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ホルティ・ミクローシュ

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ホルティ・ミクローシュ
Horthy Miklós
生年月日せいねんがっぴ (1868-06-18) 1868ねん6月18にち
出生しゅっしょう オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこくケンデレシュ
ぼつ年月日ねんがっぴ (1957-02-09) 1957ねん2がつ9にち(88さいぼつ
死没しぼつ ポルトガルエストリル
出身しゅっしんこう オーストリア=ハンガリー海軍兵学校かいぐんへいがっこう
ぜんしょく 海軍かいぐん軍人ぐんじん
所属しょぞく政党せいとう 無所属むしょぞく
称号しょうごう 殿下でんか英語えいごばん
ヴィテーズ・ナジバーニャイ
マリア・テレジア軍事ぐんじ勲章くんしょう だいじゅうあきら
ハンガリー王家おうけ勲章くんしょうせいシュテファンじゅうあきら英語えいごばん
配偶はいぐうしゃ プルグリ・マグドルナハンガリーばん
親族しんぞく ホルティ・イシュトヴァーンハンガリーばん長男ちょうなん
ホルティ・ミクローシュハンガリーばん次男じなん
サイン

在任ざいにん期間きかん 1920ねん3月1にち - 1944ねん10月17にち
国王こくおう 空位くうい
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ホルティ・ミクローシュ
Horthy Miklós
ホルティ・ミクローシュ(1909ねんごろ
所属しょぞく組織そしき オーストリア=ハンガリーじゅう君主くんしゅこく海軍かいぐん
ぐんれき 1886ねん - 1920ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん中将ちゅうじょう
指揮しき 海軍かいぐん艦隊かんたい司令しれいかん
戦闘せんとう オトラント海峡かいきょう海戦かいせん
除隊じょたい ハンガリー王国おうこく摂政せっしょう英語えいごばん
墓所はかしょ  ハンガリーヤース・ナジクン・ソルノクけんケンデレシュ
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パチェッリ枢機卿すうききょう(のち教皇きょうこうピウス12せい)と握手あくしゅわすホルテイ(1938)

ヴィテーズ・ナジバーニャイ・ホルティ・ミクローシュハンガリー: Vitéz Nagybányai Horthy Miklós ハンガリー発音はつおん[ˈvite̝ːz ˈnɒɟbɑ̈ːɲɒi ˈhorti ˌmikloːʃ]1868ねん6月18にち - 1957ねん2がつ9にち)は、ハンガリー海軍かいぐん軍人ぐんじん政治せいじ国王こくおう不在ふざいハンガリー王国おうこくにおける元首げんしゅたる摂政せっしょう英語えいごばんハンガリー: kormányzója)をつとめた(在任ざいにん1920ねん3月1にち - 1944ねん10月17にち)。

フランス語ふらんすごふうミクローシュ・ホルティ・ド・ナジバーニャMiklós Horthy de Nagybánya)とられる。「ヴィテーズ(vitéz)」 とはハンガリーで「勇者ゆうしゃ」を意味いみし、ナジバーニャイトランシルヴァニア都市とし[注釈ちゅうしゃく 1]。1920ねん創設そうせつされた「いさむ爵府ハンガリーばんVitézi Rend)」にじょせられたものとその継承けいしょうしゃみずからの姓名せいめいまえけることゆるされた称号しょうごうであり、正式せいしきには名前なまえ一部いちぶではない。

ハンガリー王国おうこくにおけるホルティの地位ちいあらわkormányzójaは、日本語にほんごでは「摂政せっしょう[1]執政しっせい」「執政しっせいかん[2]ひとしやくされている。当時とうじのハンガリーは王制おうせいであるため本来ほんらい国家こっか元首げんしゅ国王こくおうであるが、後述こうじゅつする事情じじょうによって国王こくおう即位そくいすること出来できず、その代行だいこうとして摂政せっしょう設置せっちした。

概説がいせつ

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オーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんなどを歴任れきにんコトル水兵すいへい反乱はんらん鎮圧ちんあつとう武功ぶこうげる。1919ねん国民こくみんぐん総帥そうすいとしてはん革命かくめい指揮しきし、クン・ベーラらの政権せいけんってわった。よく1920ねん協商きょうしょうこく支援しえん直属ちょくぞく部隊ぶたいちからとを背景はいけい摂政せっしょうとなる。官僚かんりょう軍人ぐんじん支持しじ基盤きばん中核ちゅうかくとするホルティ体制たいせいにおいては、権威けんい主義しゅぎてき政治せいじおこなわれた。外交がいこうではしんどく基調きちょうとし、失地しっち回復かいふくはかった。だい世界せかい大戦たいせん末期まっきの1944ねん10がつに、敗色はいしょくいドイツからの戦線せんせん離脱りだつさくすが失敗しっぱいし、摂政せっしょう退しりぞいた。1946ねんにポルトガルへ亡命ぼうめい[3]

生涯しょうがい

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オーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん

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ハンガリーの首都しゅとブダペストの南東なんとう位置いちする、現在げんざいヤース・ナジクン・ソルノクけんケンデレシュ在郷ざいきょう貴族きぞくいえまれた。

1886ねん当時とうじ、ハンガリーで唯一ゆいいつ海港かいこう都市としだったフィウメ(現在げんざいクロアチアりょうリエカ海軍兵学校かいぐんへいがっこう教育きょういくけ、オーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐん入隊にゅうたい兵曹へいそうちょう[3]1899ねんから教育きょういくかん「アルテミダ」艦長かんちょう1903ねんから「ハプスブルク」の水雷すいらい士官しかんつとめ、数ヵ月すうかげつに「ザンクト・ゲオルク」に異動いどう1907ねんから帆船はんせん「ラクロマ」一等いっとう士官しかん異動いどう1908ねん、コンスタンティノープル(イスタンブール海軍かいぐん泊地はくちちょう昇進しょうしんよく1909ねん艦隊かんたい勤務きんむからはなれて、皇帝こうていフランツ・ヨーゼフ1せい侍従じじゅう武官ぶかん拝命はいめいした[4]。ホルティは終生しゅうせいフランツ・ヨーゼフ1せい敬愛けいあいし、度々たびたび賛辞さんじくちにしている[5]

