ドロシー・デイ (Servant of God Dorothy Day , Obl.S.B.、1897年 ねん 11月8日 にち - 1980年 ねん 11月29日 にち )は、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の社会 しゃかい 活動 かつどう 家 か 。ニューヨーク 、ブルックリン の生 う まれ。
若年 じゃくねん 期 き は中 なか でもラディカルな共産 きょうさん 主義 しゅぎ の信奉 しんぽう 者 しゃ だったが、のちにキリスト教 きりすときょう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ に立場 たちば を変 か え、カトリック 労働 ろうどう 者 しゃ 運動 うんどう (Catholic Worker Movement)の創立 そうりつ 者 しゃ となった。熱心 ねっしん な女性 じょせい の権利 けんり 拡張 かくちょう 主義 しゅぎ 者 しゃ にして、平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 もの として彼女 かのじょ は、たびたび逮捕 たいほ 、拘置 こうち 所 しょ に収容 しゅうよう された経験 けいけん を持 も つ。最後 さいご に刑務所 けいむしょ に収容 しゅうよう されたのは、1973年 ねん 彼女 かのじょ が76歳 さい のときであった。このときは、彼女 かのじょ はシーザー・ジャベス (Cesar Chavez) とカリフォルニア農場 のうじょう 労働 ろうどう 者 しゃ 連合 れんごう (United Farm Workers of California)を支援 しえん するため、違法 いほう ストライキに敢 あ えて参加 さんか したためであった。彼女 かのじょ は存命 ぞんめい 中 ちゅう に聖 せい 別 べつ されている。彼女 かのじょ の自伝 じでん 『風 ふう に逆 さか らって』の中 なか で、彼女 かのじょ はドロシー・ゼーレに一章 いっしょう を捧 ささ げている。
ドロシーは1897年 ねん 11月8日 にち 、ニューヨーク市 し ブルックリン 区 く のブルックリン・ハイツで生 う まれた。ある伝記 でんき 作家 さっか は、ドロシーの家族 かぞく を「確 たし かで信頼 しんらい できて、国 くに を愛 あい した中堅 ちゅうけん クラスの家庭 かてい 」と描 えが いている[ 1] 。ドロシーの父親 ちちおや ジョン・デイは伝統 でんとう あるテネシー生 う まれのアイルランド系 けい アメリカ人 じん で、母親 ははおや のグレイス・サタリーはニューヨーク北部 ほくぶ の生 う まれで、イギリス系 けい である。ドロシーの両親 りょうしん はグリニッジ・ヴィレッジ にあるエピスコパル 教会 きょうかい で結婚式 けっこんしき を挙 あ げた[ 2] 。ドロシーには3人 にん の兄弟 きょうだい と姉妹 しまい が1人 にん いた。1904年 ねん にドロシーの父親 ちちおや は競馬 けいば 専 せん 門 もん のスポーツ記者 きしゃ としてサンフランシスコ の新聞 しんぶん 社 しゃ に就職 しゅうしょく した。1906年 ねん 、サンフランシスコの大 だい 地震 じしん で、父親 ちちおや が務 つと める新聞 しんぶん 社 しゃ の社屋 しゃおく が崩壊 ほうかい し、父親 ちちおや はその職 しょく を失 うしな った。ドロシーの家族 かぞく はその時 とき までカリフォルニア州 しゅう オークランド に住 す んでいた。この時 とき の地震 じしん で荒廃 こうはい した状況 じょうきょう 下 か で、自然 しぜん と反応 はんのう して出 で てきたのは、危機 きき 的 てき な時 とき を迎 むか えた時 とき における隣人 りんじん への自己 じこ 犠牲 ぎせい だった。このおかげでドロシーは個人 こじん 行動 こうどう とキリスト教 きょう コミュニティから教訓 きょうくん を得 え た。ドロシーの一家 いっか はその後 ご シカゴ に移 うつ り住 す んだ[ 3] 。
ドロシーの両親 りょうしん は滅多 めった に教会 きょうかい に行 い かない名 な ばかりのキリスト教徒 きりすときょうと だった。ドロシーは小 ちい さな子供 こども の頃 ころ に際立 きわだ って信心 しんじん 深 ふか い様子 ようす を見 み せ、聖書 せいしょ を頻繁 ひんぱん に読 よ んでいた。ドロシーが10歳 さい の時 とき にはエピスコパル 教会 きょうかい に通 かよ い始 はじ め、その教会 きょうかい の牧師 ぼくし は母親 ははおや を説得 せっとく して、ドロシーの兄弟 きょうだい たちも教会 きょうかい に通 かよ わせるようにした。ドロシーは教会 きょうかい の祈祷 きとう 文 ぶん と音楽 おんがく に魅了 みりょう されていた。ドロシーはその教会 きょうかい でカテキズム と洗礼 せんれい 堅 けん 信 しん について学 まな んだ[ 4] 。
10代のドロシーは熱心 ねっしん な読書 どくしょ 家 か で特 とく に アプトン・シンクレア の「ジャングル」を好 この んだ。 ジャック・ロンドン が書 か きした「マーチン・エデン」のハーバート・スペンサー について注目 ちゅうもく すると、次 つ いで、スペンサーからダーウィンとハックスレイまでと、次 つぎ から次 つぎ へと熱心 ねっしん に本 ほん を読 よ んだ。ドロシーは無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ と極貧 ごくひん をピョートル・クロポトキン から学 まな んだ。この人物 じんぶつ はダーウィンの生存 せいぞん のための競争 きょうそう とは対照 たいしょう 的 てき に、協力 きょうりょく しあうことを信 しん じるよう奨励 しょうれい した[ 5] 。ドロシーは大学 だいがく に進 すす んだ後 のち はロシア文学 ぶんがく 、特 とく にドストエフスキー 、 トルストイ そして ゴーリキー を読 よ み親 した しんだ[ 6] 。ドロシーは社会 しゃかい 的 てき 問題 もんだい 意識 いしき に関 かん する著作 ちょさく を数多 かずおお く読 よ み、このことが後 こう の彼女 かのじょ のバックグラウンドとなり、社会 しゃかい 運動 うんどう を支 ささ え、関与 かんよ していくこととなる。
1914年 ねん にドロシーはイリノイ州 しゅう 、アーバナ・シャンペーンにあるイリノイ大学 だいがく に進 すす んだ。奨学 しょうがく 金 きん の給付 きゅうふ を受 う けることとなったのだが、それは彼女 かのじょ としては気 き が進 すす まなかった[ 7] 。ドロシーの読書 どくしょ 傾向 けいこう は、主 おも にキリスト教 きりすときょう の過激 かげき な社会 しゃかい 主義 しゅぎ の方面 ほうめん にあった。ドロシーがこのころに読 よ んでいたものは、主 おも にキリスト教 きりすときょう 系 けい で革命 かくめい 的 てき 社会 しゃかい 主義 しゅぎ の方向 ほうこう 性 せい を持 も っていた[ 7] 。ドロシーは大学 だいがく での付 つ き合 あ いを避 さ け、衣服 いふく や履物 はきもの をディスカウント店 てん で買 か うなど、父親 ちちおや に金銭 きんせん 面 めん で頼 たよ るよりむしろ、自分 じぶん で何 なに とかしようとした[ 8] 。ドロシーは大学 だいがく を2年 ねん で離 はな れ、ニューヨーク市 し へ移 うつ り住 す んだ[ 7] 。
