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コレジオ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

コレジオポルトガル: colégio学林がくりん)は、聖職せいしょくしゃ育成いくせいのための神学校しんがっこう最高さいこう学府がくふ)である。コレジヨともいう。狭義きょうぎでは、イエズスかいによって1581ねん天正てんしょう9ねん)に豊後ぶんごこく府内ふないげん大分おおいたけん大分おおいた)に設置せっちされたものをす。その施設しせつ島原しまばら加津佐かづさげん長崎ながさきけんみなみ島原しまばら)をて、熊本くまもと天草てんぐさげん熊本くまもとけん天草あまくさ)、その長崎ながさき移転いてんした。

現在げんざいは、きゅう長崎ながさき大司教だいしきょうかんもうけられたカトリック長崎ながさき大司教だいしきょう運営うんえいする司祭しさい目指めざ神学しんがくせい寄宿きしゅく学習がくしゅう施設しせつ長崎ながさきコレジオ」としてのこしている。

概要がいよう

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天正てんしょうおう少年しょうねん使節しせつ来訪らいほうつたえる印刷物いんさつぶつ、1586ねん京都きょうと大学だいがく図書館としょかんぞう伊東いとうみぎじょう中浦なかうらみぎ千々石ちぢわ左上ひだりうえはら左下ひだりした

府内ふない加津佐かづさコレジオ

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1579ねん巡察じゅんさつとして日本にっぽんおとずれたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、当時とうじ日本にっぽん地区ちく責任せきにんしゃであったフランシスコ・カブラル方針ほうしんあらためて、日本人にっぽんじん聖職せいしょくしゃ育成いくせいのため各地かくち教育きょういく施設しせつ設置せっちすすめた。府内ふないのコレジオは、1580ねん天正てんしょう8ねん)に有馬ありまげん長崎ながさきけんみなみ島原しまばら)と安土あづちげん滋賀しがけん近江八幡おうみはちまん安土あづちまち)に設立せつりつされたセミナリヨ同年どうねん臼杵うすきげん大分おおいたけん臼杵きゅうしょ)に設立せつりつされたノビシャド修練しゅうれんいんのこと)とともに、その一環いっかんとしてもうけられたものである。

当時とうじ府内ふないキリスト教きりすときょう有力ゆうりょく庇護ひごしゃであった大友おおとも義鎮よししげ大友おおとも宗麟そうりん)の本拠地ほんきょちであり(ただし、宗麟そうりん1576ねん天正てんしょう4ねん)に家督かとく息子むすこ大友おおとも義統よしむねゆずり、臼杵きゅうしょ丹生にゅうとうじょうきょうつしてもと統治とうちおこなっている)、日本にっぽんにおけるキリスト教きりすときょう布教ふきょう拠点きょてんとして、宣教師せんきょうし滞在たいざいし、すうおおくの信者しんじゃかかえていた。

府内ふない開設かいせつされたコレジオでは、聖職せいしょくしゃ育成いくせい一般いっぱん教養きょうよう両方りょうほう教育きょういくおこなわれ、キリシタン改宗かいしゅうした士族しぞく宣教師せんきょうしこころざ日本人にっぽんじん外国がいこくじんたいして、キリストきょうラテン語らてんご音楽おんがく数学すうがくなどの講義こうぎおこなわれた。また、やしなえかたのきパウロなどにより外国がいこくじん宣教師せんきょうしのための日本語にほんご講義こうぎおこなわれたという。ポルトガル王国おうこく出身しゅっしん宣教師せんきょうし通訳つうやくで、日本にっぽんかんする重要じゅうよう著作ちょさくのこしたジョアン・ロドリゲスは、臼杵きゅうしょのノビシャドをて、府内ふないのコレジオでまなんだとされる。

しかし、府内ふない1586ねん天正てんしょう14ねん)に島津しまつ家久いえひさによるちにい、壊滅かいめつゆたか合戦かっせん)。コレジオは、その1590ねん天正てんしょう18ねん)に島原しまばら加津佐かづさうつった。加津佐かづさでは日本にっぽんはつとなる活版かっぱん印刷いんさつグーテンベルク印刷いんさつ)を導入どうにゅう以降いこう、コレジオではキリシタンばん出版しゅっぱんおこなわれた。

