赤 あか 枠 わく 内 ない がマリ帝国 ていこく の版図 はんと
マリ帝国 ていこく (マリていこく、1230年代 ねんだい - 1645年 ねん )又 また はマリ王国 おうこく は、中世 ちゅうせい 西 にし アフリカ のサヘル 地帯 ちたい に栄 さか えた王国 おうこく の1つである[ 1] 。王権 おうけん の担 にな い手 て が誰 だれ であったかについては諸説 しょせつ あるが、少 すく なくともマンデ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) だと考 かんが えられている。現代 げんだい のマンディンカ人 じん はマリ帝国 ていこく 人 じん の末裔 まつえい というアイデンティティを持 も った民族 みんぞく 集団 しゅうだん である。マリ王国 おうこく の歴史 れきし についてはわかっていないことが多 おお く、首都 しゅと がどこにあったのかすら確定 かくてい 的 てき な説 せつ はない[ 2] [ 3] 。13世紀 せいき 中 ちゅう ごろに英雄 えいゆう スンジャタ・ケイタ が現 あらわ れ、支配 しはい 域 いき の帝国 ていこく 的 てき 膨張 ぼうちょう を見 み た[ 2] 。支配 しはい 域 いき の膨張 ぼうちょう は交易 こうえき を盛 さか んにし、14世紀 せいき 中 ちゅう ごろにマンサ・ムーサ 王 おう が派手 はで なメッカ巡礼 じゅんれい を行 おこな うなど王国 おうこく は最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた[ 2] 。イスラームとマリとの関係 かんけい について、マリが「イスラーム国家 こっか 」であったか否 ひ か、いつごろからどのような人々 ひとびと がイスラーム を受容 じゅよう していたかなどについて諸説 しょせつ あるが、少 すく なくとも14世紀 せいき 中 ちゅう ごろには「イスラーム国家 こっか 」の外観 がいかん を備 そな えていた。現在 げんざい のマリ共和 きょうわ 国 こく の国号 こくごう はマリ帝国 ていこく に由来 ゆらい する。スンジャタがマリに服属 ふくぞく ないし同盟 どうめい した各 かく クランの代表 だいひょう を集 あつ めて定 さだ めた憲章 けんしょう (英語 えいご 版 ばん ) が世代 せだい を超 こ えて受 う け継 つ がれ、2009年 ねん にユネスコ が「人類 じんるい の口承 こうしょう 及 およ び無形 むけい 遺産 いさん の傑作 けっさく 」宣言 せんげん をした。
歴史 れきし 学 がく は19世紀 せいき に誕生 たんじょう した比較的 ひかくてき 新 あたら しい学問 がくもん であるが、当該 とうがい 19世紀 せいき 中 ちゅう ごろに哲学 てつがく 者 しゃ ヘーゲル は『歴史 れきし 哲学 てつがく 講義 こうぎ 』の中 なか で、「アフリカは人類 じんるい の歴史 れきし に寄与 きよ したことがない」などと述 の べた[ 4] 。ヘーゲルにとってサブサハラのアフリカ人 じん は森 もり の中 なか の子供 こども 同然 どうぜん で、人類 じんるい の発展 はってん の歴史 れきし の埒外 らちがい にあった[ 4] 。こうしたヘーゲルのアフリカ観 かん は、以後 いご の西洋 せいよう 知識 ちしき 人 じん のブラックアフリカ観 かん に影響 えいきょう を与 あた えた[ 4] 。19世紀 せいき 以後 いご に最初 さいしょ に中世 ちゅうせい マリの歴史 れきし を研究 けんきゅう し始 はじ めた研究 けんきゅう 者 しゃ はモリス・ドゥラフォス やシャルル・モンテイユ など、植民 しょくみん 地 ち 経営 けいえい のエコシステムの中 なか で実務 じつむ 官僚 かんりょう 等 とう として暮 く らすセミ・プロが主体 しゅたい であった。ドゥラフォスは1912年 ねん にイブン・ハルドゥーン の『イバルの書 しょ 』を中心 ちゅうしん としたアラビア語 ご 文献 ぶんけん に基 もと づいて、以下 いか のようなマリ王 おう のリストを作成 さくせい した。しかしながら、Levitzion (1963) などの検証 けんしょう によると、このリストは捏造 ねつぞう や恣意 しい 的 てき な解釈 かいしゃく を含 ふく む[ 5] 。例 たと えば、1310年 ねん から1312年 ねん までマリ王 おう であったとドゥラフォスが主張 しゅちょう する「アブバカリ2世 せい 」は、イブン・ハルドゥーンが記載 きさい しておらず口承 こうしょう 伝統 でんとう にも現 あらわ れない捏造 ねつぞう である[ 5] :345 ff. 。
イブン・ハルドゥーン が示 しめ したスンジャタ以後 いご 13, 14世紀 せいき の王 おう 統 みつる 図 ず (Levtzion (1963) の検証 けんしょう による)[ 5]
Sundiata Keita(スンジャタ・ケイタ ) (1240-1255)
Wali Keita (1255-1270)(マンサ・ウリ・ケイタ)
Ouati Keita (1270-1274)(マンサ・ワティ・ケイタ)
Khalifa Keita (1274-1275)(マンサ・ハリファ・ケイタ)
Abu Bakr (1275-1285)
