パチェッリ枢機卿 すうききょう (のち教皇 きょうこう ピウス12世 せい )と握手 あくしゅ を交 か わすホルテイ(1938)
ヴィテーズ・ナジバーニャイ・ホルティ・ミクローシュ (ハンガリー語 ご : Vitéz Nagybányai Horthy Miklós ハンガリー語 ご 発音 はつおん : [ˈvite̝ːz ˈnɒɟbɑ̈ːɲɒi ˈhorti ˌmikloːʃ] 、1868年 ねん 6月18日 にち - 1957年 ねん 2月 がつ 9日 にち )は、ハンガリー の海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん 、政治 せいじ 家 か 。国王 こくおう 不在 ふざい のハンガリー王国 おうこく における元首 げんしゅ たる摂政 せっしょう (英語 えいご 版 ばん ) (ハンガリー語 ご : kormányzója )を務 つと めた(在任 ざいにん :1920年 ねん 3月1日 にち - 1944年 ねん 10月17日 にち )。
フランス語 ふらんすご 風 ふう のミクローシュ・ホルティ・ド・ナジバーニャ (Miklós Horthy de Nagybánya )と言 い う名 な で知 し られる。「ヴィテーズ(vitéz )」 とはハンガリー語 ご で「勇者 ゆうしゃ 」を意味 いみ し、ナジバーニャイ はトランシルヴァニア の都市 とし を指 さ す[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。1920年 ねん に創設 そうせつ された「勇 いさむ 爵府(ハンガリー語 ご 版 ばん ) (Vitézi Rend )」に叙 じょ せられた者 もの とその継承 けいしょう 者 しゃ が自 みずか らの姓名 せいめい の前 まえ に付 つ ける事 こと を許 ゆる された称号 しょうごう であり、正式 せいしき には名前 なまえ の一部 いちぶ ではない。
ハンガリー王国 おうこく におけるホルティの地位 ちい を表 あらわ すkormányzója は、日本語 にほんご では「摂政 せっしょう 」[ 1] 「執政 しっせい 」「執政 しっせい 官 かん 」[ 2] 等 ひとし と訳 やく されている。当時 とうじ のハンガリーは王制 おうせい である為 ため 、本来 ほんらい の国家 こっか 元首 げんしゅ は国王 こくおう であるが、後述 こうじゅつ する事情 じじょう によって国王 こくおう が即位 そくい する事 こと が出来 でき ず、その代行 だいこう として摂政 せっしょう を設置 せっち した。
オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 海軍 かいぐん で艦隊 かんたい 司令 しれい 長官 ちょうかん などを歴任 れきにん 。コトル の水兵 すいへい 反乱 はんらん 鎮圧 ちんあつ 等 とう で武功 ぶこう を上 あ げる。1919年 ねん 、国民 こくみん 軍 ぐん 総帥 そうすい として反 はん 革命 かくめい を指揮 しき し、クン・ベーラ らの政権 せいけん に取 と って代 か わった。翌 よく 1920年 ねん 、協商 きょうしょう 国 こく の支援 しえん と直属 ちょくぞく 部隊 ぶたい の力 ちから とを背景 はいけい に摂政 せっしょう となる。官僚 かんりょう ・軍人 ぐんじん を支持 しじ 基盤 きばん の中核 ちゅうかく とするホルティ体制 たいせい においては、権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき 政治 せいじ が行 おこな われた。外交 がいこう では親 しん 独 どく ・伊 い を基調 きちょう とし、失地 しっち 回復 かいふく を図 はか った。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 末期 まっき の1944年 ねん 10月 がつ に、敗色 はいしょく 濃 こ いドイツからの戦線 せんせん 離脱 りだつ を策 さく すが失敗 しっぱい し、摂政 せっしょう を退 しりぞ いた。1946年 ねん にポルトガルへ亡命 ぼうめい [ 3] 。
ハンガリーの首都 しゅと ブダペストの南東 なんとう に位置 いち する、現在 げんざい のヤース・ナジクン・ソルノク県 けん ケンデレシュ 市 し の在郷 ざいきょう 貴族 きぞく の家 いえ に生 う まれた。
1886年 ねん 、当時 とうじ 、ハンガリーで唯一 ゆいいつ の海港 かいこう 都市 とし だったフィウメ(現在 げんざい のクロアチア 領 りょう リエカ )市 し の海軍兵学校 かいぐんへいがっこう で教育 きょういく を受 う け、オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 海軍 かいぐん に入隊 にゅうたい 、兵曹 へいそう 長 ちょう [ 3] 。1899年 ねん から教育 きょういく 艦 かん 「アルテミダ」艦長 かんちょう 。1903年 ねん から「ハプスブルク 」の水雷 すいらい 士官 しかん を務 つと め、数ヵ月 すうかげつ 後 ご に「ザンクト・ゲオルク 」に異動 いどう 。1907年 ねん から帆船 はんせん 「ラクロマ」一等 いっとう 士官 しかん に異動 いどう 。1908年 ねん 、コンスタンティノープル(イスタンブール )海軍 かいぐん 泊地 はくち 長 ちょう に昇進 しょうしん 。翌 よく 1909年 ねん に艦隊 かんたい 勤務 きんむ から離 はな れて、皇帝 こうてい フランツ・ヨーゼフ1世 せい の侍従 じじゅう 武官 ぶかん を拝命 はいめい した。ホルティは終生 しゅうせい フランツ・ヨーゼフ1世 せい を敬愛 けいあい し、度々 たびたび 賛辞 さんじ を口 くち にしている。
1914年 ねん 7月 がつ 28日 にち の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 開戦 かいせん 時 じ 、アントン・ハウス 大将 たいしょう が統帥 とうすい するオーストリア・ハンガリー帝国 ていこく 海軍 かいぐん は、戦艦 せんかん 16隻 せき 、巡洋艦 じゅんようかん 12隻 せき 、駆逐 くちく 艦 かん 23隻 せき 、水雷 すいらい 艇 てい 62隻 せき 、潜水 せんすい 艦 かん 6隻 せき 、補助 ほじょ 艦艇 かんてい 7隻 せき 、汽船 きせん (商船 しょうせん )12隻 せき を擁 よう していた(世界 せかい 第 だい 7番目 ばんめ の海軍 かいぐん 力 りょく )。開戦 かいせん 直後 ちょくご の1914年 ねん 8月 がつ 、ホルティはフランツ・レイフラー 少将 しょうしょう 麾下 きか のアドリア海 あどりあかい 方面 ほうめん 艦隊 かんたい 所属 しょぞく 第 だい 3戦隊 せんたい 旗艦 きかん 戦艦 せんかん 「ハプスブルク」艦長 かんちょう に就任 しゅうにん する。しかし、僅 わず か4ヶ月 かげつ 後 ご の同年 どうねん 12月 がつ には巡洋艦 じゅんようかん 「ナヴァラ」艦長 かんちょう へ異動 いどう となる。ハウス大将 たいしょう は開戦 かいせん 当初 とうしょ より、海軍 かいぐん 力 りょく の温存 おんぞん を図 はか りアドリア海 あどりあかい 各地 かくち の港湾 こうわん 都市 とし へ艦船 かんせん を分散 ぶんさん させ、頻繁 ひんぱん に艦船 かんせん の移動 いどう 及 およ び人事 じんじ の異動 いどう を繰 く り返 かえ した。