天草あまくさコレジオ

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コレジオは1591ねん5がつ、さらにおくまったところに潜伏せんぷくするために、加津佐かづさから天草てんぐさ移動いどうした。このとき移動いどうには、有力ゆうりょくキリスト教徒きりすときょうと領主りょうしゅとうすすめがあった。おりからインディアふくおうへの秀吉ひでよし返書へんしょを、すこしでも教会きょうかいたいしておだやかな内容ないよう修正しゅうせいしてもらう交渉こうしょうをしていた最中さいちゅうであった。[1]天草あまくさ国人くにびと一揆いっき天正てんしょう天草てんぐさ合戦かっせん)」(1589ねん)で小西こにし行長ゆきなが加藤かとう清正きよまさ連合れんごうぐんやぶれた天草あまくさひさしゅが、講和こうわし、小西こにし家臣かしんだんまれたのち領地りょうち安堵あんどされた。[2]天草あまくさコレジオは、天草あまくさ提供ていきょうした家屋かおくとイエズスかい所有しょゆうしていたカザをもとつくられ、大村おおむら修練しゅうれんいん同地どうちうつされた。[3]

コレジオが天草てんぐさにあったのは1597ねん慶長けいちょう2ねん)9がつまたは10がつまで存在そんざいした。[3]天正てんしょうおう少年しょうねん使節しせつ伊東いとうマンシオはらマルティニョ中浦なかうらジュリアン千々石ちぢわミゲルなどもそこで勉強べんきょうした。

グーテンベルクしき金属きんぞく活字かつじ印刷いんさつ葡日対訳たいやく辞書じしょや『平家ひらか物語ものがたり』、『エソポのファブラス』(『イソップ物語ものがたり』)、など文学ぶんがくしょ信心しんじんしょなど12種類しゅるい刊行かんこうされた。[4]そのうち、『平家ひらか物語ものがたり』(ブリティッシュ・ミュージアムぞう)は序文じょぶんの「読誦とくしょう(どくしょう)のひとたいしてしょす」から作者さくしゃはイルマン・・ハビアン(ファビアン)[5]とされる。口語こうご対話たいわたい編集へんしゅうされ、ひとつの異本いほんとされる。外国がいこくじん宣教師せんきょうしなどに、日本にっぽん歴史れきし日本語にほんご習得しゅうとくさせるために作成さくせいされたものという。[6]

天草あまくさコレジオの院長いんちょう(レイトル)はカステリアじんのパードレ・フランシスコ・カルデロン[7]そして1596ねんにはふく院長いんちょうだったポルトガルじんでパードレ・ディオゴ・デ・メスキタ[8]就任しゅうにんした。1591ねん10がつ6にち時点じてんで、天草あまくさコレジオ居住きょじゅうしゃはパードレ・イルマンわせてやく60にん同宿どうしゅく従僕じゅうぼくわせて60にん以上いじょうで、合計ごうけい120にんえる規模きぼだった。(修練しゅうれんいん所属しょぞく修練しゅうれんしゃふくまれる。)コレジオと修練しゅうれんいんおな建物たてもの教室きょうしつ個室こしつ共同きょうどう部屋へやなどがあった。また、用務ようむ部屋へやには食糧しょくりょう倉庫そうこ調理ちょうり食堂しょくどうなどがあり、そして印刷所いんさつしょがあった。[9]

教育きょういく内容ないようラテン語らてんご(含古典こてんがく)や良心りょうしん問題もんだい、「要綱ようこう」(ラテン語らてんご原文げんぶんまたは主要しゅよう部分ぶぶん邦訳ほうやくしょ)、日本語にほんごがくぶん文字もじ文書ぶんしょたい日本にっぽん書籍しょせき)などをまなんだ。[9]

サン・フェリペごう事件じけん契機けいきはじまった迫害はくがいへの対策たいさくで、1597ねん慶長けいちょう2ねん)10がつごろ天草あまくさコレジオをこわして、印刷いんさつとも長崎ながさき(トドス・オス・サントス)に移動いどうした。[10]

天草あまくさコレジオ跡地あとち論争ろんそうについて・研究けんきゅう

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天草てんぐさでのコレジオの位置いちについては、本渡ほんど河浦かわうらなど諸説しょせつあり、論争ろんそうつづいてきた。[11]

天草あまくさ伊豆いずまもるしゅもと本戸ほんど本渡ほんど城下じょうかやその周辺しゅうへんにあったとするこれまでのせつたいし、1958ねん今村いまむら義孝よしたか新聞しんぶんに、また鶴田つるた倉造くらぞうが『熊本くまもと史学しがく』に「天草てんぐさ学林がくりんかわ内浦うちうらせつ提唱ていしょう」を発表はっぴょうし、論争ろんそうがついた。[12]それによるとルイス・フロイスの『日本にっぽん』など外国がいこく文献ぶんけんから当時とうじ宣教師せんきょうしたちが天草てんぐさ本渡ほんどではなく、河内かわうちうら河浦かわうら)であって「天草あまくさコレジオ」は河内かわうちうら天草あまくさひさしゅ(ドン・ジョアン)が誘致ゆうちしたとするせつである。