Sakura (1285-1300)
Gao (1300-1305)
Mohammed ibn Gao (1305-1310)
Abubakari II (1310-1312)
Kankan Musa I (マンサ・ムーサ )(1312-1337)
Maghan (1337-1341)
Suleyman (1341-1360)(マンサ・スレイマン)
Kassa (1360)
Mari Diata II (1360-1374)
Musa II (1374-1387)(マンサ・ムーサ2世 せい )
Maghan II (1387-1389)
Sandaki (1389-1390)
Madhan III (Mahmud I) (1390-1400)
Unknown Mansas (1400-1441)
Musa III (1440年代 ねんだい )
Ouali II (1460年代 ねんだい )
Mahmud II (1481-1496)
Mahmud III (1496-1559)
Mahmud IV (1590年代 ねんだい -1600年代 ねんだい )(マフムード4世 せい )
例 たと えばバジル・デヴィッドソン (英語 えいご 版 ばん ) やレモン・モニ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) といった、専 せん 門 もん の歴史 れきし 学者 がくしゃ による研究 けんきゅう が始 はじ まるのは、植民 しょくみん 地 ち 主義 しゅぎ に立脚 りっきゃく した帝国 ていこく 主義 しゅぎ 国家 こっか に崩壊 ほうかい をもたらした第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の後 のち からである。「アフリカの年 とし 」1960年 ねん に始 はじ まったユネスコの記念 きねん 事業 じぎょう 、『ユネスコ・アフリカの歴史 れきし (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』(l’Histoire générale de l'Afrique )の発刊 はっかん (1964-1999年 ねん )は、中世 ちゅうせい マリ史 し 研究 けんきゅう を含 ふく むアフリカ史 し 研究 けんきゅう の画 が 期 き になった。同書 どうしょ には、前 ぜん 世紀 せいき にヘーゲルが示 しめ したアフリカの歴史 れきし に対 たい する認識 にんしき を覆 くつがえ すような学術 がくじゅつ 的 てき 成果 せいか が示 しめ され、中世 ちゅうせい マリ史 し を含 ふく めたアフリカの歴史 れきし の実相 じっそう が明 あき らかになった。その中 なか には、特 とく にドゥラフォスにより明 あき らかになったように見 み えた、マリの君主 くんしゅ の系譜 けいふ や王国 おうこく 社会 しゃかい の構造 こうぞう が、根拠 こんきょ 薄弱 はくじゃく な推論 すいろん であって実際 じっさい のところは史料 しりょう の不足 ふそく によって文献 ぶんけん 学 がく 的 てき に明 あき らかにできないという結論 けつろん も含 ふく まれる。
14世紀 せいき に建 た てられたジンガレイベル・モスク (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (トンブクトゥ )のミナレット 。マリ帝国 ていこく においては同 どう モスクのようなスーダーン様式 ようしき (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) と呼 よ ばれる建築 けんちく 様式 ようしき が発展 はってん した[ 6] 。
サハラ以南 いなん のアフリカ の諸 しょ 地域 ちいき について一般 いっぱん 的 てき に言 い えることではあるが、中世 ちゅうせい マリに関 かん する歴史 れきし 叙述 じょじゅつ を裏付 うらづ ける資料 しりょう となる史料 しりょう は、北 きた アフリカやヨーロッパに比 くら べると、少 すく ない[ 7] 。
最 さい 重要 じゅうよう の史 ふみ 資料 しりょう が、モロッコやエジプトなどの北 きた アフリカのアラブ人 じん やベルベル人 じん が書 か き残 のこ したアラビア語 ご 文献 ぶんけん である[ 7] 。まず、アブー・ウバイド・バクリー (1014年 ねん 頃 ごろ 生 せい - 1094年 ねん )は11世紀 せいき のサハラ以南 いなん の西 にし アフリカについて、そこを訪 おとず れた商人 しょうにん からの伝聞 でんぶん という間接 かんせつ 的 てき な手段 しゅだん によってではあるが、いくつかの情報 じょうほう を書 か き残 のこ している[ 8] :82-83 [ 9] 。イドリースィー は12世紀 せいき のサハラ以南 いなん の西 にし アフリカについて、断片 だんぺん 的 てき な情報 じょうほう を残 のこ している[ 8] :103 。
