(Translated by https://www.hiragana.jp/)
バドゥイ族 - Wikipedia コンテンツにスキップ

バドゥイぞく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Baduy people
Urang Baduy
Urang Kanékés
Panamping (直訳ちょくやく: 'Outer Baduy') women in Banten
そう人口じんこう
11,620 (2015 census)[1]
居住きょじゅう地域ちいき
インドネシアの旗 インドネシア (Lebak Regency, Banten)
言語げんご
Baduy language
宗教しゅうきょう
Sunda Wiwitan
関連かんれんする民族みんぞく
Bantenese • Sundanese

バドゥイぞく(バドゥイぞく、Baduy、Baduiというスペルでつづられることもあり、インドネシアじんKanekes "カネケス"ぶ。)は、バンテンしゅう南東なんとう、ルバック(Lebak)けんスンダぞく先住民せんじゅうみんぞくである。

由来ゆらい

[編集へんしゅう]

バドゥイとは、バドゥイのbaduyutに由来ゆらいする短縮形たんしゅくけいであり、ジャワ島じゃわとう西部せいぶ固有こゆうしゅのつるせい植物しょくぶつ(Trichosanthes villosa)をすスンダである。スンダ仲間なかまであるバドゥユットは、きゅうスンダ現代げんだいスンダでもおな意味いみつ。チバドゥユット(ᮎᮤƘ)という言葉ことば自体じたいがスンダ文字通もじどおり「バドゥユットがわ」を意味いみすることから、古代こだいにはバドゥユットとばれるかわがあった可能かのうせいたかく、この部族ぶぞくかわにちなんで名付なづけられた可能かのうせいがある。バドゥイぞくは、ウラン・カネケス(Urang Kanekes)またはウラン・チベオ(Urang Cibeo)とばれることをこのむこともある。

また、バドゥイという言葉ことば当初とうしょ部外ぶがいしゃがこれらの部族ぶぞく集団しゅうだんすために使つかった外来がいらいであり、オランダじんかれらをアラブの遊牧民ゆうぼくみんベドウィンぞく同一どういつしていたことに由来ゆらいするというせつもある。

サブ・グループ

[編集へんしゅう]

バドゥイぞくは、2つのグループにかれている。

  1. Tangtu タントゥ ("ないバドゥイ"; Baduy Dalam (インドネシア))
  2. Panamping パナンピン ( "がいバドゥイ"; Baduy Luar (インドネシア))

外国がいこくじんうちバドゥイのむら宿泊しゅくはくすることはきんじられているが、そとバドゥイのむらにはガイドきで1はくだけ、という条件じょうけん宿泊しゅくはくすることがゆるされている。

居住きょじゅうエリア

[編集へんしゅう]
View over the hills near the Badui village of Kaduketug, circa 1915–1926

バドゥイは、南緯なんい627ふん27びょう~30ふん0びょう東経とうけい1083ふん9びょう~1064ふん55びょう位置いちする。人口じんこう11,700にんのバドゥイは、Rangkasbitng"ランカスビトゥン"から40kmの距離きょりにある、ケンデン山脈さんみゃくのふもとにあるカネケス集落しゅうらく中心ちゅうしんひろがっている。この地域ちいきはケンデン山脈さんみゃく一部いちぶで、海抜かいばつ300~500メートル(975'~1,625')、平均へいきんはす45%にたっする丘陵きゅうりょう地形ちけいからなり、火山かざんせい北部ほくぶ)、沈殿ちんでんぶつ中央ちゅうおう)、混合こんごう土壌どじょう南部なんぶ)がある。平均へいきん気温きおんは20℃である。ジャワ島じゃわとうのバドゥイぞくむらまでは、インドネシアの首都しゅとジャカルタから120km(75マイル)はなれた、わずか50k㎡(19スクエアマイル)の丘陵きゅうりょう森林地帯しんりんちたいにある。カネケスぞくの3つのおも居住きょじゅうは、チクシク(Cikusik)、チクルタワナ(Cikertawana)、チベオ(Cibeo)である。

言語げんご

[編集へんしゅう]

バドゥイぞく母国ぼこくであるバドゥイは、スンダ(Sundanese)ともっとちか関係かんけいにあり、スンダ方言ほうげんとみなされることもある。母語ぼご話者わしゃはケンデンやま周辺しゅうへん、ルバックけんランカスビトゥン地区ちく、パンデグランけん西にしジャワしゅうスカブミに分散ぶんさんしている。2010ねん現在げんざい、11,620にん話者わしゃがいると推定すいていされている。そとバドゥイぞく人々ひとびとは、外部がいぶひととコミュニケーションをるために、スンダインドネシアをある程度ていど流暢りゅうちょうはな傾向けいこうがある。

教育きょういく

[編集へんしゅう]

