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ニュルンベルク (標準 ひょうじゅん ドイツ語 ご :Nürnberg [ˈnʏrnbɛrk] ( 音声 おんせい ファイル ) [2] 、バイエルン語 ご :Niamberg、上部 じょうぶ フランケン語 ご (東 ひがし フランケン語 ご ):Nämberch)は、ドイツ連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく 南部 なんぶ に位置 いち し、バイエルン州 しゅう のミッテルフランケン行政 ぎょうせい 管区 かんく に属 ぞく する郡 ぐん 独立 どくりつ 市 し 。
人口 じんこう 50万 まん 人 にん を超 こ えるバイエルン州 しゅう 第 だい 2の都市 とし (ドイツ全体 ぜんたい では14番目 ばんめ )である。隣接 りんせつ するフュルト 、エアランゲン 、シュヴァーバッハ とともにフランケン地方 ちほう の経済 けいざい 的 てき ・文化 ぶんか 的 てき 中心 ちゅうしん をなしている。
中世 ちゅうせい から続 つづ く伝統 でんとう ある、ドイツ史 し にとって極 きわ めて重要 じゅうよう な都市 とし である。神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の帝国 ていこく 会議 かいぎ が最 もっと も多 おお く開 ひら かれ、歴代 れきだい の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい が居住 きょじゅう ・滞在 たいざい したニュルンベルク城 じょう を有 ゆう し、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい の正当 せいとう 性 せい を証 しょう する帝国 ていこく 宝物 ほうもつ (「帝国 ていこく 権 けん 標 しるべ 」、「戴冠 たいかん 式 しき 装束 しょうぞく 」、「帝国 ていこく 聖 せい 遺物 いぶつ 」)が保管 ほかん された。また、19世紀 せいき のドイツ統一 とういつ を主導 しゅどう したホーエンツォレルン家 か がニュルンベルク城 じょう 伯 はく を世襲 せしゅう してきた都市 とし である。
このように歴史 れきし 的 てき に重要 じゅうよう な都市 とし であったことから、ナチス政権 せいけん も政権 せいけん 掌握 しょうあく 後 ご 一貫 いっかん してナチ党 とう 党 とう 大会 たいかい (別名 べつめい :ニュルンベルク党 とう 大会 たいかい )をニュルンベルクで開催 かいさい し、ユダヤ人 じん の公民 こうみん 権 けん を剥奪 はくだつ したとして悪名 あくめい 高 たか いニュルンベルク法 ほう などが制定 せいてい された。それゆえナチス政権 せいけん 要人 ようじん を裁 さば く「ニュルンベルク裁判 さいばん 」が象徴 しょうちょう 的 てき に行 おこな われたことでも知 し られる。こういった歴史 れきし を辿 たど った都市 とし であることから、人権 じんけん 問題 もんだい に積極 せっきょく 的 てき にかかわっていく姿勢 しせい を示 しめ している。
リヒャルト・ワーグナー の楽劇 がくげき 『ニュルンベルクのマイスタージンガー 』の舞台 ぶたい としても知 し られる。現在 げんざい も旧 きゅう 市街 しがい は中世 ちゅうせい の城壁 じょうへき で囲 かこ まれている。また、チャイコフスキー 作曲 さっきょく のバレエ 『くるみわり人形 にんぎょう 』も、幻想 げんそう 部分 ぶぶん が多 おお くを占 し めるとはいえ、この街 まち が舞台 ぶたい である。
ニュルンベルクはペグニッツ川 がわ の両 りょう 岸 きし に広 ひろ がる。ペグニッツ川 がわ はこの都市 とし の北東 ほくとう 約 やく 80kmに湧出 ゆうしゅつ し、市内 しない を東西 とうざい に約 やく 14kmにわたって貫 つらぬ いている。旧 きゅう 市街 しがい 地区 ちく のこの川 かわ はすっかり運河 うんが 化 か されている。隣 となり のフュルトでペグニッツ川 がわ とレドニッツ川 がわ が合流 ごうりゅう してレグニッツ川 がわ となる。ニュルンベルクの西部 せいぶ および北西 ほくせい 部 ぶ は主 おも にペグニッツ川 がわ の堆積 たいせき 物 ぶつ によって形成 けいせい された。ニュルンベルク北部 ほくぶ は重要 じゅうよう な野菜 やさい の耕作 こうさく 地 ち であるクノープラウフスラント(Knoblauchsland、ニンニク 地方 ちほう )である。
ニュルンベルクの土地 とち はコイパー期 き に形成 けいせい された柔 やわ らかい砂岩 さがん からなっている。この町 まち の北側 きたがわ は、一部 いちぶ は海抜 かいばつ 600mを超 こ える中 なか 低 てい 山地 さんち のフレンキシェ・シュヴァイツ につながっている。
市域 しいき は186.38km2 である。南部 なんぶ から西部 せいぶ にかけては建物 たてもの が密集 みっしゅう しており、西部 せいぶ は隣 となり のフュルトと、南西 なんせい はシュタイン とほとんど一体化 いったいか している。北部 ほくぶ は比較的 ひかくてき 平坦 へいたん で肥沃 ひよく なクノープラウフスラントが広 ひろ がるが、この地域 ちいき は同時 どうじ に、ニュルンベルク空港 くうこう の西側 にしがわ 緩衝 かんしょう 地域 ちいき にもなっている。北西 ほくせい 部 ぶ には高度 こうど 400m今日 きょう の小 ちい さな森林 しんりん 地域 ちいき のゼバルダー・ライヒスヴァルトが位置 いち している。
旧 きゅう 市街 しがい の北 きた の境界 きょうかい はニュルンベルク城 じょう が建 た つ城山 しろやま であり、市 し 壁 かべ の大 だい 部分 ぶぶん が遺 のこ されている。東部 とうぶ からペグニッツ川北 かわきた 岸 がん は公園 こうえん 化 か されたレーヒェンベルクである。
地下鉄 ちかてつ の路線 ろせん 図 ず
市電 しでん の路線 ろせん 図 ず
隣接 りんせつ する市町村 しちょうそん [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク市 し は北 きた から時計 とけい 回 まわ りに以下 いか の市町村 しちょうそん 、あるいは市町村 しちょうそん に所属 しょぞく しない地域 ちいき と境 さかい を接 せっ している。エアランゲン (郡 ぐん 独立 どくりつ 市 し )、ノインホーフの森 もり 、クラフツホーフの森 もり (以上 いじょう 、エアランゲン=ヘーヒシュタット郡 ぐん )、シュヴァイク・バイ・ニュルンベルク 、ラウフアムホルツの森 もり 、ツェルツァーベルスホーフの森 もり 、フォルストホーフ地区 ちく 、フィッシュバッハ地区 ちく 、フォイヒト (以上 いじょう 、ニュルンベルガー・ラント郡 ぐん )、ヴェンデルシュタイン 、クラインシュヴァルツェンローエの森 もり (以上 いじょう 、ロート郡 ぐん )、シュヴァーバッハ(郡 ぐん 独立 どくりつ 市 し )、ロール (ロート郡 ぐん )、シュタイン 、オーバーアスバッハ (以上 いじょう フュルト郡 ぐん )、フュルト (郡 ぐん 独立 どくりつ 市 し )。
ニュルンベルクの飛 と び地 ち ブルンには、いずれも市町村 しちょうそん に属 ぞく さない地域 ちいき であるブルン、ヴィンケルハイト、フィッシュバッハ(全 すべ てニュルンベルガー・ラント郡 ぐん )が隣接 りんせつ する。
ニュルンベルク=ブーヘンビュール区 く の月別 つきべつ 平均 へいきん 気温 きおん と降水 こうすい 量 りょう [3]
ニュルンベルクは、完全 かんぜん な大陸 たいりく 性 せい 気候 きこう ではなく、完全 かんぜん な海洋 かいよう 性 せい 気候 きこう でもない、ドイツ南部 なんぶ に典型 てんけい 的 てき な温和 おんわ な中 なか 間 あいだ 的 てき 気候 きこう である。月 つき 平均 へいきん 気温 きおん は、1月 がつ の-1.4℃から8月 がつ の18℃の間 あいだ を推移 すいい するが、夏 なつ の最高 さいこう 気温 きおん は35℃に達 たっ することもある。降水 こうすい 量 りょう は地理 ちり 的 てき 環境 かんきょう の割 わり にはやや少 すく ない。ニュルンベルクはフランケン盆地 ぼんち に位置 いち しており、この緩 ゆる やかな鍋底 なべぞこ 状 じょう の地形 ちけい が湿 しめ った空気 くうき をこの町 まち から遠 とお ざけているのである。しかし、時 とき にはニュルンベルクも激 はげ しい嵐 あらし に見舞 みま われることがある。近 ちか くは2006年 ねん 8月 がつ 28日 にち に竜巻 たつまき があり、ガルテンシュタット区 く の多 おお くの建物 たてもの が甚大 じんだい な損傷 そんしょう を負 お った。
都市 とし の成立 せいりつ 初期 しょき [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルクの成立 せいりつ は明 あき らかでない。ザクセン 、バイエルン 、東 ひがし フランケン、ベーメン の境界 きょうかい で、1000年 ねん から1400年 ねん 頃 ごろ に保護 ほご された重要 じゅうよう な街道 かいどう が交 まじ わる地点 ちてん から徐々 じょじょ に成立 せいりつ していったと考 かんが えられている。いずれにせよ、この入植 にゅうしょく 地 ち は成立 せいりつ 初期 しょき に既 すで に市場 いちば の開催 かいさい 権 けん を得 え ていた。この街 まち は1050年 ねん に神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ハインリヒ3世 せい のSigena-Urkundeに「Norenberc」として記録 きろく されている。現在 げんざい の地名 ちめい の元 もと となったこの名前 なまえ は「岩山 いわやま 」を意味 いみ しているものと解釈 かいしゃく されている[4] 。その後 ご 、ニュルンベルク城 じょう は皇帝 こうてい の拠点 きょてん として神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく で重 おも きをなした。1065年 ねん にハインリヒ4世 せい は帝国 ていこく 領 りょう ニュルンベルク及 およ びその周辺 しゅうへん 地域 ちいき に高等 こうとう 裁判所 さいばんしょ 管区 かんく 及 およ び行政 ぎょうせい 管区 かんく を設 もう けた。コンラート3世 せい は裁判 さいばん 権 けん と統治 とうち 権 けん を持 も つニュルンベルク城 じょう 伯 はく の位 い を新設 しんせつ し、ラープス家 か にこれを与 あた えた。1190年 ねん あるいは1191年 ねん 以後 いご 、この地位 ちい はツォレルン家 か (後 ご のホーエンツォレルン家 か )に移 うつ された。フリードリヒ1世 せい (バルバロッサ)は、城 しろ 伯 はく の手 て に渡 わた っていた城 しろ の背後 はいご に二 に 重 じゅう の礼拝 れいはい 堂 どう (Doppelkapelle)を備 そな えた王宮 おうきゅう を建設 けんせつ した。その後 ご 、市 し 参事 さんじ 会 かい の権限 けんげん が次第 しだい に拡大 かくだい していった[5] 。
阿部 あべ 謹也 きんや は、ヨーロッパ中世 ちゅうせい の都市 とし の成立 せいりつ を貧民 ひんみん の移動 いどう との関係 かんけい から考察 こうさつ して、「ニュルンベルクが都市 とし としての体裁 ていさい を整 ととの えてくる11世紀 せいき は、まさに隠者 いんじゃ ゼバルドゥス(ニュルンベルクの守護 しゅご 聖人 せいじん )詣 もう での巡礼 じゅんれい が集 あつ まったときでもありました。人 ひと びとは聖者 せいじゃ の奇跡 きせき にあずかろうとし、聖 せい 遺物 いぶつ のあるところへと先 さき を争 あらそ っておしよせたのです」と述 の べている[6] 。
1219年 ねん 、皇帝 こうてい フリードリヒ2世 せい の大 だい 特権 とっけん 授与 じゅよ (Der 'Große Freiheitsbrief')によりニュルンベルクは帝国 ていこく 自由 じゆう 都市 とし となった。1315年 ねん 、ルートヴィヒ4世 せい (バイアー)は、この市 し の自立 じりつ 性 せい を高 たか めるprivilegium de non evocando(控訴 こうそ 棄却 ききゃく 特権 とっけん )を授与 じゅよ した。城 しろ 伯 はく の影響 えいきょう 力 りょく は城 しろ とその直近 ちょっきん に制限 せいげん され、フランケン地方 ちほう におけるホーエンツォレルン家 か の拠点 きょてん はバイロイト やアンスバッハ などに移 うつ っていった。1427年 ねん 、最後 さいご の城 しろ 伯 はく フリードリヒ6世 せい (ブランデンブルク選 せん 帝 みかど 侯 こう フリードリヒ1世 せい でもあった)はニュルンベルク城 じょう の権利 けんり をニュルンベルク市 し 参事 さんじ 会 かい に売却 ばいきゃく し、城 しろ 伯 はく の地位 ちい は完全 かんぜん に消滅 しょうめつ した。これ以後 いご 、バイエルン王国 おうこく に併合 へいごう されるまで、この都市 とし の行政 ぎょうせい 権 けん は市 し 参事 さんじ 会 かい の手 て に委 ゆだ ねられた。1256年 ねん にはライン都市 とし 同盟 どうめい に参加 さんか している[7] 。
中世 ちゅうせい 以来 いらい 、ニュルンベルクはアウクスブルク と共 とも にイタリア とヨーロッパ北部 ほくぶ を結 むす ぶ2大 だい 貿易 ぼうえき 都市 とし であった。商業 しょうぎょう 都市 とし の例 れい に漏 も れずユダヤ人 じん も多 おお く居住 きょじゅう していたが、1298年 ねん 、「リントフライシュ王 おう 」と名乗 なの る騎士 きし に煽動 せんどう された群衆 ぐんしゅう が暴徒 ぼうと と化 か して各地 かくち のユダヤ人 じん 街 がい を襲撃 しゅうげき し、ニュルンベルクでは698人 にん のユダヤ人 じん が犠牲 ぎせい となった。(血 ち の中傷 ちゅうしょう #ホスチアの中傷 ちゅうしょう 参照 さんしょう )後 ご の1349年 ねん の迫害 はくがい では562人 にん のユダヤ人 じん が犠牲 ぎせい になっている。1385年 ねん と1463年 ねん には市 し 当局 とうきょく から、1416年 ねん には皇帝 こうてい から多額 たがく の金 かね を取 と り立 た てられた[8] 。1498年 ねん にはユダヤ人 じん 全員 ぜんいん が市 し から放逐 ほうちく された[5] 。ユダヤ人 じん たちは妻子 さいし をつれ動産 どうさん だけをもって追 お い立 た てられた。「ユダヤ人 じん の家 いえ や学校 がっこう 、その他 た の不動産 ふどうさん さんは国王 こくおう が没収 ぼっしゅう し、以後 いご いかなるユダヤ人 じん も市 し に住 す むことを禁 きん じられた」。「ユダヤ人 じん はこの年 とし から1850年 ねん にいたるまで、ニュルンベルクに家 いえ を構 かま えることはできなかった」[9] 。
