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ファシストとう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく政党せいとう
国家こっかファシストとう

Partito Nazionale Fascista
指導しどうしゃ ベニート・ムッソリーニ
書記しょきちょう ミケーレ・ビアンキ英語えいごばん
スローガン Credere, Obbedire, Combattere
しんじ、したがい、たたか
とう 『ジョヴィネッツァ』英語えいごばん
創立そうりつ 1921ねん11月9にち
解散かいさん 1943ねん7がつ27にち
1947ねん12月22にちから非合法ひごうほう
合併がっぺいもと イタリア戦闘せんとうしゃファッシ
イタリア・ナショナリスト協会きょうかい
前身ぜんしん政党せいとう 革命かくめいファシストとう英語えいごばん
後継こうけい政党せいとう 共和きょうわファシストとう
本部ほんぶ所在地しょざいち ローマブラスキみや英語えいごばん
機関きかん ポポロ・ディタリア英語えいごばん
学生がくせい ファシスト学生がくせいだん英語えいごばん
青年せいねん 青年せいねんファシスト前衛ぜんえいたい英語えいごばん
(1921–1926)
全国ぜんこくバリッラだん英語えいごばん
(1926–1937)
リットーリオ青年せいねんだん英語えいごばん
(1937–1943)
労働ろうどう組合くみあい 国民こくみんそう連盟れんめいイタリアばん
ドーポ・ラヴォーロだん英語えいごばん
じゅん軍事ぐんじ組織そしき くろシャツたい国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐん再編さいへん
党員とういんとうともすう 2,630,000にん(1939ねん[1]
政治せいじてき思想しそう ファシズム[ちゅう 1]
 • ナショナリズム[2][3][4][5]
 • コーポラティズム[6][7]
 • 右派うはポピュリズム[8][9]
 • 国民こくみん保守ほしゅ主義しゅぎ[2][3][4][5]
 • 社会しゃかい保守ほしゅ主義しゅぎ[10][11][12]
 • 帝国ていこく主義しゅぎ[2][3]
政治せいじてき立場たちば だいさん位置いち
国内こくない連携れんけい 国民こくみんブロック (1921)
国民こくみんリスト (1924)
国際こくさい連携れんけい 国際こくさいファシスト会議かいぎ英語えいごばん
公式こうしきカラー     黒色こくしょくトリコローリ
とうはた
イタリアの政治せいじ
イタリアの政党せいとう一覧いちらん
イタリアの選挙せんきょ
ファシストとう
党旗
とうはた
組織そしき
イタリア戦闘せんとうしゃファッシ
ファシストとう
くろシャツたい
共和きょうわファシストとう

歴史れきし
ローマ進軍しんぐん
だい世界せかい大戦たいせん

人物じんぶつ
ベニート・ムッソリーニ
マリネッティ
it:Michele Bianchi
イタロ・バルボ

関連かんれん項目こうもく
ファシズム
サンディカリスム
アナキズム
国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ
ボリシェヴィキ
ジョルジュ・ソレル
ガブリエーレ・ダンヌンツィオ
ジョヴァンニ・ジェンティーレ
未来みらい
にちどくさんこく軍事ぐんじ同盟どうめい
ローマしき敬礼けいれい
マ帝国まていこく
イタリア王国おうこく
イタリア社会しゃかい共和きょうわこく

著作ちょさく
ファシズムの教義きょうぎ

Portal:イタリア
Portal:古代こだいローマ ·

国家こっかファシストとう[ちゅう 2](こっかファシストとう、イタリア: Partito Nazionale Fascista[13][14][15]PNF)は、かつて存在そんざいしたイタリア王国おうこく政党せいとう

ファシズム運動うんどうかかげ、左右さゆう超越ちょうえつ志向しこうした独裁どくさい体制たいせい構築こうちくした。

概要がいよう

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PNFだいいち世界せかい大戦たいせん政治せいじベニート・ムッソリーニらが設立せつりつした政治せいじ団体だんたい革命かくめい行動こうどうファッショ英語えいごばん」に起源きげん[16]民族みんぞく主義しゅぎによる社会しゃかい国家こっか国民こくみん団結だんけつファッシ古代こだいローマのファスケス語源ごげんとする)をき、民族みんぞく統一とういつ主義しゅぎ回収かいしゅうのイタリア)にもとづいた参戦さんせんろん主張しゅちょうした。イタリア王国おうこく大戦たいせん参加さんかめるとムッソリーニらは志願しがんへいとして従軍じゅうぐんして、塹壕ざんごうせんつうじた愛国心あいこくしん戦友せんゆうあい高揚こうよう経験けいけんした。

