コレジオ (ポルトガル語 ご : colégio 、学林 がくりん )は、聖職 せいしょく 者 しゃ 育成 いくせい のための神学校 しんがっこう (最高 さいこう 学府 がくふ )である。コレジヨ ともいう。狭義 きょうぎ では、イエズス会 かい によって1581年 ねん (天正 てんしょう 9年 ねん )に豊後 ぶんご 国 こく 府内 ふない (現 げん 大分 おおいた 県 けん 大分 おおいた 市 し )に設置 せっち されたものを指 さ す。その施設 しせつ は島原 しまばら の加津佐 かづさ (現 げん 長崎 ながさき 県 けん 南 みなみ 島原 しまばら 市 し )を経 へ て、熊本 くまもと の天草 てんぐさ (現 げん 熊本 くまもと 県 けん 天草 あまくさ 市 し )、その後 ご 長崎 ながさき に移転 いてん した。
現在 げんざい は、旧 きゅう 長崎 ながさき 大司教 だいしきょう 館 かん に設 もう けられたカトリック長崎 ながさき 大司教 だいしきょう 区 く が運営 うんえい する司祭 しさい を目指 めざ す神学 しんがく 生 せい の寄宿 きしゅく 学習 がくしゅう 施設 しせつ 「長崎 ながさき コレジオ」として名 な を残 のこ している。
天正 てんしょう 遣 や 欧 おう 少年 しょうねん 使節 しせつ の来訪 らいほう を伝 つた える印刷物 いんさつぶつ 、1586年 ねん (京都 きょうと 大学 だいがく 図書館 としょかん 蔵 ぞう )伊東 いとう は右 みぎ 上 じょう 、中浦 なかうら は右 みぎ 下 か 、千々石 ちぢわ は左上 ひだりうえ 、原 はら は左下 ひだりした
1579年 ねん に巡察 じゅんさつ 師 し として日本 にっぽん を訪 おとず れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノ は、当時 とうじ の日本 にっぽん 地区 ちく の責任 せきにん 者 しゃ であったフランシスコ・カブラル の方針 ほうしん を改 あらた めて、日本人 にっぽんじん 聖職 せいしょく 者 しゃ 育成 いくせい のため各地 かくち に教育 きょういく 施設 しせつ の設置 せっち を進 すす めた。府内 ふない のコレジオは、1580年 ねん (天正 てんしょう 8年 ねん )に有馬 ありま (現 げん 長崎 ながさき 県 けん 南 みなみ 島原 しまばら 市 し )と安土 あづち (現 げん 滋賀 しが 県 けん 近江八幡 おうみはちまん 市 し 安土 あづち 町 まち )に設立 せつりつ されたセミナリヨ 、同年 どうねん に臼杵 うすき (現 げん 大分 おおいた 県 けん 臼杵 きゅうしょ 市 し )に設立 せつりつ されたノビシャド (修練 しゅうれん 院 いん のこと)とともに、その一環 いっかん として設 もう けられたものである。
当時 とうじ 、府内 ふない はキリスト教 きりすときょう の有力 ゆうりょく な庇護 ひご 者 しゃ であった大友 おおとも 義鎮 よししげ (大友 おおとも 宗麟 そうりん )の本拠地 ほんきょち であり(ただし、宗麟 そうりん は1576年 ねん (天正 てんしょう 4年 ねん )に家督 かとく を息子 むすこ の大友 おおとも 義統 よしむね に譲 ゆず り、臼杵 きゅうしょ の丹生 にゅう 島 とう 城 じょう に居 きょ を移 うつ して二 に 元 もと 統治 とうち を行 おこな っている)、日本 にっぽん におけるキリスト教 きりすときょう 布教 ふきょう の拠点 きょてん として、宣教師 せんきょうし が滞在 たいざい し、数 すう 多 おお くの信者 しんじゃ を抱 かか えていた。
府内 ふない に開設 かいせつ されたコレジオでは、聖職 せいしょく 者 しゃ 育成 いくせい と一般 いっぱん 教養 きょうよう の両方 りょうほう の教育 きょういく が行 おこな われ、キリシタン に改宗 かいしゅう した士族 しぞく や宣教師 せんきょうし を志 こころざ す日本人 にっぽんじん ・外国 がいこく 人 じん に対 たい して、キリスト教 きょう 、ラテン語 らてんご 、音楽 おんがく 、数学 すうがく などの講義 こうぎ が行 おこな われた。また、養 やしなえ 方 かた 軒 のき パウロ などにより外国 がいこく 人 じん 宣教師 せんきょうし のための日本語 にほんご の講義 こうぎ も行 おこな われたという。ポルトガル王国 おうこく 出身 しゅっしん の宣教師 せんきょうし ・通訳 つうやく で、日本 にっぽん に関 かん する重要 じゅうよう な著作 ちょさく を遺 のこ したジョアン・ロドリゲス は、臼杵 きゅうしょ のノビシャドを経 へ て、府内 ふない のコレジオで学 まな んだとされる。
しかし、府内 ふない は1586年 ねん (天正 てんしょう 14年 ねん )に島津 しまつ 家久 いえひさ による焼 や き討 う ちに遭 あ い、壊滅 かいめつ (豊 ゆたか 薩合戦 かっせん )。コレジオは、その後 ご 、1590年 ねん (天正 てんしょう 18年 ねん )に島原 しまばら の加津佐 かづさ に移 うつ った。加津佐 かづさ では日本 にっぽん 初 はつ となる活版 かっぱん 印刷 いんさつ 機 き (グーテンベルク 印刷 いんさつ 機 き )を導入 どうにゅう 。以降 いこう 、コレジオではキリシタン版 ばん の出版 しゅっぱん が行 おこな われた。