ドロシーは、ニューヨーク市 し マンハッタン 区 く のロウアー・イースト・サイド に落 お ち着 つ き、いくつかの社会 しゃかい 主義 しゅぎ 系 けい 出版 しゅっぱん 社 しゃ で勤務 きんむ した。その中 なか には「ザ・リバレイター」(The Liberator:解放 かいほう 者 しゃ )[ 9] 「ザ・マサズ」(The Masses:一般 いっぱん 大衆 たいしゅう )、そして「ザ・コール」(The Call:呼 よ ぶ声 こえ )がある。ドロシーは「微笑 ほほえ みながら、辛抱 しんぼう する社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ たちに、自分 じぶん が”階級 かいきゅう 闘争 とうそう の中 なか においてさえも平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ ”だと説明 せつめい した。」と語 かた っている[ 10] 。数 すう 年 ねん 後 ご 、ドロシーは自分 じぶん がいかに別 べつ な方向 ほうこう へ引 ひ っ張 ぱ って行 い かれたかを言 い い描 えが いている。「私 わたし が社会 しゃかい 主義 しゅぎ 、世界 せかい 産業 さんぎょう 労働 ろうどう 組合 くみあい のサンディカリスム に忠義 ちゅうぎ をたてようか、それともアナーキズム にしようか、心 しん が揺 ゆ らいでいたのは、私 わたし がたった18歳 さい の時 とき だった。私 わたし がトルストイ を読 よ んでいた時 とき 、私 わたし はアナーキストだった。でも私 わたし は”ザ・コール”に忠誠 ちゅうせい 心 しん を持 も っていたので、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 者 しゃ でいられた。左寄 ひだりよ りだったにもかかわらず、私 わたし はアメリカ愛国 あいこく 主義 しゅぎ 者 しゃ だったので、世界 せかい 産業 さんぎょう 労働 ろうどう 組合 くみあい に傾斜 けいしゃ していった[ 11] [ 12] 。」。ドロシーは1917年 ねん にロシア で2月 がつ 革命 かくめい が起 お こり、君主 くんしゅ 制 せい が打倒 だとう され、改革 かいかく 派 は 政府 せいふ が樹立 じゅりつ した時 とき 、これらを称賛 しょうさん した[ 13] 。その年 とし の11月、ドロシーは女性 じょせい の選挙 せんきょ 権 けん 運動 うんどう のため、ホワイト・ハウスの前 まえ でピケを貼 は っていた時 とき に逮捕 たいほ された。この運動 うんどう はアリス・ポール(Alice Paul)とナショナル・ウーメンズ・パーティ(National Women's Party:全国 ぜんこく 女性 じょせい 党 とう )によって組織 そしき された「サイレント・センチネル」(Silent Sentinels:無言 むごん の歩哨 ほしょう )と呼 よ ばれるキャンペーンによるものである。裁判 さいばん の判決 はんけつ により30日 にち の投獄 とうごく 、釈放 しゃくほう 前 まえ に15日間 にちかん の労役 ろうえき をい渡 いわた され、10日間 にちかん はハンガー・ストライキ を行 おこな った[ 14] [ 15] 。
ドロシーはグリニッチ・ヴィレッジで数 すう ヶ月 かげつ 間 あいだ を過 す ごし、そこでユージン・オニール と親 した しくなった。ドロシーは後 のち に、自分 じぶん の中 なか に宗教 しゅうきょう 的 てき な感覚 かんかく が生 う まれて増大 ぞうだい して行 い くのと共 とも に、彼 かれ を信頼 しんらい するようになった[ 16] 。ドロシーはマイク・ゴールド と数 すう 年間 ねんかん 、恋愛 れんあい 関係 かんけい にあった。マイクは過激 かげき な記者 きしゃ で、後 のち に著名 ちょめい な共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ となった。ドロシーは、アンナ・ルイーズ・ストロング や、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 共産党 きょうさんとう の長 ちょう となったエリザベス・ガーリー・フリン のようなアメリカの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ たちと友好 ゆうこう 関係 かんけい を維持 いじ していた。
最初 さいしょ の数 すう 日間 にちかん 、ドロシーはボヘミアニズム 的 てき な生活 せいかつ を過 す ごしていた。1920年 ねん か1921年 ねん にライオネル・モイス(Lionel Moise)との不幸 ふこう な恋愛 れんあい 関係 かんけい が破綻 はたん し、妊娠 にんしん 中絶 ちゅうぜつ をしたちょうどその後 ご に、ドロシーはバークレイ・トビー(Berkely Tobey)と結婚 けっこん した。挙式 きょしき は宗教 しゅうきょう 的 てき な儀式 ぎしき を伴 ともな わない民事 みんじ 婚 こん だった。ドロシーはヨーロッパで彼 かれ と共 とも に1年間 ねんかん を過 す ごした。それは政治 せいじ から離 はな れ、芸術 げいじゅつ や文化 ぶんか に焦点 しょうてん を当 あ て、準 じゅん 自伝 じでん 的 てき 小説 しょうせつ 「ジ・エリザベス・バージン」(1924年 ねん )を執筆 しっぴつ していた。この小説 しょうせつ はモイスとの情愛 じょうあい をベースにしたものだった。その中 なか の「結 むす び」でドロシーは自身 じしん が経験 けいけん した女性 じょせい の地位 ちい について書 が き描 えが こうと試 こころ みている。ドロシーはこれについて「私 わたし は自由 じゆう で開放 かいほう された若 わか い女性 じょせい だった。そして、少 すこ しもそうじゃないことが分 わ かった。自由 じゆう とは、ただの現代 げんだい 風 ふう な衣装 いしょう 、私 わたし たち女性 じょせい が好 す きな男性 だんせい を捕 つか まえる時 とき に好 この んで使 つか う新 あたら しい罠 わな に過 す ぎない。」と言 い っている[ 17] 。ドロシーは後 のち にこの本 ほん を「とてもひどい本 ほん 」と呼 よ んだ[ 18] 。ドロシーは、この小説 しょうせつ の映画 えいが 化 か 版権 はんけん を売却 ばいきゃく して得 え た2,500ドルでニューヨークのスタテン島 とう の海岸 かいがん にあるコッテージを買 か い、そこを小説 しょうせつ を書 か くための隠 かく れ家 が とした[ 19] 。ドロシーはすぐにフォスター・ベッテルハイム(Forster Batterham) という新 あたら しい恋人 こいびと を見 み つけた。この人物 じんぶつ は活動 かつどう 家 か で伝記 でんき 作家 さっか であり、週末 しゅうまつ にはドロシーと共 とも にその隠 かく れ家 が で会 あ っていた。ドロシーはその隠 かく れ家 が に1925年 ねん から1929年 ねん まで滞在 たいざい し、友人 ゆうじん たちと楽 たの しく過 す ごしたり、恋愛 れんあい 関係 かんけい を楽 たの しんだりした。この恋愛 れんあい 関係 かんけい は、ドロシーが、母性 ぼせい と宗教 しゅうきょう に情熱 じょうねつ を向 む けた時 とき に失 うしな われた[ 20] 。