産業 さんぎょう においては、金属 きんぞく 手工業 しゅこうぎょう 、繊維 せんい 工業 こうぎょう 、製紙 せいし 工業 こうぎょう が発展 はってん した[10] 。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (Wolfram von Eschenbach, 1160年 ねん /1180年 ねん 頃 ごろ - 1220年 ねん 頃 ごろ またはそれ以降 いこう )は十字軍 じゅうじぐん 文学 ぶんがく の傑作 けっさく 『ヴィレハルム』において、有名 ゆうめい なニュルンベルクの武具 ぶぐ 鍛冶 たんや 屋 や (Waffenschmiede)に言及 げんきゅう している[11] 。1390年 ねん にはドイツ語 どいつご 圏 けん 最初 さいしょ の紙工 しこう 場 じょう がニュルンベルクにできていた(寺田 てらだ 龍男 たつお )[12] 。15世紀 せいき には、書籍 しょせき の印刷 いんさつ ・出版 しゅっぱん ・販売 はんばい も盛 さか んに行 おこな われた[13] 。
1493年 ねん のニュルンベルク
多 おお くの皇帝 こうてい がニュルンベルクを好 この んで居館 きょかん に選 えら んだ。中 なか でもカール4世 せい は、1356年 ねん にニュルンベルクで金 きむ 印 しるし 勅書 ちょくしょ を公布 こうふ した。勅書 ちょくしょ では即位 そくい 後 ご 第 だい 1回 かい 目 め の帝国 ていこく 議会 ぎかい をニュルンベルクで開催 かいさい することと定 さだ められ、この慣例 かんれい は1543年 ねん まで続 つづ けられた。また、1423年 ねん にジギスムント は神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい の正当 せいとう 性 せい を証 しょう する帝国 ていこく 宝物 ほうもつ (帝国 ていこく 王冠 おうかん 等 とう の「帝国 ていこく 権 けん 標 しるべ 」、数 すう 種 しゅ のダルマティカ等 とう の「戴冠 たいかん 式 しき 装束 しょうぞく 」、聖 せい 釘 くぎ を嵌 は め込 こ んだ聖 せい 槍 やり の穂先 ほさき と聖 きよし 十字架 じゅうじか を納 おさ めた帝国 ていこく 十字架 じゅうじか 等 とう の「帝国 ていこく 聖 せい 遺物 いぶつ 」)を委譲 いじょう し、「年 とし 1回 かい 展観 てんかん 行事 ぎょうじ を開 ひら く権利 けんり とそれに付随 ふずい して2週間 しゅうかん のメッセ(年 とし 市 し )を開 ひら く許可 きょか を与 あた え」た。これによってニュルンベルクは帝国 ていこく 内 ない で「皇帝 こうてい 選挙 せんきょ の地 ち フランクフルトと国王 こくおう 戴冠 たいかん の地 ち アーヘンに次 つ ぐきわめて高 たか い地位 ちい を確実 かくじつ なものとした」。帝国 ていこく 宝物 ほうもつ のこの街 まち での保管 ほかん は、「1796年 ねん にフランス革命 かくめい 軍 ぐん の侵攻 しんこう を前 まえ にレーゲンスブルクへと移送 いそう されるまでの間 あいだ 」続 つづ いた[14] 。ヴィルヘルム・ラーベ (1831-1910)は、短篇 たんぺん 『帝国 ていこく の王冠 おうかん 』(Des Reiches Krone 1870年 ねん )において、15世紀 せいき 、「帝国 ていこく の聖 せい 遺物 いぶつ 」はボヘミア のカールシュタイン城 じょう に保管 ほかん されていたが、「フス教徒 きょうと の手 て に陥 おちい ち入 い りそうになった王冠 おうかん を、ニュルンベルクの若 わか い騎士 きし が、それを守 まも るため立 た ち上 のぼ り、そのために組織 そしき された十字軍 じゅうじぐん に加 か 」わり、目的 もくてき を果 は たした後 のち 、「帝国 ていこく の聖 せい 遺物 いぶつ 」とともに市 し に帰還 きかん するという物語 ものがたり を語 かた っている[15] 。
1470年 ねん から1530年 ねん までの期間 きかん にはゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン やコンラート・ショット・フォン・ショッテンシュタインといった騎士 きし 達 たち がフェーデ や戦 たたか いを繰 く り広 ひろ げたにもかかわらず、ニュルンベルクはその最盛 さいせい 期 き を迎 むか えていた。優 すぐ れた手工 しゅこう 芸 げい やヨーロッパの中央 ちゅうおう に位置 いち する交易 こうえき 上 じょう の好条件 こうじょうけん により、この街 まち に富 とみ がもたらされた。1363年 ねん の記録 きろく によると、当時 とうじ ニュルンベルクにあった手工業 しゅこうぎょう のグループは50種 しゅ 。親方 おやかた は全部 ぜんぶ で1217名 めい 、そのうち靴 くつ 屋 や の親方 おやかた が81名 めい 、仕立 した て屋 や 76名 めい 、パン屋 や 75名 めい 、刃物 はもの 師 し 73名 めい 。刃物 はもの 師 し の多 おお いのが目立 めだ ち、彼 かれ らが輸出 ゆしゅつ 商品 しょうひん の生産 せいさん を行 おこな っていた[16] 。
既 すで に14世紀 せいき 末期 まっき 、ニュルンベルクのフレックスドルファー=ケーグラー=ツェンナー家 か の会社 かいしゃ とアマン=カーメラー=グラウ=ザイラー家 か の会社 かいしゃ は「カルパティア山脈 さんみゃく 地方 ちほう の鉱山 こうざん 業 ぎょう とハンガリーの経済 けいざい 力 りょく とに食 く い込 こみ 」み、「両社 りょうしゃ の通商 つうしょう ルートは、中部 ちゅうぶ ヨーロッパの全域 ぜんいき を蔽 おお って」いた。「二 ふた つの会社 かいしゃ は密接 みっせつ に協力 きょうりょく して営業 えいぎょう し、他 た の有力 ゆうりょく なニュルンベルクの家柄 いえがら 、シュトローマー家 か 、アイスフォーゲル家 か 等々 とうとう とは姻戚 いんせき 関係 かんけい で結 むす ばれていた」。15世紀 せいき 半 なか ばには、ヴェネツィアやアントウェルペンに代理 だいり 店 てん を開 ひら くイムホーフ会社 かいしゃ が設立 せつりつ された[17] 。市 し の政治 せいじ は、名家 めいか ('Genannte’)の出 だし の、都市 とし 貴族 きぞく (Patriziat)からなる参事 さんじ 会 かい が取 と り仕切 しき っていた[18] 。市 し を寡頭支配 しはい した都市 とし 貴族 きぞく は華麗 かれい な家紋 かもん を有 ゆう し、住宅 じゅうたく を盾 たて ・槍 やり 、甲冑 かっちゅう などの武具 ぶぐ で飾 かざ り立 た てて騎士 きし を気取 けど り、騎士 きし 社会 しゃかい の行事 ぎょうじ であった「演武 えんぶ 会 かい 」(トーナメント)をも主催 しゅさい した。「1561年 ねん 3月 がつ にニュールンベルクの中央 ちゅうおう マルクト広場 ひろば でおこなわれた演武 えんぶ 会 かい をアムマンが描 えが いた油彩 ゆさい 画 が が今 いま にのこっていて、ミュンヘンの博物館 はくぶつかん に所蔵 しょぞう されている」[19] 。ニュルンベルクでは市 し 参事 さんじ 会 かい の権力 けんりょく が圧倒的 あっとうてき に強 つよ く、手工業 しゅこうぎょう 者 しゃ (1400年 ねん 頃 ごろ の職種 しょくしゅ は141種 しゅ )の組織 そしき は、極 きわ めて些細 ささい な点 てん に至 いた るまで市 し 参事 さんじ 会 かい の監視 かんし 下 か に置 お かれていた。仲間 なかま 団体 だんたい による相互 そうご 扶助 ふじょ よりは市 し 参事 さんじ 会 かい による生活 せいかつ 保護 ほご が重 おも きをなしたこの市 し で注目 ちゅうもく に値 あたい する福祉 ふくし 事業 じぎょう が1388年 ねん に当地 とうち の名家 めいか メンデル家 か により設立 せつりつ され、後 のち に市 し に移管 いかん された「12人 にん 兄弟 きょうだい の館 かん 」である。これは手工業 しゅこうぎょう 職人 しょくにん で年老 としお いて働 はたら けなくなり、身寄 みよ りもない者 もの を収容 しゅうよう した。この養老 ようろう 院 いん は400年 ねん 以上 いじょう も存続 そんぞく した。「この館 かん に、1425年 ねん 以降 いこう 1799年 ねん までに収容 しゅうよう された799人 にん の老 ろう 職人 しょくにん のほとんどすべてについて肖像 しょうぞう 画 が が残 のこ されている」[20] 。
中世 ちゅうせい 末期 まっき 、市 し を廻 まわ る壁 かべ は約 やく 5km、市 し 壁 かべ 内 ない 面積 めんせき 約 やく 160ha、そこに15世紀 せいき 半 なか ばには約 やく 20000人 にん (1497年 ねん 、約 やく 28000人 にん )が居住 きょじゅう していた[21] 。もっとも、中世 ちゅうせい ヨーロッパの都市 とし には、誓約 せいやく により市民 しみん 権 けん を得 え た市民 しみん のほかに、市民 しみん 権 けん をもたない住民 じゅうみん もいた。1431年 ねん の人口 じんこう 調査 ちょうさ では、12歳 さい 以上 いじょう 15,499人 にん (そのうち武装 ぶそう 能力 のうりょく のある者 もの 7,146人 にん )、市民 しみん の子弟 してい (12歳 さい 未満 みまん )6,173人 にん 、ユダヤ人 じん の子弟 してい (12歳 さい 未満 みまん )52人 にん 、市民 しみん 権 けん をもたない住民 じゅうみん の子弟 してい 692人 にん 、在俗 ざいぞく 聖職 せいしょく 者 しゃ 69人 にん 、修道院 しゅうどういん の聖職 せいしょく 者 しゃ 312人 にん 、計 けい 22,797人 にん 。世帯 せたい 数 すう 4213であった[22] 。15世紀 せいき 前半 ぜんはん 、ニュルンベルクでは、非 ひ 市民 しみん 層 そう (外国 がいこく 人 じん 、異教徒 いきょうと 、聖職 せいしょく 者 しゃ 、若年 じゃくねん 下層 かそう 労働 ろうどう 者 しゃ 等 とう )の割合 わりあい は、子供 こども を除 のぞ く総 そう 人口 じんこう の40%近 ちか くを占 し めたという[23] 。1475年 ねん の租税 そぜい 調査 ちょうさ では、極貧 ごくひん 層 そう 107人 にん 、無産 むさん の手工業 しゅこうぎょう 者 しゃ 2,700人 にん 、金貨 きんか 半 はん グルデンの財産 ざいさん 税 ぜい 支払 しはら い者 しゃ 420人 にん 、1グルデン支払 しはら い者 しゃ 532人 にん 、3グルデン支払 しはら い者 しゃ 266人 にん 、6-10グルデン支払 しはら い者 しゃ 157人 にん 、15-30グルデン支払 しはら い者 しゃ 105人 にん 、40グルデン以上 いじょう 支払 しはら い者 しゃ 27人 にん 、つまり財産 ざいさん 税 ぜい を支払 しはら う者 もの 1,507人 にん に対 たい して財産 ざいさん 税 ぜい を全 まった く支払 しはら わない者 もの 2,807人 にん で、財産 ざいさん 税 ぜい を支払 しはら う者 もの のほぼ倍 ばい になっている。「このことは15世紀 せいき の後半 こうはん にかなりの貧富 ひんぷ の差 さ が生 う まれていたことを示 しめ しています」(阿部 あべ 謹也 きんや )[24] 。また、この民衆 みんしゅう 本 ほん の第 だい 77話 わ では、主人公 しゅじんこう は当地 とうち の金持 かねも ちの男 おとこ の家 いえ の隣 となり に宿 やど をとった。この男 おとこ は年 とし に一 いち 度 ど 近所 きんじょ の人々 ひとびと とその客人 きゃくじん を招待 しょうたい していた。主人公 しゅじんこう が投宿 とうしゅく したのが、ちょうど招待 しょうたい の日 ひ であった。しかし彼 かれ は招待 しょうたい されなかった。そこで、いたずらで仕返 しかえ しをしている[25] 。
1370年 ねん 頃 ころ 、市 し 当局 とうきょく は10か条 じょう からなる「喜捨 きしゃ 条例 じょうれい 」を発布 はっぷ し、物乞 ものご い・浮浪 ふろう 行為 こうい に対 たい する規制 きせい を明文化 めいぶんか した。このような措置 そち はその後 ご ヨーロッパ各地 かくち の都市 とし で発布 はっぷ された条例 じょうれい の先駆 せんく 的 てき 事例 じれい である[26] 。1510年 ねん 頃 ころ にはじめて出版 しゅっぱん されたドイツ の民衆 みんしゅう 本 ほん 『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快 ゆかい ないたずら』の主人公 しゅじんこう は、ポンメルン や各地 かくち で説教 せっきょう 師 し になりすまして巻 ま き上 あ げた大金 たいきん を懐 ふところ に、派手 はで に散在 さんざい しようとニュルンベルクにやってくるが、夜警 やけい を誘 さそ い出 だ して大 だい 怪我 けが をさせている[27] 。彼 かれ が夜警 やけい を目 め の敵 かたき にした背景 はいけい に、歴史 れきし 学者 がくしゃ の阿部 あべ 謹也 きんや は、「ニュルンベルクにおいても、放浪 ほうろう 者 しゃ に対 たい する取 と り締 しま りが大変 たいへん 厳 きび しくなっていったという事情 じじょう 」を推測 すいそく している[28] 。1501年 ねん 、市 し は経済 けいざい 的 てき 発展 はってん の絶頂 ぜっちょう 期 き にあったが、物価 ぶっか が高騰 こうとう し、約 やく 4万 まん 人 にん の市民 しみん のうち約 やく 1万 まん 人 にん が最低 さいてい 生活 せいかつ 条件 じょうけん の縁 えん にいた[29] 。
14世紀 せいき 半 なか ばに肉屋 にくや の市中 しちゅう 踊 おど り歩 ある き(カーニヴァル の伝統 でんとう )から始 はじ まり、後 のち に他 た の職種 しょくしゅ の手工業 しゅこうぎょう 者 しゃ も加 くわ わり、15世紀 せいき 半 なか ばには有力 ゆうりょく 商人 しょうにん の子弟 してい が行列 ぎょうれつ の先駆 さきが けをするようになり、さらに山車 だし も引 ひ き回 まわ され盛大 せいだい に催 もよお されたシェンバルト祭 さい (Schembartlauf)は16世紀 せいき 半 なか ばまで続 つづ いた[30] 。
1434年 ねん 市 し 参事 さんじ 会 かい は「ハラーヴィーゼというペグニッツ川 かわ ぞいの美 うつく しい緑地 りょくち を買 か い入 い れ、市民 しみん の憩 いこ いと競技 きょうぎ の場 ば 」とした。「よく晴 は れた5月の休日 きゅうじつ には多 おお くの市民 しみん が集 あつ まって」楽 たの しんだ、と記録 きろく されている[31] 。
1552年 ねん には、ニュルンベルクにおいても「都市 とし が維持 いじ すべき誇 ほこ りと愛 あい を視覚 しかく 的 てき に都市 とし 民 みん にもたらす」都市 とし 景観 けいかん 図 ず が作成 さくせい されている[32] 。
15世紀 せいき はじめからニュルンベルクには娼婦 しょうふ 宿 やど があった。市 し 参事 さんじ 会 かい は娼婦 しょうふ 宿 やど に関 かん する規則 きそく を定 さだ め、管理人 かんりにん をおき、彼女 かのじょ たちの権利 けんり をも確認 かくにん した。「意志 いし に反 はん して仕事 しごと を強要 きょうよう されないこと、いつでも勝手 かって に宿 やど を出 で ることができること、少 すく なくとも週 しゅう 1回 かい は無料 むりょう で入浴 にゅうよく できること」などが定 さだ められていた[33] 。
