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ビル・ワット

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ビル・ワット
ビル・ワットの画像
1968ねん
プロフィール
リングネーム カウボーイ・ビル・ワット
本名ほんみょう ウィリアム・ワッツ
ニックネーム 南部なんぶ荒馬あらうま
身長しんちょう 193cm
体重たいじゅう 135kg(ぜん盛時せいじ
誕生たんじょう (1939-05-05) 1939ねん5月5にち(85さい
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく
オクラホマ州の旗 オクラホマしゅう
オクラホマぐんオクラホマシティ
スポーツれき アメリカンフットボール
デビュー 1962ねん
引退いんたい 1986ねん
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"カウボーイ" ビル・ワット"Cowboy" Bill Watts本名ほんみょうWilliam Watts1939ねん5月5にち - )は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくもとプロレスラー、プロモーター。オクラホマしゅうオクラホマシティ出身しゅっしん。より原音げんおんちか表記ひょうきは「ビル・ワッツ」であるが、ほんこうでは日本にっぽん定着ていちゃくしている表記ひょうき使用しようする。

1960年代ねんだい後半こうはんから1970年代ねんだい全盛期ぜんせいきに、カウボーイギミック大型おおがたファイターとして活躍かつやくし、オクラホマ・スタンピード第一人者だいいちにんしゃともなった[1]1979ねんよりミッドサウス地区ちくルイジアナミシシッピアーカンソー、オクラホマ)に自身じしん団体だんたいMSWAUWF)を設立せつりつし、だいプロモーターとしていち時代じだいきずいた[1]

来歴らいれき

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1960年代ねんだい

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オクラホマ州立しゅうりつ大学だいがくではアメリカンフットボール選手せんしゅとして活躍かつやくし、卒業そつぎょう1961ねんAFLヒューストン・オイラーズ入団にゅうだん[2]つづいてNFLミネソタ・バイキングス在籍ざいせきするが[2]大学だいがく先輩せんぱいダニー・ホッジさそわれ1962ねんあきにプロレスラーとしてデビュー[1]1963ねん5月にはNWAテキサス・ヘビーきゅう王座おうざ獲得かくとく[3]1964ねんにはルー・テーズNWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんした[1]

1964ねん下期しもきよりWWWF登場とうじょう当初とうしょベビーフェイスのポジションでブルーノ・サンマルチノのパートナーをつとめたが[4]、TVマッチでサンマルチノのタッチを拒絶きょぜつしてヒール転向てんこう[5]1965ねんニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでの定期ていきせんにおいて、2がつ22にち・3月29にち・5月17にちの3カ月かげつ連続れんぞくでサンマルチノのWWWF世界せかいヘビーきゅう王座おうざ挑戦ちょうせんした[6]。タッグではゴリラ・モンスーンみ、同年どうねん4がつ8にちワシントンDCにてジン・キニスキー&ワルドー・フォン・エリックからWWWFばんのUSタッグ王座おうざ奪取だっしゅしている[7]

そのサンフランシスコ地区ちくはいり、1966ねん2がつ19にちキンジ渋谷しぶやからUSヘビーきゅう王座おうざ奪取だっしゅ[8]以後いご、WWWFでの盟友めいゆうモンスーンやレイ・スティーブンスなどを相手あいてに、サンフランシスコ地区ちくのフラッグシップ・タイトルであるどう王座おうざあらそった[8]

1967ねん9月、日本にっぽんプロレスはつ来日らいにち[9]。サンフランシスコでのUS王者おうじゃ時代じだい対戦たいせんしたターザン・タイラーをパートナーに、10月6にち福島ふくしま大会たいかいにてジャイアント馬場ばば&吉村よしむら道明みちあきからインターナショナル・タッグ王座おうざ奪取だっしゅする[10]。10月31にち大阪おおさか府立ふりつ体育館たいいくかん馬場ばば&アントニオ猪木いのきやぶ短命たんめい王者おうじゃわったが[11]BIほう誕生たんじょうしたメモリアル・マッチの敵役かたきやくつとめたことで、日本にっぽんのプロレスファンにとっては印象深いんしょうぶか存在そんざいとなった[1][12]

NWAトライステート

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1960年代ねんだいすえより、プロモーターのレロイ・マクガーク英語えいごばん牛耳ぎゅうじ地元じもとオクラホマのNWAトライステート・プロモーションに参戦さんせん以降いこう、オクラホマとアーカンソーおよびふか南部なんぶルイジアナミシシッピをサーキット・エリアとするどう地区ちくにおいて、1970年代ねんだい全般ぜんぱんわたってエース・レスラーけんブッカーつとめた。

