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シュリーヴィジャヤ王国おうこく

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シュリーヴィジャヤ王国おうこく
シャイレーンドラ朝 650ねん - 1377ねん ムラユ王国
シンガプーラ王国
サムドラ・パサイ王国
シュリーヴィジャヤ王国の位置
シュリーヴィジャヤ王国おうこく勢力せいりょくけん
公用こうよう マレーサンスクリット
首都しゅと モアラ・タクス、パレンバンチャイヤー
おう
7世紀せいき後半こうはん - xxxxねん ダプンタ・ヒャン
9世紀せいき - xxxxねんダルマ・ストゥル
833ねん - 850ねんバーラプトラ
1025ねんごろ - xxxxねんサングラマ・ウィジャヤトゥンガワルマン
変遷へんせん
マジャパヒト王国おうこくによる征服せいふく 1377ねん

シュリーヴィジャヤ王国おうこく(シュリーヴィジャヤおうこく、Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)は、インドネシアマレまれ半島はんとうフィリピンおおきな影響えいきょうあたえたスマトラ島すまとらとうマレーけい海上かいじょう交易こうえき国家こっか漢文かんぶんでは「むろとしふつ逝」と音訳おんやく表記ひょうきされる。また、アラブ資料しりょうでは「ザバック」「サバイ」「スブリサ」のでみられる[1]王国おうこく起源きげんははっきりしないが、7世紀せいきにはマラッカ海峡かいきょう支配しはいして東西とうざい貿易ぼうえき重要じゅうよう位置いちめるようになった。

概要がいよう

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シュリーヴィジャヤ王国おうこくは、7世紀せいきマラッカ海峡かいきょう交易こうえきルートをひろ支配しはいし、おおくのみなと国家こっかをしたがえる交易こうえき帝国ていこくであり、ひがしスマトラ島すまとらとうジャンビ西にしマレまれ半島はんとう西岸せいがんクダないしきたスマトラと、海峡かいきょうりょうはしに2つの拠点きょてんをもっていた。この海上かいじょう帝国ていこくは、スマトラからマレーにまたがる連合れんごう国家こっかで、中国ちゅうごくインドともさかんに通商つうしょうをおこなった。旅行りょこうしゃ[だれ?]記録きろくではスマトラの沿岸えんがんでは金貨きんか流通りゅうつうしていたが、内陸ないりくにはおよんでいなかったとしている。

大乗だいじょう仏教ぶっきょう伝来でんらい足跡あしあとより、タイ南部なんぶスラーターニーけんチャイヤーがシュリーヴィジャヤの首都しゅとだったいうせつがある[2]もりたすくの『つうてん』によれば、チャイヤー以前いぜんばんばん王国おうこくといわれ、から時代じだいには1,000にんふつそうがおり、10以上いじょう仏教ぶっきょう寺院じいんがあった。チャイヤーのボーロマタート寺院じいんシュリーヴィジャヤ様式ようしき代表だいひょうてき寺院じいんである。

1920年代ねんだいフランスじん歴史れきし学者がくしゃジョルジュ・セデスが、『しんとうしょ』に漢文かんぶんで「むろとしふつ逝」としるされるくにが、古代こだいムラユマレー碑文ひぶんにいうシュリーヴィジャヤ(Sribhoja)ではないかと指摘してきしたことにより [よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]しょ資料しりょうさい検討けんとうきょうされ、研究けんきゅう進展しんてんした。漢籍かんせきには、「むろとしふつ逝」は670ねんだい出現しゅつげんし、741ねんまでとう朝貢ちょうこうするくにとして登場とうじょうし、碑文ひぶん古代こだいムラユ表記ひょうきには、みなみインドけいパッラヴァ文字もじもちいられている。碑文ひぶんは10てんほどのこり、王国おうこくはしばしば「カダトゥアン」[3]ばれる。

歴史れきし

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マラッカ海峡かいきょう周辺しゅうへん地域ちいき外側そとがわから最初さいしょつよ文化ぶんかてき影響えいきょうあたえたのはインド起源きげんとするシヴァ信仰しんこう(のちのヒンドゥーきょう)であり、また、スマトラには仏教ぶっきょう425ねんころまでには伝来でんらいしている。

