キリストとサマリアの女 おんな ヨーゼフ・フォン・ヘンペル(19世紀 せいき )
サマリアの女 おんな (サマリアのおんな、英語 えいご : Samaritan woman at the well )は新約 しんやく 聖書 せいしょ のヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ (4:1-42)に登場 とうじょう するサマリア人 じん の女 おんな 。サマリヤの女 おんな とも表記 ひょうき される。彼女 かのじょ は、サマリアにあるヤコブの井戸 いど のほとりでイエス と会話 かいわ をし、この人 ひと が来 く るべきメシア かもしれないと思 おも った。正教会 せいきょうかい 、東方 とうほう 諸 しょ 教会 きょうかい 、東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい の伝統 でんとう では、彼女 かのじょ は「光 ひか り輝 かがや く者 もの 」を意味 いみ するフォティニ(Φωτεινή)という名前 なまえ で聖人 せいじん として崇敬 すうけい されている。
イエスと弟子 でし たちは、ユダヤ からガリラヤ に向 む かう途中 とちゅう 、サマリア 地方 ちほう のシカル (スカル)という町 まち のはずれに来 き ていた。弟子 でし たちは食料 しょくりょう を買 か いに出 で ていき、旅 たび に疲 つか れたイエス がひとりで井戸 いど のそばに座 すわ っていた[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 時 とき は昼 ひる の12時 じ ごろだった。
一人 ひとり のサマリアの女 おんな が水 みず をくみに来 き たので、くむものを持 も たないイエスは彼女 かのじょ に「水 みず を飲 の ませてください」と言 い った。宗教 しゅうきょう 的 てき 理由 りゆう からユダヤ人 じん とサマリア人 じん は交際 こうさい していなかったので女 おんな は不思議 ふしぎ に思 おも い「ユダヤ人 じん のあなたがサマリアの女 おんな の私 わたし に、どうして水 みず を飲 の ませてほしいと頼 たの むのですか」と尋 たず ねた。イエスは彼女 かのじょ に言 い った。「あなたが神 かみ の賜物 たまもの のことを知 し っていて、また、水 みず を飲 の ませてほしいと言 い った者 もの が、だれであるか知 し っていたならば、あなたの方 ほう から願 ねが い出 で ただろうし、また、その人 ひと はあなたに生 い ける水 みず を与 あた えたことであろう。」この会話 かいわ をきっかけにイエスは女 おんな に神 かみ の賜物 たまもの である「生 い ける水 みず 」について語 かた り、自分 じぶん が与 あた える「生 い ける水 みず 」は永遠 えいえん の命 いのち の泉 いずみ になること、神 かみ は霊 れい であるから、霊 れい と真理 しんり において礼拝 れいはい するべきことを教 おし えた。また、イエスは女 おんな には過去 かこ に五 ご 人 にん の夫 おっと がいた事 こと 、今 いま は結婚 けっこん していないが六 ろく 人 にん 目 め の男 おとこ がいる事 こと をい当 いあ てた。
そして、女 おんな は言 い った。「私 わたし は、キリストと呼 よ ばれるメシア が来 きた られることは知 し っています。その方 ほう が来 きた られる時 とき に、私 わたし たちに一切 いっさい のことを知 し らせてくださいます。」イエスは言 い われた。「あなたと話 はなし をしているこのわたしが、それである。」