コレジオは1591年 ねん 5月 がつ 、さらに奥 おく まったところに潜伏 せんぷく するために、加津佐 かづさ から天草 てんぐさ に移動 いどう した。この時 とき の移動 いどう には、有力 ゆうりょく キリスト教徒 きりすときょうと 領主 りょうしゅ 等 とう の勧 すす めがあった。折 おり からインディア副 ふく 王 おう への秀吉 ひでよし の返書 へんしょ を、少 すこ しでも教会 きょうかい に対 たい して穏 おだ やかな内容 ないよう に修正 しゅうせい してもらう交渉 こうしょう をしていた最中 さいちゅう であった。[ 1] 「天草 あまくさ 国人 くにびと 一揆 いっき (天正 てんしょう の天草 てんぐさ 合戦 かっせん )」(1589年 ねん )で小西 こにし 行長 ゆきなが と加藤 かとう 清正 きよまさ の連合 れんごう 軍 ぐん に敗 やぶ れた天草 あまくさ 久 ひさ 種 しゅ が、講和 こうわ し、小西 こにし の家臣 かしん 団 だん に組 く み込 こ まれた後 のち 、領地 りょうち を安堵 あんど された。[ 2] 天草 あまくさ コレジオは、天草 あまくさ 氏 し が提供 ていきょう した家屋 かおく とイエズス会 かい が所有 しょゆう していたカザを基 もと に作 つく られ、大村 おおむら の修練 しゅうれん 院 いん も同地 どうち に移 うつ された。[ 3]
コレジオが天草 てんぐさ にあったのは1597年 ねん (慶長 けいちょう 2年 ねん )9月 がつ または10月 がつ まで存在 そんざい した。[ 3] 天正 てんしょう 遣 や 欧 おう 少年 しょうねん 使節 しせつ の伊東 いとう マンシオ 、原 はら マルティニョ 、中浦 なかうら ジュリアン 、千々石 ちぢわ ミゲル などもそこで勉強 べんきょう した。
グーテンベルク式 しき の金属 きんぞく 活字 かつじ 印刷 いんさつ 機 き で羅 ら 葡日対訳 たいやく 辞書 じしょ や『平家 ひらか 物語 ものがたり 』、『エソポのファブラス』(『イソップ物語 ものがたり 』)、など文学 ぶんがく 書 しょ や信心 しんじん 書 しょ など12種類 しゅるい が刊行 かんこう された。[ 4] その内 うち 、『平家 ひらか 物語 ものがたり 』(ブリティッシュ・ミュージアム蔵 ぞう )は序文 じょぶん の「読誦 とくしょう (どくしょう)の人 ひと に対 たい して書 しょ す」から作者 さくしゃ はイルマン・不 ふ 干 ひ ・ハビアン(ファビアン)[ 5] とされる。口語 こうご の対話 たいわ 体 たい に編集 へんしゅう され、一 ひと つの異本 いほん とされる。外国 がいこく 人 じん 宣教師 せんきょうし などに、日本 にっぽん の歴史 れきし や日本語 にほんご を習得 しゅうとく させるために作成 さくせい されたものという。[ 6]
天草 あまくさ コレジオの院長 いんちょう (レイトル)はカステリア人 じん のパードレ・フランシスコ・カルデロン [ 7] そして1596年 ねん には副 ふく 院長 いんちょう だったポルトガル人 じん でパードレ・ディオゴ・デ・メスキタ [ 8] が就任 しゅうにん した。1591年 ねん 10月 がつ 6日 にち 時点 じてん で、天草 あまくさ コレジオ居住 きょじゅう 者 しゃ はパードレ・イルマン合 あ わせて約 やく 60人 にん 。同宿 どうしゅく ・従僕 じゅうぼく 合 あ わせて60人 にん 以上 いじょう で、合計 ごうけい 120人 にん を超 こ える規模 きぼ だった。(修練 しゅうれん 院 いん 所属 しょぞく の修練 しゅうれん 者 しゃ も含 ふく まれる。)コレジオと修練 しゅうれん 院 いん が同 おな じ建物 たてもの で教室 きょうしつ 、個室 こしつ 、共同 きょうどう 部屋 へや などがあった。また、用務 ようむ 部屋 へや には食糧 しょくりょう 倉庫 そうこ 、調理 ちょうり ・食堂 しょくどう などがあり、そして印刷所 いんさつしょ があった。[ 9]
教育 きょういく 内容 ないよう はラテン語 らてんご (含古典 こてん 学 がく )や良心 りょうしん 問題 もんだい 、「要綱 ようこう 」(ラテン語 らてんご の原文 げんぶん または主要 しゅよう 部分 ぶぶん の邦訳 ほうやく 書 しょ )、日本語 にほんご の学 がく 文 ぶん (文字 もじ と文書 ぶんしょ 体 たい 、日本 にっぽん の書籍 しょせき )などを学 まな んだ。[ 9] 。
サン・フェリペ号 ごう 事件 じけん を契機 けいき に始 はじ まった迫害 はくがい への対策 たいさく で、1597年 ねん (慶長 けいちょう 2年 ねん )10月 がつ 頃 ごろ 、天草 あまくさ コレジオを取 と り壊 こわ して、印刷 いんさつ 機 き と共 とも に長崎 ながさき (トドス・オス・サントス)に移動 いどう した。[ 10] 。
天草 あまくさ コレジオ跡地 あとち 論争 ろんそう について・研究 けんきゅう 史 し [ 編集 へんしゅう ]
天草 てんぐさ でのコレジオの位置 いち については、本渡 ほんど 、河浦 かわうら など諸説 しょせつ あり、論争 ろんそう が続 つづ いてきた。[ 11]
天草 あまくさ 伊豆 いず 守 まもる 種 しゅ 元 もと の本戸 ほんど (本渡 ほんど )城下 じょうか やその周辺 しゅうへん にあったとするこれまでの説 せつ に対 たい し、1958年 ねん に今村 いまむら 義孝 よしたか が新聞 しんぶん に、また鶴田 つるた 倉造 くらぞう が『熊本 くまもと 史学 しがく 』に「天草 てんぐさ 学林 がくりん 河 かわ 内浦 うちうら 説 せつ の提唱 ていしょう 」を発表 はっぴょう し、論争 ろんそう に火 ひ がついた。[ 12] それによるとルイス・フロイス の『日本 にっぽん 史 し 』など外国 がいこく 文献 ぶんけん から当時 とうじ 、宣教師 せんきょうし たちが指 さ す天草 てんぐさ は本渡 ほんど ではなく、河内 かわうち 浦 うら (河浦 かわうら )であって「天草 あまくさ コレジオ」は河内 かわうち 浦 うら に天草 あまくさ 久 ひさ 種 しゅ (ドン・ジョアン)が誘致 ゆうち したとする説 せつ である。
