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ナンシーせき

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ナンシー せき

ナンシーせき
生誕せいたん (1962-07-07) 1962ねん7がつ7にち
日本の旗 日本にっぽん 青森あおもりけん青森あおもり
死没しぼつ (2002-06-12) 2002ねん6月12にち(39さいぼつ
日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう目黒めぐろ
出身しゅっしんこう 法政大学ほうせいだいがく文学部ぶんがくぶだいよるあいだ中退ちゅうたい
職業しょくぎょう 版画はんが、コラムニスト
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ナンシーせき(ナンシーせき、本名ほんみょうせき 直美なおみ(せき なおみ)、女性じょせい1962ねん7がつ7にち - 2002ねん6月12にち)は、日本にっぽん版画はんがコラムニストである。青森あおもりけん青森あおもりまれ。法政大学ほうせいだいがく文学部ぶんがくぶだいよるあいだ中退ちゅうたい

独特どくとく観察かんさつによる「テレビ批評ひひょう」とその挿絵さしえれた著名ちょめいじん似顔絵にがおえしゴム版画はんが」で社会しゃかいそのものを批評ひひょうしていた[1]世界せかいはつしゴム版画はんがである[2]

経歴けいれき

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1962ねん青森あおもりけん青森あおもりさんにんきょうだいの長女ちょうじょとしてまれた。2さいいもうとと7さいおとうとがおり、父親ちちおや同郷どうきょうのプロボクサーのレパードだまぐま後援こうえんかい会長かいちょうつとめていた。言葉ことばはやく、2-3さいのころには一人ひとり絵本えほんんでいた[3]。1969ねん青森あおもり市立しりつつつみ小学校しょうがっこう入学にゅうがく同級生どうきゅうせいによれば性格せいかく生徒せいとより大人おとなびて冷静れいせいだったという。手先てさき器用きようで、パラパラマンガをえがいたり、いたずらとしてクラスメイトのしゴムに文字もじるなどしていた。小学校しょうがっこう入学にゅうがくからきゅうふとはじめたため、心配しんぱいした両親りょうしん病院びょういん受診じゅしんさせたが、結果けっかは「異常いじょうなし」だった[4]当時とうじ青森あおもりには民放みんぽうが2きょくしかなく、のちにテレビについてはめぐまれない幼少ようしょうおくってきたと述懐じゅっかいしている[5]小学生しょうがくせい時代じだいは「8だョ!全員ぜんいん集合しゅうごう」のザ・ドリフターズとアイドルのごうひろみ熱心ねっしんなファンであった。

小学校しょうがっこう卒業そつぎょうは、青森あおもり市立しりつうらまち中学校ちゅうがっこうて、カトリックけいミッションスクールの青森あおもりあかりほし高等こうとう学校がっこう進学しんがくした。このころ、『ビックリハウス』『宝島たからじま』『STUDIO VOICE』などサブカルチャーけい雑誌ざっしあさり、YMOムーンライダーズのファンとなった。図工ずこう美術びじゅつ成績せいせき小学生しょうがくせい時代じだいから優秀ゆうしゅう(ほとんど5)で、クロッキーデッサン得意とくいとしていた。クラスで1週間しゅうかんほどしゴム版画はんが流行はやったことがあったが、ナンシーのったゴダイゴツイストのバンドロゴは抜群ばつぐんにうまく、クラスメイトたちから注文ちゅうもん殺到さっとうした[6]。また、クラスメイトと芸能げいのう新聞しんぶんのようなものを発行はっこうしたこともある。『ところジョージのオールナイトニッポン』や『ビックリハウス』に投稿とうこうをはじめ、『オールナイトニッポン』でハガキがまれた翌日よくじつ拍手はくしゅ喝采かっさい教室きょうしつむかえられた[7]根拠こんきょながらも将来しょうらい東京とうきょうることを確信かくしんしていたが、それを「あこがれ」という言葉ことば認識にんしきすること・されることに抵抗ていこうがあったという[8]

上京じょうきょう、「ナンシーせき」デビュー

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高校こうこう卒業そつぎょう上京じょうきょうすると高田馬場たかだのばば早稲田わせだ予備校よびこうかよ浪人ろうにん生活せいかつはじめた。高校こうこう3ねん正月しょうがつはじまったラジオ番組ばんぐみビートたけしのオールナイトニッポン』に傾倒けいとうし、放送ほうそうがある木曜もくようよるはなるべくかけず、放送ほうそう開始かいしとともにラジカセの録音ろくおんボタンをし、CMをとばしてカセットテープに録音ろくおんしたものを、次週じしゅう放送ほうそうまで7-8かいかえしていていた[9]。この番組ばんぐみにもハガキを投稿とうこう番組ばんぐみコーナーで採用さいようされている。ナンシーの旧友きゅうゆうは、彼女かのじょにとってたけしのラジオは宗教しゅうきょうちかかったと証言しょうげんしている[10]