最盛 さいせい 期 き のマリには多数 たすう のアラブ人 じん やベルベル人 じん が旅行 りょこう 者 しゃ として訪 おとず れ、マリに関 かん する記録 きろく をアラビア語 ご で書 か き残 のこ した[ 7] 。また、マリ人 じん も巡礼 じゅんれい 等 ひとし の目的 もくてき で北 きた アフリカやヒジャーズ地方 ちほう を訪 おとず れたため、エジプトなどに彼 かれ らが語 かた ったことの記録 きろく が残 のこ っている[ 7] 。このようなアラビア語 ご 文献 ぶんけん としては、イブン・ファドルッラー・ウマリー (英語 えいご 版 ばん ) 、イブン・バットゥータ 、イブン・ハルドゥーン 、マクリーズィー らが書 か いた歴史 れきし 書 しょ があり、これらに依拠 いきょ すると13~15世紀 せいき のマリの大 おお まかな歴史 れきし の流 なが れがわかる[ 7] [ 5] [ 10] 。イブン・バットゥータ (1304年 ねん -1368年 ねん )は、1352年 ねん 2月 がつ から1353年 ねん 12月 がつ までサーヘル地帯 ちたい を周遊 しゅうゆう した。彼 かれ の旅行 りょこう 記 き 『リフラ』は唯一 ゆいいつ 無二 むに であり、マリ王国 おうこく の歴史 れきし 全体 ぜんたい に関 かん して最 もっと も重要 じゅうよう である。イブン・バットゥータはマリの首都 しゅと に8ヶ月 かげつ 間 あいだ にわたり滞在 たいざい し、町 まち の構造 こうぞう に関 かん する貴重 きちょう な情報 じょうほう を残 のこ している。しかし彼 かれ の旅行 りょこう 記 き からは判然 はんぜん としない部分 ぶぶん も数多 かずおお くあることも同時 どうじ に、旅行 りょこう 記 き を読 よ むとわかり、歴史 れきし 叙述 じょじゅつ の上 うえ で興味深 きょうみぶか い点 てん がある[ 11] 。イブン・ハルドゥーン (1332年 ねん -1406年 ねん )は『イバルの書 しょ 』にマリのことを記載 きさい するために、カイロまで行 い ってさまざまな情報 じょうほう を収集 しゅうしゅう した。
マリ人 じん やその子孫 しそん が書 か き残 のこ した文字 もじ 資料 しりょう も皆無 かいむ というわけではなく、トンブクトゥやガオには中世 ちゅうせい 西 にし アフリカ社会 しゃかい 内部 ないぶ から見 み たマリの歴史 れきし を書 か いた年代 ねんだい 記 き (ターリーフ)が残 のこ されている[ 7] 。アブドゥッラフマーン・サアーディー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) が書 か いた16世紀 せいき の『ターリーフ・スーダーン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』とマフムード・カアティ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) が書 か いた17世紀 せいき の『ターリーフ・ファッターシュ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 』が利用 りよう できる。ただし、どちらもソンガイ帝国 ていこく の歴史 れきし を遡 さかのぼ って叙述 じょじゅつ することに主眼 しゅがん があるので、マリ王国 おうこく の歴史 れきし にはあまり多 おお くの叙述 じょじゅつ 量 りょう を割 さ いていない。
さらに中世 ちゅうせい マリ史 し の場合 ばあい は、上記 じょうき 文献 ぶんけん 資料 しりょう のほかに利用 りよう できる史料 しりょう として、「グリオ 」と呼 よ ばれる吟遊詩人 ぎんゆうしじん による口承 こうしょう 伝統 でんとう (oral tradition )が存在 そんざい する点 てん が特徴 とくちょう である[ 7] 。グリオは民族 みんぞく の歴史 れきし や過去 かこ の王族 おうぞく の事跡 じせき を語 かた り伝 つた える職能 しょくのう カーストであり、その記憶 きおく 内容 ないよう は特定 とくてい の家系 かけい で相伝 そうでん される。口承 こうしょう 伝統 でんとう を利用 りよう することで、マリの歴史 れきし を外部 がいぶ からではなく内部 ないぶ から知 し ることができる[ 7] 。
さらに発掘 はっくつ 調査 ちょうさ による出土 しゅつど 資料 しりょう も重要 じゅうよう な史料 しりょう となりうると言 い われている[ 12] 。
バクリーの地理 ちり 書 しょ には Melil という地名 ちめい が確認 かくにん できる。
イドリースィーの地理 ちり 書 しょ にも Melil という地名 ちめい が確認 かくにん できる。
欧米 おうべい 諸語 しょご で国号 こくごう として認識 にんしき されている "Mali"(日本語 にほんご では「マリ」)は、イブン・バットゥータの『リフラ』において、この国 くに が "مالّي " と記載 きさい されていることに基 もと づく[ 前 ぜん 近代 きんだい の文献 ぶんけん 1] 。その200年 ねん 前 まえ に書 か かれたバクリーの『諸道 しょどう と諸国 しょこく の書 しょ (英語 えいご 版 ばん ) 』にもガーナ のみやこの近 ちか くに "ملل "(ド・スラーヌ (英語 えいご 版 ばん ) は "Melil " と母音 ぼいん を入 い れた)という集落 しゅうらく があるという情報 じょうほう があり、イドリースィーにも同様 どうよう の情報 じょうほう がある。イブン・ファドルッラー・ウマリーは、マリの国号 こくごう は正式 せいしき には「ニアニ」といい、それは首都 しゅと の名前 なまえ であるという旨 むね の情報 じょうほう を書 か いている。