1985ねんには本渡町本戸馬場ほんどまちほんとばば河内かわちさんためいけから十字架じゅうじかきざんだ石碑せきひつかる。天草てんぐさ郷土きょうど資料しりょうかん錦戸にしきどひろし館長かんちょうがコレジオ跡地あとちではないかと新聞しんぶん発表はっぴょうした。[13]錦戸にしきど館長かんちょうによると、 (1)『天草あまくさぐん資料しりょう』の天草てんぐさじょうだい4ごう知行ちぎょう目録もくろくるいほんとぎ本渡ほんど百姓ひゃくしょうちゅうにあてた小西こにし行長ゆきなが花押かおう書簡しょかんに「天草あまくさ殿どのげんかわ内浦うちうら城主じょうしゅ)をほんとぎ本渡ほんど)の代官だいかんにしたからその下知げじしたがえ」とある。[14] (2)1590ねん日本にっぽんイエズスかいだい2かいそう協議きょうぎかいで「天草てんぐさぜん諸島しょとう中央ちゅうおう位置いちする本渡ほんど城下じょうか本拠ほんきょく」との決定けってい事項じこうがある。[15] このことから、天草あまくさひさしゅ小西こにし行長ゆきなが家臣かしんだんまれたのち河浦かわうらから本渡ほんど中心ちゅうしんうつり、本渡ほんどにコレジオができたのではないかと主張しゅちょうした。

河浦かわうらせつ候補こうほだったきゅう河浦かわうら中学校ちゅうがっこう校庭こうてい洪水こうずい被害ひがい頻繁ひんぱんこり、ここは不適ふてきだと撤回てっかい。その河内かわうちうら古城山こじょうさん天満宮てんまんぐう境内けいだい[16]一町田いっちょうだ安養寺あんようじ真宗しんしゅう)ではないかと推定すいてい安養寺あんようじは1990ねん寺社じしゃ再建さいけんのため境内けいだい整地せいちしたところ、河内かわうち浦城うらしろから出土しゅつどしたものとおな中世ちゅうせい土師器はじき青磁せいじ白磁はくじ破片はへんなどが出土しゅつどしたが、キリシタン遺物いぶつなかった。[17]また墓地ぼち島原しまばら天草てんぐさらんのものだが1667(寛文ひろふみ7)ねんぼつきざまれたキリシタン様式ようしき墓碑ぼひ推定すいていされる青木あおきはじめ太夫たゆうはかもある。[18]

一方いっぽう本渡ほんどせつ候補こうほは、本渡ほんどまち丸尾まるおおか[19]本渡町本戸馬場ほんどまちほんとばば河内かわちさんためいけ付近ふきん西にし久保くぼ公園こうえん[20]などがある。東向こちむきてら出土しゅつどとされていた天草あまくさ郷土きょうど資料しりょうかんきゅうぞう「コレジオのかね」は同館どうかん調査ちょうさによると、東京とうきょう国立こくりつ文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょ化学かがくてき分析ぶんせきで、なまり同位どういからだ測定そくていし、ひがしアジア以外いがいつくられたとの結果けっかたが、製作せいさく年代ねんだい不明ふめいのため、イギリスの国立こくりつ博物館はくぶつかんビクトリア&アルバート博物館はくぶつかん鑑定かんてい依頼いらいしたところ19世紀せいきのもので、1840ねん~1860ねんつくられた青銅せいどう鋳物いものであり、天草あまくさコレジオとは一切いっさい関係かんけいがないことがかった。のち錦戸にしきど東向こちむきてら出土しゅつど否定ひていしている。[21]

本渡ほんどまち丸尾まるおおか河浦かわうら支所ししょよこ公園こうえんきゅう河浦かわうら中学校ちゅうがっこう校庭こうてい)には、それぞれ天草てんぐさコレジオあとをうたう記念きねんてられているが、天草あまくさは「コレジオはここ、という公式こうしき見解けんかいっていない」との立場たちばしめした。[22]