1914ねん7がつ28にちだいいち世界せかい大戦たいせん開戦かいせんアントン・ハウス大将たいしょう統帥とうすいするオーストリア・ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐんは、戦艦せんかん16せき巡洋艦じゅんようかん12せき駆逐くちくかん23せき水雷すいらいてい62せき潜水せんすいかん6せき補助ほじょ艦艇かんてい7せき汽船きせん商船しょうせん)12せきようしていた(世界せかいだい7番目ばんめ海軍かいぐんりょく)。開戦かいせん直後ちょくご1914ねん8がつ、ホルティはフランツ・レイフラー少将しょうしょう麾下きかアドリア海あどりあかい方面ほうめん艦隊かんたい所属しょぞくだい3戦隊せんたい旗艦きかん戦艦せんかん「ハプスブルク」艦長かんちょう就任しゅうにんする。しかし、わずか4ヶ月かげつ同年どうねん12がつには巡洋艦じゅんようかん「ナヴァラ」艦長かんちょう異動いどうとなる。ハウス大将たいしょう開戦かいせん当初とうしょより、海軍かいぐんりょく温存おんぞんはかアドリア海あどりあかい各地かくち港湾こうわん都市とし艦船かんせん分散ぶんさんさせ、頻繁ひんぱん艦船かんせん移動いどうおよ人事じんじ異動いどうかえした。フランスを主力しゅりょくとする連合れんごうこく艦隊かんたいとの直接ちょくせつ対決たいけつけた『アドリア海あどりあかいまわる』その姿勢しせいを、帝国ていこくない新聞しんぶん各社かくしゃおおいに非難ひなんした。しかし当時とうじ状況じょうきょうとしては、帝国ていこく海軍かいぐん実力じつりょくかんがみてこれはただしい判断はんだんであり、連合れんごうこく艦隊かんたいとの艦隊かんたいせんとなれば、短期間たんきかんうち保有ほゆう艦船かんせんおおきく損耗そんこうし、アドリア海あどりあかい制海権せいかいけん早々そうそう喪失そうしつしていた可能かのうせいたかいとわれている。開戦かいせん帝国ていこく海軍かいぐん人材じんざい不足ふそくとく士官しかん不足ふそくおちいっており、開戦かいせん同時どうじフィウメ海軍兵学校かいぐんへいがっこう士官しかん候補こうほせいげして卒業そつぎょうさせ、帝国ていこく海軍かいぐん士官しかんとして任用にんようした。このよう状況じょうきょう当時とうじからひろ列強れっきょうにもられており、帝国ていこくもっぱ陸軍りくぐんこくであり、海軍かいぐん沿岸えんがん警備けいび程度ていど実力じつりょく評価ひょうかされていた。イギリスフランスイタリアさんこく連合れんごう艦隊かんたいは、アドリア海あどりあかい制海権せいかいけんにぎり、帝国ていこくちゅうおう内陸ないりくふうめるべくオトラント海峡かいきょう封鎖ふうさした(オトラント海峡かいきょう封鎖ふうさ)。帝国ていこく海軍かいぐん寡兵かへいながら潜水せんすいかん巡洋艦じゅんようかんによる夜戦やせん度々たびたび決行けっこう善戦ぜんせんするも、封鎖ふうさ突破とっぱすること出来できなかった。そのよう戦況せんきょうなか1917ねん5月、海上かいじょう封鎖ふうさやぶるべく、オトラントせき攻撃こうげき作戦さくせん指揮しき大命たいめいがホルティにくだった。オトラント海峡かいきょう海戦かいせん (1917ねん)である。ホルティはけい巡洋艦じゅんようかんわずか3せき構成こうせいされた主力しゅりょく部隊ぶたいと、べつどうたい駆逐くちくかん2せき連合れんごうこく艦隊かんたい特殊とくしゅ掃海そうかいていやく100せきまもるオトラントせき攻撃こうげき無謀むぼうともえる作戦さくせんであったが、イタリア海軍かいぐん駆逐くちくかんボレアと貨物かもつせん1せき早々そうそう撃沈げきちんさら特殊とくしゅ掃海そうかいてい14せき撃沈げきちんした。オトラントせき襲撃しゅうげきほうにイタリア海軍かいぐんのアルフレッド・アクトン提督ていとくひきいるひがし地中海ちちゅうかい艦隊かんたいがオトラントせきけつけるもホルティ艦隊かんたい大敗たいはいきっし、連合れんごうこく艦隊かんたい主力しゅりょくたるイタリア海軍かいぐんひがし地中海ちちゅうかい艦隊かんたい事実じじつじょう壊滅かいめつした。ホルティは旗艦きかん「ナヴァラ」が大破たいはしながらも善戦ぜんせんし、ついさんヵ国かこくによるアドリア海あどりあかい海上かいじょう封鎖ふうさやぶる。この武勲ぶくんによりホルティは大佐たいさから少将しょうしょう昇進しょうしん、ハンガリー国内こくないはオトラント海戦かいせんだい勝利しょうりいた(オトラント海峡かいきょう海戦かいせん)。よく1918ねん帝国ていこく海軍かいぐん提督ていとくマクシミリアン・ニェゴヴァンわり帝国ていこく海軍かいぐんそう司令しれいかん就任しゅうにん同年どうねん10がつアドリア海あどりあかい南下なんかし、ユーゴスラビアアルバニア沿岸えんがん攻略こうりゃく計画けいかくしたが、作戦さくせんようとなる戦艦せんかんセント・イシュトヴァーン」がイタリア海軍かいぐん水雷すいらいていによる雷撃らいげき撃沈げきちん。この作戦さくせん中止ちゅうしされた。10月30にち中将ちゅうじょう昇進しょうしん。11月3にちヴィラ・ジュスティ休戦きゅうせん協定きょうていにより、艦隊かんたい活動かつどう停止ていしなお、このとき敗戦はいせん混乱こんらんじょうじてモンテネグロ城塞じょうさい都市としコトル発生はっせいした暴動ぼうどうを、208めい陸戦りくせんたい指揮しき鎮圧ちんあつしている。