ドロシーは後 のち に妊娠 にんしん 中絶 ちゅうぜつ を経験 けいけん した時 とき に自分 じぶん 自身 じしん は子供 こども が産 う めなくなったと思 おも っていた。しかし、1925年 ねん の半 なか ばに妊娠 にんしん していることがわかり、元気 げんき づいた。この間 あいだ 、ベッテルハイムは父親 ちちおや になることを怖 こわ がっていた。ドロシーは数 すう か月 げつ 間 あいだ 、ベッテルハイムと別 わか れてフロリダ州 しゅう にいる母親 ははおや のもとに滞在 たいざい した。この時 とき にドロシーはカトリックの教義 きょうぎ について徹底的 てっていてき に調 しら べていた。ドロシーがニューヨークのスタテン島 とう に戻 もど ってきた時 とき 、ベッテルハイムはドロシーの信仰 しんこう が増 ま していること、ミサへの出席 しゅっせき 、理解 りかい できないような宗教 しゅうきょう の読 よ みもの、などに気 き が付 つ いた。1926年 ねん 3月 がつ 4日 にち にドロシーとベッテルハイムの間 あいだ に娘 むすめ タマル・テレサ(Tamar Teresa)が生 う まれた。そのすぐ後 のち にドロシーはニューヨーク愛 あい 徳 とく 修道 しゅうどう 女 おんな 会 かい (Sisters of Charity of New York:S.C.)の修道 しゅうどう 女 おんな 、シスター・ アロイシアと出会 であ った[ 21] 。そしてこのシスターの助 たす けでカトリック教会 きょうかい の信仰 しんこう を自 みずか ら勉強 べんきょう して学 まな び、1927年 ねん にはまだ赤子 あかご の娘 むすめ に洗礼 せんれい を受 う けさせた。ベッテルハイムはこの洗礼 せんれい 式 しき の出席 しゅっせき を断 ことわ り、彼 かれ にとってドロシーとの関係 かんけい は次第 しだい に耐 た えられないものとなった。ドロシーは教会 きょうかい で結婚式 けっこんしき を挙 あ げたかったのだが、ベッテルハイムは組織 そしき だった宗教 しゅうきょう 、とりわけカトリックに対 たい して反感 はんかん を持 も っていた。その年 とし の12月遅 おそ くにドロシーとベッテルハイムは喧嘩 けんか し、その後 ご ドロシーはベッテルハイムが彼女 かのじょ の元 もと に戻 もど ることを許 ゆる さなかった。ドロシーは、その12月28日 にち にシスター・アロイシアを代 だい 母 はは としてカトリック教会 きょうかい の洗礼 せんれい を受 う けた[ 22] [ 23] 。
1929年 ねん の夏 なつ 、ドロシーはベッテルハイムとの関係 かんけい を終 お わらせ、パテ 映画 えいが 会社 かいしゃ で脚本 きゃくほん を書 か く仕事 しごと を得 え て、娘 むすめ のタマルと共 とも にロスアンゼルス に移 うつ り住 す んだ。そのほんの数 すう ヵ月 かげつ 後 ご に1929年 ねん の株価 かぶか 大 だい 暴落 ぼうらく が起 お き、その後 ご ドロシーの契約 けいやく は更新 こうしん されなかった。ドロシーは、メキシコ州 しゅう での滞在 たいざい を経 へ て、娘 むすめ を連 つ れてフロリダを訪 おとず れたりし、ニューヨークに戻 もど った。ドロシーは生活 せいかつ のためにジャーナリストとなって、地方 ちほう 紙 し の「スタテン・アイランド・アドバンス」(Staten Island Advance)で園芸 えんげい のコラムを書 か き、また、「コモンウィール」(Commonweal)のようないくつかのカトリック系 けい 出版 しゅっぱん 社 しゃ で特集 とくしゅう 記事 きじ やブックレビューを書 か いた[ 24] [ 25] 。
ドロシーが社会 しゃかい 主義 しゅぎ とカトリック思想 しそう において、より大 おお きな役割 やくわり を担 にな おうと決心 けっしん したのは、首都 しゅと ワシントン の「コモンウィール」から来 き た仕事 しごと の一 ひと つをしている間 あいだ であった。1932年 ねん 、首都 しゅと ワシントンでハンガー・ストライキが行 おこな われていた間 あいだ 、行進 こうしん している人々 ひとびと を見 み ている自分 じぶん が誇 ほこ りに満 み ちていることに気付 きづ いた。しかしドロシーはそのことを話 はなし に出 だ すことはできなかった。ドロシーは 自伝 じでん の中 なか で次 つぎ のように書 か いている。「良心 りょうしん が目覚 めざ めた時 とき 、私 わたし は書 か くことができた。抗議 こうぎ することができた。しかし、男性 だんせい と女性 じょせい の一団 いちだん が共 とも に集 あつ まる中 なか で、何処 どこ にカトリックのリーダーシップはあるのだろうか。労働 ろうどう 者 しゃ たちに届 とど く慈悲 じひ の働 はたら きは同胞 どうほう たちが自分 じぶん たちの手法 しゅほう の一部 いちぶ としたもの。」。後 のち にドロシーは首都 しゅと ワシントンの北東 ほくとう にある無 む 原罪 げんざい の御 ご 宿 やど り大 だい 聖堂 せいどう を訪 おとず れ、自分 じぶん に与 あた えられた資質 ししつ や才能 さいのう を労働 ろうどう 者 しゃ や貧 まず しい人々 ひとびと のためにどのように使 つか えばよいかを見出 みいだ すために祈 いの りを捧 ささ げた[ 26] 。
Day in 1934
ドロシーは1932年 ねん にピーター・モーリン(Peter Maurin)に出会 であ った。この人物 じんぶつ は、ドロシーが間違 まちが いないと確信 かくしん していた運動 うんどう の創立 そうりつ 者 しゃ として、常 つね 日頃 ひごろ から称賛 しょうさん していた人物 じんぶつ であった。モーリンはフランスからの移民 いみん で、ちょっとした放浪 ほうろう 者 しゃ でもあり、母国 ぼこく のフランスでラ・サール会 かい によって建 た てられた学校 がっこう に入 はい っていた。移住 いじゅう する以前 いぜん 、当初 とうしょ にモーリンはフランスからカナダに渡 わた り、その後 ご にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく に移民 いみん してきた。きちんとした教育 きょういく を受 う ける機会 きかい がなかったにもかかわらず、モーリンは深 ふか い教養 きょうよう と深 ふか く力強 ちからづよ い視点 してん の持 も ち主 ぬし だった。彼 かれ は社会 しゃかい 的 てき 判断 はんだん と貧 まず しい人々 ひとびと との関係 かんけい に係 かか る洞察 どうさつ 力 りょく を持 も っていた。これは部分 ぶぶん 的 てき にアシジの聖 せい フランシスコ から示 しめせ 俊 しゅん を受 う けたものであった。彼 かれ は貧 まず しい人々 ひとびと 自身 じしん による考 かんが えと、その後 ご の行動 こうどう を共有 きょうゆう することを土台 どだい とした行動 こうどう についての洞察 どうさつ 力 りょく も持 も っていた。モーリンはキリスト教 きりすときょう の教父 きょうふ によって書 か かれた書物 しょもつ 、及 およ び教皇 きょうこう レオ13世 せい とその後継 こうけい 者 しゃ たちによって出 だ された社会 しゃかい 問題 もんだい に係 かか る教皇 きょうこう 文書 ぶんしょ について、深 ふか い造詣 ぞうけい を持 も っていた。モーリンはドロシーにカトリック理論 りろん の基礎 きそ を伝授 でんじゅ した。社会 しゃかい 的 てき 行動 こうどう をする上 じょう で、この理論 りろん が必要 ひつよう だと2人 ふたり とも必要 ひつよう 性 せい を感 かん じているからであった。数 すう 年 ねん 後 ご 、ドロシーはモーリンが ピョートル・クロポトキン の著作 ちょさく の抜粋 ばっすい を使 つか っていかにドロシーの知識 ちしき を広 ひろ げていったか、を描 えが いている。ドロシーはこのように書 か いている。「特 とく に私 わたし が注目 ちゅうもく したのは”田園 でんえん ・工場 こうじょう そして仕事場 しごとば (Fields,Factories,and Workship)”だった。」「私 わたし はクロポトキンに親 した しみを感 かん じていた。それは彼 かれ の著作 ちょさく ”革命 かくめい 家 か の記憶 きおく ”(Memoirs of a Revolutionist)を通 つう じてのみだった。この作品 さくひん は元々 もともと ”アトランティック・マンスリー”(Atlantic Monthly)に連載 れんさい されていたものだったの。」。また、「ああ、アメリカの自由 じゆう の日 ひ は遠 とお い。カール・マルクスが”トリビューン”(Tribune)を書 か くことができるのに、ニューヨークでは、クロポトキンを”アトランティック”に発表 はっぴょう することすらできない。でも、ニュー・イングランドのユニテリアンの家 いえ や、シカゴにあるジェーン・アダムス のハル・ハウス にはゲストとして受 う け入 い れられるわ。」[ 27] 。モーリンによってドロシーが興味 きょうみ を引 ひ いたフランスのモデルと文学 ぶんがく はとても興味深 きょうみぶか いものである[ 28] [ 29] 。