1982ねん法政大学ほうせいだいがくだい文学部ぶんがくぶ日本にっぽん文学ぶんがく入学にゅうがく同年どうねん11がつには広告こうこく批評ひひょう主宰しゅさいの「広告こうこく学校がっこう」にも入学にゅうがくしたが、大学だいがくにはほとんどかず、広告こうこく学校がっこう仕事しごと紹介しょうかいしてくれるわけでないとってかよわなくなり、おやからの仕送しおくりとけい作業さぎょうのバイトだい毎日まいにち漫然まんぜんとテレビをてすごした[11]翌年よくねんいもうと進学しんがくのため上京じょうきょう、95ねんまで同居どうきょした。このころ、ひまつぶしにもの粘土ねんど細工ざいくつくり、高校こうこう時代じだい流行はやったしゴム版画はんがふたたはじめた。モチーフはカネテツのテッちゃんやはなとう小説しょうせつ「あかんたれ せいほね」の丁稚でっち少年しょうねんであり、丁稚でっち版画はんがは10種類しゅるいづくりそれぞれ「たたきあげ」「おでかけ」などの文字もじれた。しゴム版画はんが人物じんぶつにキャプションをえる特徴とくちょうてきなスタイルはこのころすでにあった[12]広告こうこく学校がっこうった友人ゆうじんえのきどいちろうつま)の手帳てちょうしたところ、えのきどのまり、ライター事務所じむしょ「シュワッチ」にせきくこととなった。えのきどは、ナンシーを『ホットドッグ・プレス』の新人しんじん編集へんしゅうしゃいとうせいこう紹介しょうかいするとともに、ペンネームの命名めいめい依頼いらいした。いとうは当時とうじイラストレーターに「ペーター佐藤さとう」「スージーあまきん」のようなふざけた名前なまえ流行はやっていたのにならって本名ほんみょうせき直美なおみにちなみ、そののノリで「ナンシーせき」と命名めいめいした[13]

ナンシーせきとしてのデビューさくは1985ねん3がつ10にちごうの『ホットドッグ・プレス』の萩原はぎはら健太けんたのコラムにったしゴム版画はんがであった[14]。その同誌どうしのコラムや連載れんさい読者どくしゃ投稿とうこうらんのイラストをしゴム版画はんが担当たんとうした。ナンシーは依頼いらいされた仕事しごとすべ編集へんしゅうなかおこなった。当時とうじのライターはみな編集へんしゅうかよって執筆しっぴつおこなっていたが、イラストレーターとしては異例いれいであった[15]。1ねん、1986ねん6がつ25にちごうから芸能人げいのうじんかんするコラム「対岸たいがんをつけろ」を連載れんさい。これがナンシーにとってはじめての文章ぶんしょう仕事しごとだった[16]。ペラ(200字詰じづ原稿げんこう用紙ようし)3まいほどの分量ぶんりょうだったが、かたがわからず改行かいぎょうなしでいてしまったという[17]

1986ねん1がつから『ミュージック・マガジン』のえのきどいちろうのコラムでイラストを担当たんとうした[18]。さらに1988ねん1がつごうからは3年間ねんかん表紙ひょうしイラストをがけ、ミック・ジャガージェームス・ブラウンU2などの外国がいこくじんミュージシャンをった[19]同年どうねん、『月刊げっかんカドカワ』6がつごうから1ページコラム「テレビ目抜めぬどおり」を連載れんさいし、テレビにかんするコラムとしゴム版画はんがというわせがここであらわれる[20]。1989ねんに「シュワッチ」から独立どくりつ、CM関係かんけいなど一部いちぶ業務ぎょうむだけいとうせいこうがつくった「エムパイヤ・スネーク・ビルディング」にあづけた。

人気にんきコラムニストに

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1990ねん、『うわさ眞相しんそう』5がつごうからテレビコラムの連載れんさい開始かいしした。コラムは「ナンシーせきのチャンネルオフ」「迷宮めいきゅう花園はなぞの」とタイトルを変更へんこう、1993ねん4がつから「顔面がんめん至上しじょう主義しゅぎ」としてくなるまで連載れんさいした[21]

