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マリ帝国ていこく

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マリ王国おうこくから転送てんそう
あかわくないマリ帝国ていこく版図はんと

マリ帝国ていこく(マリていこく、1230年代ねんだい - 1645ねんまたはマリ王国おうこくは、中世ちゅうせい西にしアフリカサヘル地帯ちたいさかえた王国おうこくの1つである[1]王権おうけんになだれであったかについては諸説しょせつあるが、すくなくともマンデじん英語えいごばんだとかんがえられている。現代げんだいマンディンカじんはマリ帝国ていこくじん末裔まつえいというアイデンティティをった民族みんぞく集団しゅうだんである。マリ王国おうこく歴史れきしについてはわかっていないことがおおく、首都しゅとがどこにあったのかすら確定かくていてきせつはない[2][3]。13世紀せいきちゅうごろに英雄えいゆうスンジャタ・ケイタあらわれ、支配しはいいき帝国ていこくてき膨張ぼうちょう[2]支配しはいいき膨張ぼうちょう交易こうえきさかんにし、14世紀せいきちゅうごろにマンサ・ムーサおう派手はでメッカ巡礼じゅんれいおこなうなど王国おうこく最盛さいせいむかえた[2]。イスラームとマリとの関係かんけいについて、マリが「イスラーム国家こっか」であったかか、いつごろからどのような人々ひとびとイスラーム受容じゅようしていたかなどについて諸説しょせつあるが、すくなくとも14世紀せいきちゅうごろには「イスラーム国家こっか」の外観がいかんそなえていた。現在げんざいマリ共和きょうわこく国号こくごうはマリ帝国ていこく由来ゆらいする。スンジャタがマリに服属ふくぞくないし同盟どうめいしたかくクランの代表だいひょうあつめてさだめた憲章けんしょう英語えいごばん世代せだいえてがれ、2009ねんユネスコが「人類じんるい口承こうしょうおよ無形むけい遺産いさん傑作けっさく宣言せんげんをした。

研究けんきゅう

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歴史れきしがくは19世紀せいき誕生たんじょうした比較的ひかくてきあたらしい学問がくもんであるが、当該とうがい19世紀せいきちゅうごろに哲学てつがくしゃヘーゲルは『歴史れきし哲学てつがく講義こうぎ』のなかで、「アフリカは人類じんるい歴史れきし寄与きよしたことがない」などとべた[4]。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカじんもりなか子供こども同然どうぜんで、人類じんるい発展はってん歴史れきし埒外らちがいにあった[4]。こうしたヘーゲルのアフリカかんは、以後いご西洋せいよう知識ちしきじんのブラックアフリカかん影響えいきょうあたえた[4]。19世紀せいき以後いご最初さいしょ中世ちゅうせいマリの歴史れきし研究けんきゅうはじめた研究けんきゅうしゃモリス・ドゥラフォスシャルル・モンテイユなど、植民しょくみん経営けいえいのエコシステムのなか実務じつむ官僚かんりょうとうとしてらすセミ・プロが主体しゅたいであった。ドゥラフォスは1912ねんイブン・ハルドゥーンの『イバルのしょ』を中心ちゅうしんとしたアラビア文献ぶんけんもとづいて、以下いかのようなマリおうのリストを作成さくせいした。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証けんしょうによると、このリストは捏造ねつぞう恣意しいてき解釈かいしゃくふく[5]たとえば、1310ねんから1312ねんまでマリおうであったとドゥラフォスが主張しゅちょうする「アブバカリ2せい」は、イブン・ハルドゥーンが記載きさいしておらず口承こうしょう伝統でんとうにもあらわれない捏造ねつぞうである[5]:345 ff.

イブン・ハルドゥーンしめしたスンジャタ以後いご13, 14世紀せいきおうみつる(Levtzion (1963) の検証けんしょうによる)[5]
  • Sundiata Keita(スンジャタ・ケイタ) (1240-1255)
  • Wali Keita (1255-1270)(マンサ・ウリ・ケイタ)
  • Ouati Keita (1270-1274)(マンサ・ワティ・ケイタ)
  • Khalifa Keita (1274-1275)(マンサ・ハリファ・ケイタ)
  • Abu Bakr (1275-1285)
  • Sakura (1285-1300)
  • Gao (1300-1305)
  • Mohammed ibn Gao (1305-1310)
  • Abubakari II (1310-1312)
  • Kankan Musa I (マンサ・ムーサ)(1312-1337)
  • Maghan (1337-1341)
  • Suleyman (1341-1360)(マンサ・スレイマン)
  • Kassa (1360)
  • Mari Diata II (1360-1374)
  • Musa II (1374-1387)(マンサ・ムーサ2せい
  • Maghan II (1387-1389)
  • Sandaki (1389-1390)
  • Madhan III (Mahmud I) (1390-1400)
  • Unknown Mansas (1400-1441)
  • Musa III (1440年代ねんだい)
  • Ouali II (1460年代ねんだい)
  • Mahmud II (1481-1496)
  • Mahmud III (1496-1559)
  • Mahmud IV (1590年代ねんだい-1600年代ねんだい)(マフムード4せい

