称号 しょうごう :大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ 及 およ び革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ الشقيق القائد ومرشد الثورة 敬称 けいしょう
閣下 かっか
ムアンマル・アル=カッザーフィー (アラビア語 ご : معمر أبو منيار القذافي , muʿammar ʾabū minyār al-qaḏḏāfī , 1942年 ねん 6月7日 にち [1] - 2011年 ねん 10月 がつ 20日 はつか )は、リビア の軍人 ぐんじん ・革命 かくめい 家 か ・政治 せいじ 家 か で、大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく (社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん リビア・アラブ国 こく )の元首 げんしゅ 。
1969年 ねん のリビア革命 かくめい (英語 えいご 版 ばん ) によって政権 せいけん を獲得 かくとく 後 ご 、2011年 ねん に至 いた るまで長期 ちょうき にわたり独裁 どくさい 政権 せいけん を維持 いじ したが、2011年 ねん リビア内戦 ないせん によって政権 せいけん は崩壊 ほうかい 、自身 じしん も反 はん カッザーフィー派 は 部隊 ぶたい によって殺害 さつがい された[2] 。
日本 にっぽん では一般 いっぱん にカダフィ大佐 たいさ という呼称 こしょう で知 し られている。1993年 ねん から2009年 ねん まで1リビア・ディナール 紙幣 しへい や50ディナール紙幣 しへい に肖像 しょうぞう が使用 しよう されていた。
名称 めいしょう 表記 ひょうき [ 編集 へんしゅう ]
称号 しょうごう は「大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ 及 およ び革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ 」(زعيم وقائد الثورة في ليبيا , zaʿīm wa-qāʾid al-ṯawrah fī lībiyā , ザイーム・ワ=カーイド・ッ=サウラ・フィー・リービヤー)、「敬愛 けいあい なる指導 しどう 者 しゃ 」(الأخ القائد , al-aḫ al-qāʾid , アル=アフ・ル=カーイド)[3] 。
カッザーフィーの名称 めいしょう は世界 せかい 各国 かっこく で実 じつ に多様 たよう な綴 つづ りで表 あらわ される[4] 。アラビア語 ご リビア方言 ほうげん での一般 いっぱん 的 てき な発音 はつおん に従 したが うならばガッダーフィ (Gaddafi )であり、アルジャジーラ 等 ひとし ではこの表記 ひょうき を採用 さいよう している。カッザーフィー自身 じしん は、1986年 ねん にアメリカの学校 がっこう に宛 あ てた書簡 しょかん では El-Gadhafi と署名 しょめい している。しかし彼 かれ の公式 こうしき ウェブサイトの各 かく 言語 げんご 版 ばん では El Gathafi , Al Gathafi など複数 ふくすう の表記 ひょうき が見 み られる[5] 。国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい では「カダフィ、ムアンマル・ムハンマド・アブミンヤール (Qadhafi, Muammar Mohammed Abu Minyar )」名 めい で本人 ほんにん 特定 とくてい をしている[6] 。
日本 にっぽん では「カダフィ大佐 たいさ 」という呼 よ び名 な が一般 いっぱん 的 てき である。特 とく に新聞 しんぶん などのメディア報道 ほうどう では「カダフィ大佐 たいさ 」という呼称 こしょう がされている。明仁 あきひと 天皇 てんのう とカッザーフィーが慶事 けいじ 等 とう で祝電 しゅくでん 、答電 とうでん を送 おく り合 あ う場合 ばあい 、日本語 にほんご では「リビア国 こく 革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ カダフィ閣下 かっか 」と表記 ひょうき され、彼 かれ 自身 じしん の公式 こうしき ウェブサイト(#外部 がいぶ リンク 参照 さんしょう )日本語 にほんご 版 ばん でも敬称 けいしょう は「閣下 かっか 」である。
日本 にっぽん の新聞 しんぶん 報道 ほうどう では、1969年 ねん から1977年 ねん までは「カダフィ革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう 」、1977年 ねん から1979年 ねん までは「カダフィ全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ 書記 しょき 長 ちょう 」、1979年 ねん に一切 いっさい の公職 こうしょく を退 しりぞ いてからは「カダフィ元首 げんしゅ 」「カダフィ国家 こっか 元首 げんしゅ 」「リビアの国家 こっか 元首 げんしゅ カダフィ前 ぜん 書記 しょき 長 ちょう 」などと表記 ひょうき されていた。しかしリビアは公式 こうしき には「直接 ちょくせつ 民主 みんしゅ 制 せい 」(ジャマーヒリーヤ )を標榜 ひょうぼう しているために政府 せいふ や国家 こっか 元首 げんしゅ は存在 そんざい しないことになっている。このためか、1985年 ねん あたりからは「リビアの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ カダフィ大佐 たいさ 」と表記 ひょうき されるようになった。
読売新聞 よみうりしんぶん は、2011年 ねん リビア騒乱 そうらん 以降 いこう 、彼 かれ 本人 ほんにん が「もう軍人 ぐんじん でも大佐 たいさ でもない」と言 い っているとしてそれまで使用 しよう してきた「リビアの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ カダフィ大佐 たいさ 」の表記 ひょうき をやめ「リビアの最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ カダフィ氏 し 」と表記 ひょうき している(2011年 ねん 2月 がつ 19日 にち 東京 とうきょう 本社 ほんしゃ 版 ばん 朝刊 ちょうかん 国際 こくさい 面 めん より)。
「大佐 たいさ 」の語義 ごぎ の諸説 しょせつ [ 編集 へんしゅう ]
カッザーフィーが「大佐 たいさ 」(العقيد , al-ʿaqīd , アル=アキード。英訳 えいやく : colonel )と呼 よ ばれている理由 りゆう については諸説 しょせつ がある。いずれの説 せつ でも、カッザーフィーが敬愛 けいあい するエジプト のガマール・アブドゥル=ナーセル 大統領 だいとうりょう が「陸軍 りくぐん 大佐 たいさ 」であったからそれに倣 なら った、という点 てん は一致 いっち している。
なお、リビアの事実 じじつ 上 じょう の国家 こっか 元首 げんしゅ が軍 ぐん の中堅 ちゅうけん 幹部 かんぶ 階級 かいきゅう である「大佐 たいさ 」であることに違和感 いわかん を覚 おぼ える向 む きも多 おお い[7] が、リビアは建前 たてまえ 上 じょう は「国家 こっか 元首 げんしゅ 」の概念 がいねん そのものを否定 ひてい しているのであり、リビアの国家 こっか 元首 げんしゅ をあらわす称号 しょうごう が「大佐 たいさ 」だというわけではない。当然 とうぜん ながら、リビア軍 ぐん には大佐 たいさ より上 うえ の階級 かいきゅう (将官 しょうかん )も存在 そんざい し、軍 ぐん の司令 しれい 官 かん であり士官 しかん 学校 がっこう 時代 じだい 以来 いらい のカッザーフィーの友人 ゆうじん であるアブー=バクル・ユーニス・ジャーベル (英語 えいご 版 ばん ) は准 じゅん 将 しょう (عميد , ʿamīd , アミード)である。
「大佐 たいさ 」はニックネームであるという説 せつ
エジプトのナーセルの地位 ちい が大佐 たいさ であったため、自 みずか らもニックネームとして大佐 たいさ を名乗 なの ったのが定着 ていちゃく した。
また2011年 ねん 2月 がつ 23日 にち の中日 ちゅうにち 新聞 しんぶん 及 およ び東京 とうきょう 新聞 しんぶん 国際 こくさい 面 めん の特派 とくは 員 いん 記事 きじ によれば、カッザーフィーは軍籍 ぐんせき を離 はな れて久 ひさ しいが、「リビアでは、元 もと 軍人 ぐんじん に敬意 けいい を払 はら うため、退役 たいえき した時 とき の最終 さいしゅう 階級 かいきゅう で呼 よ ばれる慣習 かんしゅう がある」ため、現在 げんざい もニックネームで大佐 たいさ と呼 よ ばれているに過 す ぎないという。
「大佐 たいさ 」は軍事 ぐんじ 上 じょう の階級 かいきゅう であるという説 せつ
カッザーフィーの軍事 ぐんじ 上 じょう の階級 かいきゅう はもともと中尉 ちゅうい (ملازم أول , mulāzim ʾawwal , ムラーズィム・アウワル)であったが[8] 、1969年 ねん の革命 かくめい によって、エジプトのナーセルに倣 なら って儀礼 ぎれい 的 てき に大佐 たいさ に昇格 しょうかく した。その後 ご も、革命 かくめい の初心 しょしん を忘 わす れないようにということで大佐 たいさ の階級 かいきゅう のまま現在 げんざい にいたっている。在 ざい 東京 とうきょう のリビア人民 じんみん 局 きょく (事実 じじつ 上 じょう の大使館 たいしかん )はこの説明 せつめい を採 と っている[9] 。ただし、カッザーフィー自身 じしん は「私 わたし はもう軍人 ぐんじん ではないので『大佐 たいさ 』と呼 よ ばないで欲 ほ しい」と発言 はつげん しているという[10] 。
1942年 ねん 、カッザーフィーは、リビアの砂漠 さばく 地帯 ちたい に住 す むベドウィン (アラブ 化 か したベルベル人 じん のカッザーファ部族 ぶぞく )の子 こ として、スルト で生 う まれた。ムスリム の学校 がっこう で初等 しょとう 教育 きょういく を受 う ける。第 だい 一 いち 次 じ 中東 ちゅうとう 戦争 せんそう の影響 えいきょう を受 う け、エジプト自由 じゆう 将校 しょうこう 団 だん の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ であるガマール・アブドゥル=ナーセルのエジプト革命 かくめい に魅 み せられ、アラブの統一 とういつ による西洋 せいよう 、特 とく にキリスト教 きりすときょう 圏 けん への対抗 たいこう を志 こころざ す。1956年 ねん のスエズ危機 きき では反 はん イスラエル 運動 うんどう に参加 さんか する。ミスラタ で中等 ちゅうとう 学校 がっこう を卒業 そつぎょう 、歴史 れきし に特 とく に興味 きょうみ を示 しめ した。