フラッグシップ・タイトルであるNWA北米ほくべいヘビーきゅう王座おうざには、1970ねん4がつ12にちザ・スポイラー1971ねん10月にダスティ・ローデス1972ねん4がつ19にちビッグ・ジョン・クイン同年どうねん5がつ22にちデール・ルイス1975ねん11月26にちキラー・カール・コックス1977ねん6がつ20日はつかスタン・ハンセンやぶり、通算つうさん6かいわたって戴冠たいかんした(MSWA新設しんせつ1980ねん1がつ5にちにも、どう王座おうざ改称かいしょうばんであるミッドサウス北米ほくべいヘビーきゅう王座おうざマイク・ジョージから奪取だっしゅしている。ワットにとっては、これがレスラーとしては最後さいごのタイトル戴冠たいかんとなった)[13]

そのあいだフロリダをはじめジョージアアラバマなどのディープサウスにも参戦さんせん[14]。トライステートでは絶対ぜったいてきなベビーフェイスだったが、地区ちくではおもにヒールとして活躍かつやくし、ジョージアでは1973ねんから1974ねんにかけて、ミスター・レスリング2ごうとNWAジョージア・ヘビーきゅう王座おうざめぐこうそう展開てんかい[15]。フロリダでは1974ねん下期しもきにローデスとNWAフロリダ・ヘビーきゅう王座おうざあらそ一方いっぽう[16]当時とうじジャック・ブリスコ保持ほじしていたNWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざにも再三さいさん挑戦ちょうせんした[17]

日本にっぽんには1974ねん1がつ国際こくさいプロレス「'74パイオニア・シリーズ」への参戦さんせんやく7ねんぶりのさい来日らいにち実現じつげんジェリー・ブラウンバディ・ロバーツブッチャー・バションらが同時どうじ参戦さんせんしたシリーズにおいて外国がいこくじんエースをつとめ、1がつ14にち寝屋川ねやがわ、19にち川崎かわさき体育館たいいくかんにて、ストロング小林こばやしIWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ連続れんぞく挑戦ちょうせんした[18]。28にちには岩手いわて県営けんえい体育館たいいくかんにてグレート草津くさつ対戦たいせんしたが、この試合しあいTBS放送ほうそうされていた『TWWAプロレス中継ちゅうけい』の最終さいしゅう中継ちゅうけい試合しあいでもある[19]

長年ながねんわたってトライステート地区ちくのブッカーをつとめてきたワットだが、1979ねんにボスのマクガークと衝突しょうとつ[1]。NWAを脱退だったいし、ルイジアナの興行こうぎょうけん買収ばいしゅうしてミッドサウス・エリアに独立どくりつ団体だんたいMSWAMid-South Wrestling Association)を新設しんせつする。ミシシッピとアーカンソーもテリトリーにくわえ、トライステートのほとんどの選手せんしゅがMSWAにスライド移籍いせきするなど、事実じじつじょうマクガークのプロモーションをったかたちとなった。

マクガークはタルサ中心ちゅうしん興行こうぎょうつづけていたものの苦戦くせんつづ[20]1982ねんにはオクラホマの興行こうぎょうけんをワットに譲渡じょうと。これによりきゅうトライステートを完全かんぜん吸収きゅうしゅう合併がっぺいしたワットは、テキサスのプロモーターだったポール・ボーシュ英語えいごばんともんでヒューストンにも進出しんしゅつ興行こうぎょう拠点きょてんとしてニューオーリンズルイジアナ・スーパードーム定期ていきてきにビッグイベントを開催かいさいするなど、活動かつどう規模きぼをさらに拡大かくだいした(NWA加盟かめい団体だんたいではなくなったものの、のちにNWA世界せかい王者おうじゃリック・フレアー招聘しょうへいしており、その手腕しゅわんはNWAの主流しゅりゅうにも注目ちゅうもくされていた)。

1984ねんWWFビンス・マクマホン全米ぜんべい侵攻しんこうをスタートさせ、各地かくちのプロモーションは軒並のきなだい打撃だげきけることになる。しかし、トライステート時代じだいからきずいてきたミッドサウスにおける強固きょうこなマーケット基盤きばんのもと、AWAやNWA傘下さんかではない独立どくりつテリトリーとして独自どくじ活動かつどうつづけてきたMSWAは、WWFにくっすることはなかった[21]