フランスを主力 しゅりょく とする連合 れんごう 国 こく 艦隊 かんたい との直接 ちょくせつ 対決 たいけつ を避 さ けた『アドリア海 あどりあかい を逃 に げ回 まわ る』その姿勢 しせい を、帝国 ていこく 内 ない の新聞 しんぶん 各社 かくしゃ は大 おお いに非難 ひなん した。しかし当時 とうじ の状況 じょうきょう としては、帝国 ていこく 海軍 かいぐん の実力 じつりょく に鑑 かんが みてこれは正 ただ しい判断 はんだん であり、連合 れんごう 国 こく 艦隊 かんたい との艦隊 かんたい 戦 せん となれば、短期間 たんきかん の内 うち に保有 ほゆう 艦船 かんせん を大 おお きく損耗 そんこう し、アドリア海 あどりあかい の制海権 せいかいけん を早々 そうそう に喪失 そうしつ していた可能 かのう 性 せい が高 たか いと言 い われている。開戦 かいせん 時 じ 、帝国 ていこく 海軍 かいぐん は人材 じんざい 不足 ふそく 、特 とく に士官 しかん 不足 ふそく に陥 おちい っており、開戦 かいせん と同時 どうじ にフィウメ の海軍兵学校 かいぐんへいがっこう の士官 しかん 候補 こうほ 生 せい を繰 く り上 あ げして卒業 そつぎょう させ、帝国 ていこく 海軍 かいぐん 士官 しかん として任用 にんよう した。この様 よう な状況 じょうきょう は当時 とうじ から広 ひろ く列強 れっきょう にも知 し られており、帝国 ていこく は専 もっぱ ら陸軍 りくぐん 国 こく であり、海軍 かいぐん は沿岸 えんがん 警備 けいび 程度 ていど の実力 じつりょく と評価 ひょうか されていた。イギリス =フランス =イタリア の三 さん 国 こく 連合 れんごう 艦隊 かんたい は、アドリア海 あどりあかい の制海権 せいかいけん を握 にぎ り、帝国 ていこく を中 ちゅう 欧 おう 内陸 ないりく へ封 ふう じ込 こ めるべくオトラント海峡 かいきょう を封鎖 ふうさ した(オトラント海峡 かいきょう 封鎖 ふうさ )。帝国 ていこく 海軍 かいぐん は寡兵 かへい ながら潜水 せんすい 艦 かん ・巡洋艦 じゅんようかん による夜戦 やせん を度々 たびたび 決行 けっこう 、善戦 ぜんせん するも、封鎖 ふうさ を突破 とっぱ する事 こと が出来 でき なかった。その様 よう な戦況 せんきょう の中 なか 、1917年 ねん 5月、海上 かいじょう 封鎖 ふうさ を破 やぶ るべく、オトラント堰 せき 攻撃 こうげき 作戦 さくせん 指揮 しき の大命 たいめい がホルティに下 くだ った。後 ご のオトラント海峡 かいきょう 海戦 かいせん (1917年 ねん ) である。ホルティは軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん 僅 わず か3隻 せき で構成 こうせい された主力 しゅりょく 部隊 ぶたい と、別 べつ 動 どう 隊 たい の駆逐 くちく 艦 かん 2隻 せき で連合 れんごう 国 こく 艦隊 かんたい の特殊 とくしゅ 掃海 そうかい 艇 てい 約 やく 100隻 せき が守 まも るオトラント堰 せき を攻撃 こうげき 。無謀 むぼう とも言 い える作戦 さくせん であったが、イタリア海軍 かいぐん の駆逐 くちく 艦 かん ボレアと貨物 かもつ 船 せん 1隻 せき を早々 そうそう に撃沈 げきちん 。更 さら に特殊 とくしゅ 掃海 そうかい 艇 てい 14隻 せき を撃沈 げきちん した。オトラント堰 せき 襲撃 しゅうげき の報 ほう にイタリア海軍 かいぐん のアルフレッド・アクトン提督 ていとく 率 ひき いる東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 艦隊 かんたい がオトラント堰 せき へ駆 か けつけるもホルティ艦隊 かんたい に大敗 たいはい を喫 きっ し、連合 れんごう 国 こく 艦隊 かんたい の主力 しゅりょく たるイタリア海軍 かいぐん の東 ひがし 地中海 ちちゅうかい 艦隊 かんたい は事実 じじつ 上 じょう 壊滅 かいめつ した。ホルティは旗艦 きかん 「ナヴァラ」が大破 たいは しながらも善戦 ぜんせん し、遂 つい に三 さん ヵ国 かこく によるアドリア海 あどりあかい 海上 かいじょう 封鎖 ふうさ を破 やぶ る。この武勲 ぶくん によりホルティは大佐 たいさ から少将 しょうしょう へ昇進 しょうしん 、ハンガリー国内 こくない はオトラント海戦 かいせん の大 だい 勝利 しょうり に沸 わ いた(オトラント海峡 かいきょう 海戦 かいせん )。翌 よく 1918年 ねん 、帝国 ていこく 海軍 かいぐん 提督 ていとく マクシミリアン・ニェゴヴァン に代 か わり帝国 ていこく 海軍 かいぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん 。同年 どうねん 10月 がつ 、アドリア海 あどりあかい を南下 なんか し、ユーゴスラビア ・アルバニア 沿岸 えんがん の攻略 こうりゃく を計画 けいかく したが、作戦 さくせん の要 よう となる戦艦 せんかん 「セント・イシュトヴァーン 」がイタリア海軍 かいぐん の水雷 すいらい 艇 てい による雷撃 らいげき を受 う け撃沈 げきちん 。この作戦 さくせん は中止 ちゅうし された。10月30日 にち 、中将 ちゅうじょう に昇進 しょうしん 。11月3日 にち のヴィラ・ジュスティ休戦 きゅうせん 協定 きょうてい により、艦隊 かんたい は活動 かつどう を停止 ていし 。尚 なお 、この時 とき 、敗戦 はいせん の混乱 こんらん に乗 じょう じてモンテネグロ の城塞 じょうさい 都市 とし コトル で発生 はっせい した暴動 ぼうどう を、208名 めい の陸戦 りくせん 隊 たい を指揮 しき し鎮圧 ちんあつ している。
アドリア海 あどりあかい を主 おも 戦域 せんいき とした地中海 ちちゅうかい 中東 ちゅうとう 部 ぶ で、イギリス・フランス・イタリアの三 さん 大海 たいかい 軍国 ぐんこく を相手 あいて に、艦艇 かんてい 数 すう の少 すく ない帝国 ていこく 海軍 かいぐん を率 ひき いて互角 ごかく に渡 わた り合 あ い、大戦 たいせん 間 あいだ を通 つう じて終始 しゅうし 軍事 ぐんじ 的 てき 優位 ゆうい を保 たも った提督 ていとく として、ホルティの名声 めいせい はハンガリー国内 こくない で不動 ふどう の地位 ちい を得 え た。
1918年 ねん 11月16日 にち 、ハンガリーはハンガリー民主 みんしゅ 共和 きょうわ 国 こく (第 だい 一 いち 人民 じんみん 共和 きょうわ 制 せい )として独立 どくりつ 。しかし北部 ほくぶ ハンガリー(スロバキア 、カルパティア・ルテニア )はチェコスロバキア として独立 どくりつ し、ハンガリー領 りょう トランシルヴァニア をルーマニア が併合 へいごう した。ハンガリーは帝国 ていこく 解体 かいたい 後 ご 、大 おお きく領土 りょうど を喪失 そうしつ 、多 おお くの国民 こくみん が不満 ふまん を持 も つ事 こと となる。
騎乗 きじょう するホルティ(1919年 ねん 10月 がつ 16日 にち )