1985年 ねん には本渡町本戸馬場 ほんどまちほんとばば の河内 かわち 山 さん ため池 いけ から十字架 じゅうじか を刻 きざ んだ石碑 せきひ が見 み つかる。天草 てんぐさ 郷土 きょうど 資料 しりょう 館 かん の錦戸 にしきど 宏 ひろし 館長 かんちょう がコレジオ跡地 あとち ではないかと新聞 しんぶん に発表 はっぴょう した。[ 13] 錦戸 にしきど 館長 かんちょう によると、
(1)『天草 あまくさ 郡 ぐん 資料 しりょう 』の天草 てんぐさ 家 か 乗 じょう 誌 し 第 だい 4号 ごう 知行 ちぎょう 目録 もくろく 類 るい の本 ほん 砥 とぎ (本渡 ほんど )百姓 ひゃくしょう 中 ちゅう にあてた小西 こにし 行長 ゆきなが 花押 かおう の書簡 しょかん に「天草 あまくさ 殿 どの (現 げん 河 かわ 内浦 うちうら 城主 じょうしゅ )を本 ほん 砥 とぎ (本渡 ほんど )の代官 だいかん にしたからその下知 げじ に従 したが え」とある。[ 14]
(2)1590年 ねん の日本 にっぽん イエズス会 かい 第 だい 2回 かい 総 そう 協議 きょうぎ 会 かい で「天草 てんぐさ の全 ぜん 諸島 しょとう の中央 ちゅうおう に位置 いち する本渡 ほんど の城下 じょうか に本拠 ほんきょ を置 お く」との決定 けってい 事項 じこう がある。[ 15]
このことから、天草 あまくさ 久 ひさ 種 しゅ は小西 こにし 行長 ゆきなが の家臣 かしん 団 だん に組 く み込 こ まれた後 のち 、河浦 かわうら から本渡 ほんど に中心 ちゅうしん が移 うつ り、本渡 ほんど にコレジオができたのではないかと主張 しゅちょう した。
河浦 かわうら 説 せつ の候補 こうほ 地 ち だった旧 きゅう 河浦 かわうら 中学校 ちゅうがっこう 校庭 こうてい は洪水 こうずい 被害 ひがい が頻繁 ひんぱん に起 お こり、ここは不適 ふてき だと撤回 てっかい 。その後 ご 、河内 かわうち 浦 うら 古城山 こじょうさん の天満宮 てんまんぐう 境内 けいだい [ 16] や一町田 いっちょうだ の安養寺 あんようじ (真宗 しんしゅう )ではないかと推定 すいてい 。安養寺 あんようじ は1990年 ねん 、寺社 じしゃ 再建 さいけん のため境内 けいだい を整地 せいち したところ、河内 かわうち 浦城 うらしろ から出土 しゅつど したものと同 おな じ中世 ちゅうせい の土師器 はじき や青磁 せいじ 、白磁 はくじ の破片 はへん などが出土 しゅつど したが、キリシタン遺物 いぶつ は出 で なかった。[ 17] また墓地 ぼち に島原 しまばら ・天草 てんぐさ の乱 らん 後 ご のものだが1667(寛文 ひろふみ 7)年 ねん 没 ぼつ と刻 きざ まれたキリシタン様式 ようしき の墓碑 ぼひ と推定 すいてい される青木 あおき 源 はじめ 太夫 たゆう の墓 はか もある。[ 18]
一方 いっぽう 、本渡 ほんど 説 せつ の候補 こうほ 地 ち は、本渡 ほんど 町 まち の丸尾 まるお ヶ丘 おか [ 19] や本渡町本戸馬場 ほんどまちほんとばば の河内 かわち 山 さん ため池 いけ 付近 ふきん (西 にし の久保 くぼ 公園 こうえん )[ 20] などがある。東向 こちむき 寺 てら 出土 しゅつど とされていた天草 あまくさ 郷土 きょうど 資料 しりょう 館 かん 旧 きゅう 蔵 ぞう 「コレジオの鐘 かね 」は同館 どうかん の調査 ちょうさ によると、東京 とうきょう 国立 こくりつ 文化財 ぶんかざい 研究所 けんきゅうじょ の化学 かがく 的 てき 分析 ぶんせき で、鉛 なまり 同位 どうい 体 からだ 比 ひ 測定 そくてい し、東 ひがし アジア以外 いがい で作 つく られたとの結果 けっか が出 で たが、製作 せいさく 年代 ねんだい が不明 ふめい のため、イギリスの国立 こくりつ 博物館 はくぶつかん でビクトリア&アルバート博物館 はくぶつかん に鑑定 かんてい を依頼 いらい したところ19世紀 せいき のもので、1840年 ねん ~1860年 ねん に作 つく られた青銅 せいどう の鋳物 いもの であり、天草 あまくさ コレジオとは一切 いっさい 、関係 かんけい がないことが分 わ かった。後 のち に錦戸 にしきど も東向 こちむき 寺 てら 出土 しゅつど を否定 ひてい している。[ 21]
本渡 ほんど 町 まち の丸尾 まるお ヶ丘 おか と河浦 かわうら 支所 ししょ 横 よこ の公園 こうえん (旧 きゅう 河浦 かわうら 中学校 ちゅうがっこう 校庭 こうてい )には、それぞれ天草 てんぐさ コレジオ跡 あと をうたう記念 きねん 碑 ひ が建 た てられているが、天草 あまくさ 市 し は「コレジオはここ、という公式 こうしき 見解 けんかい は持 も っていない」との立場 たちば を示 しめ した。[ 22]
しかし、2001年 ねん 6月 がつ 、長崎 ながさき 市 し にある日本 にっぽん 二 に 十 じゅう 六 ろく 聖人 せいじん 記念 きねん 館 かん の結城 ゆうき 了 りょう 悟 さとる 元 もと 館長 かんちょう が発行 はっこう した冊子 さっし 『天草 あまくさ コレジヨ』に、フランシスコ・ロドリゲス神父 しんぷ [ 23] の記事 きじ の訳文 やくぶん を示 しめ し、河浦 かわうら (河内 かわうち 浦 うら )にコレジオがあったとして「疑問 ぎもん の余地 よち がない」と発表 はっぴょう 。しかし出典 しゅってん に記事 きじ はなく、原文 げんぶん の公開 こうかい を求 もと めても「史料 しりょう を提供 ていきょう してくれた友人 ゆうじん が亡 な くなり、連絡 れんらく が取 と れない」との理由 りゆう で、史料 しりょう は公開 こうかい されないまま2008年 ねん 、結城 ゆうき は亡 な くなる。[ 24]
