断どくだんによりピンタごう一時いちじ離脱りだつしてしまうが、12月6にちにはイスパニョーラとうづけたしま到達とうたつ。24にちにサンタ・マリアごう座礁ざしょうしてしまう。しかし、その残骸ざんがい利用りようして要塞ようさいつくり、アメリカにおけるスペインはつ入植にゅうしょくつくった。この入植にゅうしょくには39めい男性だんせいのこった。

としけ、1493ねん1がつ6にちにピンタごうふたた合流ごうりゅうする。1がつ16にち、スペインへの帰還きかんめいじ、3月15にちにパロスこう帰還きかんした。

帰還きかんしたコロンブスを歓迎かんげいして宮殿きゅうでんでは盛大せいだい式典しきてんひらかれた。コロンブスは航海こうかいさきんじて、発見はっけん総督そうとくしょく世襲せしゅう提督ていとく地位ちい発見はっけんからがる収益しゅうえきの10ぶんの1をもら契約けいやくわしていた。このめにしたがい、コロンブスはインディアンから強奪ごうだつした金銀きんぎん宝石ほうせき真珠しんじゅなどの戦利せんりひんの10ぶんの1をれた。また陸地りくち発見はっけんしたものには賞金しょうきんがカトリックりょうおうからあたえられることになっていたが、コロンブスは自分じぶんさき発見はっけんしたといいはり、これをせしめている。

国王こくおう調査ちょうさ報告ほうこくえ、すこしばかりの援助えんじょもとめたコロンブスは、つぎ航海こうかい目標もくひょうとしてこうべている。

かれらが必要ひつようとするだけのありったけの黄金おうごんかれらがしがるだけのありったけの奴隷どれいれてくるつもりだ。このように、永遠えいえんなる我々われわれかみは、一見いっけん不可能ふかのうなことであっても、おもおおせにしたがものたちには、勝利しょうりあたえるものなのだ」

1493ねん5がつ4にちマ法王まほうおう勅書ちょくしょはアゾレス諸島しょとう西にし100リーグの分界ぶんかいせんさだめ、スペインはこれによって新大陸しんたいりく探検たんけん植民しょくみんする独占どくせんてき権利けんりにした[29]おりからの関心かんしんたかまりによって、コロンブスは2かい航海こうかい資金しきんなんなくつくることができた[29]

1493ねん[編集へんしゅう]

1493ねんの9がつに17せき1,500にん出発しゅっぱつしたコロンブスの2度目どめ航海こうかいは、その乗員じょういんなか農民のうみん坑夫こうふふくみ、植民しょくみん目的もくてきであった。11月にドミニカとうづけたしま到着とうちゃくしたが、前回ぜんかいつくった植民しょくみんってみると基地きち原住民げんじゅうみんであるインディアンにより破壊はかいされており、のこした人間にんげんはすべてころされていた。コロンブスはここを放棄ほうきしてあたらしく「イサベル植民しょくみん」をきずいた。しかし白人はくじん入植にゅうしょくしゃあいだでは植民しょくみんでの生活せいかつ不満ふまんこえがり、周辺しゅうへん諸島しょとうではアラワクぞくタイノぞくルカヤンぞくカリブぞくなどのインディアンのあいだ白人はくじん行為こういたいしていかりがじゅうせきしていた。

最終さいしゅうてきに、コロンブスのひきいるスペインぐんはインディアンにたいして徹底的てっていてき虐殺ぎゃくさつ弾圧だんあつおこなった。

1495ねん3がつ、コロンブスはすうひゃくにん装甲そうこうへい騎兵隊きへいたい、そして訓練くんれんされた軍用ぐんようけんからなる一大いちだい軍団ぐんだん組織そしきした。ふたた船旅ふなたびたコロンブスは、スペインじんんだやめいにたおれたインディアンのむら々を徹底的てっていてき攻撃こうげきし、すうせんにん単位たんい虐殺ぎゃくさつ指揮しきした。コロンブスの襲撃しゅうげき戦略せんりゃく以後いご10年間ねんかん欧州おうしゅうじんかえした殺戮さつりくモデルとなった[30]

