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ドロシー・デイ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドロシー・デイ (かみぼく
生誕せいたん (1897-11-08) 1897ねん11月8にち
アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ニューヨーク
ブルックリン
死没しぼつ 1980ねん11月29にち(1980-11-29)(83さいぼつ
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
ニューヨーク
マンハッタン
国籍こくせき アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
教育きょういく イリノイ大学だいがく
著名ちょめい実績じっせき カトリック・ワーカー協同きょうどう創立そうりつしゃ カトリック労働ろうどうしゃ運動うんどう創始そうししゃ
肩書かたが かみぼく(Servant of God)
宗教しゅうきょう カトリック教会きょうかい
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ドロシー・デイ(Servant of God Dorothy Day, Obl.S.B.、1897ねん11月8にち - 1980ねん11月29にち)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく社会しゃかい活動かつどうニューヨークブルックリンまれ。

若年じゃくねんなかでもラディカルな共産きょうさん主義しゅぎ信奉しんぽうしゃだったが、のちにキリスト教きりすときょう社会しゃかい主義しゅぎ立場たちばえ、カトリック労働ろうどうしゃ運動うんどう(Catholic Worker Movement)の創立そうりつしゃとなった。熱心ねっしん女性じょせい権利けんり拡張かくちょう主義しゅぎしゃにして、平和へいわ主義しゅぎものとして彼女かのじょは、たびたび逮捕たいほ拘置こうちしょ収容しゅうようされた経験けいけんつ。最後さいご刑務所けいむしょ収容しゅうようされたのは、1973ねん彼女かのじょが76さいのときであった。このときは、彼女かのじょはシーザー・ジャベス (Cesar Chavez) とカリフォルニア農場のうじょう労働ろうどうしゃ連合れんごう(United Farm Workers of California)を支援しえんするため、違法いほうストライキにえて参加さんかしたためであった。彼女かのじょ存命ぞんめいちゅうせいべつされている。彼女かのじょ自伝じでんふうさからって』のなかで、彼女かのじょはドロシー・ゼーレに一章いっしょうささげている。

生涯しょうがい

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幼年ようねん

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ドロシーは1897ねん11月8にち、ニューヨークブルックリンのブルックリン・ハイツでまれた。ある伝記でんき作家さっかは、ドロシーの家族かぞくを「たしかで信頼しんらいできて、くにあいした中堅ちゅうけんクラスの家庭かてい」とえがいている[1]。ドロシーの父親ちちおやジョン・デイは伝統でんとうあるテネシーまれのアイルランドけいアメリカじんで、母親ははおやのグレイス・サタリーはニューヨーク北部ほくぶまれで、イギリスけいである。ドロシーの両親りょうしんグリニッジ・ヴィレッジにあるエピスコパル教会きょうかい結婚式けっこんしきげた[2]。ドロシーには3にん兄弟きょうだい姉妹しまいが1にんいた。1904ねんにドロシーの父親ちちおや競馬けいばせんもんのスポーツ記者きしゃとしてサンフランシスコ新聞しんぶんしゃ就職しゅうしょくした。1906ねん、サンフランシスコのだい地震じしんで、父親ちちおやつとめる新聞しんぶんしゃ社屋しゃおく崩壊ほうかいし、父親ちちおやはそのしょくうしなった。ドロシーの家族かぞくはそのときまでカリフォルニアしゅうオークランドんでいた。このとき地震じしん荒廃こうはいした状況じょうきょうで、自然しぜん反応はんのうしててきたのは、危機ききてきときむかえたときにおける隣人りんじんへの自己じこ犠牲ぎせいだった。このおかげでドロシーは個人こじん行動こうどうとキリストきょうコミュニティから教訓きょうくんた。ドロシーの一家いっかはそのシカゴうつんだ[3]

ドロシーの両親りょうしん滅多めった教会きょうかいかないばかりのキリスト教徒きりすときょうとだった。ドロシーはちいさな子供こどもころ際立きわだって信心しんじんふか様子ようすせ、聖書せいしょ頻繁ひんぱんんでいた。ドロシーが10さいときにはエピスコパル教会きょうかいかよはじめ、その教会きょうかい牧師ぼくし母親ははおや説得せっとくして、ドロシーの兄弟きょうだいたちも教会きょうかいかよわせるようにした。ドロシーは教会きょうかい祈祷きとうぶん音楽おんがく魅了みりょうされていた。ドロシーはその教会きょうかいカテキズム洗礼せんれいけんしんについてまなんだ[4]

10代のドロシーは熱心ねっしん読書どくしょとくアプトン・シンクレアの「ジャングル」をこのんだ。 ジャック・ロンドンきした「マーチン・エデン」のハーバート・スペンサーについて注目ちゅうもくすると、いで、スペンサーからダーウィンとハックスレイまでと、つぎからつぎへと熱心ねっしんほんんだ。ドロシーは政府せいふ主義しゅぎ極貧ごくひんピョートル・クロポトキンからまなんだ。この人物じんぶつはダーウィンの生存せいぞんのための競争きょうそうとは対照たいしょうてきに、協力きょうりょくしあうことをしんじるよう奨励しょうれいした[5]。ドロシーは大学だいがくすすんだのちはロシア文学ぶんがくとくドストエフスキートルストイそして ゴーリキーしたしんだ[6]。ドロシーは社会しゃかいてき問題もんだい意識いしきかんする著作ちょさく数多かずおおみ、このことがこう彼女かのじょのバックグラウンドとなり、社会しゃかい運動うんどうささえ、関与かんよしていくこととなる。

1914ねんにドロシーはイリノイしゅう、アーバナ・シャンペーンにあるイリノイ大学だいがくすすんだ。奨学しょうがくきん給付きゅうふけることとなったのだが、それは彼女かのじょとしてはすすまなかった[7]。ドロシーの読書どくしょ傾向けいこうは、おもキリスト教きりすときょう過激かげき社会しゃかい主義しゅぎ方面ほうめんにあった。ドロシーがこのころにんでいたものは、おもキリスト教きりすときょうけい革命かくめいてき社会しゃかい主義しゅぎ方向ほうこうせいっていた[7]。ドロシーは大学だいがくでのいをけ、衣服いふく履物はきものをディスカウントてんうなど、父親ちちおや金銭きんせんめんたよるよりむしろ、自分じぶんなにとかしようとした[8]。ドロシーは大学だいがくを2ねんはなれ、ニューヨークうつんだ[7]