しかし、2001ねん6がつ長崎ながさきにある日本にっぽんじゅうろく聖人せいじん記念きねんかん結城ゆうきりょうさとるもと館長かんちょう発行はっこうした冊子さっし天草あまくさコレジヨ』に、フランシスコ・ロドリゲス神父しんぷ[23]記事きじ訳文やくぶんしめし、河浦かわうら河内かわうちうら)にコレジオがあったとして「疑問ぎもん余地よちがない」と発表はっぴょう。しかし出典しゅってん記事きじはなく、原文げんぶん公開こうかいもとめても「史料しりょう提供ていきょうしてくれた友人ゆうじんくなり、連絡れんらくれない」との理由りゆうで、史料しりょう公開こうかいされないまま2008ねん結城ゆうきくなる。[24]

その11ねんの2019ねん11月から、インターネット放送ほうそうきょく天草てんぐさテレビが調査ちょうさ報道ほうどう過程かていで、その古文書こもんじょだいえい図書館としょかん所蔵しょぞうされていることをめた。東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ記録きろくによると1988ねんごろにはすでにだいえい博物館はくぶつかんではなく、だいえい図書館としょかん所蔵しょぞうしていたこともかった。[25]写真しゃしん入手にゅうしゅし、慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく高瀬たかせひろし一郎いちろう名誉めいよ教授きょうじゅ解読かいどく依頼いらい。2020ねん2がつ9にち地元じもと研究けんきゅうらでつく天草てんぐさキリシタン研究けんきゅうかい西日本にしにほん新聞しんぶん発表はっぴょうした。高瀬たかせわけによると「天草てんぐさうちのカワチノウラ(河内かわうちうら)というではかれらはなぐさめられた。そこは迫害はくがいときに、永年えいねんにわたりコレジオがひっそりと存在そんざいしたであった。」とかれている。所在地しょざいちについて現在げんざい熊本くまもとけん天草あまくさ河浦かわうらにあったことをしめ史料しりょうで、具体ぐたいてき地名ちめいについて言及げんきゅうした文書ぶんしょ原本げんぽん確認かくにんされたのははじめてとなる。[26]また2020ねん10がつ発行はっこう天草てんぐさテレビ出版しゅっぱん編著へんちょ天草あまくさキリシタン10のなぞ』で原本げんぽん写真しゃしんはじめて公開こうかいされた。[27]

さらに天草てんぐさテレビは調査ちょうさ報道ほうどう過程かていで2020ねん3がつオーストリアウイーンにあるオーストリア国立こくりつ図書館としょかんしん史料しりょう発見はっけん天草てんぐさキリシタン研究けんきゅうかいで2020ねん4がつ20日はつか同局どうきょく番組ばんぐみと、さらに5月11にち西日本にしにほん新聞しんぶん同年どうねん6がつ4にち朝日新聞あさひしんぶん発表はっぴょうした。この史料しりょうはイエズスかい宣教師せんきょうしのルイス・ピニェイロが1617ねんスペインマドリッド出版しゅっぱんしたスペイン書物しょもつ「われわれのせい信仰しんこう日本にっぽんしょ王国おうこくにおいて成果せいか報告ほうこく」だ。巻末かんまつにはイエズスかいのパードレたちが日本にっぽん所有しょゆうしていたカザおさむいん)、レジデンシア駐在ちゅうざいしょ)、および迫害はくがいうしなわれたもの、その移動いどうについての一覧いちらんなかに「肥後ひごこく河内かわうちうら」には「コレジオ」があったとかれている。 一方いっぽう本渡ほんど栖本すもと久玉ひさだま大矢野おおやの同様どうようレジデンシアがあったことがかれており、本渡ほんどにコレジオがあったとはかれていない。[28]高瀬たかせひろし一郎いちろうは「天草あまくさコレジオが河内かわうちうら所在しょざいした証拠しょうこひとつになる。跡地あとち論争ろんそうかんしてはもはや議論ぎろん余地よちはない」とした。フランシスコ・ロドリゲス神父しんぷの『1601年度ねんどイエズスかい年報ねんぽう』と、ルイス・ピニェイロの著書ちょしょこの2つの史料しりょう河浦かわうらせつ決定けっていづけ、60ねん以上いじょうつづいた跡地あとち論争ろんそう終止符しゅうしふった。[29]

また、1959ねん7がつ熊本くまもと史学しがく』に「天草てんぐさ学林がくりんかわ内浦うちうらせつ提唱ていしょう」を発表はっぴょうした天草あまくさキリシタン研究けんきゅう熊本くまもとけん宇城鶴田つるた倉造くらぞうが2020ねん4がつ老衰ろうすいのため熊本くまもと市内しない病院びょういん死去しきょした。享年きょうねん97さいだった。天草てんぐさテレビは「面会めんかいした家族かぞく証拠しょうこ発見はっけんらせをつたえると、ゆびでピースサインをしたのち『ありがとう・・』とかすかなこえよろこびをつたえた。そして2つ証拠しょうこ発見はっけんされたことをつたえる天草てんぐさテレビの番組ばんぐみ公開こうかいされた2にち結果けっか見届みとどけたようにいきった。」とつたえている。[30]