コロンブスは、イスパニョーラとうのインディアン部族ぶぞく指導しどうしゃにらんでいた一人ひとり酋長しゅうちょうころさずに、まわしのけい投獄とうごくのあと、くさりにつないでふねせ、スペインへ連行れんこうしようとした。しかしのインディアンたちと同様どうように、この男性だんせい劣悪れつあく船内せんない環境かんきょうなか、セビリアにまえんでいる。

また一方いっぽうで、カリブぞくなかではひとひとべる習俗しゅうぞくのカニバリズムがある。このことはコロンブスによってスペインに報告ほうこくされ、そのひとにくらう裸族らぞく想像そうぞうをともないながらヨーロッパ世界せかいひろがっていった。

晩年ばんねん[編集へんしゅう]

植民しょくみん管理かんりおとうとまかせて、コロンブスは先住民せんじゅうみんおうともにスペイン本国ほんごく帰国きこくし、旧約きゅうやく聖書せいしょ登場とうじょうする土地とちオフィール英語えいごばん発見はっけんしたと報告ほうこくした[31]

コロンブスがカリブ海かりぶかい諸島しょとう指揮しきしたたりばったりのだい虐殺ぎゃくさつは、「黄金おうごんさがし」を使命しめいとしたスペイン海軍かいぐんによって体系たいけいされ、 あらゆる部族ぶぞく子供こども以外いがいのインディアンが、3かげつ以内いない一定いっていりょう黄金おうごんすよう脅迫きょうはくされた。かねとどけたインディアンには、「スペインじん敬意けいいあらわした」というあかしとして、その男女だんじょくびかけのしめぎあきらおくられた。かねりょうりなかったものは、おとこだろうとおんなだろうと手首てくびとされた。

コロンブスらスペインじん幻想げんそうよりも当地とうちかねりょうははるかにすくなかったため、にたくなかったインディアンたちは、生活せいかつ犠牲ぎせいにしてかねさがさざるをなかった。インディアンが逃亡とうぼうはじめると飢饉ききんはさらに悪化あっかした。コロンブスらスペインじんはこんだ疫病えきびょうは、栄養失調えいようしっちょうとなったインディアンたちのよわめられた身体しんたいをよりはげしくむしばんだ。そしてコロンブスたちとおなじく、スペインぐん面白おもしろ半分はんぶんおとこころおんなおかたのしみをけっしてやめなかった。

1498ねん5月、6せきふねで3度目どめ航海こうかいる。今度こんどみなみよりの航路こうろをとり、現在げんざいベネズエラオリノコがわ河口かこう上陸じょうりくした。その膨大ぼうだいりょう河水こうすい海水かいすいではなく真水まみずであったことから、それだけの大河たいがたくわえるのはしまではなく大陸たいりくであるということをコロンブスはみとめざるをなかった。それと同時どうじに、オリノコがわ上方かみがた地上ちじょう楽園らくえんからながれてているとかんがえていた[31]当時とうじ世界せかいかんではエデンのえん水源すいげんとする4つのかわ東方とうほうながれているとかんがえられていた[32])。

その北上ほくじょうしてサントドミンゴくとまかせていたおとうと・バルトロメの統治とうちわるさから反乱はんらんきていた。コロンブスは説得せっとくつづけるが、入植にゅうしょくしゃたちはこれをなかなかれず、1500ねん8がつ本国ほんごくから査察ささつかんにより逮捕たいほされ、本国ほんごくへと送還そうかんされた。つみわれることまぬかれたものの、すべての地位ちい剥奪はくだつされる。

それでもコロンブスは4度目どめとなる航海こうかい企画きかくするが、おうからの援助えんじょ小型こがたのボロふね4せきというものであった。1502ねん出航しゅっこうしたが、イスパニョーラとうへの寄港きこうきんじられており、パナマ周辺しゅうへんを6かげつさまよったが、最後さいご難破なんぱして救助きゅうじょされ、1504ねん11月にスペインへもどった。しかし1504ねんまつにイサベル女王じょおう死去しきょし、スペイン王室おうしつはコロンブスにたいしてさらに冷淡れいたんになった。