1991ねん7がつ最初さいしょ単行本たんこうぼんである『ナンシーせき顔面がんめん手帖てちょう』を出版しゅっぱんした。当初とうしょシンコーミュージック編集へんしゅうしゃ君塚きみづかふとし)が、川勝かわかつ正幸まさゆき高橋たかはし洋二ようじ、ナンシーせき共著きょうちょとして企画きかくしたが、3にんとも遅筆ちひつであったため、ナンシーのたんちょ変更へんこう。1ねんはん以上いじょうかけて69にん人物じんぶつひょうしゴム版画はんが原稿げんこうろした[22]。ナンシーが青森あおもり帰省きせいしたさい顔面がんめん手帖てちょう』をんだ彼女かのじょ両親りょうしんは「こんなひとさまの悪口わるぐちいて抗議こうぎされたりされたりしたら大変たいへん。やめてしい」と本気ほんき心配しんぱいした。以後いご、ナンシーは自分じぶん仕事しごとについて両親りょうしんはなすことはなかった[23]

1991ねん12月からは『スタジオ・ボイス』で「ナンシーせき信仰しんこう現場げんば」を連載れんさい矢沢やざわ永吉えいきちのコンサート、キックボクシング会場かいじょう公団こうだん建売たてうり抽選ちゅうせんなどを取材しゅざいしたはじめてのノンフィクション作品さくひんだったが、原稿げんこうりょう滞納たいのう理由りゆうに13かいりとなった。1993ねん、『野性やせい時代じだい』で連載れんさい再開さいかいし、翌年よくねん7がつには『信仰しんこう現場げんば すっとこどっこいにヨロシク』として刊行かんこうされた[24]毎回まいかい原稿げんこう用紙ようし8ページという分量ぶんりょう彼女かのじょにとってきびしく[25]、また視力しりょくわるかったため[ちゅう 1]自分じぶん取材しゅざい下手へただとおもったという[27]

1992ねん世界文化社せかいぶんかしゃから編集へんしゅうしゃ桒田義秀よしひでにより、これまでさまざまな雑誌ざっしいた原稿げんこうをまとめた『何様なにさまのつもり』が刊行かんこうされた。そのなにシリーズ」としてナンシーの生前せいぜん10さつ出版しゅっぱんされ、合計ごうけい部数ぶすうは30まんえた[28]

1993ねん1がつからは週刊しゅうかん朝日あさひで「小耳こみみにはさもう」の連載れんさいはじめた。これはふく編集へんしゅうちょう同誌どうし連載れんさいしていた松尾まつお貴史たかしからナンシーせき名前なまえき、『うわさ眞相しんそう』の連載れんさい依頼いらいしたものであった。わせてやまふじ章二しょうじからも「あのはよい」と推薦すいせんけた[ちゅう 2]最初さいしょわせは荻窪おぎくぼのレストランに自転車じてんしゃあらわれた。企画きかく、コンセプトからタイトルまでテキパキかた実際じっさい作風さくふうとはまったことなり、はなかたきわめて素朴そぼくでほんわかとしていた。同年どうねん週刊文春しゅうかんぶんしゅん10月21にちごうから「ナンシーせきのテレビ消灯しょうとう時間じかん」を連載れんさい。この2つの連載れんさいでナンシーせき全国ぜんこくられるようになる[30]

1994ねん、『CREA』5がつごうダウンタウン松本まつもと人志ひとし対談たいだん。このなか松本まつもとが「こんわらいの批評ひひょうができるのはナンシーさんとみうらじゅんだけ」と発言はつげんした[31]放送ほうそう作家さっか高橋たかはし洋二ようじによれば、これをきっかけにテレビ出演しゅつえんしゃあいだでもナンシーを支持しじするこええたという[32]

突然とつぜん

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1995ねんなつ祐天寺ゆうてんじにマンションを購入こうにゅうし、一人暮ひとりぐらしをはじめた。しかし、締切しめきりわれ、1にちに20-30ほんショートピース[33]、ストレスをいで発散はっさんする生活せいかつ彼女かのじょ健康けんこうむしばんだ。90年代ねんだいなかばごろからすこあるくだけで息切いきぎれするようになり、体型たいけいわかいころよりおおきくなっていた[ちゅう 3]いとうせいこうはナンシーがくなるすうねんまえからさけやタバコをひかえるように忠告ちゅうこくしていた[34]大月おおつきたかしひろし健康けんこう診断しんだんすすめたが[35]生活せいかつ態度たいどあらためることも、人間にんげんドックにはいることもなかった[36]