西暦せいれき550ねんころ、シュリーヴィジャヤ王国おうこく起源きげんとなる勢力せいりょくとなったのはメコンデルタにあった扶南であり、それがかつての属領ぞくりょうにおわれ、タイのバンドンわんにあったばんばん亡命ぼうめい政権せいけんつくり、のちに「赤土あかつちこく」を吸収きゅうしゅうし、「むろとしふつ逝」として670ねんとう入貢にゅうこうした。のちのさんほとけひとしはジャンビとケダーとチャイヤーの3こくによる朝貢ちょうこう目的もくてきとした連合れんごう王国おうこくである。

シュリーヴィジャヤ・マレー様式ようしき黄金おうごんせい仏像ぶつぞう。ジャンビ(インドネシア)
チャイヤー(タイ)のワットプラケオ

7世紀せいきにはとうそうよしきよしインドへのたび途次とじ、この長期間ちょうきかん滞在たいざいし、記録きろくをのこした。かれ記録きろくは7世紀せいき後半こうはんのシュリーヴィジャヤについての貴重きちょう資料しりょうのひとつとなっている(詳細しょうさい後述こうじゅつ)。7世紀せいきから9世紀せいきにかけて、シュリーヴィジャヤは貿易ぼうえき征服せいふくつうじて地方ちほう支配しはいはじめ、683ねんにダプンタ・ヒャンおうパレンバンジャンビ王国おうこく支配しはいにおさめた。さらに686ねんジャワの「訶陵」王国おうこく征服せいふくシャイレーンドラあさ建国けんこくした。これは大乗だいじょう仏教ぶっきょう王国おうこくであり、8世紀せいきまつボロブドゥール寺院じいん建設けんせつした。これは世界せかい最大さいだい大乗だいじょう仏教ぶっきょう寺院じいんである。

みなみインドの文字もじしるされた碑文ひぶん資料しりょう[よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]、パレンバン、バンカとう、ジャンビ、スマトラ南端なんたんパラス・パセマなどから出土しゅつどしており、いずれも7世紀せいき後半こうはんのものである。これらの碑文ひぶんから、当時とうじのシュリーヴィジャヤでは大乗だいじょう仏教ぶっきょうがおこなわれていたこと、へい2まんにん動員どういん可能かのうであったこと、スリ・ジャヤナーシュというおうが「こうあるえん」を建設けんせつしたことなどがられる。

むろとしふつ逝」の記録きろくは、741ねん朝貢ちょうこう最後さいご姿すがたしている。マレまれ半島はんとう中部ちゅうぶナコンシータマラートタイ王国おうこくムアンナコーンシータンマラートぐん)で発見はっけんされた、775ねんサンスクリットリゴール碑文ひぶんには、ヴィシュヌというの「シャイレーンドラ王家おうけのシュリーヴィジャヤおう」が3寺院じいん建立こんりゅうしたとしるされている。この時期じき、シュリーヴィジャヤ王国おうこくグループにおいてマハラジャ(おうなかおう)の称号しょうごうシャイレーンドラ王家おうけパナンカラン授与じゅよされ、830ねんごろバーラプトラがジャワを追放ついほうされるまで、シャイレーンドラあさがシュリーヴィジャヤ・グループのリーダーであった。

その主要しゅようこく3こく上記じょうき)によって「さんふつひとし」という連合れんごう政体せいたいが9世紀せいきまつ結成けっせいされた。また、「むろとしふつ逝」は741ねん最後さいご使つかいののちえたが、インドネシアの地域ちいきから中国ちゅうごく使つかいをしたのはジャワ島じゃわとうの「訶陵」という勢力せいりょくであった。この「訶陵」はシャイレーンドラあさシュリーヴィジャヤ王国おうこくであり、シュリーヴィジャヤ・グループからあつめた朝貢ちょうこうひんをもって768ねん朝貢ちょうこう再開さいかいした。(それ以前いぜんの「訶陵」はサンジャヤあさマタラム王国おうこくであり、666ねんまで入貢にゅうこうしていた。)中国ちゅうごく史料しりょう[よう出典しゅってん]によれば「さんほとけひとし」としょうされる勢力せいりょくマラッカ海峡かいきょうをのぞむ地域ちいき一帯いったい出現しゅつげんし、そう王朝おうちょう朝貢ちょうこうをしきりにった。ベトナム中部ちゅうぶ沿海えんかいチャンパ王国おうこくは「うらないじょう」としてさんほとけひとし対抗たいこうしていた。その朝貢ちょうこうみなみそう財政難ざいせいなんから12世紀せいきまつには舶司制度せいどえられ、ほぼ10世紀せいきにわたる朝貢ちょうこう制度せいどはいったんまくろし、さんほとけひとし自然しぜん消滅しょうめつとなった。