帰国きこく病気びょうきになり、1506ねん5がつ20日はつかスペインバリャドリッドにて死去しきょ。その遺骨いこつセビリア修道院しゅうどういんおさめられたが1542ねんサントドミンゴだい聖堂せいどううつされた。晩年ばんねん金銭きんせんてきにはめぐまれていたが、最期さいごまでみずからが発見はっけんしたしまをアジアだと主張しゅちょうつづけていた[33]

コロンブスの死後しご、ドイツの地理ちり学者がくしゃマルティン・ヴァルトゼーミュラーがけた地図ちずには、南米なんべい大陸たいりくの「発見はっけんしゃ」としてコロンブスではなく、アメリゴ・ヴェスプッチ名前なまえしるされた。この結果けっか、ヨーロッパでは「新大陸しんたいりく全域ぜんいき言葉ことばとして「コロンビア」ではなく「アメリカ」が使つかわれるようになった(ただし、18世紀せいき以降いこうアメリカの雅称がしょうとして「コロンビア」ももちいられる)。

航海こうかいなどの関係かんけいりゃく年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

出自しゅつじかんする諸説しょせつ[編集へんしゅう]

コロンブスにかんしてはその出自しゅつじあきらかではないこと、まただい航海こうかい目的もくてき自体じたいがあまり明確めいかくかたがれていないことなどから、さまざまな異聞いぶんながれている。また、のこされている肖像しょうぞうはすべて本人ほんにん死後しごえがかれたものであり、いまとなってはコロンブスのしん素顔すがおるすべはない。

レオナルド・ダ・ヴィンチの日記にっきなかに「ジェノヴァじん船乗ふなのりと地球ちきゅうについてはなす」という興味深きょうみぶか記述きじゅつがあることから[よう出典しゅってん]両者りょうしゃあいだ面識めんしきがあったのではないかというせつがある。

ユダヤじん[編集へんしゅう]

おおかたられているものとしては、コロンブスはユダヤじん片親かたおやからまれたのではないかとするせつである。

1492ねん、スペイン王家おうけどう国内こくないむユダヤじんたいし8がつ2にち期限きげんとする国外こくがい追放ついほうれい発布はっぷしたが、コロンブスがスペイン王家おうけ支援しえんけて出航しゅっこうしたのはよく8がつ3にちである。このことから、コロンブス出航しゅっこうしん目的もくてきはユダヤじん移住いじゅうさがしではないかとするせつ存在そんざいする。また、教皇きょうこうインノケンティウス8せい落胤らくいんではないかとするせつ存在そんざいする。しかし、これらの仮説かせつ支持しじする研究けんきゅうしゃすくなく、俗説ぞくせついきていない。

ポーランドの王子おうじ[編集へんしゅう]

ヴワディスワフ3せいアレクサンデル・レッセル

アメリカ、ノースカロライナしゅうにあるデューク大学だいがくでITアナリストとしてはたらくアマチュア歴史れきしマヌエル・ロサ[34]は、2010ねん10月スペイン出版しゅっぱんした『コロンブス:かたられなかったストーリー』のなかで、コロンブスがポーランドおうヴワディスワフ3せい晩年ばんねんにかけてはウラースロー1せいとしてハンガリーおうけん)の息子むすこであるとのせつ主張しゅちょうしている。

「コロンブスのたまご[編集へんしゅう]

新大陸しんたいりく発見はっけんいわ凱旋がいせん式典しきてんで「だれでも西にしけば陸地りくちにぶつかる。造作ぞうさもないことだ」などとコロンブスの成功せいこうねた人々ひとびとたいし、コロンブスは「だれかこのたまごつくえててみてください」とい、だれもできなかったあとでコロンブスはかるたまごさきってからつくえてた。「そんな方法ほうほうならだれでもできる」と人々ひとびとたいし、コロンブスは「ひとのしたのちでは造作ぞうさくもないことです」とかえした。これが『コロンブスのたまご(Egg of Columbus)』の逸話いつわであり、「だれでもできることでも、最初さいしょ実行じっこうするのは至難しなんであり、柔軟じゅうなん発想はっそうりょく必要ひつよう」「逆転ぎゃくてん発想はっそう」という故事こじ成語せいごとして今日きょう使つかわれている[ちゅう 17]