ニュルンベルクでは1477年 ねん 以来 いらい 、法学 ほうがく 者 しゃ の助力 じょりょく をえて、新 あたら しい法典 ほうてん の編纂 へんさん にとりかかり、1484年 ねん には新 あたら しい法 ほう が印刷 いんさつ ・出版 しゅっぱん された。ドイツ国内 こくない 最初 さいしょ の、都市 とし 法 ほう の印刷 いんさつ ・出版 しゅっぱん であった。400頁 ぺーじ に及 およ ぶ同書 どうしょ には、「裁判 さいばん の手続 てつづ きから裁判所 さいばんしょ での婦人 ふじん の地位 ちい 、宣誓 せんせい 、証人 しょうにん の調査 ちょうさ 、証拠 しょうこ 、そして財産 ざいさん 、相続 そうぞく 、契約 けいやく 、債務 さいむ などについて解説 かいせつ されて」いた[34] 。
マイスタージンガー のハンス・ザックス や、画家 がか アルブレヒト・デューラー はこの時代 じだい にニュルンベルクで活躍 かつやく した人物 じんぶつ である。デューラーの『四 よん 人 にん の聖人 せいじん 』(いわゆる『使徒 しと たち』:アルテ・ピナコテーク 所蔵 しょぞう )はこの街 まち の教会 きょうかい のためにこの街 まち で描 えが かれた。この時代 じだい のニュルンベルクはケルン やプラハ とならぶ神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく 最大 さいだい の都市 とし の1つであった。しかし1525年 ねん 、市 し 当局 とうきょく が宗教 しゅうきょう 改革 かいかく を受 う け入 い れたことで、皇帝 こうてい との関係 かんけい は次第 しだい に疎遠 そえん となり、「皇帝 こうてい の街 まち 」としての権威 けんい は失 うしな われていった。
一方 いっぽう でフランケン公 おおやけ 領 りょう の創設 そうせつ を目論 もくろ むホーエンツォレルン家 か と度々 たびたび 衝突 しょうとつ 、アンスバッハ辺境 へんきょう 伯 はく アルブレヒト・アヒレス 、クルムバッハ辺境 へんきょう 伯 はく アルブレヒト・アルキビアデス との戦争 せんそう はそれぞれ第 だい 一 いち 次 じ 辺境 へんきょう 伯 はく 戦争 せんそう 、第 だい 二 に 次 じ 辺境 へんきょう 伯 はく 戦争 せんそう と呼 よ ばれたが、いずれもホーエンツォレルン家 か の敗北 はいぼく に終 お わった。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう とその後 ご [ 編集 へんしゅう ]
1650年 ねん のニュルンベルク地図 ちず
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう の時代 じだい 、ニュルンベルク周辺 しゅうへん の地域 ちいき は長年 ながねん 続 つづ いた陣地 じんち 戦 せん の戦場 せんじょう となった。ニュルンベルク自体 じたい が征服 せいふく されることはなかったものの、周辺 しゅうへん 地域 ちいき の荒廃 こうはい により交易 こうえき が廃 すた れ、経済 けいざい 的 てき に次第 しだい に衰弱 すいじゃく していった。戦後 せんご は1649年 ねん にニュルンベルクで「平和 へいわ の宴 うたげ 」が催 もよお され、敵対 てきたい していた両 りょう 陣営 じんえい がともに何 なん 日 にち も祝宴 しゅくえん を行 おこな い、平和 へいわ の祝賀 しゅくが ムードを確 たし かめ合 あ った。帝国 ていこく 議会 ぎかい の開催 かいさい 地 ち は1663年 ねん 以降 いこう レーゲンスブルク に常置 じょうち することが定 さだ められた。
1700年 ねん 前後 ぜんこう に活躍 かつやく したバロック期 き の音楽家 おんがくか ヨハン・パッヘルベル はこの街 まち の出身 しゅっしん で、晩年 ばんねん にこの街 まち のゼーバルドゥス教会 きょうかい にオルガン 奏者 そうしゃ として戻 もど り、そこで没 ぼっ している。
19世紀 せいき から20世紀 せいき 初 はじ め [ 編集 へんしゅう ]
1858年 ねん のニュルンベルク地図 ちず
1796年 ねん から1806年 ねん まで深刻 しんこく な事態 じたい が出来 でか した。近隣 きんりん のアンスバッハを拠点 きょてん としたプロイセン 政府 せいふ の圧 あつ 力 りょく により、遂 つい にニュルンベルクはプロイセン支配 しはい 下 か に屈 くっ することとなった。しかし、この条約 じょうやく は履行 りこう されなかった。ニュルンベルクの借金 しゃっきん にプロイセンが手 て を引 ひ いたのである。同時 どうじ に名門 めいもん 家 か の堕落 だらく した支配 しはい 体制 たいせい に対 たい する不満 ふまん がニュルンベルク住民 じゅうみん の間 あいだ で蓄積 ちくせき していった。こうした事態 じたい が帝国 ていこく 都市 とし 体制 たいせい を根本 こんぽん から揺 ゆ さぶり、この街 まち に革命 かくめい の機運 きうん をもたらしたのであった。
ナポレオン戦争 せんそう 期 き の1803年 ねん 2月 がつ 25日 にち に行 おこな われた帝国 ていこく 代表 だいひょう 者 しゃ 会議 かいぎ 主要 しゅよう 決議 けつぎ では、最初 さいしょ はそれでも独立 どくりつ 体制 たいせい を堅持 けんじ したのだが、ライン同盟 どうめい が結 むす ばれ、帝国 ていこく が崩壊 ほうかい した後 のち 、フランス軍 ぐん がニュルンベルクを占領 せんりょう した。1806年 ねん 9月15日 にち 、フランス軍 ぐん はこの都市 とし をバイエルン王国 おうこく に引 ひ き渡 わた し、ただちに民政 みんせい の体制 たいせい を整 ととの え、バイエルンの管理 かんり 下 か に編入 へんにゅう させた。こうして1806年 ねん にバイエルン王国 おうこく は王国 おうこく 全体 ぜんたい の借金 しゃっきん の一部 いちぶ としてニュルンベルクの莫大 ばくだい な借金 しゃっきん を被 こうむ ることとなった。バイエルンはこれを整理 せいり 統合 とうごう して弁済 べんさい に努 つと めた。バイエルンの法律 ほうりつ に基 もと づき、それまでニュルンベルクでは冷遇 れいぐう されていたカトリック 信者 しんじゃ もプロテスタント 信者 しんじゃ と法的 ほうてき に同等 どうとう の立場 たちば となった。
復元 ふくげん されたアドラー号 ごう の試走 しそう
19世紀 せいき になるとニュルンベルクはバイエルンの工業 こうぎょう 中心 ちゅうしん 都市 とし の一 ひと つとして発展 はってん した。1835年 ねん にはドイツ初 はつ の旅客 りょかく 鉄道 てつどう アドラー号 ごう がニュルンベルクからフュルト まで運行 うんこう を開始 かいし した。19世紀 せいき 後半 こうはん にニュルンベルクで黄銅 こうどう 箔 はく が発明 はつめい された。
戦 せん 間 あいだ 期 き の1920年代 ねんだい にはニュルンベルクで、政権 せいけん 獲得 かくとく 前 まえ の国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ ドイツ労働 ろうどう 者 しゃ 党 とう (ナチス)が党 とう 大会 たいかい を開催 かいさい していた。ただしニュルンベルク自体 じたい は選挙 せんきょ でナチス党 とう を勝 か たせなかった。この都市 とし では自由 じゆう 主義 しゅぎ のDDP が有力 ゆうりょく な政党 せいとう であった。同時 どうじ に、工業 こうぎょう 都市 とし として、バイエルンの社会 しゃかい 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ の中心 ちゅうしん 地 ち でもあった。
ナチス政権 せいけん 下 か 時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
戦争 せんそう 勝利 しょうり の後 のち にナチス党 とう 大会 たいかい が開催 かいさい される筈 はず だったコングレスハレ(未 み 完成 かんせい )
ナチス政権 せいけん 下 か 時代 じだい 、ナチ党 とう 大会 たいかい が1933年 ねん から1938年 ねん にかけてニュルンベルクで行 おこな われ、その模様 もよう はレニ・リーフェンシュタール により映画 えいが 化 か された。この街 まち はナチスにとって「帝国 ていこく 党 とう 大会 たいかい の街 まち 」としてプロパガンダの上 うえ で重要 じゅうよう な都市 とし であった。1935年 ねん の党 とう 大会 たいかい の際 さい 、ヒトラーはニュルンベルクに臨時 りんじ 国会 こっかい を召集 しょうしゅう し、そこでユダヤ人 じん から市民 しみん 権 けん を剥奪 はくだつ する法 ほう (『ドイツ人 じん の血 ち と尊厳 そんげん の保護 ほご のための法律 ほうりつ 』)が定 さだ められ、これは一般 いっぱん 的 てき にはニュルンベルク法 ほう と呼 よ ばれている。ナチスはこの法律 ほうりつ により反 はん ユダヤ主義 しゅぎ 思想 しそう の法的 ほうてき 根拠 こんきょ を得 え たのである。このようにニュルンベルクは、ナチス党 とう 政権 せいけん 下 か のドイツを象徴 しょうちょう する都市 とし となった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に撮影 さつえい された、瓦礫 がれき の山 やま と化 か したニュルンベルクの街 まち 。遠景 えんけい には聖 せい ローレンツ教会 きょうかい が写 うつ っている
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 なか 、ニュルンベルクは連合 れんごう 国 こく 軍 ぐん による空爆 くうばく の優先 ゆうせん 目標 もくひょう であった。イギリス空軍 くうぐん とアメリカ空軍 くうぐん の航空機 こうくうき による爆 ばく 撃 げき で1945年 ねん 1月 がつ 2日 にち にニュルンベルク旧 きゅう 市街 しがい は破壊 はかい され、全 ぜん 市域 しいき が甚大 じんだい な被害 ひがい を負 お った。同年 どうねん 4月 がつ の4日間 にちかん に渡 わた る地上 ちじょう 決戦 けっせん (ニュルンベルクの戦 たたか い )で、さらにいくつかの歴史 れきし 的 てき 建造 けんぞう 物 ぶつ が破壊 はかい された。一時 いちじ はこの破壊 はかい された街 まち を放棄 ほうき して、他 た の場所 ばしょ に新 あたら しい街 まち を創 つく ることが真剣 しんけん に検討 けんとう されたほどの被害 ひがい 状況 じょうきょう であった。
同 どう 大戦 たいせん 期 き 、ナチスにとってその精神 せいしん 性 せい を保持 ほじ する街 まち として「神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝國 まていこく 宝物 ほうもつ 展 てん 」が開催 かいさい された。今日 きょう コンサート会場 かいじょう として使 つか われる「聖 せい カテリーナ教会 きょうかい 」が会場 かいじょう となった。そうした宝物 ほうもつ の保管 ほかん 庫 こ がObere Schmiedgasse(オーベレ・シュミートガッセ、上鍛冶屋 かみかじや 小路 こうじ )52番地 ばんち の地下 ちか にあった。Kunstbunker(クンストブンカー、芸術 げいじゅつ 品 ひん 地下 ちか 保管 ほかん 庫 こ )は今 いま でも保存 ほぞん 、公開 こうかい され訪 おとず れる歴史 れきし ファンは多 おお い。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご [ 編集 へんしゅう ]
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、1945年 ねん から戦勝 せんしょう 国 こく はナチス独裁 どくさい 政権 せいけん 下 か の指導 しどう 的 てき 戦争 せんそう 犯罪 はんざい 人 じん に対 たい する裁判 さいばん 、いわゆる「ニュルンベルク裁判 さいばん 」を実施 じっし した。市 し の再建 さいけん は、建設 けんせつ 責任 せきにん 者 しゃ ハインツ・シュマイスナーの指揮 しき の下 した 、かつての都市 とし 構造 こうぞう に従 したが って街 まち の再建 さいけん を行 おこな うという方向 ほうこう 付 づ けがなされた。このため、オリジナルの建物 たてもの が広範囲 こうはんい に失 うしな われたにもかかわらず、たとえ実際 じっさい には大 だい 部分 ぶぶん の建物 たてもの が戦後 せんご に再建 さいけん されたものであるにせよ、城壁 じょうへき に囲 かこ まれた旧 きゅう 市街 しがい は中世 ちゅうせい の面影 おもかげ を残 のこ す美 うつく しい町並 まちなみ が復元 ふくげん され、多 おお くの場所 ばしょ で中世 ちゅうせい や近世 きんせい とのつながりを感 かん じ取 と ることができるのである。
平和 へいわ と人権 じんけん の都市 とし
過去 かこ を深 ふか く反省 はんせい し人権 じんけん の道 みち (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ニュルンベルク人権 じんけん センター (ドイツ語 ご 版 ばん ) などを設置 せっち し、ニュルンベルク国際 こくさい 人権 じんけん 賞 しょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ドイツ人権 じんけん 映画 えいが 賞 しょう (ドイツ語 ご 版 ばん ) などの授与 じゅよ などを行 おこな ってる。
市町村 しちょうそん 合併 がっぺい [ 編集 へんしゅう ]
1825年 ねん まで市域 しいき の面積 めんせき は160.84haであった。その後 ご 、産業 さんぎょう 革命 かくめい に伴 ともな い人口 じんこう は急速 きゅうそく な上昇 じょうしょう を続 つづ け、市域 しいき は多 おお くの独立 どくりつ した自治体 じちたい や地域 ちいき を合併 がっぺい して拡大 かくだい した。現在 げんざい の市域 しいき は186.6km2 である。
19世紀 せいき の工業 こうぎょう 化 か の始 はじ まりによって人口 じんこう は急速 きゅうそく に増加 ぞうか した。1812年 ねん のこの街 まち の人口 じんこう は2万 まん 6千 せん 人 にん であったが、1880年 ねん には10万 まん 人 にん を超 こ えて大都市 だいとし の仲間入 なかまい りをした。1900年 ねん には25万 まん 人 にん 、1972年 ねん にはその2倍 ばい で史上 しじょう 最大 さいだい の人口 じんこう 51万 まん 5千 せん 人 にん を記録 きろく した。1985年 ねん に46万 まん 5千 せん 人 にん にまで減少 げんしょう したが、その後 ご 再 ふたた び増加 ぞうか に転 てん じた。バイエルンの統計 とうけい データ局 きょく の記録 きろく によると2005年 ねん 12月31日 にち 付 づけ の公式 こうしき な人口 じんこう は499,237人 にん である。また、2006年 ねん 11月18日 にち に50万 まん 人 にん 目 め の市民 しみん が誕生 たんじょう した。50万 まん 人 にん 前後 ぜんこう での増減 ぞうげん があったため、これはニュルンベルクにとって3回 かい 目 め のできごとである。