今後こんごはこれを裏付うらづける国内こくない史料しりょう考古学こうこがく遺物いぶつ遺構いこう発見はっけんかぎとなる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 高瀬たかせひろし一郎いちろう天草あまくさコレジオの活動かつどう」『キリシタン時代じだいのコレジオ』八木やぎ書店しょてん、2017ねん 253ぺーじ
  2. ^ 天草あまくさぐん資料しりょう天草てんぐさじょうだいごう知行ちぎょう目録もくろくるいほんとぎ本渡ほんど百姓ひゃくしょうちゅうにあてた小西こにし行長ゆきなが花押かおう書簡しょかんに「天草あまくさ殿どのげんかわ内浦うちうら城主じょうしゅ)をほんとぎ本渡ほんど)の代官だいかんにしたからその下知げじしたがえ」とある。737ぺーじ
  3. ^ a b 高瀬たかせひろし一郎いちろう天草あまくさコレジオの活動かつどう」『キリシタン時代じだいのコレジオ』八木やぎ書店しょてん、2017ねん 218-368ぺーじ
  4. ^ おおやけきょう要理ようり〜1、信心しんじんしょ〜6、文学ぶんがく〜3、語学ごがくしょ〜2。このうち国字こくじ国文こくぶんのもので現存げんそんは1。今村いまむら義孝よしたか天草あまくさまなぶりんとその時代じだい天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1990ねん。131~157ぺーじ
  5. ^ Ir.Unguio Fabiam,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.290. イルマン・うんぎょ・ハビアンIr.Unguio Fabiam 日本人にっぽんじんラテン語らてんごすこ理解りかいする。教師きょうし日本語にほんごおしえている。高瀬たかせひろし一郎いちろう天草あまくさコレジオの活動かつどう」『キリシタン時代じだいのコレジオ』八木やぎ書店しょてん、2017ねん 228ぺーじ
  6. ^ 今村いまむら義孝よしたか天草あまくさまなぶりんとその時代じだい天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1990ねん。141ぺーじ
  7. ^ P.Francisco Calderón,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.288.
  8. ^ P.Diogo de Misquita,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p288. 1596ねん2がつ15にち長崎ながさきはつ、ディオゴ・デ・メスキタのイエズスかい総長そうちょうあて書簡しょかんに、「わたしかんしては、現在げんざいセミナリオのひじりつとむにあるパードレ・フランシスコ・カルデロンにわって、このコレジオのすべての事柄ことがらわたしまかされていることにたいして(後略こうりゃく)」高瀬たかせひろし一郎いちろう天草あまくさコレジオの活動かつどう」『キリシタン時代じだいのコレジオ』八木やぎ書店しょてん、2017ねん 321ぺーじ
  9. ^ a b 高瀬たかせひろし一郎いちろう天草あまくさコレジオの活動かつどう」『キリシタン時代じだいのコレジオ』八木やぎ書店しょてん、2017ねん 218-368ぺーじ
  10. ^ 高瀬たかせひろし一郎いちろう天草あまくさコレジオの活動かつどう」『キリシタン時代じだいのコレジオ』八木やぎ書店しょてん、2017ねん 354ぺーじ
  11. ^ 鶴田つるたぶん 編集へんしゅう天草てんぐさ学林がくりん 論考ろんこう資料集しりょうしゅう天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1977ねん10がつ1にち発行はっこう西日本にしにほん新聞しんぶん 「天草あまくさコレジオなぞのまま?跡地あとち所在しょざい かつてだい論争ろんそう 合併がっぺい下火したび 郷土きょうど史家しか危機ききかん」(2019ねん12月14にち朝刊ちょうかん、18にち夕刊ゆうかん天草あまくさテレビ ウェブサイト「天草あまくさコレジオはどこに? 60ねん以上いじょう論争ろんそう 決定的けっていてき証拠しょうこつからず」
  12. ^ 天草あまくさまなぶりん河浦かわうらにあった、外国がいこく文献ぶんけんから推論すいろん熊本くまもとにちにち新聞しんぶん1958ねん12月3にちより3かい鶴田つるた倉造くらぞう天草てんぐさ学林がくりんかわ内浦うちうらせつ提唱ていしょう」『熊本くまもと史学しがくだい17ごう、1959ねんがつ鶴田つるた倉造くらぞう天草あまくさキリシタン問題もんだい-天草あまくさ殿どのドン・ミゲルおよびドン・ジョアンはだれか」『キリシタン文化ぶんか研究けんきゅう会報かいほうだい7ねんだい2ごう、1963ねん10がつ
  13. ^ 天草あまくさ毎日新聞まいにちしんぶんいけそこから十字架じゅうじか標識ひょうしき出現しゅつげん天草てんぐさ学林がくりんあとかコレジョ本渡ほんどせつ浮上ふじょう」1985ねん12月25にち毎日新聞まいにちしんぶん「コレジオ跡地あとち論争ろんそう終止符しゅうしふ十字架じゅうじかきざんだ石碑せきひ本渡ほんど発見はっけん」1986ねん1がつ3にち読売新聞よみうりしんぶん歴史れきしロマンさぐ現地げんち調査ちょうさ 十字架じゅうじかきざんだいし」1986ねん2がつ5にち