しかし、ヴォルテールは『習俗しゅうぞくろん』(だい145しょう)にて「これは建築けんちくフィリッポ・ブルネレスキ逸話いつわもとになった創作そうさくだ」と指摘してきし、会話かいわ内容ないようなどもそのまま流用りゅうようされていると説明せつめいした[35]逸話いつわ内容ないよう1410年代ねんだい、『フィレンツェサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどうのクーポラ(ドーム部分ぶぶん)の設計せっけいにみな難儀なんぎしていたさい、ブルネレスキは設計せっけい図面ずめん完成かんせい模型もけいせないまま「わたし建築けんちくさせてください」と立候補りっこうほした。ほかの建築けんちくたちがだい反対はんたいしたところ、ブルネレスキは「大理石だいりせきうえたまごてられるひと建築けんちくまかせてみてはどうか」と提案ていあんだれもできなかったなかで、ブルネレスキはたまごそこつぶしててた。当然とうぜんのごとく周囲しゅういから批判ひはんされたが、ブルネレスキは「最初さいしょにやるのがもっともむずかしい。もしさき図面ずめんせたら、あなたたちは真似まねをするでしょう?」とかえした』というものである。

その[編集へんしゅう]

きゅう5000イタリア・リレ紙幣しへい1971ねんにデザインを変更へんこうした後期こうきバージョン)
  • 紙幣しへいでは、イタリアで1964ねんから1979ねんまで発行はっこうされていた5,000リラさつ、スペインで1992ねんから2001ねんまで発行はっこうされていた5,000ペセタさつエルサルバドルで2001ねんまで流通りゅうつうしていたぜん額面がくめんコロンさつでその肖像しょうぞう使用しようされていた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ コロンブスは1470ねん10がつ31にちづけ公正こうせい証書しょうしょにおいて「まん19さい」、ジェノヴァでひらかれた裁判さいばんで1479ねん8がつ25にち証言しょうげんしたさいに「まん27さい」とべており、これらふたつの証言しょうげんから1451ねんの8がつ26にちから10がつ31にちまでのあいだ出生しゅっしょうしたとかんがえられる。(青木あおき(1993)、p.444)
  2. ^ Christophorus Columbus
  3. ^ Christopher Columbus
  4. ^ イタリア: Cristoforo Colombo
  5. ^ スペイン: Cristóbal Colón
  6. ^ これはコロンブスがカトリックりょうおうおくった手紙てがみ断片だんぺんをフェルナンドが記録きろくしたものにあるが、この説明せつめいには矛盾むじゅんがある。航海こうかい当時とうじ20さい前後ぜんこうのコロンブスが船長せんちょうつとめるにはわかすぎること笈川おいかわp23-24)、サルディニアてき艦隊かんたいつかったためきたかえそうとする船員せんいんたちを、方位ほうい磁針じしん文字もじばん南北なんぼくぎゃくにしてだまみなみかったというてんに、太陽たいよう位置いちから船員せんいんらが方角ほうがく間違まちがえるはずがい(笈川おいかわp23-24ルケーヌp25-28)というてん指摘してきされている。しかしルケーヌは、スペインと敵対てきたいした行為こういを、しかも標的ひょうてきが「フェルナンディアごう」であったことをスペインの「フェルナンド2せい」が手紙てがみみずからへの心象しんしょうきずつける可能かのうせいがありながらしるしているてんから、脚色きゃくしょくふくみつつも航海こうかいそのものは事実じじつだったと推察すいさつしている(ルケーヌp28-29)。