1919年 ねん 3月1日 にち 、ハンガリー革命 かくめい が発生 はっせい 。首都 しゅと ブダペスト で都市 とし ・炭坑 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ が蜂起 ほうき し、指導 しどう 者 しゃ クン・ベーラ が共産 きょうさん 主義 しゅぎ 政権 せいけん ハンガリー評議 ひょうぎ 会 かい 共和 きょうわ 国 こく (ハンガリー・ソビエト共和 きょうわ 国 こく とも)を樹立 じゅりつ した。しかし評議 ひょうぎ 会 かい (ソビエト)共和 きょうわ 国 こく は、大半 たいはん の保守 ほしゅ 的 てき なハンガリー国民 こくみん から支持 しじ を得 え る事 こと は出来 でき なかった。この為 ため 、評議 ひょうぎ 会 かい が率先 そっせん して赤色 あかいろ テロ を行 おこな い、旧 きゅう 皇帝 こうてい (国王 こくおう )派 は 、旧 きゅう 帝国 ていこく 軍人 ぐんじん を粛清 しゅくせい 、保守 ほしゅ 的 てき 知識 ちしき 人 じん 、カトリック教会 きょうかい を迫害 はくがい した。4月16日 にち 、ハンガリー国内 こくない の混乱 こんらん に乗 じょう じてルーマニア が「赤色 あかいろ 革命 かくめい の飛 と び火 ひ を防 ふせ ぐ」と言 い う大義名分 たいぎめいぶん でハンガリーへ侵攻 しんこう (ハンガリー・ルーマニア戦争 せんそう )。評議 ひょうぎ 会 かい は粛清 しゅくせい で弱体 じゃくたい 化 か した旧 きゅう 帝国 ていこく 軍 ぐん に代 か わり、新 あら たに都市 とし ・炭坑 たんこう 労働 ろうどう 者 しゃ を武装 ぶそう 化 か した「ハンガリー人民 じんみん 軍 ぐん 」を創設 そうせつ し、ルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん を迎 むか え撃 う つ事 こと となった。軍事 ぐんじ 的 てき 経験 けいけん が皆無 かいむ な評議 ひょうぎ 会 かい 首班 しゅはん クン・ベーラは人民 じんみん 軍 ぐん がルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん に勝利 しょうり する事 こと を疑 うたが わず、敗戦 はいせん により併合 へいごう されたトランシルヴァニア地方 ちほう の奪還 だっかん をも楽観 らっかん 視 し していた。第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん の敗戦 はいせん によって帝国 ていこく が瓦解 がかい 、領土 りょうど は大 おお きく喪失 そうしつ し、更 さら にルーマニアの侵攻 しんこう によって、ハンガリーは「亡国 ぼうこく の危機 きき 」に瀕 ひん していた。
ホルティはフィウメで連合 れんごう 国 こく に降伏 ごうぶく していた。イタリア海軍 かいぐん へ艦船 かんせん を引 ひ き渡 わた し、帝国 ていこく 艦隊 かんたい を解散 かいさん した。しかし、ハンガリーへ帰国 きこく する予定 よてい がソビエト政権 せいけん の誕生 たんじょう により大 おお きく狂 くる う事 こと となる。艦隊 かんたい の解散 かいさん と、それに伴 ともな う艦艇 かんてい の引 ひ き渡 わた しと言 い う屈辱 くつじょく 的 てき な敗戦 はいせん 処理 しょり を終 お えたホルティの元 もと には、評議 ひょうぎ 会 かい の粛清 しゅくせい や迫害 はくがい から逃 のが れて来 き た軍人 ぐんじん 、民間 みんかん 人 じん が溢 あふ れ、直 ただ ちに帰国 きこく 出来 でき る状態 じょうたい ではなかった。だが、国内 こくない の混乱 こんらん に対 たい して、ホルティは職業 しょくぎょう 軍人 ぐんじん として「軍人 ぐんじん は政治 せいじ に介入 かいにゅう せず」と言 い う頑 かたく なな姿勢 しせい を貫 つらぬ き、フィウメで専 もっぱ ら避難 ひなん 民 みん の保護 ほご に努 つと めた。1919年 ねん 4月 がつ 、オラデア より出撃 しゅつげき したルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん がハンガリー東部 とうぶ へ侵攻 しんこう 。デブレツェン で人民 じんみん 軍 ぐん が敗北 はいぼく した事 こと を知 し り、ホルティはハンガリーの防衛 ぼうえい を決意 けつい 。6月、海軍 かいぐん 士官 しかん ・艦隊 かんたい 要員 よういん ・軍属 ぐんぞく ・陸戦 りくせん 隊 たい ・士官 しかん 候補 こうほ 生 せい を率 ひき いてドラーヴァ川 がわ を渡 わた り、ハンガリー西部 せいぶ のバルチュ でハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん の創立 そうりつ を宣言 せんげん した。ハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん の決起 けっき に呼応 こおう して、ハンガリー全土 ぜんど で民兵 みんぺい 組織 そしき (義勇軍 ぎゆうぐん )が蜂起 ほうき 、ホルティの元 もと に旧 きゅう 軍人 ぐんじん 、民兵 みんぺい (義勇 ぎゆう 兵 へい )が集 あつ まり、ハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん は人民 じんみん 軍 ぐん を遥 はる かに凌 しの ぐ勢力 せいりょく に拡大 かくだい した。
8月 がつ 6日 にち 、ルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん がブダペストを占領 せんりょう しクン・ベーラ政権 せいけん が崩壊 ほうかい 。ハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん はルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん とブダペストを挟 はさ んで対峙 たいじ する事 こと となる。ルーマニアはハンガリー東部 とうぶ の領土 りょうど 割譲 かつじょう を要求 ようきゅう するが、ホルティはこれを拒否 きょひ 。フランスの軍事 ぐんじ 支援 しえん を取 と り付 つ け、人民 じんみん 軍 ぐん に代 か わり継 つぎ 戦 せん を示唆 しさ した。ハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん はハンガリー国民 こくみん の支持 しじ を受 う け、士気 しき が高 たか く、「明日 あした にはブダペストを!(Holnap elmegyek Budapestre!)」の合言葉 あいことば の下 した にブダペスト入城 にゅうじょう を待 ま ち続 つづ けた。対 たい するルーマニアはクン・ベーラ政権 せいけん が崩壊 ほうかい した事 こと により、大義名分 たいぎめいぶん を喪失 そうしつ 。進駐 しんちゅう の長期 ちょうき 化 か による経済 けいざい 的 てき 負担 ふたん と士気 しき の低下 ていか 、更 さら にロシア革命 かくめい に影響 えいきょう されたルーマニア国内 こくない の革命 かくめい 勢力 せいりょく の活発 かっぱつ 化 か を恐 おそ れ、事態 じたい の収拾 しゅうしゅう を急 いそ ぎ始 はじ めた。ホルティはルーマニアとの厳 きび しい和平 わへい 交渉 こうしょう の末 すえ 、領土 りょうど の割譲 かつじょう は拒否 きょひ 。