近代 きんだい 以後 いご にマリの首都 しゅと の所在地 しょざいち について最初 さいしょ に議論 ぎろん したのは、大 だい 英 えい 帝国 ていこく の地理 ちり 学者 がくしゃ ウィリアム・デズボラ・クーリー (英語 えいご 版 ばん ) である。クーリーは1841年 ねん に、マリの首都 しゅと がジョリバ川 がわ (ニジェール川上 かわかみ 流域 りゅういき の別名 べつめい )のほとり、サメエの村 むら あたりにあったとする仮説 かせつ を発表 はっぴょう した[ 13] 。ハインリヒ・バルト は、1850年代 ねんだい にアフリカ大陸 たいりく の内陸 ないりく を探検 たんけん してトンブクトゥまで行 い ったが、マリの首都 しゅと であった場所 ばしょ を見 み つけることはできなかった。フランス植民 しょくみん 地 ち 官僚 かんりょう のルイ=ギュスターヴ・バンジェ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) は、1892年 ねん にサーヘル地帯 ちたい を横断 おうだん して、ヤミナ(Yamina)の近 ちか くにあるニアニマドゥグ(Niani-Madougou)遺跡 いせき がマリの首都 しゅと であった場所 ばしょ という説 せつ を発表 はっぴょう した。
これまでの仮説 かせつ はすべて、首都 しゅと がニジェール川 がわ の左岸 さがん にあったとする点 てん では共通 きょうつう する。また、まったく文献 ぶんけん 資料 しりょう に依拠 いきょ していなかった[ 14] 。初 はじ めてこれらの説 せつ に理由 りゆう 付 づ けを与 あた えたのがモリス・ドゥラフォス である。ドゥラフォスは Haut-Sénégal-Niger (1912) のなかでバンジェの説 せつ がアラビア語 ご 文献 ぶんけん の記載 きさい と矛盾 むじゅん しないことを示 しめ し、当初 とうしょ の間 あいだ はバンジェ説 せつ を支持 しじ した。
「ニアニこそがマリの首都 しゅと である」 (1923-1958)[ 編集 へんしゅう ]
この頃 ころ が首都 しゅと 論争 ろんそう の最 もっと も華 はな やかであった時代 じだい である。ヴィダルやガイヤールなどが一連 いちれん の論説 ろんせつ を発表 はっぴょう し、サンカラニ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) のほとりにある小 ちい さな村 むら こそが文献 ぶんけん 史料 しりょう にある地名 ちめい 、ニアニであるという説 せつ を唱 とな えた[ 15] [ 16] 。ドゥラフォスもニアニ説 せつ を支持 しじ した。1920年代 ねんだい には実地 じっち 調査 ちょうさ も行 おこな われたが、遺跡 いせき は見 み つからなかった。1958年 ねん にギニアが独立 どくりつ し、ニアニ村 むら は新生 しんせい ギニア共和 きょうわ 国 こく に属 ぞく すことになった。発掘 はっくつ や調査 ちょうさ は中断 ちゅうだん する。
ニアニにおける考古学 こうこがく 的 てき 調査 ちょうさ (1965-1973)[ 編集 へんしゅう ]
ニアニ村 むら は1965年 ねん 、1968年 ねん 、1973年 ねん と、3回 かい にわたり考古学 こうこがく 的 てき 発掘 はっくつ 調査 ちょうさ の対象 たいしょう になった。ヴワディスワフ・フィリポヴィアク (ポーランド語 ご 版 ばん ) 教授 きょうじゅ 率 ひき いるポーランド隊 たい が発掘 はっくつ を行 おこな った。ポーランド人 じん たちはD. T. ニアヌ の協力 きょうりょく も得 え 、レモン・モニ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) [ 注釈 ちゅうしゃく 1] から適宜 てきぎ 助言 じょげん を得 え て調査 ちょうさ を続 つづ け、成果 せいか が1979年 ねん に発表 はっぴょう された。Études archéologiques sur la capitale médiévale du Mali と題 だい された調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ では「マリ王国 おうこく の首都 しゅと がニアニにあったことが確認 かくにん された」とされた。
ポーランド隊 たい の結論 けつろん には問題 もんだい があると早 はや くから言 い われていた。調査 ちょうさ 報告 ほうこく 書 しょ が刊行 かんこう される前 まえ から、メイヤス(Meillassoux)とハンウィック(Hunwick)はイブン・バットゥータの旅行 りょこう 記 き の読 よ み直 なお しを通 とお してフィリポヴィアク説 せつ を批判 ひはん して、首都 しゅと のあった場所 ばしょ について新説 しんせつ を発表 はっぴょう した。レモン・モニはフィリポヴィアクが行 おこな った放射 ほうしゃ 性 せい 炭素 たんそ 年代 ねんだい 測定 そくてい 法 ほう に関 かん する記述 きじゅつ に矛盾 むじゅん があることを指摘 してき した[ 17] 。