ジャワ島じゃわとうクディリあさダルマヴァンシャおうは、シュリーヴィジャヤの交易こうえき独占どくせん阻止そししようと、992ねんからマレー、スマトラ各地かくち侵攻しんこうした。しかし撃退げきたいされ、そう王朝おうちょうから200年間ねんかん入貢にゅうこう禁止きんしされた[よう出典しゅってん]

1017ねん1025ねんにはチョーラあさラージェンドラ1せい遠征えんせい打撃だげきけて一時期いちじき衰退すいたいした。チョーラあさねらいはマレまれ半島はんとう横断おうだん通商つうしょう独占どくせんてき支配しはいであったが11世紀せいきわりにはさんふつひとし占領せんりょう返還へんかんした[よう出典しゅってん]

1275ねんには、ジャワ島じゃわとうシンガサリあさ征服せいふくされた。

どう時代じだいどう地域ちいきスマトラ島すまとらとうではアラブインド商人しょうにんとの接触せっしょくつうじてひろまったイスラム教いすらむきょうひろまっており、イスラム教徒きょうとであるアリ・ムハヤット・シャーアチェ王国おうこく建国けんこくした。13世紀せいき後半こうはんまでに、同島どうとう北部ほくぶサムドラ王国おうこく君主くんしゅ[だれ?]はイスラム教徒きょうと改宗かいしゅうした。おなごろシュリーヴィジャヤ王国おうこくクメール王朝おうちょうの、のちスコータイ王朝おうちょう属国ぞっこくになった[よう出典しゅってん]

1377ねんにはジャワ島じゃわとうちゅう東部とうぶマジャパヒト王国おうこくによって征服せいふくされたが、1414ねんまでにマレまれ半島はんとうマラッカのがれたシュリーヴィジャヤ王国おうこく最後さいご王子おうじパラメスワラ英語えいごばんイスラム教いすらむきょう改宗かいしゅうし、同地どうちスルタンせいはじまった。このマラッカ王国おうこく1511ねん8がつ24にちポルトガルによって征服せいふくされた。

よしきよし記録きろく

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ひがしアジアせつ一切いっさいゆうけい経典きょうてんるいをもたらしたとう高僧こうそうよしきよしは、インドへのたび往復おうふくに、シュリーヴィジャヤに長期間ちょうきかん滞在たいざいした。

往路おうろは、671ねん広州こうしゅうから出航しゅっこうし、20日はつかたらずでむろとしふつ逝に到着とうちゃくし、半年はんとしあいだそこでサンスクリット音韻おんいんろんまなんでいる。そのゆう(ムラユ、現在げんざいシンガポールかいのリアウ諸島しょとうかんがえられている)に2かげつ滞在たいざいし、羯荼(クダ)を経由けいゆしてインドにかった。

復路ふくろは、687ねんにクダ経由けいゆでムラユに到着とうちゃくしたが、そこはむろとしふつ逝の領土りょうどとなっていた。パレンバンでつかったクドゥカンブキト碑文ひぶん英語えいごばんには、682ねんにシュリーヴィジャヤのおう遠征えんせい成功せいこうし、まちてたことがしるされている。これはシュリヴィジャヤの「戦勝せんしょう記念きねん」である。シュリーヴィジャヤはマラッカ海峡かいきょう全域ぜんいき支配しはい成功せいこうした。よしきよしは、695ねんまでむろとしふつ逝のにあって、仏典ぶってんかんやくにたずさわったほか、『だいから西域せいいき求法ぐほう高僧こうそうでん中国語ちゅうごくごばん』と『南海なんかいよせ内法うちのりでん中国語ちゅうごくごばん』をあらわした。

よしきよしは、当時とうじむろとしふつ逝には僧侶そうりょ1,000にんあまりをようし、法式ほうしき整備せいびされ、インドのナーランダー僧院そういん匹敵ひってきするほどの大乗だいじょう仏教ぶっきょう教学きょうがく中心ちゅうしんであったとしるしている。

歴代れきだいおう

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以下いかおうめいこくぶんよりられる[4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ バドリカ、p. 28 [よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  2. ^ Takashi Suzuki (25 December 2012). "Śrīvijaya―towards ChaiyaーThe History of Srivijaya". [よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]
  3. ^ ムラユで「王国おうこく」「王宮おうきゅう」「おうみやこ」のである。
  4. ^ バドリカ、pp. 29 - 33 [よう文献ぶんけん特定とくてい詳細しょうさい情報じょうほう]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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