2002ねん6がつ11にちよる友人ゆうじん中目黒なかめぐろ飲食いんしょくてん新作しんさく餃子ぎょうざべたあと、10ごろ一人ひとりでタクシーにり、祐天寺ゆうてんじのマンションに帰宅きたくする途中とちゅう意識いしきうしなった。タクシーの運転うんてんしゅ駅前えきまえ交番こうばん通報つうほうし、救急きゅうきゅうしゃ東京とうきょう医療いりょうセンター搬送はんそうされたが、12にち午前ごぜん047ふん死去しきょ行政ぎょうせい解剖かいぼう結果けっか死因しいんきょせい心不全しんふぜん判明はんめいした。搬送はんそうされたさい救急きゅうきゅう関係かんけいしゃ彼女かのじょ携帯けいたい電話でんわおな名字みょうじひと家族かぞくではないかと電話でんわをかけたがそれはおな名字みょうじせきさとしであった。せき彼女かのじょ実家じっからなかったため、インターネットができる友人ゆうじんたよってやっと彼女かのじょ実家じっかのガラスてん電話でんわ番号ばんごうさが連絡れんらくをすることができた。[よう出典しゅってん] 16にち、ナンシーの実家じっかちかくの寺院じいんおこなわれた葬儀そうぎは、黒柳くろやなぎ徹子てつこビートたけし坂本さかもと龍一りゅういち宮部みやべみゆきなどの著名ちょめいじんをはじめかぞえきれないほどのとむらいはなならぶ、盛大せいだいなものだった。遺骨いこつ関家せきや菩提寺ぼだいじであるゆめたくてらはかおさめられた[37]

年譜ねんぷ

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人物じんぶつ

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一人暮ひとりぐらしのマンションには、4・5だいビデオデッキそなえ、テレビを観察かんさつつづけていた。「あさは8ごろにき、よる午前ごぜん1ごろ就寝しゅうしんする」というライフスタイルだったという。

だいカラオケき。元々もともとカラオケでうたうことにはずかしさをかんじていたが、1992ねんから「せきったように」し、頻繁ひんぱん仲間なかまとのかいけんカラオケパーティをひらいた[40]。2・3あいだうたうのはザラで、よる10からあさ5までうたつづけたこともあるという。声量せいりょうもあった。得意とくいとしたのは北原きたはらミレイの『石狩いしかり挽歌ばんか[41]内藤ないとうやすの『おもぼろぼろ』、ちあきなおみの『X+Y=LOVE[42]歌謡かようきょくから矢沢やざわ永吉えいきちヴィジュアルけいアニソンまで幅広はばひろうたいこなした。

高校こうこう時代じだいからムーンライダーズだいファン。直接ちょくせつサインをもらった有名人ゆうめいじんで、とく緊張きんちょうしたのは鈴木すずき慶一けいいちチャー、デビューまえ浜崎はまざき貴司たかし(FLYING KIDS)[43]ジャニス・ジョプリンきと周囲しゅういはなしていた。バンド「小島こじま」もひいきにしていた。また、リリー・フランキーとは松田まつだ優作ゆうさくの『ヨコハマ・ホンキー・トンク・ブルース』のはなしがったこともある。

ライター事務所じむしょ「シュワッチ」在籍ざいせき社長しゃちょうのイタバシマサヒロにさそわれ、GSコピーバンド「シュワッチャーズ」を結成けっせいベース担当たんとう[44]商店しょうてんがいなつまつりや知人ちじん結婚式けっこんしきなどで4かいのライブをおこなった[45]

  • プロレス格闘技かくとうぎきでたびたび会場かいじょうあしはこんだ。プロレス専門せんもんかみのプロレス』で「ナンシーせきしゴム爆破ばくはデスマッチ」というコラムを連載れんさいしていたこともある[46]

1999ねんヒクソン・グレイシー高田たかだのべを2にわたってやぶったころかれ心酔しんすいするあまり、泥酔でいすいして「ヒクソンのよめになりてえ」とさけんだという。しかし高田たかだ参院さんいんせん出馬しゅつばしたり、K-1がリングサイドに芸能人げいのうじんならべたりすることにはいきどおっていた[47]

りのみせ中目黒なかめぐろの「ビッグママ」[48]、おりの焼酎しょうちゅうは「ひゃくねん孤独こどく」。いつもカウンターのすみすわり、シャイでかわいらしく、ときおりボソッとつぶやいていた。くなる1週間しゅうかんほどまえみせおとずれたときはママと海外かいがい旅行りょこうはなしになり、ふゆきん韓国かんこく二人ふたり約束やくそくをしたが実現じつげんしなかった[49]

