スナイドル銃
スナイドル | |
---|---|
| |
エンフィールド | |
| |
.577 | |
990mm | |
ライフリング |
5 |
.577 Snider(ボクサーパトロン) | |
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1,250 mm | |
3,800 g( | |
1 | |
267 m/s | |
1,150 m[1] | |
900 m | |
1860 | |
1863 - 1875 | |
1868 - 1901 | |
イギリス | |
ズールー | |
バリエーション |
|
250,000-500,000 |
スナイドル
1866
構造 と特色
[スナイドル
エンフィールド
メカニズム
[スナイドル
この
-
スナイドル
騎兵 銃 のブリーチ部 閉鎖 状態 -
スナイドル
騎兵 銃 のブリーチ部 開放 状態 -
開放 したブリーチ部 を引 くとエクストラクターが後退 する
このため、スナイダーの
弾薬
[スナイドル
-
現存 するボクサーパトロン10発 入 りパッケージ(左 )と同 弾薬 の断面
しかし、スナイドル
.577スナイドル
問題 点
[スナイドル
- エンフィールド
銃 では蜜蝋 を塗 った紙 に包 まれた状態 で銃身 内 に装填 されていた弾丸 が、スナイドル銃 では直接 ライフリングと摩擦 する構造 に変更 されたため、摩擦 熱 で溶 けた鉛 がライフリングに付着 して蓄積 し、銃身 の寿命 を短 くするという問題 が起 きた。そのため発射 後 は速 やかにブラシを使 って銃身 内 を清掃 する必要 があった。 - スナイドル
銃 は薬莢 内 に発射 薬 が密封 されて量 を簡単 に調整 できない弾薬 を使 うため、射程 や威力 を増 すために発射 薬 量 を増 やす、あるいは反動 を抑 えるために薬 量 を減 らすという前 装 式 で長 く使 われてきた手法 が使 えず、熟練 した射手 ほど使 い難 いと感 じた。 - スナイダーの
銃 尾 装置 はエンフィールド銃 から簡単 に改造 する事 を優先 したデザインだったため、撃 発 機構 は管 打 式 から流用 されたサイドハンマー式 をそのまま流用 していた。サイドハンマー式 では射撃 の際 に、銃身 軸 線 から大 きくずれた角度 から衝撃 が加 わるため動揺 が起 きやすく、命中 精度 の向上 は期待 できなかった[注釈 2]。 - スナイダーの
銃 尾 装置 でブリーチ部 を蝶番 状 に結合 させているピンの強度 が低 く、排 莢 時 にブリーチ部 を後退 させる際 などに余分 な力 が加 わって変形 し易 いデザインだったこともあり、ブリーチが開 き難 くなる問題 があった。 - ブリーチ
側 方 から突 き出 した撃 針 後部 は、撃 鉄 に叩 かれ続 けているうちに潰 れて太 く変形 していく。そのまま使用 し続 けると撃 針 孔 の中 で詰 まってしまい、ブリーチ先端 から飛 び出 したまま戻 らなくなりはじめ、最終 的 にブリーチを開 けなくなってしまう。このため撃 針 は定期 的 に交換 する必要 があった。
バリエーション
[スナイドル
また、
スナイドル
派生 品
[また、
- フランス[8]・デンマーク[9]・オランダ[10] では、
滑 腔式ゲベール銃 にライフリングを施 したミニエー改造 銃 を、更 にスナイダーの銃 尾 装置 を模倣 ・小 改良 した装置 で後 装 式 に改造 した製品 が製造 された。 - ボヘミア(
現 チェコ領 )でスナイドル式 とレミントン式 を掛 け合 わせたKrnka式 銃 尾 装置 が開発 され、これを用 いるKrnka銃 がロシアで製造 された[11][注釈 7]。
配備 状 況
[スナイドル
現在
[スナイドル-エンフィールド
これらの
日本 におけるスナイドル銃
[スナイドル
スナイドル
1880
30
1871-1880 |
脚注
[注釈
[- ^