1961年 ねん にベンガジ の陸軍 りくぐん 士官 しかん 学校 がっこう に進 すす んだ。在学 ざいがく 中 ちゅう から仲間 なかま たちとサヌーシー朝 あさ 王家 おうけ 打倒 だとう を計画 けいかく し自由 じゆう 将校 しょうこう 団 だん の組織 そしき を始 はじ める。1965年 ねん に卒業 そつぎょう するとイギリス 留学 りゅうがく に派遣 はけん され、一 いち 年 ねん 後 ご に帰国 きこく して通信 つうしん 隊 たい の将校 しょうこう となる。ただしイギリスに留学 りゅうがく 経験 けいけん があるものの英語 えいご は苦手 にがて のようで、1986年 ねん 4月 がつ に米 べい 軍 ぐん がトリポリを空爆 くうばく し米 まい ・リビア関係 かんけい が極度 きょくど に緊迫 きんぱく した時期 じき 、アメリカのある小学校 しょうがっこう の生徒 せいと たちがカッザーフィーに世界 せかい 平和 へいわ を求 もと める手紙 てがみ を書 か いて送 おく ったところ(先制 せんせい 攻撃 こうげき したのはアメリカなのだが)、カッザーフィーは全員 ぜんいん に英語 えいご で返事 へんじ を書 か いたが、文法 ぶんぽう やつづりが間違 まちが いだらけだったという逸話 いつわ がある。2007年 ねん 8月 がつ の朝日新聞 あさひしんぶん 国際 こくさい 面 めん の特集 とくしゅう でも「カダフィ大佐 たいさ は外国 がいこく 要人 ようじん と会談 かいだん する際 さい に最近 さいきん 、英語 えいご も上達 じょうたつ してきたようだ」との特派 とくは 員 いん の記述 きじゅつ がある。
政権 せいけん 掌握 しょうあく [ 編集 へんしゅう ]
クーデター成功 せいこう 後 ご 、アラブ首脳 しゅのう 会議 かいぎ に出席 しゅっせき したカッザーフィー(中央 ちゅうおう 軍服 ぐんぷく 姿 すがた )両隣 りょうどなり にナセル(エジプト)とアタッシ(シリア)の両 りょう 大統領 だいとうりょう 。
1969年 ねん 9月1日 にち 、カッザーフィーは同志 どうし の将校 しょうこう たちと共 とも に首都 しゅと トリポリ でクーデター を起 お こし、政権 せいけん を掌握 しょうあく した。病気 びょうき 療養 りょうよう のためにトルコ に滞在 たいざい 中 ちゅう であった国王 こくおう イドリース1世 せい は廃位 はいい されて王政 おうせい は崩壊 ほうかい 、カッザーフィー率 ひき いる新 しん 政権 せいけん は共和 きょうわ 政 せい を宣言 せんげん して国号 こくごう を「リビア・アラブ共和 きょうわ 国 こく 」とした。同年 どうねん 11月 がつ に公布 こうふ された暫定 ざんてい 憲法 けんぽう により、カッザーフィーを議長 ぎちょう とする革命 かくめい 指導 しどう 評議 ひょうぎ 会 かい (日本 にっぽん のメディアは終始 しゅうし 一貫 いっかん して「革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい 」と呼称 こしょう していた)が共和 きょうわ 国 こく の最高 さいこう 政治 せいじ 機関 きかん となることが宣言 せんげん された(カッザーフィーが革命 かくめい 指導 しどう 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう と公表 こうひょう されたのは翌年 よくねん )。
1969年 ねん リビア革命 かくめい の10周年 しゅうねん を記念 きねん して発行 はっこう されたカッザーフィーの肖像 しょうぞう 入 はい りメダル カッザーフィーは1973年 ねん より「文化 ぶんか 革命 かくめい 」を始 はじ め、イスラーム とアラブ民族 みんぞく 主義 しゅぎ と社会 しゃかい 主義 しゅぎ とを融合 ゆうごう した彼 かれ 独特 どくとく の「ジャマーヒリーヤ 」(直接 ちょくせつ 民主 みんしゅ 制 せい と訳 やく される)という国家 こっか 体制 たいせい の建設 けんせつ を推進 すいしん していった。翌年 よくねん には「政治 せいじ 理論 りろん の研究 けんきゅう に専念 せんねん するため」として革命 かくめい 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう 職権 しょっけん 限 げん をナンバー2のジャルード少佐 しょうさ に委譲 いじょう した(あくまで権限 けんげん 移譲 いじょう であり、退任 たいにん はしなかった)。1976年 ねん には毛沢東 もうたくとう 語録 ごろく に倣 なら い[11] [12] 、自身 じしん の思想 しそう をまとめた『緑 みどり の書 しょ 』という題名 だいめい の本 ほん を出版 しゅっぱん した。緑 みどり とは、イスラームのシンボルカラーで、社会 しゃかい 主義 しゅぎ の赤 あか に対 たい して「イスラム社会 しゃかい 主義 しゅぎ 」を象徴 しょうちょう する。そして1977年 ねん 、カッザーフィーは人民 じんみん 主権 しゅけん 確立 かくりつ 宣言 せんげん を行 おこな い、「ジャマーヒリーヤ」を正式 せいしき に国家 こっか の指導 しどう 理念 りねん として導入 どうにゅう した。これにより、国号 こくごう も「社会 しゃかい 主義 しゅぎ リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国 こく [13] 」(1986年 ねん に「大 だい リビア・アラブ社会 しゃかい 主義 しゅぎ 人民 じんみん ジャマーヒリーヤ国 こく 」と改称 かいしょう )に改 あらた められた。ジャマーヒリーヤ体制 たいせい のもと、国権 こっけん の最高 さいこう 機関 きかん として全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ が設置 せっち され、カッザーフィーが初代 しょだい 全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ 書記 しょき 長 ちょう (国会 こっかい 議長 ぎちょう 職 しょく に相当 そうとう し国家 こっか 元首 げんしゅ としての権能 けんのう も有 ゆう した)に就任 しゅうにん した。その後 ご カッザーフィーは1979年 ねん に全国 ぜんこく 人民 じんみん 会議 かいぎ 書記 しょき 長 ちょう を辞任 じにん して一切 いっさい の公職 こうしょく を退 しりぞ いたが、「革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ 」の称号 しょうごう のもと、実質 じっしつ 上 じょう の元首 げんしゅ としてリビアを指導 しどう した。
汎 ひろし アラブ主義 しゅぎ ・反米 はんべい 主義 しゅぎ 路線 ろせん [ 編集 へんしゅう ]
カッザーフィーは、ナーセルの汎 ひろし アラブ主義 しゅぎ の後継 こうけい 者 しゃ として1972年 ねん にはエジプトのアンワル・アッ=サーダート 、シリア のハーフィズ・アル=アサド と組 く んで汎 ひろし アラブ主義 しゅぎ 三 さん か国 こく によるアラブ共和 きょうわ 国 こく 連邦 れんぽう を構想 こうそう したが、本格 ほんかく 的 てき な統合 とうごう を見 み ないまま5年 ねん 後 ご に解消 かいしょう している。1970年代 ねんだい はカッザーフィーの汎 ひろし アラブ思想 しそう に振 ふ り回 まわ されたエジプトのサーダート大統領 だいとうりょう からは「頭 あたま のてっぺんから足 あし の爪 つめ の先 さき まで狂 くる っている男 おとこ 」と評 ひょう されており、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく にアブデルサラム・ジャルード (英語 えいご 版 ばん ) 首相 しゅしょう を派遣 はけん して核兵器 かくへいき の購入 こうにゅう を申 もう し出 で て中国 ちゅうごく 政府 せいふ を驚愕 きょうがく させたこともあった[14] 。後 のち にリビアがIAEA の査察 ささつ を受 う け入 い れた際 さい に中国 ちゅうごく 製 せい の核 かく 爆 ばく 弾 だん 設計 せっけい 図 ず が報告 ほうこく されるもこれはパキスタン から流入 りゅうにゅう したものとされる[15] 。
2008年 ねん 4月 がつ 、プーチン とカッザーフィー
カッザーフィーはパレスチナ解放 かいほう 機構 きこう (PLO) の有力 ゆうりょく かつ公然 こうぜん の支持 しじ 者 しゃ であった。そのため1979年 ねん にサーダート大統領 だいとうりょう がイスラエル と和平 わへい したエジプトとの関係 かんけい を決定的 けっていてき に悪化 あっか させた。また、資金 しきん 援助 えんじょ などを通 つう じて西 にし アフリカ を中心 ちゅうしん に影響 えいきょう 力 りょく を維持 いじ していたほか、地域 ちいき 機関 きかん であるサヘル・サハラ諸国 しょこく 共同 きょうどう 体 たい (CEN-SAD) を創設 そうせつ し、アフリカ における影響 えいきょう 力 りょく 拡大 かくだい の足場 あしば としていた。
当時 とうじ のカッザーフィーの欧米 おうべい 諸国 しょこく との関係 かんけい は常 つね に対立 たいりつ 的 てき で、アラブ最強 さいきょう 硬派 こうは と目 め されていた。1984年 ねん の駐 ちゅう 英 えい リビア大使館 たいしかん 員 いん による反 はん リビアデモ警備 けいび をしていた英国 えいこく 警官 けいかん 射殺 しゃさつ 事件 じけん (Murder of Yvonne Fletcher ) 、1985年 ねん のローマ空港 くうこう ・ウィーン空港 くうこう 同時 どうじ テロ事件 じけん 、1986年 ねん の西 にし ベルリン ディスコ爆破 ばくは 事件 じけん など、テロ支援 しえん の問題 もんだい から欧米 おうべい との関係 かんけい は悪化 あっか の一途 いっと をたどり、1970年代 ねんだい と1980年代 ねんだい の欧米 おうべい やイスラエル に対 たい する過激 かげき 派 は のテロ を支援 しえん した疑惑 ぎわく がもたれていた。それに対 たい し、アメリカはカッザーフィーの居宅 きょたく を狙 ねら って空爆 くうばく する強硬 きょうこう 手段 しゅだん (リビア爆 ばく 撃 げき )を取 と り、カッザーフィーを暗殺 あんさつ しようとした。カッザーフィーは外出 がいしゅつ しており危 あや うく難 なん を逃 のが れた。1988年 ねん の死者 ししゃ 270人 にん を出 だ したパンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん はリビアの諜報 ちょうほう 機関 きかん 員 いん が仕掛 しか けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑 ようぎ 者 しゃ の引渡 ひきわた しを拒否 きょひ し、国連 こくれん 制裁 せいさい を受 う ける。そのためリビアは当時 とうじ のアメリカ のロナルド・レーガン 政権 せいけん から「テロリスト 」「狂犬 きょうけん 」として名指 なざ しの批判 ひはん を受 う け、以後 いご アメリカとの対立 たいりつ は続 つづ いた。