エピソード

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しゴム版画はんがとして

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  • 自筆じひつコラムの挿絵さしえとして(または筆者ひっしゃ挿絵さしえ担当たんとうとして)、テーマとなる著名ちょめいじん似顔絵にがおえしゴム版画はんが製作せいさくした。シンプルでありながら特徴とくちょうつかんだ素朴そぼく絵柄えがらと、どのようなペンともことなる新鮮しんせんなタッチ、著名ちょめいじん一言ひとこと表現ひょうげんするキャプションが独特どくとくであった。作成さくせいしたしゴム版画はんがは5000以上いじょうにのぼる。
  • デビュー当時とうじ版画はんがもちいたのはステッドラーの38ミリ×76ミリの一番いちばんおおきいサイズのしゴム[50]。のちに文房具ぶんぼうぐメーカーのヒノデワシからしゴム提供ていきょうもうがあり、関本せきもとじん監修かんしゅうのもと開発かいはつされた版画はんが専用せんようしゴムを使用しようするようになった。このしゴムは1995ねん「はんけしくん」の発売はつばいされている[51]。そのもヒノデワシはナンシーに「はんけしくん」を無償むしょう提供ていきょうつづけた[52]
  • カッターはNTカッターD-400[53]使用しようしていたことのこと[2]
  • 1996ねん掲載けいさいされた「週刊文春しゅうかんぶんしゅん」での対談たいだんで、これまででもっともたくさんった人物じんぶつ内藤ないとうひねであることをかした。2008ねんの『タモリ倶楽部くらぶ』(テレビ朝日てれびあさひ)での安斎あんざいはじめ発言はつげんによると1内藤ないとうひね、2タモリ、3もたいまさこになる。

コラムニストとして

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  • テレビ番組ばんぐみをはじめとする様々さまざま媒体ばいたいにおける芸能人げいのうじん有名人ゆうめいじん発言はつげん態度たいど自身じしんのコラムの題材だいざいとした。シニカル軽妙けいみょうかたくちかれる辛辣しんらつかつ愛情あいじょうちた芸能げいのうかいへの視点してんにはファンもおおく、業界ぎょうかい関係かんけいしゃにも生前せいぜんからたか評価ひょうかされていた。その早世そうせいしむこえおおく、死後しごもなお「ナンシーせききていればなんうだろうか?」と、後継こうけいしゃ不在ふざいなげ風潮ふうちょうがある[54]
  • 1987ねん創刊そうかんのテレビ雑誌ざっしテレビブロス」の初期しょきには、かくぺーじ欄外らんがい芸能人げいのうじんへのツッコミてき内容ないようのミニコラム「ブロス探偵たんていだん」があったが、せき署名しょめいでそのすべてを担当たんとうしていた。
  • 週刊しゅうかん朝日あさひ小耳こみみにはさもう」のだい1かいのテーマは花田はなた光司こうじ最終さいしゅうかいつじ仁成ひとなり結果けっかてきあしかけ10ねん462かい長期ちょうき連載れんさいとなった。
  • ナンシーの遅筆ちひつ担当たんとう編集へんしゅうしゃあいだ有名ゆうめいだった[55]週刊しゅうかん連載れんさいではしめきり当日とうじつまでネタがまらず担当たんとう編集へんしゅうしゃ電話でんわをして一緒いっしょにネタをめることもあり、原稿げんこうおくりバイク便びんでイラストをおくるというギリギリの進行しんこうだった[56]が、それでも休載きゅうさいいちもなく、しつまったちなかったという。
  • フジテレビの深夜しんや番組ばんぐみ殿様とのさまのフェロモン』の放送ほうそうちゅうにナンシー本人ほんにん電話でんわつなぎ、批判ひはん対象たいしょうであった中山なかやま秀征ひでゆき直接ちょくせつ対決たいけつする出来事できごとがあった。
  • 1995ねんうわさ真相しんそう掲載けいさいされたコラムないで「10ねん、ヤワラちゃん(田村たむら亮子あきこ現在げんざいたに亮子あきこ)は選挙せんきょているとおもう」と予想よそうしていたが、たに2010ねんだい22かい参議院さんぎいん議員ぎいん通常つうじょう選挙せんきょ民主党みんしゅとうから出馬しゅつばしたことで、15ねんしで予想よそうたったこととなる。
  • さる岩石がんせき時代じだいつちかったこう青年せいねんのイメージがつよかった有吉ありよし弘行ひろゆきリングのたましい柔道じゅうどう企画きかくせたふてぶてしい態度たいどについて、「性格せいかくた」と看破かんぱしている。また、島田しまだ紳助しんすけについて1990ねん時点じてんで「『素敵すてきなことやないか』『一緒いっしょにやりましょうや』といったような感動かんどうてきなフレーズを連発れんぱつする。あやしい」などとひょうしていた[57]
  • 1993ねん10月から週刊文春しゅうかんぶんしゅんでも「テレビ消灯しょうとう時間じかん」の連載れんさいがスタートする。せきおな週刊しゅうかん連載れんさいということで「小耳こみみにはさもう」の担当たんとう編集へんしゅうしゃ相談そうだんした。「べつにいいけどはうちよりちいさくしてくれ」という返答へんとうたいして、せき律儀りちぎにこの約束やくそくまもったという。
  • 麻原あさはら彰晃しょうこうこえバカボンのパパのこえひと雨森あめのもり雅司まさし)にえてもらいたいとセリフを指定していしてコラムをいたことがある。
  • だい番組ばんぐみウォッチャー」としてもられ、「だれってもうらやましくない。それがだいいの魅力みりょくだ」「赤阪あかさか尊子たかこているともうこわれている。しかし小林こばやしたかし健康けんこうえる。あたらしい時代じだいがくるんじゃないか」と論評ろんぴょうした[58]。ちなみにナンシーがもっとたか評価ひょうかしただい戦士せんしは、日曜にちようビッグスペシャルだい2かい全国ぜんこくだい選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうしゃほうくえ保弘やすひろである[59]