その11年 ねん 後 ご の2019年 ねん 11月から、インターネット放送 ほうそう 局 きょく の天草 てんぐさ テレビが調査 ちょうさ 報道 ほうどう の過程 かてい で、その古文書 こもんじょ は大 だい 英 えい 図書館 としょかん に所蔵 しょぞう されていることを突 つ き止 と めた。東京大学 とうきょうだいがく 史料 しりょう 編纂 へんさん 所 しょ の記録 きろく によると1988年 ねん 頃 ごろ にはすでに大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん ではなく、大 だい 英 えい 図書館 としょかん が所蔵 しょぞう していたことも分 わ かった。[ 25] 写真 しゃしん を入手 にゅうしゅ し、慶應義塾大学 けいおうぎじゅくだいがく の高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 名誉 めいよ 教授 きょうじゅ に解読 かいどく を依頼 いらい 。2020年 ねん 2月 がつ 9日 にち 、地元 じもと の研究 けんきゅう 家 か らで作 つく る天草 てんぐさ キリシタン研究 けんきゅう 会 かい が西日本 にしにほん 新聞 しんぶん に発表 はっぴょう した。高瀬 たかせ の訳 わけ によると「天草 てんぐさ の内 うち のカワチノウラ(河内 かわうち 浦 うら )という地 ち では彼 かれ らは慰 なぐさ められた。そこは迫害 はくがい の時 とき に、永年 えいねん にわたりコレジオがひっそりと存在 そんざい した地 ち であった。」と書 か かれている。所在地 しょざいち について現在 げんざい の熊本 くまもと 県 けん 天草 あまくさ 市 し 河浦 かわうら にあったことを示 しめ す史料 しりょう で、具体 ぐたい 的 てき な地名 ちめい について言及 げんきゅう した文書 ぶんしょ の原本 げんぽん が確認 かくにん されたのは初 はじ めてとなる。[ 26] また2020年 ねん 10月 がつ 発行 はっこう の天草 てんぐさ テレビ出版 しゅっぱん ・編著 へんちょ 『天草 あまくさ キリシタン10の謎 なぞ 』で原本 げんぽん の写真 しゃしん が初 はじ めて公開 こうかい された。[ 27]
さらに天草 てんぐさ テレビは調査 ちょうさ 報道 ほうどう の過程 かてい で2020年 ねん 3月 がつ にオーストリア のウイーン にあるオーストリア国立 こくりつ 図書館 としょかん で新 しん 史料 しりょう を発見 はっけん 。天草 てんぐさ キリシタン研究 けんきゅう 会 かい で2020年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 、同局 どうきょく の番組 ばんぐみ と、さらに5月11日 にち に西日本 にしにほん 新聞 しんぶん 、同年 どうねん 6月 がつ 4日 にち の朝日新聞 あさひしんぶん で発表 はっぴょう した。この史料 しりょう はイエズス会 かい 宣教師 せんきょうし のルイス・ピニェイロが1617年 ねん にスペイン のマドリッド で出版 しゅっぱん したスペイン語 ご の書物 しょもつ 「われわれの聖 せい 信仰 しんこう が日本 にっぽん 諸 しょ 王国 おうこく において得 え た成果 せいか の報告 ほうこく 」だ。巻末 かんまつ にはイエズス会 かい のパードレたちが日本 にっぽん に所有 しょゆう していたカザ (修 おさむ 院 いん )、レジデンシア (駐在 ちゅうざい 所 しょ )、および迫害 はくがい で失 うしな われたもの、その移動 いどう についての一覧 いちらん の中 なか に「肥後 ひご 国 こく 、河内 かわうち 浦 うら 」には「コレジオ」があったと書 か かれている。
一方 いっぽう 、本渡 ほんど は栖本 すもと 、久玉 ひさだま 、大矢野 おおやの と同様 どうよう にレジデンシア があったことが書 か かれており、本渡 ほんど にコレジオがあったとは書 か かれていない。[ 28] 高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう は「天草 あまくさ コレジオが河内 かわうち 浦 うら に所在 しょざい した証拠 しょうこ の一 ひと つになる。跡地 あとち 論争 ろんそう に関 かん してはもはや議論 ぎろん の余地 よち はない」とした。フランシスコ・ロドリゲス神父 しんぷ の『1601年度 ねんど イエズス会 かい 年報 ねんぽう 』と、ルイス・ピニェイロの著書 ちょしょ この2つの史料 しりょう は河浦 かわうら 説 せつ を決定 けってい づけ、60年 ねん 以上 いじょう 続 つづ いた跡地 あとち 論争 ろんそう に終止符 しゅうしふ を打 う った。[ 29]
また、1959年 ねん 7月 がつ 『熊本 くまもと 史学 しがく 』に「天草 てんぐさ 学林 がくりん 河 かわ 内浦 うちうら 説 せつ の提唱 ていしょう 」を発表 はっぴょう した天草 あまくさ キリシタン史 し 研究 けんきゅう 家 か で熊本 くまもと 県 けん 宇城市 し の鶴田 つるた 倉造 くらぞう が2020年 ねん 4月 がつ に老衰 ろうすい のため熊本 くまもと 市内 しない の病院 びょういん で死去 しきょ した。享年 きょうねん 97歳 さい だった。天草 てんぐさ テレビは「面会 めんかい した家族 かぞく が証拠 しょうこ 発見 はっけん の知 し らせを伝 つた えると、指 ゆび でピースサインをした後 のち 『ありがとう・・』と微 かす かな声 こえ で喜 よろこ びを伝 つた えた。そして2つ目 め の証拠 しょうこ が発見 はっけん されたことを伝 つた える天草 てんぐさ テレビの番組 ばんぐみ が公開 こうかい された2日 にち 後 ご 、結果 けっか を見届 みとど けたように息 いき を引 ひ き取 と った。」と伝 つた えている。[ 30]