アドリア海あどりあかいおも戦域せんいきとした地中海ちちゅうかい中東ちゅうとうで、イギリス・フランス・イタリアのさん大海たいかい軍国ぐんこく相手あいてに、艦艇かんていすうすくない帝国ていこく海軍かいぐんひきいて互角ごかくわたい、大戦たいせんあいだつうじて終始しゅうし軍事ぐんじてき優位ゆういたもった提督ていとくとして、ホルティの名声めいせいはハンガリー国内こくない不動ふどう地位ちいた。

ハンガリー国民こくみんぐん

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1918ねん11月16にち、ハンガリーはハンガリー民主みんしゅ共和きょうわこくだいいち人民じんみん共和きょうわせい)として独立どくりつ。しかし北部ほくぶハンガリー(スロバキアカルパティア・ルテニア)はチェコスロバキアとして独立どくりつし、ハンガリーりょうトランシルヴァニアルーマニア併合へいごうした。ハンガリーは帝国ていこく解体かいたいおおきく領土りょうど喪失そうしつおおくの国民こくみん不満ふまんこととなる。

騎乗きじょうするホルティ(1919ねん10がつ16にち

1919ねん3月1にちハンガリー革命かくめい発生はっせい首都しゅとブダペスト都市とし炭坑たんこう労働ろうどうしゃ蜂起ほうきし、指導しどうしゃクン・ベーラ共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんハンガリー評議ひょうぎかい共和きょうわこく(ハンガリー・ソビエト共和きょうわこくとも)を樹立じゅりつした。しかし評議ひょうぎかい(ソビエト)共和きょうわこくは、大半たいはん保守ほしゅてきなハンガリー国民こくみんから支持しじこと出来できなかった。このため評議ひょうぎかい率先そっせんして赤色あかいろテロおこない、きゅう皇帝こうてい国王こくおうきゅう帝国ていこく軍人ぐんじん粛清しゅくせい保守ほしゅてき知識ちしきじん、カトリック教会きょうかい迫害はくがいした。4月16にち、ハンガリー国内こくない混乱こんらんじょうじてルーマニアが「赤色あかいろ革命かくめいふせぐ」と大義名分たいぎめいぶんでハンガリーへ侵攻しんこうハンガリー・ルーマニア戦争せんそう)。評議ひょうぎかい粛清しゅくせい弱体じゃくたいしたきゅう帝国ていこくぐんわり、あらたに都市とし炭坑たんこう労働ろうどうしゃ武装ぶそうした「ハンガリー人民じんみんぐん」を創設そうせつし、ルーマニア王国おうこくぐんむかこととなった。軍事ぐんじてき経験けいけん皆無かいむ評議ひょうぎかい首班しゅはんクン・ベーラは人民じんみんぐんがルーマニア王国おうこくぐん勝利しょうりすることうたがわず、敗戦はいせんにより併合へいごうされたトランシルヴァニア地方ちほう奪還だっかんをも楽観らっかんしていた。だいいち大戦たいせん敗戦はいせんによって帝国ていこく瓦解がかい領土りょうどおおきく喪失そうしつし、さらにルーマニアの侵攻しんこうによって、ハンガリーは「亡国ぼうこく危機きき」にひんしていた。

ホルティはフィウメで連合れんごうこく降伏ごうぶくしていた。イタリア海軍かいぐん艦船かんせんわたし、帝国ていこく艦隊かんたい解散かいさんした。しかし、ハンガリーへ帰国きこくする予定よていがソビエト政権せいけん誕生たんじょうによりおおきくくることとなる。艦隊かんたい解散かいさんと、それにともな艦艇かんていわたしと屈辱くつじょくてき敗戦はいせん処理しょりえたホルティのもとには、評議ひょうぎかい粛清しゅくせい迫害はくがいからのがれて軍人ぐんじん民間みんかんじんあふれ、ただちに帰国きこく出来でき状態じょうたいではなかった。だが、国内こくない混乱こんらんたいして、ホルティは職業しょくぎょう軍人ぐんじんとして「軍人ぐんじん政治せいじ介入かいにゅうせず」とかたくなな姿勢しせいつらぬき、フィウメでもっぱ避難ひなんみん保護ほごつとめた。1919ねん4がつオラデアより出撃しゅつげきしたルーマニア王国おうこくぐんがハンガリー東部とうぶ侵攻しんこうデブレツェン人民じんみんぐん敗北はいぼくしたことり、ホルティはハンガリーの防衛ぼうえい決意けつい。6月、海軍かいぐん士官しかん艦隊かんたい要員よういん軍属ぐんぞく陸戦りくせんたい士官しかん候補こうほせいひきいてドラーヴァがわわたり、ハンガリー西部せいぶバルチュでハンガリー国民こくみんぐん創立そうりつ宣言せんげんした。ハンガリー国民こくみんぐん決起けっき呼応こおうして、ハンガリー全土ぜんど民兵みんぺい組織そしき義勇軍ぎゆうぐん)が蜂起ほうき、ホルティのもときゅう軍人ぐんじん民兵みんぺい義勇ぎゆうへい)があつまり、ハンガリー国民こくみんぐん人民じんみんぐんはるかにしの勢力せいりょく拡大かくだいした。