たとえばバジル・デヴィッドソン英語えいごばんレモン・モニフランス語ふらんすごばんといった、せんもん歴史れきし学者がくしゃによる研究けんきゅうはじまるのは、植民しょくみん主義しゅぎ立脚りっきゃくした帝国ていこく主義しゅぎ国家こっか崩壊ほうかいをもたらしただい世界せかい大戦たいせんのちからである。「アフリカのとし」1960ねんはじまったユネスコの記念きねん事業じぎょう、『ユネスコ・アフリカの歴史れきしフランス語ふらんすごばん』(l’Histoire générale de l'Afrique)の発刊はっかん(1964-1999ねん)は、中世ちゅうせいマリ研究けんきゅうふくむアフリカ研究けんきゅうになった。同書どうしょには、ぜん世紀せいきにヘーゲルがしめしたアフリカの歴史れきしたいする認識にんしきくつがえすような学術がくじゅつてき成果せいかしめされ、中世ちゅうせいマリふくめたアフリカの歴史れきし実相じっそうあきらかになった。そのなかには、とくにドゥラフォスによりあきらかになったようにえた、マリの君主くんしゅ系譜けいふ王国おうこく社会しゃかい構造こうぞうが、根拠こんきょ薄弱はくじゃく推論すいろんであって実際じっさいのところは史料しりょう不足ふそくによって文献ぶんけんがくてきあきらかにできないという結論けつろんふくまれる。

ふみ資料しりょうろん

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14世紀せいきてられたジンガレイベル・モスクフランス語ふらんすごばんトンブクトゥ)のミナレット。マリ帝国ていこくにおいてはどうモスクのようなスーダーン様式ようしきフランス語ふらんすごばんばれる建築けんちく様式ようしき発展はってんした[6]

サハラ以南いなんのアフリカしょ地域ちいきについて一般いっぱんてきえることではあるが、中世ちゅうせいマリにかんする歴史れきし叙述じょじゅつ裏付うらづける資料しりょうとなる史料しりょうは、きたアフリカやヨーロッパにくらべると、すくない[7]

さい重要じゅうようふみ資料しりょうが、モロッコやエジプトなどのきたアフリカのアラブじんやベルベルじんのこしたアラビア文献ぶんけんである[7]。まず、アブー・ウバイド・バクリー(1014ねんごろせい - 1094ねん)は11世紀せいきのサハラ以南いなん西にしアフリカについて、そこをおとずれた商人しょうにんからの伝聞でんぶんという間接かんせつてき手段しゅだんによってではあるが、いくつかの情報じょうほうのこしている[8]:82-83[9]イドリースィーは12世紀せいきのサハラ以南いなん西にしアフリカについて、断片だんぺんてき情報じょうほうのこしている[8]:103

最盛さいせいのマリには多数たすうのアラブじんやベルベルじん旅行りょこうしゃとしておとずれ、マリにかんする記録きろくをアラビアのこした[7]。また、マリじん巡礼じゅんれいひとし目的もくてききたアフリカやヒジャーズ地方ちほうおとずれたため、エジプトなどにかれらがかたったことの記録きろくのこっている[7]。このようなアラビア文献ぶんけんとしては、イブン・ファドルッラー・ウマリー英語えいごばんイブン・バットゥータイブン・ハルドゥーンマクリーズィーらがいた歴史れきししょがあり、これらに依拠いきょすると13~15世紀せいきのマリのおおまかな歴史れきしながれがわかる[7][5][10]イブン・バットゥータ(1304ねん-1368ねん)は、1352ねん2がつから1353ねん12がつまでサーヘル地帯ちたい周遊しゅうゆうした。かれ旅行りょこう『リフラ』は唯一ゆいいつ無二むにであり、マリ王国おうこく歴史れきし全体ぜんたいかんしてもっと重要じゅうようである。イブン・バットゥータはマリの首都しゅとに8ヶ月かげつあいだにわたり滞在たいざいし、まち構造こうぞうかんする貴重きちょう情報じょうほうのこしている。しかしかれ旅行りょこうからは判然はんぜんとしない部分ぶぶん数多かずおおくあることも同時どうじに、旅行りょこうむとわかり、歴史れきし叙述じょじゅつうえ興味深きょうみぶかてんがある[11]イブン・ハルドゥーン(1332ねん-1406ねん)は『イバルのしょ』にマリのことを記載きさいするために、カイロまでってさまざまな情報じょうほう収集しゅうしゅうした。

マリじんやその子孫しそんのこした文字もじ資料しりょう皆無かいむというわけではなく、トンブクトゥやガオには中世ちゅうせい西にしアフリカ社会しゃかい内部ないぶからたマリの歴史れきしいた年代ねんだい(ターリーフ)がのこされている[7]アブドゥッラフマーン・サアーディーフランス語ふらんすごばんいた16世紀せいきの『ターリーフ・スーダーンフランス語ふらんすごばん』とマフムード・カアティフランス語ふらんすごばんいた17世紀せいきの『ターリーフ・ファッターシュフランス語ふらんすごばん』が利用りようできる。ただし、どちらもソンガイ帝国ていこく歴史れきしさかのぼって叙述じょじゅつすることに主眼しゅがんがあるので、マリ王国おうこく歴史れきしにはあまりおおくの叙述じょじゅつりょういていない。