前 装 銃 では銃身 を取 り外 して尾 栓 を外 し、サク杖 (カルカ)を使 って火薬 と弾丸 を押 し出 さなければならず、戦闘 中 に不発 が発生 した場合 には再度 発火 を試 みるか、後方 へ引 き返 す以外 に対処 の方法 がなかった。 - ^
前 装 銃 の後 装 式 改造 には様々 な方式 が提案 されたが、その中 にはボルトアクション化 を提案 したタイプも存在 した。
その一 例 がドライゼ銃 の紙 製 薬莢 を使用 する Karl August Luckの試作 銃 である。 - ^ MK IとMK IIのブリーチには
明確 なロックが存在 せず、逆 さまにした時 にブリーチが開 かないように小 さなノッチが引 っ掛 かっているだけである。実際 にはロックが存在 しなくても、ブリーチを開 く方向 と発射 時 の圧力 が掛 かる方向 には90°の角度 があり、撃 発 時 に撃 鉄 がブリーチを押 さえつけ、発射 時 の圧力 でブリーチも後方 に押 し付 けられるため、ブリーチが勝手 に開 いてしまう危険 性 はほとんど無 い。 - ^
戊辰戦争 期 の日本 や、南北戦争 期 の米国 に輸出 されたエンフィールド銃 やスナイドル銃 にはこの無 刻印 タイプが多 い。 - ^
日本 へ輸出 されたスナイドル銃 の中 にも、インド製 の物 (デザイン・材質 ・加工 精度 は英国 製 の物 と同 じ)が存在 している。 - ^ ネパール
内戦 後 に国連 主導 で行 われた武装 解除 作業 では、僧院 などに保存 されていた多数 のネパール製 スナイドル銃 が発見 され、これが欧米 に転売 されたため現在 でも骨董 品 市場 に多 く出回 っている。参照 :ネパール製 とイギリス製 スナイドル銃 の比較
ネパール製 スナイドル銃 には、品質 ・加工 精度 の劣 る製品 が存在 し、これらはイギリス人 が監督 した工廠 以外 で製造 されたものと考 えられている。参照 :低 品質 なネパール製 スナイドル銃 - ^ スナイドル
式 にはサイドハンマーの打撃 で生 じた干渉 による命中 精度 の限界 という問題 があり、レミントン式 は命中 精度 の問題 は最小 化 されていたものの、ブリーチが貧弱 という問題 があった。
Krnka式 はスナイドル式 と同様 に頑丈 なブリーチを持 っていたが、撃 鉄 の打撃 部 は通常 の銃器 より低 い位置 に置 かれ、レミントン式 と同 じく撃 針 は銃身 軸 線 の延長 上 にある撃 針 孔 に挿入 されていた。このため、撃 鉄 の回転 運動 で撃 針 に激 しい力 が加 えられて撃 針 が前後 動 しても、銃身 軸 線 の安定 には干渉 しない優 れた構造 となっていた。 - ^ イギリス
陸軍 は1874年 にマルティニ・ヘンリー銃 を新規 に採用 した。同 銃 は日本 海軍 にも採用 されたが、最初 から金属 薬莢 用 に設計 されており、フランスのグラース銃 同様 にボトルネック薬莢 による小 口径 化 で弾道 特性 の向上 が図 られていた。
スナイドル銃 に比 べてあらゆる点 で優 れた銃 だったが、用心 金 の後 ろに位置 するレバーを上下 させるとブリーチが開閉 する構造 だったため、伏射 時 に射撃 姿勢 を維持 できないという、歩兵 銃 としては致命 的 な欠点 があり、同 銃 が配備 されていた時期 のイギリス軍 が各地 で手痛 い損害 を蒙 る一 要因 となったとされている。 - ^ 1888
年 になってようやく、イギリス陸軍 も他 の欧州 諸国 に倣 ってボルトアクション式 のリー・メトフォード小銃 を採用 し、同 銃 に採用 された.303ブリティッシュ弾 は第 二 次 大戦 後 まで使用 される傑作 弾薬 となり、日本 陸軍 もこれを改良 した九 九 式 普通 実包 を採用 している。 - ^ エンフィールド