8がつ6にち、ルーマニア王国おうこくぐんがブダペストを占領せんりょうしクン・ベーラ政権せいけん崩壊ほうかい。ハンガリー国民こくみんぐんはルーマニア王国おうこくぐんとブダペストをはさんで対峙たいじすることとなる。ルーマニアはハンガリー東部とうぶ領土りょうど割譲かつじょう要求ようきゅうするが、ホルティはこれを拒否きょひ。フランスの軍事ぐんじ支援しえんけ、人民じんみんぐんわりつぎせん示唆しさした。ハンガリー国民こくみんぐんはハンガリー国民こくみん支持しじけ、士気しきたかく、「明日あしたにはブダペストを!(Holnap elmegyek Budapestre!)」の合言葉あいことばしたにブダペスト入城にゅうじょうつづけた。たいするルーマニアはクン・ベーラ政権せいけん崩壊ほうかいしたことにより、大義名分たいぎめいぶん喪失そうしつ進駐しんちゅう長期ちょうきによる経済けいざいてき負担ふたん士気しき低下ていかさらにロシア革命かくめい影響えいきょうされたルーマニア国内こくない革命かくめい勢力せいりょく活発かっぱつおそれ、事態じたい収拾しゅうしゅういそはじめた。ホルティはルーマニアとのきびしい和平わへい交渉こうしょうすえ領土りょうど割譲かつじょう拒否きょひわりにブダペスト残置ざんちされた人民じんみんぐんがわ武器ぶき弾薬だんやく工場こうじょう設備せつび金融きんゆう資産しさんとうわた条件じょうけんでの撤兵てっぺい提案ていあん。ルーマニアより、ハンガリー国内こくないからのルーマニア王国おうこくぐん撤兵てっぺい確約かくやくけた。11月14にち、ルーマニア王国おうこくぐんがブダペスト撤退てったい開始かいしわってホルティひきいるハンガリー国民こくみんぐんがブダペストへ無血むけつ入城にゅうじょうし、ホルティはハンガリー全土ぜんど掌握しょうあくした。これらの事態じたい収拾しゅうしゅうしたホルティの名声めいせいさらたかまり、ハンガリー国民こくみん圧倒的あっとうてき多数たすうがホルティを軍事ぐんじてき政治せいじてきな「救国きゅうこくてき指導しどうしゃ」として支持しじした。クン・ベーラ政権せいけん協力きょうりょくした共産きょうさん主義しゅぎしゃなかからも、転向てんこうしてホルティを支持しじするものすくなくなかった。なお赤色あかいろテロの反動はんどうとして一時いちじ愛国あいこくしゃ保守ほしゅきゅう皇帝こうていにより、クン・ベーラに協力きょうりょくした共産きょうさん主義しゅぎしゃたいする白色はくしょくテロ横行おうこうした(ハンガリーぐんによる白色はくしょくテロ英語えいごばん)。

ホルティ(前列ぜんれつひだりから2人ふたり)とヨーゼフ・アウグスト大公たいこう(そのひだり

クン・ベーラ政権せいけん崩壊ほうかい、ハンガリーを掌握しょうあくしたハンガリー国民こくみんぐんは、きゅう帝国ていこく皇族こうぞくであるオーストリア大公たいこうヨーゼフ・アウグストを「われらがおう」(Homo Regius)として擁立ようりつした。しかし、ハプスブルク帝国ていこく復活ふっかつこわれる協商きょうしょうこく陣営じんえいとルーマニアがさい宣戦せんせんふく強硬きょうこう反対はんたい。10月23にち、ヨーゼフ・アウグスト大公たいこう暫定ざんていてき王位おういから退位たいいした。退位たいいきわめて短期間たんきかん、「共和きょうわこく議会ぎかい」よりフリードリッヒ・イシュトヴァーン、いでフサール・カーロイが「共和きょうわこく大統領だいとうりょう」として選出せんしゅつされ、ハンガリーを統治とうちした。

だいいち大戦たいせん敗戦はいせん帝国ていこく解体かいたいおよ領土りょうど喪失そうしつ我慢がまんならない国内こくない反動はんどう主義しゅぎしゃ愛国あいこくしゃたちは、せいイシュトヴァーンの王冠おうかん栄光えいこうもど社会しゃかい運動うんどう開始かいし中世ちゅうせいちゅうおうさかえたハンガリー王国おうこくならい、王国おうこく復興ふっこう標榜ひょうぼうした、所謂いわゆる「ハンガリーのほこり」を保守ほしゅてき新聞しんぶんつうじてハンガリー国民こくみんさかんに宣伝せんでんした。この愛国あいこく運動うんどうぜん国民こくみんてき社会しゃかい変革へんかく運動うんどう発展はってんし、国内こくない世論せろんだい多数たすう共和きょうわせいから国王こくおうようした立憲りっけん君主くんしゅ主義しゅぎ体制たいせいもとめるようになった。ヨーゼフ・アウグスト大公たいこう暫定ざんていてき王位おうい退位たいいしてわずすうヵ月かげつ、1920ねん2がつ王政おうせい復古ふっこ国民こくみん投票とうひょうおこなわれ、共和きょうわせいから立憲りっけん王制おうせいへの移行いこう決定けっていされた。

ハンガリー王国おうこく執政しっせい

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トリアノン条約じょうやく分割ぶんかつされたハンガリーと、かく地方ちほう人口じんこう民族みんぞく構成こうせいみどりがハンガリーの失地しっち

1920ねん3月1にち、「共和きょうわこく議会ぎかい」より改称かいしょうした「ハンガリー国民こくみん議会ぎかい」は、だいいち世界せかい大戦たいせん敗戦はいせんにより事実じじつじょう瓦解がかいしていた(チェックじんスロバキアじんはじめとするかく民族みんぞくの「民族みんぞく自決じけつ」による独立どくりつ)オーストリア=ハンガリー帝国ていこくさい統合とうごうし、帝国ていこく再建さいけんすべく、その第一歩だいいっぽとしてハンガリー王国おうこく成立せいりつ宣言せんげんした(元々もともとハンガリーじん帝国ていこく中核ちゅうかくをなす民族みんぞくとしての自負じふたかく、事実じじつハンガリーじん貴族きぞくほうドイツじん貴族きぞくよりおおかった)。しかし、ハプスブルク国王こくおう推戴すいたい戦勝せんしょうこくがわである協商きょうしょうこく断固だんこ否定ひていされ、ハンガリーは国王こくおう不在ふざい余儀よぎなくされた。この状況じょうきょう打開だかいすべく、国民こくみん議会ぎかい事実じじつじょう元首げんしゅとして、ホルティを「ハンガリー王国おうこく執政しっせい」に選出せんしゅつ国民こくみん議会ぎかい定数ていすう138ひょうちゅう賛成さんせい131ひょう獲得かくとく、5ひょう欠席けっせき、2ひょう途中とちゅう退席たいせき)。この選出せんしゅつ表向おもてむ協商きょうしょうこくたいする安全あんぜん保障ほしょう、つまりオーストリアわれたハプスブルク=ロートリンゲン皇帝こうていカール1せい(ハンガリーおうカーロイ4せいを、ハンガリー王国おうこく国王こくおう復位ふくいさせないこと条件じょうけんとした選出せんしゅつであったが、実際じっさいにはカール1せいいただいてオーストリア=ハンガリー帝国ていこく再興さいこう目指めざ皇帝こうていと、ハンガリー王国おうこくとして喪失そうしつした領土りょうど回復かいふく目論もくろ民族みんぞく主義しゅぎしゃとの妥協だきょう産物さんぶつえるものであった。