この経験 けいけん から、以降 いこう は住 す む場所 ばしょ を頻繁 ひんぱん に変 か えていたという。また、この空爆 くうばく の直前 ちょくぜん 、作戦 さくせん に反対 はんたい だったイタリア政府 せいふ (当時 とうじ 政権 せいけん の座 ざ にあったベッティーノ・クラクシ 首相 しゅしょう 、ジュリオ・アンドレオッティ 外相 がいしょう の決断 けつだん による)から極秘 ごくひ に空爆 くうばく を通告 つうこく されていたことが後日 ごじつ 判明 はんめい した[16] 。汎 ひろし アラブ主義 しゅぎ に対 たい する評価 ひょうか はさまざまであるが栗本 くりもと 慎一郎 しんいちろう 等 ひとし 一部 いちぶ 保守 ほしゅ 派 は の中 なか にも死後 しご に「カダフィーの内政 ないせい やテロ支援 しえん での独裁 どくさい 政治 せいじ はともかく石油 せきゆ の関税 かんぜい 自主権 じしゅけん を国際 こくさい 石油 せきゆ 資本 しほん から取 と り戻 もど し国民 こくみん にも一定 いってい の繁栄 はんえい をもたらした。」と評価 ひょうか する声 こえ もある。
冷戦 れいせん 後 ご の路線 ろせん [ 編集 へんしゅう ]
2006年 ねん
アメリカによる経済 けいざい 制裁 せいさい を受 う けて以降 いこう 、カッザーフィーの態度 たいど には変化 へんか が訪 おとず れる。
1988年 ねん 3月3日 にち にカッザーフィーはトリポリにある刑務所 けいむしょ の壁 かべ を自 みずか らブルドーザーを運転 うんてん して破壊 はかい 、囚人 しゅうじん 400人 にん を恩赦 おんしゃ により解放 かいほう するパフォーマンスをおこなった。こうしたポピュリズム 的 てき な派手 はで なパフォーマンスで国民 こくみん から支持 しじ を得 え る一方 いっぽう で、1999年 ねん にはパンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん の容疑 ようぎ 者 しゃ のハーグ国際 こくさい 法廷 ほうてい への引渡 ひきわた しに応 おう じ、2003年 ねん 8月 がつ 、リビアの国家 こっか としての事件 じけん への関与 かんよ は否定 ひてい しつつも、リビア人 じん 公務員 こうむいん が起 お こした事件 じけん の責任 せきにん を負 お うとして総額 そうがく 27億 おく ドルの補償 ほしょう に合意 ごうい した。カッザーフィーは、2001年 ねん 9月11日 にち のアメリカ同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん に際 さい して、アラブ諸国 しょこく の中 なか でアル=カーイダ に対 たい する激 はげ しい非難 ひなん を表明 ひょうめい した指導 しどう 者 しゃ の1人 ひとり であり、世界 せかい 的 てき なテロ批判 ひはん の風潮 ふうちょう に乗 の りリビア国内 こくない のイスラーム過激 かげき 派 は 組織 そしき 「リビア・イスラーム戦闘 せんとう 団 だん 」と戦 たたか った。
さらにはイラク戦争 せんそう の後 のち 、ジョージ・W・ブッシュ 政権 せいけん 率 ひき いるアメリカなど西側 にしがわ 諸国 しょこく によって新 あら たな攻撃 こうげき 対象 たいしょう にされるのを恐 おそ れてか、2003年 ねん 末 すえ には核 かく 放棄 ほうき を宣言 せんげん し査察 ささつ 団 だん の受 う け入 い れを行 おこな った。アメリカなどはこれらの対応 たいおう を評価 ひょうか しそれまで行 い っていた経済 けいざい 制裁 せいさい などを解除 かいじょ し、テロ国家 こっか 指定 してい から外 はず す措置 そち を取 と った。そして2006年 ねん 5月15日 にち にリビアとアメリカの国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か が発表 はっぴょう された。リビア政府 せいふ はパンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん などの遺族 いぞく 補償 ほしょう として、15億 おく ドルを米 べい 政府 せいふ に支払 しはら った。一方 いっぽう の米 べい 側 がわ も、一連 いちれん のテロの報復 ほうふく として米 べい 軍機 ぐんき がリビアを空爆 くうばく した際 さい の民間 みんかん 被害 ひがい に対 たい し、3億 おく ドルの支払 しはら いに応 おう じていた[17] 。2008年 ねん 10月 がつ にはアメリカ人 じん 犠牲 ぎせい 者 しゃ への補償 ほしょう 金 きん の支払 しはら いが完了 かんりょう し、国交 こっこう を完全 かんぜん に正常 せいじょう 化 か 。2009年 ねん 7月 がつ のラクイラサミット では、夕食 ゆうしょく 会 かい の記念 きねん 撮影 さつえい の際 さい にバラク・オバマ 米 べい 大統領 だいとうりょう と握手 あくしゅ を交 かわ し、国交 こっこう 正常 せいじょう 化 か を印象 いんしょう 付 つ けた[18] 。なおオバマ大統領 だいとうりょう についてカッザーフィーはリビア国内 こくない での演説 えんぜつ で「オバマはイスラム教徒 きょうと である」との誤 あやま った認識 にんしき を語 かた ったことがある。
こうした態度 たいど の変化 へんか には、カッザーフィーの政治 せいじ 的 てき 関心 かんしん が、各国 かっこく 間 あいだ の対立 たいりつ が激 はげ しくて進展 しんてん を見 み せない「汎 ひろし アラブ主義 しゅぎ 」から、欧米 おうべい との利害 りがい 対立 たいりつ が比較的 ひかくてき 少 すく ないといわれている「汎 ひろし アフリカ主義 しゅぎ 」に移行 いこう しつつあるのでは、と指摘 してき する意見 いけん がある。事実 じじつ 、2000年 ねん にトーゴ で開 ひら かれたアフリカ統一機構 あふりかとういつきこう (OAU) 首脳 しゅのう 会議 かいぎ に、長年 ながねん 同 どう 機構 きこう とは疎遠 そえん であったカッザーフィーが出席 しゅっせき して地域 ちいき 統合 とうごう の必要 ひつよう 性 せい を唱 とな え、2002年 ねん のアフリカ統一機構 あふりかとういつきこう からアフリカ連合 れんごう への改組 かいそ ではリビアは主導 しゅどう 的 てき な役割 やくわり を果 は たした国 くに の1つだった。
2009年 ねん 9月 がつ にリビア革命 かくめい 40周年 しゅうねん 記念 きねん 式典 しきてん が行 おこな われ、リビア原油 げんゆ の主要 しゅよう 輸出 ゆしゅつ 先 さき であるイタリア のベルルスコーニ 首相 しゅしょう が植民 しょくみん 地 ち 支配 しはい の謝罪 しゃざい ・賠償 ばいしょう 合意 ごうい に訪問 ほうもん し、式典 しきてん にはベネズエラ のチャベス 大統領 だいとうりょう 、スーダン のバシール 大統領 だいとうりょう 、ジンバブエ のムガベ 大統領 だいとうりょう 、カタール のハマド首長 しゅちょう 、フィリピン のアロヨ 大統領 だいとうりょう 、イラク のハーシミー 副 ふく 大統領 だいとうりょう らが姿 すがた を見 み せ、最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ のカッザーフィーと笑顔 えがお で握手 あくしゅ するなどした。リビアの国営 こくえい 通信 つうしん 社 しゃ によると約 やく 50カ国 かこく から首脳 しゅのう や閣僚 かくりょう らが参列 さんれつ したが西側 にしがわ 諸国 しょこく は参加 さんか せず多 おお くはアフリカや中東 ちゅうとう 諸国 しょこく だった[19] [20] 。
2009年 ねん 国連 こくれん 総会 そうかい での演説 えんぜつ [ 編集 へんしゅう ]
態度 たいど を軟化 なんか させたとはいえその特異 とくい な言動 げんどう と舌鋒 ぜっぽう は衰 おとろ えを見 み せず、2009年 ねん 9月23日 にち に初 はじ めて出席 しゅっせき した国連 こくれん 総会 そうかい では、ニューヨーク 郊外 こうがい のニュージャージー州 しゅう に遊牧 ゆうぼく 民族 みんぞく の伝統 でんとう に則 のっと りテントを張 は り、そこを宿 やど にした。
また一般 いっぱん 演説 えんぜつ の席上 せきじょう 、国連 こくれん 安保理 あんぽり を「テロ理事 りじ 会 かい 」と批判 ひはん 。国連 こくれん 安保理 あんぽり 常任 じょうにん 理事 りじ 国 こく にのみ与 あた えられている拒否 きょひ 権 けん を、国連 こくれん 憲章 けんしょう の前文 ぜんぶん で謳 うた われている加盟 かめい 国 こく の平等 びょうどう に反 はん するものと批判 ひはん し、演壇 えんだん から国連 こくれん 憲章 けんしょう を投 な げ捨 す ててみせ大国 たいこく による体制 たいせい を批判 ひはん したほか[21] 、「ターリバーン が作 つく りたかったのは宗教 しゅうきょう 国家 こっか だったのだ。だったらバチカン のように作 つく らせてやればいい。バチカンがわれわれ(ムスリム )にとって危険 きけん な存在 そんざい だろうか」と発言 はつげん 。さらに「オバマがずっと執権 しっけん していればいい。オバマはアフリカの息子 むすこ であり私 わたし の息子 むすこ でもある」、「ケネディ 元 もと 大統領 だいとうりょう が暗殺 あんさつ されたのはイスラエルに査察 ささつ 団 だん を送 おく り込 こ んだため。調査 ちょうさ した方 ほう がいい」「豚 ぶた インフルエンザ(2009年 ねん 新型 しんがた インフルエンザ)はワクチンを売 う るために人工 じんこう 的 てき につくられたもの、ワクチンは無料 むりょう で提供 ていきょう しなければならない」などと発言 はつげん した。カッザーフィーの演説 えんぜつ は規定 きてい の時間 じかん である15分 ふん を上回 うわまわ る、1時 じ 間 あいだ 36分 ぶん の長時間 ちょうじかん にわたった。この演説 えんぜつ に対 たい してオバマ大統領 だいとうりょう 、ヒラリー・クリントン 国務 こくむ 長官 ちょうかん などは、はじめから退席 たいせき 。イラン 大統領 だいとうりょう のマフムード・アフマディーネジャード も途中 とちゅう で退席 たいせき 。矢継 やつ ぎ早 ばや に言葉 ことば が飛 と び出 だ す長時間 ちょうじかん の演説 えんぜつ に、国連 こくれん のアラビア語 ご の同時 どうじ 通訳 つうやく 士 し が疲 つか れきり、途中 とちゅう で交代 こうたい する場面 ばめん も見 み られた。