復員ふくいん、ムッソリーニは「革命かくめい行動こうどうファッショ」の精神せいしんいだ「イタリア戦闘せんとうしゃファッシ」(FIC)を設立せつりつした。どう団体だんたいつうじて独自どくじ政治せいじ理論りろんであるファシズム: Fascismoにち: 結束けっそく主義しゅぎ)をかかげて社会しゃかい主義しゅぎおよ民主みんしゅ主義しゅぎリベラリズムへの猛烈もうれつ批判ひはん展開てんかいした。かれ異端いたんてき思想しそうイタリア・ナショナリズム英語えいごばんサンディカリズム組合くみあい主義しゅぎ)、コーポラティズム共同きょうどうたい主義しゅぎ)、アナーキズム無政府むせいふ主義しゅぎ)、リビジョニズム修正しゅうせいマルクス主義まるくすしゅぎ)の運動うんどうたち影響えいきょうあたえた。初期しょき段階だんかいのファシズムは広範こうはん支持しじられず、1919ねんそう選挙せんきょでの議会ぎかい進出しんしゅつたせなかったが、ジョヴァンニ・ジョリッティ首相しゅしょうとの協力きょうりょく民兵みんぺい組織そしき行動こうどうたいイタリアばん」による直接ちょくせつ行動こうどう駆使くしして段階だんかいてき影響えいきょうりょくたかめていった 1921ねん5がつ15にち、『国民こくみんブロック』にFICが参加さんかして代議だいぎいん議席ぎせきると、同年どうねん11がつ9にちにファシストの政治せいじ運動うんどう国家こっかファシストとう(Partito Nazionale Fascista、PNF)として組織そしきされた。

PNFのイデオロギーであるファシズム多様たよう思想しそう習合しゅうごうさせた独特どくとく運動うんどうであり、推進すいしんされた政治せいじ主張しゅちょう多岐たきにわたっている。まず民族みんぞく主義しゅぎ(イタリア・ナショナリズム)を重視じゅうしし、民族みんぞく統一とういつ主義しゅぎによる領土りょうど拡大かくだい提唱ていしょうした[17]父祖ふそである古代こだいローマへの顕彰けんしょうふくめ、領土りょうど主張しゅちょう生存せいぞんけん理論りろん一種いっしゅである地中海ちちゅうかい世界せかい全体ぜんたいでの領土りょうど拡大かくだい目指めざす「不可欠ふかけつ領域りょういきイタリアばん」へ拡張かくちょうされ、イタリア帝国ていこく形成けいせいされた[18]経済けいざい政策せいさくではサンディリカリズムとコーポラティズムが影響えいきょうち、国家こっか指導しどう企業きぎょうたい労働ろうどう組合くみあい協調きょうちょうすること目指めざ[19]階級かいきゅう闘争とうそう否定ひていして階級かいきゅう協調きょうちょう理想りそうとした[20]自由じゆう主義しゅぎリベラル)にたいしては明確めいかく敵対てきたい姿勢しせいせたが、反動はんどう主義しゅぎではなかった[21]。また民族みんぞく主義しゅぎ観点かんてんから共産きょうさん主義しゅぎとも敵対てきたいしたが[22]ジョゼフ・ド・メーストル代表だいひょうされる過激かげき保守ほしゅ主義しゅぎにも反対はんたいした[23]

1922ねん10月31にちルイージ・ファクタ政権せいけんへのクーデターであるローマ進軍しんぐん成功せいこうしてムッソリーニ政権せいけん樹立じゅりつされ、PNF連立れんりつ与党よとう中心ちゅうしんとなった。1924ねん4がつ6にちきゅう国民こくみんブロックをPNFに統合とうごうしたうえあらたな選挙せんきょ連合れんごう国民こくみんリスト」(Lista Nazionale、LN)をげ、60%以上いじょう得票とくひょう議会ぎかい多数たすう形成けいせいした。選挙せんきょ勝利しょうり多党たとうせい枠組わくぐみを維持いじしていたが、はんファシスト運動うんどうとのはげしい対立たいりつイタリアばんて、1924ねん12月31にちにムッソリーニは独裁どくさいせいへの移行いこう宣言せんげんして首席しゅせき宰相さいしょうおよ国務大臣こくむだいじんイタリアばん就任しゅうにん政府せいふ権限けんげん大幅おおはば強化きょうかした。これにわせてPNFもいちとうせいけてうごき、とう諮問しもん機関きかんであるファシズムだい評議ひょうぎかい国家こっか最高さいこう機関きかんさだめたうえでPNF以外いがいぜん政党せいとう解散かいさん命令めいれいし、1929ねん3がつ24にちそう選挙せんきょぜん議席ぎせき獲得かくとくしてイタリアにおけるいちとう独裁どくさい確立かくりつされた。

PNFは未来みらいけて現代げんだいされるイタリアが、同時どうじ伝統でんとうもとづいた愛国心あいこくしん団結だんけつたかめることによって社会しゃかいてき繁栄はんえいむかえると看做みなしていた[24]規律きりつ重視じゅうしし、ストライキとう抵抗ていこうてき労働ろうどう運動うんどう弾圧だんあつされたが、この時期じき鉄道てつどうとう時刻じこく表通おもてどおりよく運行うんこうされていたという。PNFによるファシズム思想しそうもとづいた社会しゃかい改革かいかくだい世界せかい大戦たいせんへの参戦さんせんによって水泡すいほうかえし、ムッソリーニ幽閉ゆうへい1943ねん7がつ27にち解散かいさんめいじられた。1943ねん9がつ18にち、ナチスの要請ようせいけてムッソリーニはPNFの後継こうけい政党せいとうとして共和きょうわファシストとうRNF)を結党けっとうし、イタリア社会しゃかい共和きょうわこく(RSI)の政権せいけん与党よとうとなった。