論争ろんそう

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1993ねん2がつ2にちづけ毎日新聞まいにちしんぶんにナンシーの「母子ぼしぞう自己じこ陶酔とうすいはイヤらしい」とだいしたコラムが掲載けいさいされた。これは作家さっか島田しまだ雅彦まさひこ担当たんとうした「瞠目どうもく新聞しんぶん」という連載れんさい企画きかくで、島田しまだ指名しめいしたライターに「おだい」に沿っていてもらうもの。「子育こそだて」のおだいたいしナンシーはベビーカー母親ははおやりあげ「絶対ぜったいてき正義せいぎ確信かくしんしている」「無防備むぼうび自己じこ陶酔とうすい」と批判ひはん、これに抗議こうぎ投書とうしょ殺到さっとうした。この原稿げんこうはナンシーの意向いこう著作ちょさく収録しゅうろくされていないが、連載れんさいをまとめた島田しまだ雅彦まさひこちょ瞠目どうもく新聞しんぶん』(毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ、1994ねんISBN 9784620310084)にはコラム、批判ひはん投書とうしょ、それにたいするナンシーの反論はんろんわたし意見いけん極論きょくろんか」も収録しゅうろくされている[60]

週刊しゅうかん朝日あさひ1994ねん3がつ25にちごう連載れんさいでナンシーはどうしてデーブ・スペクターきらいなのかというコラムをく。これをけてデーブは週刊文春しゅうかんぶんしゅん3がつ31にちごう連載れんさいで「復讐ふくしゅうあじあまいから、ふとるよ」とだいして「とんでもない○○のくせに!とののしってやろうとしたら周囲しゅういからめられてしまった」と伏字ふせじでナンシーの体型たいけい揶揄やゆ。ナンシーは週刊しゅうかん朝日あさひ4がつ8にちごうで「わたし昨日きのう今日きょうきゅうふとったワケでもないし。ま、ちゃんとんでからおこることだ」とかえした[61]

評価ひょうか

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中川なかがわあつし一郎いちろうは「ナンシーせき記事きじひとえら過激かげきなものであったため、もしいま(2009ねん時点じてん)ナンシーがきていてブロガーになったら度々たびたび炎上えんじょうして大成たいせいしなかったであろう」という趣旨しゅし評価ひょうかをしている[62]

テレビ出演しゅつえん

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生前せいぜん、いくつかのテレビ番組ばんぐみ出演しゅつえんしているが、自分じぶんのイメージをコントロールできないという理由りゆうで1993ねん最後さいご出演しゅつえんしていない[63]

ナンシーせきえんじた女優じょゆう

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著書ちょしょ

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なに」シリーズ

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ぜん10さつ単行本たんこうぼん世界文化社せかいぶんかしゃ文庫ぶんこ角川かどかわ文庫ぶんこ

みみ」シリーズ

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週刊しゅうかん朝日あさひでの連載れんさいをまとめたもの。単行本たんこうぼん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ文庫ぶんこ朝日あさひ文庫ぶんこ

「テレビ消灯しょうとう時間じかん」シリーズ

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週刊文春しゅうかんぶんしゅんでの連載れんさいをまとめたもの。単行本たんこうぼん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう文庫ぶんこ文春ぶんしゅん文庫ぶんこ