さらに中世ちゅうせいマリ場合ばあいは、上記じょうき文献ぶんけん資料しりょうのほかに利用りようできる史料しりょうとして、「グリオ」とばれる吟遊詩人ぎんゆうしじんによる口承こうしょう伝統でんとうoral tradition)が存在そんざいするてん特徴とくちょうである[7]。グリオは民族みんぞく歴史れきし過去かこ王族おうぞく事跡じせきかたつたえる職能しょくのうカーストであり、その記憶きおく内容ないよう特定とくてい家系かけい相伝そうでんされる。口承こうしょう伝統でんとう利用りようすることで、マリの歴史れきし外部がいぶからではなく内部ないぶからることができる[7]

さらに発掘はっくつ調査ちょうさによる出土しゅつど資料しりょう重要じゅうよう史料しりょうとなりうるとわれている[12]

首都しゅとさが

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バクリーの地理ちりしょには Melil という地名ちめい確認かくにんできる。
イドリースィーの地理ちりしょにも Melil という地名ちめい確認かくにんできる。

欧米おうべい諸語しょご国号こくごうとして認識にんしきされている "Mali"(日本語にほんごでは「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、このくにが "مالّي‎" と記載きさいされていることにもとづく[ぜん近代きんだい文献ぶんけん 1]。その200ねんまえかれたバクリーの『諸道しょどう諸国しょこくしょ英語えいごばん』にもガーナのみやこのちかくに "ملل‎"(ド・スラーヌ英語えいごばんは "Melil" と母音ぼいんれた)という集落しゅうらくがあるという情報じょうほうがあり、イドリースィーにも同様どうよう情報じょうほうがある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号こくごう正式せいしきには「ニアニ」といい、それは首都しゅと名前なまえであるというむね情報じょうほういている。

初期しょき仮説かせつ (1841-1912)

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近代きんだい以後いごにマリの首都しゅと所在地しょざいちについて最初さいしょ議論ぎろんしたのは、だいえい帝国ていこく地理ちり学者がくしゃウィリアム・デズボラ・クーリー英語えいごばんである。クーリーは1841ねんに、マリの首都しゅとがジョリバがわ(ニジェール川上かわかみ流域りゅういき別名べつめい)のほとり、サメエのむらあたりにあったとする仮説かせつ発表はっぴょうした[13]ハインリヒ・バルトは、1850年代ねんだいにアフリカ大陸たいりく内陸ないりく探検たんけんしてトンブクトゥまでったが、マリの首都しゅとであった場所ばしょつけることはできなかった。フランス植民しょくみん官僚かんりょうルイ=ギュスターヴ・バンジェフランス語ふらんすごばんは、1892ねんにサーヘル地帯ちたい横断おうだんして、ヤミナ(Yamina)のちかくにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡いせきがマリの首都しゅとであった場所ばしょというせつ発表はっぴょうした。

これまでの仮説かせつはすべて、首都しゅとがニジェールがわ左岸さがんにあったとするてんでは共通きょうつうする。また、まったく文献ぶんけん資料しりょう依拠いきょしていなかった[14]はじめてこれらのせつ理由りゆうけをあたえたのがモリス・ドゥラフォスである。ドゥラフォスは Haut-Sénégal-Niger (1912) のなかでバンジェのせつがアラビア文献ぶんけん記載きさい矛盾むじゅんしないことをしめし、当初とうしょあいだはバンジェせつ支持しじした。

「ニアニこそがマリの首都しゅとである」 (1923-1958)

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このころ首都しゅと論争ろんそうもっとはなやかであった時代じだいである。ヴィダルやガイヤールなどが一連いちれん論説ろんせつ発表はっぴょうし、サンカラニがわ英語えいごばんのほとりにあるちいさなむらこそが文献ぶんけん史料しりょうにある地名ちめい、ニアニであるというせつとなえた[15][16]。ドゥラフォスもニアニせつ支持しじした。1920年代ねんだいには実地じっち調査ちょうさおこなわれたが、遺跡いせきつからなかった。1958ねんにギニアが独立どくりつし、ニアニむら新生しんせいギニア共和きょうわこくぞくすことになった。発掘はっくつ調査ちょうさ中断ちゅうだんする。

ニアニにおける考古学こうこがくてき調査ちょうさ (1965-1973)

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ニアニむらは1965ねん、1968ねん、1973ねんと、3かいにわたり考古学こうこがくてき発掘はっくつ調査ちょうさ対象たいしょうになった。ヴワディスワフ・フィリポヴィアクポーランドばん教授きょうじゅひきいるポーランドたい発掘はっくつおこなった。ポーランドじんたちはD. T. ニアヌ協力きょうりょくレモン・モニフランス語ふらんすごばん[注釈ちゅうしゃく 1]から適宜てきぎ助言じょげん調査ちょうさつづけ、成果せいかが1979ねん発表はっぴょうされた。Études archéologiques sur la capitale médiévale du Maliだいされた調査ちょうさ報告ほうこくしょでは「マリ王国おうこく首都しゅとがニアニにあったことが確認かくにんされた」とされた。