1985ねん、MSWAの人気にんきをつけたテッド・ターナーTBSにおけるプロレス番組ばんぐみ放送ほうそう契約けいやく締結ていけつ日曜にちよう午後ごごという時間じかんたいながら番組ばんぐみこう視聴しちょうりつげ、ターナーとワットは1984ねん7がつ14にちブラック・サタデー以来いらいWWFが時間じかんわくっていた土曜どようよる放送ほうそうへの移行いこう合意ごういするが[22]当時とうじWWFに在籍ざいせきしていたジム・バーネット仲介ちゅうかいにより、マクマホンはNWAのジム・クロケット・ジュニア土曜どようよる時間じかんわくを100まんドルで売却ばいきゃく[23]最終さいしゅうてきにTBSはジム・クロケット・プロモーションズ契約けいやくむすんだ。

巨大きょだいネットワークTBSのゴールデンタイムでの放映ほうえいチャンスをうしなったワットは、1986ねん3がつ団体だんたいめいUWFUniversal Wrestling Federation)と改称かいしょうし、WWFやNWAに対抗たいこうすべく全米ぜんべい進出しんしゅつ開始かいしする。この団体だんたいには、フリッツ・フォン・エリック主宰しゅさいするWCCWのブッカー(のち共同きょうどうプロモーター)であったケン・マンテル参画さんかく、マンテルの仲介ちゅうかいによりWCCWで活動かつどうしていたおおくのあたらしいレスラーが参戦さんせんした[24]腹心ふくしんジム・ロス手腕しゅわんにより、太平洋たいへいようがんロサンゼルスから東部とうぶフィラデルフィアまでマーケット規模きぼ拡大かくだい成功せいこう[25]、MSWA新設しんせつ以来いらいセミリタイア状態じょうたいだったワットも正式せいしき引退いんたいしてプロモートぎょう注力ちゅうりょく。4月にはスーパードームでNWAのジム・クロケット・プロモーションズとビッグイベントを共同きょうどう開催かいさいした。スティングなどのスター候補こうほまれ、UWFは一躍いちやくアメリカ・マットかい台風たいふうとなる。

しかし、テリトリーを大幅おおはばひろげたことによる移動いどうとうのコストぞうはんして、全米ぜんべいサーキットは収益しゅうえきがらない状態じょうたいつづいた。さらに、OPEC石油せきゆ生産せいさんりょう拡大かくだいともなアメリカ南部なんぶ各州かくしゅう原油げんゆ産業さんぎょう停滞ていたい、ミッドサウス地区ちく経済けいざい破綻はたん[26]1987ねんには深刻しんこくきょう直面ちょくめんした。相次あいつ銀行ぎんこう倒産とうさん融資ゆうしたれ、本拠地ほんきょちオクラホマでの観客かんきゃく動員どういんみ、UWFは一転いってんして危機ききてき状況じょうきょうまれる[26]莫大ばくだい損失そんしつこうむったワットは1987ねん4がつ9にち、UWFを400まんドルでクロケット・ジュニアに売却ばいきゃく、プロレスかいから撤退てったいすることになった(当初とうしょ、ワットはWWFに売却ばいきゃくちかけたが、UWFが末期まっき状態じょうたいであることを見越みこしたマクマホンに拒絶きょぜつされ、内部ないぶ事情じじょうらないクロケットがワットにあふられるかたち買収ばいしゅうおうじたという)[26]

WCW以降いこう

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そのはマーケティング関連かんれん仕事しごといていたが、1992ねん5月、WCWふく社長しゃちょうとなってプロレスかい復帰ふっき当時とうじのWCWは前任ぜんにんふく社長しゃちょうジム・ハード英語えいごばんとの確執かくしつでフレアーがWWFに移籍いせきするなど苦境くきょうおちいっており、運営うんえいなおすべく親会社おやがいしゃTBSからの要請ようせいけての就任しゅうにんだった[27]同年どうねん8がつにはしん日本にっぽんプロレスG1クライマックスにておこなわれたNWA世界せかいヘビーきゅう王座おうざ決定けっていトーナメントに立会たちあいじんとして来日らいにち久々ひさびさ日本にっぽんマット登場とうじょうたした。

しかし、息子むすこエリック・ワッツ英語えいごばん重用じゅうようなどで選手せんしゅたち反発はんぱつい、リック・ルードスタイナー・ブラザーズリック&スコット・スタイナー)らトップスターが次々つぎつぎ離脱りだつ視聴しちょうりつはますます低下ていかする[28]。さらに、ふく社長しゃちょう就任しゅうにんまえおこなわれたインタビュー記事きじにおける人種じんしゅ差別さべつ発言はつげんがTBS幹部かんぶハンク・アーロン発覚はっかくふく社長しゃちょう辞任じにん余儀よぎなくされ、1993ねん2がつにWCWを退団たいだんした[29]