1945ねん4がつ28にち、RSI政府せいふ崩壊ほうかいとムッソリーニのによりRNFは消滅しょうめつした。

大戦たいせん成立せいりつした現在げんざいイタリア共和きょうわこく議会ぎかいでは民主みんしゅ主義しゅぎたいする脅威きょういとして、後継こうけい組織そしきである共和きょうわファシストとう(RNF)とならんでさい結党けっとう禁止きんしされている("Transitory and Final Provisions", Disposition XII)。一方いっぽうでRNFのもと党員とういんらを中心ちゅうしんにネオ・ファシズム政党せいとうイタリア社会しゃかい運動うんどう」(MSI)が結党けっとうされ、国民同盟こくみんどうめい自由じゆう人民じんみんイタリアの同胞どうほうなどをつうじて現代げんだいでも思想しそうがれている。2022ねんにはイタリアの同胞どうほう党首とうしゅジョルジャ・メローニイタリア首相しゅしょう就任しゅうにんした。

組織そしき

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象徴しょうちょう

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  • とう:『ジョヴィネッツァ』 (Giovinezza
  • とうあきらとうはたとう

スローガン

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  • Il Duce! (われらがドゥーチェ)
  • Viva il Duce! (ドゥーチェまんさい)[25]
  • Eja, eja, alalà! (万歳ばんざい万歳ばんざい万歳ばんざい)
  • Viva la morte (犠牲ぎせいはら)
  • Credere, obbedire, combattere ("しんじ、したがい、たたかう")
  • Libro e moschetto - fascista perfetto (書物しょもつじゅうがファシストをつく)
  • Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato (国家こっかこそすべて、国家こっかそとにはなにもない)
  • Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi (われらがすすむなら、なんじつづけ。われらが退しりぞけば、なんじころせ。われらがねば、なんじ復讐ふくしゅうせよ。)
  • Me ne frego (なにめず)
  • La libertà non è diritto è un dovere (自由じゆう権利けんりではない、義務ぎむである)
  • Noi tireremo diritto (われらはすす)
  • La guerra è per l'uomo, come la maternità è per la donna (おとこ闘争とうそうせいは、おんな母性ぼせいおなじである)[26]

指導しどう体制たいせい

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合議ごうぎ機関きかん

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1926ねん、1938ねん制定せいていされたとう規約きやく[27]によると、ファシズムの指導しどうは「ドゥーチェ指導しどうしたファシズムだい評議ひょうぎかいしめした方針ほうしんにより、中央ちゅうおうおよ地方ちほう合議ごうぎ機関きかんつうじておこなわれる」とされていた。全国ぜんこく規模きぼ合議ごうぎ機関きかん全国ぜんこく評議ひょうぎかい全国ぜんこく指導しどう地方ちほうにおいてはけんごとにかれるけん連合れんごうとその指導しどうであった。県連けんれん戦闘せんとうしゃファッシをまとめる存在そんざいであると定義ていぎされていた。

役職やくしょく

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指導しどうしゃ

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氏名しめい
(なま没年ぼつねん)
肖像しょうぞう 任期にんき 兼務けんむ 背景はいけい 退任たいにん理由りゆう 出生しゅっしょう
ベニート・ムッソリーニ
(1883–1945)
1921ねん11月9にち – 1943ねん7がつ27にち とう創設そうせつしゃとしてファシズム運動うんどう精神せいしんてき指導しどうしゃ位置付いちづけられる。 はん枢軸すうじくこく勢力せいりょくクーデターによって幽閉ゆうへい

のち救出きゅうしゅつされ、イタリア社会しゃかい共和きょうわこくおよ共和きょうわファシストとう指導しどうしゃとなる。

プレダッピオ
(エミリア=ロマーニャしゅう)

書記しょきちょう

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氏名しめい
(なま没年ぼつねん)
肖像しょうぞう 任期にんき その役職やくしょくぜんしょくおよ退任たいにん役職やくしょくふくむ) 背景はいけい 退任たいにん理由りゆう 出生しゅっしょう
ミケーレ・ビアンキイタリアばん
(1883–1930)
1921ねん11がつ10日とおか - 1923ねん10がつ13にち まえしょく政治せいじ退役たいえき軍人ぐんじん。ローマ大学だいがく法学ほうがく専攻せんこう

サンディカリズム理論りろんとして活躍かつやく。 ムッソリーニと行動こうどうともにし、 初代しょだい書記しょきちょう任命にんめいされる。

フランチェスコ・ジュンタがだい2だい書記しょきちょう指名しめい ベルモンテ・カーラブロ
(カラブリアしゅう)
フランチェスコ・ジュンタイタリアばん
(1887–1971)
1923ねん10がつ13にち - 1924ねん4がつ23にち
  • ダルマチアしゅう知事ちじ
  • 下院かいん議員ぎいん
まえしょく弁護士べんごし退役たいえき軍人ぐんじん

トスカーナしゅうのファシズム運動うんどうつうじて台頭たいとうした。 だい2だい書記しょきちょうとなるが 政治せいじ情勢じょうせい変化へんかから早期そうき退任たいにんする。