ポーランドたい結論けつろんには問題もんだいがあるとはやくからわれていた。調査ちょうさ報告ほうこくしょ刊行かんこうされるまえから、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行りょこうなおしをとおしてフィリポヴィアクせつ批判ひはんして、首都しゅとのあった場所ばしょについて新説しんせつ発表はっぴょうした。レモン・モニはフィリポヴィアクがおこなった放射ほうしゃせい炭素たんそ年代ねんだい測定そくていほうかんする記述きじゅつ矛盾むじゅんがあることを指摘してきした[17]

「ニアニ遺跡いせき首都しゅとせつ検証けんしょうをめぐって・あたらしい仮説かせつ

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全盛期ぜんせいきマリの首都しゅとされた場所ばしょのすべてが否定ひていされることとなった状況じょうきょう直面ちょくめんし、より原始げんしてきなマリ王国おうこくぞう提示ていじする研究けんきゅうしゃあらわれた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、えいべい研究けんきゅうしゃは、「首都しゅと」(capitale)という用語ようごえて、「マンサの宮廷きゅうてい」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮おうきゅう」(cour royale des Mansa)という中立ちゅうりつてきなタームを使つかって、宮廷きゅうてい複数ふくすうまちあいだ巡回じゅんかい移動いどうしていたとする「ノマドがた宮廷きゅうてい仮説かせつ提示ていじした[18]当該とうがい仮説かせつによっても疑問ぎもんのこつづける。これまで研究けんきゅうされてきた遺跡いせきからはこのせつ支持しじするたしかな証拠しょうこられていない。しかし研究けんきゅう端緒たんしょについたばかりで、その疑問ぎもん払拭ふっしょくするかもれず、過去かこ研究けんきゅう検証けんしょう新説しんせつ提唱ていしょうたれる。

歴史れきし

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建国けんこく

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14世紀せいきなかば、最盛さいせいのマリが支配しはいけんおよぼした領域りょういきサハラ交易こうえき
15世紀せいきのセネガルがわ河口かこうから上流じょうりゅうしめかねかわしるされる。

それまで西部せいぶサヘル地方ちほう支配しはいしていたガーナ王国おうこく1076ねんムラービトあさによって首都しゅとクンビー・サーリフ英語えいごばんとされ勢力せいりょくおおきく減退げんたいさせ、ムラービトあさもすぐに衰退すいたいすると、この地域ちいきには覇権はけん勢力せいりょく存在そんざいしなくなった。そのなかソソじん英語えいごばんソソ王国おうこく英語えいごばんが12世紀せいきまつはいると勢力せいりょくばし、ニジェール川上かわかみりゅうマンデじん英語えいごばんをも支配しはいいていた。

この状況じょうきょうで、伝説でんせつてき英雄えいゆうスンジャタ・ケイタあらわれ、マンデのかくクランを糾合きゅうごうした[1]。スンジャタは1235ねんキリナのたたか英語えいごばんでソソのおうスマングルをやぶり、さらにそのセネガルがわ流域りゅういき地方ちほうにまで勢力せいりょくばした[1]

最盛さいせい

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その14世紀せいきには西にし大西おおにしひろしきしまで、ひがしトンブクトゥガオまで、みなみブレフランス語ふらんすごばんバンブクにある金鉱きんこうたっ最大さいだい繁栄はんえいきわめた。スンジャタ・ケイタの死後しご長男ちょうなんのマンサ・ウリ・ケイタがいで領土りょうどをさらに拡大かくだいした。そのいち王位おうい継承けいしょうともな混乱こんらんしょうじたが、1298ねんにマンサ・サクラが即位そくいして混乱こんらん収拾しゅうしゅうした[19]

14世紀せいきにはおうマンサ・ムーサ(マンサは「おうなかおう」の在位ざいい1312ねん - 1337ねん)と、マンサ・スレイマン英語えいごばん在位ざいい1341ねん - 1360ねん)のもとで帝国ていこく最盛さいせいむかえた。マンサ・ムーサは、1324ねんムスリムとしてすうせんにんもの従者じゅうしゃれてメッカ巡礼じゅんれいし、その道中どうちゅうのあちこちで大量たいりょうかねおくものをしたため、ウマリーによるとカイロかね価値かち長期ちょうきにわたって下落げらくした[20]おうはマリにもどると、イスラムきょうイスラム文化ぶんかすすんで住民じゅうみんひろめている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設けんせつし、ここが学問がくもん中心ちゅうしんとなる端緒たんしょつくったのもマンサ・ムーサ治下ちかのことである。

マンサ・スレイマンの統治とうちも、マリはわらず繁栄はんえいつづけていた。1352ねんにマリをおとずれたベルベルじん旅行りょこうイブン・バットゥータは、「かれらのくにはまったく安全あんぜんである」ことにおどろき、住民じゅうみんたちはもてなしがく、正義せいぎかんつよいことを称賛しょうさんしている[ぜん近代きんだい文献ぶんけん 1]