「ニアニ遺跡 いせき =首都 しゅと 」説 せつ の検証 けんしょう をめぐって・新 あたら しい仮説 かせつ [ 編集 へんしゅう ]
全盛期 ぜんせいき マリの首都 しゅと と目 め された場所 ばしょ のすべてが否定 ひてい されることとなった状況 じょうきょう に直面 ちょくめん し、より原始 げんし 的 てき なマリ王国 おうこく 像 ぞう を提示 ていじ する研究 けんきゅう 者 しゃ が現 あらわ れた(Conrad, Greennなど)。コンラッドやグリーンら、英 えい 米 べい の研究 けんきゅう 者 しゃ は、「首都 しゅと 」(capitale)という用語 ようご に代 か えて、「マンサの宮廷 きゅうてい 」(cour des Mansa)あるいは「マンサの王宮 おうきゅう 」(cour royale des Mansa)という中立 ちゅうりつ 的 てき なタームを使 つか って、宮廷 きゅうてい が複数 ふくすう の町 まち の間 あいだ を巡回 じゅんかい 移動 いどう していたとする「ノマド型 がた 宮廷 きゅうてい 」仮説 かせつ を提示 ていじ した[ 18] 。当該 とうがい 仮説 かせつ によっても疑問 ぎもん は残 のこ り続 つづ ける。これまで研究 けんきゅう されてきた遺跡 いせき からはこの説 せつ を支持 しじ する確 たし かな証拠 しょうこ が得 え られていない。しかし研究 けんきゅう は端緒 たんしょ についたばかりで、その後 ご 疑問 ぎもん を払拭 ふっしょく するかも知 し れず、過去 かこ の研究 けんきゅう の検証 けんしょう と新説 しんせつ の提唱 ていしょう が待 ま たれる。
14世紀 せいき 半 なか ば、最盛 さいせい 期 き のマリが支配 しはい 権 けん を及 およ ぼした領域 りょういき とサハラ交易 こうえき 路 ろ 。
15世紀 せいき のセネガル川 がわ 河口 かこう から上流 じょうりゅう を示 しめ す図 ず 、金 かね の川 かわ と記 しる される。
それまで西部 せいぶ サヘル 地方 ちほう を支配 しはい していたガーナ王国 おうこく が1076年 ねん にムラービト朝 あさ によって首都 しゅと クンビー・サーリフ (英語 えいご 版 ばん ) を落 お とされ勢力 せいりょく を大 おお きく減退 げんたい させ、ムラービト朝 あさ もすぐに衰退 すいたい すると、この地域 ちいき には覇権 はけん 勢力 せいりょく が存在 そんざい しなくなった。その中 なか でソソ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) のソソ王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) が12世紀 せいき 末 まつ に入 はい ると勢力 せいりょく を伸 の ばし、ニジェール川上 かわかみ 流 りゅう のマンデ人 じん (英語 えいご 版 ばん ) をも支配 しはい 下 か に置 お いていた。
この状況 じょうきょう 下 か で、伝説 でんせつ 的 てき 英雄 えいゆう スンジャタ・ケイタ が現 あらわ れ、マンデの各 かく クランを糾合 きゅうごう した[ 1] 。スンジャタは1235年 ねん にキリナの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でソソの王 おう スマングル をやぶり、さらにその後 ご 、セネガル川 がわ 流域 りゅういき の地方 ちほう にまで勢力 せいりょく を伸 の ばした[ 1] 。
その後 ご 、14世紀 せいき には西 にし は大西 おおにし 洋 ひろし 岸 きし まで、東 ひがし はトンブクトゥ ・ガオ まで、南 みなみ はブレ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) ・バンブク にある金鉱 きんこう に達 たっ し最大 さいだい の繁栄 はんえい を極 きわ めた。スンジャタ・ケイタの死後 しご は長男 ちょうなん のマンサ・ウリ・ケイタが継 つ いで領土 りょうど をさらに拡大 かくだい した。その後 ご 一 いち 時 じ 王位 おうい 継承 けいしょう に伴 ともな う混乱 こんらん が生 しょう じたが、1298年 ねん にマンサ・サクラが即位 そくい して混乱 こんらん を収拾 しゅうしゅう した[ 19] 。
14世紀 せいき には王 おう のマンサ・ムーサ (マンサは「王 おう の中 なか の王 おう 」の意 い 、在位 ざいい :1312年 ねん - 1337年 ねん )と、マンサ・スレイマン (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :1341年 ねん - 1360年 ねん )のもとで帝国 ていこく は最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。マンサ・ムーサは、1324年 ねん にムスリム として数 すう 千 せん 人 にん もの従者 じゅうしゃ を引 ひ き連 つ れてメッカ へ巡礼 じゅんれい し、その道中 どうちゅう のあちこちで大量 たいりょう の金 かね の贈 おく り物 もの をしたため、ウマリーによるとカイロ の金 かね の価値 かち が長期 ちょうき にわたって下落 げらく した[ 20] 。王 おう はマリに戻 もど ると、イスラム教 きょう とイスラム文化 ぶんか を進 すす んで住民 じゅうみん に広 ひろ めている。トンブクトゥにジンガリベリ・モスクを建設 けんせつ し、ここが学問 がくもん の中心 ちゅうしん 地 ち となる端緒 たんしょ を作 つく ったのもマンサ・ムーサ治下 ちか のことである。