社会しゃかい運動うんどう

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ドロシーは、ニューヨークマンハッタンロウアー・イースト・サイドき、いくつかの社会しゃかい主義しゅぎけい出版しゅっぱんしゃ勤務きんむした。そのなかには「ザ・リバレイター」(The Liberator:解放かいほうしゃ[9]「ザ・マサズ」(The Masses:一般いっぱん大衆たいしゅう)、そして「ザ・コール」(The Call:こえ)がある。ドロシーは「微笑ほほえみながら、辛抱しんぼうする社会しゃかい主義しゅぎしゃたちに、自分じぶんが”階級かいきゅう闘争とうそうなかにおいてさえも平和へいわ主義しゅぎしゃ”だと説明せつめいした。」とかたっている[10]すうねん、ドロシーは自分じぶんがいかにべつ方向ほうこうってかれたかをえがいている。「わたし社会しゃかい主義しゅぎ世界せかい産業さんぎょう労働ろうどう組合くみあいサンディカリスム忠義ちゅうぎをたてようか、それともアナーキズムにしようか、しんらいでいたのは、わたしがたった18さいときだった。わたしトルストイんでいたときわたしはアナーキストだった。でもわたしは”ザ・コール”に忠誠ちゅうせいしんっていたので、社会しゃかい主義しゅぎしゃでいられた。左寄ひだりよりだったにもかかわらず、わたしはアメリカ愛国あいこく主義しゅぎしゃだったので、世界せかい産業さんぎょう労働ろうどう組合くみあい傾斜けいしゃしていった[11][12]。」。ドロシーは1917ねんロシア2がつ革命かくめいこり、君主くんしゅせい打倒だとうされ、改革かいかく政府せいふ樹立じゅりつしたとき、これらを称賛しょうさんした[13]。そのとしの11月、ドロシーは女性じょせい選挙せんきょけん運動うんどうのため、ホワイト・ハウスのまえでピケをっていたとき逮捕たいほされた。この運動うんどうはアリス・ポール(Alice Paul)とナショナル・ウーメンズ・パーティ(National Women's Party:全国ぜんこく女性じょせいとう)によって組織そしきされた「サイレント・センチネル」(Silent Sentinels:無言むごん歩哨ほしょう)とばれるキャンペーンによるものである。裁判さいばん判決はんけつにより30にち投獄とうごく釈放しゃくほうまえに15日間にちかん労役ろうえきをいいわたされ、10日間にちかんハンガー・ストライキおこなった[14][15]

ドロシーはグリニッチ・ヴィレッジですうヶ月かげつあいだごし、そこでユージン・オニールしたしくなった。ドロシーはのちに、自分じぶんなか宗教しゅうきょうてき感覚かんかくまれて増大ぞうだいしてくのとともに、かれ信頼しんらいするようになった[16]。ドロシーはマイク・ゴールドすう年間ねんかん恋愛れんあい関係かんけいにあった。マイクは過激かげき記者きしゃで、のち著名ちょめい共産きょうさん主義しゅぎしゃとなった。ドロシーは、アンナ・ルイーズ・ストロングや、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく共産党きょうさんとうちょうとなったエリザベス・ガーリー・フリンのようなアメリカの共産きょうさん主義しゅぎしゃたちと友好ゆうこう関係かんけい維持いじしていた。

最初さいしょすう日間にちかん、ドロシーはボヘミアニズムてき生活せいかつごしていた。1920ねん1921ねんにライオネル・モイス(Lionel Moise)との不幸ふこう恋愛れんあい関係かんけい破綻はたんし、妊娠にんしん中絶ちゅうぜつをしたちょうどそのに、ドロシーはバークレイ・トビー(Berkely Tobey)と結婚けっこんした。挙式きょしき宗教しゅうきょうてき儀式ぎしきともなわない民事みんじこんだった。ドロシーはヨーロッパでかれともに1年間ねんかんごした。それは政治せいじからはなれ、芸術げいじゅつ文化ぶんか焦点しょうてんて、じゅん自伝じでんてき小説しょうせつ「ジ・エリザベス・バージン」(1924ねん)を執筆しっぴつしていた。この小説しょうせつはモイスとの情愛じょうあいをベースにしたものだった。そのなかの「むすび」でドロシーは自身じしん経験けいけんした女性じょせい地位ちいについてえがこうとこころみている。ドロシーはこれについて「わたし自由じゆう開放かいほうされたわか女性じょせいだった。そして、すこしもそうじゃないことがかった。自由じゆうとは、ただの現代げんだいふう衣装いしょうわたしたち女性じょせいきな男性だんせいつかまえるときこのんで使つかあたらしいわなぎない。」とっている[17]。ドロシーはのちにこのほんを「とてもひどいほん」とんだ[18]。ドロシーは、この小説しょうせつ映画えいが版権はんけん売却ばいきゃくしてた2,500ドルでニューヨークのスタテンとう海岸かいがんにあるコッテージをい、そこを小説しょうせつくためのかくとした[19]。ドロシーはすぐにフォスター・ベッテルハイム(Forster Batterham) というあたらしい恋人こいびとつけた。この人物じんぶつ活動かつどう伝記でんき作家さっかであり、週末しゅうまつにはドロシーとともにそのかくっていた。ドロシーはそのかく1925ねんから1929ねんまで滞在たいざいし、友人ゆうじんたちとたのしくごしたり、恋愛れんあい関係かんけいたのしんだりした。この恋愛れんあい関係かんけいは、ドロシーが、母性ぼせい宗教しゅうきょう情熱じょうねつけたときうしなわれた[20]