この言葉 ことば を聞 き いた女 おんな は、水 みず がめを置 お いたまま町 まち に行 い き人々 ひとびと に言 い った。「見 み に来 き てください。私 わたし のことをすべてい当 いあ てた人 ひと がいます。この人 ひと がメシアかもしれません。」女 おんな の証言 しょうげん した言葉 ことば によって、イエスを信 しん じた人々 ひとびと がやって来 き て、自分 じぶん たちのところに滞在 たいざい するように頼 たの んだ。そしてイエスは二 に 日間 にちかん そこに滞在 たいざい した。そして、さらに多 おお くの人々 ひとびと が、イエスの言葉 ことば を聞 き いて信 しん じた。
こうして「サマリアの女 おんな 」とイエスの会話 かいわ がきっかけとなってシカル (スカル)の町 まち のサマリア人 じん の人々 ひとびと はイエスがメシアであることを信 しん じた。これが神 かみ の福音 ふくいん がユダヤ人 じん 世界 せかい から異邦 いほう 人 じん の世界 せかい に広 ひろ がる最初 さいしょ のできごととなった。
イエスとサマリアの女 おんな グエルチーノ (17世紀 せいき ) <4:1>イエスが、ヨハネよりも
多 おお く
弟子 でし をつくり、またバプテスマを
授 さづ けておられるということを、パリサイ
人 じん たちが
聞 き き、それを
主 おも が
知 し られたとき、
<4:2>(しかし、イエスみずからが、バプテスマをお授 さづ けになったのではなく、その弟子 でし たちであった)
<4:3>ユダヤを去 さ って、またガリラヤへ行 い かれた。
<4:4>しかし、イエスはサマリヤを通過 つうか しなければならなかった。
<4:5>そこで、イエスはサマリヤのスカルという町 まち においでになった。この町 まち は、ヤコブがその子 こ ヨセフに与 あた えた土地 とち の近 ちか くにあったが、
<4:6>そこにヤコブの
井戸 いど があった。イエスは
旅 たび の
疲 つか れを
覚 おぼ えて、そのまま、この
井戸 いど のそばにすわっておられた。
時 とき は
昼 ひる の
十 じゅう 二 に 時 じ ごろであった。
— ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 4章 しょう 1-6節 せつ (口語 こうご 訳 やく ) 1-6節 せつ ではイエスがサマリアを訪 おとず れた理由 りゆう を説明 せつめい している。ファリサイ派 は はもともと敵意 てきい を持 も っており、バプテスマのヨハネ 以上 いじょう に弟子 でし をつくっていることを聞 き いてより嫉妬 しっと 心 しん を強 つよ めたことをイエスが知 し ったためファリサイ派 は から距離 きょり を置 お くためガリラヤに向 む かった。2節 せつ でバプテスマ をイエスではなく弟子 でし たちが授 さづ けていたとあるが、共 とも 観 かん 福音 ふくいん 書 しょ でもイエスがバプテスマを授 さづ けたかどうかに関 かん しては沈黙 ちんもく しており、事実 じじつ としてイエスはバプテスマを授 さづ けていなかったと考 かんが えられる。ユダヤからガリラヤに行 い くにはサマリア地方 ちほう を通 とお り抜 ぬ けることが最 もっと も近道 ちかみち ではあるが、それでもサマリア地方 ちほう で宿泊 しゅくはく し、何 なん らかの形 かたち でサマリア人 じん の世話 せわ になることになる。(エルサレムとガリラヤのカナは直線 ちょくせん 距離 きょり で約 やく 120kmほどである)地中海 ちちゅうかい の海岸 かいがん 沿 ぞ いの街道 かいどう を通 とお る道 みち やヨルダン対岸 たいがん の高地 こうち を通 とお る道 みち もあった。サマリアを通過 つうか しなければならなかったとあるが、この記述 きじゅつ はイエスがサマリヤ伝道 でんどう を行 おこな った必然 ひつぜん 性 せい を表現 ひょうげん していると思 おも われる。4-6節 せつ でスカルにはヤコブの井戸 いど があったとしているが、創世 そうせい 記 き 38:18,48:21-22,ヨシュア記 き 24:32がヤコブの井戸 いど に関連 かんれん した箇所 かしょ であると考 かんが えられる。