代 か わりにブダペスト に残置 ざんち された人民 じんみん 軍 ぐん 側 がわ の武器 ぶき 弾薬 だんやく ・工場 こうじょう 設備 せつび ・金融 きんゆう 資産 しさん 等 とう を引 ひ き渡 わた す条件 じょうけん での撤兵 てっぺい を提案 ていあん 。ルーマニアより、ハンガリー国内 こくない からのルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん の撤兵 てっぺい の確約 かくやく を取 と り付 つ けた。11月14日 にち 、ルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん がブダペスト撤退 てったい を開始 かいし 。代 か わってホルティ率 ひき いるハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん がブダペストへ無血 むけつ 入城 にゅうじょう し、ホルティはハンガリー全土 ぜんど を掌握 しょうあく した。これらの事態 じたい を収拾 しゅうしゅう したホルティの名声 めいせい は更 さら に高 たか まり、ハンガリー国民 こくみん の圧倒的 あっとうてき 多数 たすう がホルティを軍事 ぐんじ 的 てき 、政治 せいじ 的 てき な「救国 きゅうこく 的 てき 指導 しどう 者 しゃ 」として支持 しじ した。クン・ベーラ政権 せいけん に協力 きょうりょく した共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の中 なか からも、転向 てんこう してホルティを支持 しじ する者 もの は少 すく なくなかった。尚 なお 、赤色 あかいろ テロの反動 はんどう として一時 いちじ 、愛国 あいこく 者 しゃ ・保守 ほしゅ 派 は ・旧 きゅう 皇帝 こうてい 派 は により、クン・ベーラに協力 きょうりょく した共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ に対 たい する白色 はくしょく テロ が横行 おうこう した(ハンガリー軍 ぐん による白色 はくしょく テロ (英語 えいご 版 ばん ) )。
ホルティ(前列 ぜんれつ 左 ひだり から2人 ふたり 目 め )とヨーゼフ・アウグスト大公 たいこう (その左 ひだり )
クン・ベーラ政権 せいけん 崩壊 ほうかい 後 ご 、ハンガリーを掌握 しょうあく したハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん は、旧 きゅう 帝国 ていこく の皇族 こうぞく であるオーストリア大公 たいこう ヨーゼフ・アウグスト を「我 われ らが王 おう 」(Homo Regius )として擁立 ようりつ した。しかし、ハプスブルク帝国 ていこく の復活 ふっかつ を怖 こわ れる協商 きょうしょう 国 こく 陣営 じんえい とルーマニアが再 さい 宣戦 せんせん を含 ふく め強硬 きょうこう に反対 はんたい 。10月23日 にち 、ヨーゼフ・アウグスト大公 たいこう は暫定 ざんてい 的 てき な王位 おうい から退位 たいい した。退位 たいい 後 ご 、極 きわ めて短期間 たんきかん 、「共和 きょうわ 国 こく 議会 ぎかい 」よりフリードリッヒ・イシュトヴァーン、次 つ いでフサール・カーロイが「共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう 」として選出 せんしゅつ され、ハンガリーを統治 とうち した。
第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん の敗戦 はいせん 、帝国 ていこく の解体 かいたい 、及 およ び領土 りょうど の喪失 そうしつ が我慢 がまん ならない国内 こくない の反動 はんどう 主義 しゅぎ 者 しゃ 、愛国 あいこく 者 しゃ 達 たち は、聖 せい イシュトヴァーンの王冠 おうかん の地 ち の栄光 えいこう を取 と り戻 もど す社会 しゃかい 運動 うんどう を開始 かいし 。中世 ちゅうせい 、中 ちゅう 欧 おう に栄 さか えたハンガリー王国 おうこく に倣 なら い、王国 おうこく の復興 ふっこう を標榜 ひょうぼう した、所謂 いわゆる 「ハンガリーの誇 ほこ り」を保守 ほしゅ 的 てき な新聞 しんぶん を通 つう じてハンガリー国民 こくみん に盛 さか んに宣伝 せんでん した。この愛国 あいこく 運動 うんどう が全 ぜん 国民 こくみん 的 てき な社会 しゃかい 変革 へんかく 運動 うんどう へ発展 はってん し、国内 こくない 世論 せろん の大 だい 多数 たすう が共和 きょうわ 制 せい から国王 こくおう を擁 よう した立憲 りっけん 君主 くんしゅ 主義 しゅぎ 体制 たいせい を求 もと める様 よう になった。ヨーゼフ・アウグスト大公 たいこう が暫定 ざんてい 的 てき な王位 おうい を退位 たいい して僅 わず か数 すう ヵ月 かげつ 後 ご 、1920年 ねん 2月 がつ 、王政 おうせい 復古 ふっこ を問 と う国民 こくみん 投票 とうひょう が行 おこな われ、共和 きょうわ 制 せい から立憲 りっけん 王制 おうせい への移行 いこう が決定 けってい された。
トリアノン条約 じょうやく で分割 ぶんかつ されたハンガリーと、各 かく 地方 ちほう の人口 じんこう 民族 みんぞく 構成 こうせい 。濃 こ い緑 みどり がハンガリーの失地 しっち
1920年 ねん 3月1日 にち 、「共和 きょうわ 国 こく 議会 ぎかい 」より改称 かいしょう した「ハンガリー国民 こくみん 議会 ぎかい 」は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の敗戦 はいせん により事実 じじつ 上 じょう 瓦解 がかい していた(チェック人 じん ・スロバキア人 じん を始 はじ めとする各 かく 民族 みんぞく の「民族 みんぞく 自決 じけつ 」による独立 どくりつ )オーストリア=ハンガリー帝国 ていこく を再 さい 統合 とうごう し、帝国 ていこく を再建 さいけん すべく、その第一歩 だいいっぽ としてハンガリー王国 おうこく の成立 せいりつ を宣言 せんげん した(元々 もともと ハンガリー人 じん は帝国 ていこく の中核 ちゅうかく をなす民族 みんぞく としての自負 じふ が高 たか く、事実 じじつ ハンガリー人 じん 貴族 きぞく の方 ほう がドイツ人 じん 貴族 きぞく より多 おお かった)。しかし、ハプスブルク家 か の国王 こくおう 推戴 すいたい は戦勝 せんしょう 国 こく 側 がわ である協商 きょうしょう 国 こく に断固 だんこ 否定 ひてい され、ハンガリーは国王 こくおう 不在 ふざい を余儀 よぎ なくされた。この状況 じょうきょう を打開 だかい すべく、国民 こくみん 議会 ぎかい は事実 じじつ 上 じょう の元首 げんしゅ として、ホルティを「ハンガリー王国 おうこく 執政 しっせい 」に選出 せんしゅつ (国民 こくみん 議会 ぎかい 定数 ていすう 138票 ひょう 中 ちゅう 、賛成 さんせい 131票 ひょう 獲得 かくとく 、5票 ひょう 欠席 けっせき 、2票 ひょう 途中 とちゅう 退席 たいせき )。この選出 せんしゅつ は表向 おもてむ き協商 きょうしょう 国 こく に対 たい する安全 あんぜん 保障 ほしょう 、つまりオーストリア を追 お われたハプスブルク=ロートリンゲン家 か の皇帝 こうてい カール1世 せい (ハンガリー王 おう カーロイ4世 せい ) を、ハンガリー王国 おうこく 国王 こくおう に復位 ふくい させない事 こと を条件 じょうけん とした選出 せんしゅつ であったが、実際 じっさい にはカール1世 せい を戴 いただ いてオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく の再興 さいこう を目指 めざ す皇帝 こうてい 派 は と、ハンガリー王国 おうこく として喪失 そうしつ した領土 りょうど の回復 かいふく を目論 もくろ む民族 みんぞく 主義 しゅぎ 者 しゃ との妥協 だきょう の産物 さんぶつ と言 い えるものであった。