ハンガリーが共和きょうわせいから立憲りっけん王政おうせい移行いこうするあいだ、ホルティは革命かくめいによって疲弊ひへいした国内こくない視察しさつし、大戦たいせん内戦ないせんともたたかった軍人ぐんじんたち慰労いろうしてまわった。相変あいかわらず政治せいじ関心かんしんであったが、視察しさつちゅう国民こくみん議会ぎかい自分じぶん摂政せっしょう指名しめいすると新聞しんぶん記事きじみ、新聞しんぶんしゃ直接ちょくせつ確認かくにんしている。1920ねん3月、国民こくみん議会ぎかいがホルティを摂政せっしょう選出せんしゅつ。しかし、これに激怒げきどしたホルティは国民こくみん議会ぎかいへの参加さんか拒否きょひ。「わたし一介いっかい軍人ぐんじんぎない。大公たいこう殿下でんかとハンガリー国民こくみん忠誠ちゅうせいちかうが、政治せいじ門外漢もんがいかんだ」と固辞こじしていたが、ヨーゼフ・アウグスト大公たいこう直々じきじきにホルティのもとおとずれ、摂政せっしょうへの就任しゅうにん要請ようせい。ホルティは摂政せっしょう就任しゅうにん受諾じゅだくせざるをない状況じょうきょうまれた。ホルティは、国王こくおう不在ふざいのまま摂政せっしょうとして、なが大戦たいせんとそれにつづ混乱こんらん内戦ないせん疲弊ひへいした国内こくない経済けいざいなおしに着手ちゃくしゅ国民こくみん議会ぎかい政党せいとう区別くべつなく全面ぜんめんてきにホルティの政策せいさく支持しじし、議会ぎかいせいもとづくゆるやかな独裁どくさい体制たいせい確立かくりつした。

1920ねん6がつ20日はつかトリアノン条約じょうやく成立せいりつ、ハンガリーの領土りょうどいちじるしく削減さくげんされた。北部ほくぶハンガリー、トランシルヴァニアとう、ハンガリーは伝統でんとうてき国土こくど大半たいはん正式せいしきうしなった。このためハンガリー国内こくないには不満ふまん鬱積うっせきし、右派うは愛国あいこくしゃ中心ちゅうしん失地しっち回復かいふく運動うんどう隆盛りゅうせいすることとなる。

1921ねん3がつ26にち、ホルティの休暇きゅうかちゅうにカール1せいがハンガリーに帰国きこくし、ハンガリーおうカーロイ4せいとしての即位そくい要求ようきゅうした。ホルティは当初とうしょこれをれようとしたが、帝国ていこく復活ふっかつ目論もくろみオーストリアへの侵攻しんこう画策かくさくするカール1せいを、協商きょうしょうこくとの係争けいそう懸念けねんした国民こくみん議会ぎかい拒絶きょぜつ。3月27にち、ホルティ自身じしんはハプスブルクへの忠誠ちゅうせいちかっていたが、オーストリアへの侵攻しんこう国力こくりょくてきにも国際こくさいてきにも無理むりであること承知しょうちしており、オーストリアをあきらめるならカール1せい国王こくおうとして国民こくみん議会ぎかい推挙すいきょする用意よういがあることをカール1せいつたえ、この返答へんとうやくいちヶ月かげつ猶予ゆうよあたえた。

3月28にち、ハプスブルク復活ふっかつきらった周辺しゅうへん諸国しょこく反発はんぱつ。チェコスロバキアとユーゴスラビア王国おうこくが「カールの即位そくい開戦かいせん理由りゆうとなる」と警告けいこく国民こくみん議会ぎかいも「摂政せっしょうたるホルティによる国内こくない統治とうち継続けいぞく」と「カール1せい逮捕たいほ」をもとめる決議けつぎ満場一致まんじょういっち可決かけつ。ホルティはハプスブルク(カール1せい)と国民こくみん議会ぎかい(ハンガリー国民こくみん)との板挟いたばさみとなったが、カール1せいのオーストリア侵攻しんこう計画けいかくけんもあり、ホルティは最終さいしゅうてき国民こくみん議会ぎかいしたがった(3がつ危機きき)。

6がつ、ハプスブルク忠誠ちゅうせいちかう「正統せいとう主義しゅぎしゃ」がおう党派とうは皇帝こうてい)とともに、ホルティにたいしカール1せい即位そくい要求ようきゅうしホルティの政権せいけん言論げんろん攻撃こうげき親王しんのう党派とうはのホルティは国民こくみん議会ぎかいにカール1せい即位そくいはたらけるが、国民こくみん議会ぎかいはこれを拒絶きょぜつ正統せいとう主義しゅぎしゃおう党派とうはとホルティのあいだいくつかの会合かいごうたれたが、最終さいしゅうてき決裂けつれつした。

10月21にち、カール1せい正統せいとう主義しゅぎしゃおう党派とうは皇帝こうてい)にようされハンガリーへ入国にゅうこく。カール1せい支持しじする一部いちぶのハンガリー王国おうこくぐん合流ごうりゅうし、内戦ないせん危機ききおちいる。ハンガリー国民こくみんぐん発展はってんてき改編かいへんされたハンガリー王国おうこくぐんおおむねホルティに忠誠ちゅうせいちかっており、ホルティ自身じしんはカール1せい権力けんりょく移譲いじょう摂政せっしょう退任たいにん希望きぼうしていたが、近隣きんりんこくとの摩擦まさつとくにオーストリアをんだ即位そくい時期じき尚早しょうそうとの見解けんかいだった。このあいだ、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国おうこく実力じつりょくをもってカール1せい即位そくい阻止そしすべく、国境こっきょうぐん集結しゅうけつさせた。