カトリック労働 ろうどう 者 しゃ 運動 うんどう がスタートしたのは、「カトリック・ワーカー」紙 し (Catholic Worker)の初版 しょはん が1933年 ねん 5月 がつ 1日 にち に1セントの価格 かかく で刊行 かんこう された時 とき だった。同紙 どうし はそれ以来 いらい 、継続 けいぞく 的 てき に刊行 かんこう されている。「カトリック・ワーカー」紙 し は大 だい 恐慌 きょうこう のどん底 ぞこ で最 もっと も苦 くる しんでいる「未来 みらい に希望 きぼう がないと考 かんが えている人々 ひとびと 」に狙 ねら いをつけ、その人々 ひとびと に「カトリック教会 きょうかい は社会 しゃかい 的 てき プログラムを有 ゆう している。人々 ひとびと の中 なか に神 かみ はおられ、人々 ひとびと の霊 れい 性 せい のみならず、その福祉 ふくし のためにも具体 ぐたい 的 てき な働 はたら きをしておられる。」と呼 よ びかけた。宣伝 せんでん をせず、スタッフに賃金 ちんぎん を払 はら わなかったが、同誌 どうし は人々 ひとびと に受 う け入 い れられた[ 30] 。創刊 そうかん 号 ごう の発行 はっこう 費 ひ の一部 いちぶ には「カトリック・ワーカー・ハウス」を命名 めいめい したシスター・ピーター・クレバー(Sister Peter Claver)による1ドルの寄付 きふ が含 ふく まれていた[ 31] 。
当時 とうじ の新聞 しんぶん と同様 どうよう に、何 なに かを主唱 しゅしょう し鼓吹 こすい するタイプのジャーナリズムは、弁解 べんかい せず、怖気 おじけ づかないものであったが、ドロシーがカトリック・ワーカー紙 し に書 か き続 つづ けた記事 きじ は、その見本 みほん のようなものであった。ストライキの報道 ほうどう 、労働 ろうどう 条件 じょうけん の調査 ちょうさ 、特 とく に女性 じょせい や黒人 こくじん に焦点 しょうてん を当 あ て、ローマ教皇 きょうこう の社会 しゃかい 問題 もんだい に対 たい する教 おし えを詳細 しょうさい に記事 きじ にした[ 30] 。記事 きじ はパルチザン の視点 してん であり、文章 ぶんしょう はその読者 どくしゃ にその地元 じもと で行動 こうどう することを奮起 ふんき させる構成 こうせい で、その例 れい として挙 あ げられるのが、クリーニング店 てん 労働 ろうどう 者 しゃ 組合 くみあい が推薦 すいせん するクリーニング店 てん を推奨 すいしょう したものなどである。 連邦 れんぽう 児童 じどう 労働 ろうどう 者 しゃ 法 ほう への支持 しじ はその記事 きじ が出 で た当初 とうしょ からアメリカの教会 きょうかい の聖職 せいしょく 団 だん と意見 いけん の食 く い違 ちが いを見 み せたが、ドロシーは教会 きょうかい 聖職 せいしょく 団 だん によるモーリンに対 たい するいくつかの非難 ひなん を調 しら べ、それらの新聞 しんぶん 記事 きじ を集 あつ め、1935年 ねん にはローマ教皇 きょうこう ピウス11世 せい へそれらを送 おく ろうとした[ 32] 。
この新聞 しんぶん の購読 こうどく 部数 ぶすう やイデオロギーにおけるな競争 きょうそう 相手 あいて は、共産党 きょうさんとう の「ディリー・ワーカー」紙 し (Daily Worker)であった。ドロシーは同紙 どうし の無 む 神 かみ 論 ろん 、「階層 かいそう への憎悪 ぞうお 」への鼓吹 こすい 、暴力 ぼうりょく による革命 かくめい 、私有 しゆう 財産 ざいさん への反対 はんたい について対立 たいりつ の立場 たちば を取 と った。「カトリック・ワーカー」紙 し の最初 さいしょ の記事 きじ は、「過激 かげき になること、無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ でなくなることは不可能 ふかのう ですか?」という問 と いかけで、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ たちへの挑戦 ちょうせん の意味 いみ で、メーデー にカトリック・ワーカー紙 し をマンハッタンのユニオン・スクウェア で配布 はいふ し、それを祝 いわ う記事 きじ を出 だ した。ドロシーは、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ が嘲笑 あざわら った市民 しみん 保全 ほぜん 部隊 ぶたい のような政府 せいふ の施策 しさく を弁護 べんご する記事 きじ を書 か いた。 ディリー・ワーカー紙 し は これに対 たい し、カトリック・ワーカー紙 し の慈善 じぜん 事業 じぎょう や、同紙 どうし が立 た ち退 の きに対 たい して、間違 まちが いだと発言 はつげん した時 とき 、地主 じぬし たちに同情 どうじょう を表明 ひょうめい したことなどを嘲笑 あざわら う記事 きじ を出 だ した。この論争 ろんそう において、教会 きょうかい の聖職 せいしょく 者 しゃ 団 だん がドロシーの運動 うんどう を後援 こうえん し、カトリック系 けい の雑誌 ざっし で広 ひろ い視野 しや に立 た つ「コモンウィール」誌 し は、ドロシーのバックグラウンドが、彼女 かのじょ に対 たい し、その与 あた えられた使命 しめい をよりよく行 おこな うための位置 いち を定 さだ めているのだと記事 きじ に書 か いている。「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ のプロパガンダやその主張 しゅちょう にそれほど完璧 かんぺき に精通 せいつう している世俗 せぞく の人間 にんげん などこの国 くに にはいない[ 33] 。」。
十 じゅう 数 すう 年間 ねんかん 、カトリック・ワーカー紙 し は多彩 たさい な作家 さっか や編集 へんしゅう 者 しゃ の記事 きじ によって読者 どくしゃ を魅了 みりょう した。それはミッシェル・ハリントン(Michael Harrington)、アモン・ヘネシー(Ammon Hennacy) 、トマス・マートン 、そしてダニエル・ベリガン(Daniel Berrigan) といった顔 かお ぶれである。出版 しゅっぱん 事業 じぎょう から出 で てきた「もてなしの家 いえ 」(house of hospitality)は、ニューヨーク市 し のロウアー・イースト・サイド に住 す む貧 まず しい人々 ひとびと に食 た べ物 もの や衣服 いふく を供給 きょうきゅう する福祉 ふくし 施設 しせつ で、それから、共同 きょうどう 生活 せいかつ をする一連 いちれん の農場 のうじょう となった[ 34] 。この運動 うんどう はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ・カナダ そしてイギリス の各 かく 都市 とし に広 ひろ まった。カトリック・ワーカー紙 し と関連 かんれん のある独立 どくりつ 共同 きょうどう 体 たい が1941年 ねん までに、30団体 だんたい 以上 いじょう 設立 せつりつ された[ 35] 。