ドロシーはのち妊娠にんしん中絶ちゅうぜつ経験けいけんしたとき自分じぶん自身じしん子供こどもめなくなったとおもっていた。しかし、1925ねんなかばに妊娠にんしんしていることがわかり、元気げんきづいた。このあいだ、ベッテルハイムは父親ちちおやになることをこわがっていた。ドロシーはすうげつあいだ、ベッテルハイムとわかれてフロリダしゅうにいる母親ははおやのもとに滞在たいざいした。このときにドロシーはカトリックの教義きょうぎについて徹底的てっていてき調しらべていた。ドロシーがニューヨークのスタテンとうもどってきたとき、ベッテルハイムはドロシーの信仰しんこうしていること、ミサへの出席しゅっせき理解りかいできないような宗教しゅうきょうみもの、などにいた。1926ねん3がつ4にちにドロシーとベッテルハイムのあいだむすめタマル・テレサ(Tamar Teresa)がまれた。そのすぐのちにドロシーはニューヨークあいとく修道しゅうどうおんなかい(Sisters of Charity of New York:S.C.)の修道しゅうどうおんな、シスター・ アロイシアと出会であった[21]。そしてこのシスターのたすけでカトリック教会きょうかい信仰しんこうみずか勉強べんきょうしてまなび、1927ねんにはまだ赤子あかごむすめ洗礼せんれいけさせた。ベッテルハイムはこの洗礼せんれいしき出席しゅっせきことわり、かれにとってドロシーとの関係かんけい次第しだいえられないものとなった。ドロシーは教会きょうかい結婚式けっこんしきげたかったのだが、ベッテルハイムは組織そしきだった宗教しゅうきょう、とりわけカトリックにたいして反感はんかんっていた。そのとしの12月おそくにドロシーとベッテルハイムは喧嘩けんかし、そのドロシーはベッテルハイムが彼女かのじょもともどることをゆるさなかった。ドロシーは、その12月28にちにシスター・アロイシアをだいははとしてカトリック教会きょうかい洗礼せんれいけた[22][23]

1929ねんなつ、ドロシーはベッテルハイムとの関係かんけいわらせ、パテ映画えいが会社かいしゃ脚本きゃくほん仕事しごとて、むすめのタマルとともロスアンゼルスうつんだ。そのほんのすうヵ月かげつに1929ねん株価かぶかだい暴落ぼうらくき、そのドロシーの契約けいやく更新こうしんされなかった。ドロシーは、メキシコしゅうでの滞在たいざいて、むすめれてフロリダをおとずれたりし、ニューヨークにもどった。ドロシーは生活せいかつのためにジャーナリストとなって、地方ちほうの「スタテン・アイランド・アドバンス」(Staten Island Advance)で園芸えんげいのコラムをき、また、「コモンウィール」(Commonweal)のようないくつかのカトリックけい出版しゅっぱんしゃ特集とくしゅう記事きじやブックレビューをいた[24][25]

ドロシーが社会しゃかい主義しゅぎとカトリック思想しそうにおいて、よりおおきな役割やくわりになおうと決心けっしんしたのは、首都しゅとワシントンの「コモンウィール」から仕事しごとひとつをしているあいだであった。1932ねん首都しゅとワシントンでハンガー・ストライキがおこなわれていたあいだ行進こうしんしている人々ひとびとている自分じぶんほこりにちていることに気付きづいた。しかしドロシーはそのことをはなしすことはできなかった。ドロシーは 自伝じでんなかつぎのようにいている。「良心りょうしん目覚めざめたときわたしくことができた。抗議こうぎすることができた。しかし、男性だんせい女性じょせい一団いちだんともあつまるなかで、何処どこにカトリックのリーダーシップはあるのだろうか。労働ろうどうしゃたちにとど慈悲じひはたらきは同胞どうほうたちが自分じぶんたちの手法しゅほう一部いちぶとしたもの。」。のちにドロシーは首都しゅとワシントンの北東ほくとうにある原罪げんざい宿やどだい聖堂せいどうおとずれ、自分じぶんあたえられた資質ししつ才能さいのう労働ろうどうしゃまずしい人々ひとびとのためにどのように使つかえばよいかを見出みいだすためにいのりをささげた[26]

カトリック労働ろうどうしゃ運動うんどう

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Day in 1934

ドロシーは1932ねんにピーター・モーリン(Peter Maurin)に出会であった。この人物じんぶつは、ドロシーが間違まちがいないと確信かくしんしていた運動うんどう創立そうりつしゃとして、つね日頃ひごろから称賛しょうさんしていた人物じんぶつであった。モーリンはフランスからの移民いみんで、ちょっとした放浪ほうろうしゃでもあり、母国ぼこくのフランスでラ・サールかいによっててられた学校がっこうはいっていた。移住いじゅうする以前いぜん当初とうしょにモーリンはフランスからカナダにわたり、そのアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移民いみんしてきた。きちんとした教育きょういくける機会きかいがなかったにもかかわらず、モーリンはふか教養きょうようふか力強ちからづよ視点してんぬしだった。かれ社会しゃかいてき判断はんだんまずしい人々ひとびととの関係かんけいかか洞察どうさつりょくっていた。これは部分ぶぶんてきアシジのせいフランシスコからしめせしゅんけたものであった。かれまずしい人々ひとびと自身じしんによるかんがえと、その行動こうどう共有きょうゆうすることを土台どだいとした行動こうどうについての洞察どうさつりょくっていた。モーリンはキリスト教きりすときょう教父きょうふによってかれた書物しょもつおよ教皇きょうこうレオ13せいとその後継こうけいしゃたちによってされた社会しゃかい問題もんだいかか教皇きょうこう文書ぶんしょについて、ふか造詣ぞうけいっていた。モーリンはドロシーにカトリック理論りろん基礎きそ伝授でんじゅした。社会しゃかいてき行動こうどうをするじょうで、この理論りろん必要ひつようだと2人ふたりとも必要ひつようせいかんじているからであった。すうねん、ドロシーはモーリンが ピョートル・クロポトキン著作ちょさく抜粋ばっすい使つかっていかにドロシーの知識ちしきひろげていったか、をえがいている。ドロシーはこのようにいている。「とくわたし注目ちゅうもくしたのは”田園でんえん工場こうじょうそして仕事場しごとば(Fields,Factories,and Workship)”だった。」「わたしはクロポトキンにしたしみをかんじていた。それはかれ著作ちょさく革命かくめい記憶きおく”(Memoirs of a Revolutionist)をつうじてのみだった。この作品さくひん元々もともと”アトランティック・マンスリー”(Atlantic Monthly)に連載れんさいされていたものだったの。」。また、「ああ、アメリカの自由じゆうとおい。カール・マルクスが”トリビューン”(Tribune)をくことができるのに、ニューヨークでは、クロポトキンを”アトランティック”に発表はっぴょうすることすらできない。でも、ニュー・イングランドのユニテリアンのいえや、シカゴにあるジェーン・アダムスハル・ハウスにはゲストとしてれられるわ。」[27]。モーリンによってドロシーが興味きょうみいたフランスのモデルと文学ぶんがくはとても興味深きょうみぶかいものである[28][29]