バドゥイぞくどもたちにたいする正式せいしき教育きょういくは、バドゥイぞく伝統でんとうてき慣習かんしゅうはんするものであるとかんがえられており、インドネシア政府せいふむら教育きょういく施設しせつ建設けんせつすることを提案ていあんしても、バドゥイぞくはこれまで拒否きょひしてきた。同様どうように、歴史れきしまなぶこともきんじられており、バドゥイぞくは13さいまでに自然しぜんともきるらしにかかわることをまなび、13さい大人おとなとみなされる。その結果けっか教育きょういくけ、きができるバドゥイぞくはほとんどいない。

起源きげん

[編集へんしゅう]

神話しんわ

[編集へんしゅう]

かれらの信仰しんこうによれば、カネケスじん自分じぶんたちを地球ちきゅうつかわされた7にんかみ々のうち一人ひとり、バタラ・チカルの子孫しそんとみなしている。この起源きげん説話せつわは、しばしば聖書せいしょ登場とうじょうする地球ちきゅうじょう最初さいしょ人間にんげんアダム」に関連かんれんしている。カネケスぞくによれば、アダムとその子孫しそんは、世界せかい調和ちょうわたもつために瞑想めいそう禁欲きんよく主義しゅぎ実践じっせんする使命しめいあたえられている。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

カネケスの起源きげんせつは、碑文ひぶんポルトガルじん中国人ちゅうごくじん船乗ふなのりの文書ぶんしょによる記録きろく、そしていまもほとんどのこっていない『タタール・スンダ』の伝承でんしょうなどの歴史れきしてき証拠しょうこ総合そうごうしてせつてる歴史れきし学者がくしゃ意見いけんとはことなったものである。バドゥイぞくは、ボゴール周辺しゅうへん丘陵きゅうりょう地帯ちたいにあるバトゥトゥリス近郊きんこうんでいたパジャジャラン・スンダ王国おうこく貴族きぞく末裔まつえいだというせつもあるが、このせつ裏付うらづける有力ゆうりょく証拠しょうこはない。その地域ちいき建築けんちくぶつは、伝統でんとうてきなスンダ建築けんちくもっと忠実ちゅうじつである。スンダ・クラパ(Sunda Kelapa)としてられるパクワン・パジャジャラン(Pakuwan Pajajaran)のみなとは、1579ねん侵攻しんこうしてきたファタヒラ(Fatahillah)のイスラム教徒きょうと兵士へいしによって破壊はかいされ、パジャジャランの首都しゅとであるダユ・パクアン(Dayeuh Pakuan)は、しばらくしてバンテン・スルタン(Banten Sultanate)に侵略しんりゃくされた。スルタンが成立せいりつする以前いぜんジャワ島じゃわとう西端せいたんはスンダ王国おうこくにとって重要じゅうよう役割やくわりたしており、バンテンはおおきな貿易ぼうえきみなとであった。チウジュン(Ciujung)かわにはさまざまな種類しゅるいふね入港にゅうこうし、そのおおくは内陸ないりく収穫しゅうかくされた作物さくもつはこぶために使つかわれた。そのため、この地域ちいき支配しはいしゃであるプチュック・ウムン(Pucuk Umun)王子おうじは、かわ持続じぞく可能かのうせい維持いじする必要ひつようがあるとかんがえた。高度こうど訓練くんれんをうけた王室おうしつ軍隊ぐんたいは、ケンデンさん地域ちいき密生みっせいした丘陵きゅうりょうジャングル地域ちいき警備けいびし、管理かんりするようめいじられた。その地域ちいきとくした任務にんむ軍隊ぐんたいは、ケンデンさんにあるチウジュンがわ上流じょうりゅういま居住きょじゅうするカネケスぞくのコミュニティからおも派遣はけんされた。

この2つのせつちがいから、過去かこにはスンダ王国おうこくてき攻撃こうげきからコミュニティをまもるために、カネケスぞくのアイデンティティと歴史れきしせい意図いとてきかくされていたというかんがかたまれた。しかし、1928ねんにこの地域ちいき医学いがく調査ちょうさおこなった医師いしヴァン・トリヒトは、このせつ否定ひていした。かれによれば、カネケスじんはこの地域ちいき原住民げんじゅうみんであり、外部がいぶからの影響えいきょうつよ抵抗ていこうしてきた。カネケスじん自身じしんも、自分じぶんたちがスンダ王国おうこく首都しゅとパジャジャランの逃亡とうぼうみん由来ゆらいすることをみとめようとしない。ダナサスミタとジャティスンダによると、バドゥイぞく国王こくおうから正式せいしき委任いにんされた集落しゅうらくみんであり、その理由りゆうはカブユタン(祖先そせん崇拝すうはい先祖せんぞ崇拝すうはい)をまも義務ぎむがあるからだという。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Johan Iskandar & Budiawati S. Iskandar (October 2016). “Ethnoastronomy – The Baduy agricultural calendar and prediction of environmental perturbations”. Biodiversitas 17 (2): 696. ISSN 1412-033X. http://biodiversitas.mipa.uns.ac.id/D/D1702/D170244.pdf 17 July 2017閲覧えつらん.