  7. ^ 笈川おいかわp27では「1478ねんから翌年よくねん」とあるが、どう箇所かしょには乗船じょうせん沈没ちんぼつしポルトガルにわたったときを「1476ねん8がつ」と明記めいきしており、矛盾むじゅんがある。
  8. ^ ルケーヌp32でルケーヌは、この海戦かいせん本当ほんとうはフランス・カタルーニャ連合れんごうくわわっていたカズノヴ・クーロン船長せんちょうわたしかすめせんにコロンブスがっていたさいたたかいをしていたものを、同郷どうきょうじんふねおそった良心りょうしん呵責かしゃくからいつわって1485ねんこったべつ海戦かいせん内容ないようえたと主張しゅちょうしている。
  9. ^ 笈川おいかわp.98-100、ただし増田ますだp.75では西にしアフリカ航海こうかいちゅう漂流ひょうりゅうしゃひろげたとある。
  10. ^ 増田ますだp.28では1483ねんまつ
  11. ^ ラス・カサス『インディアス』にある内容ないようだが、これはのちにスペイン王室おうしつむすんだサンタフェ条約じょうやくとまったく同一どういつであり、笈川おいかわ(p45)はラス・カサスがあやまった可能かのうせい示唆しさしている。
  12. ^ この行動こうどうについて、ルケーヌp.50つまフェリパの姉妹しまい当地とうちにおり、そのつてたよったという。同書どうしょでは、修道院しゅうどういんちょうのフアン・ペレス・デ・マルチェーネ神父しんぷはポルトガルじんで、この姉妹しまい面識めんしきがあった可能かのうせい示唆しさしている。
  13. ^ ルケーヌp.51によると「4がつまたは5がつ
  14. ^ 林屋はやしや解説かいせつp.283だい1かい会議かいぎは1486 ねんなつにコルドバにて、だい2かい同年どうねんサラマンカにて)に準拠じゅんきょする。増田ますだp.33は1486ねんあきと1487ねんはる表記ひょうき笈川おいかわp.49増田ますだしめ場所ばしょのみ表記ひょうきし、時期じきにはれず。
  15. ^ 委員いいんちょうのタラベラがった態度たいどについて、文献ぶんけんがある。増田ますだp.33-34では「コロンブスに好意こういてき」とう。ところがルケーヌp.53では、サンタフェ条約じょうやく締結ていけつにタラベラはイサベル1せい手紙てがみおくり、世界せかいてをえることはかみたいする不遜ふそん行為こういであり、コロンブスを異端いたん審問しんもんにかけるよう主張しゅちょうしたとある。
  16. ^ 増田ますだp.34-36内容ないようじゅんずる。笈川おいかわp.50ではジョアン2せいはコロンブスを招待しょうたいしたがもちほうけん頓挫とんざしたと、林屋はやしや解説かいせつp.283ではコロンブスはポルトガルにかい再度さいど謁見えっけんしたがおな理由りゆうえになったとある。ルケーヌp.53-54では、手紙てがみ返事へんじにジョアン2せい旅券りょけんおくったが、コロンブスは用心深ようじんぶかくポルトガルにかわなかったとある。
  17. ^ 天才てんさいパズル作家さっかサム・ロイドべつに9つのてんを4ほんせんでつなぐパズルなど2つを「コロンブスのたまご」とづけている(Nine dots puzzle)