今後 こんご はこれを裏付 うらづ ける国内 こくない 史料 しりょう や考古学 こうこがく の遺物 いぶつ や遺構 いこう の発見 はっけん が鍵 かぎ となる。
^ 高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 「天草 あまくさ コレジオの活動 かつどう 」『キリシタン時代 じだい のコレジオ』八木 やぎ 書店 しょてん 、2017年 ねん 253頁 ぺーじ 。
^ 『天草 あまくさ 郡 ぐん 資料 しりょう 』天草 てんぐさ 家 か 乗 じょう 誌 し 第 だい 4号 ごう 知行 ちぎょう 目録 もくろく 類 るい の本 ほん 砥 とぎ (本渡 ほんど )百姓 ひゃくしょう 中 ちゅう にあてた小西 こにし 行長 ゆきなが 花押 かおう の書簡 しょかん に「天草 あまくさ 殿 どの (現 げん 河 かわ 内浦 うちうら 城主 じょうしゅ )を本 ほん 砥 とぎ (本渡 ほんど )の代官 だいかん にしたからその下知 げじ に従 したが え」とある。737頁 ぺーじ 。
^ a b 高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 「天草 あまくさ コレジオの活動 かつどう 」『キリシタン時代 じだい のコレジオ』八木 やぎ 書店 しょてん 、2017年 ねん 218-368頁 ぺーじ 。
^ 公 おおやけ 教 きょう 要理 ようり 〜1、信心 しんじん 書 しょ 〜6、文学 ぶんがく 〜3、語学 ごがく 書 しょ 〜2。この内 うち 国字 こくじ 、国文 こくぶん のもので現存 げんそん は1。今村 いまむら 義孝 よしたか 『天草 あまくさ 学 まなぶ 林 りん とその時代 じだい 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1990年 ねん 。131~157頁 ぺーじ 。
^ Ir.Unguio Fabiam,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.290. イルマン・うんぎょ・ハビアンIr.Unguio Fabiam 日本人 にっぽんじん 、ラテン語 らてんご を少 すこ し理解 りかい する。教師 きょうし 、日本語 にほんご を教 おし えている。高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 「天草 あまくさ コレジオの活動 かつどう 」『キリシタン時代 じだい のコレジオ』八木 やぎ 書店 しょてん 、2017年 ねん 228頁 ぺーじ 。
^ 今村 いまむら 義孝 よしたか 『天草 あまくさ 学 まなぶ 林 りん とその時代 じだい 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1990年 ねん 。141頁 ぺーじ 。
^ P.Francisco Calderón,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p.288.
^ P.Diogo de Misquita,Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes,1549-1654,p288. 1596年 ねん 2月 がつ 15日 にち 付 づ け長崎 ながさき 発 はつ 、ディオゴ・デ・メスキタのイエズス会 かい 総長 そうちょう 宛 あて 書簡 しょかん に、「私 わたし に関 かん しては、現在 げんざい セミナリオの聖 ひじり 務 つとむ にあるパードレ・フランシスコ・カルデロンに代 か わって、このコレジオのすべての事柄 ことがら が私 わたし に任 まか されていることに対 たい して(後略 こうりゃく )」高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 「天草 あまくさ コレジオの活動 かつどう 」『キリシタン時代 じだい のコレジオ』八木 やぎ 書店 しょてん 、2017年 ねん 321頁 ぺーじ
^ a b 高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 「天草 あまくさ コレジオの活動 かつどう 」『キリシタン時代 じだい のコレジオ』八木 やぎ 書店 しょてん 、2017年 ねん 218-368頁 ぺーじ
^ 高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 「天草 あまくさ コレジオの活動 かつどう 」『キリシタン時代 じだい のコレジオ』八木 やぎ 書店 しょてん 、2017年 ねん 354頁 ぺーじ
^ 鶴田 つるた 文 ぶん 史 し 編集 へんしゅう 『天草 てんぐさ 学林 がくりん 論考 ろんこう と資料集 しりょうしゅう 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1977年 ねん 10月 がつ 1日 にち 発行 はっこう 。西日本 にしにほん 新聞 しんぶん 「天草 あまくさ コレジオ謎 なぞ のまま?跡地 あとち の所在 しょざい かつて大 だい 論争 ろんそう 合併 がっぺい で下火 したび 郷土 きょうど 史家 しか 危機 きき 感 かん 」(2019年 ねん 12月14日 にち 朝刊 ちょうかん 、18日 にち 夕刊 ゆうかん )天草 あまくさ テレビ ウェブサイト「天草 あまくさ コレジオはどこに? 60年 ねん 以上 いじょう も論争 ろんそう 決定的 けっていてき な証拠 しょうこ 見 み つからず」
