(Translated by https://www.hiragana.jp/)
シッキム王国 - Wikipedia コンテンツにスキップ

シッキム王国おうこく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
シッキム王国おうこく
འབྲས་ལྗོངས།
1642ねん - 1975ねん インド
シッキム州
シッキム王国の国旗 シッキム王国の国章
国旗こっきくにあきら
シッキム王国の位置
イギリス保護ほご (1861ねん - 1947ねん
およびインド保護ほご (1947ねん - 1975ねん)における領土りょうど
公用こうよう シッキムネパール
首都しゅと ヨクサム
ラブデンツェ
トゥムロン
ガントク
チョゲル
1642ねん - 1670ねん プンツォ・ナムゲル初代しょだい
1963ねん - 1975ねんパルデン・トンドゥプ・ナムゲルおわりだい
変遷へんせん
建国けんこく 1642ねん
ティタリヤ条約じょうやく締結ていけつ1817ねん
ダージリン割譲かつじょう1835ねん
インド併合へいごう滅亡めつぼう1975ねん

シッキム王国おうこく(シッキムおうこく、シッキムチベット: འབྲས་ལྗོངས།, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Drenjong; 英語えいご: Kingdom of Sikkim; 中国ちゅうごく: すずきん王国おうこく)は、インドシッキム地方ちほうげんシッキムしゅう)に存在そんざいした王朝おうちょう1642ねん - 1975ねん)。ナムゲルあさ(Namgyal dynasty)ともばれる。チベット仏教ぶっきょうニンマ)を信奉しんぽうしていた。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

建国けんこく

[編集へんしゅう]
シッキムの初代しょだいチョゲル、プンツォ・ナムゲル

シッキムにはもともとレプチャじん居住きょじゅうしていた。しかし、1642ねんチベットチベット仏教ぶっきょうゲルク主導しゅどうする政権せいけんであるガンデンポタンダライ・ラマ政権せいけん)により統一とういつされると、ゲルク対立たいりつしていたチベット仏教ぶっきょうニンマ高僧こうそう同派どうはほうずるチベットじん一部いちぶ(のちのブティヤじん)がシッキムの亡命ぼうめいし、プンツォ・ナムゲル擁立ようりつして、ヨクサム首都しゅとにシッキム王国おうこく(ナムゲルあさ)を建国けんこくした[1][2]。だが、チベットじん亡命ぼうめい政権せいけんだったことから、チベットはシッキムを属国ぞっこくとし、チベットを属国ぞっこくとしていた清朝せいちょうもシッキムをみずからの属国ぞっこく看做みなすという複雑ふくざつ状況じょうきょうとなっていた。

おう即位そくいしたプンツォは中央ちゅうおう集権しゅうけん行政ぎょうせい機構きこう確立かくりつつとめ、中央ちゅうおう首都しゅとヨクサム)には12にん大臣だいじん構成こうせいされる評議ひょうぎかい設置せっちし、地方ちほうには12のけん(ゾン)をいて国内こくない名家めいか出身しゅっしんしゃ県知事けんちじ(ゾンポン)に任命にんめいした[1][2]初期しょきのシッキム王国おうこくげんインドのシッキムしゅうよりはるかに広大こうだいであった[2]。その権威けんいは、きたタンラ山脈さんみゃくえ、ひがしはタゴンとうげブータンパロちかく)、みなみティタリヤベンガルビハール境界きょうかいちかく)、西にしネパールのティマル川岸かわぎしまでおよんだ[3]

ブータンの侵攻しんこう

[編集へんしゅう]

1670ねん、プンツォおう崩御ほうぎょ死亡しぼう)し、テンスン・ナムゲル王位おうい継承けいしょうした[4][2]。テンスンは即位そくい首都しゅとをヨクサムからラブデンツェうつした[2]。テンスンは議会ぎかい地方ちほう長官ちょうかん(ゾンペン)とのあいだ対立たいりつしょうじたのをて、議会ぎかい定員ていいんを12にんから8にんらし、先住民せんじゅうみんのレプチャぞくからも議員ぎいん妥協だきょうさくった[2]