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ “【528ねんまえ今日きょう:コロンブス・デー】世界せかいから戦国せんごく時代じだい・・・10月12にちアメリカ大陸あめりかたいりく発見はっけん先住民せんじゅうみんにとって侵略しんりゃく記念きねん. BEST TiMES(ベストタイムズ). (2020ねん10がつ12にち). https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/685493/ 2020ねん11月28にち閲覧えつらん 
  2. ^ 永吉ながよし, 林屋はやしや (1965). “コロンボからコロンへ”. Hispanica / Hispánica 1965 (10): 61–70. doi:10.4994/hispanica1965.1965.61. https://www.jstage.jst.go.jp/article/hispanica1965/1965/10/1965_10_61/_article/-char/ja/. 
  3. ^ a b c d e 林屋はやしや解説かいせつp.278-280 (1)
  4. ^ 増田ますだp.17-22 うみ
  5. ^ a b 笈川おいかわp.27-29 ポルトガルりょうせいヴィセンテみさき漂着ひょうちゃく
  6. ^ a b c 林屋はやしや解説かいせつp.280-282 (2) ポルトガルでの滞在たいざい
  7. ^ 笈川おいかわp.36-38 「ヴィンランド」伝説でんせつ
  8. ^ a b 笈川おいかわp.40-42 名家めいかむすめ、フェリパと結婚けっこん
  9. ^ a b ルケーヌp.43-48 おとうとのように、かれ地図ちず製作せいさくしゃになる
  10. ^ a b 増田ますだp.23-27 ポルトガルとコロンブス
  11. ^ 人物じんぶつアメリカうえ)」p15 ロデリック・ナッシュちょ/足立あだちやすしやく 新潮しんちょう選書せんしょ
  12. ^ 笈川おいかわp.38-39 「熱帯ねったいにもひとんでいた」
  13. ^ 笈川おいかわp.116-118 ベハイムとコロンブスのかかわり
  14. ^ 笈川おいかわp.100-101 5つの根拠こんきょ
  15. ^ 笈川おいかわp.126-128 実際じっさい距離きょりははるかになが
  16. ^ a b c d e f g 増田ますだp.28-36 西にしまわ航海こうかい構想こうそう
  17. ^ a b ルケーヌp.48-49 コロンブスはジョアン2せいに、冒険ぼうけんこころみるために「許可きょかじょう」とふねもとめた
  18. ^ a b c 笈川おいかわp.45-48 ポルトガルからスペインへ
  19. ^ a b ルケーヌp.51-54 落胆らくたん困窮こんきゅうのうちに、5年間ねんかん歳月さいげつながれた
  20. ^ Christopher Columbus essay
  21. ^ a b 林屋はやしや解説かいせつp.282-285 (3)スペインでの7年間ねんかん
  22. ^ ナッシュp.21 スペインがける
  23. ^ 笈川おいかわp.52-53 西にしこう計画けいかく実現じつげん
  24. ^ 林屋はやしや訳注やくちゅうp.254-255 (6)
  25. ^ 増田ますだp.37-42 イザベル女王じょおう決断けつだん
  26. ^ Luis de Santangel”. JEWISH-AMWRICAN HALL OF FAME. 2010ねん3がつ15にち閲覧えつらん
  27. ^ ルケーヌp.58-60 これほどだいそれた冒険ぼうけんだというのに、資金しきん心細こころぼそさは前代未聞ぜんだいみもんだった
  28. ^ 完訳かんやく コロンブス航海こうかい』Christopher,?-1506 Columbus, Yasuyuki Aoki, かんただし 青木あおき平凡社へいぼんしゃ、1993ねん9がつ、72、73ぺーじISBN 4-582-48112-4OCLC 674490002https://www.worldcat.org/oclc/674490002 
  29. ^ a b ナッシュp.26
  30. ^ 『American Holocaust』(David Stannard, Oxford University Press, 1992)
  31. ^ a b ペンローズ(1985ねん)p.104
  32. ^ ペンローズ(1985ねん)p.16
  33. ^ ペンローズ(1985ねん)p.107
  34. ^ Q+A with Manuel Rosa, IT analyst at the Duke Comprehensive Cancer Center” (英語えいご). Dukechronicle.com, Duke Student Publishing Company (2009ねん10がつ12にち). 2014ねん1がつ7にち閲覧えつらん
  35. ^ ルケーヌp.154-155 コロンブスのたまご真実しんじつ

脚注きゃくちゅう2[編集へんしゅう]

ほん脚注きゃくちゅうは、出典しゅってん脚注きゃくちゅうない提示ていじされている「出典しゅってん」をしめしています。

  1. ^ アントニオ・デ・ヘレラ『インディアス一般いっぱん』17世紀せいき
  2. ^ ポルトガル王室おうしつ歴史れきしジョアン・デ・バロス(1496ねん - 1570ねん)『アジア』
  3. ^ ラス・カサス『インディアス

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

冨田とみた あきら「コロンブスとしょくじん伝説でんせつカニバリズム」ISSN04391713

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]