1935年 ねん にカトリック・ワーカー紙 し が掲載 けいさい し始 はじ めた記事 きじ 内容 ないよう は、厳 きび しくて妥協 だきょう しない平和 へいわ 主義 しゅぎ 的 てき な位置 いち を明瞭 めいりょう に表現 ひょうげん し、伝統 でんとう 的 てき なカトリックの正 せい 戦 せん 論 ろん と決別 けつべつ する内容 ないよう のものだった。その翌年 よくねん 、ドロシーは、スペイン内乱 ないらん で戦 たたか う2つの勢力 せいりょく ・お互 たが いに戦争 せんそう 状態 じょうたい にある「カトリック」と「労働 ろうどう 者 しゃ 」にそれぞれ忠義 ちゅうぎ 心 しん を持 も ち始 はじ めていた。教会 きょうかい は、縞 しま 模様 もよう をつけた過激 かげき 派 は と戦 たたか うフランシスコ・フランコ と同盟 どうめい していた。カトリックの聖職 せいしょく 団 だん は、共和党 きょうわとう 勢力 せいりょく と相反 あいはん するフランコを支持 しじ したが、ドロシーはこれに追従 ついしょう することを拒否 きょひ した。それは、無 む 神 かみ 論 ろん 、霊的 れいてき な反 はん 教権 きょうけん 主義 しゅぎ であり、無 む 政府 せいふ 主義 しゅぎ 者 しゃ と、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ に導 みちび かれたものだった[ 36] 。ドロシーはスペインで司祭 しさい たちや、修道 しゅうどう 女 おんな たちが殉教 じゅんきょう したことを知 し らせ、より多 おお くの殉教 じゅんきょう が必要 ひつよう とされているため、自分 じぶん たちが生 い きているこの時代 じだい に革命 かくめい が起 お こることを期待 きたい していると記 しる している[ 37] 。
私 わたし たちは、今 いま 、殉教 じゅんきょう の準備 じゅんび をしなければならない。こう言 い わなければ、私 わたし たちはずっと、それに備 そな えることはしないだろう。もし、私 わたし たちが攻撃 こうげき されたとして、それにすぐ反撃 はんげき せず、人間 にんげん 的 てき に対応 たいおう していく行動 こうどう を、私 わたし たちのうちだれが取 と れるだろうか。自分 じぶん に攻撃 こうげき を向 む ける兄弟 きょうだい を愛 あい するなんてことができるだろうか。全 すべ てのカトリック労働 ろうどう 者 しゃ のうち、どんな手段 しゅだん でも、本能 ほんのう 的 てき に自己 じこ 防衛 ぼうえい をしない人 ひと は何人 なんにん いるだろうか。私 わたし たちは準備 じゅんび しなくてはならい。今 いま すぐ備 そな えなくてはいけない。心 しん の軍事 ぐんじ 力 りょく 放棄 ほうき があらねばならない。
カトリック・ワーカー紙 し の発行 はっこう 部数 ぶすう は落 お ち込 こ んだ。カトリック教会 きょうかい 、カトリック関連 かんれん の学校 がっこう 、施設 しせつ など、その配布 はいふ 先 さき だったところが
支持 しじ を取 と り下 さ げたためである[ 36] 。発行 はっこう 部数 ぶすう は150,000部 ぶ から30,000部 ぶ まで下 さ がった[ 38] 。
1938年 ねん 、ドロシーは、「ユニオン・スクウェアからローマへ」(From Union Square to Rome)を出版 しゅっぱん し、その中 なか で、自分 じぶん の政治 せいじ 的 てき な行動 こうどう 主義 しゅぎ が、宗教 しゅうきょう 的 てき に動機 どうき づけされた行動 こうどう 主義 しゅぎ へ変化 へんか したことを報告 ほうこく する内容 ないよう を書 か いた。ドロシーは自分 じぶん の人生 じんせい 伝 でん の中 なか からいくつか選 えら び語 かた った。自分 じぶん の若 わか い頃 ころ 、人生 じんせい があまり感傷 かんしょう 的 てき ではなく卑劣 ひれつ だった時 とき 、重大 じゅうだい な罪 つみ を犯 おか したことについては、詳細 しょうさい を避 さ けたものだった[ 39] 。ドロシーは自分 じぶん に「何 なん でカトリックになったの?」と聞 き いてきた共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の親戚 しんせき たちと友人 ゆうじん たちへ、その答 こた えとして、この本 ほん を渡 わた した[ 40] 。
私 わたし がこの本 ほん で引 ひ き出 だ したかったものは、私 わたし をキリストの足元 あしもと まで導 みちび いた出来事 できごと を継承 けいしょう すること、私 わたし がキリストと宗教 しゅうきょう を必要 ひつよう と感 かん じた幾 いく 年間 ねんかん 、キリストを垣間見 かいまみ たことである。私 わたし は、いつも自分 じぶん の心 しん にあると信 しん ずる信仰 しんこう を自分 じぶん が受 う け取 と るようになったその足取 あしど り、これらを辿 たど っていこうと思 おも う。
ニューヨーク大司教 だいしきょう 区 く にある枢機卿 すうききょう 図書 としょ 委員 いいん 会 かい (The Cardinal's Literature Committee of the New York Archdiocese)は、この本 ほん をカトリック信徒 しんと に推薦 すいせん した[ 41] 。
1940年 ねん 代 だい の当初 とうしょ に、ドロシーはベネディクト会 かい に世俗 せぞく 会員 かいいん として入会 にゅうかい し、1955年 ねん には、同 どう 会 かい の聖 せい プロコピウス大 だい 修道院 しゅうどういん (St. Procopius Abbey) のオブレート[ 42] であることを公表 こうひょう した。ベネディクト会 かい のオブレートであることにより、ドロシーは、霊的 れいてき な修練 しゅうれん やその後 ご の人生 じんせい を通 つう じて彼女 かのじょ を支 ささ えていく繋 つな がりを得 え ることになる。ドロシーはしばらくの間 あいだ 、イエスのカリタス同胞 どうほう 会 かい という修道 しゅうどう 会 かい (Fraternity of Jesus Caritas)の修道 しゅうどう 女 おんな を志願 しがん してその見習 みなら い(ポストランド)だった。これは、 シャルル・ド・フーコー などで奮起 ふんき したものであった[ 43] 。
しかし、ドロシーはその修道 しゅうどう 会 かい で歓迎 かんげい されていないことを感 かん じ、そしてその集会 しゅうかい に失望 しつぼう した。ドロシーが修道 しゅうどう 会 かい の入会 にゅうかい を辞退 じたい した時 とき に友達 ともだち への手紙 てがみ で次 つぎ のように書 か いている。「私 わたし が貴方 あなた に知 し らせたいことは、私 わたし が、この修道 しゅうどう 会 かい をより親密 しんみつ であるとすら感 かん じていることです。でも修練 しゅうれん 者 しゃ であることや、正規 せいき に修道 しゅうどう 会 かい の一員 いちいん となることを認識 にんしき するのは私 わたし にとって不可能 ふかのう なことなのです。」[ 44] 。