銃 の改造 について陸軍 省 に残 る最古 の記録 は明治 8年 9月 のものである。陸軍 軍政 年報 (明治 八 年 の項 より)第 五 砲兵 事務 (明治 八 年 )九 月 ヨリ官員 ヲ派出 シ長門 国 萩 沖 原 ニ於テ「エンピール」統 ヲ「アルミー」銃 ニ改造 ヲ始 ム - ^
先進 技術 の摂取 に積極 的 だった日本 各地 の鉄砲 鍛冶 の工房 においても、前 装 銃 を後 装 式 に改造 する信頼 性 の高 い方法 としてスナイドル銃 の構造 が多 く参考 とされ、様々 なスナイドル式 改造 銃 が製造 された。
なかには種子島 型 の火縄銃 をスナイドル式 の蝶番 構造 を真似 て後 装 化 した物 や、村田 銃 のボルトを取 り付 けた種子島 まで存在 する。
出典
[- ^
最大 照尺 距離 兵器廠 保管 参考 兵器 沿革 書 佐山 二郎 日 露 戦争 の兵器 に所収 - ^ “
精選 版 日本 国語 大 辞典 「スナイドル」”. コトバンク. 2024年 2月 5日 閲覧 。 - ^
幕末 期 小銃 辞典 -戊辰戦争 兵器 辞典 インターネット版 [リンク切 れ] - ^ a b
陸軍 省 大 日記 明治 11年 「大 日記 参謀 監 軍 内外 各局 12月 水 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 11年 12月
「参 第 二 千 八 百 九 十 九 号 スナイドル銃 一 萬 挺 改造 之 儀 ニ付 伺 スナイドル銃 一 萬 挺 此入費 概算 金 三 萬 三 千 円 右 先般 同 銃 壱 萬挺改造御達相成直ニ着手 現今 火 造 リ方 大砲 成功 相成 候 処 該銃予 備来タ充分 ニ無 之 且工廠 之 内平 閑之場所 出来 候 ニ付 当 前書 之 通 改造 相 成 度 御 達 案 添此段 相 伺候 也局 九 百 九 十 六 号 第 三 局長 代理 明治 十 一 年 十二月 十 六 日 陸軍 大佐 原田 一道 陸軍 卿 山縣 有朋 殿 追 而該入費 者 小銃 並 ニ弾薬 製造 費 十 八 万 円 余 之 内 ヨリ御 払出 相成 度 此段申 添候也砲兵 本 廠 ヘ達 案 スナイドル銃 一 萬 挺 右 在来 エンヒール銃 ヲ以改造 可 取 計 此旨御 達 」 - ^
参考 [リンク切 れ]:1878年 (明治 11年 )当時 の物価 から換算 すると、3円 30銭 は現在 の価値 で25,000円 程度 と考 えられる。 - ^ .577 inch Snider > .577 inch Buckshot - British Military Small Arms Ammo。
- ^ The Grave of the Hundred Head - THE KIPLING SOCIETY
- ^
参照 :M1853/67 French Dragoon Tabatière Rifle - ^
参照 1:参照 2:Danish Snider - ^
参照 1:参照 2:M1867 Dutch Snider - ^ M1857/67 Russian Krnka
- ^ “Old Weapons Sale: Have we really lost all of Nepal’s history”. Telegraphnepal.com. 2013
年 11月11日 閲覧 。 - ^ Holt Bodinson (March 2006), “Britain's big .577 Snider”, Guns Magazine
- ^ Snider Carbine 1871 maybe a Khyber Pass Copy - British Militaria Forums
- ^ The Brits in Afghanistan (new additions!) - North Carolina Gun Owners
- ^
幕末 軍事 史 研究 会 編 『武器 と防具 幕末 編 』新 紀元 社 、2008年 、184頁 、190頁 - ^
小林 良夫 ・関野 邦夫 共著 『ピストルと銃 の図鑑 』池田 書店 、昭和 47年 初版 、242頁 。 - ^ 『