ニュルンベルク市庁舎 しちょうしゃ
ニュルンベルク市議会 しぎかい は70人 にん の市議会 しぎかい 議員 ぎいん で構成 こうせい される。2020年 ねん 3月 がつ 15日 にち の選挙 せんきょ 結果 けっか に基 もと づく政党 せいとう 別 べつ 議員 ぎいん 配分 はいぶん は以下 いか の通 とお り[35] 。
上級 じょうきゅう 市長 しちょう は2020年 ねん 5月 がつ 1日 にち からマルクス・ケーニヒ (CSU) が務 つと めている。
大 だい 紋章 もんしょう
ニュルンベルク市 し の大 だい 紋章 もんしょう は青地 あおじ に、金 かね の冠 かんむり を被 こうむ った王 おう の顔 かお を持 も つ金 かね の鷲 わし を描 えが いたものである。この紋章 もんしょう は既 すで に1220年 ねん の印章 いんしょう に描 えが かれており、帝国 ていこく (すなわち帝国 ていこく 都市 とし )を象徴 しょうちょう 化 か したものである。頭部 とうぶ は一時 いちじ 的 てき に女性 じょせい の顔 かお にデザインされたことがある。現在 げんざい の形 かたち の大 だい 紋章 もんしょう は1936年 ねん に制作 せいさく され、1963年 ねん に市議会 しぎかい の承認 しょうにん を得 え た。
小 しょう 紋章 もんしょう
小 しょう 紋章 もんしょう は左右 さゆう 二 に 分割 ぶんかつ 。向 む かって左側 ひだりがわ は金地 きんじ に、赤 あか い爪 つめ と赤 あか い嘴 くちばし をもつ黒 くろ 鷲 わし の半身 はんしん 。向 む かって右 みぎ は5回 かい 入 い れ替 か わる赤 あか と銀 ぎん の斜 なな めストライプである。この斜 なな めストライプのデザインは1260年 ねん から既 すで に用 もち いられていた。帝国 ていこく の象徴 しょうちょう の鷲 わし は1350年 ねん から登場 とうじょう する。1513年 ねん 以降 いこう 、役所 やくしょ などの印章 いんしょう デザインとして用 もち いられており、その場合 ばあい 斜 なな めストライプの数 かず にバリエーションが見 み られる。現在 げんざい 一般 いっぱん 的 てき に用 もち いられる上述 じょうじゅつ の形 かたち は1936年 ねん に大 だい 紋章 もんしょう とともに制作 せいさく されたものである。小 しょう 紋章 もんしょう を基 もと に市 し の旗 はた も制作 せいさく された。旗 はた は赤 あか と白 しろ の斜 なな めストライプである。
ニュルンベルクは以下 いか の14の姉妹 しまい 都市 とし を持 も つ。これらの都市 とし のニュルンベルク事務所 じむしょ は、毎年 まいとし クリスマス 市 し にその地 ち の特産 とくさん 品 ひん (手 て 工芸 こうげい 品 ひん 、料理 りょうり 、服飾 ふくしょく 品 ひん など)を出店 しゅってん している。私的 してき な交流 こうりゅう サークルや若者 わかもの の相互 そうご 訪問 ほうもん 等 とう を通 つう じて互 たが いの接触 せっしょく は緊密 きんみつ になり、実際 じっさい 的 てき な助 たす けにもなっている。クラクフ やアンタリア には旧式 きゅうしき の、しかし可動 かどう 整備 せいび 済 ず みの市電 しでん が贈 おく られ、実用 じつよう に供 きょう されている。
クラクフの街 まち を走 はし る旧 きゅう ニュルンベルク市電 しでん の車両 しゃりょう
最初 さいしょ の姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい は1954年 ねん にニースと締結 ていけつ され、これは2004年 ねん により強固 きょうこ なものに改訂 かいてい された。1979年 ねん に締結 ていけつ されたクラクフとの協定 きょうてい をニュルンベルク市 し はそのインターネットサイトで「2つの都市 とし の共同 きょうどう 作業 さぎょう の大 だい 成功 せいこう 例 れい で、両市 りょうし の市民 しみん 交流 こうりゅう が常態 じょうたい 化 か するのに貢献 こうけん した。」と記述 きじゅつ している。最 もっと も親密 しんみつ な姉妹 しまい 都市 とし 関係 かんけい の一 ひと つが1982年 ねん に締結 ていけつ されたスコピエとのそれである。若者 わかもの の相互 そうご 訪問 ほうもん や双方 そうほう の芸術 げいじゅつ 家 か 交流 こうりゅう の他 ほか 、マケドニア 考古学 こうこがく 研究 けんきゅう の一 ひと つとして古代 こだい スコピエ発掘 はっくつ においてニュルンベルク自然 しぜん 史 し 協会 きょうかい との共同 きょうどう プロジェクトが進行 しんこう している。このプロジェクトは1998年 ねん 春 はる に始 はじ まり、その後 ご 50年間 ねんかん に及 およ ぶ長 なが いプロジェクトである。ニカラグアのサン・カルロとの姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい は1984年 ねん にニュルンベルク市民 しみん 主導 しゅどう で提唱 ていしょう され、コントラ戦争 せんそう 中 なか の1985年 ねん に締結 ていけつ された。相互 そうご 訪問 ほうもん を体験 たいけん した若者 わかもの 達 たち の働 はたら きかけで、サン・カルロ市 し は水 みず 供給 きょうきゅう の拡充 かくじゅう 、病院 びょういん の新設 しんせつ 、上級 じょうきゅう 学校 がっこう や文化 ぶんか 会館 かいかん といった施設 しせつ を得 え るに至 いた った。ニュルンベルクとグラスゴーは同 おな じ年 ねん に協定 きょうてい を結 むす び以後 いご 30年 ねん 以上 いじょう にわたって若者 わかもの の相互 そうご 訪問 ほうもん など親密 しんみつ な友好 ゆうこう 関係 かんけい を築 きず いている。
1990年 ねん の初 はじ めに結 むす ばれたハルキウとニュルンベルクの間 あいだ の姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい の焦点 しょうてん は援助 えんじょ であった。チェルノブイリ原子力 げんしりょく 発電 はつでん 所 しょ 事故 じこ 後 ご 、その処理 しょり に多 おお くの人 ひと が派遣 はけん された。ハルキウ食品 しょくひん 技術 ぎじゅつ 管理 かんり アカデミーはニュルンベルク科学 かがく 調査 ちょうさ 局 きょく の協力 きょうりょく で全 ぜん ウクライナの食品 しょくひん 調査 ちょうさ を行 おこな うための研究 けんきゅう 室 しつ をパイロットプロジェクト内 ない に立 た ち上 あ げた。ニュルンベルクとプラハの通商 つうしょう 交易 こうえき 関係 かんけい は13世紀 せいき から続 つづ くもので、1990年 ねん に姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい が締結 ていけつ された。一方 いっぽう 、ハデラとの姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい には長 なが い時間 じかん がかかった。1974年 ねん からドイツとイスラエルとの間 あいだ で相互 そうご 訪問 ほうもん が行 おこな われていた。市議 しぎ でニュルンベルク・イスラエル文化 ぶんか 協会 きょうかい 会長 かいちょう のアルノ・ハンブルガーは1986年 ねん の相互 そうご 訪問 ほうもん の際 さい に署名 しょめい 済 ず みの友好 ゆうこう 協定 きょうてい を携 たずさ えて行 い き、1995年 ねん になってやっと公式 こうしき な姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい が発効 はっこう した。1988年 ねん には、当時 とうじ ドイツ民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (東 ひがし ドイツ)に属 ぞく したテューリンゲン東部 とうぶ のゲーラと姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい を締結 ていけつ した。この協定 きょうてい は1990年 ねん に友好 ゆうこう 協定 きょうてい に変更 へんこう されたが、1997年 ねん に再度 さいど 姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい に改 あらた められた。1997年 ねん にはアンタリアとの姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい も成立 せいりつ した。ミッテルフランケン工業 こうぎょう 地域 ちいき の市町村 しちょうそん と深 ふか 圳経済 けいざい 特区 とっく の地域 ちいき パートナーシップから深 ふか 圳市とニュルンベルク市 し の姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい が締結 ていけつ された。両市 りょうし の動物 どうぶつ 園 えん 間 あいだ での動物 どうぶつ 交換 こうかん や、ニュルンベルク・ゲオルク=シモン=オーム専門 せんもん 大学 だいがく と深 ふか 圳ポリテクニックとの交換 こうかん 留学 りゅうがく などが行 おこな われている。1988年 ねん にはギリシアのカヴァラおよびアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のアトランタと姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい を結 むす んだ。14世紀 せいき の初 はじ めには既 すで にヴェネツィアとの交易 こうえき が行 おこな われていた。ニュルンベルクの商人 しょうにん 達 たち は中 ちゅう 欧 おう の香辛料 こうしんりょう 、絹 きぬ 、綿 めん の市場 いちば に強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を持 も っていた。また、彼 かれ らはヴェネツィア経由 けいゆ でニュルンベルクの雑貨 ざっか 、毛織物 けおりもの 、皮革 ひかく 製品 せいひん 、蜜 みつ 、琥珀 こはく などを輸出 ゆしゅつ した。両市 りょうし の姉妹 しまい 都市 とし 協定 きょうてい は1999年 ねん に締結 ていけつ された。
2004年 ねん のスマトラ島 すまとらとう 沖 おき 地震 じしん 後 ご 、2005年 ねん にニュルンベルクはスリランカ のカルクダ に対 たい する支援 しえん 都市 とし 協定 きょうてい を締結 ていけつ した。
日本 にっぽん とは、姉妹 しまい 都市 とし ではないが、さいたま市 し と2019年 ねん 11月15日 にち に経済 けいざい 連携 れんけい のための覚書 おぼえがき を締結 ていけつ している[36] 。
2007年 ねん にニュルンベルクは、そのヨーロッパ融和 ゆうわ 構想 こうそう に対 たい して欧州 おうしゅう 連合 れんごう のヨーロッパ賞 しょう を授与 じゅよ された。
平和 へいわ 人権 じんけん 都市 とし [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルクは、ナチス体制 たいせい 下 か で果 は たしたその役割 やくわり から、人権 じんけん に対 たい して歴史 れきし 的 てき 責任 せきにん を負 お っている。この都市 とし は、自 みずか らに平和 へいわ と人権 じんけん 保護 ほご への積極 せっきょく 的 てき 貢献 こうけん が義務 ぎむ づけられていることを強 つよ く自覚 じかく している。その達成 たっせい のために、人間 にんげん の尊厳 そんげん の記念 きねん 碑 ひ 「人権 じんけん の道 みち 」や、時代 じだい を超 こ えてニュルンベルクの国家 こっか 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 時代 じだい の情報 じょうほう を提供 ていきょう する党 とう 大会 たいかい 会場 かいじょう の資料 しりょう センターを設立 せつりつ した。1995年 ねん からは人権 じんけん 擁護 ようご に功績 こうせき があった人物 じんぶつ に対 たい して与 あた えられるニュルンベルク人権 じんけん 賞 しょう も設 もう けられた。また、人間 にんげん の尊厳 そんげん についての機関 きかん 、ニュルンベルク人権 じんけん センターが組織 そしき され「ニュルンベルク人権 じんけん ビューロ」が開設 かいせつ された。2年 ねん に1度 ど ドイツ人権 じんけん 映画 えいが 賞 しょう が授与 じゅよ される。ニュルンベルク人権 じんけん 映画 えいが 祭 さい はこの街 まち の文化 ぶんか 行事 ぎょうじ の確固 かっこ たる構成 こうせい 要素 ようそ の一 ひと つと認 みと められている。ニュルンベルク市 し は2000年 ねん 12月 がつ 10日 とおか に人権 じんけん 教育 きょういく に対 たい してユネスコ賞 しょう を授与 じゅよ された。国際 こくさい 連合 れんごう 教育 きょういく 科学 かがく 文化 ぶんか 機関 きかん (ユネスコ)はニュルンベルク市 し の平和 へいわ と人権 じんけん 尊重 そんちょう に対 たい する模範 もはん 的 てき な取 と り組 く みを、この賞 しょう で評価 ひょうか を与 あた えたのである。
経済 けいざい と社会 しゃかい 資本 しほん [ 編集 へんしゅう ]
これに加 くわ え、ニュルンベルクは人口 じんこう 350万 まん 人 にん を擁 よう するヨーロッパ大都市 だいとし 圏 けん ニュルンベルクの中心 ちゅうしん 都市 とし でもある。2000年 ねん 7月 がつ に深 ふか 圳のヨーロッパ事務所 じむしょ がニュルンベルクに開設 かいせつ された。
ニュルンベルクの経済 けいざい 状況 じょうきょう [ 編集 へんしゅう ]
古 ふる くからの工業 こうぎょう 都市 とし としてニュルンベルクは産業 さんぎょう 構造 こうぞう 変化 へんか に強 つよ く関 かか わっている。2007年 ねん 6月 がつ 現在 げんざい のニュルンベルク市 し の失業 しつぎょう 率 りつ は9.8%でバイエルン州 しゅう で2番目 ばんめ に高 たか く、州 しゅう 平均 へいきん (5.0%) のほぼ2倍 ばい に相当 そうとう する。近年 きんねん サービス業 ぎょう を主体 しゅたい とする都市 とし への改革 かいかく が試 こころ みられているが、工業 こうぎょう 分野 ぶんや での失業 しつぎょう を一部 いちぶ 緩和 かんわ しているに過 す ぎない。ニュルンベルクには、エアランゲン=ニュルンベルク大学 だいがく の専門 せんもん 課程 かてい のキャンパスがあるものの、固有 こゆう の総合大学 そうごうだいがく を持 も たないことが不利 ふり に働 はたら いている。