ドロシーは、1941年 ねん にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が宣戦 せんせん 布告 ふこく をした時 とき に、自分 じぶん が平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ であることを再度 さいど 断言 だんげん し、自分 じぶん が戦争 せんそう に協力 きょうりょく しないとした。1941年 ねん 12月8日 にち のスピーチの中 なか で、ドロシーは次 つぎ のように話 はな している[ 45] 。
「私 わたし たちは始 はじ めなければならない。施策 しさく の道具 どうぐ として戦争 せんそう を行 おこな うことを放棄 ほうき しなければならない。あなたたちにこうして話 はな しかけている時 とき にすら、人々 ひとびと が言 い うところの反逆 はんぎゃく 罪 ざい を犯 おか しているのかもしれない。しかし、私 わたし たちは戦争 せんそう を拒絶 きょぜつ しなければならないのです。若 わか い男性 だんせい たちは武器 ぶき を手 て に取 と ることを拒絶 きょぜつ すべきだし、若 わか い女性 じょせい たちは愛国 あいこく ポスターを見 み た時 とき に涙 なみだ すべきなのです。そしてあなた方 かた すべて、老 お いも若 わか きも、自分 じぶん たちが持 も っている旗 はた を降 お ろしなさい。」。1942年 ねん 1月 がつ の 「カトリック・ワーカー」紙 し に論評 ろんぴょう として「キリスト教 きょう 平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ としての立場 たちば を貫 つらぬ く」と題 だい し、次 つぎ のように書 か いた[ 46] 。
我々 われわれ は
今 いま だ
持 も って
平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ である。
我々 われわれ の
マニフェスト は
山上 さんじょう の垂 たれ 訓 くん である。これは、
次 つぎ の
事柄 ことがら を
意味 いみ する。
私 わたし たちが
平和 へいわ を
作 つく っていくものであろうと
試 こころ みること、
私 わたし たちの
多 おお くの
良心 りょうしん 的 てき な
兵役 へいえき 拒否 きょひ 者 しゃ たちに
呼 よ びかけ、
軍隊 ぐんたい や
軍 ぐん 用品 ようひん の
製造 せいぞう に
加 くわ わらないこと、
戦費 せんぴ を
賄 まかな うための
国債 こくさい を
購入 こうにゅう しないこと、これらの
努力 どりょく をしようと
他 た の
人 ひと たちに
呼 よ びかけること、である。しかし、
我々 われわれ は
口 くち やかましく
荒 あら 探 さが しをするような
批判 ひはん はしない。
我々 われわれ はこの
国 くに を
愛 あい し、
我々 われわれ の
大統領 だいとうりょう を
愛 あい する。
我々 われわれ の
国家 こっか は
世界中 せかいじゅう でたった
一 ひと つ、
人々 ひとびと を
抑圧 よくあつ から
解放 かいほう した
国 くに である。しかし
我々 われわれ は
同時 どうじ に、
次 つぎ のような
定 さだ めもはっきり
感 かん じている。それは、
平和 へいわ への
愛 あい 、
自分 じぶん の
兄弟 きょうだい たちへの
愛 あい の
側 がわ に
立 た つ
努力 どりょく する
定 さだ め、
自分 じぶん たちの
信念 しんねん に
従 したが って
生活 せいかつ し、その
上 うえ でアメリカ
人 じん としての
枠 わく から
外 はず れ、
処刑 しょけい される
定 さだ めである。
「カトリック・ワーカー」紙 し の発行 はっこう 部数 ぶすう は、スペイン内戦 ないせん 中 ちゅう に落 お ち込 こ んだが、75,000部 ぶ まで上 あ がってきた。しかしこの時期 じき に再度 さいど 落 お ち込 こ みを見 み せた。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の国内 こくない では、多 おお くのカトリック労働 ろうどう 運動 うんどう の拠点 きょてん が閉鎖 へいさ した。これはスタッフたちが戦争 せんそう に加担 かたん する側 がわ につくため離 はな れていったからである。さらに、ドロシーの平和 へいわ 主義 しゅぎ を訴 うった えることは、カトリック・ワーカーの関係 かんけい する施設 しせつ でさえ制限 せいげん されるようになった[ 47] 。
1949年 ねん 1月 がつ 13日 にち 、カトリック教会 きょうかい ・ニューヨーク大司教 だいしきょう 区 く が管理 かんり する墓地 ぼち で、労働 ろうどう 者 しゃ 組合 くみあい がストライキを行 おこな った。数 すう 週間 しゅうかん 後 ご 、フランシス・スペルマン枢機卿 すうききょう は、このストライキを中止 ちゅうし させるために、地元 じもと のメリノール宣教 せんきょう 会 かい 神学校 しんがっこう の在俗 ざいぞく 会員 かいいん たちや、自分 じぶん の管理 かんり 下 か にある大司教 だいしきょう 区 く 神 かみ 学生 がくせい たちを使 つか い、この墓地 ぼち で彼 かれ らに墓 はか 掘 ほ りをさせた。枢機卿 すうききょう はこの組合 くみあい 運動 うんどう を「共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ に感化 かんか されたもの」と呼 よ んだ。「カトリック・ワーカー」関係 かんけい の労働 ろうどう 者 しゃ たちも、このストライキでピケを張 は っており、ドロシーは枢機卿 すうききょう が労働 ろうどう 者 しゃ たちと彼 かれ らの要求 ようきゅう 、団結 だんけつ により自分 じぶん たちの権利 けんり ・人間 にんげん としての尊厳 そんげん を守 まも ることを「誤解 ごかい して」いると手紙 てがみ で伝 つた えた。彼女 かのじょ は、賃金 ちんぎん についての論争 ろんそう を、何 なに よりもはるかに重要 じゅうよう であると考 かんが えた。ドロシーは、論争 ろんそう を解決 かいけつ するための第一歩 だいいっぽ を踏 ふ み出 だ してほしい、と枢機卿 すうききょう に乞 こ うた。「彼 かれ らのところへ行 い き、彼 かれ らを宥 なだ めて下 くだ さい。偉大 いだい なるものは、貧 まず しいものより簡単 かんたん に、白旗 はっき を挙 あ げることができます。」。枢機卿 すうききょう は素早 すばや く対処 たいしょ し、この組合 くみあい の構成 こうせい 員 いん たちが大司教 だいしきょう 区 く 独自 どくじ の申 もう し出 で である週 しゅう 48時 じ 間 あいだ ・6日間 にちかん 労働 ろうどう を受 う け入 い れ、このストライキは3月 がつ 11日 にち に終 お わった。ドロシーは4月 がつ 付 づけ の「カトリック・ワーカー」紙 し に次 つぎ のように書 か いた。「枢機卿 すうききょう は、無分別 むふんべつ に、貧 まず しい労働 ろうどう 者 しゃ の組合 くみあい に対 たい し、圧倒的 あっとうてき な力 ちから の誇示 こじ を行 おこな った。全 すべ ての争 あらそ いの中 なか で最 もっと も恐 おそ ろしい悪魔 あくま の誘惑 ゆうわく 、聖職 せいしょく 者 しゃ と一般人 いっぱんじん の間 あいだ の戦 たたか いがここにある。」。数 すう 年 ねん 後 ご 、ドロシーは枢機卿 すうききょう と相対 そうたい する立場 たちば を取 と ったことを次 つぎ のように説明 せつめい している。