  • 『テレビ消灯しょうとう時間じかん1』1997ねん ISBN 4-16-762202-5
  • 『テレビ消灯しょうとう時間じかん2』1998ねん ISBN 4-16-762203-3
  • 『テレビ消灯しょうとう時間じかん3 あいだ通用つうようこう』1999ねん ISBN 4-16-762205-X
  • 『テレビ消灯しょうとう時間じかん4 冷暗所れいあんしょ保管ほかん』2000ねん ISBN 4-16-762207-6
  • 『テレビ消灯しょうとう時間じかん5 雨天うてん順延じゅんえん』2001ねん ISBN 4-16-762208-4
  • 『テレビ消灯しょうとう時間じかん6 天地無用てんちむよう』2002ねん ISBN 4-16-762209-2

対談たいだんしゅう

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しゴムばん画集がしゅう

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  • 『ナンシーせき顔面がんめん手帖てちょう』1991ねん シンコー・ミュージック のち角川かどかわ文庫ぶんこ
  • 『ナンシーせき顔面がんめん手帖てちょう 1994 なつ』1994ねん シンコー・ミュージック
  • 『ナンシーせきやく百面相ひゃくめんそう』1994ねん リブロポート、2003ねん 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ ISBN 4-309-61301-2 ※ポストカードしゅう
  • 『ナンシーせきのシールブック』2001ねん アスペクト ISBN 4-7572-0792-1
  • 『ナンシーせきのすっとこじんめい辞典じてん』2002ねん 飛鳥新社あすかしんしゃ
  • 『ナンシーせきしゴム版画はんが』2003ねん メディアファクトリー ISBN 4-8401-0868-4
  • 『ナンシーせきぜんハンコ5147』 2008ねん アスペクト ISBN 978-4757215054
  • 『ナンシーせき 原寸げんすんだいなまハンコしゅう』2015ねん ワニブックス

その単行本たんこうぼん

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  • 信仰しんこう現場げんば すっとこどっこいにヨロシク』1994ねん 角川書店かどかわしょてん のち角川かどかわ文庫ぶんこ ISBN 4-04-198603-6
  • 『ナンシーせき記憶きおくスケッチアカデミー』2000ねん カタログハウス のち角川かどかわ文庫ぶんこ ISBN 4-905943-46-9
  • 『ナンシーせきのボン研究所けんきゅうじょ』2003ねん 角川かどかわ文庫ぶんこ ISBN 4-04-198610-9 ※ウェブサイトの書籍しょせき
  • 『ナンシーせき記憶きおくスケッチアカデミー2』2004ねん カタログハウス のち角川かどかわ文庫ぶんこ ISBN 4-905943-53-1

没後ぼつごさい編集へんしゅうばん収録しゅうろくコラム拾遺しゅうい

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  • 『ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシーせき小耳こみみにはさもう」100』2003ねん 朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん ISBN 4-02-261418-8
  • 『ナンシー関大かんだいコラム テレビ芸能人げいのうじんへん』2004ねん 世界文化社せかいぶんかしゃ ISBN 4-418-04503-1
  • 『ナンシーせきちょうコラム テレビCMへん』2004ねん 世界文化社せかいぶんかしゃ ISBN 4-418-04504-X
  • 『ナンシーせきげきコラム 世情せじょうへん』2004ねん 世界文化社せかいぶんかしゃ ISBN 4-418-04518-X
  • 『ナンシーせきの「小耳こみみにはさもう」ファイナル・カット』2005ねん ISBN 4-02-257977-3
  • 『テレビのおに 芸能人げいのうじん著名ちょめいじんをメッタり!』2006ねん 世界文化社せかいぶんかしゃ ISBN 4-418-06506-7
  • 『ナンシーせき リターンズ』2009ねん 世界文化社せかいぶんかしゃ
  • 『おたから発掘はっくつ! ナンシーせき』2012ねん 世界文化社せかいぶんかしゃ
  • 『ナンシーせき「テレビ消灯しょうとう時間じかん」リミックス』2012ねん 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう電子でんしばんのみ
  • 『ナンシーせき名言めいげん予言よげん』2013ねん 世界文化社せかいぶんかしゃ
  • 『ナンシーせきみみ大全たいぜん77 ザ・ベスト・オブ「小耳こみみにはさもう」1993-2002』2018ねん 武田たけだ砂鉄さてつによる傑作けっさくせん

雑誌ざっし特集とくしゅう評伝ひょうでん

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  • 『ナンシーせき トリビュート特集とくしゅう KAWADEゆめムック』2003ねん2がつ 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ ISBN 4-309-97646-8
    • 増補ぞうほ新版しんぱん『ナンシーせき 没後ぼつご10ねん おかえりナンシー』2012ねん10がつ ISBN 978-4-309-97782-9
  • 『ナンシーせき大全たいぜん』2003ねん 文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう ISBN 4-16-365160-8
  • 横田よこたぞうせい評伝ひょうでん ナンシーせき しん一人ひとりのナンシーを』朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん 2012ねん
再刊さいかん朝日あさひ文庫ぶんこ 2014ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ 2022ねん5がつ ISBN 978-4122072145