1995ねんにはエリック・ワッツをWWFに斡旋あっせん、そのさい本人ほんにん短期間たんきかんながらWWFに在籍ざいせきしていたともされている。以降いこう在住ざいじゅうのオクラホマしゅうタルサにてスポーツ専門せんもんラジオきょく番組ばんぐみホストなどをしていた[30]2009ねん4がつ4にち、プロレスかいにおける功績こうせきとなえ、WWE殿堂でんどうむかえられている[2]

追記ついき

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2005ねん
  • 人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎしゃとしてられ、それがWCWからの失脚しっきゃく要因よういんともなったが[29]、ミッドサウス地区ちくでのブッカー / プロモーター時代じだい黒人こくじんファンの動員どういん見込みこんでアーニー・ラッドブッチ・リードなどの黒人こくじん選手せんしゅ積極せっきょくてき重用じゅうようした(同年代どうねんだいのラッドとはプライベートでも親友しんゆうであったという[31][32])。ビッグ・ダディ・リッターをジャンクヤード・ドッグ変身へんしんさせ、1980年代ねんだい代表だいひょうする黒人こくじんスターに仕立したてたのもワットの才覚さいかくによるものであり[33]、WCW時代じだいロン・シモンズ黒人こくじんはつのWCW(NWA)世界せかいヘビーきゅう王者おうじゃにしたのもワットの発案はつあんだった[32]。また、徹底てっていした共和党きょうわとう支持しじしゃでもある。
  • 父親ちちおや太平洋戦争たいへいようせんそうくしており、そのために日本人にっぽんじん嫌悪けんおするようになったといわれる。1967ねん日本にっぽんプロレス来日らいにち黒板こくばんにチョークでみずから "Yankee, Go home!" とき、それを日本人にっぽんじん記者きしゃによるいやがらせだとして悪態あくたいをついたという[34]ジャイアント馬場ばばは、当初とうしょはワットもそれほど露骨ろこつ日本人にっぽんじん蔑視べっししておらず、どう時期じき来日らいにちしたアート・ネルソンにいろいろとまれたことが原因げんいんではないかと発言はつげんしている[35]
  • こうした背景はいけいがあったからではないにせよ、一時いちじは「次期じきNWA世界せかい王者おうじゃ候補こうほ」とされさい来日らいにちのぞまれたものの[1]、2度目どめ来日らいにち1974ねん国際こくさいプロレス参戦さんせんまで実現じつげんしなかった。当時とうじはアメリカでレスラーとブッカーのそく草鞋わらじいて多忙たぼうだったこともあり、これが選手せんしゅとしては最後さいご来日らいにちとなっている。
  • 国際こくさいプロレスとは、ブッカーのグリズリー・スミスとおしてMSWA設立せつりつにも接点せってんち、ジェイク・ロバーツマイク・ジョージレイ・キャンディなどがMSWAから国際こくさい来日らいにちしている。阿修羅あしゅらはら1981ねんのアメリカさい修行しゅぎょうでMSWAをサーキットしていた[36]。UWF時代じだいは、当時とうじWWFとの提携ていけい解消かいしょうしたしん日本にっぽんプロレス外国がいこくじん供給きょうきゅうルートのひとつとして、ジム・ドゥガンさい来日らいにちスティーブ・ウィリアムスはつ来日らいにち実現じつげんさせている。しかし、いずれも完全かんぜん業務ぎょうむ提携ていけいむすんでいたわけではない。
  • 日本人にっぽんじん選手せんしゅでは、キラー・カーンザ・グレート・カブキケンドー・ナガサキもMSWAに参戦さんせんしている[37]1982ねんにはスーパードームアンドレ・ザ・ジャイアントたいカーンの遺恨いこん試合しあいおこなわれた[38]

得意とくいわざ

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獲得かくとくタイトル

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WWE殿堂でんどう式典しきてんにて(2009ねん
NWAトライステート / ミッドサウス・レスリング・アソシエーション
サウスウエスト・スポーツ
  • NWAテキサス・ヘビーきゅう王座おうざ:1かい[3]
ミッドサウス・スポーツ
  • NWAジョージア・ヘビーきゅう王座おうざ:2かい[15]
ガルフ・コースト・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAガルフ・コースト・ヘビーきゅう王座おうざ:1かい
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
  • NWAフロリダ・ヘビーきゅう王座おうざ:3かい[16]
ジャパン・プロレスリング・アライアンス
ワールド・ワイド・レスリング・フェデレーション / ワールド・レスリング・エンターテインメント
アメリカン・レスリング・アライアンス
  • AWA USヘビーきゅう王座おうざ(サンフランシスコばん):2かい[8]