「枢機卿 すうききょう は私 わたし たちの司祭 しさい や聴罪 ちょうざい 司祭 しさい の長 なが です。ニューヨークに住 す む私 わたし たち全 すべ ての霊的 れいてき 指導 しどう 者 しゃ です。しかし、主権 しゅけん 者 しゃ ではありません。」。1951年 ねん 3月3日 にち 、ニューヨーク大司教 だいしきょう 区 く はドロシーに出版 しゅっぱん をやめるか、またはドロシーの出版 しゅっぱん するものから「カトリック」の語 かたり を取 と り去 さ るように勧告 かんこく した。ドロシーは丁重 ていちょう な手紙 てがみ を書 か き、その中 なか で「カトリック退役 たいえき 軍人 ぐんじん 会 かい 」(the Catholic War Veterans)が、ニューヨーク大司教 だいしきょう 区 く から独立 どくりつ したその名前 なまえ とその会 かい 独自 どくじ の主張 しゅちょう 意見 いけん を持 も っているのと同様 どうよう に、自分 じぶん も「カトリック・ワーカー」紙 し を発行 はっこう する権利 けんり を主張 しゅちょう した。これに対 たい し、大司教 だいしきょう 区 く はアクションを起 お こさず、後 のち にドロシーはたぶん、司 つかさ 教区 きょうく 当局 とうきょく はカトリック・ワーカーの構成 こうせい 員 いん たちが枢機卿 すうききょう 側 がわ が折 お れるよう、徹夜 てつや で祈 いの りを挙 あ げる動 うご きに出 で ることを望 のぞ まなかったのだろうと推測 すいそく し、次 つぎ のように言 い った。「我々 われわれ は大司教 だいしきょう のいるセント・パトリック大 だい 聖堂 せいどう に行 い き、そこを埋 う め尽 つ くし、その外側 そとがわ で祈 いの りと瞑想 めいそう をする準備 じゅんび ができていた。私 わたし たちは、私 わたし たちが考 かんが えていることを話 はな すことができ、正当 せいとう な行為 こうい だと信 しん ずることを行 おこな うという、アメリカにおいて与 あた えられている自由 じゆう の権利 けんり を使 つか う準備 じゅんび ができていた。」[ 48] 。
彼女 かのじょ の自伝 じでん 「長 なが い孤独 こどく 」はクエーカー 教徒 きょうと のフリッツ・アイヘンバーグ(Fritz Eichenberg)による挿絵 さしえ 付 つ きで1952年 ねん に出版 しゅっぱん された[ 49] 。ニューヨークタイムズは数 すう 年 ねん 後 ご に、次 つぎ のようにこの自伝 じでん をまとめている[ 50] 。
この自伝 じでん は、1人 ひとり の少女 しょうじょ の生 お い立 た ちについて、生 う まれ育 そだ ったニューヨーク北部 ほくぶ の地 ち 、隣人 りんじん 、特 とく に不幸 ふこう な人 ひと との関 かか わり、彼女 かのじょ が婦人 ふじん 参政 さんせい 権 けん 運動 うんどう 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 運動 うんどう 、世界 せかい 産業 さんぎょう 労働 ろうどう 組合 くみあい 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 、そして最後 さいご はカトリック教会 きょうかい へと飛 と び込 こ み、カトリック労働 ろうどう 者 しゃ 運動 うんどう の共同 きょうどう 創始 そうし 者 しゃ となったことを上手 じょうず に思慮 しりょ 深 ふか く伝 つた えている。
1955年 ねん 6月15日 にち 、ドロシーはその日 ひ に予定 よてい されていた市民 しみん 防衛 ぼうえい 訓練 くんれん への参加 さんか 拒否 きょひ をする平和 へいわ 主義 しゅぎ 者 しゃ のグループに加 くわ わった。彼 かれ らの何人 なんにん かは、自分 じぶん たちが起訴 きそ された法律 ほうりつ の合憲 ごうけん 性 せい について異議 いぎ を唱 とな えたが、ドロシーとその他 た 6名 めい は自分 じぶん たちが拒否 きょひ 運動 うんどう をしたのは、社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき な方向 ほうこう 性 せい からではなく、哲学 てつがく の一 ひと つからである、という立場 たちば を取 と った。ドロシーは、自分 じぶん が行 おこな ったのは アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく が初 はじ めて原子 げんし 爆 ばく 弾 だん を使用 しよう したことへの「公的 こうてき な制裁 せいさい 」であると発言 はつげん した。彼 かれ らは1955年 ねん 9月 がつ 28日 にち に自分 じぶん たちの罪 つみ を認 みと めたが、裁判官 さいばんかん は彼 かれ らが「私 わたし はひとりも殉教者 じゅんきょうしゃ を出 だ していない」と言 い ったことについて、それを有罪 ゆうざい とすることは拒否 きょひ した[ 51] 。ドロシーは次 つぎ の年 とし から五 ご 年間 ねんかん に渡 わた り、毎年 まいとし これと同 おな じことを行 おこな った。1958年 ねん にはシェルターに入 はい る代 か わりにアメリカ原子力 げんしりょく 委員 いいん 会 かい の前 まえ でピケを張 は る集団 しゅうだん に加 くわ わった[ 52] 。数 すう 年 ねん 後 ご にこれらの判決 はんけつ は保留 ほりゅう となったが、ドロシーが30日 にち の拘留 こうりゅう となったものが一 ひと つある[ 53] 。
ドロシーは、菜食 さいしょく 主義 しゅぎ 者 しゃ として平和 へいわ 主義 しゅぎ 運動 うんどう を行 おこな うデイビット・デリンジャー とアブラハム・ジョハネス・マスティー (英語 えいご 版 ばん ) (Abraham Johannes Muste)の2人 ふたり と一緒 いっしょ に、『リベレーション (英語 えいご 版 ばん ) 』(Liberation:解放 かいほう )という雑誌 ざっし の創刊 そうかん を支援 しえん した[ 54] 。
1960年 ねん 、ドロシーはフィデル・カストロ による「社会 しゃかい 主義 しゅぎ 的 てき 判断 はんだん の約束 やくそく 」(promise of social justice)を称賛 しょうさん し、次 つぎ のように語 かた った。「激 はげ しい反乱 はんらん を起 お こすことは、貧困 ひんこん に喘 あえ いでいる者 もの たちに対 たい して何 なに もしないよりもずっと良 よ い。」[ 55] 。数ヵ月 すうかげつ 後 ご 、ドロシーはキューバまで旅行 りょこう し、カトリック・ワーカー紙 し において4シリーズに渡 わた って旅行 りょこう 記 き を載 の せた。その最初 さいしょ の記事 きじ では次 つぎ のように書 か いている。「私 わたし は最 もっと も興味 きょうみ を持 も ったのは、人々 ひとびと の宗教 しゅうきょう 生活 せいかつ 、そしてそこが宗教 しゅうきょう を根絶 こんぜつ させるような体制 たいせい には決 けっ していないことだ。その一方 いっぽう で、この体制 たいせい が人々 ひとびと の良 よ い生活 せいかつ のために努力 どりょく する方向 ほうこう に向 む いていないなら、(神 かみ の慈悲 じひ に基 もと づくことで築 きず くことができる)良 よ い生活 せいかつ を求 もと めるものたちは、自然 しぜん と、その摂 と られる処置 しょち に賛成 さんせい しない訳 わけ にはいかない。」[ 56] 。