覇権はけん喪失そうしつ領土りょうど西にし

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1530ねんごろのマリ領土りょうど

しかし、1387ねんにマンサ・ムーサ2せいぼっすると、マリでははげしい後継こうけいしゃあらそいが勃発ぼっぱつして国力こくりょく疲弊ひへいし、そのためソンガイ王国おうこくなどの従属じゅうぞくしていた国々くにぐに相次あいついで離反りはんした。また、マリの国力こくりょく衰退すいたいじょうじて南方なんぽうモシぞく北方ほっぽうトゥアレグぞく侵攻しんこう激化げきかし、1433ねんにはトゥアレグじんにトンブクトゥを占領せんりょうされた[21]。こうしてマリは自国じこくもっとゆたかな地域ちいきであったニジェール川内かわうちりくデルタうしなったが、一方いっぽうでブレやバンブクなどのニジェール川上かわかみ流域りゅういき産金さんきん地帯ちたい保持ほじつづけ、さらに大西洋たいせいようめんしたガンビアがわ流域りゅういきなども依然いぜんとして保持ほじしていた[22]1468ねんにはソンガイ王国おうこくスンニ・アリがトゥアレグをってトンブクトゥを占領せんりょうし、ニジェール川内かわうちりくデルタを制圧せいあつして西にしアフリカにとなえるようになってマリとソンガイのちから関係かんけい逆転ぎゃくてんした。そのもマリの国力こくりょくゆるやかに衰退すいたいつづけた。16世紀せいきまつにはガンビアがわ流域りゅういきうしない、マリは内陸ないりく国家こっかとなっていた[23]

滅亡めつぼう

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1625ねんごろのマリ領土りょうど

1591ねんモロッコサアドあさ侵攻しんこうによってソンガイ帝国ていこく滅亡めつぼうすると、その混乱こんらんじょうじてマリのマフムード4せい1599ねんにジェンネへと出兵しゅっぺいするもののモロッコにやぶれ、これが衰退すいたいつづけるマリへの最後さいごいちげきとなった[24]。そのマリは地方ちほうしょう国家こっかとして細々こまごま存続そんぞくし、18世紀せいき滅亡めつぼうした[25]

制度せいど

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交易こうえき

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1375ねんマヨルカとう製作せいさくされた『カタルーニャ地図ちずカタルーニャばん』には、ベルベルじんラクダって、サハラえたところにあるマリの黒人こくじんおうのところへ交易こうえきかう様子ようすえがかれている。

西にしアフリカ内陸ないりく広域こういき帝国ていこく成立せいりつしたのはそもそもサハラ交易こうえき利益りえきによるものであり、最初さいしょ広域こういき帝国ていこくであるガーナ王国おうこく覇権はけんいだマリもおなじくサハラ交易こうえきおも経済けいざい基盤きばんとする国家こっかであったが、その交易こうえき様相ようそうはガーナ時代じだいとは幾分いくぶんことなったものとなっていた。

マリはサハラ砂漠さはらさばく中央ちゅうおうにあるテガーザ岩塩がんえん鉱山こうざんにまで交易こうえきけんひろげたため、それまでしお交易こうえきにぎっていたベルベルじんからその主導しゅどうけんうば[26]しおきん交易こうえききたアフリカのベルベルじんとサヘル地帯ちたいとのあいだのものではなく、サヘル地帯ちたいせいしたマリとそのみなみにある産金さんきん地帯ちたいとのあいだおこなわれるようになった。またマリの領土りょうどないにおいてもかね産出さんしゅつされており、これらの多量たりょうかねはマリ帝国ていこく主力しゅりょく商品しょうひんとしてきたアフリカへと輸出ゆしゅつされ、マンサ・ムーサおう逸話いつわ代表だいひょうされるようなマリの繁栄はんえいささえた。

またマリ帝国ていこく治下ちかにおいては、おなじくサハラのきたからもたらされる主要しゅよう商品しょうひんであった銅鉱どうこうせき輸入ゆにゅう停止ていしし、ぎゃくどうきたアフリカへと輸出ゆしゅつするようになった[27]。これはマリりょううちまたはその交易こうえきけんにおいてどう鉱山こうざん開発かいはつされ、さらにマリ国内こくないにおいて精錬せいれんまでおこなわれるようになったことをしめしている。この時期じき、ガオのひがし位置いちするタケッダどう生産せいさん中心ちゅうしんとなっていた[28]。またこの時期じき、ガーナ時代じだいにはほぼ存在そんざいしなかった綿めんがマリ国内こくない普及ふきゅうし、織物おりもの生産せいさんさかんとなった[29]。こうしてマリはどう綿めん自給じきゅうできるようになったものの、それを加工かこうしたどう製品せいひん衣服いふく織物おりものについては輸入ゆにゅうつづいており、むしろこの時期じきにはきたアフリカからの主力しゅりょく輸出ゆしゅつひんとなっていた。このほか、うまタカラガイなどもきたアフリカからおも輸入ゆにゅうされていた[30]