6節 せつ では昼 ひる の十 じゅう 二 に 時 じ 頃 ごろ とあるが、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ に出 で エジプト記 き 2章 しょう 15-21節 せつ にモーセが井戸 いど のかたわらに座 すわ り、そこにやってきた娘 むすめ たちを羊 ひつじ 飼 か いたちから救 すく い、羊 ひつじ の群 む れに水 みず を飲 の ませたエピソードがある。出 いで エジプト記 き では時間 じかん は書 か いていないが、ヨセフス『ユダヤ古代 こだい 誌 し 』では真昼 まひる であるとしている。[ 2] [ 3] [ 4]
<2:15> パロはこの
事 こと を
聞 き いて、モーセを
殺 ころ そうとした。しかしモーセはパロの
前 まえ をのがれて、ミデヤンの
地 ち に
行 い き、
井戸 いど のかたわらに
座 ざ していた。
<2:16> さて、ミデヤンの祭司 さいし に七 なな 人 にん の娘 むすめ があった。彼女 かのじょ たちはきて水 みず をくみ、水槽 すいそう にみたして父 ちち の羊 ひつじ の群 む れに飲 の ませようとしたが、
<2:17> 羊 ひつじ 飼たちがきて彼女 かのじょ らを追 お い払 はら ったので、モーセは立 た ち上 あ がって彼女 かのじょ たちを助 たす け、その羊 ひつじ の群 む れに水 みず を飲 の ませた。
<2:18> 彼女 かのじょ たちが父 ちち リウエルのところに帰 かえ った時 とき 、父 ちち は言 い った、「きょうは、どうして、こんなに早 はや く帰 かえ ってきたのか」。
<2:19> 彼女 かのじょ たちは言 い った、「ひとりのエジプトびとが、わたしたちを羊 ひつじ 飼たちの手 て から助 たす け出 だ し、そのうえ、水 みず をたくさんくんで、羊 ひつじ の群 む れに飲 の ませてくれたのです」。
<2:20> 彼 かれ は娘 むすめ たちに言 い った、「そのかたはどこにおられるか。なぜ、そのかたをおいてきたのか。呼 よ んできて、食事 しょくじ をさしあげなさい」。
<2:21> モーセがこの
人 ひと と
共 とも におることを
好 この んだので、
彼 かれ は
娘 むすめ のチッポラを
妻 つま としてモーセに
与 あた えた。
— 出 で エジプト記 き 2:15-21(口語 こうご 訳 やく ) イエス はサマリアの女 おんな に「水 みず を飲 の ませてください」と言 い った。サマリアの女 おんな は驚 おどろ いて、「あなたはユダヤ人 じん でありながら、どうしてサマリアの女 おんな のわたしに、飲 の ませてくれとおっしゃるのですか」と言 い った。女 おんな はイエスが自分 じぶん に話 はな しかけただけではなく、自分 じぶん の器 うつわ から水 みず を飲 の むということに驚 おどろ いたのであった。それは当時 とうじ の性 せい 差別 さべつ 、人種 じんしゅ 差別 さべつ 、階級 かいきゅう 制度 せいど による常識 じょうしき では、普通 ふつう には考 かんが えられないことだったのである。[ 5] サマリア人 じん とは列 れつ 王 おう 記 き 下 か 17:5-6にあるようにサルゴン王 おう 率 ひき いるアッシリア軍 ぐん に滅 ほろ ぼされた際 さい に北 きた イスラエル王国 おうこく の指導 しどう 的 てき 立場 たちば の人々 ひとびと を国外 こくがい 追放 ついほう し、アッシリアが他 た の場所 ばしょ から連 つ れてきた他 ほか の人々 ひとびと を入植 にゅうしょく させた非 ひ イスラエル集団 しゅうだん である。異教 いきょう を持 も ち込 こ む偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい 者 しゃ としてユダヤ人 じん から忌 い み嫌 きら われた。他 ほか にもエズラ記 き 4章 しょう 、ネヘミヤ2:9-19,3:33-4:1,6:1-14でサマリア人 じん によるエルサレム再建 さいけん の積極 せっきょく 的 てき 妨害 ぼうがい が描 えが かれている。歴史 れきし 的 てき にどちらもがユダヤ教 きょう の正統 せいとう 的 てき 立場 たちば であるとして分裂 ぶんれつ したが、この分裂 ぶんれつ は不明瞭 ふめいりょう ながら政治 せいじ 的 てき 理由 りゆう でペルシャ時代 じだい の後 のち という説 せつ がある。このような背景 はいけい により新約 しんやく 聖書 せいしょ でも宗教 しゅうきょう 的 てき 、政治 せいじ 的 てき 、民族 みんぞく 的 てき な問題 もんだい があったのである。[ 6]