1706ねんチャドル・ナムゲル治世ちせいに、ブータンおうカリンポン一帯いったいうばった。ちちおうテンスンのブータンじんからまれた王女おうじょ王位おうい継承けいしょうけん主張しゅちょうしたため、ブータンが介入かいにゅう理由りゆうたからであった[2]。 チャドルはブータンの攻勢こうせいれず、チベット亡命ぼうめいした。だが、庇護ひごしゃダライ・ラマ6せい死亡しぼうしたため、ブータンに屈服くっぷくし、ブータンぐん撤退てったいした。このあいだ、ブータンじん多数たすう入植にゅうしょくしたカリンポン地方ちほうはシッキム領土りょうどもどることはなかった[5]

1717ねん、チャドルおう崩御ほうぎょし、息子むすこギュルメ・ナムゲル王位おうい継承けいしょうした[4]。その治世ちせいもまた、ブータンぐんがしばしば侵攻しんこうしたため、ラブデンツェの城塞じょうさいはかった。そのさいツォンぞく強制きょうせい労働ろうどうし、かれらは同族どうぞくリンブーぞく領域りょういきげた[6]

1733ねん、ギュルメおう嫡子ちゃくし崩御ほうぎょした[4]が、ギュルメの尼僧にそう妊娠にんしんしており、死後しごまれた息子むすこプンツォ・ナムゲル2せい王位おうい継承けいしょうした[4][6]

ネパールとのたたか

[編集へんしゅう]

1769ねんゴルカ王国おうこく君主くんしゅプリトビ・ナラヤン・シャハネパール王国おうこく建国けんこくすると、東方とうほうけて進出しんしゅつした[6]。そのさい、ギュルメおう強制きょうせい徴用ちょうよう反発はんぱつしていたリンブーぞくはネパールぐん協力きょうりょくし、いきおいづいたネパールぐんシンガリラ山脈さんみゃく西にし領土りょうどと、タライ地方ちほうではティスタがわまでも占領せんりょうした[6]

1780ねん、プンツォおう崩御ほうぎょし、息子むすこテンジン・ナムゲル王位おうい継承けいしょうした[4]。その治世ちせいもまたネパールとのたたかいがあり、りょうぐん小競こぜいが継続けいぞくされていた。テンジンおう反撃はんげき仕掛しかけ、一時いちじはシッキムぐんがネパールの領土りょうど進撃しんげきした。だが、これがネパールぐんそう攻撃こうげきまねき、その軍勢ぐんぜいは1788ねんから1789ねんにかけてチヤとうげえて、首都しゅとラブデンツェを急襲きゅうしゅうした[6]

テンジンおうなにとか王子おうじらとともに首都しゅと脱出だっしゅつすることに成功せいこうし、カビてチベットへ亡命ぼうめいダライ・ラマ8せい庇護ひごけた[6]。この侵攻しんこうにより、シッキムのティスタがわ西岸せいがん領土りょうどはネパールに征服せいふくされてしまった[6]

1793ねん、テンジンおう亡命ぼうめいさきラサ崩御ほうぎょした[6][4]息子むすこツグプ・ナムゲル王位おうい継承けいしょうし、シッキムへと帰国きこくした[6]。ツグプおうはシッキムに帰還きかんすると、首都しゅとをラブデンツェからトゥムロン遷都せんとした[6]

イギリスの保護ほごこく領土りょうど割譲かつじょう

[編集へんしゅう]

イギリスりょうインド帝国ていこく時代じだいになると、ネパールがイギリスとシッキムにとって共通きょうつうてきとみなされた。イギリスひがしインド会社かいしゃがネパールに侵攻しんこうしたグルカ戦争せんそう(1814ねん - 1816ねん)でスガウリ条約じょうやくむすばれ、ネパールはメチがわとティスタがわあいだ地域ちいき放棄ほうきした[6]。そのよく1815ねんにシッキムはイギリスとティタリヤ条約じょうやく締結ていけつし、ダージリンなどをふくむティスタがわ西岸せいがん全域ぜんいきがシッキムに譲渡ゆずりわたされたが、同時どうじにシッキムはイギリスの保護ほごこくとなった[6]

その一方いっぽうで、イギリスはチベットとの交易こうえき模索もさくはじめ、シルクロードのあるシッキムはその中継ちゅうけいてんとして理想りそうてきといえた。それは南下なんかしつつあるロシア帝国ていこくがチベットとの関係かんけいふかめようとすることを牽制けんせいする意味いみがあった。