農業 のうぎょう 、鉱業 こうぎょう [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク北部 ほくぶ のクノプラウフスラント(ニンニクの地 ち )は広 ひろ い野菜 やさい 耕作 こうさく 地域 ちいき で、特 とく に初夏 しょか のアスパラガス の産地 さんち として知 し られる重要 じゅうよう な農耕 のうこう 地 ち である。ヴォルツェルドルフ周辺 しゅうへん には、ヴォルツェルドルフ砂岩 さがん が産出 さんしゅつ する。ニュルンベルクの多 おお くの建造 けんぞう 物 ぶつ がこの砂岩 さがん で造 つく られており、芸術 げいじゅつ 史上 しじょう 大変 たいへん に重要 じゅうよう である。さらにニュルンベルクでは特筆 とくひつ すべき地下 ちか 資源 しげん が見 み つかっている。
ニュルンベルクの工業 こうぎょう 都市 とし としての重要 じゅうよう 性 せい は、その品質 ひんしつ の高 たか さからヨーロッパ全土 ぜんど でその製品 せいひん が評価 ひょうか された中世 ちゅうせい の伝統 でんとう に根 ね ざしている。このことから、「Nürnberger Tand geht in alle Land」(「ニュルンベルクのガラクタは世間 せけん で通用 つうよう する」)という成句 せいく が生 う まれた。現在 げんざい でも、ある種 しゅ の分野 ぶんや では最先端 さいせんたん の能力 のうりょく を有 ゆう している。ニュルンベルクは、特 とく に情報 じょうほう ・コミュニケーション、エネルギー・電力 でんりょく 供給 きょうきゅう 、交通 こうつう ・流通 りゅうつう といった分野 ぶんや ではヨーロッパで最先端 さいせんたん にある。また、印刷 いんさつ の分野 ぶんや においてはハンブルク を凌 しの ぐドイツ最大 さいだい の印刷 いんさつ の街 まち である(#印刷 いんさつ で詳述 しょうじゅつ )。市 し の北部 ほくぶ にあるアルカテル・ルーセント の「オプティカル・センター・オブ・エクセレンス」は、同社 どうしゃ のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 外 がい 最大 さいだい の研究 けんきゅう センターである。
それでもニュルンベルクは、過去 かこ 25年間 ねんかん 絶 た えず工場 こうじょう 閉鎖 へいさ や職場 しょくば 移転 いてん を甘受 かんじゅ してきた。特 とく に打撃 だげき を受 う けたのは、特殊 とくしゅ 機械 きかい 製造 せいぞう と家電 かでん 産業 さんぎょう であった。ニュルンベルク南部 なんぶ のMAN の敷地 しきち は、時代 じだい とともに縮小 しゅくしょう を続 つづ けた。2006年 ねん 前半 ぜんはん に発表 はっぴょう されたニュルンベルクAEG の工場 こうじょう 閉鎖 へいさ は、黒字 くろじ であるにもかかわらずイタリアやポーランド に移転 いてん したという点 てん で注目 ちゅうもく される。
市場 いちば 調査 ちょうさ の分野 ぶんや では、第 だい 5位 い の市場 いちば 調査 ちょうさ 会社 かいしゃ ・GfK がニュルンベルクにあり、ドイツをリードする立場 たちば にある。この町 まち 最大 さいだい の雇用 こよう 主 ぬし であるNürnberger Versicherung・ニュルンベルク保険 ほけん グループは、サービス業 ぎょう におけるニュルンベルクの大 だい 企業 きぎょう である。さらにニュルンベルクはコール・センターの分野 ぶんや でも重要 じゅうよう な都市 とし である。
ニュルンベルク・メッセ
ニュルンベルク・メッセはドイツで最 もっと も重要 じゅうよう な会議 かいぎ ・見本市 みほんいち 会場 かいじょう の一 ひと つであり、世界 せかい の見本市 みほんいち 会場 かいじょう トップ20のリストにも挙 あ げられる。この会場 かいじょう では、毎年 まいとし ニュルンベルク玩具 おもちゃ 見本市 みほんいち が開催 かいさい されている。
ニュルンベルクはドイツで重要 じゅうよう な印刷 いんさつ の街 まち である。2002年 ねん には6,000人 にん 以上 いじょう が43の印刷 いんさつ 会社 かいしゃ で勤務 きんむ し、その売 う り上 あ げは12億 おく ユーロ以上 いじょう であった。ニュルンベルク最大 さいだい の印刷 いんさつ 会社 かいしゃ はマウル=ベルザーと、「u.s. ゼーバルト・ティーフドルック」および「ヘッケル・ロレンオフセット」を傘下 さんか に持 も つシュロット・グループAGである。ニュルンベルクで最 もっと もよく知 し られた出版 しゅっぱん 物 ぶつ は、発行 はっこう 部数 ぶすう 1500万 まん 部 ぶ の『クヴェレ・カタログ』、『c't 』(約 やく 50万 まん 部 ぶ )、『キッカー・シュポルトマガツィーン 』、『ニュルンベルガー・ナハリヒテン』などである。『ニュルンベルガー・ナハリヒテン』は発行 はっこう 部数 ぶすう 約 やく 30万 まん 部 ぶ で、ドイツ最大 さいだい の地方 ちほう 新聞 しんぶん である。
職業 しょくぎょう 構造 こうぞう [ 編集 へんしゅう ]
職種 しょくしゅ
社会 しゃかい 保険 ほけん 支払 しはら い義務 ぎむ のある就業 しゅうぎょう 人口 じんこう
比率 ひりつ (%)
農林 のうりん 水産 すいさん 業 ぎょう
1,247
0.5
鉱業 こうぎょう (採石 さいせき 業 ぎょう を含 ふく む)
32
0.0
加 か 工業 こうぎょう
55,667
22.0
エネルギー、水 みず 供給 きょうきゅう
3,096
1.2
建設 けんせつ 業 ぎょう
7,675
3.0
商業 しょうぎょう
38,081
15.1
観光 かんこう 業 ぎょう
6,517
2.6
交通 こうつう 、情報 じょうほう 伝達 でんたつ
21,774
8.6
信販 しんぱん 、保険 ほけん 業 ぎょう
15,488
6.1
不動産 ふどうさん 、企業 きぎょう サービス
50,434
20.0
行政 ぎょうせい など
15,628
6.2
サービス業 ぎょう (行政 ぎょうせい を除 のぞ く)
36,788
14.6
合計 ごうけい
252,469
100.0 %
2005年 ねん 6月 がつ 現在 げんざい 出典 しゅってん : ニュルンベルク市 し 都市 とし 研究 けんきゅう ・統計 とうけい 局 きょく
産業 さんぎょう 地区 ちく 、産業 さんぎょう パーク[ 編集 へんしゅう ]
過去 かこ 15年間 ねんかん にニュルンベルクには多 おお くの産業 さんぎょう 地区 ちく や産業 さんぎょう パークが形成 けいせい された。
オイロコム: ランクヴァッサー地区 ちく 。
フランケン・キャンパス: ジュートシュタットのフランケン通 どお り沿 ぞ い、旧 きゅう MAN跡地 あとち 。
アルテンフルト産業 さんぎょう 地区 ちく
モーレンブルン産業 さんぎょう 地区 ちく : ジーメンス AG の大 おお きな管理 かんり センターがある。
ニュルンベルク=フォイヒト産業 さんぎょう パーク: Munaの北側 きたがわ の旧 きゅう 米 べい 軍 ぐん 飛行場 ひこうじょう 跡 あと 。
ヘルクレス=パルク: ノーピッチュ通 どお り沿 ぞ いにあり、初 はじ めHercules-Werke(二輪車 にりんしゃ メーカー)が、後 のち にザックス (SACHS-Motorrad-Werke) が立地 りっち している。
ハイテクセンター・ノルト
マックストーアホーフ: ピルクハイマー通 どお り、かつて筆記具 ひっきぐ メーカーのスワンスタビロ 社 しゃ があった。
ノルトオストパルク
ニュルバヌム: アラースベルガー通 どお り。かつてTeKaDe社 しゃ が、現在 げんざい はフィリップス がある。
ジュート=ヴェスト=パルク: ゲーバースドルフ区 く 。
TA-ゲレンデ: フュルター通 どお り。かつてはオートバイ・メーカーのトライアンフ (Triumph-Werke-Nürnberg-Motorradwerk) やタイプライター・メーカーのTriumph-Adler社 しゃ があった。
ティリー=パルク: グスタフ=アドルフ通 どお り。旧 きゅう ドイツ連邦 れんぽう 軍 ぐん 歩兵 ほへい 連隊 れんたい 兵舎 へいしゃ の跡地 あとち 。
VDM-アレアル: シュヴァイナウ区 く 。
鉄道 てつどう の泉 いずみ に飾 かざ られた鉄道 てつどう 開業 かいぎょう 時 じ のニュルンベルク駅 えき を描 えが いた銅板 どうばん レリーフ
ニュルンベルクは交通 こうつう の要衝 ようしょう に位置 いち し、中世 ちゅうせい には既 すで に重要 じゅうよう な交易 こうえき 路 ろ がいくつも交差 こうさ していた。このためかつてニュルンベルクはヨーロッパで最 もっと も裕福 ゆうふく な都市 とし の一 ひと つであった。1835年 ねん 12月8日 にち にドイツ初 はつ の鉄道 てつどう アドラー号 ごう がニュルンベルクとフュルトの間 あいだ で運行 うんこう を始 はじ めた。その後 ご 、19世紀 せいき に鉄道 てつどう 網 もう が整備 せいび されるにつれ国際 こくさい 交通 こうつう の結節 けっせつ 点 てん としての地位 ちい はより重要 じゅうよう 性 せい を増 ま していった。
20世紀 せいき に入 はい り、多 おお くの遠距離 えんきょり 道路 どうろ 、空港 くうこう 、港 みなと が新設 しんせつ 、拡充 かくじゅう され、この街 まち は重要 じゅうよう な交通 こうつう ポイントとして発展 はってん した。
ドイツの地方 ちほう 間 あいだ を結 むす ぶ広域 こういき 交通 こうつう はドイツ鉄道 てつどう が担 にな っている。ニュルンベルク中央 ちゅうおう 駅 えき は、その広域 こういき 交通 こうつう における北 きた バイエルンのハブ駅 えき の役割 やくわり を果 は たしている。ニュルンベルクは多 おお くのICE 、IC およびいくつかの急行 きゅうこう 列車 れっしゃ の乗 の り継 つ ぎ駅 えき となっている。
ニュルンベルク中央 ちゅうおう 駅 えき
主要 しゅよう 路線 ろせん は以下 いか の通 とお り。
2008年 ねん 4月 がつ からニュルンベルク中央 ちゅうおう 駅 えき には、ヘルスブルック に本社 ほんしゃ を置 お く私鉄 してつ IGEの列車 れっしゃ が時折 ときおり 停車 ていしゃ するようになった。
主 おも に東 ひがし ヨーロッパ方面 ほうめん へのたくさんのバス路線 ろせん があり、長距離 ちょうきょり 交通 こうつう を円滑 えんかつ なものにしている。主要 しゅよう な発着 はっちゃく 所 しょ はニュルンベルク・バスステーションで、中央 ちゅうおう 駅 えき から徒歩 とほ 約 やく 2分 ぶん の距離 きょり にある。
ニュルンベルクとインゴルシュタットを結 むす ぶレギオナルエクスプレス。手前 てまえ に写 うつ っているのは制御 せいぎょ 客車 きゃくしゃ で、もう一方 いっぽう の端 はし に機関 きかん 車 しゃ が連結 れんけつ されたプッシュプル列車 れっしゃ である
数 すう 多 おお くの地域 ちいき 交通 こうつう が広域 こういき 交通 こうつう 網 もう を補完 ほかん している。レギオナルエクスプレスやレギオナルバーンの列車 れっしゃ が、アムベルク 、アンスバッハ 、フォルヒハイム 、キッツィンゲン 、パールスベルク 、ペグニッツ 、トロイヒトリンゲン 方面 ほうめん を結 むす んでいる。
2006年 ねん 12月 がつ 10日 とおか にニュルンベルク-インゴルシュタット-ミュンヘン高速 こうそく 線 せん を経由 けいゆ する地域 ちいき 列車 れっしゃ 「ミュンヘン・ニュルンベルク・エクスプレス 」が運行 うんこう を開始 かいし した。最高 さいこう 速度 そくど 190km/hで走行 そうこう するドイツ国内 こくない で2番目 ばんめ に速度 そくど の速 はや い地域 ちいき 列車 れっしゃ となっており、ミュンヘンまで2時 じ 間 あいだ 弱 じゃく で結 むす んでいる。
統一 とういつ 料金 りょうきん システムであるため、地域 ちいき 交通 こうつう や市内 しない 交通 こうつう は広域 こういき 交通 こうつう を一緒 いっしょ に利用 りよう することができる。ニュルンベルク広域 こういき 交通 こうつう 連盟 れんめい (VGN) の料金 りょうきん は、全 ちょん ミッテルフランケン とオーバーフランケン 、ウンターフランケン 、オーバープファルツ の一部 いちぶ でも有効 ゆうこう である。
ニュルンベルク市電 しでん
近郊 きんこう 公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん の市内 しない 路線 ろせん はニュルンベルク交通 こうつう 活動 かつどう 会社 かいしゃ (VAG) が運営 うんえい している。交通 こうつう の基本 きほん 骨格 こっかく は3つの市電 しでん 路線 ろせん と3つのUバーン(地下鉄 ちかてつ )路線 ろせん からなる鉄道 てつどう 路線 ろせん により形成 けいせい される。ドイツ鉄道 てつどう の3つのSバーン も都市 とし 交通 こうつう に分類 ぶんるい され、ニュルンベルク市内 しない 交通 こうつう の重要 じゅうよう な一部 いちぶ を担 にな っている。51路線 ろせん ある市 し バスは、Uバーン、Sバーン、市電 しでん が運行 うんこう していない地域 ちいき を結 むす び、その開発 かいはつ に寄与 きよ している。
2005年 ねん の統計 とうけい では、VGNが統合 とうごう 管理 かんり している公共 こうきょう 交通 こうつう 機関 きかん は、延 の べ1億 おく 4767万 まん 人 にん の乗客 じょうきゃく を運 はこ んだ[37] 。
ニュルンベルク市内 しない 交通 こうつう の特徴 とくちょう として以下 いか の点 てん が挙 あ げられる。
全 すべ ての市電 しでん およびバス車両 しゃりょう が低 てい 床 ゆか 車 しゃ である。
天然 てんねん ガス で走 はし るバスがドイツで最初 さいしょ に路線 ろせん バスに採用 さいよう された。
2008年 ねん 6月 がつ 14日 にち に開業 かいぎょう した地下鉄 ちかてつ U3線 せん は、世界 せかい で初 はじ めて自動 じどう 運転 うんてん 車両 しゃりょう と従来 じゅうらい 通 どお りの有人 ゆうじん 運転 うんてん 車両 しゃりょう が混在 こんざい する路線 ろせん 区間 くかん を有 ゆう する。
ニュルンベルク周辺 しゅうへん のアウトバーンと主要 しゅよう 道路 どうろ
ニュルンベルクは主要 しゅよう な連邦 れんぽう アウトバーンの交差点 こうさてん となっており、市 し の東部 とうぶ と南部 なんぶ にジャンクションが設 もう けられている。
市域 しいき 内 ない を貫 つらぬ いている環状 かんじょう 連邦 れんぽう 道 どう B4R号 ごう 線 せん に以下 いか の連邦 れんぽう 道 どう が接続 せつぞく する。
市内 しない の全 ぜん 道路 どうろ の総 そう 距離 きょり は1,138.8kmである(2006年 ねん 1月 がつ 1日 にち 現在 げんざい )。500以上 いじょう の交差点 こうさてん に信号 しんごう 機 き が設 もう けられている。信号 しんごう 機 き は時刻 じこく や交通 こうつう 状況 じょうきょう に応 おう じて自動 じどう と手動 しゅどう を切 き り替 か えるようプログラムされている。消防 しょうぼう 車両 しゃりょう 、市電 しでん 、路線 ろせん バスは100以上 いじょう の交差点 こうさてん で常 つね に優先 ゆうせん となる。