ハンガリーが共和 きょうわ 制 せい から立憲 りっけん 王政 おうせい に移行 いこう する間 あいだ 、ホルティは革命 かくめい によって疲弊 ひへい した国内 こくない を視察 しさつ し、大戦 たいせん ・内戦 ないせん を共 とも に戦 たたか った軍人 ぐんじん 達 たち を慰労 いろう して廻 まわ った。相変 あいか わらず政治 せいじ に無 む 関心 かんしん であったが、視察 しさつ 中 ちゅう 、国民 こくみん 議会 ぎかい が自分 じぶん を摂政 せっしょう に指名 しめい すると言 い う新聞 しんぶん 記事 きじ を読 よ み、新聞 しんぶん 社 しゃ へ直接 ちょくせつ 確認 かくにん している。1920年 ねん 3月、国民 こくみん 議会 ぎかい がホルティを摂政 せっしょう に選出 せんしゅつ 。しかし、これに激怒 げきど したホルティは国民 こくみん 議会 ぎかい への参加 さんか を拒否 きょひ 。「私 わたし は一介 いっかい の軍人 ぐんじん に過 す ぎない。大公 たいこう 殿下 でんか とハンガリー国民 こくみん に忠誠 ちゅうせい は誓 ちか うが、政治 せいじ は門外漢 もんがいかん だ」と固辞 こじ していたが、ヨーゼフ・アウグスト大公 たいこう 直々 じきじき にホルティの元 もと を訪 おとず れ、摂政 せっしょう への就任 しゅうにん を要請 ようせい 。ホルティは摂政 せっしょう 就任 しゅうにん を受諾 じゅだく せざるを得 え ない状況 じょうきょう へ追 お い込 こ まれた。ホルティは、国王 こくおう 不在 ふざい のまま摂政 せっしょう として、長 なが い大戦 たいせん とそれに続 つづ く混乱 こんらん ・内戦 ないせん で疲弊 ひへい した国内 こくない 経済 けいざい の立 た て直 なお しに着手 ちゃくしゅ 。国民 こくみん 議会 ぎかい は政党 せいとう の区別 くべつ なく全面 ぜんめん 的 てき にホルティの政策 せいさく を支持 しじ し、議会 ぎかい 制 せい に基 もと づく緩 ゆる やかな独裁 どくさい 体制 たいせい が確立 かくりつ した。
1920年 ねん 6月 がつ 20日 はつか にトリアノン条約 じょうやく が成立 せいりつ 、ハンガリーの領土 りょうど は著 いちじる しく削減 さくげん された。北部 ほくぶ ハンガリー、トランシルヴァニア等 とう 、ハンガリーは伝統 でんとう 的 てき な国土 こくど の大半 たいはん を正式 せいしき に失 うしな った。この為 ため ハンガリー国内 こくない には不満 ふまん が鬱積 うっせき し、右派 うは ・愛国 あいこく 者 しゃ を中心 ちゅうしん に失地 しっち 回復 かいふく 運動 うんどう が隆盛 りゅうせい する事 こと となる。
1921年 ねん 3月 がつ 26日 にち 、ホルティの休暇 きゅうか 中 ちゅう にカール1世 せい がハンガリーに帰国 きこく し、ハンガリー王 おう カーロイ4世 せい としての即位 そくい を要求 ようきゅう した。ホルティは当初 とうしょ これを受 う け入 い れようとしたが、帝国 ていこく の復活 ふっかつ を目論 もくろ みオーストリアへの侵攻 しんこう を画策 かくさく するカール1世 せい を、協商 きょうしょう 国 こく との係争 けいそう 化 か を懸念 けねん した国民 こくみん 議会 ぎかい が拒絶 きょぜつ 。3月27日 にち 、ホルティ自身 じしん はハプスブルク家 か への忠誠 ちゅうせい を誓 ちか っていたが、オーストリアへの侵攻 しんこう は国力 こくりょく 的 てき にも国際 こくさい 的 てき にも無理 むり である事 こと を承知 しょうち しており、オーストリアを諦 あきら めるならカール1世 せい を国王 こくおう として国民 こくみん 議会 ぎかい へ推挙 すいきょ する用意 ようい がある事 こと をカール1世 せい へ伝 つた え、この返答 へんとう に約 やく 一 いち ヶ月 かげつ の猶予 ゆうよ を与 あた えた。
3月28日 にち 、ハプスブルク家 か の復活 ふっかつ を嫌 きら った周辺 しゅうへん 諸国 しょこく が反発 はんぱつ 。チェコスロバキアとユーゴスラビア王国 おうこく が「カールの即位 そくい は開戦 かいせん 理由 りゆう となる」と警告 けいこく 。国民 こくみん 議会 ぎかい も「摂政 せっしょう たるホルティによる国内 こくない 統治 とうち の継続 けいぞく 」と「カール1世 せい の逮捕 たいほ 」を求 もと める決議 けつぎ を満場一致 まんじょういっち で可決 かけつ 。ホルティはハプスブルク家 か (カール1世 せい )と国民 こくみん 議会 ぎかい (ハンガリー国民 こくみん )との板挟 いたばさ みとなったが、カール1世 せい のオーストリア侵攻 しんこう 計画 けいかく の件 けん もあり、ホルティは最終 さいしゅう 的 てき に国民 こくみん 議会 ぎかい に従 したが った(3月 がつ 危機 きき )。
6月 がつ 、ハプスブルク家 か に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか う「正統 せいとう 主義 しゅぎ 者 しゃ 」が王 おう 党派 とうは (皇帝 こうてい 派 は )と共 とも に、ホルティに対 たい しカール1世 せい の即位 そくい を要求 ようきゅう しホルティの政権 せいけん を言論 げんろん で攻撃 こうげき 。親王 しんのう 党派 とうは のホルティは国民 こくみん 議会 ぎかい にカール1世 せい の即位 そくい を働 はたら き掛 か けるが、国民 こくみん 議会 ぎかい はこれを拒絶 きょぜつ 。正統 せいとう 主義 しゅぎ 者 しゃ 、王 おう 党派 とうは とホルティの間 あいだ で幾 いく つかの会合 かいごう が持 も たれたが、最終 さいしゅう 的 てき に決裂 けつれつ した。
10月21日 にち 、カール1世 せい が正統 せいとう 主義 しゅぎ 者 しゃ 、王 おう 党派 とうは (皇帝 こうてい 派 は )に擁 よう されハンガリーへ入国 にゅうこく 。カール1世 せい を支持 しじ する一部 いちぶ のハンガリー王国 おうこく 軍 ぐん が合流 ごうりゅう し、内戦 ないせん の危機 きき に陥 おちい る。ハンガリー国民 こくみん 軍 ぐん が発展 はってん 的 てき に改編 かいへん されたハンガリー王国 おうこく 軍 ぐん は概 おおむ ねホルティに忠誠 ちゅうせい を誓 ちか っており、ホルティ自身 じしん はカール1世 せい へ権力 けんりょく の移譲 いじょう と摂政 せっしょう の退任 たいにん を希望 きぼう していたが、近隣 きんりん 国 こく との摩擦 まさつ 、特 とく にオーストリアを巻 ま き込 こ んだ即位 そくい は時期 じき 尚早 しょうそう との見解 けんかい だった。この間 あいだ 、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国 おうこく は実力 じつりょく をもってカール1世 せい の即位 そくい を阻止 そし すべく、国境 こっきょう へ軍 ぐん を集結 しゅうけつ させた。