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 眼科がんかから「この視力しりょく弱視じゃくしじゃないというのはおどろきだ」とわれるほどわるく、眼鏡めがねをかけても0.3前後ぜんこうしかなかった[26]
  2. ^ 週刊しゅうかん朝日あさひ2002ねん6がつ28にちごうより。しかし横田よこた取材しゅざいやまふじは「ナンシーを意識いしきしはじめたのはほうではなく文章ぶんしょう」とこたえている[29]
  3. ^ いとうせいこういわく「最初さいしょ小結こむすびだったのが、最後さいごほう横綱よこづなぐらいになっていた」[34]

出典しゅってん

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  1. ^ a b プレミアムドラマ ナンシーせきのいた17ねん”. NHK BSプレミアム. 2014ねん12月15にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2014ねん12月15にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 週刊しゅうかんプレイボーイ2014ねん11月24にち47ごう「2014ねん話題わだいの10にんをナンシーせきのゴムばんかえってみた!」より
  3. ^ 横田よこた 2012, p. 139.
  4. ^ 横田よこた 2012, p. 148.
  5. ^ 文藝ぶんげい別冊べっさつ 2003, p. 82.
  6. ^ 文藝ぶんげい別冊べっさつ 2003, p. 47.
  7. ^ 横田よこた 2012, p. 172.
  8. ^ 横田よこた 2012, p. 105.
  9. ^ 横田よこた 2012, p. 89.
  10. ^ 横田よこた 2012, p. 91.
  11. ^ 文藝ぶんげい別冊べっさつ 2003, p. 48.
  12. ^ 文藝ぶんげい別冊べっさつ 2003, p. 49.
  13. ^ 横田よこた 2012, p. 78.
  14. ^ 横田よこた 2012, p. 80.
  15. ^ 横田よこた 2012, pp. 82–85.
  16. ^ 横田よこた 2012, p. 85.
  17. ^ 文藝ぶんげい別冊べっさつ 2003, p. 56.
  18. ^ 横田よこた 2012, p. 115.
  19. ^ 横田よこた 2012, pp. 120–122.
  20. ^ 横田よこた 2012, p. 129.
  21. ^ 横田よこた 2012, pp. 235–241.
  22. ^ 横田よこた 2012, pp. 226–230.
  23. ^ 横田よこた 2012, pp. 143–144.
  24. ^ 横田よこた 2012, pp. 247–256.
  25. ^ 横田よこた 2012, p. 256.
  26. ^ 横田よこた 2012, p. 245.
  27. ^ 横田よこた 2012, pp. 256–257.
  28. ^ 横田よこた 2012, pp. 262–263.
  29. ^ 横田よこた 2012, p. 62.
  30. ^ 横田よこた 2012, pp. 280–287.
  31. ^ 横田よこた 2012, p. 297.
  32. ^ 文藝ぶんげい別冊べっさつ 2003, p. 28.
  33. ^ 横田よこた 2012, p. 19.
  34. ^ a b 横田よこた 2012, p. 214.
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  40. ^ 横田よこた 2012, p. 198.
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  48. ^ 中目黒なかめぐろ「ビッグママ」
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  51. ^ ヒノデワシ 会社かいしゃ沿革えんかく
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  53. ^ NTカッターD-400
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  58. ^ 最強さいきょうフードファイター・小林こばやしたかしいどつづける孤高ここうたたかい「本当ほんとうにプロとえるのはアメリカでもぼくしかいない」”. しゅうプレNews. (2015ねん5がつ5にち). https://wpb.shueisha.co.jp/news/sports/2015/05/05/47371/ 2016ねん5がつ10日とおか閲覧えつらん 
  59. ^ 何様なにさまのつもり」
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  61. ^ 横田よこた 2012, pp. 293–296.
  62. ^ 中川なかがわあつし一郎いちろう『ウェブはバカとひまじんのもの―現場げんばからのネット敗北はいぼく宣言せんげん光文社こうぶんしゃ新書しんしょ、2009ねん
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  64. ^ 角川かどかわ文庫ぶんこ信仰しんこう現場げんば』に収録しゅうろく

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 横田よこたぞうせい評伝ひょうでん ナンシーせきしん一人ひとりのナンシーを」』朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2012ねん 
  • 『KAWADEゆめムック文藝ぶんげい別冊べっさつ トリビュート特集とくしゅうナンシーせき河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2003ねん 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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