^ 「天草 あまくさ 学 まなぶ 林 りん は河浦 かわうら にあった、外国 がいこく 文献 ぶんけん から推論 すいろん 」熊本 くまもと 日 にち 日 にち 新聞 しんぶん 1958年 ねん 12月3日 にち より3回 かい 。鶴田 つるた 倉造 くらぞう 「天草 てんぐさ 学林 がくりん 河 かわ 内浦 うちうら 説 せつ の提唱 ていしょう 」『熊本 くまもと 史学 しがく 』第 だい 17号 ごう 、1959年 ねん 7月 がつ 。鶴田 つるた 倉造 くらぞう 「天草 あまくさ キリシタン史 し の問題 もんだい -天草 あまくさ 殿 どの ドン・ミゲル及 およ びドン・ジョアンは誰 だれ か」『キリシタン文化 ぶんか 研究 けんきゅう 会報 かいほう 』第 だい 7年 ねん 第 だい 2号 ごう 、1963年 ねん 10月 がつ 。
^ 天草 あまくさ 毎日新聞 まいにちしんぶん 「池 いけ の底 そこ から十字架 じゅうじか の標識 ひょうしき 出現 しゅつげん !天草 てんぐさ 学林 がくりん 跡 あと かコレジョ本渡 ほんど 説 せつ 浮上 ふじょう 」1985年 ねん 12月25日 にち 。毎日新聞 まいにちしんぶん 「コレジオ跡地 あとち 論争 ろんそう に終止符 しゅうしふ ?十字架 じゅうじか 刻 きざ んだ石碑 せきひ 本渡 ほんど で発見 はっけん 」1986年 ねん 1月 がつ 3日 にち 。読売新聞 よみうりしんぶん 「歴史 れきし ロマン探 さぐ る現地 げんち 調査 ちょうさ 十字架 じゅうじか 刻 きざ んだ石 いし 」1986年 ねん 2月 がつ 5日 にち 。
^ 『天草 あまくさ 郡 ぐん 資料 しりょう 』天草 てんぐさ 家 か 乗 じょう 誌 し 第 だい 4号 ごう 知行 ちぎょう 目録 もくろく 類 るい の本 ほん 砥 とぎ (本渡 ほんど )百姓 ひゃくしょう 中 ちゅう にあてた小西 こにし 行長 ゆきなが 花押 かおう の書簡 しょかん に「天草 あまくさ 殿 どの (現 げん 河 かわ 内浦 うちうら 城主 じょうしゅ )を本 ほん 砥 とぎ (本渡 ほんど )の代官 だいかん にしたからその下知 げじ に従 したが え」とある。737頁 ぺーじ 。
^ 日本 にっぽん イエズス会 かい 第 だい 2回 かい 総 そう 協議 きょうぎ 会 かい 「日本 にっぽん イエズス会 かい 第 だい 2回 かい 総 そう 協議 きょうぎ 会議 かいぎ 事 ごと 録 ろく と決裁 けっさい 」キリシタン文化 ぶんか 研究 けんきゅう 会 かい 『キリシタン研究 けんきゅう 』第 だい 16輯、吉川弘文館 よしかわこうぶんかん 、1976年 ねん 、283頁 ぺーじ 。
^ 鶴田 つるた 文 ぶん 史 し 「天草 てんぐさ 学林 がくりん 所在地 しょざいち 論 ろん の真実 しんじつ 」『河浦 かわうら 町 まち 郷土 きょうど 史 し 第 だい 7輯』河浦 かわうら 町 まち 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 、1995年 ねん 、78〜81頁 ぺーじ 。
^ 川崎 かわさき 富 とみ 人 じん 『川 かわ 嵜家由緒 ゆいしょ 書 しょ 』イナガキ印刷 いんさつ 、2001年 ねん 、16頁 ぺーじ 。
^ 鶴田 つるた 文 ぶん 史 し 『天草 てんぐさ の史跡 しせき 文化 ぶんか 遺産 いさん 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1971年 ねん 。63頁 ぺーじ 。
^ 梅 うめ 住 じゅう 栄太郎 えいたろう 「天草 てんぐさ 学林 がくりん 史蹟 しせき 参考 さんこう 地 ち 丸尾 まるお ヶ丘 おか に就 つ いて」鶴田 つるた 文 ぶん 史 し 編集 へんしゅう 『天草 てんぐさ 学林 がくりん 論考 ろんこう と資料集 しりょうしゅう 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1977年 ねん 。17〜24頁 ぺーじ 。
^ 天草 あまくさ 毎日新聞 まいにちしんぶん 「池 いけ の底 そこ から十字架 じゅうじか の標識 ひょうしき 出現 しゅつげん !天草 てんぐさ 学林 がくりん 跡 あと かコレジョ本渡 ほんど 説 せつ 浮上 ふじょう 」1985年 ねん 12月25日 にち 。毎日新聞 まいにちしんぶん 「コレジオ跡地 あとち 論争 ろんそう に終止符 しゅうしふ ?十字架 じゅうじか 刻 きざ んだ石碑 せきひ 本渡 ほんど で発見 はっけん 」1986年 ねん 1月 がつ 3日 にち 。読売新聞 よみうりしんぶん 「歴史 れきし ロマン探 さぐ る現地 げんち 調査 ちょうさ 十字架 じゅうじか 刻 きざ んだ石 いし 」1986年 ねん 2月 がつ 5日 にち 。錦戸 にしきど 宏 ひろし 「天草 あまくさ 学 まなぶ 林 りん と小西 こにし 行長 ゆきなが 本渡 ほんど 説 せつ の消 き えない理由 りゆう 」天草 あまくさ 毎日新聞 まいにちしんぶん 1995年 ねん 1月 がつ 1日 にち 。
^ 天草 あまくさ テレビ ウェブサイト「ニュース&トピックス 天草 あまくさ 郷土 きょうど 資料 しりょう 館 かん 所蔵 しょぞう 『コレジオの鐘 かね 』について」(Anthony North,Victoria and Albert Museum,3 August 1998.)