  14. ^ 天草あまくさぐん資料しりょう天草てんぐさじょうだいごう知行ちぎょう目録もくろくるいほんとぎ本渡ほんど百姓ひゃくしょうちゅうにあてた小西こにし行長ゆきなが花押かおう書簡しょかんに「天草あまくさ殿どのげんかわ内浦うちうら城主じょうしゅ)をほんとぎ本渡ほんど)の代官だいかんにしたからその下知げじしたがえ」とある。737ぺーじ
  15. ^ 日本にっぽんイエズスかいだい2かいそう協議きょうぎかい 「日本にっぽんイエズスかいだい2かいそう協議きょうぎ会議かいぎごとろく決裁けっさい」キリシタン文化ぶんか研究けんきゅうかい『キリシタン研究けんきゅうだい16輯、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1976ねん、283ぺーじ
  16. ^ 鶴田つるたぶん天草てんぐさ学林がくりん所在地しょざいちろん真実しんじつ」『河浦かわうらまち郷土きょうどだい7輯』河浦かわうらまち教育きょういく委員いいんかい、1995ねん、78〜81ぺーじ
  17. ^ 川崎かわさきとみじんかわ嵜家由緒ゆいしょしょ』イナガキ印刷いんさつ、2001ねん、16ぺーじ
  18. ^ 鶴田つるたぶん天草てんぐさ史跡しせき文化ぶんか遺産いさん天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1971ねん。63ぺーじ
  19. ^ うめじゅう栄太郎えいたろう天草てんぐさ学林がくりん史蹟しせき参考さんこう 丸尾まるおおかいて」鶴田つるたぶん 編集へんしゅう天草てんぐさ学林がくりん 論考ろんこう資料集しりょうしゅう天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1977ねん。17〜24ぺーじ
  20. ^ 天草あまくさ毎日新聞まいにちしんぶんいけそこから十字架じゅうじか標識ひょうしき出現しゅつげん天草てんぐさ学林がくりんあとかコレジョ本渡ほんどせつ浮上ふじょう」1985ねん12月25にち毎日新聞まいにちしんぶん「コレジオ跡地あとち論争ろんそう終止符しゅうしふ十字架じゅうじかきざんだ石碑せきひ本渡ほんど発見はっけん」1986ねん1がつ3にち読売新聞よみうりしんぶん歴史れきしロマンさぐ現地げんち調査ちょうさ 十字架じゅうじかきざんだいし」1986ねん2がつ5にち錦戸にしきどひろし天草あまくさまなぶりん小西こにし行長ゆきなが 本渡ほんどせつえない理由りゆう天草あまくさ毎日新聞まいにちしんぶん1995ねん1がつ1にち
  21. ^ 天草あまくさテレビ ウェブサイト「ニュース&トピックス 天草あまくさ郷土きょうど資料しりょうかん所蔵しょぞう『コレジオのかね』について」(Anthony North,Victoria and Albert Museum,3 August 1998.)
  22. ^ 西日本にしにほん新聞しんぶん 「天草あまくさコレジオなぞのまま?跡地あとち所在しょざい かつてだい論争ろんそう 合併がっぺい下火したび 郷土きょうど史家しか危機ききかん」(2019ねん12月14にち朝刊ちょうかん、18にち夕刊ゆうかん
  23. ^ ロドリゲス神父しんぷは1560ねん、ポルトガルにまれ、イエズスかいはい司祭しさいとして88ねん来日らいにち翌年よくねん現在げんざい長崎ながさきけん大村おおむらや92ねんみなみ島原しまばらはちりょうにあったセミナリオで布教ふきょうし、1603ねん日本にっぽん管区かんく代表だいひょうとしてローマに派遣はけんされた。P.Francisco Rodrigues S.J.,c.1560-1606 Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes, 1549-1654 pp.293,1283,414-415。 キリシタン文化ぶんか研究けんきゅうかい『キリシタン研究けんきゅうだい24輯 1984ねん チースリク「マトス神父しんぷ回想かいそうろく」(40)86ぺーじ
  24. ^ 結城ゆうきりょうさとる『イエズスかい宣教師せんきょうし記録きろくにおける 天草あまくさコレジョ』日本にっぽんじゅうろく聖人せいじん記念きねんかん、2001ねん6がつ29にち発行はっこう。44ぺーじに、「天草てんぐさでは迫害はくがいときながあいだコレジオがひっそりとかれていた河内かわうちうらというまちに、(後略こうりゃく)」この原文げんぶん出典しゅってんとして48ぺーじに、「British Museum,Add.Mss.9857」と記述きじゅつされているが、そこに同文どうぶんはない。