党規とうきやく改正かいせいにより集団しゅうだん指導しどう体制たいせい移行いこう サン・ピエーロ・ア・シエーヴェ
(トスカーナしゅう)
よんとう体制たいせい
(ロベルト・ダヴァンツァティイタリアばん

ジョヴァンニ・マリネッリイタリアばんチェーザレ・ロッシイタリアばんアレッサンドロ・メルチオリイタリアばん) 

1923ねん10がつ13にち - 1924ねん4がつ23にち
  • 元老げんろういん議員ぎいん(ダヴァンツァティ)
  • 下院かいん議員ぎいん(マリネッリ、メルチオリ)
  • とう機関きかん編集へんしゅうしゃ(チェーザレ)
そう選挙せんきょ勝利しょうり

とう組織そしき再編さいへんともな一時いちじてき書記しょきちょうせいから4めい合議ごうぎせいとした。

ロベルト・ファリナッチがだい3だい書記しょきちょう指名しめい
ロベルト・ファリナッチ
(1892–1945)
1925ねん2がつ15にち - 1926ねん3がつ30にち
  • 下院かいん議員ぎいん
まえしょく鉄道てつどう局員きょくいん退役たいえき軍人ぐんじん

ファシズム運動うんどう急進きゅうしん妥協だきょう) の代表だいひょうてき人物じんぶつであり、 はんユダヤ主義しゅぎなど排外はいがいてき政策せいさく推進すいしんした。

ファシズム運動うんどう穏健おんけん修正しゅうせい主義しゅぎ)を重用じゅうようする

ムッソリーニと対立たいりつし、 解任かいにんされる。

イゼルニア
(モリーゼしゅう)
アウグスト・トゥラーティイタリアばん
(1888–1955)
1926ねん3がつ30にち - 1930ねん10がつ7にち まえしょく新聞しんぶん記者きしゃ退役たいえき軍人ぐんじん

党内とうないでは報道ほうどう宣伝せんでん分野ぶんや活躍かつやくした。 4年間ねんかんわたって書記しょきちょうつとめ、 妥協だきょうおさえてとう集権しゅうけん達成たっせいした。

ファリナッチら妥協だきょうとの政争せいそうて、

みずか書記しょきちょうしょく退任たいにんした。

パルマ
(エミリア=ロマーニャしゅう)
ジョヴァンニ・ジュリアーティイタリアばん
(1876-1970)
1930ねん10がつ7にち - 1931ねん12月12にち
  • フィウーメ総督そうとく
  • 公共こうきょう事業じぎょう大臣だいじん
  • 下院かいん議長ぎちょう
  • 元老げんろういん議員ぎいん
まえしょく弁護士べんごし退役たいえき軍人ぐんじん歴代れきだい書記しょきちょうでは最年長さいねんちょうで、

かつてはダンヌンツィオ運動うんどう参加さんかしていた。 トゥラーティ辞任じにん書記しょきちょうとなる。

アキーレ・スタラーチェがだい7だい書記しょきちょう指名しめい ヴェネツィア
(ヴェネトしゅう)
アキーレ・スタラーチェイタリアばん
(1889-1945)
1931ねん12月12にち - 1939ねん10がつ31にち
  • 下院かいん議員ぎいん
  • 国防こくぼう義勇軍ぎゆうぐん参謀さんぼうちょう
  • イタリア五輪ごりん委員いいんちょう
まえしょく陸軍りくぐん士官しかん

古参こさんのファシストのなかもっともムッソリーニに盲目的もうもくてきであり、 国家こっか指導しどうしゃとして神格しんかくするプロパガンダ展開てんかいした。

過去かこ最長さいちょう任期にんきつとめていたが、

だい世界せかい大戦たいせんまえ突然とつぜん解任かいにんされる。 以降いこう終戦しゅうせん直前ちょくぜんまで国政こくせいからとおざけられた。

サンニコーラ
(プッリャしゅう)
エットーレ・ムーティイタリアばん
(1902-1943)
1939ねん10がつ31にち - 1940ねん10がつ30にち
  • 航空こうくうだん指揮しきかん
まえしょく陸軍りくぐん士官しかん

だいいち世界せかい大戦たいせんとき少年しょうねんへいとして アルディーティ(突撃とつげきへい)に参加さんかしたという逸話いつわつ。 スペイン内戦ないせんでもばくげき部隊ぶたい指揮しきかんつとめるなどしている。

だい世界せかい大戦たいせん軍務ぐんむへの復帰ふっき希望きぼうし、

書記しょきちょうしょくから退任たいにん

ラヴェンナ
(エミリア=ロマーニャしゅう)
アデルキ・セレーナイタリアばん
(1895-1970)
1940ねん10がつ30にち - 1941ねん12月26にち
  • 公共こうきょう事業じぎょう大臣だいじん
  • 下院かいん議長ぎちょう
まえしょく弁護士べんごし退役たいえき軍人ぐんじん

アブルッツォでのファシズム運動うんどう指導しどうし、 やがて国政こくせいてんじて大臣だいじん下院かいん議長ぎちょうつとめた。 エットーレ辞任じにん書記しょきちょうとなる。