住民 じゅうみん 1000人 にん に付 つ き582台 だい の原動機 げんどうき 付 つ き車両 しゃりょう がある。ニュルンベルクの交通 こうつう 量 りょう の大 おお きな部分 ぶぶん を日々 ひび の通勤 つうきん 者 しゃ が占 し めている。2005年 ねん に行 おこな われた平日 へいじつ の無 む 作為 さくい 調査 ちょうさ では572,543台 だい の車両 しゃりょう が市 し 境 さかい を越 こ えて往来 おうらい していた。
2004年 ねん の交通 こうつう 事故 じこ 統計 とうけい によれば、市内 しない の交通 こうつう 事故 じこ で2,703人 にん が負傷 ふしょう し、11人 にん が亡 な くなった。
動的 どうてき 交通 こうつう システム[ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルクの動的 どうてき 交通 こうつう システムに連動 れんどう した可変 かへん 式 しき 標示 ひょうじ 板 ばん
催 もよお し物 もの や工事 こうじ 、事故 じこ といった特殊 とくしゅ な場合 ばあい の交通 こうつう 規制 きせい のために、ニュルンベルクには動的 どうてき 交通 こうつう 制御 せいぎょ システムが導入 どうにゅう されている。これは道路 どうろ 上 じょう の交通 こうつう 量 りょう 、車両 しゃりょう 種別 しゅべつ 、おおよその速度 そくど を把握 はあく するもので、こうした情報 じょうほう は自動的 じどうてき 、あるいは人 ひと により解析 かいせき され、交通 こうつう 状況 じょうきょう を適正 てきせい に保 たも つようアウトバーン周辺 しゅうへん はじめ市内 しない 140カ所 かしょ に設 もう けられた可変 かへん 式 しき 標示 ひょうじ 板 ばん の表示 ひょうじ を切 き り替 か える。ニュルンベルクの動的 どうてき 交通 こうつう 制御 せいぎょ システムは、この種 たね のものとしてはヨーロッパ最大 さいだい 規模 きぼ のものである。
ADAC は2003年 ねん にニュルンベルクの自転車 じてんしゃ 道路 どうろ 網 もう の状況 じょうきょう を平均 へいきん 並 な みと評価 ひょうか した。短所 たんしょ としては、たとえばブーヒャー通 どお りやターフェルフェルト通 どお りのような主要 しゅよう 道路 どうろ 沿 ぞ いの自転車 じてんしゃ レーンが不足 ふそく している点 てん を批判 ひはん している。長所 ちょうしょ としては、比較的 ひかくてき 少 すく ない事故 じこ 数 すう と、信号 しんごう の切 き り替 か えが自転車 じてんしゃ に配慮 はいりょ されている点 てん が挙 あ げられている。
2005年 ねん の全 ぜん ドイツ自転車 じてんしゃ クラブ (ADFC) が行 おこな った行 い ったアンケート調査 ちょうさ では、人口 じんこう 20万 まん 人 にん 以上 いじょう の都市 とし 部門 ぶもん で28都市 とし 中 ちゅう 13位 い と中 ちゅう 程度 ていど の評価 ひょうか であった。ここでは市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ へのアクセスの良 よ さが評価 ひょうか され、工場 こうじょう 周辺 しゅうへん 地域 ちいき の交通 こうつう が批判 ひはん されている。[38]
ニュルンベルクは、約 やく 1.6km2 の旧 きゅう 市街 しがい 内 ない にいくつもの歩行 ほこう 者 しゃ 専用 せんよう 道 どう があり、その総 そう 延長 えんちょう は約 やく 5,700mである。市議会 しぎかい は1966年 ねん に地下鉄 ちかてつ が建設 けんせつ され地上 ちじょう の交通 こうつう が格納 かくのう された跡地 あとち を歩行 ほこう 者 しゃ 専用 せんよう 区域 くいき にすることを決 き めた。1973年 ねん に都市 とし 建設 けんせつ のコンペ が行 おこな われ、ベルンハルト・ヴィンクラーの提案 ていあん が勝利 しょうり し、採用 さいよう された。この計画 けいかく に基 もと づいて1975年 ねん に歩行 ほこう 者 しゃ 専用 せんよう 区域 くいき が設 もう けられた。[39]
ペグニッツ川 がわ や、ヴェールダー・ヴィーゼ、ヴェールダー湖 みずうみ 沿 ぞ いの歩行 ほこう 者 しゃ 専用 せんよう 道 どう は人気 にんき があり、多 おお くの散策 さんさく 車 しゃ やジョガーに利用 りよう されている。
市 し の北部 ほくぶ にあるニュルンベルク空港 くうこう は、ニュルンベルクを国内 こくない ・国外 こくがい 航空 こうくう 路 ろ に結 むす びつけている。
離着陸 りちゃくりく 数 すう は1998年 ねん の84,041回 かい から2006年 ねん には78,043回 かい に減少 げんしょう しているものの、この間 あいだ の利用 りよう 者 しゃ 数 すう は2,529,307人 にん から3,965,357人 にん と増加 ぞうか している。
ニュルンベルク・バイエルン港 こう (ドイツ語 ご 版 ばん )
ニュルンベルクは市 し の西端 せいたん を通 とお るマイン=ドナウ運河 うんが によって国内 こくない ・国際 こくさい 航路 こうろ と結 むす ばれている。ニュルンベルク・バイエルン港 こう (ドイツ語 ご 版 ばん ) の近 ちか くに南 みなみ ドイツ最大 さいだい の貨物 かもつ 流通 りゅうつう センター(ドイツ語 ご 版 ばん 、デンマーク語 ご 版 ばん 、イタリア語 ご 版 ばん 、ポーランド語 ご 版 ばん ) (GVZ) がある。
新聞 しんぶん 、定期 ていき 刊行 かんこう 物 ぶつ [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルクの主要 しゅよう な新聞 しんぶん には、『ニュルンベルガー・ナハリヒテン』 (NN)、『ニュルンベルガー・ツァイトゥンク』 (NZ)、『アーベントツァイトゥンク』および『ビルトツァイトゥンク・ニュルンベルク』がある。市 し 自身 じしん も定期 ていき 刊行 かんこう 紙 し 『ニュルンベルク・ホイテ』を発行 はっこう している。この情報 じょうほう 紙 し は市 し のできごとや今後 こんご の展望 てんぼう について解説 かいせつ するものである。ニュルンベルクのオリンピア出版 しゅっぱん のスポーツ紙 し 『キッカー 』は連邦 れんぽう 全土 ぜんど で発刊 はっかん されている。
バイエルン放送 ほうそう はニュルンベルクにスタジオ・フランケンを有 ゆう し、フランケン地方 ちほう 全域 ぜんいき のラジオおよびテレビの報道 ほうどう を担当 たんとう させている。民放 みんぽう のフランケンTVはニュルンベルク=フュルト=エアランゲン地区 ちく 、ならびに全 ぜん ミッテルフランケンおよびオーバープファルツ西部 せいぶ 向 む けに放送 ほうそう を行 おこな っている。
2005年 ねん 5月 がつ 30日 にち から24のテレビ局 てれびきょく はDVB-T 方式 ほうしき のデジタル放送 ほうそう をニュルンベルク送信 そうしん 所 しょ から送信 そうしん し始 はじ め、2005年 ねん 8月 がつ 31日 にち にアナログ放送 ほうそう をデジタル放送 ほうそう に切 き り替 か えることを決定 けってい した。ニュルンベルクはドイツで9番目 ばんめ にデジタル化 か された地域 ちいき である。
2006年 ねん 3月 がつ 以降 いこう 、IT-サービス会社 かいしゃ アトス・オリジン は、ハンブルクにあったプレミア・テレビGmbHの計算 けいさん 機 き センター管理 かんり 部門 ぶもん をニュルンベルクに移 うつ した。
ニュルンベルク地方 ちほう では、バイエルン放送 ほうそう のスタジオ・フランケンの他 ほか 、様々 さまざま な商用 しょうよう ローカル放送 ほうそう がある。ゴング 97.1、ヒット・ラジオ N1、シャリヴァーリ 98.9、ピラト・ラジオ、ラジオFなどである。これらは共用 きょうよう のラジオ放送 ほうそう 局 きょく をニュルンベルクに置 お いている。ヴィルラジオ 91.0は市内 しない 中心 ちゅうしん 部 ぶ にスタジオをもち、NRJラジオ・グループのエナジー・ニュルンベルクはニュルンベルク保険 ほけん のビジネスタワー内 ない にスタジオを所有 しょゆう している。
この他 ほか にラジオZや教育 きょういく チャンネル AFK maxも放送 ほうそう を行 おこな っている。
連邦 れんぽう 労働 ろうどう 局 きょく の管理 かんり センター
ニュルンベルクは以下 いか の政府 せいふ 官庁 かんちょう 、施設 しせつ もしくは公益 こうえき 法人 ほうじん の所在地 しょざいち である。
連邦 れんぽう 労働 ろうどう 局 きょく
連邦 れんぽう 移民 いみん ・難民 なんみん 局 きょく (旧 きゅう 連邦 れんぽう 未 み 確認 かくにん 外国 がいこく 人 じん 難民 なんみん 局 きょく )
ニュルンベルク中央 ちゅうおう 税務署 ぜいむしょ
連邦 れんぽう 労働 ろうどう 局 きょく の、労働 ろうどう 市場 いちば と職業 しょくぎょう に関 かん する研究所 けんきゅうじょ
連邦 れんぽう 上級 じょうきゅう 金融 きんゆう 監督 かんとく 局 きょく
連邦 れんぽう 労働 ろうどう 局 きょく バイエルン地方 ちほう 監督 かんとく 局 きょく
ニュルンベルク水利 すいり ・水運 すいうん 局 きょく
連邦 れんぽう 警察 けいさつ ニュルンベルク監査 かんさ 局 きょく
さらに
ミッテルフランケン手工業 しゅこうぎょう 組合 くみあい
ニュルンベルク商工 しょうこう 会議 かいぎ 所 しょ
歯科 しか 医師 いし 会 かい
もある。
ニュルンベルク区 く 裁判所 さいばんしょ
ニュルンベルク=フュルト地方裁判所 ちほうさいばんしょ
ニュルンベルク上級 じょうきゅう 地方裁判所 ちほうさいばんしょ
ニュルンベルク金融 きんゆう 裁判所 さいばんしょ
ニュルンベルク社会 しゃかい 裁判所 さいばんしょ
教育 きょういく ・研究 けんきゅう [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルクにはフリードリヒ=アレクサンダー大学 だいがく エアランゲン=ニュルンベルク の法律 ほうりつ ・経済学部 けいざいがくぶ 経済 けいざい 学 がく 専攻 せんこう 部門 ぶもん (かつては独立 どくりつ したニュルンベルク経済 けいざい 学 がく ・社会 しゃかい 学 がく 専門 せんもん 大学 だいがく であった)と旧 きゅう 教育 きょういく 学部 がくぶ の研究所 けんきゅうじょ (旧 きゅう 教育 きょういく 専門 せんもん 大学 だいがく )がある。この他 ほか にゲオルク=ジモン=オーム専門 せんもん 大学 だいがく ニュルンベルク、造形 ぞうけい 芸術 げいじゅつ アカデミー、ニュルンベルク・プロテスタント専門 せんもん 大学 だいがく 、ニュルンベルク音楽 おんがく 大学 だいがく がある。
この他 ほか の市内 しない の教育 きょういく 機関 きかん としては、ギムナジウム が13校 こう 、実科 じっか 学校 がっこう が5校 こう 、総合 そうごう 学校 がっこう が3校 こう 、専門 せんもん 上級 じょうきゅう 職業 しょくぎょう 学校 がっこう が2校 こう あり、多 おお くの職業 しょくぎょう 学校 がっこう 、職業 しょくぎょう 専門 せんもん 学校 がっこう 、専門 せんもん 学校 がっこう 、本 ほん 課程 かてい 学校 がっこう 、基礎 きそ 課程 かてい 学校 がっこう がある。
労働 ろうどう 市場 いちば と職業 しょくぎょう に関 かん する研究所 けんきゅうじょ
市 し の北東 ほくとう 部 ぶ にAlcatel-Lucentの「オプティカル・センター・オブ・エクセレンス」がある。ここにはフラウンホーファー協会 きょうかい の集積 しゅうせき 回路 かいろ 研究所 けんきゅうじょ (IIS) もある。
ニュルンベルクは労働 ろうどう 市場 いちば と職業 しょくぎょう 研究 けんきゅう の中心 ちゅうしん 地 ち でもある。労働 ろうどう 市場 いちば と職業 しょくぎょう に関 かん する研究所 けんきゅうじょ (IAB) と企業 きぎょう 教育 きょういく 研究所 けんきゅうじょ (f-bb) がある。
図書館 としょかん 、資料 しりょう 館 かん [ 編集 へんしゅう ]
市立 しりつ 図書館 としょかん は、エギディーンプラッツ図書館 としょかん (ピラーハウス内 ない )、中央 ちゅうおう 図書館 としょかん 、多 おお くの特別 とくべつ 図書館 としょかん 、指導 しどう 図書館 としょかん を運営 うんえい している。市立 しりつ 図書館 としょかん の管理 かんり 部門 ぶもん はエギディーンプラッツ図書館 としょかん に置 お かれている。市立 しりつ 図書館 としょかん の分館 ぶんかん はフランケン・センター近 ちか くのランクヴァッサー区 く にある。エアランゲン=ニュルンベルク大学 だいがく の図書館 としょかん は、他 た の大学 だいがく 施設 しせつ に近 ちか いトゥッヒャーゲレンデにある。
ニュルンベルク市立 しりつ 文書 ぶんしょ 館 かん は、ノリスハレ(マリエントーアグラーベン 8)にある。
ニュルンベルク裁判所 さいばんしょ (ドイツ語 ご 版 ばん ) -1916年 ねん に完成 かんせい 、1932年 ねん まで裁判所 さいばんしょ として利用 りよう された。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では完成 かんせい していた西側 にしがわ 部分 ぶぶん が軍 ぐん 病院 びょういん として利用 りよう された。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん では、軍 ぐん や政府 せいふ 機関 きかん やゲシュタポ などの部署 ぶしょ が置 お かれた。戦争 せんそう の被害 ひがい はほとんどなく。戦後 せんご になると、ナチス党 とう がニュルンベルクで党 とう 大会 たいかい を行 おこな っていたことから、象徴 しょうちょう 的 てき にニュルンベルクで国際 こくさい 刑事 けいじ 法 ほう に基 もと づく初 はじ めての軍事 ぐんじ 裁判 さいばん を行 おこな った。その時 とき に使 つか われたのがニュルンベルク裁判所 さいばんしょ 600号室 ごうしつ である。
劇場 げきじょう と映画 えいが 館 かん [ 編集 へんしゅう ]
チネチッタ・ニュルンベルク
ニュルンベルクの一番 いちばん 大 おお きな劇場 げきじょう はニュルンベルク州立 しゅうりつ 劇場 げきじょう (オペラハウス(歌劇 かげき 場 じょう )とシャウシュピールハウス(演劇 えんげき 場 じょう )からなる)である。この他 ほか に、これよりは小 ちい さな劇場 げきじょう がいくつかある。
ゴストナー・ホーフ劇場 げきじょう
ニュルンベルク・ブルク劇場 げきじょう
タッシロ劇場 げきじょう
タリアス・コムパグノンス — 人形 にんぎょう 劇場 げきじょう
ニュルンベルクには良質 りょうしつ な子供 こども 劇場 げきじょう もある
ムムピッツ劇場 げきじょう
ロールレッフェル劇場 げきじょう
プフュッツェ劇場 げきじょう
ニュルンベルク旧 きゅう 市街 しがい 劇場 げきじょう e.V.