田川 たがわ やカルヴァンは9節 せつ の交際 こうさい しないというのはヨハネによる解説 かいせつ ではなくサマリア人 じん の女 おんな の言葉 ことば と考 かんが える。また、付 つ き合 あ わないσυγχρῶνται(sugchraomai)はユダヤ教学 きょうがく 者 しゃ のDaubeなど交際 こうさい しないという意味 いみ ではなく水 みず を汲 く む容器 ようき のようなものを共用 きょうよう しないと訳 やく す説 せつ を取 と る者 もの も多 おお い。田川 たがわ はこれをchraomai(用 もち いる、使 つか う)にsyn(共 とも に)の接頭 せっとう 辞 じ をつけたものであり、用例 ようれい としてはあり得 え るとしながらも共用 きょうよう するという意味 いみ であれば対格 たいかく の目的 もくてき 語 ご が文中 ぶんちゅう になければならないとし、この箇所 かしょ では容器 ようき のような目的 もくてき 語 ご はなく、サマリア人 じん という名詞 めいし が与格 よかく で用 もち いられている。また、ユダヤ人 じん はサマリヤ人 じん と交際 こうさい しないと言 い う内容 ないよう をヨハネによる解説 かいせつ と捉 とら えず、サマリヤの女 おんな の言葉 ことば であると捉 とら え「それで彼 かれ にサマリア女 おんな が言 い う、『あなたはユダヤ人 じん であるのに、どうしてサマリア女 おんな である私 わたし に飲 の ませてくれなどと頼 たの むのですか。ユダヤ人 じん はサマリア人 じん とはつきあわないじゃないですか。』」と訳 やく している。(与格 よかく はここでは~との関 かか わりにおいて等 ひとし と訳 やく される利害 りがい ・関連 かんれん の与格 よかく であり、~を等 ひとし と訳 やく される対格 たいかく で表 あらわ される容器 ようき のような目的 もくてき 語 ご があるわけではない。)[ 2] [ 3] [ 7]
イエスは女 おんな の質問 しつもん には答 こた えずに言 い った。「もしあなたが神 かみ の賜物 たまもの のことを知 し り、また、『水 みず を飲 の ませてくれ』と言 い った者 もの が、だれであるか知 し っていたならば、あなたの方 ほう から願 ねが い出 で て、その人 ひと から生 い ける水 みず をもらったことであろう。」女 おんな はイエスが驚嘆 きょうたん すべき主張 しゅちょう をしていることをすぐに理解 りかい した。女 おんな は言 い った。「主 おも よ[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 、あなたは、くむ物 もの をお持 も ちにならず、その上 うえ 、井戸 いど は深 ふか いのです。その生 い ける水 みず を、どこから手 て に入 い れるのですか。あなたは、この井戸 いど を下 くだ さったわたしたちの父 ちち ヤコブ よりも、偉 えら いかたなのですか。ヤコブ 自身 じしん も飲 の み、その子 こ らも、その家畜 かちく も、この井戸 いど から飲 の んだのですが。」イエスは答 こた えて言 い われた。