  25. ^ フランシスコ・ロドリゲス神父しんぷの『1601年度ねんどイエズスかい年報ねんぽう』1601ねん9がつ30にちづけ古文書こもんじょかれている。結城ゆうきりょうさとる『イエズスかい宣教師せんきょうし記録きろくにおける 天草あまくさコレジヨ』日本にっぽんじゅうろく聖人せいじん記念きねんかん、2001ねん6がつ29にち発行はっこう、48ぺーじ出典しゅってんあやまりで、だいえい博物館はくぶつかん(British Museum)ではなく、だいえい図書館としょかん(British Library)が所蔵しょぞうしている。また、フォリオすうあやまりで、9857ではなく9859がただしい。結城ゆうきの『イエズスかい宣教師せんきょうし記録きろくにおける 天草あまくさコレジョ』(日本にっぽんじゅうろく聖人せいじん記念きねんかん)は2001ねん6がつ29にち発行はっこうなので、この時点じてんではすでにだいえい博物館はくぶつかんにはないわけで、結城ゆうき自身じしんじつはこの原文げんぶんていなかったのではないかという疑問ぎもんのこるが、くなられたいまとなってはたしかめようがない。天草てんぐさテレビ出版しゅっぱん編著へんちょ天草あまくさキリシタン10のなぞ天草あまくさテレビ出版しゅっぱん、インプレスR&D POD出版しゅっぱんサービス共同きょうどう刊行かんこう、2020ねん10がつ史料しりょう輯の69-74ぺーじ原本げんぽん写真しゃしんはじめて公開こうかいされた。
  26. ^ 西日本にしにほん新聞しんぶん 「天草あまくさコレジオ なぞひかり 河浦かわうらしめ古文書こもんじょ 英国えいこくに キリシタン最高さいこう学府がくふ所在地しょざいち論争ろんそう60ねんちょう」(2020ねん2がつ9にち朝刊ちょうかん 社会しゃかいめん天草あまくさテレビ ウェブサイト「天草あまくさコレジオは河浦かわうらに!跡地あとち論争ろんそう終止符しゅうしふか だいえい図書館としょかん場所ばしょしめ古文書こもんじょ」(2020ねん2がつ19にち
  27. ^ 史料しりょう輯 『1601年度ねんどイエズスかい年報ねんぽう』1601ねん9がつ30にちづけAdd.Mss.9859(だいえい図書館としょかん所蔵しょぞう)」天草あまくさテレビ出版しゅっぱん編著へんちょ天草あまくさキリシタン10のなぞ天草あまくさテレビ出版しゅっぱん、インプレスR&D POD出版しゅっぱんサービス共同きょうどう刊行かんこう、2020ねん10がつ発行はっこう、69〜74ぺーじ
  28. ^ スペイン出版しゅっぱんされたのち翌年よくねんフランス語ふらんすごばんがパリで出版しゅっぱんされ、オーストリア国立こくりつ図書館としょかんのほかフランスのリヨン市立しりつ図書館としょかんなどが所蔵しょぞうしている。Luys Pinheyro, "Relacion del sucesso que tuvo nuestra santa Fe en los reynos del Japon, desde el ano de 612 hasta el de 615 imperenado Cubosama"Viuda de Alonso Martin de Balboa, 1617.P514. 天草あまくさテレビ ウェブサイト「しん史料しりょうふたた発見はっけん!オーストリア国立こくりつ図書館としょかん所蔵しょぞう河浦かわうら天草てんぐさコレジオ」(2020ねん2がつ20日はつか。 また天草てんぐさテレビ出版しゅっぱん編著へんちょ天草あまくさキリシタン10のなぞ天草あまくさテレビ出版しゅっぱん、インプレスR&D POD出版しゅっぱんサービス共同きょうどう刊行かんこう、2020ねん10がつ発行はっこう史料しりょう輯、76-83ぺーじにスペインフランス語ふらんすごばん写真しゃしん公開こうかいされている。
  29. ^ 天草あまくさテレビ ウェブサイト「しん史料しりょうふたた発見はっけん!オーストリア国立こくりつ図書館としょかん所蔵しょぞう河浦かわうら天草てんぐさコレジオ」(2020ねん2がつ20日はつか西日本にしにほん新聞しんぶん「『河浦かわうらにコレジオ』しん資料しりょう 天草てんぐさ研究けんきゅうかい ふたた確認かくにん イエズスかい古書こしょ記述きじゅつ」(2020ねんがつ11にち朝刊ちょうかん熊本くまもとけんばん)、朝日新聞あさひしんぶん天草あまくさコレジオ『肥後ひごこく河内かわうちうらに』 現在げんざい河浦かわうらまち 郷土きょうど史家しからの論争ろんそうまく 17世紀せいきイエズスかい史料しりょう記述きじゅつ 天草あまくさキリシタン研究けんきゅうかい調査ちょうさ」(2020ねん6がつ4にち朝刊ちょうかん熊本くまもとけんばん
  30. ^ 天草あまくさテレビ ウェブサイト「鶴田つるた倉造くらぞう死去しきょ 天草あまくさコレジオかわ内浦うちうらせつ提唱ていしょう 関係かんけいしゃからしむこえ」(2020ねん2がつ22にち西日本にしにほん新聞しんぶん 「河浦かわうらせつ提唱ていしょう鶴田つるたさん『ありがとう』笑顔えがおく」(2020ねんがつ11にち朝刊ちょうかん)。なお、論争ろんそうくわしい経緯けいいについてかれている最新さいしんほん、「うしなわれた20ねん そしてつぎのフェーズへ コラム 跡地あとち論争ろんそうのこしたもの」天草あまくさテレビ出版しゅっぱん編著へんちょ天草あまくさキリシタン10のなぞ天草あまくさテレビ出版しゅっぱん、インプレスR&D POD出版しゅっぱんサービス共同きょうどう刊行かんこう、2020ねん10がつ、22〜27ぺーじ。がある。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Schütte,Monumenta historica Japoniae I