マンサ・スレイマンの統治 とうち 期 き も、マリは変 か わらず繁栄 はんえい を続 つづ けていた。1352年 ねん にマリを訪 おとず れたベルベル人 じん の旅行 りょこう 家 か イブン・バットゥータ は、「彼 かれ らの国 くに はまったく安全 あんぜん である」ことに驚 おどろ き、住民 じゅうみん たちはもてなしが良 よ く、正義 せいぎ 感 かん が強 つよ いことを称賛 しょうさん している[ 前 ぜん 近代 きんだい の文献 ぶんけん 1] 。
1530年 ねん ごろのマリ領土 りょうど
しかし、1387年 ねん にマンサ・ムーサ2世 せい が没 ぼっ すると、マリでは激 はげ しい後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いが勃発 ぼっぱつ して国力 こくりょく は疲弊 ひへい し、そのためソンガイ王国 おうこく などの従属 じゅうぞく していた国々 くにぐに が相次 あいつ いで離反 りはん した。また、マリの国力 こくりょく の衰退 すいたい に乗 じょう じて南方 なんぽう のモシ族 ぞく や北方 ほっぽう のトゥアレグ族 ぞく の侵攻 しんこう が激化 げきか し、1433年 ねん にはトゥアレグ人 じん にトンブクトゥを占領 せんりょう された[ 21] 。こうしてマリは自国 じこく で最 もっと も豊 ゆた かな地域 ちいき であったニジェール川内 かわうち 陸 りく デルタ を失 うしな ったが、一方 いっぽう でブレやバンブクなどのニジェール川上 かわかみ 流域 りゅういき の産金 さんきん 地帯 ちたい は保持 ほじ し続 つづ け、さらに大西洋 たいせいよう に面 めん したガンビア川 がわ 流域 りゅういき なども依然 いぜん として保持 ほじ していた[ 22] 。1468年 ねん にはソンガイ王国 おうこく のスンニ・アリ がトゥアレグを討 う ってトンブクトゥを占領 せんりょう し、ニジェール川内 かわうち 陸 りく デルタを制圧 せいあつ して西 にし アフリカに覇 は を唱 とな えるようになってマリとソンガイの力 ちから 関係 かんけい は逆転 ぎゃくてん した。その後 ご もマリの国力 こくりょく は緩 ゆる やかに衰退 すいたい を続 つづ けた。16世紀 せいき 末 まつ にはガンビア川 がわ 流域 りゅういき も失 うしな い、マリは内陸 ないりく 国家 こっか となっていた[ 23] 。
1625年 ねん ごろのマリ領土 りょうど
1591年 ねん にモロッコ のサアド朝 あさ の侵攻 しんこう によってソンガイ帝国 ていこく が滅亡 めつぼう すると、その混乱 こんらん に乗 じょう じてマリのマフムード4世 せい は1599年 ねん にジェンネへと出兵 しゅっぺい するもののモロッコに敗 やぶ れ、これが衰退 すいたい し続 つづ けるマリへの最後 さいご の一 いち 撃 げき となった[ 24] 。その後 ご マリは地方 ちほう 小 しょう 国家 こっか として細々 こまごま と存続 そんぞく し、18世紀 せいき に滅亡 めつぼう した[ 25] 。
1375年 ねん にマヨルカ島 とう で製作 せいさく された『カタルーニャ地図 ちず (カタルーニャ語 ご 版 ばん ) 』には、ベルベル人 じん がラクダ に乗 の って、サハラ を越 こ えたところにあるマリの黒人 こくじん 王 おう のところへ交易 こうえき に向 む かう様子 ようす が描 えが かれている。
西 にし アフリカ内陸 ないりく 部 ぶ に広域 こういき 帝国 ていこく が成立 せいりつ したのはそもそもサハラ交易 こうえき の利益 りえき によるものであり、最初 さいしょ の広域 こういき 帝国 ていこく であるガーナ王国 おうこく の覇権 はけん を引 ひ き継 つ いだマリも同 おな じくサハラ交易 こうえき を主 おも な経済 けいざい 基盤 きばん とする国家 こっか であったが、その交易 こうえき の様相 ようそう はガーナ時代 じだい とは幾分 いくぶん 異 こと なったものとなっていた。
マリはサハラ砂漠 さはらさばく の中央 ちゅうおう 部 ぶ にあるテガーザ岩塩 がんえん 鉱山 こうざん にまで交易 こうえき 圏 けん を広 ひろ げたため、それまで塩 しお の交易 こうえき を握 にぎ っていたベルベル人 じん からその主導 しゅどう 権 けん を奪 うば い[ 26] 、塩 しお 金 きん 交易 こうえき は北 きた アフリカのベルベル人 じん とサヘル地帯 ちたい との間 あいだ のものではなく、サヘル 地帯 ちたい を制 せい したマリとその南 みなみ にある産金 さんきん 地帯 ちたい との間 あいだ で行 おこな われるようになった。またマリの領土 りょうど 内 ない においても金 かね は産出 さんしゅつ されており、これらの多量 たりょう の金 かね はマリ帝国 ていこく の主力 しゅりょく 商品 しょうひん として北 きた アフリカへと輸出 ゆしゅつ され、マンサ・ムーサ王 おう の逸話 いつわ に代表 だいひょう されるようなマリの繁栄 はんえい を支 ささ えた。