なお、この際 さい に国連 こくれん 憲章 けんしょう を投 な げ捨 す てた行為 こうい は、2年 ねん 後 ご に同 おな じ国連 こくれん 総会 そうかい の場 ば で、自 みずか らの政権 せいけん を打倒 だとう したリビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい のマフムード・ジブリール 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう (暫定 ざんてい 首相 しゅしょう )によって批判 ひはん されることになる[22] 。
隣国 りんごく チュニジア のジャスミン革命 かくめい の影響 えいきょう を受 う け、2011年 ねん 2月 がつ 、カッザーフィーの退陣 たいじん を求 もと める欧州 おうしゅう の影響 えいきょう を受 う けた大 だい 規模 きぼ な反 はん 政府 せいふ デモが発生 はっせい 。国民 こくみん に対 たい し徹底 てってい 抗戦 こうせん を呼 よ びかけたが欧米 おうべい を中心 ちゅうしん とした軍事 ぐんじ 介入 かいにゅう と、欧州 おうしゅう に援助 えんじょ された旧 きゅう 王 おう 党派 とうは などの反 はん カッザーフィー派 は の蜂起 ほうき を招 まね き、2011年 ねん 8月 がつ 24日 にち までにカッザーフィーは自身 じしん の居住 きょじゅう 区 く から撤退 てったい 。反 はん 政府 せいふ 勢力 せいりょく により首都 しゅと 全土 ぜんど が制圧 せいあつ され、政権 せいけん は事実 じじつ 上 じょう 崩壊 ほうかい した(2011年 ねん リビア内戦 ないせん )。
内戦 ないせん が展開 てんかい するなか、2月 がつ 26日 にち に国連 こくれん 安保理 あんぽり は全会 ぜんかい 一致 いっち で国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい 決議 けつぎ 1970 を採択 さいたく 、6月27日 にち に国連 こくれん 安保理 あんぽり から付託 ふたく を受 う けた国際 こくさい 刑事 けいじ 裁判所 さいばんしょ は人道 じんどう に対 たい する罪 つみ を犯 おか した疑 うたが いでカッザーフィーに逮捕 たいほ 状 じょう を請求 せいきゅう し[23] 、9月9日 にち に主任 しゅにん 検察官 けんさつかん から要請 ようせい を受 う けた国際 こくさい 刑事 けいじ 警察 けいさつ 機構 きこう は身柄 みがら 拘束 こうそく のための国際 こくさい 手配 てはい を行 おこな った[24] [25] 。
8月 がつ に事実 じじつ 上 じょう 政権 せいけん が崩壊 ほうかい した後 のち も抗戦 こうせん を続 つづ けたカッザーフィーだったが、9月21日 にち には評議 ひょうぎ 会 かい 軍 ぐん が南部 なんぶ サブハを制圧 せいあつ 、更 さら に10月 がつ 17日 にち にバニワリドを制圧 せいあつ し、2011年 ねん 10月 がつ 20日 はつか 、リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい は旧 きゅう 政権 せいけん 派 は の最後 さいご の拠点 きょてん であったスルト 周辺 しゅうへん でカッザーフィーが死亡 しぼう したと発表 はっぴょう した[2] 。死亡 しぼう の経緯 けいい については陥落 かんらく したスルトから複数 ふくすう の護衛 ごえい 車両 しゃりょう と共 とも に脱出 だっしゅつ を試 こころ みた所 ところ をNATO 軍 ぐん (フランス空軍 くうぐん の戦闘 せんとう 機 き ミラージュ2000 とアメリカ空軍 くうぐん の無人 むじん 攻撃 こうげき 機 き RQ-1 プレデター [26] [27] )による航空 こうくう 攻撃 こうげき を受 う け[28] 、破壊 はかい された車両 しゃりょう から「近郊 きんこう の下水 げすい 排水 はいすい 口 こう に逃 に げ込 こ んだ所 ところ を反 はん カダフィ派 は 部隊 ぶたい に拘束 こうそく 」され、「その場 ば で死亡 しぼう した」という点 てん では国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい 、NATOを初 はじ めとする関係 かんけい 勢力 せいりょく 、各国 かっこく 報道 ほうどう 機関 きかん などで概 おおむ ね一致 いっち している。しかしこの様 よう な結果 けっか になった経緯 けいい については大 おお きく異 こと なる見解 けんかい が出 だ されている。
リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい は「カッザーフィーをベンガジなどの主要 しゅよう 都市 とし に移送 いそう する予定 よてい であった」が、「途中 とちゅう で旧 きゅう 政府 せいふ 軍 ぐん との戦闘 せんとう が発生 はっせい し、その銃撃 じゅうげき 戦 せん に巻 ま き込 こ まれて死亡 しぼう した」と公式 こうしき 見解 けんかい を発表 はっぴょう した[29] [30] 。だが複数 ふくすう の消息筋 しょうそくすじ は旧 きゅう 政府 せいふ 軍 ぐん との戦闘 せんとう はなく、カッザーフィーに対 たい する私刑 しけい として民兵 みんぺい が射殺 しゃさつ したと報道 ほうどう された[31] [32] 。また殺害 さつがい 直後 ちょくご の現場 げんば を撮影 さつえい した映像 えいぞう が流出 りゅうしゅつ し、そこではカッザーフィーの血塗 ちまみ れの死体 したい を取 と り囲 かこ んで歓声 かんせい を上 あ げる民兵 みんぺい の集団 しゅうだん が映 うつ されている。また更 さら に死体 したい を半裸 はんら にして地面 じめん に投 な げ出 だ す、殴 なぐ る蹴 け るなどの暴行 ぼうこう を加 くわ えるなどの非 ひ 倫理 りんり 的 てき 行為 こうい が行 おこな われている。アルジャジーラ などの報道 ほうどう 機関 きかん がこの事実 じじつ を報道 ほうどう するとカッザーフィーの死亡 しぼう 経緯 けいい についての国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい の見解 けんかい に大 おお きな疑問 ぎもん が投 な げかけられた[31] [32] 。
国際 こくさい 法 ほう において戦時 せんじ 捕虜 ほりょ の処刑 しょけい は不法 ふほう 行為 こうい であり、本来 ほんらい であればカッザーフィーに対 たい する処分 しょぶん は公 おおやけ の裁判 さいばん を経 へ て決 き める必要 ひつよう があり、またカッザーフィーにはその権利 けんり が基本 きほん 的 てき 人権 じんけん として認 みと められていた。もし意図 いと 的 てき に捕虜 ほりょ にしたカッザーフィーを処刑 しょけい したのであれば国際 こくさい 法 ほう 違反 いはん となり[33] 、国際 こくさい 社会 しゃかい からの批判 ひはん は避 さ けられない。国連 こくれん はリビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい に「カッザーフィー死亡 しぼう の経緯 けいい について追加 ついか 調査 ちょうさ と説明 せつめい を行 おこな う義務 ぎむ がある」と勧告 かんこく した[34] 。アムネスティ・インターナショナル は「新 しん 政権 せいけん は(旧 きゅう 政権 せいけん のような)虐待 ぎゃくたい の文化 ぶんか と決別 けつべつ しなければならない」として、復讐 ふくしゅう を名目 めいもく とした戦争 せんそう 犯罪 はんざい はカッザーフィー政権 せいけん への反乱 はんらん の正当 せいとう 性 せい を失 うしな わせると指摘 してき した[35] 。NATO軍 ぐん は自軍 じぐん の攻撃 こうげき がカッザーフィーの拘束 こうそく ・殺害 さつがい 双方 そうほう において決定 けってい 打 だ となったのではないかとの報道 ほうどう について、「(カッザーフィーが)乗 の っているのは知 し らなかった。個人 こじん は標的 ひょうてき にしていない」と戦争 せんそう 犯罪 はんざい に加担 かたん した可能 かのう 性 せい について釈明 しゃくめい に追 お われた[28] 。
21日 にち 、インターネットに殺害 さつがい 時 じ の映像 えいぞう を掲載 けいさい した反 はん カッザーフィー派兵 はへい 士 し は「自分 じぶん が殺害 さつがい した」とした上 うえ で、殺害 さつがい の理由 りゆう については「ベンガジかミスラタ のいずれに連行 れんこう するかで議論 ぎろん になり、自軍 じぐん の拠点 きょてん に連行 れんこう できる見通 みとお しが無 な くなった為 ため にその場 ば で処刑 しょけい した」と述 の べたと報道 ほうどう されている。この説 せつ の場合 ばあい 、民兵 みんぺい 間 あいだ の口論 こうろん に巻 ま き込 こ まれる形 かたち で処刑 しょけい された事 こと になる[36] 。またこの兵士 へいし はカッザーフィーが捕 と らえられたのは下水 げすい 排水 はいすい 口 こう ではなく路上 ろじょう であり、NATO軍 ぐん の車列 しゃれつ 攻撃 こうげき は無関係 むかんけい であると主張 しゅちょう している[36] 。他 た に同 おな じくカッザーフィー殺害 さつがい を主張 しゅちょう する少年 しょうねん 兵士 へいし が存在 そんざい しており、カッザーフィーが所持 しょじ していた金色 きんいろ の拳銃 けんじゅう を奪 うば って射殺 しゃさつ したという[37] 。
22日 にち 、カッザーフィーの遺体 いたい はリビア西部 せいぶ のミスラタ に運 はこ ばれ、埋葬 まいそう 方法 ほうほう や時期 じき についての議論 ぎろん がまとまるまでに遺体 いたい の腐敗 ふはい を防 ふせ ぐため、ミスラタにあるショッピングセンターの大型 おおがた 冷蔵 れいぞう 室 しつ に遺体 いたい を保管 ほかん する事 こと が決定 けってい した[38] 。同日 どうじつ 中 ちゅう に生存 せいぞん 説 せつ などを払拭 ふっしょく するために遺体 いたい の一般 いっぱん 公開 こうかい が行 おこな われ、カッザーフィーの遺体 いたい を一目 いちもく 見 み ようと数 すう 百 ひゃく 人 にん が行列 ぎょうれつ を作 つく ったという[39] 。
遺族 いぞく 関係 かんけい 者 しゃ などはカッザーフィーの故郷 こきょう で死亡 しぼう 地点 ちてん でもあるスルトへの埋葬 まいそう を求 もと めていたが、国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい は最終 さいしゅう 的 てき にこれを拒否 きょひ し、10月25日 にち の未明 みめい に砂漠 さばく の中 なか の秘密 ひみつ の場所 ばしょ にカッザーフィーの遺体 いたい を埋葬 まいそう したと発表 はっぴょう した。遺体 いたい を埋葬 まいそう した場所 ばしょ がカッザーフィーの支持 しじ 者 しゃ によって「聖地 せいち 」にされることを防 ふせ ぐため、国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい は遺体 いたい の埋葬 まいそう 場所 ばしょ を公表 こうひょう しないとしている[40] 。カッザーフィーの死 し の報 ほう を聞 き いたリビア国民 こくみん が歓喜 かんき している写真 しゃしん や映像 えいぞう が全 ぜん 世界 せかい に配信 はいしん され、改 あらた めて独裁 どくさい 政治 せいじ の抑圧 よくあつ の凄 すさ まじさを死 し してなお見 み せ付 つ ける結末 けつまつ となった。