カトリック労働ろうどうしゃ運動うんどうがスタートしたのは、「カトリック・ワーカー」(Catholic Worker)の初版しょはんが1933ねん5がつ1にちに1セントの価格かかく刊行かんこうされたときだった。同紙どうしはそれ以来いらい継続けいぞくてき刊行かんこうされている。「カトリック・ワーカー」だい恐慌きょうこうのどんぞこもっとくるしんでいる「未来みらい希望きぼうがないとかんがえている人々ひとびと」にねらいをつけ、その人々ひとびとに「カトリック教会きょうかい社会しゃかいてきプログラムをゆうしている。人々ひとびとなかかみはおられ、人々ひとびとれいせいのみならず、その福祉ふくしのためにも具体ぐたいてきはたらきをしておられる。」とびかけた。宣伝せんでんをせず、スタッフに賃金ちんぎんはらわなかったが、同誌どうし人々ひとびとれられた[30]創刊そうかんごう発行はっこう一部いちぶには「カトリック・ワーカー・ハウス」を命名めいめいしたシスター・ピーター・クレバー(Sister Peter Claver)による1ドルの寄付きふふくまれていた[31]

当時とうじ新聞しんぶん同様どうように、なにかを主唱しゅしょう鼓吹こすいするタイプのジャーナリズムは、弁解べんかいせず、怖気おじけづかないものであったが、ドロシーがカトリック・ワーカーつづけた記事きじは、その見本みほんのようなものであった。ストライキの報道ほうどう労働ろうどう条件じょうけん調査ちょうさとく女性じょせい黒人こくじん焦点しょうてんて、ローマ教皇きょうこう社会しゃかい問題もんだいたいするおしえを詳細しょうさい記事きじにした[30]記事きじパルチザン視点してんであり、文章ぶんしょうはその読者どくしゃにその地元じもと行動こうどうすることを奮起ふんきさせる構成こうせいで、そのれいとしてげられるのが、クリーニングてん労働ろうどうしゃ組合くみあい推薦すいせんするクリーニングてん推奨すいしょうしたものなどである。 連邦れんぽう児童じどう労働ろうどうしゃほうへの支持しじはその記事きじ当初とうしょからアメリカの教会きょうかい聖職せいしょくだん意見いけんちがいをせたが、ドロシーは教会きょうかい聖職せいしょくだんによるモーリンにたいするいくつかの非難ひなん調しらべ、それらの新聞しんぶん記事きじあつめ、1935ねんにはローマ教皇きょうこうピウス11せいへそれらをおくろうとした[32]

この新聞しんぶん購読こうどく部数ぶすうやイデオロギーにおけるな競争きょうそう相手あいては、共産党きょうさんとうの「ディリー・ワーカー」(Daily Worker)であった。ドロシーは同紙どうしかみろん、「階層かいそうへの憎悪ぞうお」への鼓吹こすい暴力ぼうりょくによる革命かくめい私有しゆう財産ざいさんへの反対はんたいについて対立たいりつ立場たちばった。「カトリック・ワーカー」最初さいしょ記事きじは、「過激かげきになること、かみろんしゃでなくなることは不可能ふかのうですか?」といういかけで、共産きょうさん主義しゅぎしゃたちへの挑戦ちょうせん意味いみで、メーデーにカトリック・ワーカーをマンハッタンのユニオン・スクウェア配布はいふし、それをいわ記事きじした。ドロシーは、共産きょうさん主義しゅぎしゃ嘲笑あざわらった市民しみん保全ほぜん部隊ぶたいのような政府せいふ施策しさく弁護べんごする記事きじいた。 ディリー・ワーカーは これにたいし、カトリック・ワーカー慈善じぜん事業じぎょうや、同紙どうし退きにたいして、間違まちがいだと発言はつげんしたとき地主じぬしたちに同情どうじょう表明ひょうめいしたことなどを嘲笑あざわら記事きじした。この論争ろんそうにおいて、教会きょうかい聖職せいしょくしゃだんがドロシーの運動うんどう後援こうえんし、カトリックけい雑誌ざっしひろ視野しやつ「コモンウィール」は、ドロシーのバックグラウンドが、彼女かのじょたいし、そのあたえられた使命しめいをよりよくおこなうための位置いちさだめているのだと記事きじいている。「共産きょうさん主義しゅぎしゃのプロパガンダやその主張しゅちょうにそれほど完璧かんぺき精通せいつうしている世俗せぞく人間にんげんなどこのくににはいない[33]。」。

じゅうすう年間ねんかん、カトリック・ワーカー多彩たさい作家さっか編集へんしゅうしゃ記事きじによって読者どくしゃ魅了みりょうした。それはミッシェル・ハリントン(Michael Harrington)、アモン・ヘネシー(Ammon Hennacy) 、トマス・マートン、そしてダニエル・ベリガン(Daniel Berrigan) といったかおぶれである。出版しゅっぱん事業じぎょうからてきた「もてなしのいえ」(house of hospitality)は、ニューヨークロウアー・イースト・サイドまずしい人々ひとびともの衣服いふく供給きょうきゅうする福祉ふくし施設しせつで、それから、共同きょうどう生活せいかつをする一連いちれん農場のうじょうとなった[34]。この運動うんどうアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくカナダそしてイギリスかく都市としひろまった。カトリック・ワーカー関連かんれんのある独立どくりつ共同きょうどうたいが1941ねんまでに、30団体だんたい以上いじょう設立せつりつされた[35]