1840ねん隣国りんごくきよしアヘン戦争せんそうになると、緩衝かんしょう地帯ちたい西にし位置いちするラダック当時とうじあったシク王国おうこくとチベットのあいだきよし・シク戦争せんそう(1841ねん - 1842ねん)がおこなわれた。しかしその直後ちょくご、イギリスとのあいだだいいちシク戦争せんそう(1845ねん - 1846ねんおよだいシク戦争せんそう(1848ねん - 1849ねん)がおこなわれ、シク王国おうこく滅亡めつぼうし、ジャンムー・カシュミールはん王国おうこく誕生たんじょうした。

イギリスはシッキムに譲渡じょうとしたダージリンの割譲かつじょうもうれ、年額ねんがく3000ルピーの補償ほしょうきんはらうことで合意ごういし、1841ねんにそのだいいちかい支払しはらいがおこなわれた[6]。だが、宗主そうしゅたるチベットはイギリスの帝国ていこく主義しゅぎ警戒けいかいしており、ダージリンの割譲かつじょうはチベットを激怒げきどさせる結果けっかとなった[6]。チベットはイギリスと隣接りんせつする領域りょういき西部せいぶだけでなく東部とうぶにもできることに脅威きょういかんじていた。そのため、ツグプおうもしだいにはんえいてきになった[7]

1849ねん、ツグプは首都しゅとトゥムロンにおとずれたダージリン長官ちょうかんキャンベル博士はかせ、フッカー博士はかせのイギリスじん2めい逮捕たいほ監禁かんきんした[8]。イギリスはただちに出兵しゅっぺいし、ツグプは降伏ごうぶく余儀よぎなくされたが、その報復ほうふくけた[8]王国おうこくはダージリン割譲かつじょう補償ほしょうきんられたばかりか、タライ地方ちほうだいランジットがわとランマンがわ以南いなんのシッキムりょう没収ぼっしゅうされ、現在げんざいのシッキムしゅう領域りょういきになった[8]

1860ねん、ダージリン居住きょじゅうみんがシッキムじん拉致らちされると、イギリスはこの機会きかい本格ほんかくてき出兵しゅっぺいした。よく1861ねんにツグプおう退位たいいさせられ、息子むすこシケオン・ナムゲル王位おうい継承けいしょうした[4][8]同年どうねんにシケオンおうはイギリスとティタリヤ条約じょうやく締結ていけつ余儀よぎなくさせられ、その国権こっけんをイギリスに委譲いじょうした。そのため、ちちだいむすばれたティタリヤ条約じょうやく保護ほごこくとなっていたシッキムは、さらにその従属じゅうぞくせいつよめた[8]。また、同年どうねんには清朝せいちょうとのあいだでシッキムをイギリスの保護ほごこくとすることがさだめられた。

1866ねんフランスによる雲南うんなんしょう経由けいゆ通商つうしょう調査ちょうさがきっかけとなって、雲南うんなん問題もんだいられるイギリス、フランス、中国ちゅうごくあいだ紛争ふんそうはじまると、イギリスのおも関心かんしんはよりゆたかな雲南うんなん方面ほうめんへとうつっていき、シッキムにもとめられる役割やくわりはインド総督そうとく避暑ひしょとなった。

イギリスとの関係かんけい悪化あっか、ネパールじん大量たいりょう流入りゅうにゅう

[編集へんしゅう]
トゥトブ・ナムゲル

1874ねん4がつ、シケオンおう崩御ほうぎょし、おとうとトゥトブ・ナムゲル王位おうい継承けいしょうした[4]。トゥトブおうだいになると、イギリスとの関係かんけい悪化あっか再燃さいねんした。

ちちだいむすばれた1861ねんのティタリヤ条約じょうやく締結ていけつにより、シッキム王国おうこく国権こっけんうばわれていたが、宗主そうしゅこくチベットイギリス帝国ていこく主義しゅぎきらっていた[8]。チベットはこの条約じょうやく無視むしし、1887ねんジェレプ・ラとうげえてシッキム領内りょうない要塞ようさい建設けんせつし、へいおくんだ[8]

イギリスはトゥトブおうにチベットの要塞ようさい建設けんせつについて抗議こうぎおこなったが、トゥトブおうはチベット・清朝せいちょうちから背景はいけいにこれを拒否きょひした[8]。イギリスは要塞ようさいのチベットぐん撃退げきたいしたのち、チュンビ峡谷きょうこく占拠せんきょした[8]。これが1888ねんシッキム遠征えんせい英語えいごばんであり、イギリスのチベット遠征えんせい前哨ぜんしょうせんとなった。