^ 西日本 にしにほん 新聞 しんぶん 「天草 あまくさ コレジオ謎 なぞ のまま?跡地 あとち の所在 しょざい かつて大 だい 論争 ろんそう 合併 がっぺい で下火 したび 郷土 きょうど 史家 しか 危機 きき 感 かん 」(2019年 ねん 12月14日 にち 朝刊 ちょうかん 、18日 にち 夕刊 ゆうかん )
^ ロドリゲス神父 しんぷ は1560年 ねん 、ポルトガルに生 う まれ、イエズス会 かい に入 はい り司祭 しさい として88年 ねん に来日 らいにち 。翌年 よくねん 、現在 げんざい の長崎 ながさき 県 けん 大村 おおむら 市 し や92年 ねん 、南 みなみ 島原 しまばら 市 し の八 はち 良 りょう 尾 お にあったセミナリオで布教 ふきょう し、1603年 ねん に日本 にっぽん 管区 かんく の代表 だいひょう としてローマに派遣 はけん された。P.Francisco Rodrigues S.J.,c.1560-1606
Schütte,Monumenta historica Japoniae I: Textus catalogorum Japoniae aliaeque de personis domibusque S.J. in Japonia informationes et relationes, 1549-1654
pp.293,1283,414-415。
キリシタン文化 ぶんか 研究 けんきゅう 会 かい 『キリシタン研究 けんきゅう 』第 だい 24輯 1984年 ねん チースリク「マトス神父 しんぷ 回想 かいそう 録 ろく 」(40)86頁 ぺーじ 。
^ 結城 ゆうき 了 りょう 悟 さとる 『イエズス会 かい 宣教師 せんきょうし の記録 きろく における 天草 あまくさ コレジョ』日本 にっぽん 二 に 十 じゅう 六 ろく 聖人 せいじん 記念 きねん 館 かん 、2001年 ねん 6月 がつ 29日 にち 発行 はっこう 。44頁 ぺーじ に、「天草 てんぐさ では迫害 はくがい の時 とき 、長 なが い間 あいだ コレジオがひっそりと置 お かれていた河内 かわうち 浦 うら という町 まち に、(後略 こうりゃく )」この原文 げんぶん の出典 しゅってん として48頁 ぺーじ に、「British Museum,Add.Mss.9857」と記述 きじゅつ されているが、そこに同文 どうぶん はない。
^ フランシスコ・ロドリゲス神父 しんぷ の『1601年度 ねんど イエズス会 かい 年報 ねんぽう 』1601年 ねん 9月 がつ 30日 にち 付 づけ の古文書 こもんじょ に書 か かれている。結城 ゆうき 了 りょう 悟 さとる 『イエズス会 かい 宣教師 せんきょうし の記録 きろく における 天草 あまくさ コレジヨ』日本 にっぽん 二 に 十 じゅう 六 ろく 聖人 せいじん 記念 きねん 館 かん 、2001年 ねん 6月 がつ 29日 にち 発行 はっこう 、48頁 ぺーじ の出典 しゅってん は誤 あやま りで、大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん (British Museum)ではなく、大 だい 英 えい 図書館 としょかん (British Library)が所蔵 しょぞう している。また、フォリオ数 すう も誤 あやま りで、9857ではなく9859が正 ただ しい。結城 ゆうき 氏 し の『イエズス会 かい 宣教師 せんきょうし の記録 きろく における 天草 あまくさ コレジョ』(日本 にっぽん 二 に 十 じゅう 六 ろく 聖人 せいじん 記念 きねん 館 かん )は2001年 ねん 6月 がつ 29日 にち 発行 はっこう なので、この時点 じてん ではすでに大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん にはない訳 わけ で、結城 ゆうき 氏 し 自身 じしん 、実 じつ はこの原文 げんぶん を見 み ていなかったのではないかという疑問 ぎもん が残 のこ るが、亡 な くなられた今 いま となっては確 たし かめようがない。天草 てんぐさ テレビ出版 しゅっぱん ・編著 へんちょ 『天草 あまくさ キリシタン10の謎 なぞ 』天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん 、インプレスR&D POD出版 しゅっぱん サービス共同 きょうどう 刊行 かんこう 、2020年 ねん 10月 がつ 、史料 しりょう 輯の69-74頁 ぺーじ に原本 げんぽん の写真 しゃしん が初 はじ めて公開 こうかい された。
^ 西日本 にしにほん 新聞 しんぶん 「天草 あまくさ コレジオ 謎 なぞ に光 ひかり 河浦 かわうら 示 しめ す古文書 こもんじょ 英国 えいこく に キリシタン最高 さいこう 学府 がくふ 所在地 しょざいち 論争 ろんそう 60年 ねん 超 ちょう 」(2020年 ねん 2月 がつ 9日 にち 朝刊 ちょうかん 社会 しゃかい 面 めん )天草 あまくさ テレビ ウェブサイト「天草 あまくさ コレジオは河浦 かわうら に!跡地 あとち 論争 ろんそう に終止符 しゅうしふ か 大 だい 英 えい 図書館 としょかん に場所 ばしょ を示 しめ す古文書 こもんじょ 」(2020年 ねん 2月 がつ 19日 にち )
^ 「史料 しりょう 輯 『1601年度 ねんど イエズス会 かい 年報 ねんぽう 』1601年 ねん 9月 がつ 30日 にち 付 づけ Add.Mss.9859(大 だい 英 えい 図書館 としょかん 所蔵 しょぞう )」天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん ・編著 へんちょ 『天草 あまくさ キリシタン10の謎 なぞ 』天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん 、インプレスR&D POD出版 しゅっぱん サービス共同 きょうどう 刊行 かんこう 、2020年 ねん 10月 がつ 発行 はっこう 、69〜74頁 ぺーじ 。