1935ねんにカトリック・ワーカー掲載けいさいはじめた記事きじ内容ないようは、きびしくて妥協だきょうしない平和へいわ主義しゅぎてき位置いち明瞭めいりょう表現ひょうげんし、伝統でんとうてきなカトリックのせいせんろん決別けつべつする内容ないようのものだった。その翌年よくねん、ドロシーは、スペイン内乱ないらんたたかう2つの勢力せいりょく・おたがいに戦争せんそう状態じょうたいにある「カトリック」と「労働ろうどうしゃ」にそれぞれ忠義ちゅうぎしんはじめていた。教会きょうかいは、しま模様もようをつけた過激かげきたたかフランシスコ・フランコ同盟どうめいしていた。カトリックの聖職せいしょくだんは、共和党きょうわとう勢力せいりょく相反あいはんするフランコを支持しじしたが、ドロシーはこれに追従ついしょうすることを拒否きょひした。それは、かみろん霊的れいてきはん教権きょうけん主義しゅぎであり、政府せいふ主義しゅぎしゃと、共産きょうさん主義しゅぎしゃみちびかれたものだった[36]。ドロシーはスペインで司祭しさいたちや、修道しゅうどうおんなたちが殉教じゅんきょうしたことをらせ、よりおおくの殉教じゅんきょう必要ひつようとされているため、自分じぶんたちがきているこの時代じだい革命かくめいこることを期待きたいしているとしるしている[37]

わたしたちは、いま殉教じゅんきょう準備じゅんびをしなければならない。こうわなければ、わたしたちはずっと、それにそなえることはしないだろう。もし、わたしたちが攻撃こうげきされたとして、それにすぐ反撃はんげきせず、人間にんげんてき対応たいおうしていく行動こうどうを、わたしたちのうちだれがれるだろうか。自分じぶん攻撃こうげきける兄弟きょうだいあいするなんてことができるだろうか。すべてのカトリック労働ろうどうしゃのうち、どんな手段しゅだんでも、本能ほんのうてき自己じこ防衛ぼうえいをしないひと何人なんにんいるだろうか。わたしたちは準備じゅんびしなくてはならい。いますぐそなえなくてはいけない。しん軍事ぐんじりょく放棄ほうきがあらねばならない。

カトリック・ワーカー発行はっこう部数ぶすうんだ。カトリック教会きょうかい、カトリック関連かんれん学校がっこう施設しせつなど、その配布はいふさきだったところが 支持しじげたためである[36]発行はっこう部数ぶすうは150,000から30,000までがった[38]

1938ねん、ドロシーは、「ユニオン・スクウェアからローマへ」(From Union Square to Rome)を出版しゅっぱんし、そのなかで、自分じぶん政治せいじてき行動こうどう主義しゅぎが、宗教しゅうきょうてき動機どうきづけされた行動こうどう主義しゅぎ変化へんかしたことを報告ほうこくする内容ないよういた。ドロシーは自分じぶん人生じんせいでんなかからいくつかえらかたった。自分じぶんわかころ人生じんせいがあまり感傷かんしょうてきではなく卑劣ひれつだったとき重大じゅうだいつみおかしたことについては、詳細しょうさいけたものだった[39]。ドロシーは自分じぶんに「なんでカトリックになったの?」といてきた共産きょうさん主義しゅぎしゃ親戚しんせきたちと友人ゆうじんたちへ、そのこたえとして、このほんわたした[40]

わたしがこのほんしたかったものは、わたしをキリストの足元あしもとまでみちびいた出来事できごと継承けいしょうすること、わたしがキリストと宗教しゅうきょう必要ひつようかんじたいく年間ねんかん、キリストを垣間見かいまみたことである。わたしは、いつも自分じぶんしんにあるとしんずる信仰しんこう自分じぶんるようになったその足取あしどり、これらを辿たどっていこうとおもう。

ニューヨーク大司教だいしきょうにある枢機卿すうききょう図書としょ委員いいんかい(The Cardinal's Literature Committee of the New York Archdiocese)は、このほんをカトリック信徒しんと推薦すいせんした[41]

積極せっきょく行動こうどう主義しゅぎ

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1940ねんだい当初とうしょに、ドロシーはベネディクトかい世俗せぞく会員かいいんとして入会にゅうかいし、1955ねんには、どうかいせいプロコピウスだい修道院しゅうどういん(St. Procopius Abbey) のオブレート[42]であることを公表こうひょうした。ベネディクトかいのオブレートであることにより、ドロシーは、霊的れいてき修練しゅうれんやその人生じんせいつうじて彼女かのじょささえていくつながりをることになる。ドロシーはしばらくのあいだ、イエスのカリタス同胞どうほうかいという修道しゅうどうかい(Fraternity of Jesus Caritas)の修道しゅうどうおんな志願しがんしてその見習みならい(ポストランド)だった。これは、 シャルル・ド・フーコーなどで奮起ふんきしたものであった[43]。 しかし、ドロシーはその修道しゅうどうかい歓迎かんげいされていないことをかんじ、そしてその集会しゅうかい失望しつぼうした。ドロシーが修道しゅうどうかい入会にゅうかい辞退じたいしたとき友達ともだちへの手紙てがみつぎのようにいている。「わたし貴方あなたらせたいことは、わたしが、この修道しゅうどうかいをより親密しんみつであるとすらかんじていることです。でも修練しゅうれんしゃであることや、正規せいき修道しゅうどうかい一員いちいんとなることを認識にんしきするのはわたしにとって不可能ふかのうなことなのです。」[44]