10月24日 にち 、事態 じたい を収拾 しゅうしゅう すべく、ホルティは止 や む無 な くカール1世 せい 夫妻 ふさい を逮捕 たいほ 、カール1世 せい も内戦 ないせん は意図 いと しておらず、ホルティの決断 けつだん に従 したが った。
10月29日 にち 、カール1世 せい を逮捕 たいほ しても尚 なお 、チェコスロバキア、ユーゴスラビア王国 おうこく は国境 こっきょう 付近 ふきん から撤兵 てっぺい せず、チェコスロバキア外相 がいしょう エドヴァルド・ベネシュ は「将来 しょうらい に渡 わた りハプスブルク家 か の完全 かんぜん なる廃位 はいい が確約 かくやく されなければハンガリーへ侵攻 しんこう する」と最後 さいご 通牒 つうちょう を行 おこな った。ホルティはこれに激怒 げきど し、ハンガリー王国 おうこく 軍 ぐん の動員 どういん を計画 けいかく したが、イギリス大使 たいし ホーラーによって制止 せいし された。11月、国民 こくみん 議会 ぎかい が1713年 ねん の国事 こくじ 勅書 ちょくしょ を無効 むこう とする法案 ほうあん を可決 かけつ 。カール1世 せい の王位 おうい 継承 けいしょう 権 けん を明白 めいはく に否定 ひてい した事 こと で、ホルティ自身 じしん 、皮肉 ひにく にもハプスブルク家 か による立憲 りっけん 王政 おうせい への回帰 かいき を諦 あきら めざるを得 え ない状況 じょうきょう となった。
摂政 せっしょう としてのホルティは、伝統 でんとう 的 てき な立憲 りっけん 君主 くんしゅ に及 およ ばない程度 ていど の権限 けんげん を持 も っていた。ホルティは、侍従 じじゅう 武官 ぶかん 時代 じだい に身 み に付 つ けた厳格 げんかく な気品 きひん 、海軍 かいぐん 時代 じだい の時間 じかん 的 てき 厳密 げんみつ さ、内外 ないがい ・老若男女 ろうにゃくなんにょ 問 と わず社交 しゃこう 的 てき 且 か つ紳士 しんし 的 てき に振 ふ る舞 ま い、多 おお くの人々 ひとびと を魅了 みりょう した。特 とく にアメリカの駐 ちゅう ハンガリー公使 こうし ジョン・フローノイ・モンゴメリー (英語 えいご 版 ばん ) はホルティに惚 ほ れ込 こ み、終生 しゅうせい その熱心 ねっしん な信奉 しんぽう 者 しゃ となった。ただし、ホルティは誠実 せいじつ 且 か つ愚直 ぐちょく な軍人 ぐんじん 故 ゆえ に物事 ものごと を直言 ちょくげん する事 こと が多 おお く、政府 せいふ はホルティが外国 がいこく 人 じん 、特 とく に外国 がいこく の新聞 しんぶん 記者 きしゃ と頻繁 ひんぱん に接触 せっしょく することを制限 せいげん していた。
ホルティとヒトラー(1938年 ねん )
イタリア訪問 ほうもん 時 じ 、国王 こくおう ヴィットリオ=エマヌエーレ3世 せい と(1936年 ねん )
ハンガリーの愛国 あいこく 者 しゃ はイタリアで起 おこ ったファシスト 運動 うんどう に触発 しょくはつ され、矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう を始 はじ めとして数 すう 多 おお くの民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう を設立 せつりつ 、国民 こくみん 議会 ぎかい の選挙 せんきょ を通 つう じて一定 いってい の議席 ぎせき 数 すう を確保 かくほ し、国政 こくせい へ発言 はつげん 権 けん を増幅 ぞうふく する事 こと に成功 せいこう していた。矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう を始 はじ めとする各々 おのおの の民族 みんぞく 主義 しゅぎ 政党 せいとう の綱領 こうりょう は似通 にかよ っており、概 おおむ ね「大戦 たいせん 後 ご の失地 しっち 回復 かいふく 」と「ホルティへの忠誠 ちゅうせい 」が共通 きょうつう して見 み られた。しかしホルティ自身 じしん は全体 ぜんたい 主義 しゅぎ 的 てき な民族 みんぞく 主義 しゅぎ 運動 うんどう には度々 どど 懸念 けねん を表明 ひょうめい しており、特 とく にイタリアから影響 えいきょう されたファシスト運動 うんどう は嫌悪 けんお していた。ホルティは喪失 そうしつ した領土 りょうど を回復 かいふく する事 こと が国際 こくさい 情勢 じょうせい を省 かえり みていかに困難 こんなん かを理解 りかい しており、安易 あんい に国民 こくみん を煽 あお り戦争 せんそう を引 ひ き起 お こす切 き っ掛 か けとなりかねない政治 せいじ 運動 うんどう には、法 ほう の範囲 はんい 内 ない で警察 けいさつ 力 りょく を持 も って度々 たびたび 介入 かいにゅう している。しかし時代 じだい 的 てき ・地政学 ちせいがく 的 てき にそれらの政治 せいじ 運動 うんどう の流 なが れを止 と める事 こと は難 むずか しかった。ホルティは穏健 おんけん な立憲 りっけん 主義 しゅぎ 者 しゃ であり、国民 こくみん の支持 しじ の元 もと 、緩 ゆる やかな権威 けんい 主義 しゅぎ 的 てき 独裁 どくさい 体制 たいせい であったホルティ政権 せいけん が矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう のファシストに対 たい し徹底 てってい した弾圧 だんあつ を行 おこな う事 こと はなかった。
国民 こくみん 議会 ぎかい は復興 ふっこう 目覚 めざ ましいナチス・ドイツ へ接近 せっきん 、渋 しぶ るホルティを促 うなが してドイツとの軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を締結 ていけつ させた。ホルティ自身 じしん はナチス政権 せいけん に懐疑 かいぎ 的 てき で、嫌悪 けんお 感 かん すら表 あらわ し、アドルフ・ヒトラー についても軽蔑 けいべつ していた。「私 わたし は、国民 こくみん から摂政 せっしょう を辞任 じにん する様 よう に求 もと められれば喜 よろこ んで辞任 じにん するが、彼 かれ は決 けっ して首相 しゅしょう を辞任 じにん しないだろう」と評 ひょう している。実際 じっさい 、ハンガリー国内 こくない の親 しん 独 どく 組織 そしき の首魁 しゅかい として台頭 たいとう しつつあったサーラシ・フェレンツ を微罪 びざい で度々 たびたび 逮捕 たいほ させたり、親 しん 独 どく 的 てき なイムレーディ・ベーラ 首相 しゅしょう を解任 かいにん している。又 また 、反 はん ヒトラーグループで活動 かつどう していた、アプヴェーア のヴィルヘルム・カナリスと親 した しく語 かた り合 あ っていた。そして反 はん ユダヤ主義 しゅぎ には断固 だんこ として反対 はんたい しており、当時 とうじ 、国民 こくみん 議会 ぎかい で準備 じゅんび されていた反 はん ユダヤ法 ほう に対 たい しても「愛国 あいこく 的 てき なユダヤ人 じん 」に損害 そんがい を与 あた えると懸念 けねん しており、「彼 かれ らは自分 じぶん と全 まった く同 おな じハンガリー人 じん なのだ」とも語 かた っている。