清朝せいちょう事態じたいおもて、イギリスとの会談かいだんかさねた結果けっか1890ねん両国りょうこくあいだにチベットおよびシッキムにかんするイギリス・清国きよくに協定きょうてい締結ていけつされた[8]。この協定きょうていでチベットとシッキムの国境こっきょうさだめられ(この国境こっきょう現在げんざいいたるまでわらない)、イギリスはシッキムの内政ないせい外政がいせいにぎり、その保護ほごこくであることも確認かくにんされた[8]

イギリスは行政ぎょうせいかんクロード・ホワイトをシッキム担当たんとうとして派遣はけんし、ガントクに駐在ちゅうざいして行政ぎょうせい担当たんとうした[8]かれはシッキムの経済けいざい基盤きばんたる農業のうぎょう開発かいはつさせるため、ネパールから大量たいりょう移民いみん移住いじゅうさせて、農地のうち開拓かいたくさせた[8]。その結果けっか、ネパールじん急増きゅうぞう、シッキムの人口じんこうだい多数たすうめるようになり[8]、ひいてはこれが王国おうこく滅亡めつぼう要因よういんひとつとなった。

一方いっぽう、トゥトブおうはカリンポンにうつされ、王権おうけんを剝奪されていた[8]かれはチベットへ亡命ぼうめいはかったが、イギリスに逮捕たいほ監禁かんきんされた。そのさい首都しゅとはトゥムロンから行政ぎょうせいかん駐在ちゅうざいするガントクうつされた[8]

チベットはイギリス・清国きよくに協定きょうてい当事とうじしゃでありながら無視むしされたため、きたシッキムのギャオガン軍事ぐんじ基地きち建設けんせつした[8]。イギリスはチベットとの対決たいけつ決意けついし、1902ねん出兵しゅっぺいして撃退げきたいすると、翌年よくねんにはチベット遠征えんせいおこなわれ、ラサを占領せんりょうした。その、ネパールの首相しゅしょうチャンドラ・シャムシェル・ジャンガ・バハドゥル・ラナ仲介ちゅうかいで、シッキム経由けいゆ交易こうえき中心ちゅうしんが2ヶ所かしょひらかれ、イギリスのチベットとの交易こうえき目的もくてきたされた[9]

王国おうこく近代きんだい

[編集へんしゅう]
タシ・ナムゲル(1938ねん

1914ねん2がつ11にち、トゥトブおうはイギリスの監視かんしのもとガントクで崩御ほうぎょ[9]息子むすこシケオン・トゥルク・ナムゲル王位おうい継承けいしょうした。シケオン・トゥルクおうオックスフォおっくすふぉド大学どだいがく留学りゅうがくしていたこともあり、封建ほうけんてき制度せいど廃止はいし決意けついしていたが、同年どうねん崩御ほうぎょし、おとうとタシ・ナムゲル王位おうい継承けいしょうした[9]

タシおう様々さまざま分野ぶんやでシッキムの近代きんだい推進すいしんした。まず、1916ねんにはそれまでカジス(地主じぬし行政ぎょうせい長官ちょうかんにな階層かいそう)が手中しゅちゅうにしていた司法しほうけんをはくだつ独立どくりつした裁判所さいばんしょ設立せつりつした。また、強制きょうせい労働ろうどう慣習かんしゅう廃止はいしし、土地とち改革かいかく税制ぜいせい改革かいかく敢行かんこうした。これらの改革かいかくは、シッキムにめざましい経済けいざいてき社会しゃかいてき発展はってんをもたらすことになる[10]

1947ねんインド連邦れんぽう独立どくりつすると、シッキムにおけるイギリスの地位ちいはインドが継承けいしょうすることとなった。1950ねんにはシッキムはインド・シッキム条約じょうやくむすび、外交がいこう防衛ぼうえい通信つうしんをインドにゆだねる保護ほごこくになった。またどう条約じょうやくもとづき、シッキム王国おうこく民主みんしゅすすめることが規定きていされ、参事院さんじいん(State Council、立法府りっぽうふ相当そうとう)と行政ぎょうせい参事さんじかい(Executive Council、内閣ないかく相当そうとう)の設立せつりつ決定けっていした。