アルド・ヴィドゥソーニがだい10代書記しょきちょう指名しめい ラクイラ
(アブルッツォしゅう)
アルド・ヴィドゥソーニイタリアばん
(1914-1982)
1941ねん12月26にち - 1943ねん4がつ19にち
  • とう青年せいねんだん指導しどうしゃ
まえしょく弁護士べんごし

だいいち世界せかい大戦たいせん経験けいけんしていない青年せいねん党員とういんから、 27さいわかさで書記しょきちょう抜擢ばってきされた。

カルロ・スコルツァがだい11だい書記しょきちょう指名しめい フォリアーノ・レディプーリア
(フリウリ=ヴェネツィア・ジュリアしゅう)
カルロ・スコルツァイタリアばん
(1897-1988)
1943ねん4がつ19にち - 1943ねん7がつ27にち
  • 下院かいん議員ぎいん
まえしょく陸軍りくぐん士官しかん国家こっかファシストとう最後さいご書記しょきちょう

ムッソリーニを中心ちゅうしんとした国家こっか指導しどう体制たいせいへの回帰かいき主張しゅちょうした。

ディーノ・グランディらの党内とうないクーデターに反対はんたいし、

おう党派とうはによって拘束こうそくされる。

パオラ
(カラブリアしゅう)

議席ぎせき

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下院かいん
年度ねんど 票数ひょうすう 得票とくひょうりつ 獲得かくとく議席ぎせき 順位じゅんい +/– 備考びこう
1921ねん 1,260,007 19.1
105 / 535
だい3とう 増加 105 FICが国民こくみんブロックから37議席ぎせき分配ぶんぱいされる
1924ねん 4,653,488 64.9
375 / 535
だい1とう 増加 270 PNFが国民こくみんブロック統合とうごう
1929ねん 8,517,838 98.4
400 / 400
だい1とう 増加 25 PNF以外いがいぜん政党せいとう非合法ひごうほう
1934ねん 10,043,875 99.8
400 / 400
だい1とう
選挙せんきょ下院かいん廃止はいし

とう

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ファシストとう誕生たんじょう背景はいけい

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だいいち世界せかい大戦たいせん混乱こんらんがつづくイタリアでは、戦勝せんしょうこくでありながら、期待きたいしていたフィウーメなどの領地りょうちられず、ヴェルサイユ体制たいせいつよ不満ふまんをもつひとすくなくなかった。また、資源しげんとぼしく経済けいざい基盤きばん脆弱ぜいじゃくであったイタリア王国おうこくは、その戦費せんぴ外債がいさい依存いぞんしたため財政難ざいせいなんにみまわれた。経済けいざい危機きき深刻しんこくで、大量たいりょう失業しつぎょうものまれ、ロシア革命かくめい影響えいきょうけて、労働ろうどうしゃストライキ農民のうみん小作こさく争議そうぎがひろがり、社会しゃかい主義しゅぎ勢力せいりょく拡大かくだいした。物資ぶっし不足ふそくからはげしいインフレーションこって民衆みんしゅう生活せいかつ直撃ちょくげきした。あたたかい歓迎かんげい安定あんていしたらしをゆめみてイタリアのためにたたかった兵士へいしたちは、経済けいざい混乱こんらんにあえぐ祖国そこくかえり、あらたな失業しつぎょうしゃ一群いちぐん余計よけいしゃ集団しゅうだんとして、むしろつめたい視線しせんびることとなった。

おりから1919ねんから1920ねんにかけては、労働ろうどうしゃのストライキや農民のうみん小作こさく争議そうぎ頻発ひんぱつして社会しゃかい不安ふあん増加ぞうかしていたのである。

「イタリア戦闘せんとうしゃファッシ」から政権せいけん獲得かくとくまで

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だいいち世界せかい大戦たいせんまえのベニート・ムッソリーニは、イタリア社会党しゃかいとうないでは正統せいとうマルクス主義まるくすしゅぎというよりはジョルジュ・ソレル思想しそう影響えいきょうけており、とう主流しゅりゅう社会しゃかい改良かいりょう主義しゅぎてき路線ろせんとは一線いっせんかくし、その批判ひはんしゃとして頭角とうかくあらわした。1912ねんには社会党しゃかいとう執行しっこう委員いいんえらばれ、とう重要じゅうよう日刊にっかん「アバンティ!(Avanti!、「前進ぜんしん」 )」の編集へんしゅうちょうにまでなっていたが、1914ねんなつだいいち世界せかい大戦たいせんがはじまると、伝統でんとうてき平和へいわ主義しゅぎから「イタリアの絶対ぜったい中立ちゅうりつ」をとなえたとう方針ほうしん反対はんたい戦争せんそうとその帰結きけつにこそ革命かくめい展望てんぼうがあるとする立場たちばから11月「ポポロ・ディタリア (Il Popolo d'Italia )」[ちゅう 3]創刊そうかんして、イタリアがえいふつ協商きょうしょうがわって参戦さんせんすべき[ちゅう 4]との意見いけん主張しゅちょうしてイタリア社会党しゃかいとう除名じょめいされた。また、14ねんまつからはイタリア各地かくちでうまれた参戦さんせん主義しゅぎしゃ団体だんたい革命かくめい行動こうどうだん」の指導しどうしゃとなった。