さらに、1984年 ねん に当時 とうじ 30歳 さい の男性 だんせい が、反 はん 体制 たいせい テロリストの嫌疑 けんぎ を掛 か けられてベンガジ のバスケットボール場 じょう で多数 たすう の児童 じどう たちを立 た ち会 あ わせた見世物 みせもの 裁判 さいばん にかけられ、コート内 ない で絞首刑 こうしゅけい に処 しょ せられるまでの一部始終 いちぶしじゅう を撮影 さつえい したベータマックス テープがヒューマン・ライツ・ウォッチ の関係 かんけい 者 しゃ により発掘 はっくつ された(提供 ていきょう したのは処刑 しょけい された男性 だんせい の兄弟 きょうだい だった)。この映像 えいぞう はデジタル化 か した上 うえ で公開 こうかい された。(詳細 しょうさい は英語 えいご 版 ばん を参照 さんしょう )。この処刑 しょけい はカッザーフィー政権 せいけん 初 はつ の公開 こうかい 処刑 しょけい とされ、映像 えいぞう はリビア国営 こくえい テレビでリビア全土 ぜんど に中継 ちゅうけい されていた。
アラブおよびその周辺 しゅうへん [ 編集 へんしゅう ]
エジプト
エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル 大統領 だいとうりょう に心酔 しんすい しており、クーデター で政権 せいけん を握 にぎ った翌年 よくねん に初 はじ めてエジプトを訪問 ほうもん 、ナーセルと会談 かいだん している。が、直後 ちょくご にナーセルは急死 きゅうし 、その後 ご 、エジプトとリビアは20年 ねん にわたって友好 ゆうこう 、敵対 てきたい の関係 かんけい を繰 く り返 かえ すことになった。
当時 とうじ 、汎 ひろし アラブ主義 しゅぎ を唱 とな えていたカッザーフィーは、1973年 ねん エジプトを訪問 ほうもん しサーダート 大統領 だいとうりょう に対 たい し、エジプトとリビアの合併 がっぺい を執拗 しつよう に迫 せま り、「サーダートが合併 がっぺい に合意 ごうい するまで帰国 きこく しない」と主張 しゅちょう しエジプト側 がわ を大 おお いに困 こま らせたことがある。1977年 ねん にエジプトとイスラエルが和解 わかい するやカッザーフィーはPLO 、イラク 、シリアとともに反 はん エジプトの急先鋒 きゅうせんぽう に立 た ち、国交 こっこう を断絶 だんぜつ し、エジプトをアラブ連盟 れんめい から追放 ついほう した。そしてエジプトと同 おな じだった国旗 こっき を一夜 いちや にして緑 みどり 一色 いっしょく に変更 へんこう した。その後 ご もカッザーフィーはサーダート政権 せいけん の打倒 だとう を繰 く り返 かえ し呼 よ びかけ、1981年 ねん 、実際 じっさい にサーダートが暗殺 あんさつ されるとトリポリ放送 ほうそう を通 つう じ「いかなる暴君 ぼうくん にも必 かなら ず終 おわ りがある。自由 じゆう の戦士 せんし たちよ、おめでとう」と祝福 しゅくふく の声明 せいめい を出 だ した。後継 こうけい のホスニー・ムバーラク 政権 せいけん に対 たい しても敵意 てきい をむき出 だ しにし、1985年 ねん にはスーダン でクーデターが起 お きた際 さい に「エジプト国民 こくみん もムバーラク政権 せいけん も打倒 だとう せよ」と呼 よ びかけ猛 もう 反発 はんぱつ を買 か った。1989年 ねん 5月に開催 かいさい されたアラブ首脳 しゅのう 会議 かいぎ ではエジプトの20年 ねん ぶりの連盟 れんめい 復帰 ふっき が議題 ぎだい にされることになっていた。これにカッザーフィーは強 つよ く抗議 こうぎ し国営 こくえい ジャマヒリア通信 つうしん を通 つう じ「エジプトが復帰 ふっき するなら絶対 ぜったい に会議 かいぎ に参加 さんか しない。いかなる理由 りゆう があろうと絶対 ぜったい に認 みと めない」と強硬 きょうこう 姿勢 しせい を示 しめ していた。が、突然 とつぜん 方針 ほうしん を変更 へんこう 、会議 かいぎ に参加 さんか しエジプトの復帰 ふっき が決 き まるとムバーラクに急 きゅう 接近 せっきん し、翌年 よくねん には17年 ねん ぶりにエジプトを訪問 ほうもん し国交 こっこう を回復 かいふく 、後年 こうねん まで友好 ゆうこう 関係 かんけい は続 つづ いていた。1998年 ねん にカッザーフィーが骨折 こっせつ して入院 にゅういん した際 さい にはムバーラクが病院 びょういん へ見舞 みま った。
他 た の中東 ちゅうとう ・北 きた アフリカ諸国 しょこく
1974年 ねん 、イラン皇帝 こうてい モハンマド・レザー・パフラヴィー の支配 しはい 体制 たいせい 打倒 だとう を呼 よ びかけ、皇帝 こうてい と激 はげ しい対立 たいりつ 関係 かんけい に陥 おちい った。1979年 ねん 、イラン革命 かくめい が起 お きると関係 かんけい を修復 しゅうふく し、翌年 よくねん 勃発 ぼっぱつ したイラン・イラク戦争 せんそう ではアラブ諸国 しょこく の中 なか でも珍 めずら しくシリアとともにイランを支持 しじ ・支援 しえん した。
その後 ご モロッコ のハッサン国王 こくおう (1984年 ねん にカッザーフィーが14年 ねん ぶりにモロッコを訪問 ほうもん して和解 わかい )やチュニジア のハビーブ・ブルギーバ に対 たい しても敵対 てきたい 発言 はつげん をしたかと思 おも えば和解 わかい を繰 く り返 かえ すなどしている。サウジアラビア 国王 こくおう のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ ともアラブ首脳 しゅのう 会議 かいぎ で罵 ののし りあって退席 たいせき したりと対立 たいりつ が続 つづ いていたがのちにカタール 国王 こくおう のハマド・ビン・ハリーファ・アール=サーニー の仲介 ちゅうかい で和解 わかい している。
1982年 ねん 、イスラエル軍 ぐん のレバノン侵攻 しんこう でPLO議長 ぎちょう のヤーセル・アラファート の動向 どうこう に世界中 せかいじゅう の注目 ちゅうもく が集 あつ まる中 なか 、「アラファートがいまだ独身 どくしん なのは彼 かれ がホモ だからだ」と突然 とつぜん 発言 はつげん 。この発言 はつげん はアラファートからは相手 あいて にされなかったものの、1992年 ねん 4月 がつ にアラファートの乗 の った飛行機 ひこうき がリビアの砂漠 さばく で不時着 ふじちゃく した際 さい は議長 ぎちょう を救助 きゅうじょ し真 ま っ先 さき に病院 びょういん に見舞 みま った。この当時 とうじ 、リビアはパンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん の容疑 ようぎ 者 しゃ 引 ひ き渡 わた し問題 もんだい で国連 こくれん 制裁 せいさい を受 う ける瀬戸際 せとぎわ にあった。アラファートは「私 わたし はわが友人 ゆうじん 、カッザーフィーの側 がわ に立 た たねばならない」とリビアを擁護 ようご 。カッザーフィーとアラファートの関係 かんけい は決 けっ して悪 わる いものではなかった。
1990年 ねん 、湾岸 わんがん 危機 きき が起 お きた際 さい にはイラクとクウェート の和解 わかい を目指 めざ して提案 ていあん を行 おこな ったが失敗 しっぱい している。
1991年 ねん 10月にパレスチナ問題 もんだい の解決 かいけつ を目指 めざ しマドリード で開 ひら かれた中東 ちゅうとう 和平 わへい 会議 かいぎ の際 さい には「我々 われわれ がヒトラー の尻 しり ぬぐいをする必要 ひつよう はない」とイスラエルとの和平 わへい 交渉 こうしょう を厳 きび しく批判 ひはん した。翌年 よくねん オスロ合意 ごうい にも反発 はんぱつ し1995年 ねん からはリビアから一切 いっさい のパレスチナ人 じん を追放 ついほう した。そしてイスラエルとパレスチナがひとつの国家 こっか 「イスラティナ 」を樹立 じゅりつ すべきだと提案 ていあん したが相手 あいて にされず、その後 ご もアラブ首脳 しゅのう 会議 かいぎ でイスラティナ構想 こうそう を提唱 ていしょう しているがパレスチナのマフムード・アッバース 議長 ぎちょう からは苦笑 にがわら いされるだけで終 お わっている。1995年 ねん 、イスラエル首相 しゅしょう のイツハク・ラビン が暗殺 あんさつ された際 さい には国営 こくえい ジャマヒリア通信 つうしん を通 つう じ「彼 かれ の手 て は虐殺 ぎゃくさつ されたパレスチナ人 じん の血 ち で染 そ まっている」と歓迎 かんげい 声明 せいめい を出 だ した。
1999年 ねん 、ヨルダン 国王 こくおう のフセイン1世 せい が死去 しきょ した際 さい 、ヨルダン王制 おうせい の打倒 だとう を呼 よ びかけた。しかしその後 ご 、後継 こうけい のアブドゥッラー2世 せい とは関係 かんけい は悪 わる くなかったようで、リビア革命 かくめい 40年 ねん 記念 きねん 式典 しきてん にもアブドゥッラーは招待 しょうたい されて出席 しゅっせき している。
2006年 ねん 12月、イラクのサッダーム・フセイン が処刑 しょけい されると「彼 かれ は殉教者 じゅんきょうしゃ になった」としてリビアは3日間 にちかん 喪 も に服 ふく した。1979年 ねん に副 ふく 大統領 だいとうりょう だったサッダームとカッザーフィーはバグダード で会談 かいだん している。ただ、カッザーフィーは1992年 ねん に国連 こくれん 制裁 せいさい を受 う けた際 さい に同 おな じく制裁 せいさい を受 う けていたイラクのサッダーム政権 せいけん に友好 ゆうこう 協力 きょうりょく を呼 よ び掛 か ける書簡 しょかん を送 おく ったことがあるものの、同 おな じアラブの反米 はんべい 指導 しどう 者 しゃ とはいえそれほど親 した しい間柄 あいだがら にあったわけでも無 な かった(イラン・イラク戦争 せんそう でリビアがイランを支持 しじ したこと、イラクのクウェート侵攻 しんこう をリビアが批判 ひはん したことも原因 げんいん )。
2009年 ねん 11月、FIFAワールドカップ アフリカ予選 よせん 試合 しあい でエジプトとアルジェリア が険悪 けんあく な関係 かんけい となる中 なか で、アラブ連盟 れんめい のムーサ事務 じむ 局長 きょくちょう がカッザーフィーに仲介 ちゅうかい を要請 ようせい 、カッザーフィーはこれを受諾 じゅだく した。
旧 きゅう ソ連 それん