一方いっぽう、マリは南方なんぽう森林地帯しんりんちたいとも活発かっぱつ交易こうえきおこなっていた。マリからの輸出ゆしゅつひんしおどう綿布めんぷ中心ちゅうしんであり、南方なんぽうからはかねのほか、コーラのおも輸入ゆにゅうされた[31]

また、サハラ交易こうえきのメインルートも以前いぜんくらべて変化へんかしていた。ガーナ王国おうこくにはモロッコからアウダゴストをとおってサヘルへとかうサハラ西側にしがわルートが主流しゅりゅうであったのにたいし、マリ帝国ていこくにはトンブクトゥから中央ちゅうおうサハラをとおってきたアフリカへとかうルートが主流しゅりゅうとなり、これがジェンネやトンブクトゥなどニジェール川中かわなか流域りゅういき交易こうえき都市とし繁栄はんえいんだ[32]

経済けいざい

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上記じょうきのようなさかんな交易こうえきがおこなわれた一方いっぽうで、国民こくみんおおくは農業のうぎょう従事じゅうじしていた。国内こくないではおもソルガムトウジンビエフォニオといった雑穀ざっこくいねおも栽培さいばいされ、食料しょくりょう豊富ほうふ供給きょうきゅうされていた。ニジェールがわではボゾじんやソモノじんなどの漁業ぎょぎょう民族みんぞく内陸ないりくデルタを中心ちゅうしんに、さかんに漁業ぎょぎょうおこなっていた[33]

こうして経済けいざい成長せいちょうする一方いっぽうで、貨幣かへい鋳造ちゅうぞうおこなわれなかった。かね大量たいりょう輸出ゆしゅつされたのも、マリ国内こくないにおいては装飾そうしょくひん以外いがい用途ようとがなく、本来ほんらい国内こくない貨幣かへいとして流通りゅうつうするぶんきん輸出ゆしゅつようまわされていたためでもある。通貨つうかとしては布地ぬのじタカラガイしおなどがもちいられた[34]

こうした交易こうえき活況かっきょうによって、マリ帝国ていこくない存在そんざいするジェンネトンブクトゥガオといった都市としもまた繁栄はんえいした。トンブクトゥとガオではサハラ砂漠さはらさばくえてきたキャラバン商品しょうひんろして川船かわぶねへとえ、ニジェール内陸ないりくデルタ中央ちゅうおう位置いちするジェンネまではこばれた。ジェンネにはみなみ森林地帯しんりんちたいからされたかねなどもやはりふねせられてはこばれてきており、交易こうえき拠点きょてんとして繁栄はんえいした[35]。トンブクトゥはこの時期じきからソンガイ王国おうこくにかけて最盛さいせいむかえた。メッカ巡礼じゅんれい帰路きろのマンサ・ムーサによって1324ねんにジンガリベリ・モスクが建設けんせつされ[36]どう時期じきにサンコーレ・モスクが建設けんせつされることで、トンブクトゥは学問がくもんとしても名声めいせいたかめていった[37]。ガオは交易こうえき要衝ようしょうとして7世紀せいきごろから独立どくりつ王国おうこく存在そんざいしていたが、13世紀せいきごろにマリに服属ふくぞくした[38]。しかし国内こくない混乱こんらんからいち時期じきサハラ交易こうえき断念だんねんしていたエジプトが14世紀せいきなかばからサハラ交易こうえき復活ふっかつさせると、交易こうえきルートの東漸とうぜんこり[39]、ニジェールがわ交易こうえきひがしはしにあたるガオが繁栄はんえいして、14世紀せいきまつにはさい独立どくりつたし、やがてマリにわり西にしアフリカ内陸ないりく覇権はけんにぎるようになった。

帝国ていこくというが、中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい国家こっかではなく、マリを中心ちゅうしんとするゆるやかな連合れんごう国家こっかだった可能かのうせいもある[1][3]

宗教しゅうきょう

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ジェンネどろのモスク登録とうろく世界せかい遺産いさん。ただし写真しゃしん建築けんちくはフランスの植民しょくみん統治とうち良好りょうこうであることをアピールするため1907ねんてられたものである[40]

マリはイスラームきょう受容じゅようしたが、祖先そせん信仰しんこうなどの土着どちゃく信仰しんこうのこっていた[1]。イスラームの受容じゅようがいつごろから、どのようにひろまっていったのかについては議論ぎろんがある。D.T.ニアヌはスンジャタ・ケイタがムスリムであったとかんがえているが、異論いろんもある。赤阪あかさかけんは「14世紀せいきにはイスラーム国家こっか外見がいけんととのえた」という表現ひょうげんをしている。1325ねんのマンサ・ムーサの巡礼じゅんれいさい、エジプトでマンサ・ムーサに拝謁はいえつした現地げんちのウラマーは、ムーサがマーリク儀礼ぎれいをよくっていたと証言しょうげんしている。ムーサをはじめとした最盛さいせいのマリのマンサは、帝国ていこくない安寧あんねい社会しゃかい秩序ちつじょたもち、マドラサ各所かくしょてた[41]。マリのマドラサには、マグリブアンダルスからイスラーム学徒がくとおおあつまり「」のセンターになった[41]。また、マリのマドラサからもウラマーおおそだった[41]