しかし、結果 けっか としてハンガリーはドイツと運命 うんめい 共同 きょうどう 体 たい となる事 こと を選択 せんたく し、枢軸 すうじく 国 こく として戦争 せんそう の道 みち を突 つ き進 すす んだ。ドイツはハンガリーへ徹底 てってい した懐柔 かいじゅう 策 さく をとり、所謂 いわゆる ウィーン裁定 さいてい を行 おこな った。この裁定 さいてい により、スロバキア南部 なんぶ とカルパティア・ルテニアがハンガリー領 りょう に戻 もど り、又 また 、ルーマニアから北部 ほくぶ トランシルヴァニアをハンガリーへ返還 へんかん させた。更 さら にドイツ軍 ぐん のユーゴスラビア侵攻 しんこう 後 ご 、東部 とうぶ ヴォイヴォディナ を割譲 かつじょう した事 こと から、ハンガリー国内 こくない ではより一層 いっそう 、ドイツに協力 きょうりょく 的 てき なファシスト 運動 うんどう が盛 さか んとなった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の独 どく ソ戦 せん が始 はじ まると、国内 こくない のファシスト運動 うんどう に押 お され、国民 こくみん 議会 ぎかい も枢軸 すうじく 国 こく の一員 いちいん としてソビエト連邦 れんぽう への宣戦 せんせん 布告 ふこく を決議 けつぎ 、ホルティも追認 ついにん した。しかし、ホルティは反共 はんきょう 主義 しゅぎ 者 しゃ ではあるが、厳格 げんかく な軍人 ぐんじん であり現実 げんじつ 主義 しゅぎ 者 しゃ として、破竹 はちく の勢 いきお いで欧州 おうしゅう を席巻 せっけん したドイツ軍 ぐん を評価 ひょうか しつつも、ソ連 それん への宣戦 せんせん には懐疑 かいぎ 的 てき であり否定 ひてい 的 てき であった。「ロシアの冬 ふゆ を甘 あま く見 み ない方 ほう がいい。ナポレオン (率 ひき いるフランス軍 ぐん )と同 おな じ運命 うんめい を辿 たど る事 こと となるだろう」と、枢軸 すうじく 国 こく ながら駐 ちゅう 独 どく 大使 たいし に警告 けいこく している。ハンガリー王国 おうこく 軍 ぐん はルーマニア王国 おうこく 軍 ぐん と共 とも に、長大 ちょうだい な東部 とうぶ 戦線 せんせん の最右翼 さいうよく 、オデッサ 方面 ほうめん の攻略 こうりゃく を担 にな い、参戦 さんせん 当初 とうしょ は順調 じゅんちょう に進撃 しんげき していた。しかし、「野砲 やほう の援護 えんご と騎兵 きへい 突撃 とつげき 」を組 く み合 あ わせたハンガリー王国 おうこく 軍 ぐん の旧来 きゅうらい の戦術 せんじゅつ は、後 のち に登場 とうじょう したT-34 を始 はじ めとするソ連 それん 軍 ぐん の新式 しんしき 中 ちゅう ・重 じゅう 戦車 せんしゃ に到底 とうてい 太刀打 たちう ち出来 でき ない物 もの であった。スターリングラード攻防 こうぼう 戦 せん でのパウルス 元帥 げんすい 率 ひき いるドイツ軍 ぐん が壊滅 かいめつ し、次第 しだい に枢軸 すうじく 国 こく の劣勢 れっせい が明 あき らかとなると、ホルティは早々 そうそう にドイツと距離 きょり を置 お く事 こと を考慮 こうりょ し始 はじ めた。又 また 、ドイツはハンガリー国内 こくない のユダヤ人 じん をドイツ国内 こくない に移送 いそう する事 こと を要求 ようきゅう したが、ナチスによるユダヤ人 じん 政策 せいさく に予 かね てから批判 ひはん 的 てき であったホルティはこれを断固 だんこ として拒否 きょひ 。ブダペスト駐在 ちゅうざい ドイツ大使 たいし を政務 せいむ 室 しつ へ呼 よ び付 つ け、「君 きみ 等 とう が我々 われわれ から誘拐 ゆうかい 出来 でき るユダヤ人 じん は只 ただ の一人 ひとり もいない。彼等 かれら は我々 われわれ の良 よ き友 とも であり、王国 おうこく 国民 こくみん である。私 わたし は執政 しっせい として国民 こくみん を護 まも る義務 ぎむ を負 お っている」と一喝 いっかつ している。
1944年 ねん 3月、首相 しゅしょう カーロイ・ミクローシュ (英語 えいご 版 ばん ) が行 おこな っていた連合 れんごう 国 こく との休戦 きゅうせん 交渉 こうしょう が発覚 はっかく し、ホルティはオーバーザルツベルク のヒトラー山荘 さんそう ベルクホーフ に軟禁 なんきん 状態 じょうたい にある内 うち に、ハンガリー全土 ぜんど はドイツ軍 ぐん によって短期間 たんきかん の内 うち に無血 むけつ 占領 せんりょう された(マルガレーテI作戦 さくせん )。8月、隣国 りんごく ルーマニアが枢軸 すうじく 国 こく を離脱 りだつ し、ソ連 それん 軍 ぐん がハンガリー国境 こっきょう に迫 せま った。ホルティはドイツと断交 だんこう し、連合 れんごう 国 こく と休戦 きゅうせん する事 こと を決定 けってい した。しかし、その動 うご きを事前 じぜん に察知 さっち し、阻止 そし すべくドイツはホルティの次男 じなん ホルティ・ミクローシュ・ジュニア (英語 えいご 版 ばん ) を誘拐 ゆうかい し(ミッキーマウス作戦 さくせん )、親 しん 独 どく 派 は の矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう に政権 せいけん を握 にぎ らせるクーデター を起 お こした。ホルティは「息子 むすこ と国家 こっか とどちらが大事 だいじ なのか、それが分 わ からない程 ほど 愚 おろ かではない」と当初 とうしょ は要求 ようきゅう を撥 は ねつけていた。しかし、矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう は要求 ようきゅう を呑 の まなければ国内 こくない の主 おも な教会 きょうかい を破壊 はかい すると脅迫 きょうはく 。矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう の党員 とういん が西 にし トランシルバニアに位置 いち するクリシャナ でプロテスタント の牧師 ぼくし を処刑 しょけい した。