以下いか発行はっこうねんじゅん

  • 天草あまくさテレビ出版しゅっぱん編著へんちょ天草あまくさキリシタン10のなぞ天草あまくさテレビ出版しゅっぱん、インプレスR&D POD出版しゅっぱんサービス共同きょうどう刊行かんこう、2020ねん10がつ
  • 高瀬たかせひろし一郎いちろう『キリシタン時代じだいのコレジオ』八木はちぼく書店しょてん、2017ねん
  • 川崎かわさきとみじんかわ嵜家由緒ゆいしょしょ』イナガキ印刷いんさつ、2001ねん
  • 鶴田つるたぶん河浦かわうらまち郷土きょうどだい7輯』河浦かわうらまち教育きょういく委員いいんかい、1995ねん
  • 今村いまむら義孝よしたか天草あまくさまなぶりんとその時代じだい天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1990ねん
  • 鶴田つるたぶん 編集へんしゅう天草てんぐさ学林がくりん 論考ろんこう資料集しりょうしゅう天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1977ねん
  • キリシタン文化ぶんか研究けんきゅうかい『キリシタン研究けんきゅうだい16輯、吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1976ねん
  • 天草あまくさぐん教育きょういくかいへん天草あまくさぐん資料しりょう』(だい2輯)天草てんぐさじょうだいごう知行ちぎょう目録もくろくるい名著めいちょ出版しゅっぱん、1972ねん。(復刻ふっこくほん
  • 鶴田つるたぶん天草てんぐさ史跡しせき文化ぶんか遺産いさん天草あまくさ文化ぶんか出版しゅっぱんしゃ、1971ねん
  • 『キリシタン文化ぶんか研究けんきゅう会報かいほう』7-2、1963ねん
  • 鶴田つるた倉造くらぞう天草てんぐさ学林がくりんかわ内浦うちうらせつ提唱ていしょう」『熊本くまもと史学しがく』17ごう、1958ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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