10月24にち事態じたい収拾しゅうしゅうすべく、ホルティはくカール1せい夫妻ふさい逮捕たいほ、カール1せい内戦ないせん意図いとしておらず、ホルティの決断けつだんしたがった。

10月29にち、カール1せい逮捕たいほしてもなお、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国おうこく国境こっきょう付近ふきんから撤兵てっぺいせず、チェコスロバキア外相がいしょうエドヴァルド・ベネシュは「将来しょうらいわたりハプスブルク完全かんぜんなる廃位はいい確約かくやくされなければハンガリーへ侵攻しんこうする」と最後さいご通牒つうちょうおこなった。ホルティはこれに激怒げきどし、ハンガリー王国おうこくぐん動員どういん計画けいかくしたが、イギリス大使たいしホーラーによって制止せいしされた。11月、国民こくみん議会ぎかい1713ねん国事こくじ勅書ちょくしょ無効むこうとする法案ほうあん可決かけつ。カール1せい王位おうい継承けいしょうけん明白めいはく否定ひていしたことで、ホルティ自身じしん皮肉ひにくにもハプスブルクによる立憲りっけん王政おうせいへの回帰かいきあきらめざるをない状況じょうきょうとなった。

摂政せっしょうとしてのホルティは、伝統でんとうてき立憲りっけん君主くんしゅおよばない程度ていど権限けんげんっていた[6]。ホルティは、侍従じじゅう武官ぶかん時代じだいけた厳格げんかく気品きひん海軍かいぐん時代じだい時間じかんてき厳密げんみつさ、内外ないがい老若男女ろうにゃくなんにょわず社交しゃこうてき紳士しんしてきい、おおくの人々ひとびと魅了みりょうした[7]とくにアメリカのちゅうハンガリー公使こうしジョン・フローノイ・モンゴメリー英語えいごばんはホルティにみ、終生しゅうせいその熱心ねっしん信奉しんぽうしゃとなった[8]。ただし、ホルティは誠実せいじつ愚直ぐちょく軍人ぐんじんゆえ物事ものごと直言ちょくげんすることおおく、政府せいふはホルティが外国がいこくじんとく外国がいこく新聞しんぶん記者きしゃ頻繁ひんぱん接触せっしょくすることを制限せいげんしていた[9]

だい世界せかい大戦たいせん前夜ぜんや

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ホルティとヒトラー(1938ねん
イタリア訪問ほうもん国王こくおうヴィットリオ=エマヌエーレ3せいと(1936ねん

ハンガリーの愛国あいこくしゃはイタリアでおこったファシスト運動うんどう触発しょくはつされ、じゅうとうはじめとしてすうおおくの民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとう設立せつりつ国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょつうじて一定いってい議席ぎせきすう確保かくほし、国政こくせい発言はつげんけん増幅ぞうふくすること成功せいこうしていた。じゅうとうはじめとする各々おのおの民族みんぞく主義しゅぎ政党せいとう綱領こうりょう似通にかよっており、おおむね「大戦たいせん失地しっち回復かいふく」と「ホルティへの忠誠ちゅうせい」が共通きょうつうしてられた。しかしホルティ自身じしん全体ぜんたい主義しゅぎてき民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどうには度々どど懸念けねん表明ひょうめいしており、とくにイタリアから影響えいきょうされたファシスト運動うんどう嫌悪けんおしていた。ホルティは喪失そうしつした領土りょうど回復かいふくすること国際こくさい情勢じょうせいかえりみていかに困難こんなんかを理解りかいしており、安易あんい国民こくみんあお戦争せんそうこすけとなりかねない政治せいじ運動うんどうには、ほう範囲はんいない警察けいさつりょくって度々たびたび介入かいにゅうしている。しかし時代じだいてき地政学ちせいがくてきにそれらの政治せいじ運動うんどうながれをめることむずかしかった。ホルティは穏健おんけん立憲りっけん主義しゅぎしゃであり、国民こくみん支持しじもとゆるやかな権威けんい主義しゅぎてき独裁どくさい体制たいせいであったホルティ政権せいけんじゅうとうのファシストにたい徹底てっていした弾圧だんあつおこなことはなかった。

国民こくみん議会ぎかい復興ふっこう目覚めざましいナチス・ドイツ接近せっきんしぶるホルティをうながしてドイツとの軍事ぐんじ同盟どうめい締結ていけつさせた。ホルティ自身じしんはナチス政権せいけん懐疑かいぎてきで、嫌悪けんおかんすらあらわし、アドルフ・ヒトラーについても軽蔑けいべつしていた[10]。「わたしは、国民こくみんから摂政せっしょう辞任じにんするようもとめられればよろこんで辞任じにんするが、かれけっして首相しゅしょう辞任じにんしないだろう」とひょうしている[11]実際じっさい、ハンガリー国内こくないしんどく組織そしき首魁しゅかいとして台頭たいとうしつつあったサーラシ・フェレンツ微罪びざい度々たびたび逮捕たいほさせたり、しんどくてきイムレーディ・ベーラ首相しゅしょう解任かいにんしている[12]またはんヒトラーグループで活動かつどうしていた、アプヴェーアのヴィルヘルム・カナリスとしたしくかたっていた[12]。そしてはんユダヤ主義しゅぎには断固だんことして反対はんたいしており、当時とうじ国民こくみん議会ぎかい準備じゅんびされていたはんユダヤほうたいしても「愛国あいこくてきなユダヤじん」に損害そんがいあたえると懸念けねんしており、「かれらは自分じぶんまったおなじハンガリーじんなのだ」ともかたっている[13]

しかし、結果けっかとしてハンガリーはドイツと運命うんめい共同きょうどうたいとなること選択せんたくし、枢軸すうじくこくとして戦争せんそうみちすすんだ。ドイツはハンガリーへ徹底てっていした懐柔かいじゅうさくをとり、所謂いわゆるウィーン裁定さいていおこなった。この裁定さいていにより、スロバキア南部なんぶとカルパティア・ルテニアがハンガリーりょうもどり、また、ルーマニアから北部ほくぶトランシルヴァニアをハンガリーへ返還へんかんさせた。さらドイツぐんユーゴスラビア侵攻しんこう東部とうぶヴォイヴォディナ割譲かつじょうしたことから、ハンガリー国内こくないではより一層いっそう、ドイツに協力きょうりょくてきファシスト運動うんどうさかんとなった。