武器 と防具 幕末 編 』26頁 。 - ^ 『
武器 と防具 幕末 編 』148頁 。 - ^
日本 ではアルミー銃 とも呼 ばれている。 - ^ a b
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 省内 各局 参謀 近衛 病院 教師 軍馬 局 1月 水 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 1月
「局 三 四 号 砲兵 支 廠 ニ於テスナイトル弾薬 製作 之 義 ニ付 伺 スナイトル弾 之 義 是迄 砲兵 支 廠 ニ於テ製造 不 致処第 二 方面 内 歩 工兵 員 三 分 ノ二 ヲ過 キ同 銃 携帯 致居候 ニ付 当今 、鹿児島 属 廠 制作 之 同 弾 ヲ以支廠 送付 致シ然 ル後 再 ヒ各地 江 配 賦 致有之 候 右 ハ隔 他 之 場 処 運搬 致候益 之 矢 且緩急 之 際 不都合 不 少 候 ニ付 左 之 迄 御 決定 御 指令 相 成 度 御 達 案 相 添此段 相 伺候 也第 三 局長 代理 十年一月八日陸軍大佐福原実二陸軍 卿 山縣 有朋 殿 伺之通 一 月 十 日 但 入 動 廠 額 金内 点 報 多少 通 御 達 相成 度 候 也小 砲兵 支 廠 御 達 案 鹿児島 属 廠 設置 之 スナイトル弾 業 器械 其廠備付 」注 :鹿児島 属 廠 設置 之 スナイトル弾 業 器械 其廠備は、明治 10年 1月 29日 に秘密裏 にスナイドル銃 を含 む多 くの主 装備 ・弾薬 とともに赤 龍 丸 で大阪 へ移送 された。これに怒 った鹿児島 私 学校 勢力 の暴発 が西南 戦争 勃発 のきっかけとなった。 - ^
蕃地 事務 局 明治 7年 8月 19日
「大隈 長官 ヨリ林 大佐 外 一 名 ヘスナイドルハトロン能 キ品 可 買取 云々 往信 八 月 十 九 日 スナイドル ノ タマ六 マン ヨキシナ ニテ ネダン ソヲトヲ ナラバ大 至急 カイトル ベシ至急 御返事 可 被 下 候 大隈 事務 局 長官 長崎 支局 林 大佐 殿 横山 權助 殿 」 - ^
蕃地 事務 局 陸軍 卿 山縣 有朋 明治 7年 8月 19日
「山縣 陸軍 @ヨリ大隈 長官 ヘ長崎 表 ニテスナイドル銃 買 入 云 @来 柬八 月 十 九日 昨 十 六 日 福原 陸軍 大佐 ヲ以テ御 談 為 @候 長崎 表 ニ有 々候 スナイトル弾薬 六 万 発 ノ分 買 入方 当 省 ヨリ熊本 鎮@出張 平田 大尉 多田 中尉 、被 相 達 置 候 尤 エンヒール銃 ハ在 未 多分 ニ付 買 入 @致候条 旁 御 承知 マラ此@申入 候 也蕃地 事務 局長 大隈 重信 殿 」 - ^
海軍 省 明治 9年 公文 備考 徃出巻 14自 1至 170海軍 大輔 川村 純 義 明治 9年 10月 13日 海軍 省 東海 鎮守 府 軍務 局
「明治 9年 公文 備考 往出巻 14自 1至 170海軍 使用 之 小銃 従来 区 々ニ候 処 当分 スナイトル銃 ト相 定 候 条 此旨相 達 候 也明治 九 年 十 月 十 三 日 海軍 大輔 川村 純 義 東海 鎮守 府 司令 長官 海軍 少将 伊東 祐 麿 殿 軍務 局長 海軍 大佐 林 清康 殿 兵学 校長 海軍 大佐 松村 淳 藏 殿 兵器 局 副長 海軍 少佐 末川 久 敬 殿 往出第 六 十 五 号 原因 ハ往入第 十 二 号 ニアリ」 - ^
陸軍 省 大 日記 「大 日記 壬 申 7月 府県 之 部 庚 」陸軍 省 明治 5年 7月