「 この水 みず を飲 の む者 もの はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与 あた える水 みず を飲 の む者 もの は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与 あた える水 みず は、その人 ひと のうちで泉 いずみ となり、永遠 えいえん の命 いのち に至 いた る水 みず が、わきあがるであろう。」 女 おんな はこの時 とき 、あるいはその前 まえ の段階 だんかい でイエスの語 かた る「生 い ける水 みず 」が宗教 しゅうきょう 的 てき 意味合 いみあ いを持 も つ比喩 ひゆ (隠喩 いんゆ 、メタファー)であることに気 き づいたと思 おも われる。「主 おも よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水 みず をわたしに下 くだ さい。」女 おんな もまた同 おな じように隠喩 いんゆ 的 てき ない方 いかた で答 こた えているのでわかりにくいが、女 おんな はイエスが宗教 しゅうきょう 的 てき 意味合 いみあ いの驚 おどろ くべき主張 しゅちょう をしていることを理解 りかい していると思 おも われるのである。[ 9]
<4:16>イエスは
女 おんな に
言 い われた、「あなたの
夫 おっと を
呼 よ びに
行 い って、ここに
連 つ れてきなさい」。
<4:17>女 おんな は答 こた えて言 い った、「わたしには夫 おっと はありません」。イエスは女 おんな に言 い われた、「夫 おっと がないと言 い ったのは、もっともだ。
<4:18>あなたには五 ご 人 にん の夫 おっと があったが、今 いま のはあなたの夫 おっと ではない。あなたの言葉 ことば のとおりである」。
<4:19>女 おんな はイエスに言 い った、「主 おも よ、わたしはあなたを預言 よげん 者 しゃ と見 み ます。
<4:20>わたしたちの先祖 せんぞ は、この山 やま で礼拝 れいはい をしたのですが、あなたがたは礼拝 れいはい すべき場所 ばしょ は、エルサレムにあると言 い っています」。
<4:21>イエスは女 おんな に言 い われた、「女 おんな よ、わたしの言 い うことを信 しん じなさい。あなたがたが、この山 やま でも、またエルサレムでもない所 ところ で、父 ちち を礼拝 れいはい する時 とき が来 く る。
<4:22>あなたがたは自分 じぶん の知 し らないものを拝 おが んでいるが、わたしたちは知 し っているかたを礼拝 れいはい している。救 すくい はユダヤ人 じん から来 く るからである。
<4:23>しかし、まことの礼拝 れいはい をする者 もの たちが、霊 れい とまこととをもって父 ちち を礼拝 れいはい する時 とき が来 く る。そうだ、今 こん きている。父 ちち は、このような礼拝 れいはい をする者 もの たちを求 もと めておられるからである。
<4:24>神 かみ は霊 れい であるから、礼拝 れいはい をする者 もの も、霊 れい とまこととをもって礼拝 れいはい すべきである」。
<4:25>女 おんな はイエスに言 い った、「わたしは、キリストと呼 よ ばれるメシヤがこられることを知 し っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知 し らせて下 くだ さるでしょう」。
<4:26>イエスは
女 おんな に
言 い われた、「あなたと
話 はなし をしているこのわたしが、それである」。
— ヨハネによる福音 ふくいん 書 しょ 4章 しょう 16節 せつ から26節 せつ (口語 こうご 訳 やく )
キリストとサマリアの女 おんな ロレンツォ・リッピ(17世紀 せいき )