ドロシーは、1941ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく宣戦せんせん布告ふこくをしたときに、自分じぶん平和へいわ主義しゅぎしゃであることを再度さいど断言だんげんし、自分じぶん戦争せんそう協力きょうりょくしないとした。1941ねん12月8にちのスピーチのなかで、ドロシーはつぎのようにはなしている[45]。 「わたしたちははじめなければならない。施策しさく道具どうぐとして戦争せんそうおこなうことを放棄ほうきしなければならない。あなたたちにこうしてはなしかけているときにすら、人々ひとびとうところの反逆はんぎゃくざいおかしているのかもしれない。しかし、わたしたちは戦争せんそう拒絶きょぜつしなければならないのです。わか男性だんせいたちは武器ぶきることを拒絶きょぜつすべきだし、わか女性じょせいたちは愛国あいこくポスターをときなみだすべきなのです。そしてあなたかたすべて、いもわかきも、自分じぶんたちがっているはたろしなさい。」。1942ねんがつの 「カトリック・ワーカー」論評ろんぴょうとして「キリストきょう平和へいわ主義しゅぎしゃとしての立場たちばつらぬく」とだいし、つぎのようにいた[46]

我々われわれいまって平和へいわ主義しゅぎしゃである。我々われわれマニフェスト山上さんじょうたれくんである。これは、つぎ事柄ことがら意味いみする。わたしたちが平和へいわつくっていくものであろうとこころみること、わたしたちのおおくの良心りょうしんてき兵役へいえき拒否きょひしゃたちにびかけ、軍隊ぐんたいぐん用品ようひん製造せいぞうくわわらないこと、戦費せんぴまかなうための国債こくさい購入こうにゅうしないこと、これらの努力どりょくをしようとひとたちにびかけること、である。しかし、我々われわれくちやかましくあらさがしをするような批判ひはんはしない。我々われわれはこのくにあいし、我々われわれ大統領だいとうりょうあいする。我々われわれ国家こっか世界中せかいじゅうでたったひとつ、人々ひとびと抑圧よくあつから解放かいほうしたくにである。しかし我々われわれ同時どうじに、つぎのようなさだめもはっきりかんじている。それは、平和へいわへのあい自分じぶん兄弟きょうだいたちへのあいがわ努力どりょくするさだめ、自分じぶんたちの信念しんねんしたがって生活せいかつし、そのうえでアメリカじんとしてのわくからはずれ、処刑しょけいされるさだめである。

「カトリック・ワーカー」発行はっこう部数ぶすうは、スペイン内戦ないせんちゅうんだが、75,000までがってきた。しかしこの時期じき再度さいどみをせた。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく国内こくないでは、おおくのカトリック労働ろうどう運動うんどう拠点きょてん閉鎖へいさした。これはスタッフたちが戦争せんそう加担かたんするがわにつくためはなれていったからである。さらに、ドロシーの平和へいわ主義しゅぎうったえることは、カトリック・ワーカーの関係かんけいする施設しせつでさえ制限せいげんされるようになった[47]

1949ねん1がつ13にち、カトリック教会きょうかい・ニューヨーク大司教だいしきょう管理かんりする墓地ぼちで、労働ろうどうしゃ組合くみあいがストライキをおこなった。すう週間しゅうかん、フランシス・スペルマン枢機卿すうききょうは、このストライキを中止ちゅうしさせるために、地元じもとメリノール宣教せんきょうかい神学校しんがっこう在俗ざいぞく会員かいいんたちや、自分じぶん管理かんりにある大司教だいしきょうかみ学生がくせいたちを使つかい、この墓地ぼちかれらにはかりをさせた。枢機卿すうききょうはこの組合くみあい運動うんどうを「共産きょうさん主義しゅぎしゃ感化かんかされたもの」とんだ。「カトリック・ワーカー」関係かんけい労働ろうどうしゃたちも、このストライキでピケをっており、ドロシーは枢機卿すうききょう労働ろうどうしゃたちとかれらの要求ようきゅう団結だんけつにより自分じぶんたちの権利けんり人間にんげんとしての尊厳そんげんまもることを「誤解ごかいして」いると手紙てがみつたえた。彼女かのじょは、賃金ちんぎんについての論争ろんそうを、なによりもはるかに重要じゅうようであるとかんがえた。ドロシーは、論争ろんそう解決かいけつするための第一歩だいいっぽしてほしい、と枢機卿すうききょううた。「かれらのところへき、かれらをなだめてください。偉大いだいなるものは、まずしいものより簡単かんたんに、白旗はっきげることができます。」。枢機卿すうききょう素早すばや対処たいしょし、この組合くみあい構成こうせいいんたちが大司教だいしきょう独自どくじもうであるしゅう48あいだ・6日間にちかん労働ろうどうれ、このストライキは3がつ11にちわった。ドロシーは4がつづけの「カトリック・ワーカー」つぎのようにいた。「枢機卿すうききょうは、無分別むふんべつに、まずしい労働ろうどうしゃ組合くみあいたいし、圧倒的あっとうてきちから誇示こじおこなった。すべてのあらそいのなかもっとおそろしい悪魔あくま誘惑ゆうわく聖職せいしょくしゃ一般人いっぱんじんあいだたたかいがここにある。」。すうねん、ドロシーは枢機卿すうききょう相対そうたいする立場たちばったことをつぎのように説明せつめいしている。「枢機卿すうききょうわたしたちの司祭しさい聴罪ちょうざい司祭しさいながです。ニューヨークにわたしたちすべての霊的れいてき指導しどうしゃです。しかし、主権しゅけんしゃではありません。」。1951ねん3月3にち、ニューヨーク大司教だいしきょうはドロシーに出版しゅっぱんをやめるか、またはドロシーの出版しゅっぱんするものから「カトリック」のかたりるように勧告かんこくした。ドロシーは丁重ていちょう手紙てがみき、そのなかで「カトリック退役たいえき軍人ぐんじんかい」(the Catholic War Veterans)が、ニューヨーク大司教だいしきょうから独立どくりつしたその名前なまえとそのかい独自どくじ主張しゅちょう意見いけんっているのと同様どうように、自分じぶんも「カトリック・ワーカー」発行はっこうする権利けんり主張しゅちょうした。これにたいし、大司教だいしきょうはアクションをこさず、のちにドロシーはたぶん、つかさ教区きょうく当局とうきょくはカトリック・ワーカーの構成こうせいいんたちが枢機卿すうききょうがわれるよう、徹夜てつやいのりをげるうごきにることをのぞまなかったのだろうと推測すいそくし、つぎのようにった。「我々われわれ大司教だいしきょうのいるセント・パトリックだい聖堂せいどうき、そこをくし、その外側そとがわいのりと瞑想めいそうをする準備じゅんびができていた。わたしたちは、わたしたちがかんがえていることをはなすことができ、正当せいとう行為こういだとしんずることをおこなうという、アメリカにおいてあたえられている自由じゆう権利けんり使つか準備じゅんびができていた。」[48]