「候 間 至急 御 返却 有 之 度 猶 及御掛合 候 也壬 申 七 月 十 三 日 大蔵省 陸軍 省 御中 第 七 百 二 十 三 号 スナイトル銃 空包 六 万 四 百 八 拾 発 入 箱 式 拾 壱 個 但 壱 箱 弐 千 八 百 八 十 宛 右 陸軍 省 御用 ニ付 可 差出 旨 於此県 西郷 少 輔殿ヨリ致承知 今般 有功 鑑 ヘ積 入 差 廻 候 間 着船 之 上 御 請取 相成 度 荷作 其他本 艦 迄 運送 入費 ハ当 処 会計 掛 ヨリ明細 書 差出 候 間 急便 御 差 送 候 被 下 度 此段御 伺申上 候 也壬 申 六 月 廿 六 日 鹿児島 県 大砲 製造 所 陸軍 省 秘史 局 御中 第 七 百 二 十 四 号 城 地 御 伺之義 ニ付 申 上書 陸 省 官員 出張 ヲ以御取調 有 之 候 福島 城 之 義 委 詳 別 紙 之 通 当 四月中相伺置候」注 :鹿児島 におけるスナイドル弾薬 国産 化 の成功 後 、明治 六 年 政変 で薩摩 閥 は大久保 系 (中央 政府 )と西郷 ・桐野 系 (私 学校 )に分裂 した。 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 砲兵 本 支 廠 工兵 各 方面 1月 木 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 1月 8日
「砲 第 五 号 砲兵 支 廠 鹿児島 属 廠 設置 之 スナイトル弾薬 器械 其廠ヘ備附其廠ニ於テ製作 可 致此旨 相 達 候 事 但 入費 之 儀 ハ其廠額 金之 内 ヲ以取計 追 而不足 之 節 可 申出 事 十 年 一 月 八 日 陸軍 卿 山県 有朋 」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 省内 各局 参謀 近衛 病院 教師 軍馬 局 2月 水 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 2月 13日
「参 第 二 百 六 十 号 副 第 三 坤 天 式 十 壱 号 至急 局 百 二 十 三 号 スナイトル弾 製造 器械 砲兵 支 廠 江 御 備附之 義 伺一 スナイトル弾 製造 器械 一 基 但 一 日 六 千 発 製 出 之 分 右 砲兵 本 廠 ニ備附之 分 砲兵 支 廠 江 送達 同 廠 ニ於テ右 弾 製作 致候様 仕度 御 達 案 相 添此段 相 伺候 也十 年 二 月 十 三 日 第 三局長代理陸軍大佐福原實陸軍 卿 代理 陸軍 少 輔大山 巖 殿 伺之通 相 達 候 事 二 月 十 三 日 砲兵 本 廠 江 御 達 案 一 スナイトル弾 製造 器械 一 基 右 砲兵 支 廠 江 備附右 弾 製作 可 為 致ニ付 其廠在来 之 器械 至急 同 廠 江 送達 可 取 計 此旨相 達 候 事 砲兵 支 廠 江 御 達 案 一 スナイトル弾 製造 器 」 - ^
尚 、同 じく後 装 式 でありながら湿気 など環境 の変化 に弱 い紙 製 薬莢 を使用 するため、スナイドル銃 より信頼 性 が劣 るとされたドライゼ銃 が、西南 戦争 終結 までスナイドル銃 と併用 されていた事 を示 す記録 も残 されている。陸軍 省 大 日記 明治 7年 「大 日記 官省 使 及本省 布令 11月 布 陸軍 第 1局 」陸軍 省 明治 7年 11月
「第 四 百 二 号 今般 台湾 蕃地 御 処分 事件 相 済 候 ニ付 在 蕃 兵隊 之 儀 凱旋 被 仰 出 候 条 為 心得 此旨相 達 候 事 明治 七 年 十 一 月 十 四 日 陸軍 卿 山県 有朋 陸軍 一般 ヘ第 四 百 三 号 近衛 鎮台 歩兵 現今 携帯 之 スナイトル・ツンナール銃 ヲ以テ壱 名 ニ付 四発宛射的演習差許候此旨相達候事但 弾薬 之 儀 各所 武庫 主管 ヨリ可 受取 候 事 〜東京 鎮台 - ^
陸軍 省 大 日記 「大 日記 省内 各局 参謀 近衛 病院 教師 軍馬 局 3月 水 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 3月 31日