MSWA / UWF参戦さんせん人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g 『THE WRESTLER BEST 1000』P288(1996ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  2. ^ a b c d Bill Watts”. Online World of Wrestling. 2009ねん8がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ a b NWA Texas Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  4. ^ WWE Yearly Results 1964”. The History of WWE. 2010ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  5. ^ 『Gスピリッツ Vol.40』P81(2016ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777817075
  6. ^ WWE Specific Arena Results: MSG 1963-1969”. The History of WWE. 2010ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  7. ^ a b WWWF United States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2009ねん8がつ24にち閲覧えつらん
  8. ^ a b c AWA/NWA United States Heavyweight Title [San Francisco]”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  9. ^ JWA 1967 Diamond Series”. Puroresu.com. 2016ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ a b NWA International Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010ねん4がつ28にち閲覧えつらん
  11. ^ 猪木いのきさん死去しきょ坂口さかぐちせいせん黄金おうごんコンビ”はつのシングル対決たいけつほか/めい勝負しょうぶベスト30&番外ばんがいへん”. 日刊にっかんスポーツ (2022ねん10がつ1にち). 2022ねん12月21にち閲覧えつらん
  12. ^ 『プロレスアルバム55 スーパー・タッグ Now!』P56(1985ねん恒文社こうぶんしゃ
  13. ^ a b c North American Heavyweight Title [Tri-State/Mid-South]”. Wrestling-Titles.com. 2010ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  14. ^ Bill Watts”. Wrestlingdata.com. 2016ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  15. ^ a b NWA Georgia Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  16. ^ a b NWA Florida Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  17. ^ The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1974”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  18. ^ IWE 1974 New Year Pioneer Series”. Puroresu.com. 2016ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  19. ^ わすれじの国際こくさいプロレス』P97(2014ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃISBN 4583620802
  20. ^ 『デラックス・プロレス 1983ねん4がつごう』P72-73(1983ねんスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ
  21. ^ 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP89
  22. ^ 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP91-96
  23. ^ 『ロード・ウォリアーズ 破滅はめつ絶頂ぜっちょうP121
  24. ^ WCCW Milestones”. World Class Memories. 2022ねん2がつ22にち閲覧えつらん
  25. ^ 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP96
  26. ^ a b c 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP97-98
  27. ^ 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP145
  28. ^ 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP146-149
  29. ^ a b 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP149-151
  30. ^ Cowboy Bill Watts talks”. J.R.'s Family Bar-B-Q. 2010ねん2がつ10日とおか閲覧えつらん
  31. ^ Football, wrestling star Ernie "Big Cat" Ladd dies of cancer”. Mid-South Wrestling.com (March 13, 2007). 2010ねん5がつ16にち閲覧えつらん
  32. ^ a b 『リック・フレアー自伝じでん トゥー・ビー・ザ・マン』P347-348
  33. ^ 『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつP89-90
  34. ^ 『THE WRESTLER BEST100』P174(1981ねん日本にっぽんスポーツ出版しゅっぱんしゃ
  35. ^ 『16ぶんく プロレスかい巨人きょじん100戦記せんき 』P167(1999ねん、ダイナミックセラーズ出版しゅっぱんISBN 488493279X
  36. ^ The UWF matches fought by Ashura Hara in 1981”. Wrestlingdata.com. 2023ねん1がつ11にち閲覧えつらん
  37. ^ The UWF matches fought by Kazuo Sakurada in 1983”. Wrestlingdata.com. 2023ねん1がつ11にち閲覧えつらん
  38. ^ 『Gスピリッツ Vol.40』P37(2016ねん辰巳たつみ出版しゅっぱんISBN 4777817075
  39. ^ NWA Brass Knuckles Title [Mid-South/Tri-State]”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  40. ^ NWA United States Tag Team Title [Mid-South/Tri-State]”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  41. ^ NWA Louisiana Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん
  42. ^ Mid-South Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014ねん12月26にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ショーン・アセール、マイク・ムーニハム『WWEの独裁どくさいしゃ-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実しんじつスボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ、2004ねんISBN 4583037880 
  • リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ『リック・フレアー自伝じでん トゥー・ビー・ザ・マン』エンターブレイン、2004ねんISBN 4757721536 
  • アニマル・ウォリアー、アンドリュー・ウィリアム・ライト『ロード・ウォリアーズ 破滅はめつ絶頂ぜっちょう東邦とうほう出版しゅっぱん、2011ねんISBN 4809409511 

外部がいぶリンク

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