イエスは「その水 みず をわたしに下 くだ さい」という女 おんな の願 ねが いを無視 むし するかのように、話題 わだい を変 か え、「あなたの夫 おっと を連 つ れてきなさい」と言 い った。そして女 おんな が知 し られたくないと思 おも ったであろう過去 かこ 、すなわち、何 なん 度 ど も離婚 りこん を繰 く り返 かえ し、過去 かこ に五 ご 人 にん の夫 おっと があったこと、今 いま は結婚 けっこん していないが六 ろく 人 にん 目 め の男 おとこ と一緒 いっしょ に生活 せいかつ していることをい当 いあ てる。これは、イエスには隠 かく し事 ごと ができないことを知 し らせ、女 おんな に真実 しんじつ を語 かた るようにうながすと同時 どうじ に、自分 じぶん のほんとうの姿 すがた を自覚 じかく させるためであった。イエスは彼女 かのじょ が霊的 れいてき 渇 かわ きを覚 おぼ えていること、それが異性 いせい 遍歴 へんれき につながっていることを読 よ み取 と り、女 おんな にその自覚 じかく を促 うなが すことを意図 いと していると思 おも われる[ 10] 。
そして女 おんな は、それまでイエスをある種 しゅ のラビ か霊的 れいてき 指導 しどう 者 しゃ のように思 おも っていたが、この人 ひと は預言 よげん 者 しゃ かもしれないと思 おも った。そしてゲリジム山 さん で礼拝 れいはい をする彼女 かのじょ たちサマリア人 じん とエルサレム で礼拝 れいはい をするユダヤ人 じん のどちらが正 ただ しいのかをイエスに尋 たず ねる。彼女 かのじょ にとって答 こた えを出 だ したい問題 もんだい だったのである。それに対 たい しイエスは、神 かみ は霊 れい であるから、礼拝 れいはい をする者 もの も、霊 れい とまこととをもって礼拝 れいはい すべきであり、ゲリジム山 さん でもエルサレムでもなく、このような礼拝 れいはい をする者 もの たちを神 かみ は求 もと めておられることを彼女 かのじょ に告 つ げた。イエスはこれまで神 かみ の国 くに の奥義 おうぎ をたとえ話 はなし を用 もち いて語 かた ってきた。高慢 こうまん さで心 しん がにぶくなっている人 ひと にはその奥義 おうぎ を隠 かく してきたのだった。イエスは彼女 かのじょ 、サマリアの女 おんな を神 かみ の国 くに の福音 ふくいん を語 かた るにふさわしい人 ひと であると認 みと めたのである[ 11] 。
その時 とき 、彼女 かのじょ から25節 せつ のこの驚 おどろ くような言葉 ことば が出 で てきた。「わたしは、キリストと呼 よ ばれるメシア がこられることを知 し っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知 し らせて下 くだ さるでしょう。」過去 かこ に複雑 ふくざつ な異性 いせい 関係 かんけい を持 も っており、周囲 しゅうい から不道徳 ふどうとく であると責 せ められたであろうサマリアのこの女 おんな は、聖書 せいしょ のなかの敬虔 けいけん な女性 じょせい たちと同 おな じように救 すく い主 ぬし への希望 きぼう を抱 だ いていたのであった。そしてこの言葉 ことば を発 はっ したとき、彼女 かのじょ の心 しん の中 なか には、「もしかすると目 め の前 まえ にいるこの方 ほう がキリスト、メシア なのではないだろうか」という思 おも いが読 よ み取 と れるのである[ 12] 。それに対 たい しイエスは答 こた えた。「あなたと話 はなし をしているこのわたしが、それである。」[ 注釈 ちゅうしゃく 3] これは、イエスが自分 じぶん が救 すく い主 ぬし であると断言 だんげん した唯一 ゆいいつ の明白 めいはく な主張 しゅちょう であった。これ以前 いぜん の聖書 せいしょ の記録 きろく の中 なか にはこれほど明白 めいはく に自分 じぶん が救 すく い主 ぬし であると主張 しゅちょう したことは書 か かれていないのである[ 14] 。ペトロ が「あなたはメシア、生 い ける神 かみ の子 こ です」[ 注釈 ちゅうしゃく 4] と信仰 しんこう を告白 こくはく をした時 とき 、「あなたにこのことを現 あらわ したのは、天 てん にいますわたしの父 ちち である」とイエスは認 みと めている。