「局 第 三 百 七 十 四 号 ツンナール銃 及弾薬 共 砲兵 支 廠 江 送附 之 儀 ニ付 伺一 ツンナール銃 千 三 百 三 十 挺 但 弾薬 盒帯革 剣 差 共 一 同 弾薬 百 九 十 五 万 七 千 発 右 者 砲兵 本 廠 貯蔵 之 分 砲兵 支 廠 江 送附 為 致候様 仕度 御 達 案 相 添此段 相 伺候 也第 三 局長 代理 明治 十 年 三 月 三 十 一 日 陸軍 大佐 原田 一道 陸軍 卿 代理 陸軍 中将 西郷 従道 殿 砲兵 本 廠 御 達 案 一 ツンナール銃 千 三 百 三 十 挺 一 同 弾薬 百 九 十 五 万 七 千 発 右 者 其廠貯蔵 之 分 前 行 之 通 砲兵 支 廠 江 送附 可 致此旨 相 達 候 事 砲兵 支 廠 ヘ御 達 案 一 ツンナール銃 千 三 百 三 十 挺 一 同 弾薬 百 九 十 五 万 七 千 発 」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 送達 の部 5月 分 送 号 大阪 征討 陸軍 事務所 」明治 10年 5月 陸軍 省
「大阪 鎮台 号 別紙 即 チ辞 第 一 号 第 四 百 十 八 号 医 歩兵 第 五大隊出征候申付之付来ル二 十 四日神戸出帆熊本此段候ニ付 該隊候 可 相 度 ツンナール弾薬 二 十 五 至急 神戸 港 マテ輸送 之 上 引渡可 申 此鶏相 達 候 事 明治 十 年 五 月 二 十 一 日 陸軍 西郷 従道 砲兵 〜」 - ^
日本 陸軍 が保有 した後 装 銃 のうち、最 も先進 的 な機構 を有 していたのはシャスポー銃 であり、1874年 (明治 7年 )に原産 国 のフランスが金属 薬莢 式 のグラース銃 への改造 に成功 した事 を受 けて、一旦 は将来 の国産 候補 として位置付 けられていた記録 が残 されている。公文 別 録 ・陸軍 省 衆 規 渕 鑑 抜粋 ・明治 元年 〜明治 八 年 ・第 十 一 巻 ・明治 四 年 〜明治 八 年 明治 7年 5月 15日 太政官 陸軍 省
「東京 鎮台 歩 工兵 携帯 銃 シャスポー製作 未 整 ヲ以テ姑 クスナイトル銃 ヲ以テ備付 ト為 ス達 東京 鎮台 其台歩 工 @兵 携帯 銃 シャスポート相 定 候 ニ付 テハ春 @於造兵 司 @修理 @店 候 @@@他 @至 為 製作 ノ品 多 分有 之 ヨリ右 銃 小 ノ半 ハ出来 ニ至 兼 @付 @延 ニ及ヒ不都合 ニ付 当分 「スナイトル」銃 ノ以テ備付 候 条 此旨相 達 候 事 但 「スナイトル」銃 @@属 品 不足 有 之 一時 悉旨@付 @難 相成 漸 々取揃 相渡 一 筈 @候 事 衆 規 @鑑 」 - ^ この
当時 の日本 陸軍 は第 二 次 仏 軍 軍事 顧問 団 の仏 軍人 達 による指導 を受 け、フランス陸軍 の強 い影響 下 にあり、シャスポー/グラース銃 の制式 化 と国産 化 は自然 な流 れだった。 - ^
西南 戦争 が勃発 すると、村田 経芳 少佐 (後 にシャスポー/グラース銃 を母体 に村田 銃 を開発 )がドイツの企業 に依頼 してシャスポー銃 の金属 薬莢 式 への改造 を計画 していた事 も記録 されている。陸軍 省 大 日記 「大 日記 省内 各局 参謀 近衛 病院 教師 軍馬 局 3月 水 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 3月 7日
「参 第 四 百 五 十 五 号 第 三 伸 天 四 十 八 号 至急 局 第 二 百 七 十 号 改造 銃 代価 積 り問 合 之 儀 二 付 伺村田 少佐 試 シ改造 之 シヤスポー銃 独逸 国 @代価 積 り問 合 申 度 二 付 アーレンス社 より談判 為 度 就而者 右 十 同人 より御 渡 相成 度 此段相 伺候 也十 年 三 月 七 日 第 三局長代理陸軍大佐原田一道陸軍 卿 代理 陸軍 中将 西郷 従道 殿 伺之通 三 月 七 日 」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 砲兵 本 支 廠 工兵 方面 の部 6月 木 陸軍 省 第 1局 」陸軍 少将 井田 譲 明治 10年 6月 5日 陸軍 省 砲 三 百 〇四 号 一 洋銀 八 万 四 千 弗 ハ ニ付 @リ但 スナイドル銃 六 千 挺 買上 費 右 上方 ハーブルブラントヘ至急 注文 可 致尤 @務 @之 義 ハ第 三 局 @@可 @斗 此旨相 達 候 事 陸軍 卿 代理 十 年 六 月 五 日 陸軍 少将 井田 譲 砲兵 本 廠 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 諸 省 来書 7月 月 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 6月 3日