だい世界せかい大戦たいせんどくせんはじまると、国内こくないのファシスト運動うんどうされ、国民こくみん議会ぎかい枢軸すうじくこく一員いちいんとしてソビエト連邦れんぽうへの宣戦せんせん布告ふこく決議けつぎ、ホルティも追認ついにんした。しかし、ホルティは反共はんきょう主義しゅぎしゃではあるが、厳格げんかく軍人ぐんじんであり現実げんじつ主義しゅぎしゃとして、破竹はちくいきおいで欧州おうしゅう席巻せっけんしたドイツぐん評価ひょうかしつつも、ソ連それんへの宣戦せんせんには懐疑かいぎてきであり否定ひていてきであった。「ロシアのふゆあまないほうがいい。ナポレオンひきいるフランスぐん)とおな運命うんめい辿たどこととなるだろう」と、枢軸すうじくこくながらちゅうどく大使たいし警告けいこくしている。ハンガリー王国おうこくぐんはルーマニア王国おうこくぐんともに、長大ちょうだい東部とうぶ戦線せんせん最右翼さいうよくオデッサ方面ほうめん攻略こうりゃくにない、参戦さんせん当初とうしょ順調じゅんちょう進撃しんげきしていた。しかし、「野砲やほう援護えんご騎兵きへい突撃とつげき」をわせたハンガリー王国おうこくぐん旧来きゅうらい戦術せんじゅつは、のち登場とうじょうしたT-34はじめとするソ連それんぐん新式しんしきちゅうじゅう戦車せんしゃ到底とうてい太刀打たちう出来できないものであった。スターリングラード攻防こうぼうせんでのパウルス元帥げんすいひきいるドイツぐん壊滅かいめつし、次第しだい枢軸すうじくこく劣勢れっせいあきらかとなると、ホルティは早々そうそうにドイツと距離きょりこと考慮こうりょはじめた。また、ドイツはハンガリー国内こくないユダヤじんをドイツ国内こくない移送いそうすること要求ようきゅうしたが、ナチスによるユダヤじん政策せいさくかねてから批判ひはんてきであったホルティはこれを断固だんことして拒否きょひ。ブダペスト駐在ちゅうざいドイツ大使たいし政務せいむしつけ、「きみとう我々われわれから誘拐ゆうかい出来できるユダヤじんただ一人ひとりもいない。彼等かれら我々われわれともであり、王国おうこく国民こくみんである。わたし執政しっせいとして国民こくみんまも義務ぎむっている」と一喝いっかつしている。

失脚しっきゃく軟禁なんきん

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1944ねん3月、首相しゅしょうカーロイ・ミクローシュ英語えいごばんおこなっていた連合れんごうこくとの休戦きゅうせん交渉こうしょう発覚はっかくし、ホルティはオーバーザルツベルクのヒトラー山荘さんそうベルクホーフ軟禁なんきん状態じょうたいにあるうちに、ハンガリー全土ぜんどはドイツぐんによって短期間たんきかんうち無血むけつ占領せんりょうされた(マルガレーテI作戦さくせん)。8月、隣国りんごくルーマニアが枢軸すうじくこく離脱りだつし、ソ連それんぐんがハンガリー国境こっきょうせまった。ホルティはドイツと断交だんこうし、連合れんごうこく休戦きゅうせんすること決定けっていした。しかし、そのうごきを事前じぜん察知さっちし、阻止そしすべくドイツはホルティの次男じなんホルティ・ミクローシュ・ジュニア英語えいごばん誘拐ゆうかいし(ミッキーマウス作戦さくせん)、しんどくじゅうとう政権せいけんにぎらせるクーデターこした。ホルティは「息子むすこ国家こっかとどちらが大事だいじなのか、それがからないほどおろかではない」と当初とうしょ要求ようきゅうねつけていた。しかし、じゅうとう要求ようきゅうまなければ国内こくないおも教会きょうかい破壊はかいすると脅迫きょうはくじゅうとう党員とういん西にしトランシルバニアに位置いちするクリシャナプロテスタント牧師ぼくし処刑しょけいした。

10月15にちじゅうとう休戦きゅうせん発表はっぴょうしたホルティの放送ほうそう撤回てっかいし、王宮おうきゅうじゅうとう党員とういんとドイツへいかこまれた。ホルティはドイツの強要きょうようしたがい、じゅうとうサーラシ・フェレンツ首相しゅしょうおよ国民こくみん指導しどうしゃ指名しめいしたのち執政しっせいから退しりぞくことを宣言せんげん王宮おうきゅう会見かいけんしたホルティはサーラシにたいして「くにわたものよ、わたしを(王宮おうきゅうぜん広場ひろばに)るすかわひも用意ようい出来できたかね?」と悪態あくたいいた。かねてより政敵せいてきながらホルティを崇敬すうけいしていたサーラシははげしく動揺どうようし、ホルティの安全あんぜん保証ほしょうされなければ、ハンガリー国民こくみん統一とういつ政府せいふ国民こくみん指導しどうしゃき、国民こくみん支持しじこと困難こんなんであるとドイツ大使たいしつたえた。ドイツ大使たいしはホルティの安全あんぜん保証ほしょうし、表向おもてむき「静養せいよう」とかたちでドイツに移送いそうされ、ドイツ国内こくない別荘べっそう軟禁なんきんされた。サーラシひきいるハンガリー国民こくみん統一とういつ政府せいふは、ソ連それんぐんによって占領せんりょうされるまで枢軸すうじくこくがわとどまった。なお誘拐ゆうかいされた息子むすこホルティ・ミクローシュ・ジュニアは終戦しゅうせんにアメリカぐんによって解放かいほうされている。

戦後せんご

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ケンデレシュに建立こんりゅうされたホルティの霊廟れいびょう