彼女かのじょ自伝じでんなが孤独こどく」はクエーカー教徒きょうとのフリッツ・アイヘンバーグ(Fritz Eichenberg)による挿絵さしえきで1952ねん出版しゅっぱんされた[49]。ニューヨークタイムズはすうねんに、つぎのようにこの自伝じでんをまとめている[50]

この自伝じでんは、1人ひとり少女しょうじょちについて、まれそだったニューヨーク北部ほくぶ隣人りんじんとく不幸ふこうひととのかかわり、彼女かのじょ婦人ふじん参政さんせいけん運動うんどう社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう世界せかい産業さんぎょう労働ろうどう組合くみあい共産きょうさん主義しゅぎ、そして最後さいごはカトリック教会きょうかいへとみ、カトリック労働ろうどうしゃ運動うんどう共同きょうどう創始そうししゃとなったことを上手じょうず思慮しりょふかつたえている。

1955ねん6月15にち、ドロシーはその予定よていされていた市民しみん防衛ぼうえい訓練くんれんへの参加さんか拒否きょひをする平和へいわ主義しゅぎしゃのグループにくわわった。かれらの何人なんにんかは、自分じぶんたちが起訴きそされた法律ほうりつ合憲ごうけんせいについて異議いぎとなえたが、ドロシーとその6めい自分じぶんたちが拒否きょひ運動うんどうをしたのは、社会しゃかい主義しゅぎてき方向ほうこうせいからではなく、哲学てつがくひとつからである、という立場たちばった。ドロシーは、自分じぶんおこなったのは アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくはじめて原子げんしばくだん使用しようしたことへの「公的こうてき制裁せいさい」であると発言はつげんした。かれらは1955ねん9がつ28にち自分じぶんたちのつみみとめたが、裁判官さいばんかんかれらが「わたしはひとりも殉教者じゅんきょうしゃしていない」とったことについて、それを有罪ゆうざいとすることは拒否きょひした[51]。ドロシーはつぎとしから年間ねんかんわたり、毎年まいとしこれとおなじことをおこなった。1958ねんにはシェルターにはいわりにアメリカ原子力げんしりょく委員いいんかいまえでピケを集団しゅうだんくわわった[52]すうねんにこれらの判決はんけつ保留ほりゅうとなったが、ドロシーが30にち拘留こうりゅうとなったものがひとつある[53]

ドロシーは、菜食さいしょく主義しゅぎしゃとして平和へいわ主義しゅぎ運動うんどうおこなデイビット・デリンジャーアブラハム・ジョハネス・マスティー英語えいごばん(Abraham Johannes Muste)の2人ふたり一緒いっしょに、『リベレーション英語えいごばん』(Liberation:解放かいほう)という雑誌ざっし創刊そうかん支援しえんした[54]

1960ねん、ドロシーはフィデル・カストロによる「社会しゃかい主義しゅぎてき判断はんだん約束やくそく」(promise of social justice)を称賛しょうさんし、つぎのようにかたった。「はげしい反乱はんらんこすことは、貧困ひんこんあえいでいるものたちにたいしてなにもしないよりもずっとい。」[55]数ヵ月すうかげつ、ドロシーはキューバまで旅行りょこうし、カトリック・ワーカーにおいて4シリーズにわたって旅行りょこうせた。その最初さいしょ記事きじではつぎのようにいている。「わたしもっと興味きょうみったのは、人々ひとびと宗教しゅうきょう生活せいかつ、そしてそこが宗教しゅうきょう根絶こんぜつさせるような体制たいせいにはけっしていないことだ。その一方いっぽうで、この体制たいせい人々ひとびと生活せいかつのために努力どりょくする方向ほうこういていないなら、(かみ慈悲じひもとづくことできずくことができる)生活せいかつもとめるものたちは、自然しぜんと、そのられる処置しょち賛成さんせいしないわけにはいかない。」[56]

ドロシーは だい2バチカンこう会議かいぎ が、カトリック生活せいかつ基本きほんてき信条しんじょうとして暴力ぼうりょく支持しじし、戦争せんそう核兵器かくへいき使用しようすることと、「恐怖きょうふ均衡きんこう確立かくりつすることで、抑止よくしりょくとして使用しようされる武器ぶき」、について非難ひなんすることをのぞんだ[57]。ドロシーはローマ教皇きょうこうちょう出向でむ司教しきょうたちにロビー活動かつどうおこない、女性じょせいたちと10日間にちかん断食だんじきおこなった[58]

ドロシーはだい2バチカンこう会議かいぎが「現代げんだい世界せかい憲章けんしょう」(1965ねん)の「現代げんだいにおける教会きょうかい」のなかでの声明せいめいで、かく戦争せんそうがカトリック教会きょうかい伝統でんとうてきせいせんろんとは相入あいいれないとしたことによろこびのこえせた。「あらゆる都市とし、または広大こうだい範囲はんい居住きょじゅう地域ちいき無差別むさべつ破壊はかいする方向ほうこうかう戦争せんそううごきはそれぞれ、かみ人間にんげんたいする犯罪はんざいである。そして、これは明確めいかく非難ひなんあたいする。」[59]。ドロシーがカトリック労働ろうどうしゃ運動うんどう評価ひょうかした書籍しょせき「パンとさかな(現代げんだいてき利得りとく)」(Loaves and Fishes)が1963ねん出版しゅっぱんされた。ドロシーは60年代ねんだいはん体制たいせい文化ぶんかについて、そのはん体制たいせいというてんでは共鳴きょうめいしていたものの、それとは微妙びみょうことなるかんがかたをしていた。