1974年 ねん 、ソビエト連邦 れんぽう を初 はじ めて友好 ゆうこう 親善 しんぜん 訪問 ほうもん 。軍事 ぐんじ 的 てき な同盟 どうめい 関係 かんけい にあるにもかかわらずレオニード・ブレジネフ との会談 かいだん でソ連 それん の対外 たいがい 政策 せいさく を厳 きび しく批判 ひはん 、ソ連 それん 指導 しどう 部 ぶ の表情 ひょうじょう を曇 くも らせた。1980年代 ねんだい には反米 はんべい 姿勢 しせい を強 つよ めてワルシャワ条約 じょうやく 機構 きこう に参加 さんか すると表明 ひょうめい してソ連 それん 指導 しどう 部 ぶ を驚 おどろ かせた[41] [42] [43] 。
フランス
1984年 ねん に地中海 ちちゅうかい のクレタ島 とう でフランス大統領 だいとうりょう のフランソワ・ミッテラン と会談 かいだん 。フランス大統領 だいとうりょう との会談 かいだん は1973年 ねん に訪仏 ほうふつ して以来 いらい 11年 ねん ぶりだった。その後 ご 2007年 ねん にニコラ・サルコジ がリビアを訪問 ほうもん するまでフランス大統領 だいとうりょう とは会談 かいだん をする機会 きかい がなかった。同年 どうねん カッザーフィーがフランスを34年 ねん ぶりに訪問 ほうもん した際 さい にはルーヴル美術館 びじゅつかん 訪問 ほうもん のために交通 こうつう をすべてストップし、サルコジとの会談 かいだん ではサルコジが会談 かいだん 後 ご の記者 きしゃ 会見 かいけん で「大佐 たいさ に人権 じんけん 改善 かいぜん を要請 ようせい した」と話 はな したものの、カッザーフィーは「そのような話 はなし はなかった」と発言 はつげん するなど大 おお いに話題 わだい をまいた。
フランスの司法 しほう 当局 とうきょく は、サルコジが2007年 ねん の大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ で勝利 しょうり した際 さい にカッザーフィー側 がわ から5,000万 まん ユーロに及 およ ぶ違法 いほう な資金 しきん 援助 えんじょ を受 う けた疑 うたが いがあるとして、退任 たいにん 後 ご の2018年 ねん に汚職 おしょく などの容疑 ようぎ で訴追 そつい した[44] 。
アメリカ
1976年 ねん 、ニューズウィーク 誌 し が「CIAがアラブ各国 かっこく とともにいかなる手段 しゅだん を使 つか ってでもカッザーフィー議長 ぎちょう を打倒 だとう することで合意 ごうい した」と報道 ほうどう 。この頃 ころ からアメリカは強硬 きょうこう 派 は カッザーフィーを警戒 けいかい していた。
1986年 ねん 4月 がつ にアメリカ軍 ぐん の空爆 くうばく を受 う けた際 さい は「ベトナム戦争 せんそう のビデオを見 み ていた」と当時 とうじ 語 かた っている。なおこの空爆 くうばく では間一髪 かんいっぱつ で爆 ばく 撃 げき を逃 のが れたとされる。のち1989年 ねん になって当時 とうじ のマルタ 政府 せいふ が空爆 くうばく 情報 じょうほう を事前 じぜん にリビア側 がわ に伝 つた えていたとされたが、のちにイタリア政府 せいふ も事前 じぜん に伝 つた えていたことが明 あき らかになった。この空爆 くうばく ではしばらく公 おおやけ の場 ば に姿 すがた をみせず、死亡 しぼう 説 せつ も流 なが れたが、数日 すうじつ 後 ご 、国営 こくえい テレビでアメリカを厳 きび しく非難 ひなん する演説 えんぜつ を行 おこな い健在 けんざい を誇示 こじ した。この演説 えんぜつ はアフリカの地図 ちず をバックに、海軍 かいぐん の軍服 ぐんぷく 姿 すがた で行 おこな った。カッザーフィーは陸軍 りくぐん 軍人 ぐんじん だがこのときなぜ海軍 かいぐん の軍服 ぐんぷく 姿 すがた だったかは不明 ふめい 。翌 よく 1987年 ねん 、シリア大統領 だいとうりょう のハーフィズ・アル=アサドと会談 かいだん した際 さい にアメリカを激 はげ しく非難 ひなん 、再 ふたた び米 まい ・リビア関係 かんけい が緊迫 きんぱく した。2004年 ねん 6月 がつ 、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 第 だい 40代 だい 大統領 だいとうりょう のロナルド・レーガンが死去 しきょ した際 さい には国営 こくえい 通信 つうしん を通 つう じ「レーガンが、86年 ねん に行 い ったリビアの子供 こども らに対 たい する醜悪 しゅうあく な犯罪 はんざい について、裁判 さいばん で釈明 しゃくめい せずに死去 しきょ したことを非常 ひじょう に憂慮 ゆうりょ する」との声明 せいめい を出 だ した。
1992年 ねん 8月 がつ 31日 にち 、クーデターでの政権 せいけん 掌握 しょうあく 23周年 しゅうねん を記念 きねん してテレビ演説 えんぜつ し、「アメリカの民主党 みんしゅとう はユダヤ人 じん の支持 しじ する大 おお きな組織 そしき だ」として共和党 きょうわとう への支持 しじ を表明 ひょうめい 。これまでのリビアの外交 がいこう 政策 せいさく を転換 てんかん して欧米 おうべい 諸国 しょこく との関係 かんけい 改善 かいぜん に意欲 いよく を示 しめ し注目 ちゅうもく された。
スイス
2008年 ねん 12月、カッザーフィーの五 ご 男 なん がスイス で婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう 容疑 ようぎ で一時 いちじ 拘束 こうそく される事件 じけん が発生 はっせい 。のちに息子 むすこ は釈放 しゃくほう されたもののカッザーフィーは激怒 げきど し、スイスへの石油 せきゆ 供給 きょうきゅう を停止 ていし する報復 ほうふく 措置 そち をとったうえ、リビア滞在 たいざい 中 ちゅう のスイス人 じん ビジネスマン 2人 ふたり を拘束 こうそく した。
スイス政府 せいふ はリビアとの交渉 こうしょう の末 すえ 、ハンス=ルドルフ・メルツ 連邦 れんぽう 大統領 だいとうりょう がリビアを訪問 ほうもん してカッザーフィーに事実 じじつ 上 じょう 謝罪 しゃざい した。しかし当初 とうしょ これでビジネスマン2人 にん は解放 かいほう され大統領 だいとうりょう とともに帰国 きこく するとみられていたが結局 けっきょく 解放 かいほう されず、スイス国内 こくない では大統領 だいとうりょう 批判 ひはん が起 お きた。リビアは拘束 こうそく されたスイス人 じん を裁判 さいばん にかける動 うご きに出 で た。またカッザーフィーは「スイスを分割 ぶんかつ してしまうよう」国連 こくれん に提案 ていあん するなどした。スイス大統領 だいとうりょう は9月の国連 こくれん 総会 そうかい の際 さい にカッザーフィーと会談 かいだん して早期 そうき 釈放 しゃくほう を働 はたら きかけたが、カッザーフィーは「私 わたし の息子 むすこ は侮辱 ぶじょく を受 う けた」と述 の べ、解放 かいほう を確約 かくやく しなかった。スイス人 じん 2人 にん は紆余曲折 うよきょくせつ の末 すえ 、2009年 ねん 11月9日 にち にようやく解放 かいほう され、スイス大使館 たいしかん に保護 ほご された。
しかしその後 ご 、リビアは2人 ふたり を裁判 さいばん にかけた(結果 けっか は1人 ひとり は無罪 むざい 、1人 ひとり は有罪 ゆうざい で禁固 きんこ 4か月 げつ の判決 はんけつ )。これで問題 もんだい は収束 しゅうそく するかと思 おも いきや、今度 こんど はスイスが一部 いちぶ のリビア人 じん の入国 にゅうこく を禁止 きんし する措置 そち をとり、これに反発 はんぱつ したリビアがスイス人 じん を含 ふく む欧州 おうしゅう 人 じん (英国 えいこく 人 じん は除 のぞ く)の入国 にゅうこく を禁止 きんし すると発表 はっぴょう するなど外交 がいこう 報復 ほうふく 合戦 かっせん に発展 はってん している。その後 ご 、EU 各国 かっこく の仲介 ちゅうかい 努力 どりょく がなされ、リビアはスイス大使館 たいしかん が保護 ほご している無罪 むざい だった1人 ひとり の国外 こくがい 退去 たいきょ は認 みと めチュニジアに出国 しゅっこく させたが、有罪 ゆうざい だったもう1人 ひとり の身柄 みがら 引 ひ き渡 わた しを求 もと めてスイス大使館 たいしかん を武装 ぶそう 警察 けいさつ 隊 たい が包囲 ほうい する事態 じたい に発展 はってん 。スイスは国際 こくさい 外交 がいこう 法 ほう に違反 いはん する行為 こうい だと非難 ひなん した。しかしこのスイス人 じん は自 みずか ら禁固刑 きんこけい に服 ふく すると表明 ひょうめい し、スイス大使館 たいしかん を出 で たところ、リビア警察 けいさつ に手錠 てじょう を掛 か けられ、刑務所 けいむしょ に連行 れんこう されていった。カッザーフィーは演説 えんぜつ でイスラム教 いすらむきょう のモスクを破壊 はかい する異教徒 いきょうと の国 くに だ、としてスイスに対 たい する「聖戦 せいせん 」を呼 よ びかけた。さらにリビアはスイス製品 せいひん の輸入 ゆにゅう を全面 ぜんめん 禁止 きんし するなど報復 ほうふく がエスカレートしている。
このカッザーフィーの聖戦 せいせん の呼 よ びかけについて2010年 ねん 2月 がつ にアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のクローリー国務 こくむ 次官補 じかんほ が記者 きしゃ 会見 かいけん で、2009年 ねん でのカッザーフィーの国連 こくれん 演説 えんぜつ での振 ふ る舞 ま いをひきあいに「私 わたし の記憶 きおく では沢山 たくさん の言葉 ことば と沢山 だくさん の紙 かみ が飛 と び交 か ったが余 あま り筋 すじ が通 かよ っていなかった」などと発言 はつげん した。リビア側 がわ がこの発言 はつげん に反発 はんぱつ し、公式 こうしき 謝罪 しゃざい がなければトリポリのアメリカ企業 きぎょう に対 たい して何 なん らかの措置 そち に出 で る可能 かのう 性 せい があると警告 けいこく した。米 べい ・リビア間 あいだ の外交 がいこう 問題 もんだい に発展 はってん しかねない情勢 じょうせい となったため、同 どう 次官補 じかんほ は急 せ きょ駐 ちゅう 米 べい リビア大使 たいし と会談 かいだん するなど事態 じたい の鎮静 ちんせい 化 か に動 うご きだし、「大佐 たいさ を中傷 ちゅうしょう する意図 いと はなかった。発言 はつげん は米国 べいこく の政策 せいさく を反映 はんえい したものではなく、私 わたし の発言 はつげん が二 に 国 こく 間 あいだ 関係 かんけい のさらなる発展 はってん を妨 さまた げる障害 しょうがい になったことを遺憾 いかん に思 おも う」と釈明 しゃくめい し事実 じじつ 上 じょう 謝罪 しゃざい した。またこれを受 う けてリビアと米国 べいこく の関係 かんけい を話 はな し合 あ うためにフェルトマン国務 こくむ 次官補 じかんほ (中東 ちゅうとう 担当 たんとう )が2010年 ねん 3月 がつ にリビアを訪問 ほうもん した。