しかし、王国おうこく支持しじするブティヤ・レプチャ・チベットけい人口じんこうが25%にたいし、労働ろうどうりょくとして流入りゅうにゅうしていたネパールけいが75%をめる人口じんこう比率ひりつでは、民主みんしゅ実現じつげんした場合ばあいはネパールけい主導しゅどうけん掌握しょうあくすることが王国おうこくない危惧きぐされたことから、シッキム王国おうこく政府せいふ参事院さんじいん議席ぎせきのコミュナルべつ割当わりあて実施じっしした。すなわちぜん17議席ぎせきのうち6議席ぎせきを「ブティヤ・レプチャけい」に、6議席ぎせきを「ネパールけい」に分配ぶんぱいしてこれを選挙せんきょ議席ぎせきとし、のこる5議席ぎせき国王こくおうによる親任しんにんさだめた。ネパールけい住民じゅうみん主体しゅたいとする政党せいとう不平等ふびょうどう選挙せんきょ制度せいど不満ふまんいたが、タシおうしんインド姿勢しせいをとっていたため、インドもかれ治世ちせいにおいてはコミュナル選挙せんきょ制度せいど支持しじしていた。

インドとの対立たいりつ滅亡めつぼう

[編集へんしゅう]
パルデン・トンドゥプ・ナムゲル(1971ねん

1963ねん、タシ・ナムゲルおう崩御ほうぎょし、息子むすこパルデン・トンドゥプ・ナムゲル王位おうい継承けいしょうすると、情勢じょうせい変化へんかした。パルデン・トンドゥプはインドの保護ほごかれるシッキムの現状げんじょう不満ふまんいだき、タシおうしんインド路線ろせん転換てんかんして独立どくりつ追求ついきゅう路線ろせんてんじ、公的こうてきでインド・シッキム条約じょうやく改正かいせいやシッキムの自国じこく軍事ぐんじりょく増強ぞうきょうつよ主張しゅちょうし、インド政府せいふにもその要求ようきゅうつたえた[11]

パルデン・トンドゥプおう王室おうしつ支持しじするブティヤ・レプチャけいシッキム国民党こくみんとう(SNP)を支援しえんし、はんインド、シッキム独立どくりつ政治せいじ路線ろせんへと転換てんかんしたため、インドはしんインドでネパールけい政党せいとうシッキム国民こくみん会議かいぎ(SNC、1960ねん結成けっせい)などを支持しじするようになった。参事院さんじいん選挙せんきょ制度せいどなん改正かいせいされたが、コミュナル選挙せんきょ制度せいど原則げんそくわらなかった。

そしてついには、はんしるし運動うんどうがりやとう足並あしなみのみだれをかたちで、1973ねん参事院さんじいん選挙せんきょでSNPが選挙せんきょ議席ぎせき18議席ぎせきちゅう11議席ぎせきめる勝利しょうりおさめる[12]。しかし、この勝利しょうりはもちろんコミュナル選挙せんきょ制度せいど恩恵おんけいによるものであり、SNCなどのネパールけい政党せいとうが「不正ふせい選挙せんきょ」と糾弾きゅうだんしたことで、デモや武装ぶそう蜂起ほうき全国ぜんこく規模きぼ発生はっせいした。混乱こんらん収拾しゅうしゅうするちからかったパルデン・トンドゥプおうはインドの保護ほごもとめて事態じたいったものの、この結果けっか、シッキムはSNCなどの政党せいとうともに、従前じゅうぜん以上いじょうのインド属国ぞっこく強化きょうかする「インド・シッキムさんしゃ協定きょうてい」に署名しょめいさせられたのである。

さんしゃ協定きょうていもとづき、参事院さんじいんわってシッキム立法りっぽう議会ぎかい英語えいごばん選挙せんきょ議席ぎせき30)が創設そうせつされ、1974ねん選挙せんきょ実施じっしされることになった。すでにさんしゃ協定きょうてい成立せいりつ直後ちょくごには、SNCなどしんしるしのネパールけい政党せいとう合併がっぺいしてシッキム会議かいぎ(SC)を結成けっせいしている。インドがた単純たんじゅんしょう選挙せんきょせいあらたな制度せいどとして導入どうにゅうされたこともあり、人口じんこう構成こうせい優位ゆういなSCが29議席ぎせきめる圧勝あっしょうおさめ、SNPはわずか1議席ぎせきへと転落てんらくした。あらたに首相しゅしょう就任しゅうにんしたSC総裁そうさいカジ・レンドゥプ・ドルジは、インドのけて国王こくおう権限けんげん大幅おおはば制限せいげんするしん憲法けんぽう制定せいていした。これが、1974ねんシッキム統治とうちほうである。