「月 五 百 〇九号壱第千八十九号長崎 居留 英 商 ギリブル方 江 三 百 万 発 之 スナイドル早 合 二 ヶ月 内 到着 之 筈 於我政府 約定 相成 候 趣 別紙 写 之 通 在 上海 品川 領事 ヨリ申 越 候 処 右 は於貴省 御 約 条 相成 候 品 ニ候 哉貴省 ニおゐて御 約定 ニ候 ハハ二 ヶ月 内 ハ何月 幾 日 より之 事 ニ候 哉為心得 承知 致度此段及御問 合 候 至急 御 廻 答 有 之 度 候 也十 年 六 月 三 日 大隈 大蔵 卿 井田 陸軍 少将 殿 別 紙 清国 軍 様 所 より借入 之 スナイトル弾薬 十 万 発 返 弁 方 之 儀 ニ付 而ハ本 月 十 四 日 附 を以再応 之 御 上申 候 ニ付 最早 委曲 御 承知 之 事 と被 存 候 然 る処 今般 我 政府 より長崎 居留 英 商 ギリブル方 江 三百 」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 諸 省 来書 8月 月 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 8月
「明治 十 年 八 月 二 十 日 内務 卿 大久保 利通 陸軍 卿 代理 陸軍 少将 井田 譲 殿 月 六 百 八 十 三 号 壱 第 千 五 百 三 十 三 号 英国 倫敦 ヘ注文 候 「スナイドル」弾薬 三 百 万 発 昨 二 十 三 日 横浜 港 へ着船 致シ候 右 ハ揮発 物 ニ付 〜」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 院 省 来書 10月 月 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 10月
「度 宇野 新吉 郎 外 弐 名 ハ帰 隊 可 為 致ニ付 宜 御 取 計 相成 度 此段及御懸 合 候 也明治 十 年 九 月 廿 五 日 警視 局 陸軍 少佐 児島 益 謙 殿 月 第 八 百 号 在 上海 品川 領事 より別紙 之 通 スナイドル彈薬 廉価 之 品 有 之 旨 報知 有 之 候 ニ付 御 心得 迄 ニ及御通知 候 万 一 御 入用 ニ候 ハ別紙 追 書 之 趣 ニ依 り御 申 越 有 之 度 此段及御通牒 候 也明治 十 年 九月廿八日大蔵大書記官陸軍大佐御中別紙本港居留英商レンカラホート社中 ニスナイドル彈丸 五 百 万 発 所有 シ其品位 は過日 警視 局 ヨリ長崎 居留 英 商 グリーブル社中 へ注文 シ百 六 拾 六 万 発 本港 於而手数 致 し搬運取 計 候 分 は同一 之 趣 然 ルニ右 五 百 万 発 之 〜」 - ^
各 鎮台 から九州 へ派遣 された兵 のうち、スナイドル銃 以外 を支給 されていた兵 は、弾薬 補給 統一 のためスナイドル銃 を新 たに支給 されてから九州 へ派遣 されていたが、途中 からスナイドル銃 のストックがなくなり、そのまま派遣 される兵 もいた事 が記録 されている。陸軍 省 大 日記 明治 10年 「大 日記 砲兵 工兵 の部 12月 木 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 10年 12月