10月15日 にち に矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう は休戦 きゅうせん を発表 はっぴょう したホルティの放送 ほうそう を撤回 てっかい し、王宮 おうきゅう は矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう 党員 とういん とドイツ兵 へい に取 と り囲 かこ まれた。ホルティはドイツの強要 きょうよう に従 したが い、矢 や 十 じゅう 字 じ 党 とう のサーラシ・フェレンツ を首相 しゅしょう 及 およ び国民 こくみん 指導 しどう 者 しゃ に指名 しめい した後 のち 、執政 しっせい の座 ざ から退 しりぞ くことを宣言 せんげん 。王宮 おうきゅう で会見 かいけん したホルティはサーラシに対 たい して「国 くに を売 う り渡 わた す者 もの よ、私 わたし を(王宮 おうきゅう 前 ぜん 広場 ひろば に)吊 つ るす革 かわ 紐 ひも は用意 ようい 出来 でき たかね?」と悪態 あくたい を吐 は いた。予 かね てより政敵 せいてき ながらホルティを崇敬 すうけい していたサーラシは激 はげ しく動揺 どうよう し、ホルティの身 み の安全 あんぜん が保証 ほしょう されなければ、ハンガリー国民 こくみん 統一 とういつ 政府 せいふ の国民 こくみん 指導 しどう 者 しゃ に就 つ き、国民 こくみん の支持 しじ を得 え る事 こと は困難 こんなん であるとドイツ大使 たいし に伝 つた えた。ドイツ大使 たいし はホルティの身 み の安全 あんぜん を保証 ほしょう し、表向 おもてむ き「静養 せいよう 」と言 い う形 かたち でドイツに移送 いそう され、ドイツ国内 こくない の別荘 べっそう 地 ち に軟禁 なんきん された。サーラシ率 ひき いるハンガリー国民 こくみん 統一 とういつ 政府 せいふ は、ソ連 それん 軍 ぐん によって占領 せんりょう されるまで枢軸 すうじく 国 こく 側 がわ に留 とど まった。尚 なお 、誘拐 ゆうかい された息子 むすこ ホルティ・ミクローシュ・ジュニアは終戦 しゅうせん 後 ご にアメリカ軍 ぐん によって解放 かいほう されている。
ケンデレシュに建立 こんりゅう されたホルティの霊廟 れいびょう
戦後 せんご 拘留 こうりゅう を解 と かれたホルティに対 たい して、戦犯 せんぱん として裁 さば く事 こと を戦勝 せんしょう 国 こく 側 がわ で唯一 ゆいいつ 、ユーゴスラビア が要求 ようきゅう したが、この訴 うった えは連合 れんごう 国 こく によって直 ただ ちに却下 きゃっか された。連邦 れんぽう に属 ぞく するモンテネグロ が第 だい 一 いち 次 じ 大戦 たいせん 敗戦 はいせん 後 ご の、コトルでの暴動 ぼうどう の鎮圧 ちんあつ の件 けん を根 ね に持 も っていた事 こと 、又 また 、ユーゴスラビア の社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん が、かつての評議 ひょうぎ 会 かい 政権 せいけん を倒 たお した事 こと を問題 もんだい 視 し していた為 ため だが、モンゴメリー元 もと 公使 こうし がホーマー・スティル・カミングス (英語 えいご 版 ばん ) 司法 しほう 長官 ちょうかん に手 て を回 まわ し、戦犯 せんぱん 指名 しめい から外 はず れたとも言 い われている。
ホルティは身 み の安全 あんぜん を得 え たが、ソ連 それん 軍 ぐん の占領 せんりょう 下 か でハンガリーには社会 しゃかい 主義 しゅぎ 政権 せいけん が樹立 じゅりつ されたため、帰国 きこく する事 こと が出来 でき なくなった。以後 いご 、ホルティは家族 かぞく と共 とも にアントニオ・サラザール政権 せいけん 下 か のポルトガル で余生 よせい を送 おく り、1957年 ねん に死去 しきょ した。享年 きょうねん 88。殆 ほとん ど無一文 むいちもん であったホルティ一家 いっか の為 ため 、モンゴメリー元 もと 公使 こうし 一家 いっか はホルティ夫妻 ふさい が死亡 しぼう するまで財政 ざいせい 援助 えんじょ を行 おこな っている。又 また 、娘 むすめ のイロナの回想 かいそう によると、亡命 ぼうめい したハンガリー系 けい ユダヤ人 じん 達 たち からも援助 えんじょ があったと言 い う。晩年 ばんねん に両 りょう 世界 せかい 大戦 たいせん を振 ふ り返 かえ った回想 かいそう 録 ろく を執筆 しっぴつ している。ハンガリー動乱 どうらん が鎮圧 ちんあつ された事 こと に衝撃 しょうげき を受 う け、「ロシア兵 へい が一人 ひとり 残 のこ らずハンガリーを去 さ るまで」自分 じぶん の遺体 いたい をハンガリーには返 かえ さないようい残 いのこ したことを受 う けて、遺体 いたい はリスボンのイギリス人 じん 墓地 ぼち (英語 えいご : British Cemetery, Lisbon ) に埋葬 まいそう された。かつて国民 こくみん 軍 ぐん を率 ひき い評議 ひょうぎ 会 かい 政権 せいけん (ソヴィエト政権 せいけん )と戦 たたか った勇将 ゆうしょう として、最後 さいご の意地 いじ とも言 い える遺言 ゆいごん であった。
ホルティの遺骸 いがい はソ連 それん が崩壊 ほうかい しハンガリーが民主 みんしゅ 化 か を達成 たっせい した後 のち の1993年 ねん に漸 ようや くハンガリーに戻 もど され、故郷 こきょう のケンデレシュに埋葬 まいそう された。この際 さい 、ハンガリー及 およ び国外 こくがい の反応 はんのう は、好意 こうい 的 てき なものと批判 ひはん 的 てき な物 もの の二 ふた つに分 わ かれた。しかし、ホルティの霊廟 れいびょう には今 いま も献花 けんか が絶 た える事 こと はない。
ホルティは海軍 かいぐん 士官 しかん 時代 じだい 、日 にち 露 ろ 戦争 せんそう の時期 じき に日本 にっぽん を一度 いちど 訪問 ほうもん している。1938年 ねん にモンゴメリーアメリカ公使 こうし と会談 かいだん したホルティは、「日本 にっぽん には一度 いちど 行 い った事 こと があるが、彼 かれ らは小 ちい さな猿 さる に過 す ぎない」と語 かた っている。一方 いっぽう で、ハンガリーが日 にち 独 どく 伊 い 三 さん 国 こく 同盟 どうめい に加盟 かめい した際 さい には、ハンガリー駐 ちゅう 日 び 大使 たいし ギガ・ジェルジが「ホルティが来日 らいにち した際 さい に日本人 にっぽんじん 男女 だんじょ の姿 すがた を腕 うで に入 い れ墨 ずみ しており、機嫌 きげん が良 よ い時 とき には人 ひと に見 み せる」程 ほど の親日 しんにち 家 か であるとアピールしている。
ホルティの左腕 さわん には緑 みどり と金色 きんいろ の龍 りゅう の入 い れ墨 ずみ があり、ジャーナリストのエゴン・キッシュ (英語 えいご 版 ばん ) も「美 うつく しい緑 みどり と金 かね の龍 りゅう の入 い れ墨 ずみ をしており、それを隠 かく そうともしなかった」と証言 しょうげん している[ 18] 。この入 い れ墨 ずみ はギガが言 い ったように日本 にっぽん で入 い れたという説 せつ と、若 わか い頃 ころ にイギリスで入 い れたという説 せつ がある[ 18] 。
^ 二 に 重 じゅう 帝国 ていこく 時代 じだい はハンガリー王国 おうこく 領 りょう であった。1920年 ねん から1940年 ねん と戦後 せんご はルーマニア領 りょう のバヤ・マレ。
フランク・ティボル (ハンガリー語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 著 しる 、寺尾 てらお 信昭 のぶあき 訳 やく 『ハンガリー西欧 せいおう 幻想 げんそう の罠 わな 』(2008年 ねん 、彩 いろどり 流 りゅう 社 しゃ )
梅村 うめむら 裕子 ゆうこ 「今岡 いまおか 十一郎 とりひこ の活動 かつどう を通 とお して観 み る日本 にっぽん ・ハンガリー外交 がいこう 関係 かんけい の変遷 へんせん 」(国際 こくさい 関係 かんけい 論叢 ろんそう 2(2), 159-206, 2013-07-31)
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