戦後せんご拘留こうりゅうかれたホルティにたいして、戦犯せんぱんとしてさばこと戦勝せんしょうこくがわ唯一ゆいいつユーゴスラビア要求ようきゅうしたが、このうったえは連合れんごうこくによってただちに却下きゃっかされた。連邦れんぽうぞくするモンテネグロだいいち大戦たいせん敗戦はいせんの、コトルでの暴動ぼうどう鎮圧ちんあつけんっていたことまたユーゴスラビア社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんが、かつての評議ひょうぎかい政権せいけんたおしたこと問題もんだいしていたためだが、モンゴメリーもと公使こうしホーマー・スティル・カミングス英語えいごばん司法しほう長官ちょうかんまわし、戦犯せんぱん指名しめいからはずれたともわれている[14]

ホルティは安全あんぜんたが、ソ連それんぐん占領せんりょうでハンガリーには社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん樹立じゅりつされたため、帰国きこくすること出来できなくなった。以後いご、ホルティは家族かぞくともアントニオ・サラザール政権せいけんポルトガル余生よせいおくり、1957ねん死去しきょした。享年きょうねん88。ほとん無一文むいちもんであったホルティ一家いっかため、モンゴメリーもと公使こうし一家いっかはホルティ夫妻ふさい死亡しぼうするまで財政ざいせい援助えんじょおこなっている[14]またむすめのイロナの回想かいそうによると、亡命ぼうめいしたハンガリーけいユダヤじんたちからも援助えんじょがあったと[15]晩年ばんねんりょう世界せかい大戦たいせんかえった回想かいそうろく執筆しっぴつしている。ハンガリー動乱どうらん鎮圧ちんあつされたこと衝撃しょうげきけ、「ロシアへい一人ひとりのこらずハンガリーをるまで」自分じぶん遺体いたいをハンガリーにはかえさないよういいのこしたことをけて、遺体いたいリスボンのイギリスじん墓地ぼち英語えいご: British Cemetery, Lisbon埋葬まいそうされた。かつて国民こくみんぐんひき評議ひょうぎかい政権せいけん(ソヴィエト政権せいけん)とたたかった勇将ゆうしょうとして、最後さいご意地いじともえる遺言ゆいごんであった。

ホルティの遺骸いがいソ連それん崩壊ほうかいしハンガリーが民主みんしゅ達成たっせいしたのち1993ねんようやくハンガリーにもどされ、故郷こきょうのケンデレシュに埋葬まいそうされた。このさい、ハンガリーおよ国外こくがい反応はんのうは、好意こういてきなものと批判ひはんてきものふたつにかれた[16]。しかし、ホルティの霊廟れいびょうにはいま献花けんかえることはない。

日本にっぽんとの関係かんけい

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ホルティは海軍かいぐん士官しかん時代じだいにち戦争せんそう時期じき日本にっぽん一度いちど訪問ほうもんしている。1938ねんにモンゴメリーアメリカ公使こうし会談かいだんしたホルティは、「日本にっぽんには一度いちどったことがあるが、かれらはちいさなさるぎない」とかたっている[10]一方いっぽうで、ハンガリーがにちどくさんこく同盟どうめい加盟かめいしたさいには、ハンガリーちゅう大使たいしギガ・ジェルジが「ホルティが来日らいにちしたさい日本人にっぽんじん男女だんじょ姿すがたうでずみしており、機嫌きげんときにはひとせる」ほど親日しんにちであるとアピールしている[17]

ホルティの左腕さわんにはみどり金色きんいろりゅうずみがあり、ジャーナリストのエゴン・キッシュ英語えいごばんも「うつくしいみどりかねりゅうずみをしており、それをかくそうともしなかった」と証言しょうげんしている[18]。このずみはギガがったように日本にっぽんれたというせつと、わかころにイギリスでれたというせつがある[18]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ じゅう帝国ていこく時代じだいはハンガリー王国おうこくりょうであった。1920ねんから1940ねん戦後せんごはルーマニアりょうのバヤ・マレ。

出典しゅってん

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  1. ^ フランク・ティボルちょ寺尾てらお信昭のぶあきやく『ハンガリー西欧せいおう幻想げんそうわな』、児島こじまじょうだい世界せかい大戦たいせん ヒトラーのたたかい』
  2. ^ ざいハンガリー日本国にっぽんこく大使館たいしかん案内あんない -ざいハンガリー日本国にっぽんこく大使館たいしかん
  3. ^ a b ホルティ・ミクローシュとは”. コトバンク. 2021ねん1がつ9にち閲覧えつらん
  4. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 39.
  5. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 40.
  6. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 42.
  7. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 39–43.
  8. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 41.
  9. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 49.
  10. ^ a b フランク・ティボル 2008, pp. 13.
  11. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 47–48.
  12. ^ a b フランク・ティボル 2008, pp. 45.
  13. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 47.
  14. ^ a b フランク・ティボル 2008, pp. 50–51.
  15. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 50.
  16. ^ フランク・ティボル 2008, pp. 18.
  17. ^ 梅村うめむら裕子ゆうこ 2013, pp. 174.
  18. ^ a b Bihari Dániel (2014ねん2がつ13にち). “Alkoholmámorban tetováltatott Horthy” (ハンガリー). 24.hu (24.hu). https://24.hu/tudomany/2014/02/13/alkoholmamorban-tetovaltatott-horthy/ 2018ねん11月11にち閲覧えつらん 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • フランク・ティボルハンガリーばん英語えいごばんしる寺尾てらお信昭のぶあきやく『ハンガリー西欧せいおう幻想げんそうわな』(2008ねんいろどりりゅうしゃ
  • 梅村うめむら裕子ゆうこ今岡いまおか十一郎とりひこ活動かつどうとおして日本にっぽん・ハンガリー外交がいこう関係かんけい変遷へんせん」(国際こくさい関係かんけい論叢ろんそう 2(2), 159-206, 2013-07-31)

外部がいぶリンク

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関連かんれん項目こうもく

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ホルティ・ミクローシュ

1868ねん6月18にち - 1957ねん2がつ9にち

公職こうしょく
先代せんだい
フサール・カーロイ英語えいごばん
ハンガリー共和きょうわこく大統領だいとうりょう
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国おうこく摂政せっしょう英語えいごばん
1920ねん - 1944ねん
次代じだい
サーラシ・フェレンツ
国民こくみん統一とういつ政府せいふ国民こくみん指導しどうしゃ