しかし同時 どうじ に、自分 じぶん がメシアであることを誰 だれ にも話 はな さないように、と弟子 でし たちに命 めい じている。この時 とき も「わたしが、それである」というはっきりとした言葉 ことば は使 つか われていない。この「わたしが、それである」という言葉 ことば が使 つか われたのは、イエスが裏切 うらぎ られた夜 よる だった。十字架 じゅうじか 刑 けい の数時間 すうじかん 前 まえ の早朝 そうちょう に大 だい 祭司 さいし カヤパ (カイアファ)の前 まえ で裁判 さいばん を受 う けた時 とき [ 注釈 ちゅうしゃく 5] である。聖書 せいしょ の中 なか でほとんど語 かた られたことのない、「あなたと話 はなし をしているこのわたしが、それである」という言葉 ことば がサマリアの女 おんな に語 かた られたのである。
この時 とき の女 おんな の驚 おどろ きと心 しん の動揺 どうよう はどんなものであっただろうか。彼女 かのじょ は心 しん の重荷 おもに が軽 かる くなり、自分 じぶん の罪 つみ が赦 ゆる されたのを感 かん じたであろうし、心 しん の中 なか の恥 はじ がまったく消 き えてしまったと思 おも われる[ 15] 。女 おんな はこの重大 じゅうだい なできごとを自分 じぶん ひとりの心 しん のうちにとどめることはできなかった。水 みず がめを井戸 いど に置 お いたまま町 まち に行 い き、多 おお くのサマリア人 じん を連 つ れてきて、「この人 ひと は、わたしのしたことを何 なに もかも言 い いあてました」と証言 しょうげん し、彼 かれ らはイエスがメシアであることを信 しん じた。
こうして彼女 かのじょ 、サマリアの女 おんな は生 い ける水 みず 、いのちの水 みず を発見 はっけん したのだった。
^ 「イエスは旅 たび の疲 つか れを覚 おぼ えて、そのまま、この井戸 いど のそばにすわっておられた」<4:6>。ヨハネ福音 ふくいん 書 しょ がイエスの神性 しんせい を強調 きょうちょう する福音 ふくいん 書 しょ であることはよく知 し られている。しかし、ヨハネ福音 ふくいん 書 しょ は時折 ときおり このように、イエスの人間 にんげん 性 せい に特別 とくべつ 、言及 げんきゅう することも多 おお い。イエスは旅 たび に疲 つか れるばかりでなく、涙 なみだ を流 なが し<11:35>、熱 あつ く心 しん を動 うご かす<11:33>、<12:27>、<13:21>。[ 1]
^ この「主 あるじ 」は神 かみ を表 あらわ す意味 いみ の主 おも ではなく、男性 だんせい に対 たい する尊敬 そんけい を表 あらわ す呼 よ びかけの敬称 けいしょう である。この時点 じてん で、女 おんな はイエスを神 かみ 的 てき 存在 そんざい であると思 おも ってはいない。[ 8]
^ 「わたしが、それである」は、直訳 ちょくやく では単 たん に「わたしはある(在 あ る)」。ギリシャ語 ご では「エゴー・エイミ」であるが、ヨハネ福音 ふくいん 書 しょ の固有 こゆう な表現 ひょうげん で、出 で エジプト記 き <3:14>の「わたしは在 あ るものである」という旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 的 てき ヘブライ語 ご 表現 ひょうげん に基 もと づくものであり、イエスの神性 しんせい を表 あらわ している。ヨハネ福音 ふくいん 書 しょ <8:24、28、58>の「わたしがそういう者 もの であること」、「わたしは、いる」<13:19>の「わたしがそれであること」の表現 ひょうげん も同様 どうよう である。[ 13]
^ マタイによる福音 ふくいん 書 しょ (口語 こうご 訳 やく ) <16:16> を参照 さんしょう 。
^ マルコによる福音 ふくいん 書 しょ (口語 こうご 訳 やく ) <14:61> を参照 さんしょう 。