イスラームがこの受容じゅようされていくにしたがい、マリからメッカへの巡礼じゅんれいしゃ増加ぞうかしていった。マンサ・ムーサのメッカ巡礼じゅんれい非常ひじょう著名ちょめいであるが、かれ以前いぜんおうも、またかれ以後いごおうも、メッカへの巡礼じゅんれいおこなっていた。このおうによる巡礼じゅんれいは、サハラ交易こうえきルートの開発かいはつという目的もくてきっていた[32]

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 中世ちゅうせいスーダーン専門せんもんソルボンヌ大学そるぼんぬだいがく教授きょうじゅ

ふる文献ぶんけんからの出典しゅってん

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  1. ^ a b イブン・バットゥータの『リフラ』よりビラード・スーダーンへのたび記載きさいしたあきらたとえば、以下いかのような翻訳ほんやくがある。
    • Ibn Battuta: Travels in Asia and Africa 1325–1354 H. A. R. ギブ英語えいご翻訳ほんやく(1929ねん)。
    • イブン・バットゥータ しる前嶋まえじま信次しんじ わけさん大陸たいりく周遊しゅうゆうしょう中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2004ねん3がつ25にちISBN 412204345X 

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e Terdiman, Moshe (2010). "Mali". In Alexander, Leslie (ed.). Encyclopedia of African American History (American Ethnic Experience ed.). ABC-CLIO. pp. 66–68. ISBN 1851097694
  2. ^ a b c 『イスラム事典じてん平凡社へいぼんしゃ、1982ねん4がつ10日とおかISBN 4-582-12601-4 、「マリ帝国ていこく」のこう執筆しっぴつしゃ川田かわたじゅんづくり)。
  3. ^ a b 赤阪あかさかけんちょ)、川田かわたじゅんづくりへん)「マンデ、王国おうこく形成けいせい先駆せんくしゃたち」『民族みんぞく世界せかい12(黒人こくじんアフリカの歴史れきし世界せかい)』、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1987ねん2がつ28にちISBN 4-634-44120-9 
  4. ^ a b c Camara, Babacar (2005-09). “The Falsity of Hegel's Theses on Africa”. Journal of Black Studies (Sage Publications, Inc.) 36 (1): 82-96. http://www.jstor.org/stable/40027323 2018ねん4がつ26にち閲覧えつらん. 
  5. ^ a b c d Levtzion, N. (1963). “The thirteenth- and fourteenth-century kings of Mali”. Journal of African History 4 (3): 341–353. doi:10.1017/S002185370000428X. JSTOR 180027. 
  6. ^ Terdiman, Moshe (2010). "Mansa Musa". In Alexander, Leslie (ed.). Encyclopedia of African American History (American Ethnic Experience ed.). ABC-CLIO. pp. 73–74. ISBN 1851097694
  7. ^ a b c d e f g h D.T.ニアヌちょ)、D.T.ニアヌ(へん)「だい6しょうマリとマンディンゴじんだい勢力せいりょく拡張かくちょう」『いち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ』、同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん、1992ねん9がつ20日はつか、188-193ぺーじISBN 4-8104-1096-X 
  8. ^ a b Levtzion, Nehemia; Hopkins, John F.P., eds (2000). Corpus of Early Arabic Sources for West Africa. New York: Marcus Weiner Press. ISBN 1-55876-241-8  First published in 1981 by Cambridge University Press, ISBN 0-521-22422-5
  9. ^ Cuoq, J, Recueil des sources arabes concernant l'Afrique occidentale du VIIIe au XVIe siècle, Paris, Centre national de la recherche scientifique, 1975, 490 p (Pour toutes les sources arabes consulter ce même ouvrage).
  10. ^ 福井ふくい勝義まさよし大塚おおつか和夫かずお赤阪あかさかけん世界せかい歴史れきし24(アフリカの民族みんぞく社会しゃかい)』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2010ねん2がつISBN 978-4122052895 おもだいしょう執筆しっぴつ担当たんとう赤阪あかさかけん
  11. ^ voir les articles de Meillassoux, Delafosse, et Hunwick signalés dans l'historiographie
  12. ^ 竹沢たけざわ尚一しょういちろう西にしアフリカの王国おうこくる--文化ぶんか人類じんるいがくから考古学こうこがくへ』臨川りんせん書店しょてん、2014ねん8がつ 
  13. ^ William Cooley, The Negroland of the Arabs, London, Frank Casse and Co, 1966 (2e édition) (1re édition 1841), 143 p
  14. ^ C'est-à-dire toutes les études parues après cette première hypothèse, voire les références dans la bibliographie
  15. ^ J. Vidal, « Le véritable emplacement de Mali », Bulletin du comité d'Études historiques et scientifiques de l'AOF, octobre-décembre 1923, no 4, p. 606-619.
  16. ^ M. Gaillard, « Niani ancienne capitale de l'Empire mandingue », Bulletin du comité d'études historiques et scientifiques de l'Afrique Occidentale Française, Tome VIII, 1923, p. 620-636.