1975ねん4がつ9にち、パルデン・トンドゥプおう退位たいいもとめるデモたい王宮おうきゅうぐん発砲はっぽうした混乱こんらん収束しゅうそくさせるためにインドぐん侵攻しんこう王宮おうきゅうぐん武装ぶそう解除かいじょされ、パルデン・トンドゥプおう幽閉ゆうへいされた[13]翌日よくじつ立法りっぽう議会ぎかい王政おうせい廃止はいしとインドへの編入へんにゅう全会ぜんかい一致いっち議決ぎけつ[14]14にちおこなわれた国民こくみん投票とうひょうでもインド併合へいごう承認しょうにんされた。

15にちには、シッキムをインドのだい22番目ばんめしゅうとする憲法けんぽう改正かいせいあんインドの国会こっかい提出ていしゅつされ、26にち両院りょういん通過つうかした。同年どうねん5月16にち大統領だいとうりょう憲法けんぽう改正かいせいあん認証にんしょうし、ここにシッキム王国おうこく滅亡めつぼう、シッキムしゅうとしてインドに編入へんにゅうされた。

国旗こっき

[編集へんしゅう]

シッキム王国おうこく基礎きそ情報じょうほう

[編集へんしゅう]

1975ねんのシッキム王国おうこく基礎きそ情報じょうほう[15]

人口じんこう 194,000にん 面積めんせき 7,107km2 首都しゅと ガントク(12,000にん
民族みんぞく構成こうせい ネパールじん(75%)、レプチャじん、ブティヤじん 言語げんご ネパールレプチャヒンディー文盲もんもうりつ 84%) 宗教しゅうきょう ヒンドゥーきょう(60%)、仏教ぶっきょう など
国民総生産こくみんそうせいさん(GNP) 1200まんドル 一人ひとりたりの国民こくみん所得しょとく 60ドル ビザ 必要ひつよう
当時とうじ君主くんしゅ  パルデン・トンドゥプ・ナムゲル 当時とうじ首相しゅしょう I.S.チョプラ 当時とうじ立法りっぽう 任命にんめいせいの6にん選挙せんきょえらばれた18にんけい24にん国家こっか評議ひょうぎかい担当たんとう

歴代れきだい君主くんしゅ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b Kotturan(1983)、p.32.
  2. ^ a b c d e f g 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.379
  3. ^ Coelho(1970)、日本語にほんごばん35-36ぺーじ
  4. ^ a b c d e f g h Sikkim 2
  5. ^ 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.380
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.380
  7. ^ 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、pp.380-381
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.382
  9. ^ a b c 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.383
  10. ^ Coelho(1970)、日本語にほんごばん58-59ぺーじ、75ぺーじ
  11. ^ 落合おちあい(1986)、173-178ぺーじ、187ぺーじ
  12. ^ 落合おちあい(1986)、268-270ぺーじ
  13. ^ 「シッキムの王制おうせい廃止はいし完全かんぜん併合へいごう」『世界せかい週報しゅうほう』1975ねん4がつ29にち・5月6にち合併がっぺいごう、12ぺーじ
  14. ^ 落合おちあい(1986)、351ぺーじによる。『世界せかい週報しゅうほう同上どうじょうは「9にち」としている。
  15. ^ 最新さいしん世界せかい便覧びんらん 1975ねん発行はっこうばん 講談社こうだんしゃ 訳者やくしゃ野間のま省一しょういち より。

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • Coelho, Vincent Herbert (1970). Sikkim and Bhutan. Indian Council 和訳わやく三田みた幸夫ゆきお内山うちやまただしぐま『シッキムとブータン』集英社しゅうえいしゃ、1973ねん
  • Kotturan, George (1983). The Himalayan gateway : history and culture of Sikkim. Sterling Publishers 
  • 落合おちあいあつしたかし植民しょくみん主義しゅぎ国際こくさいほう―シッキムの消滅しょうめつけいぶんどう、1986ねんISBN 4-7670-1061-6 
  • 小谷おたにひろしこれ世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2007ねん 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]