ニュルンベルクの商用 しょうよう 映画 えいが 館 かん は、フィルムハウス・ニュルンベルク、外国 がいこく 語 ご 映画 えいが 館 かん ロキシーのほか、チネチッタ・ニュルンベルク(ドイツ最大 さいだい のシネマコンプレックス )、キノパラスト・アドミラル、その他 た 小 ちい さな映画 えいが 館 かん がある。
ニュルンベルク・ブルク劇場 げきじょう
キノパラスト・アドミラル
アルブレヒト・デューラー・ハウス
ニュルンベルクは芸術 げいじゅつ 史 し 、文化 ぶんか 史 し の博物館 はくぶつかん が豊富 ほうふ な街 まち である。多 おお くの芸術 げいじゅつ 作品 さくひん を街 まち のあちらこちらにある博物館 はくぶつかん で見 み ることができる。主要 しゅよう な博物館 はくぶつかん は以下 いか の通 とお り。
アルブレヒト・デューラー・ハウス: ニュルンベルクの画家 がか アルブレヒト・デューラー の住居 じゅうきょ で、デューラーの生涯 しょうがい に関 かん する資料 しりょう を展示 てんじ している。建物 たてもの そのものも戦災 せんさい などの影響 えいきょう を免 まぬか れ、ヨーロッパ北部 ほくぶ で唯一 ゆいいつ 現存 げんそん するルネサンス期 き の都市 とし 建築 けんちく である。
帝国 ていこく 党 とう 大会 たいかい 会場 かいじょう 文書 ぶんしょ センター: ナチス時代 じだい のニュルンベルクの歴史 れきし 資料 しりょう 館 かん
ゲルマン民族 みんぞく 博物館 はくぶつかん : ドイツ最大 さいだい の文化 ぶんか 史 し 博物館 はくぶつかん
皇帝 こうてい の城 しろ 博物館 はくぶつかん : ニュルンベルク城内 きうち
ニュルンベルク芸術 げいじゅつ ホール
旧 きゅう 監獄 かんごく (旧 きゅう 市庁舎 しちょうしゃ 内 ない )
旧 きゅう 市電 しでん 車庫 しゃこ ザンクト・ペーター: 歴史 れきし 的 てき な市電 しでん 博物館 はくぶつかん
工業 こうぎょう 文化 ぶんか 博物館 はくぶつかん
ニュルンベルク新 しん 博物館 はくぶつかん (芸術 げいじゅつ とデザインのニュルンベルク州立 しゅうりつ 博物館 はくぶつかん )
玩具 おもちゃ 博物館 はくぶつかん
市立 しりつ 博物館 はくぶつかん フェムボハウス
トゥルム・デア・ジンネ: 体験 たいけん と錯覚 さっかく のインタラクティヴ博物館 はくぶつかん : 西門 にしもん 近 ちか くの城壁 じょうへき 内 ない にある
ニュルンベルク交通 こうつう 博物館 はくぶつかん : 鉄道 てつどう とコミュニケーション(郵便 ゆうびん ・通信 つうしん )の博物館 はくぶつかん 。ヨーロッパ工業 こうぎょう 文化 ぶんか 街道 かいどう のアンカーポイントである。
主要 しゅよう なコンサートホールおよび催事 さいじ 場 じょう [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク州立 しゅうりつ 劇場 げきじょう オペラハウス
ニュルンベルク保険 ほけん アレーナ
フランケンハレ
ヒルシュ
レーヴェンザール・ニュルンベルク
ゼレナーデンホーフ
マイスタージンガーハレ
ニュルンベルク州立 しゅうりつ 劇場 げきじょう オペラハウス
K4
ターフェルハレ
カタリーナ修道院 しゅうどういん 跡 あと
ニュルンベルク・フィルハーモニカ — このオーケストラは1965年 ねん に設立 せつりつ された。前身 ぜんしん は1890年 ねん に創設 そうせつ されたニュルンベルク・フィルハーモニー管弦楽 かんげんがく 団 だん と市立 しりつ オーケストラである。
ニュルンベルク交響 こうきょう 楽団 がくだん — 1946年 ねん に設立 せつりつ されたこのコンサート・オーケストラは広 ひろ いレパートリーを持 も ち、様々 さまざま な仕事 しごと を行 おこな っている。シンフォニー・コンサートや合唱 がっしょう のコンサートあるいはゼレナーデンホーフでの野外 やがい コンサートの他 ほか 、映画 えいが 音楽 おんがく の分野 ぶんや でも長 なが い伝統 でんとう を持 も つ。『ベン・ハー 』や『クォ・ヴァディス 』のサウンドトラック を担当 たんとう し、TVシリーズ『美女 びじょ と野獣 やじゅう 』の伴奏 ばんそう 音楽 おんがく で1992年 ねん のグラミー賞 しょう を受賞 じゅしょう している。コンサートは主 おも にマイスタージンガーハレで開催 かいさい されている。
ニュルンベルク・ユーゲントオーケストラ (NJO) — 約 やく 50人 にん のメンバーからなるNJOは1985年 ねん に設立 せつりつ された。
ニュルンベルク・アコーディオン・オーケストラ (NAO) — 1946年 ねん に設立 せつりつ されたこの楽団 がくだん は、ヨーロッパ最高 さいこう のアコーディオン ・アンサンブルの一 ひと つに数 かぞ えられている。
主要 しゅよう な合唱 がっしょう 団 だん [ 編集 へんしゅう ]
ニュルンベルク・ゴスペルクワィア — 約 やく 50人 にん のメンバーからなるこのゴスペル コーラスグループは1970年 ねん に設立 せつりつ された、この分野 ぶんや ではニュルンベルクで最 もっと も古 ふる い団体 だんたい である。
聖 せい ローレンツ・バッハ合唱 がっしょう 団 だん — 約 やく 140人 にん の団員 だんいん を数 かぞ えるこの合唱 がっしょう 団 だん は、1923年 ねん にローレンツ教会 きょうかい のカントル であったヴァルター・ケルナーによって設立 せつりつ された。
ゼバルダー・カントライ
ニュルンベルク・エギディーン合唱 がっしょう 団 だん
ニュルンベルク・フィルハーモニック合唱 がっしょう 団 だん
ニュルンベルクには数 すう 多 おお くのサークルや協会 きょうかい がある。その中 なか には長 なが い伝統 でんとう を持 も つものもある。著名 ちょめい な団体 だんたい として以下 いか のものが挙 あ げられる。
ニュルンベルク旧 きゅう 市街 しがい 友好 ゆうこう 協会 きょうかい e.V.
ドイツ・サッカー文化 ぶんか アカデミー
フリーダーリヒ e.V. — 同性愛 どうせいあい 者 しゃ のサークル
ゲシヒテ・フュア・アレ e.V. — 地方 ちほう 史 し 研究 けんきゅう グループ
ユンゲ・プレッセ・バイエルン — バイエルンの若者 わかもの 向 む けメディア協会 きょうかい (ニュルンベルク事務所 じむしょ がある)
ニュルンベルク芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい — ドイツで最 もっと も古 ふる い芸術 げいじゅつ 協会 きょうかい
ニュルンベルク自然 しぜん 史 し 協会 きょうかい
ニュルンベルク天文学 てんもんがく 協会 きょうかい
ニュルンベルクの観光 かんこう 客 きゃく 誘致 ゆうち 協会 きょうかい 「ディー・シュタットフューラー e.V.」
ニュルンベルク城 じょう の遠景 えんけい 。向 む かって右 みぎ に少 すこ し離 はな れた建物 たてもの はユースホステルとして利用 りよう されている
フラウエン教会 きょうかい
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご に再建 さいけん された市 し 壁 かべ 内 ない の街並 まちな みの所々 ところどころ に、芸術 げいじゅつ 史 し および文化 ぶんか 史 し 的 てき 価値 かち の高 たか い中世 ちゅうせい や近世 きんせい の建築 けんちく 物 ぶつ の遺構 いこう や断片 だんぺん が点在 てんざい する。
中心 ちゅうしん 街 がい の見所 みどころ として、特 とく に以下 いか のものが挙 あ げられる。
ニュルンベルク城 じょう (カイザーブルク) — この街 まち の象徴 しょうちょう 的 てき 建造 けんぞう 物 ぶつ である。
城山 しろやま の麓 ふもと の防衛 ぼうえい 施設 しせつ
ハウプトマルクト周辺 しゅうへん
シェーナー・ブルンネン(美 うつく しの泉 いずみ ) — 泉 いずみ の格子 こうし に継 つ ぎ目 め のない「金 かね の指輪 ゆびわ 」と呼 よ ばれる真鍮 しんちゅう 製 せい のリングが掛 か かっており、これを回 まわ すと幸運 こううん に恵 めぐ まれるというい伝 いつた えで有名 ゆうめい である。ただし金 かね のリングは観光 かんこう 用 よう で、本物 ほんもの とされているものは反対 はんたい 側 がわ にあり地味 じみ な色調 しきちょう である。
市庁舎 しちょうしゃ
フラウエン教会 きょうかい (聖母 せいぼ 教会 きょうかい ) — ハウプトマルクト(中央 ちゅうおう 広場 ひろば )の東側 ひがしがわ に建 た つゴシック建築 けんちく 。カール4世 せい の金 かね 印 しるし 勅書 ちょくしょ 公布 こうふ を記念 きねん して建設 けんせつ された。ファサード には、その時 とき の様子 ようす をモチーフにした仕掛 しか け時計 とけい がある。1361年 ねん ニュルンベルク初 はつ の「帝国 ていこく 宝物 ほうもつ 」展観 てんかん 行事 ぎょうじ がこの教会 きょうかい の出窓 でまど で行 おこな われた[40] 。
聖 せい ローレンツ教会 きょうかい — 旧 きゅう 市街 しがい のペグニッツ川 がわ を隔 へだ てて南側 みなみがわ 「ローレンツ地区 ちく 」の教区 きょうく 教会 きょうかい 。ゴシック建築 けんちく の大 だい 規模 きぼ な教会 きょうかい 。正面 しょうめん 扉 とびら (Hauptportal)は1330-1340年 ねん 制作 せいさく [41] 。内陣 ないじん 、天井 てんじょう から吊 つ り下 さ げてあるファイト・シュトース(Veit Stoß)作 さく の「受胎 じゅたい 告知 こくち 」(Der Englische Gruß <天使 てんし 祝詞 のりと >;1517/1518年 ねん )が有名 ゆうめい [42] 。内陣 ないじん にはまた、美術 びじゅつ 史家 しか ヴェルフリンに「後期 こうき ゴシックの精華 せいか 」と称 とな えられた、高 たか さ20メートルに及 およ ぶ聖体 せいたい 安置 あんち 塔 とう (Sakramentshaus; 1493-1496)が聳 そび えている。「まるでゴシック大 だい 聖堂 せいどう のミニチュア」(阿部 あべ 謹也 きんや )のような石塔 せきとう の台 だい を背中 せなか で支 ささ える形 かたち で付 つ けられているのは作者 さくしゃ アダム・クラフト(Adam Kraft; 1455/60-1509)とその弟子 でし たちの像 ぞう である[43] 。
聖 せい ゼーバルドゥス教会 きょうかい (ゼーバルト教会 きょうかい ) — 旧 きゅう 市街 しがい 北側 きたがわ 「ゼーバルドゥス地区 ちく 」の教区 きょうく 教会 きょうかい であり、ニュルンベルクで最 もっと も古 ふる い13世紀 せいき の建築 けんちく 。音楽家 おんがくか ヨハン・パッヘルベル ゆかりの教会 きょうかい 。
聖 せい エギディーン教会 きょうかい
ハイリヒガイスト・シュピタール(聖霊 せいれい 施療 せりょう 院 いん ) — この施療 せりょう 院 いん の教会 きょうかい に1424年 ねん から1796年 ねん まで「帝国 ていこく 宝物 ほうもつ 」(Reichskleinodien)が保管 ほかん されていた[44] 。 15世紀 せいき ・16世紀 せいき に出版 しゅっぱん され、多 おお くの読者 どくしゃ を獲得 かくとく した民衆 みんしゅう 本 ほん の主人公 しゅじんこう ティル・オイレンシュピーゲル は、ドイツ のハンザ 都市 とし を放浪 ほうろう し、雇 やと われた先 さき でいたずらをして回 まわ るが、ニュルンベルクに来 く ると、病人 びょうにん であふれていた、「キリストの聖 せい 槍 やり や、そのほか珍 めずら しい御物 ぎょもつ が安置 あんち されて(いる)」この病院 びょういん で、患者 かんじゃ を全員 ぜんいん なおすといつわって院長 いんちょう を欺 あざむ いている(第 だい 17話 わ )[45] 。
フライシュ橋 きょう (肉屋 にくや の橋 はし )
ヘンカー・シュテーク(死刑 しけい 執行 しっこう 役人 やくにん の橋 はし )
ケッテン橋 きょう (鎖 くさり 橋 きょう )
ヴァイセ・トゥルム(白 しろ い塔 とう )