イタリア
2009年 ねん 6月 がつ 、イタリアを初 はつ 訪問 ほうもん 。黒 くろ い陸軍 りくぐん 軍服 ぐんぷく 姿 すがた で空港 くうこう に降 お り立 た ったカッザーフィーは「イタリアが(昨年 さくねん )我々 われわれ に謝罪 しゃざい したため、私 わたし はここに来 き た」と語 かた り、胸 むね にはかつてイタリア軍 ぐん に絞首刑 こうしゅけい にされた反 はん 植民 しょくみん 地 ち 闘争 とうそう の英雄 えいゆう オマル・ムフタール の写真 しゃしん をつけていた。友好 ゆうこう 訪問 ほうもん でこのようなことを行 おこな う首脳 しゅのう は異例 いれい であり国際 こくさい 常識 じょうしき では考 かんが えられないことである。訪問 ほうもん 中 ちゅう 、ローマ大学 だいがく での講演 こうえん には2時 じ 間近 まぢか く遅 おく れ、関係 かんけい 者 しゃ らを激怒 げきど させたあげく、下院 かいん 議長 ぎちょう のジャンフランコ・フィーニ とも会談 かいだん 予定 よてい だったが、予定 よてい の時間 じかん から2時間 じかん たっても現 あらわ れず、議長 ぎちょう は「遅刻 ちこく の理由 りゆう の説明 せつめい もないままだ」と会談 かいだん をキャンセル、その後 ご に予定 よてい されていた国会 こっかい 議員 ぎいん らとの会合 かいごう も取 と り止 や めになるなどわがままぶりを発揮 はっき した。このような遅刻 ちこく や突然 とつぜん の会談 かいだん キャンセルはリビア国内 こくない でも日常 にちじょう 茶飯事 さはんじ である。 女性 じょせい 団体 だんたい での会合 かいごう では「アラブでは女性 じょせい がこれまで家具 かぐ のように扱 あつか われてきた」と述 の べ、アラブ諸国 しょこく での女性 じょせい の地位 ちい ・権利 けんり 向上 こうじょう に理解 りかい を示 しめ した。
トルコ
1996年 ねん 、リビアを友好 ゆうこう 訪問 ほうもん したトルコ の首相 しゅしょう に対 たい しトルコがイスラエルやアメリカと友好 ゆうこう 関係 かんけい にあることなどを厳 きび しく非難 ひなん した。
日本 にっぽん
1973年 ねん 7月 がつ のドバイ日航 にっこう 機 き ハイジャック事件 じけん では、自国 じこく のベンガジ にあるベニナ空港 くうこう にハイジャック機 き が降 ふ り、現地 げんち で犯人 はんにん グループ(日本 にっぽん 赤軍 せきぐん とパレスチナ解放人民戦線 ぱれすちなかいほうじんみんせんせん (PFLP)の混成 こんせい )は投降 とうこう 、人質 ひとじち を解放 かいほう した。このときカッザーフィーは投降 とうこう した犯人 はんにん グループが第三国 だいさんごく に出国 しゅっこく することを黙認 もくにん していた。
カッザーフィーは、日本 にっぽん のラブホテル で使用 しよう しているのと同 おな じ回転 かいてん ベッド を日本 にっぽん より輸入 ゆにゅう し使用 しよう していた。この事実 じじつ は1986年 ねん 、トリポリ の住居 じゅうきょ をレーガン政権 せいけん 下 した のアメリカ軍 ぐん 機 き に爆 ばく 撃 げき され、アメリカ政府 せいふ の非 ひ 人道 じんどう 性 せい を訴 うった えるため各国 かっこく の報道陣 ほうどうじん に爆 ばく 撃 げき 現場 げんば を公開 こうかい した時 とき に発覚 はっかく した。公式 こうしき サイトで使用 しよう されている、カッザーフィーの背後 はいご に世界 せかい 地図 ちず が描 えが かれている画像 がぞう には日本 にっぽん 列島 れっとう がない(そのほかイギリス をはじめ、いくつかの島 しま が省略 しょうりゃく されてしまっている)。
1995年 ねん 1月 がつ に阪神 はんしん ・淡路 あわじ 大震災 だいしんさい が発生 はっせい した際 さい には、「経済 けいざい 力 りょく で悪魔 あくま (アメリカ)に奉仕 ほうし してきた日本人 にっぽんじん に天罰 てんばつ がくだった」と国営 こくえい ジャマーヒリーヤ通信 つうしん を通 つう じて声明 せいめい を出 だ した。日本 にっぽん の外務省 がいむしょう から「国際 こくさい 常識 じょうしき にもとる発言 はつげん 」だとしてただちに抗議 こうぎ に遭 あ う。
2009年 ねん 11月には、当時 とうじ 、日本 にっぽん リビア友好 ゆうこう 協会 きょうかい 会長 かいちょう だった小池 こいけ 百合子 ゆりこ と会談 かいだん した[45] 。この時 とき 、小池 こいけ からは、土産 みやげ としてWii が送 おく られた[46] 。また「アフリカ支援 しえん の見返 みかえ りとして石油 せきゆ 利権 りけん の優先 ゆうせん 権 けん を与 あた える用意 ようい がある」とし、更 さら に日本 にっぽん と深 ふか い関係 かんけい にある欧米 おうべい に対 たい する態度 たいど が軟化 なんか した事 こと で、今後 こんご リビアと日本 にっぽん の関係 かんけい は進展 しんてん していくと思 おも われていた。
2009年 ねん 12月15日 にち 、明治大学 めいじだいがく 軍縮 ぐんしゅく 平和 へいわ 研究所 けんきゅうじょ が主催 しゅさい する衛星 えいせい 回線 かいせん を使 つか った対話 たいわ 集会 しゅうかい に参加 さんか 、講演 こうえん を行 おこな ったあと、大学生 だいがくせい らの質問 しつもん に答 こた えた。日本 にっぽん について「私 わたし はこれまで日本人 にっぽんじん を困 こま らせたくないので、話 はな すことを避 さ けてきた」「欧米 おうべい 諸国 しょこく と違 ちが い、日本 にっぽん はアフリカ大陸 たいりく で植民 しょくみん 地 ち 政策 せいさく や侵略 しんりゃく 行為 こうい をしなかった」「国連 こくれん で日本 にっぽん はアメリカに追随 ついずい してばかり。もっと自由 じゆう な意思 いし を持 も たないといけない」「広島 ひろしま と長崎 ながさき に原爆 げんばく を落 お としたアメリカの(軍 ぐん の)駐留 ちゅうりゅう を認 みと めているのは悲 かな しいことだ。あなたたちの祖父 そふ などを殺 ころ した国 くに となぜ仲良 なかよ くなれるのか」「日本 にっぽん はアジアの近隣 きんりん 諸国 しょこく との友好 ゆうこう 、信頼 しんらい 関係 かんけい を重視 じゅうし すべきだ」などと語 かた った。またオバマ大統領 だいとうりょう について、イラク戦争 せんそう の幕 まく 引 び きに乗 の り出 だ したことなどを念頭 ねんとう に「(ブッシュ)前 ぜん 大統領 だいとうりょう の政策 せいさく を継承 けいしょう する大統領 だいとうりょう ではない」と指摘 してき しアフガニスタンへのアメリカ軍 ぐん 増派 ぞうは についても「総 そう 撤退 てったい する前 まえ に兵力 へいりょく を増強 ぞうきょう して威力 いりょく を示 しめ すのは軍事 ぐんじ 戦略 せんりゃく 上 じょう の常識 じょうしき だ」と発言 はつげん した。一方 いっぽう 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく やインド については「移民 いみん してアフリカの人々 ひとびと を追 お い出 だ そうとしている」と語 かた ったが「(アフリカの)石油 せきゆ を守 まも ると言 い って軍隊 ぐんたい を送 おく り込 こ む欧米 おうべい と比 くら べれば(中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく は)悪 わる くない」と述 の べるなど、弁舌 べんぜつ は健在 けんざい だった。
韓国 かんこく
2003年 ねん 11月、韓国 かんこく の仏教 ぶっきょう 人権 じんけん 委員 いいん 会 かい はカッザーフィーを反 はん 独裁 どくさい 、民族 みんぞく 解放 かいほう 運動 うんどう を支援 しえん し、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ と自由 じゆう 、平等 びょうどう のために戦 たたか う闘争 とうそう 家 か と称 とな え、外部 がいぶ 勢力 せいりょく に対抗 たいこう して、自由 じゆう と平等 びょうどう 、正義 まさよし という大義 たいぎ を守 まも るために行 い った先駆 せんく 者 しゃ としての役割 やくわり を高 たか く評価 ひょうか し「仏教 ぶっきょう 人権 じんけん 賞 しょう 」を授与 じゅよ した。
1997年 ねん 、国連 こくれん 制裁 せいさい で飛行 ひこう が禁止 きんし されているにもかかわらずクーデター後 ご のニジェール を訪問 ほうもん し熱狂 ねっきょう 的 てき 歓迎 かんげい を受 う けた。
2009年 ねん 2月 がつ 、アフリカ・ウガンダ の地元 じもと 大衆 たいしゅう 紙 し が同国 どうこく の部族 ぶぞく 王国 おうこく の皇太后 こうたいごう とカッザーフィーが「不倫 ふりん 関係 かんけい にある」と報道 ほうどう 。怒 おこ った駐 ちゅう ウガンダ・リビア大使 たいし が裁判所 さいばんしょ とウガンダ・メディア委員 いいん 会 かい に起訴 きそ した。委員 いいん 会 かい は10月 がつ 、同紙 どうし に対 たい し、5万 まん ドル(約 やく 450万 まん 円 えん )の損害 そんがい 賠償 ばいしょう と謝罪 しゃざい 文 ぶん の掲載 けいさい を命 めい じた。
2010年 ねん 3月 がつ 中旬 ちゅうじゅん 、宗教 しゅうきょう 対立 たいりつ が続 つづ くナイジェリア情勢 じょうせい に関連 かんれん してカッザーフィーはナイジェリアが北部 ほくぶ のイスラム、南部 なんぶ のキリスト両 りょう 教徒 きょうと を中心 ちゅうしん とした2国家 こっか に分 わ かれればよい、と発言 はつげん した。これにナイジェリアが猛 もう 反発 はんぱつ し、駐 ちゅう リビア大使 たいし を召還 しょうかん した。それにも関 かかわ らずその後 ご もカッザーフィーは「ナイジェリアは旧 きゅう ユーゴスラビアのようになるのがふさわしい」と声明 せいめい を発表 はっぴょう した。
国際 こくさい 会議 かいぎ 等 とう での発言 はつげん ・パフォーマンス[ 編集 へんしゅう ]
外遊 がいゆう の際 さい などには必 かなら ずといっていいほど自国 じこく 大使館 たいしかん の庭 にわ にテント を張 は って野営 やえい 、そこで首脳 しゅのう 会談 かいだん を行 おこな うなどした。これは自分 じぶん がベドウィン (遊牧民 ゆうぼくみん )出身 しゅっしん であることを強調 きょうちょう するためであるとされる。また若 わか い女性 じょせい 兵士 へいし をボディーガード として引 ひ き連 つ れて行動 こうどう する。この女性 じょせい たちは西側 にしがわ メディアからは「カダフィ・ガールズ」と呼 よ ばれた[47] 。