「砲 六 百 〇二 号 大阪 鎮台 @歩兵 第 十連隊一大隊第一中隊従前携帯シスナイトル@出征 之 際 ツンナール@@交換 其兵@別紙 之 通 @帰 之 数 @返納 之 義 伺出@此旨相 達 候 事 十 年 十二月 二 十 二 日 陸軍 卿 山県 有朋 砲兵 支 廠 別紙 ハ〜」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 11年 「大 日記 鎮台 の部 2月 木 乾 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 11年 2月 12日
「東 四 十 八 号 其@歩兵 第 二連隊第二大隊之内三中隊昨年@大阪 鎮台 @携帯 スナイトル致ツンナール銃 与 交換 出征 @戦地 ヨリ@ニ本営 へ引揚@付 @引渡方 @五第三千十七号大阪鎮台伺出@之 通 及指令 候 条 @心得 此旨相 達 候 事 明治 十 一 年 二 月 十 二 日 陸軍 卿 山県 有朋 東京 鎮台 別 紙 @大 九 十 四 号 」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 11年 「大 日記 6管 鎮臺 の部 4月 末 乾 陸軍 省 第 1局 」陸軍 省 明治 11年 4月
「五 @千 六 百 三 十 一 号 第 三 伸 @法 @十 九 号 甲 第 三 十 二 号 大 二 百 十 九 号 元 遊 撃 歩兵 第 五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニ付 伺十 年 和歌山 県 臨時 召募 元 遊 撃 歩兵 第 五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙 甲乙 二表之通有之御召表中持帰ノ分 返納 @之 度 此段相 伺候 也明治 十 一 年 四 月 十 五 日 大阪 鎮台 司令 長官 陸軍 少将 三 好 重臣 代理 陸軍 少佐 高島 信 茂 陸軍 卿 山県 有朋 伺之通 四 月 三 十 日 元 遊 撃 歩兵 第 五 大隊 出征 持 出 ノ兵器 弾薬 之 内 凱旋 返納 員数 長 ツンナール銃 同 剣 同 屓革同 弾薬 合 同 帯革 同 剣 差 同 胴 ノ金物 同 又 字 金 同 接 脱 金 同 鍼」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 27年 9月 戦役 日記 第 六師団長黒木為禎明治 27年 8月 28日
「第 八 号 ノ二 受領 番号 朝 密 第 四 〇七 号 庁 名 第 六 師団 件名 スナイドル銃弾 薬 試射 ノ件 提出 二 十 七 年 九 月 二 日 御 指令 按申請 之 趣 難 及認可 九 月 二 日 朝 密 第 四 〇七 号 八 一 密 発 第 二 七 七 号 「スナイトル」弾薬 試射 ノ義 ニ付 申請 当 方面 下 ノ席 支署 貯蔵 ノ「スナイトル銃 」弾薬 并ニ携帯 弾薬 ヲ臨時 下 ノ関 守備 隊 司令 官 ヨリ別表 ノ年度 ニ応 シ歩兵 各 中隊 ニ十発乃至四十発宛乃チ歩兵 二 十中隊分合計八百発乃至三千二百発不発ノ如何 ヲ試験 致度旨 願出 候 条 御 認可 相 成 様 致度此段及申請候也追 テ御 認可 相成 候 上 ハ携帯 弾薬 ノ消費 数 ハ過般 御 支給 相成 候 候 下 ノ関 支署 貯蔵 ノ分 ヲ以テ補填 可 為 致候間 副 申 候 也明治 二 十 七 年 八 月 二 十 八 日 第 六師団長黒木為禎陸軍 大臣 伯爵 大山 巖 殿 」 - ^
陸軍 省 大 日記 明治 28年 1月 「27 8年 戦役 日記 甲 」野間 少佐 明治 27年 12月30日
「朝 第 四 六 五 四 号 陸軍 大臣 代理 児玉 次官 補充 済 野間 少佐 村田 銃弾 薬 七 万 七 千 五 百 榴弾 三 百 二 榴霰弾 千 八 百 八 十 野砲 薬 包 二 千八百八十二山砲薬包三百四十門管四千三百スナイトル銃弾 薬 一 万 五 千 第 二 軍 司令 官 ヨリ請求 ニ依 リ宗谷 丸 ニテ発送 ス右 補充 アリタシ明治 二 十 七 年 十二月 三 十 日 午後 七 時 四 十 八 分 〜」