1919ねん3月23にち、ムッソリーニはミラノで、復員ふくいん軍人ぐんじん主体しゅたいにして、革命かくめい阻止そし国粋こくすい主義しゅぎナショナリズム)の立場たちばで「イタリア戦闘せんとうしゃファッシ」を組織そしきした。創立そうりつ大会たいかい出席しゅっせきしゃは145にんといわれ、復員ふくいん将校しょうこうのほか、地主じぬし資本しほん子息しそくである右翼うよく学生がくせいおおく、上述じょうじゅつのように「未来みらい」の影響えいきょうけた青年せいねんおおかった。創立そうりつ大会たいかい宣言せんげんでは、イタリアの領土りょうど拡大かくだい主張しゅちょうしている。6月6にちにはポポロ・ディタリアからフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティらによるファシスト・マニフェスト出版しゅっぱんされている。

1919ねんから1920ねんにかけて、北部ほくぶイタリアのしょ都市としでは労働ろうどうしゃのストライキが頻発ひんぱつし、農村のうそんでは農民のうみん地主じぬし土地とち占拠せんきょして地代じだい支払しはらいを拒否きょひするなどの小作こさく争議そうぎこって社会しゃかい不安ふあん醸成じょうせいされていた。

戦闘せんとうしゃファッシは、当初とうしょは、王政おうせい廃止はいし戦時せんじ利得りとくの85パーセント没収ぼっしゅう労働ろうどうしゃ経営けいえいけんへの参加さんか最低さいてい賃金ちんぎんせいだい土地とち所有しょゆうしゃ土地とち農民のうみんへの分与ぶんよなどサンディカリスムてき綱領こうりょうかかげていた。そうしたなかで、1919ねん11月のそう選挙せんきょではイタリア社会党しゃかいとう全体ぜんたいの3わりにあたる180まんひょう獲得かくとくして154議席ぎせき確保かくほしたのにたいし、戦闘せんとうしゃファッシの獲得かくとくひょうは5,000ひょうたらずであり、1人ひとり当選とうせんしゃなかった。

1920ねんになるとストライキは激化げきかし、9月にはきたイタリアで社会党しゃかいとう左派さは1921ねん1がつイタリア共産党きょうさんとう結成けっせい)の指導しどうのもと50まんにん労働ろうどうしゃ工場こうじょう占拠せんきょし、農民のうみん各地かくち地主じぬし保有ほゆう占拠せんきょするなど、あたかも革命かくめい前夜ぜんやおもわせるような情勢じょうせいとなった。社会党しゃかいとう指導しどう決断けつだんにより工場こうじょう占拠せんきょ闘争とうそうやぶれ、革命かくめいてき情勢じょうせい退潮たいちょうかったものの、ポー平原へいげんボローニャけんフェラーラけんでは、農業のうぎょう労働ろうどうしゃによる農業のうぎょう協約きょうやく改訂かいてい闘争とうそう勝利しょうりし、社会党しゃかいとうも10がつ地方ちほう選挙せんきょきつづき優位ゆういって2,000以上いじょう自治体じちたい掌握しょうあくした。こうした、零細れいさい農民のうみん労働ろうどうしゃ直接ちょくせつ行動こうどう危機ききかんいた地主じぬし土地とちなか小農しょうのう都市としなかあいだそうは、自由じゆう主義しゅぎ政府せいふ支援しえんもとめた。しかし、それがかなわないとると、かれらは戦闘せんとうしゃファッシと連携れんけいして武装ぶそう行動こうどうたいsquadra)を編成へんせいし、20ねんあきより直接ちょくせつ行動こうどうきょた。

ローマ進軍しんぐんおこなうファシスト党員とういん

ムッソリーニもくろいシャツを制服せいふくとして使用しようさせた「くろシャツたい」を武装ぶそう行動こうどうたいとして編成へんせいして、こうした革命かくめいてきうごきを暴力ぼうりょくてき鎮圧ちんあつした。これにより、中産ちゅうさん階級かいきゅう資本しほん軍部ぐんぶ地主じぬしそうなどの支持しじひろげて資金しきん武器ぶき1921ねん5月のそう選挙せんきょではムッソリーニふくむ35めい下院かいん議員ぎいん当選とうせんさせ、同年どうねん11がつ戦闘せんとうしゃファッシは政党せいとう「ファシストとう」(全国ぜんこくファシスタとう)に改組かいそミケーレ・ビアンキit)を書記しょきちょうとした。1922ねん5月と8がつの2にわたり、政府せいふぐんわってゼネラル・ストライキ鎮圧ちんあつし、ぐん資本しほん支持しじ不動ふどうのものとした。