またマリ帝国 ていこく 治下 ちか においては、同 おな じくサハラの北 きた からもたらされる主要 しゅよう 商品 しょうひん であった銅鉱 どうこう 石 せき の輸入 ゆにゅう が停止 ていし し、逆 ぎゃく に銅 どう を北 きた アフリカへと輸出 ゆしゅつ するようになった[ 27] 。これはマリ領 りょう 内 うち またはその交易 こうえき 圏 けん において銅 どう 鉱山 こうざん が開発 かいはつ され、さらにマリ国内 こくない において精錬 せいれん まで行 おこな われるようになったことを示 しめ している。この時期 じき 、ガオの東 ひがし に位置 いち するタケッダ は銅 どう 生産 せいさん の中心 ちゅうしん 地 ち となっていた[ 28] 。またこの時期 じき 、ガーナ時代 じだい にはほぼ存在 そんざい しなかった綿 めん がマリ国内 こくない に普及 ふきゅう し、織物 おりもの の生産 せいさん が盛 さか んとなった[ 29] 。こうしてマリは銅 どう や綿 めん を自給 じきゅう できるようになったものの、それを加工 かこう した銅 どう 製品 せいひん や衣服 いふく ・織物 おりもの については輸入 ゆにゅう が続 つづ いており、むしろこの時期 じき には北 きた アフリカからの主力 しゅりょく の輸出 ゆしゅつ 品 ひん となっていた。このほか、馬 うま やタカラガイ なども北 きた アフリカから主 おも に輸入 ゆにゅう されていた[ 30] 。
一方 いっぽう 、マリは南方 なんぽう の森林地帯 しんりんちたい とも活発 かっぱつ に交易 こうえき を行 おこな っていた。マリからの輸出 ゆしゅつ 品 ひん は塩 しお や銅 どう 、綿布 めんぷ が中心 ちゅうしん であり、南方 なんぽう からは金 かね のほか、コーラの実 み が主 おも に輸入 ゆにゅう された[ 31] 。
また、サハラ交易 こうえき のメインルートも以前 いぜん に比 くら べて変化 へんか していた。ガーナ王国 おうこく 期 き にはモロッコからアウダゴストを通 とお ってサヘルへと向 む かうサハラ西側 にしがわ ルートが主流 しゅりゅう であったのに対 たい し、マリ帝国 ていこく 期 き にはトンブクトゥから中央 ちゅうおう サハラを通 とお って北 きた アフリカへと向 む かうルートが主流 しゅりゅう となり、これがジェンネやトンブクトゥなどニジェール川中 かわなか 流域 りゅういき の交易 こうえき 都市 とし の繁栄 はんえい を生 う んだ[ 32] 。
上記 じょうき のような盛 さか んな交易 こうえき がおこなわれた一方 いっぽう で、国民 こくみん の多 おお くは農業 のうぎょう に従事 じゅうじ していた。国内 こくない では主 おも にソルガム やトウジンビエ 、フォニオ といった雑穀 ざっこく や稲 いね が主 おも に栽培 さいばい され、食料 しょくりょう は豊富 ほうふ に供給 きょうきゅう されていた。ニジェール川 がわ ではボゾ人 じん やソモノ人 じん などの漁業 ぎょぎょう 民族 みんぞく が内陸 ないりく デルタを中心 ちゅうしん に、盛 さか んに漁業 ぎょぎょう を行 おこな っていた[ 33] 。
こうして経済 けいざい が成長 せいちょう する一方 いっぽう で、貨幣 かへい の鋳造 ちゅうぞう は行 おこな われなかった。金 かね が大量 たいりょう に輸出 ゆしゅつ されたのも、マリ国内 こくない においては装飾 そうしょく 品 ひん 以外 いがい の用途 ようと がなく、本来 ほんらい 国内 こくない で貨幣 かへい として流通 りゅうつう する分 ぶん の金 きん も輸出 ゆしゅつ 用 よう に回 まわ されていたためでもある。通貨 つうか としては布地 ぬのじ 、タカラガイ 、塩 しお などが用 もち いられた[ 34] 。
こうした交易 こうえき の活況 かっきょう によって、マリ帝国 ていこく 内 ない に存在 そんざい するジェンネ ・トンブクトゥ ・ガオ といった都市 とし もまた繁栄 はんえい した。トンブクトゥとガオではサハラ砂漠 さはらさばく を越 こ えてきたキャラバン が商品 しょうひん を積 つ み下 お ろして川船 かわぶね へと乗 の せ換 か え、ニジェール内陸 ないりく デルタ の中央 ちゅうおう 部 ぶ に位置 いち するジェンネまで運 はこ ばれた。ジェンネには南 みなみ の森林地帯 しんりんちたい から積 つ み出 だ された金 かね などもやはり船 ふね に乗 の せられて運 はこ ばれてきており、交易 こうえき 拠点 きょてん として繁栄 はんえい した[ 35] 。トンブクトゥはこの時期 じき からソンガイ王国 おうこく 期 き にかけて最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。