アビー・ホフマン彼女かのじょヒッピー原型げんけいだと彼女かのじょったときにはそのはん体制たいせい文化ぶんか面白おもしろいとおもい、ドロシーが実利じつり主義しゅぎから関心かんしんでいることへの言葉ことばだとおもってれた[8]。しかしそれとどう時期じきにドロシーは自分じぶん自身じしんをヒッピーだと名乗なのおおくの人々ひとびとみとめなかった。ドロシーはミネソタしゅうででくわしたすうにんについてつぎのようにえがいている。「あのひとたちは17さいか18さいわかさで結婚けっこんしている。そして自分じぶんたち自身じしんふたた開拓かいたくしゃとなるために、カナダとの国境こっきょうちかくのもりまでき、いえてる。」。しかしドロシーは、このヒッピーたちのなかに「くるしみをらずにいる」人々ひとびと主義しゅぎたずにきるという、中流ちゅうりゅう富裕ふゆうそう我儘わがままさを見出みいだしていた。ドロシーはベトナムからの帰還きかんへいたちがどんなにこのヒッピーたちをころしてやりたいとおもっただろう、と想像そうぞうしながらも、この「フラワーピープル」があたいしたものは、「いのりとつぐない」だとかんがえた[60]。ドロシーは、影響えいきょうりょくった指導しどうしゃとして努力どりょくした。しかしそれは、カトリック・ワーカー・ハウスにたいする直接的ちょくせつてき権限けんげんったものではなかった。それはドロシーが定期ていきてき訪問ほうもんしたティヴォリ(Tivoli)のカトリック・ワーカー農場のうじょう例外れいがいではない。ドロシーは自分じぶんのフラストレーションを自分じぶん日記にっきつぎのようにいている。「たとえば、マリファナだとか、性的せいてき混乱こんらん社会しゃかいてきざいなどをめるちからがない。」[61]

1966ねんのクリスマスに、ニューヨーク大司教だいしきょうのスペルマン枢機卿すうききょうがベトナムの合衆国がっしゅうこくぐん訪問ほうもんした。つたえるところによると、その枢機卿すうききょうは「ベトナムにおけるこのたたかいは民主みんしゅのためのものである。」とった。1967ねん1がつの「カトリック・ワーカー」特集とくしゅう記事きじで、ドロシーはこのことにかんする直接ちょくせつ批判ひはんけたものの、どう枢機卿すうききょう訪問ほうもんした戦地せんち一覧いちらん作成さくせいして掲載けいさいした。「これはまさにベトナムではなく、これはみなみアフリカ、これはナイジェリア、コンゴー、インドネシア、ラテンアメリカ諸国しょこくすべて、訪問ほうもんしたことは、”勇敢ゆうかん行為こうい”である。」「しかしながら、ああかみよ、これらのアメリカじんたちはすべて、自分じぶんたちのくにからうみへだてた世界中せかいじゅうで、いったいなにをしているのでしょうか。」[62]

1970ねん、アメリカがベトナム戦争せんそう参入さんにゅうしたそのピークに、ドロシーはホーチミンが「洞察どうさつりょくのあるひと愛国あいこくしゃ、そして、親戚しんせき一緒いっしょあつまって、宗教しゅうきょうてき政治せいじてきことなるいたみよりも、むしろ可能かのうであるならば、合意ごうい一致いっち段階だんかいつけようとかたらっているあいだ侵入しんにゅうしてきた外国がいこくじんたいして反抗はんこうしたひと」としてえがいた[63]

受賞じゅしょうれき

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発言はつげんしゅう

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  • 「おかねをやたら投資とうししないでーまずしいひとたちにするのはべつだけど。そこではあなたかたは、きっとその見返みかえりを期待きたいできるはずだから。」
  • わたし簡単かんたん聖人せいじんなどとんでしくないの。そんなに容易たやすひと片付かたづけてしくないから。」
  • 「(教会きょうかいなかで)もし自分じぶんのコートをいで、それをまずしいひとにあげるひとたとしても、わたし銀行ぎんこう小切手こぎってをもっていて、盲目もうもくよわっていて、からだ障害しょうがいのあるひとたことがない。」
  • わたしたちはみんなひさしく孤独こどくというものをっている。その唯一ゆいいつ解決かいけつあいだということ、そしてそれがひとひととのつながりからやってくるということもまなんだはずだ。」

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Coles, Robert (1987). Dorothy Day: A Radical Devotion. Reading, MA: Addison-Wesley 
  2. ^ Miller, William D. (1982). Dorothy Day: A Biography. NY: Harper & Row. pp. 1–7 
  3. ^ Miller, William D. (1982). Dorothy Day: A Biography. NY: Harper & Row. pp. 9–10, 13–4 
  4. ^ Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 14–5 
  5. ^ Miller, William D. (1982). Dorothy Day: A Biography. NY: Harper & Row. pp. 27–8 
  6. ^ Day, Dorothy (1981). The Long Loneliness: the autobiography of Dorothy Day. San Francisco: Harper & Row. pp. 43 
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  16. ^ Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 44–7 
  17. ^ Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 56–7  Tobey later founded the Literary Guild
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  19. ^ Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 65–6 
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  23. ^ A Russian neighbor's sister had named her daughter Tamar, and Day was impressed by St.Teresa of Avila, whose biography she had recently read. Miller, William D. (1982). Dorothy Day: A Biography. NY: Harper & Row. p. 184 
  24. ^ Forest, Jim (2011). All is Grace: A Biography of Dorothy Day. Maryknoll, NY: Orbis Books. pp. 90–95 
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  42. ^ [1]せいベネディクト女子じょし修道院しゅうどういんサイト:オブレートについて」オブレートとは、ベネディクトかい世俗せぞく会員かいいん意味いみする。
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外部がいぶリンク

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