さらに1922ねん10がつ24にちナポリひらかれたファシストとう大会たいかいでムッソリーニは「政権せいけんがわれわれにあたえられるか、われわれがそれをとるかだ」と演説えんぜつし、28にち、4まんにんのファシスト党員とういんがビアンキ、デ=ボーノ、デ=ベッキ、バルボの「ファシスト四天王してんのう(ムッソリーニ四天王してんのう)」としょうされる4にん幹部かんぶひきいられてナポリなどからローマにむけて進軍しんぐんする示威じい行動こうどう、いわゆる「ローマ進軍しんぐん」をおこなった。ムッソリーニ自身じしんはこの進軍しんぐん参加さんかせず、ミラノに待機たいきした[ちゅう 5]国王こくおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいは10月30にちムッソリーニに組閣そかくめいじ、首班しゅはん指名しめいけて政権せいけん授与じゅよされた。かれよく31にち、ミラノから寝台しんだい列車れっしゃでローマにはいった。こうして、史上しじょうはつのファシズム政権せいけん成立せいりつした。

独裁どくさい体制たいせい確立かくりつ

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1923ねんファシストとう有利ゆうりしん選挙せんきょほう制定せいていされ、1925ねんから26ねんにかけて結社けっしゃ治安ちあん行政ぎょうせいけん集中しゅうちゅうかんするしょ法律ほうりつ制定せいてい1926ねん11月にはファシストとう以外いがいのすべての政党せいとう解散かいさん遂行すいこうして、いちとう独裁どくさいせい確立かくりつした。イタリア王室おうしつ軍部ぐんぶ財界ざいかいなどの支持しじ独裁どくさい体制たいせいをととのえた。またファシスト産業さんぎょう組合くみあい[ちゅう 6]設立せつりつして労働ろうどう組合くみあい統制とうせいし、言論げんろん自由じゆうもきびしく制限せいげんされた。1924ねんにはユーゴスラビアとの直接ちょくせつ交渉こうしょう回収かいしゅうのイタリア一部いちぶであるフィウーメ自由じゆう獲得かくとくし、ファシズム政権せいけん最初さいしょ外交がいこうてき勝利しょうりとなった。1928ねん9月には、ファシズムだい評議ひょうぎかい正式せいしき国政こくせい最高さいこう機関きかんとした。

1929ねんにはローマ教皇きょうこうピウス11せいラテラノ条約じょうやくむすび、ローマ教皇きょうこうちょうとの和解わかい成立せいりつし、イタリア王国おうこくカトリック唯一ゆいいつ宗教しゅうきょうとすることをみとめ、教皇きょうこう主権しゅけんバチカンこくがイタリアから独立どくりつすることを承認しょうにんした。これにより、1870ねん以来いらいつづいてきた教皇きょうこうちょうとイタリア王国おうこく対立たいりつ解消かいしょうし、ファシストとうはカトリック教徒きょうと支持しじ確保かくほしたこととなる[ちゅう 7]。ムッソリーニは、ローマ教皇きょうこうちょうたいし、小中学校しょうちゅうがっこうにおけるカトリック教育きょういく義務ぎむ聖職せいしょくしゃ徴兵ちょうへい免除めんじょ教会きょうかい葬祭そうさい婚姻こんいん統制とうせいなどをみとめるなど大幅おおはば譲歩じょうほし、これらとえにファシスト独裁どくさい体制たいせい威信いしんたかめることに成功せいこうした。

ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制たいせい打破だはとなえた。また、「古代こだいマ帝国まていこく復興ふっこう」をかかげたが、これはたんなる士気しき向上こうじょうしゅ目的もくてきであり、現実味げんじつみ片鱗へんりんもないはなしであった。経済けいざい危機きき打開だかいするために膨張ぼうちょう主義しゅぎ政策せいさく着手ちゃくしゅし、1927ねんにはアルバニア王国おうこく保護ほごこく1935ねん10月にはエチオピア併合へいごうした。1938ねん人種じんしゅほう制定せいていする。

経済けいざい政策せいさくめんでは、1922ねんから1925ねんにかけてアルベルト・ステファニit )が政府せいふコスト削減さくげんし、民間みんかん企業きぎょうをほとんど国有こくゆうすることなく、一時いちじ頻発ひんぱつしたストライキをおさえ、景気けいき回復かいふくして失業しつぎょうしゃ減少げんしょうし、生産せいさんりょくした。治安ちあん改善かいぜんして、とくマフィア活動かつどうさえんで犯罪はんざい件数けんすう減少げんしょうさせた。所有しょゆう形態けいたい維持いじしながら一連いちれん成果せいかげたため、イギリスアメリカなどの民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっか指導しどうしゃ評論ひょうろんのなかにも「ムッソリーニこそあたらしい時代じだい理想りそう指導しどうしゃ」とたたえるきがあり、辛口からくち論評ろんぴょうられたイギリスのウィンストン・チャーチルさえ「偉大いだい指導しどうしゃ一人ひとり」とたか評価ひょうかしていた。しかし、1929ねん世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょうにより失業しつぎょうしゃが100まんにん以上いじょうふくがり、次第しだい財政ざいせい支出ししゅつやしはじめ、だい世界せかい大戦たいせん開戦かいせんする1939ねんまでには、イタリアはソビエト連邦れんぽういで国有こくゆう企業きぎょうおおくにとなった。1939ねん3がつ議会ぎかい廃止はいしして全国ぜんこく組合くみあい協同きょうどう会議かいぎにかえ、全体ぜんたい主義しゅぎ組合くみあい国家こっか体制たいせいとしている。