メッカ巡礼 じゅんれい 帰路 きろ のマンサ・ムーサによって1324年 ねん にジンガリベリ・モスクが建設 けんせつ され[ 36] 、同 どう 時期 じき にサンコーレ・モスクが建設 けんせつ されることで、トンブクトゥは学問 がくもん の都 と としても名声 めいせい を高 たか めていった[ 37] 。ガオは交易 こうえき の要衝 ようしょう として7世紀 せいき ごろから独立 どくりつ 王国 おうこく が存在 そんざい していたが、13世紀 せいき ごろにマリに服属 ふくぞく した[ 38] 。しかし国内 こくない の混乱 こんらん から一 いち 時期 じき サハラ交易 こうえき を断念 だんねん していたエジプトが14世紀 せいき 半 なか ばからサハラ交易 こうえき を復活 ふっかつ させると、交易 こうえき ルートの東漸 とうぜん が起 お こり[ 39] 、ニジェール川 がわ 交易 こうえき の東 ひがし 端 はし にあたるガオが繁栄 はんえい して、14世紀 せいき 末 まつ には再 さい 独立 どくりつ を果 は たし、やがてマリに代 か わり西 にし アフリカ内陸 ないりく 部 ぶ の覇権 はけん を握 にぎ るようになった。
帝国 ていこく というが、中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい の国家 こっか ではなく、マリを中心 ちゅうしん とする緩 ゆる やかな連合 れんごう 国家 こっか だった可能 かのう 性 せい もある[ 1] [ 3] 。
ジェンネ の泥 どろ のモスク 。登録 とうろく 世界 せかい 遺産 いさん 。ただし写真 しゃしん の建築 けんちく はフランスの植民 しょくみん 地 ち 統治 とうち が良好 りょうこう であることをアピールするため1907年 ねん に建 た てられたものである[ 40] 。
マリはイスラーム教 きょう を受容 じゅよう したが、祖先 そせん 信仰 しんこう などの土着 どちゃく 信仰 しんこう も残 のこ っていた[ 1] 。イスラームの受容 じゅよう がいつごろから、どのように広 ひろ まっていったのかについては議論 ぎろん がある。D.T.ニアヌはスンジャタ・ケイタがムスリムであったと考 かんが えているが、異論 いろん もある。赤阪 あかさか 賢 けん は「14世紀 せいき にはイスラーム国家 こっか の外見 がいけん を整 ととの えた」という表現 ひょうげん をしている。1325年 ねん のマンサ・ムーサの巡礼 じゅんれい の際 さい 、エジプトでマンサ・ムーサに拝謁 はいえつ した現地 げんち のウラマーは、ムーサがマーリク派 は の儀礼 ぎれい をよく知 し っていたと証言 しょうげん している。ムーサをはじめとした最盛 さいせい 期 き のマリのマンサは、帝国 ていこく 内 ない の安寧 あんねい と社会 しゃかい の秩序 ちつじょ を保 たも ち、マドラサ を各所 かくしょ に建 た てた[ 41] 。マリのマドラサには、マグリブ やアンダルス からイスラーム学徒 がくと が多 おお く集 あつ まり「知 ち 」のセンターになった[ 41] 。また、マリのマドラサからもウラマー が多 おお く育 そだ った[ 41] 。
イスラームがこの地 ち で受容 じゅよう されていくに従 したが い、マリからメッカ への巡礼 じゅんれい 者 しゃ も増加 ぞうか していった。マンサ・ムーサのメッカ巡礼 じゅんれい は非常 ひじょう に著名 ちょめい であるが、彼 かれ 以前 いぜん の王 おう も、また彼 かれ 以後 いご の王 おう も、メッカへの巡礼 じゅんれい は行 おこな っていた。この王 おう による巡礼 じゅんれい は、サハラ越 こ え交易 こうえき ルートの開発 かいはつ という目的 もくてき も持 も っていた[ 32] 。
^ 中世 ちゅうせい スーダーン史 し の専門 せんもん 家 か 、ソルボンヌ大学 そるぼんぬだいがく 教授 きょうじゅ
^ a b イブン・バットゥータ の『リフラ 』よりビラード・スーダーンへの旅 たび を記載 きさい した章 あきら 。例 たと えば、以下 いか のような翻訳 ほんやく がある。
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^ voir les articles de Meillassoux, Delafosse, et Hunwick signalés dans l'historiographie
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^ C'est-à-dire toutes les études parues après cette première hypothèse, voire les références dans la bibliographie
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^ On peut citer notamment Conrad et Green, voir les références pour leurs articles dans la bibliographie
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