ドロシーは 第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ が、カトリック生活 せいかつ の基本 きほん 的 てき な信条 しんじょう として非 ひ 暴力 ぼうりょく を支持 しじ し、戦争 せんそう で核兵器 かくへいき を使用 しよう することと、「恐怖 きょうふ の均衡 きんこう を確立 かくりつ することで、抑止 よくし 力 りょく として使用 しよう される武器 ぶき 」、について非難 ひなん することを望 のぞ んだ[ 57] 。ドロシーはローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう に出向 でむ き司教 しきょう たちにロビー活動 かつどう を行 おこな い、他 た の女性 じょせい たちと10日間 にちかん の断食 だんじき を行 おこな った[ 58] 。
ドロシーは第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ が「現代 げんだい 世界 せかい 憲章 けんしょう 」(1965年 ねん )の「現代 げんだい における教会 きょうかい 」の中 なか での声明 せいめい で、核 かく 戦争 せんそう がカトリック教会 きょうかい の伝統 でんとう 的 てき な正 せい 戦 せん 論 ろん とは相入 あいい れないとしたことに喜 よろこ びの声 こえ を寄 よ せた。「あらゆる都市 とし 、または広大 こうだい な範囲 はんい の居住 きょじゅう 地域 ちいき を無差別 むさべつ に破壊 はかい する方向 ほうこう へ向 む かう戦争 せんそう の動 うご きはそれぞれ、神 かみ と人間 にんげん に対 たい する犯罪 はんざい である。そして、これは明確 めいかく に非難 ひなん に値 あたい する。」[ 59] 。ドロシーがカトリック労働 ろうどう 者 しゃ 運動 うんどう を評価 ひょうか した書籍 しょせき 「パンと魚 さかな (現代 げんだい 的 てき 利得 りとく )」(Loaves and Fishes)が1963年 ねん に出版 しゅっぱん された。ドロシーは60年代 ねんだい 反 はん 体制 たいせい 文化 ぶんか について、その反 はん 体制 たいせい という点 てん では共鳴 きょうめい していたものの、それとは微妙 びみょう に異 こと なる考 かんが え方 かた をしていた。
アビー・ホフマン が彼女 かのじょ はヒッピー の原型 げんけい だと彼女 かのじょ に言 い った時 とき にはその反 はん 体制 たいせい 文化 ぶんか を面白 おもしろ いと思 おも い、ドロシーが実利 じつり 主義 しゅぎ から無 む 関心 かんしん でいることへの褒 ほ め言葉 ことば だと思 おも って受 う け入 い れた[ 8] 。しかしそれと同 どう 時期 じき にドロシーは自分 じぶん 自身 じしん をヒッピーだと名乗 なの る多 おお くの人々 ひとびと を認 みと めなかった。ドロシーはミネソタ州 しゅう ででくわした数 すう 人 にん について次 つぎ のように描 えが いている。「あの人 ひと たちは17歳 さい か18歳 さい の若 わか さで結婚 けっこん している。そして自分 じぶん たち自身 じしん が再 ふたた び開拓 かいたく 者 しゃ となるために、カナダとの国境 こっきょう 近 ちか くの森 もり まで行 い き、家 いえ を建 た てる。」。しかしドロシーは、このヒッピーたちの中 なか に「苦 くる しみを知 し らずにいる」人々 ひとびと が主義 しゅぎ を持 も たずに生 い きるという、中流 ちゅうりゅう 富裕 ふゆう 層 そう が持 も つ我儘 わがまま さを見出 みいだ していた。ドロシーはベトナムからの帰還 きかん 兵 へい たちがどんなにこのヒッピーたちを殺 ころ してやりたいと思 おも っただろう、と想像 そうぞう しながらも、この「フラワーピープル」が値 あたい したものは、「祈 いの りと償 つぐな い」だと考 かんが えた[ 60] 。ドロシーは、影響 えいきょう 力 りょく を持 も った指導 しどう 者 しゃ として努力 どりょく した。しかしそれは、カトリック・ワーカー・ハウスに対 たい する直接的 ちょくせつてき 権限 けんげん を持 も ったものではなかった。それはドロシーが定期 ていき 的 てき に訪問 ほうもん したティヴォリ(Tivoli)のカトリック・ワーカー農場 のうじょう も例外 れいがい ではない。ドロシーは自分 じぶん のフラストレーションを自分 じぶん の日記 にっき に次 つぎ のように書 か いている。「例 たと えば、マリファナだとか、性的 せいてき 混乱 こんらん 、社会 しゃかい 的 てき 罪 ざい などを止 と める力 ちから がない。」[ 61] 。
1966年 ねん のクリスマスに、ニューヨーク大司教 だいしきょう 区 く のスペルマン枢機卿 すうききょう がベトナムの合衆国 がっしゅうこく 軍 ぐん を訪問 ほうもん した。伝 つた えるところによると、その地 ち で枢機卿 すうききょう は「ベトナムにおけるこの戦 たたか いは民主 みんしゅ 化 か のためのものである。」と言 い った。1967年 ねん 1月 がつ の「カトリック・ワーカー」紙 し 特集 とくしゅう 記事 きじ で、ドロシーはこのことに関 かん する直接 ちょくせつ の批判 ひはん は避 さ けたものの、同 どう 枢機卿 すうききょう が訪問 ほうもん した戦地 せんち の一覧 いちらん を作成 さくせい して掲載 けいさい した。「これはまさにベトナムではなく、これは南 みなみ アフリカ、これはナイジェリア、コンゴー、インドネシア、ラテンアメリカ諸国 しょこく 全 すべ て、訪問 ほうもん したことは、”勇敢 ゆうかん な行為 こうい ”である。」「しかしながら、ああ神 かみ よ、これらのアメリカ人 じん たちは全 すべ て、自分 じぶん たちの国 くに から海 うみ を隔 へだ てた世界中 せかいじゅう の地 ち で、いったい何 なに をしているのでしょうか。」[ 62] 。
1970年 ねん 、アメリカがベトナム戦争 せんそう に参入 さんにゅう したそのピーク時 じ に、ドロシーはホーチミン が「洞察 どうさつ 力 りょく のある人 ひと 、愛国 あいこく 者 しゃ 、そして、親戚 しんせき と一緒 いっしょ に集 あつ まって、宗教 しゅうきょう 的 てき ・政治 せいじ 的 てき に異 こと なる痛 いた みよりも、むしろ可能 かのう であるならば、合意 ごうい と一致 いっち の段階 だんかい を見 み つけようと語 かた らっている間 あいだ に侵入 しんにゅう してきた外国 がいこく 人 じん に対 たい して反抗 はんこう した人 ひと 」として描 えが いた[ 63] 。
「お金 かね をやたら投資 とうし しないでー貧 まず しい人 ひと たちにするのは別 べつ だけど。そこではあなた方 かた は、きっとその見返 みかえ りを期待 きたい できるはずだから。」
「私 わたし を簡単 かんたん に聖人 せいじん などと呼 よ んで欲 ほ しくないの。そんなに容易 たやす く人 ひと を片付 かたづ けて欲 ほ しくないから。」
「(教会 きょうかい の中 なか で)もし自分 じぶん のコートを脱 ぬ いで、それを貧 まず しい人 ひと にあげる人 ひと を見 み たとしても、私 わたし は銀行 ぎんこう の小切手 こぎって をもっていて、盲目 もうもく で弱 よわ っていて、体 からだ に障害 しょうがい のある人 ひと を見 み たことがない。」
「私 わたし たちはみんな久 ひさ しく孤独 こどく というものを知 し っている。その唯一 ゆいいつ の解決 かいけつ が愛 あい だということ、そしてそれが人 ひと と人 ひと とのつながりからやってくるということも学 まな んだはずだ。」
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