エーエカルッセルの泉 いずみ — ヴァイセ・トゥルムの前 まえ にある噴水 ふんすい 。ハンス・ザックス の詩 し をもとにした結婚 けっこん に関 かん する寓意 ぐうい が表現 ひょうげん されている。
アルブレヒト・デューラー・ハウス
ゲンゼメンヒェンブルンネン(ガチョウ小人 こども の泉 いずみ ) — 聖母 せいぼ 教会 きょうかい 裏 うら の小 ちい さな泉 いずみ
これらの見所 みどころ の多 おお くは歴史 れきし 的 てき 文化財 ぶんかざい を示 しめ す標識 ひょうしき で示 しめ されている。
この他 ほか にも、ニコラウス・コペルニクス に因 ちな んで名付 なづ けられたプラネタリウム 、動物 どうぶつ 園 えん 、文書 ぶんしょ センターがある帝国 ていこく 党 とう 大会 たいかい 会場 かいじょう やレギオモンタヌス天文台 てんもんだい なども見所 みどころ である。著名 ちょめい な人物 じんぶつ の墓 はか があることで知 し られるヨハネス墓地 ぼち やローフス墓地 ぼち はフォアオルト(郊外 こうがい )にある。旧 きゅう 市街 しがい 南側 みなみがわ の市 し 壁 かべ と濠 ほり に面 めん して中央 ちゅうおう 駅 えき と歌劇 かげき 場 じょう (ニュルンベルク州立 しゅうりつ 劇場 げきじょう )がある。これらはどちらもニュルンベルク城 じょう から肉眼 にくがん で見 み ることができる。
2004年 ねん 8月 がつ 7日 にち から「デューラーの小径 しょうけい 」が設 もう けられた。これはアルブレヒト・デューラーの足跡 あしあと をたどる観光 かんこう 周遊 しゅうゆう 路 ろ である。この周遊 しゅうゆう 路 ろ 沿 ぞ いに屋外 おくがい でのAV施設 しせつ によるガイドが設 もう けられ、観光 かんこう 客 きゃく はマイクロコンピュータを使 つか って音 おと と映像 えいぞう による旧 きゅう 市街 しがい のガイドが楽 たの しめる。
1975年 ねん から1977年 ねん にかけて、シュヴァイナウ区 く にニュルンベルク送信 そうしん 塔 とう が建設 けんせつ された。2005年 ねん に送信 そうしん アンテナを交換 こうかん した後 のち の高 たか さは292.8mで、ドイツで3番目 ばんめ に高 たか い送信 そうしん 塔 とう である。185mの高 たか さに「ニュルンベルガー・アイ」(ニュリンベルクの卵 たまご )というニックネームが付 つ けられた展望 てんぼう 台 だい がある。また送信 そうしん 搭全体 ぜんたい には「シュパルゲル」(アスパラガス)というニックネームもある。1988年 ねん 以降 いこう 、Sat.1とRTLplusのテレビプログラムの送信 そうしん を開始 かいし したことからテレビ塔 てれびとう と呼 よ ばれるようになっている。
シェーナー・ブルンネン
聖 せい ローレンツ教会 きょうかい
聖 せい ゼーバルドゥス教会 きょうかい
聖霊 せいれい 施療 せりょう 院 いん
フライシュ橋 きょう
ヴァイセ・トゥルム
エーエカルッセルの泉 いずみ
ニュルンベルク送信 そうしん 塔 とう
市 し の南部 なんぶ に位置 いち するルイトポルトハインは、ヨーロッパ最大 さいだい の野外 やがい クラシックコンサートであるクラシック・オープン・エアの会場 かいじょう である。この公園 こうえん の南東 なんとう はドゥッツェンタイヒ公園 こうえん につながっている。この近 ちか くには1930年代 ねんだい にナチス が築 きず いた帝国 ていこく 党 とう 大会 たいかい 会場 かいじょう (ツェッペリントリビューン もしくはツェッペリンフェルト広場 ひろば )跡 あと がある。
市 し の北側 きたがわ には、市立 しりつ 公園 こうえん と、ツィーゲルシュタイン区 く に属 ぞく す大 だい 規模 きぼ なマリエンベルク公園 こうえん がある。
旧 きゅう 市街 しがい の東側 ひがしがわ 、ペグニッツ川 がわ 沿 ぞ いに15ha の広 ひろ さを持 も つ公園 こうえん ヴェールダー・ヴィーゼンがある。夏 なつ には、ビアガーデンや、「感覚 かんかく 育成 いくせい 体験 たいけん 広場 ひろば 」などで訪 おとず れる人々 ひとびと を惹 ひ きつけている。公園 こうえん の東側 ひがしがわ は、ペグニッツ川 がわ の貯水池 ちょすいち であるヴェールダー湖 こ とその緑地 りょくち 帯 たい につながっている。ヴェールダー・ヴィーゼンの北 きた には、広 ひろ さ4haの小 ちい さなクラマー=クレット公園 こうえん がある。
プレラー広場 ひろば の近 ちか くには、小 ちい さいながら頻繁 ひんぱん に利用 りよう されているローゼナウ公園 こうえん がある。
ペグニッツ川 かわ 沿 ぞ いを西 にし に向 む かったフュルトの近 ちか くにあるハラーヴィーゼとコントゥマーツガルテン(それぞれ2ha)の裏手 うらて に長 なが く延 の びたペグニッツァウエン (52.5ha) がある。レーダーラー橋 きょう の近 ちか くには水遊 みずあそ び広場 ひろば や水 みず 汲 く み水車 みずぐるま のレプリカがある。ペグニッツ川 がわ は1999年 ねん から再 ふたた び自然 しぜん の流 なが れに改修 かいしゅう され直 なお された。
環状 かんじょう 道路 どうろ の西側 にしがわ から広 ひろ さ11haのヴェストパルクが始 はじ まり、西側 にしがわ の農地 のうち に向 む かって延 の びている。ヴェストパルクは1999年 ねん に、2009年 ねん の連邦 れんぽう 庭園 ていえん 博 はく をニュルンベルクで開催 かいさい するというコンセプトの一部 いちぶ に組 く み込 こ まれていた。しかし、ニュルンベルクと他 た の7つの市 し は候補 こうほ から落選 らくせん し、シュヴェリーン での開催 かいさい が決 き まった。[46]
西 にし のシュタインとの境界 きょうかい にあたるレーテンバッハ・バイ・シュヴァイナウ区 く には27haの広 ひろ さのファーバーパルクがある。
ヘスペリデンゲルテン
小 ちい さな公園 こうえん としては、
北部 ほくぶ : ニュルンベルク城 じょう のブルクガルテン、ザンク・ヨハニス区 く のヘスペリデンゲルテン、アルヒーフパルク、イルハイン
東部 とうぶ : ノインホーフ城 じょう のバロック庭園 ていえん 、ツルナウ、レーヒェンベルク、プラトナースベルク
南部 なんぶ : ジュートシュタットパルク(中央 ちゅうおう 駅 えき に隣接 りんせつ する)、フンメルシュタイナー公園 こうえん 、アンナパルク(ジュートシュタット区 く の中心 ちゅうしん )、ハーゼンブルック
また、ニュルンベルク旧 きゅう 市街 しがい を囲 かこ む残存 ざんそん する濠 ほり の跡 あと も公園 こうえん 風 ふう に整備 せいび され保存 ほぞん されている。
ニュルンベルク周辺 しゅうへん 部 ぶ の自然 しぜん 地区 ちく も公園 こうえん 風 ふう に整備 せいび されている。レグニッツ渓谷 けいこく 、ハインベルク自然 しぜん 保護 ほご 区 く 、ペグニッツ川 がわ で区切 くぎ られた森 もり 、すなわち北部 ほくぶ のゼバルダー・ライヒスヴァルトと、ハイキング やサイクリング の目的 もくてき 地 ち として人気 にんき の高地 こうち シュマウゼンブック(海抜 かいばつ 約 やく 390メートル)がある南東 なんとう 部 ぶ のローレンツァー・ライヒスヴァルトである。シュマウゼンブックには周囲 しゅうい を一望 いちぼう できる展望 てんぼう 塔 とう が立 た ち、夏期 かき の日曜 にちよう 祝日 しゅくじつ に開放 かいほう されている。この近 ちか くには、1939年 ねん から自然 しぜん 景観 けいかん 動物 どうぶつ 園 えん (ラントシャフト・ツォー)と称 しょう される、広 ひろ さ70haの動物 どうぶつ 園 えん (ティアガルテン・ニュルンベルク)があり、イルカなどの海 うみ 棲生物 せいぶつ も飼育 しいく 展示 てんじ されている。さらに南 みなみ にはファルツナー池 ち やゴルトバッハ川 がわ の堤 つつみ がある。
クリスマスマーケット (Christkindlesmarkt)、左 ひだり 手前 てまえ はシェーナー・ブルンネン(美 うつく しの泉 いずみ )
9月にはアルトシュタットフェスト(Altstadtfest:旧 きゅう 市街 しがい 祭 まつ り)が開催 かいさい されパレードやコンサートあるいは運河 うんが でのフィッシャーシュテッヘン(Das Fischerstechen:漁師 りょうし の船上 せんじょう 対決 たいけつ 、二 に 層 そう の小舟 こぶね に乗 の った選手 せんしゅ が互 たが いを棒 ぼう で突 つ いて落 お としあう)などの伝統 でんとう 行事 ぎょうじ が行 おこな われ街 がい が賑 にぎ わう。12月にハウプトマルクトとその周辺 しゅうへん で開 ひら かれるクリスマスマーケット (クリストキンドレスマルクト)はドイツの中 なか でも特 とく に有名 ゆうめい で、国内 こくない 最大 さいだい 級 きゅう の規模 きぼ を誇 ほこ り、世界中 せかいじゅう から観光 かんこう 客 きゃく が集 あつ まり賑 にぎ わう。
ニュルンベルク市街地 しがいち 南東 なんとう 部 ぶ のドゥッツェンタイヒ公園 こうえん 周辺 しゅうへん にはグルンディッヒ 本社 ほんしゃ とともにスポーツ施設 しせつ が集中 しゅうちゅう している。
ルター派 は プロテスタント 地域 ちいき に属 ぞく する。
ニュルンベルク市 し にあるドイツ福音 ふくいん 主義 しゅぎ 教会 きょうかい (EKD) 加盟 かめい 教会 きょうかい の大 だい 部分 ぶぶん はバイエルン福音 ふくいん ルター派 は 教会 きょうかい ニュルンベルク教区 きょうく に属 ぞく している。レーア(ニーダーザクセン州 しゅう )に本部 ほんぶ を置 お く福音 ふくいん 改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい に属 ぞく している改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい も一 ひと つある。
中世 ちゅうせい 以来 いらい 職人 しょくにん の街 まち として知 し られ、鉛筆 えんぴつ を発明 はつめい したシュテートラー(Städtler)〔ステッドラー 社 しゃ の元祖 がんそ 〕や、クラリネット の発明 はつめい で知 し られる18世紀 せいき の木管 もっかん 楽器 がっき の名匠 めいしょう デンナー親子 おやこ などが活躍 かつやく した。
名物 めいぶつ 料理 りょうり に、独特 どくとく の短 みじか い粗 あら びきソーセージ である「ニュルンベルガーブラートヴルスト 」があり、市内 しない に老舗 しにせ の専門 せんもん 店 てん が数 すう 店 てん ある。また、ナツメグ などのスパイスが加 くわ えられた焼 や き菓子 かし 「レープクーヘン」も有名 ゆうめい 。
ある伝説 でんせつ によれば、ニュルンベルクの近 ちか くの森 もり に「のろわれた娘 むすめ の地 ち 」といわれる所 ところ がある。昔 むかし 、そこに3人 にん の娘 むすめ が住 す んでいて、「娘 むすめ らしからぬ素行 そこう で」よそ者 もの を誘 さそ い込 こ み財産 ざいさん と命 いのち を奪 うば っていたが、雷 かみなり に打 う たれて死 し んだ。娘 むすめ らは死 し んだが、その魂 たましい は3本 ほん の大木 たいぼく に乗 の り移 うつ り、木々 きぎ が切 き り倒 たお されると他 た の木 き に移 うつ っていった。梢 こずえ からは誘 さそ う声 こえ が響 ひび き、誘 さそ いの合図 あいず を送 おく る姿 すがた も見 み られたという[47] 。
ニュルンベルクの歴史 れきし に影響 えいきょう した人物 じんぶつ [ 編集 へんしゅう ]
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これらの文献 ぶんけん は、翻訳 ほんやく 元 もと であるドイツ語 ご 版 ばん の参考 さんこう 文献 ぶんけん として挙 あ げられていたものであり、日本語 にほんご 版 ばん 作成 さくせい に際 さい して直接 ちょくせつ 参照 さんしょう してはおりません。
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