^ スペイン語 ご で出版 しゅっぱん された後 のち 、翌年 よくねん にフランス語 ふらんすご 版 ばん がパリで出版 しゅっぱん され、オーストリア国立 こくりつ 図書館 としょかん のほかフランスのリヨン市立 しりつ 図書館 としょかん などが所蔵 しょぞう している。Luys Pinheyro, "Relacion del sucesso que tuvo nuestra santa Fe en los reynos del Japon, desde el ano de 612 hasta el de 615 imperenado Cubosama"Viuda de Alonso Martin de Balboa, 1617.P514. 天草 あまくさ テレビ ウェブサイト「新 しん 史料 しりょう 再 ふたた び発見 はっけん !オーストリア国立 こくりつ 図書館 としょかん に所蔵 しょぞう /河浦 かわうら に天草 てんぐさ コレジオ」(2020年 ねん 2月 がつ 20日 はつか ) 。
また天草 てんぐさ テレビ出版 しゅっぱん ・編著 へんちょ 『天草 あまくさ キリシタン10の謎 なぞ 』天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん 、インプレスR&D POD出版 しゅっぱん サービス共同 きょうどう 刊行 かんこう 、2020年 ねん 10月 がつ 発行 はっこう の史料 しりょう 輯、76-83頁 ぺーじ にスペイン語 ご とフランス語 ふらんすご 版 ばん の写真 しゃしん が公開 こうかい されている。
^ 天草 あまくさ テレビ ウェブサイト「新 しん 史料 しりょう 再 ふたた び発見 はっけん !オーストリア国立 こくりつ 図書館 としょかん に所蔵 しょぞう /河浦 かわうら に天草 てんぐさ コレジオ」(2020年 ねん 2月 がつ 20日 はつか )西日本 にしにほん 新聞 しんぶん 「『河浦 かわうら にコレジオ』新 しん 資料 しりょう 天草 てんぐさ の研究 けんきゅう 会 かい 再 ふたた び確認 かくにん イエズス会 かい の古書 こしょ に記述 きじゅつ 」(2020年 ねん 5月 がつ 11日 にち 朝刊 ちょうかん ・熊本 くまもと 県 けん 版 ばん )、朝日新聞 あさひしんぶん 「天草 あまくさ コレジオ『肥後 ひご 国 こく 、河内 かわうち 浦 うら に』 現在 げんざい の河浦 かわうら 町 まち 郷土 きょうど 史家 しか らの論争 ろんそう 幕 まく 17世紀 せいき イエズス会 かい の史料 しりょう に記述 きじゅつ 天草 あまくさ キリシタン研究 けんきゅう 会 かい 調査 ちょうさ 」(2020年 ねん 6月 がつ 4日 にち 朝刊 ちょうかん ・熊本 くまもと 県 けん 版 ばん )
^ 天草 あまくさ テレビ ウェブサイト「鶴田 つるた 倉造 くらぞう 氏 し が死去 しきょ 天草 あまくさ コレジオ河 かわ 内浦 うちうら 説 せつ を提唱 ていしょう 関係 かんけい 者 しゃ から惜 お しむ声 こえ 」(2020年 ねん 2月 がつ 22日 にち )西日本 にしにほん 新聞 しんぶん 「河浦 かわうら 説 せつ 提唱 ていしょう の鶴田 つるた さん『ありがとう』笑顔 えがお で逝 ゆ く」(2020年 ねん 5月 がつ 11日 にち 朝刊 ちょうかん )。なお、論争 ろんそう の詳 くわ しい経緯 けいい について書 か かれている最新 さいしん 本 ほん 、「失 うしな われた20年 ねん そして次 つぎ のフェーズへ コラム 跡地 あとち 論争 ろんそう が残 のこ したもの」天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん ・編著 へんちょ 『天草 あまくさ キリシタン10の謎 なぞ 』天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん 、インプレスR&D POD出版 しゅっぱん サービス共同 きょうどう 刊行 かんこう 、2020年 ねん 10月 がつ 、22〜27頁 ぺーじ 。がある。
Schütte,Monumenta historica Japoniae I
以下 いか 、発行 はっこう 年 ねん 順 じゅん 。
天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん ・編著 へんちょ 『天草 あまくさ キリシタン10の謎 なぞ 』天草 あまくさ テレビ出版 しゅっぱん 、インプレスR&D POD出版 しゅっぱん サービス共同 きょうどう 刊行 かんこう 、2020年 ねん 10月 がつ 。
高瀬 たかせ 弘 ひろし 一郎 いちろう 『キリシタン時代 じだい のコレジオ』八木 はちぼく 書店 しょてん 、2017年 ねん 。
川崎 かわさき 富 とみ 人 じん 『川 かわ 嵜家由緒 ゆいしょ 書 しょ 』イナガキ印刷 いんさつ 、2001年 ねん 。
鶴田 つるた 文 ぶん 史 し 『河浦 かわうら 町 まち 郷土 きょうど 史 し 第 だい 7輯』河浦 かわうら 町 まち 教育 きょういく 委員 いいん 会 かい 、1995年 ねん 。
今村 いまむら 義孝 よしたか 『天草 あまくさ 学 まなぶ 林 りん とその時代 じだい 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1990年 ねん 。
鶴田 つるた 文 ぶん 史 し 編集 へんしゅう 『天草 てんぐさ 学林 がくりん 論考 ろんこう と資料集 しりょうしゅう 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1977年 ねん 。
キリシタン文化 ぶんか 研究 けんきゅう 会 かい 『キリシタン研究 けんきゅう 』第 だい 16輯、吉川弘文館 よしかわこうぶんかん 、1976年 ねん 。
天草 あまくさ 郡 ぐん 教育 きょういく 会 かい 編 へん 『天草 あまくさ 郡 ぐん 資料 しりょう 』(大 だい 2輯)天草 てんぐさ 家 か 乗 じょう 誌 し 第 だい 4号 ごう 知行 ちぎょう 目録 もくろく 類 るい 、名著 めいちょ 出版 しゅっぱん 、1972年 ねん 。(復刻 ふっこく 本 ほん )
鶴田 つるた 文 ぶん 史 し 『天草 てんぐさ の史跡 しせき 文化 ぶんか 遺産 いさん 』天草 あまくさ 文化 ぶんか 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、1971年 ねん 。
『キリシタン文化 ぶんか 研究 けんきゅう 会報 かいほう 』7-2、1963年 ねん 。
鶴田 つるた 倉造 くらぞう 「天草 てんぐさ 学林 がくりん 河 かわ 内浦 うちうら 説 せつ の提唱 ていしょう 」『熊本 くまもと 史学 しがく 』17号 ごう 、1958年 ねん 。