ムッソリーニ失脚しっきゃくとう解体かいたい

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1943ねん連合れんごう国軍こくぐん本土ほんど上陸じょうりくゆるしたうえに、エチオピアをふくアフリカでのたたかいにも敗北はいぼくし、完全かんぜん劣勢れっせいたされたイタリアでは国王こくおう中心ちゅうしんにムッソリーニ追放ついほううごきがはじまった。7月24にち、5ねんぶりにヴェネツィア宮殿きゅうでんおこなわれたファシズムだい評議ひょうぎかいにおいて、下院かいん議長ぎちょうおう党派とうはディーノ・グランディ伯爵はくしゃく連合れんごうこくとの開戦かいせんとそのにおけるムッソリーニの指導しどう責任せきにん追及ついきゅうし、「統帥とうすいけん国王こくおうへの返還へんかん」の動議どうぎ提出ていしゅつした。これにたいし、ムッソリーニの女婿じょせいでもあったガレアッツォ・チャーノ外務がいむ大臣だいじんふくおおくのファシストとう閣僚かくりょうがこれに賛同さんどうし、過半数かはんすう賛成さんせい成立せいりつした。ムッソリーニはよく7がつ25にち、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいにそのむね報告ほうこくしたその直後ちょくご憲兵けんぺいたい拘束こうそくされ、即座そくざ幽閉ゆうへいされた。

ムッソリーニの失脚しっきゃくにより、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいはファシストとう解散かいさん命令めいれいピエトロ・バドリオ首相しゅしょう任命にんめい。 バドリオは7がつ27にちはつ閣議かくぎ開催かいさいし、ファシストとう解散かいさん決議けつぎした[28]

その、ムッソリーニは9月にアドルフ・ヒトラー指令しれいによるグラン・サッソ襲撃しゅうげきによって救出きゅうしゅつされ、ドイツ支配しはいきたイタリアにてられた傀儡かいらい政権せいけんイタリア社会しゃかい共和きょうわこく(サロ政権せいけん)の首班しゅはんとなった。ドイツつよ要請ようせいによりだい評議ひょうぎかい賛成さんせいひょうとうじたチアーノら幹部かんぶ処刑しょけいされた。社会しゃかい共和きょうわこくでファシストとう共和きょうわファシストとうとして再建さいけんされヴェローナ憲章けんしょうit:Manifesto di Verona)を綱領こうりょうとしたが、ほとんど活動かつどうおこなわれなかった。1945ねん4がつ25にち社会しゃかい共和きょうわこく崩壊ほうかいすると、とう自然しぜん消滅しょうめつした。

ファシストとうながれを現代げんだい政党せいとう

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イタリアにおいては、だい世界せかい大戦たいせんもファシストとうながれを一定いってい勢力せいりょくイタリア社会しゃかい運動うんどう)が存在そんざいした。現在げんざいのイタリアの極右きょくう政党せいとう国民同盟こくみんどうめいも、穏健おんけんしてはいるがファシストとう影響えいきょうのこしている。国民同盟こくみんどうめい穏健おんけん国民こくみんから評価ひょうかされ、1994ねんフォルツァ・イタリアによるシルヴィオ・ベルルスコーニ政権せいけん誕生たんじょうへとつながった。

また国民こくみん同盟どうめいはかつて、ベニート・ムッソリーニの孫娘まごむすめアレッサンドラ・ムッソリーニ所属しょぞくしていた。アレッサンドラは国民こくみん同盟どうめい離党りとう極右きょくう政党せいとう行動こうどう自由じゆう (Libertà di Azione) 」(現在げんざい名称めいしょうは「社会しゃかい行動こうどう (Azione Sociale)」)を結成けっせいした。欧州おうしゅう議会ぎかい選挙せんきょではネオ・ファシズム運動うんどう連携れんけいして会派かいは社会しゃかいてき選択せんたく (Alternativa Sociale) 」を組織そしきしてひょう獲得かくとくし、アレッサンドラは欧州おうしゅう議会ぎかい議員ぎいん当選とうせんした。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 近代きんだいイタリアにおいて展開てんかいされたファシズムと、そこから派生はせいしたナチズムファランジズム英語えいごばんネオファシズム区別くべつする立場たちばからは古典こてんてきファシズム英語えいごばんとも呼称こしょうされる。
  2. ^ 全国ぜんこくファシスとうやくされる場合ばあいもある
  3. ^ 「イタリア人民じんみん」の
  4. ^ フランス政府せいふ機密きみつけていたという。
  5. ^ ムッソリーニは、この計画けいかく失敗しっぱいわった場合ばあい亡命ぼうめいできるよう準備じゅんびしていたという。
  6. ^ 1927ねん、「労働ろうどう憲章けんしょう」によってファシスト労働ろうどう組織そしき改組かいそ
  7. ^ ただし、ピウス11せいはムッソリーニ政権せいけんのイタリアをかならずしもくはおもっておらず、1931ねんにはかいみことのり『ノン・アビアモ・ビゾーニョ』で公式こうしきにファシストとう非難ひなんしている。

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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