  17. ^ Hirsch, Fauvelle-Aymar, « La correspondance entre Raymond Mauny et Wladislaw Filipowiak au sujet de la fouille de Niani (Guinée), capitale supposée de l'empire médiéval du Mali », in Mélange offert à Jean Boulègue, 2009 à paraître
  18. ^ On peut citer notamment Conrad et Green, voir les références pour leurs articles dans la bibliographie
  19. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいろくしょう「マリとマンディンゴじんだい勢力せいりょく拡張かくちょう」D.T.ニアヌ p212 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  20. ^ A. G. Hopkins (2014-09-19). An Economic History of West Africa. Routledge. ISBN 9781317868941. https://books.google.co.jp/books?id=F_DfBgAAQBAJ&pg=PA47  p.47
  21. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいななしょう「マリ帝国ていこく衰退すいたい」M.リータル p256 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  22. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいななしょう「マリ帝国ていこく衰退すいたい」M.リータル p257 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  23. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいななしょう「マリ帝国ていこく衰退すいたい」M.リータル p268 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  24. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいななしょう「マリ帝国ていこく衰退すいたい」M.リータル p269 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  25. ^ 「マリをるための58しょうない収録しゅうろく「マリ帝国ていこく)」p60 竹沢たけざわ尚一しょういちろう 竹沢たけざわ尚一しょういちろう編著へんちょ 明石書店あかししょてん 2015ねん11月15にち初版しょはんだい1さつ発行はっこう
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  27. ^ 「サハラがむす南北なんぼく交流こうりゅう」(世界せかいリブレット60)p51 私市きさいちせいねん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2004ねん6がつ25にち1はん1さつ
  28. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいろくしょう「マリとマンディンゴじんだい勢力せいりょく拡張かくちょう」D.T.ニアヌ p241 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  29. ^ 「サハラがむす南北なんぼく交流こうりゅう」(世界せかいリブレット60)p53 私市きさいちせいねん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2004ねん6がつ25にち1はん1さつ
  30. ^ 「サハラがむす南北なんぼく交流こうりゅう」(世界せかいリブレット60)p63-64 私市きさいちせいねん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2004ねん6がつ25にち1はん1さつ
  31. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいろくしょう「マリとマンディンゴじんだい勢力せいりょく拡張かくちょう」D.T.ニアヌ p240-241 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  32. ^ a b 新書しんしょアフリカだい8はん宮本みやもとただしきょう松田まつだもとへん)、2003ねん2がつ20日はつか講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ)p192
  33. ^ 「ユネスコ・アフリカの歴史れきし だい4かんうえいち世紀せいきからいちろく世紀せいきまでのアフリカ」ないだいろくしょう「マリとマンディンゴじんだい勢力せいりょく拡張かくちょう」D.T.ニアヌ p234-235 1992ねん9がつ20日はつかだい1はんだい1さつ 同朋どうほうしゃ出版しゅっぱん
  34. ^ 「サハラがむす南北なんぼく交流こうりゅう」(世界せかいリブレット60)p60 私市きさいちせいねん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2004ねん6がつ25にち1はん1さつ
  35. ^ 「マリをるための58しょうない収録しゅうろく「ジェンネ」p140 伊東いとう未来みらい 竹沢たけざわ尚一しょういちろう編著へんちょ 明石書店あかししょてん 2015ねん11月15にち初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  36. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2887349 「伝説でんせつ黄金おうごん都市としトンブクトゥ、破壊はかい危機ききにある世界せかい遺産いさん」AFPBB 2012ねん7がつ2にち 2018ねん6がつ22にち閲覧えつらん
  37. ^ 「マリをるための58しょうない収録しゅうろく「トンブクトゥ」p145 坂井さかい信三しんぞう 竹沢たけざわ尚一しょういちろう編著へんちょ 明石書店あかししょてん 2015ねん11月15にち初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  38. ^ 「マリをるための58しょうない収録しゅうろく「ガオ王国おうこく(ソンガイ王国おうこく・ガオ帝国ていこく)」p64 竹沢たけざわ尚一しょういちろう 竹沢たけざわ尚一しょういちろう編著へんちょ 明石書店あかししょてん 2015ねん11月15にち初版しょはんだい1さつ発行はっこう
  39. ^ 「サハラがむす南北なんぼく交流こうりゅう」(世界せかいリブレット60)p66 私市きさいちせいねん 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 2004ねん6がつ25にち1はん1さつ
  40. ^ 内藤ないとう陽介ようすけ『マリきん現代げんだいいろどりりゅうしゃ、2013ねん5がつ5にちISBN 978-4-7791-1888-3  pp.11-15
  41. ^ a b c 石川いしかわ, かおる; 小浜おばま, 裕久ひろひさ (2018-01). かい」のアフリカ. 勁草書房しょぼう. ISBN 978-4-326-24847-6  pp66-71

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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