1989年 ねん 9月、ベオグラード で開 ひら かれた非 ひ 同盟 どうめい 諸国 しょこく 首脳 しゅのう 会議 かいぎ に出席 しゅっせき 。会場 かいじょう 外 がい にテントを張 は り、ラクダ を空輸 くうゆ して話題 わだい をさらった。この際 さい 、テントの中 なか で日本 にっぽん をはじめ外国 がいこく メディアとの会見 かいけん に応 おう じ、当時 とうじ 世界 せかい を席捲 せっけん していたソビエト連邦 れんぽう のペレストロイカ について「私 わたし は支持 しじ している。しかし我々 われわれ のほうが先 さき に『緑 みどり の書 しょ 』で革命 かくめい を行 おこな っている」と語 かた った。またレバノンでの欧米 おうべい 人 じん 人質 ひとじち は解放 かいほう されるべきだ、とも語 かた った。首脳 しゅのう 会議 かいぎ での演説 えんぜつ では「イスラエルをアラスカ に移 うつ してしまえ」と発言 はつげん した。
1990年 ねん 、国際 こくさい 会議 かいぎ で「イスラエルにミサイル を打 う ち込 こ むべきだ」と発言 はつげん したが、イスラエルは「いつものカッザーフィー発言 はつげん だ」として相手 あいて にしなかった。
2009年 ねん 11月、国連 こくれん サミット において発展 はってん 途上 とじょう 国 こく の貧困 ひんこん へのアピールとして総長 そうちょう 以下 いか 、各国 かっこく 国家 こっか 代表 だいひょう も参加 さんか した「断食 だんじき 」のパフォーマンスを尻目 しりめ に、500人 にん のイタリア美女 びじょ を集 あつ めたパーティを催 もよお し、その健在 けんざい ぶりを誇示 こじ した。
2010年 ねん 3月 がつ にシルトでアラブ連盟 れんめい 首脳 しゅのう 会議 かいぎ を開催 かいさい 、開催 かいさい 国 こく としてアラブ各国 かっこく 首脳 しゅのう を出迎 でむか えたが、カッザーフィーへの個人 こじん 的 てき わだかまりなどから加盟 かめい 22カ国 かこく ・機構 きこう のうち出席 しゅっせき した首脳 しゅのう は10か国 こく あまりにとどまった。前日 ぜんじつ の外相 がいしょう 会議 かいぎ ではイラクの外相 がいしょう がカッザーフィーが以前 いぜん に旧 きゅう バ ば ース党 すとう のメンバーらと会談 かいだん したことを非難 ひなん 、抗議 こうぎ して退場 たいじょう する一幕 ひとまく もあった。
2010年 ねん 6月12日 にち 、ワールドカップ 開催 かいさい 中 ちゅう 、リビア国内 こくない での演説 えんぜつ で国際 こくさい サッカー連盟 れんめい (FIFA) について「選手 せんしゅ の人身 じんしん 売買 ばいばい を行 おこな っている国際 こくさい 的 てき なマフィアだ」と批判 ひはん した。「貧 まず しい国 くに から選手 せんしゅ を金 かね で買 か い、練習 れんしゅう をさせて金持 かねも ちの国 くに に売 う っている」と主張 しゅちょう し貧 まず しい小国 しょうこく もワールドカップの開催 かいさい 地 ち となる権利 けんり があると強調 きょうちょう 、「FIFAは人身 じんしん 売買 ばいばい でもうけた金 かね で、貧 まず しい国 くに でのW杯 はい 開催 かいさい を手助 てだす けすべきだ」と述 の べた。ちなみにリビアはこの年 とし のワールドカップでは予選 よせん で敗退 はいたい し本 ほん 大会 たいかい には出場 しゅつじょう していない。
2011年 ねん 2月 がつ 、騒乱 そうらん 状態 じょうたい のリビア にて、「中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の天安門 てんあんもん 事件 じけん では、戦車 せんしゃ によって人々 ひとびと が蹂躙 じゅうりん されて中国 ちゅうごく の統一 とういつ が保 たも たれた。国家 こっか の統一 とういつ のためならどんなこともする[48] 」と述 の べ、反 はん 体制 たいせい 派 は に対 たい する虐殺 ぎゃくさつ などの弾圧 だんあつ を正当 せいとう 化 か した[49] [50] 。これに対 たい し、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 外交 がいこう 部 ぶ は困惑 こんわく するも「リビアができるだけ早 はや く社会 しゃかい の安定 あんてい と正常 せいじょう な秩序 ちつじょ を回復 かいふく するよう強 つよ く希望 きぼう する」として、カダフィの発言 はつげん については批判 ひはん しなかった[49] 。なお、当時 とうじ の中国 ちゅうごく は首都 しゅと トリポリとカッザーフィーの故郷 こきょう スルトを結 むす ぶ鉄道 てつどう の建設 けんせつ などリビアで複数 ふくすう の権益 けんえき を抱 かか えており[51] [52] 、内戦 ないせん を受 う けて軍艦 ぐんかん や輸送 ゆそう 機 き などを派遣 はけん して中国人 ちゅうごくじん 労働 ろうどう 者 しゃ 3万 まん 人 にん をリビアから退避 たいひ させた[53] 。中国 ちゅうごく 国内 こくない ではアラブの春 はる に影響 えいきょう された中国 ちゅうごく ジャスミン革命 かくめい も起 お きており、中国 ちゅうごく 政府 せいふ はカッザーフィー政権 せいけん への武器 ぶき 提供 ていきょう 疑惑 ぎわく が取 と り沙汰 ざた されていた[54] 。
テロ行為 こうい の疑惑 ぎわく と変容 へんよう [ 編集 へんしゅう ]
1978年 ねん 8月 がつ 31日 にち 、レバノン のイスラーム教 きょう シーア派 は ウラマー 、ムーサー・アッ=サドル がリビア訪問 ほうもん 中 ちゅう に行方 ゆくえ 不明 ふめい になった。リビア側 がわ は一貫 いっかん して同 どう 師 し らはローマ に向 む け出国 しゅっこく したと説明 せつめい してきたが、イタリア に入国 にゅうこく 記録 きろく はなく、レバノン司法 しほう 当局 とうきょく はリビア政権 せいけん が関与 かんよ し誘拐 ゆうかい 、殺害 さつがい した可能 かのう 性 せい が高 たか いとして2008年 ねん 8月 がつ 27日 にち 、誘拐 ゆうかい 教唆 きょうさ などの容疑 ようぎ でカッザーフィーらリビア人 じん 計 けい 8人 にん の逮捕 たいほ 状 じょう を取 と った。
1980年 ねん 5月、国外 こくがい に逃 のが れた反 はん 体制 たいせい 派 は リビア人 じん に対 たい しただちに帰国 きこく するよう命令 めいれい を出 だ し、「帰国 きこく しない場合 ばあい は命 いのち は保証 ほしょう しない」と恐怖 きょうふ の通告 つうこく を行 おこな った。その後 ご 実際 じっさい に欧州 おうしゅう 各地 かくち で亡命 ぼうめい リビア人 じん が何者 なにもの かに殺害 さつがい される事件 じけん が相次 あいつ いだ。この事件 じけん についてナンバー2のジャルード 少佐 しょうさ は当時 とうじ 「我 わ が国 くに では深遠 しんえん なる革命 かくめい が起 お きているのだ。革命 かくめい 有志 ゆうし たちが行 おこな っていることだ」と語 かた っていた。
1988年 ねん にはテロ 支援 しえん をやめると宣言 せんげん を出 だ す。「アラブの暴 あば れん坊 ぼう 」から「地中海 ちちゅうかい の紳士 しんし 」へ変貌 へんぼう か?とも言 い われたが当時 とうじ 世界 せかい からは全 まった く相手 あいて にされなかった。
1992年 ねん 4月 がつ 、パンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん の容疑 ようぎ 者 しゃ 引 ひ き渡 わた し問題 もんだい で国際 こくさい 連合 れんごう がリビアに制裁 せいさい を課 か した。この時 とき カッザーフィーは「制裁 せいさい が発動 はつどう されればリビア国内 こくない のすべての油井 ゆせい に火 ひ を放 はな つ」などと発言 はつげん していたが実行 じっこう はしなかった。また過去 かこ に何 なん 度 ど か「もうアラブ連盟 れんめい を脱退 だったい する」などの発言 はつげん を行 おこな ってきたが実行 じっこう に移 うつ した事 こと はなかった。
アラブの指導 しどう 者 しゃ のなかではめずらしく、長 なが い間 あいだ ひげ をたくわえない人物 じんぶつ であったが、2000年 ねん あたりから口 くち やあごに無精 ぶしょう ひげを生 は やし始 はじ めていた。髪 かみ は長髪 ちょうはつ に伸 の ばし、軍帽 ぐんぼう の脇 わき から髪 かみ が振 ふ り出 だ している肖像 しょうぞう が公開 こうかい されている。
1970から80年代 ねんだい までは陸軍 りくぐん 軍服 ぐんぷく 姿 すがた や質素 しっそ なベスト 姿 すがた が多 おお かったカッザーフィーだが、1990年 ねん あたりからさまざまな民族 みんぞく 衣装 いしょう や独特 どくとく の服装 ふくそう を好 この んで着 き るようになっていた。あるときは白 しろ や黒 くろ の陸軍 りくぐん 士官 しかん 制服 せいふく 姿 すがた だったり、ベレー帽 ぼう に野戦 やせん 戦闘 せんとう 服 ふく 姿 すがた だったり、アフリカの過去 かこ の著名 ちょめい な指導 しどう 者 しゃ の姿 すがた がプリントされたサファリルック だったりした。スーツ の場合 ばあい は純白 じゅんぱく のものを好 この んで着 き ることが多 おお く、ネクタイは殆 ほとん どしなかった。民族 みんぞく 衣装 いしょう は茶色 ちゃいろ 、紫色 むらさきいろ 、紺色 こんいろ 、深紅 しんく 色 しょく 、青色 あおいろ などさまざまな色彩 しきさい のものを着 き て登場 とうじょう した。またサングラス を着用 ちゃくよう していることが多 おお かった。
カッザーフィーは「指導 しどう 者 しゃ が豊 ゆた かさを享受 きょうじゅ するのは国民 こくみん の後 のち でよい」という理由 りゆう から住居 じゅうきょ は兵舎 へいしゃ を使用 しよう していると公言 こうげん していた。
しかしこれはあくまで公 おおやけ においてのことであり、実際 じっさい は暗殺 あんさつ を回避 かいひ するため、1970年代 ねんだい から、「バアブ・アル=アズィースィーヤ (英語 えいご 版 ばん ) 」と呼 よ ばれる対空 たいくう 機関 きかん 砲 ほう を備 そな えた重 じゅう 装備 そうび の要塞 ようさい のような場所 ばしょ に居住 きょじゅう ・執務 しつむ していたとされる。1986年 ねん 4月 がつ にアメリカ軍 ぐん に空爆 くうばく された際 さい は、この「バアブ・アル=アズィーズィーヤ」から掘 ほ られた地下 ちか トンネルで脱出 だっしゅつ したことが1990年 ねん に明 あき らかになっている。また車 くるま で国内 こくない 移動 いどう の際 さい も豪華 ごうか なベンツ等 とう に自身 じしん が乗 の っていると装 よそお いつつ、後続 こうぞく の護衛 ごえい 車 しゃ に乗 の っている場合 ばあい が多 おお かった。これも暗殺 あんさつ を防 ふせ ぐためだったと考 かんが えられる。また海外 かいがい での国際 こくさい 会議 かいぎ に出席 しゅっせき する際 さい には、現地 げんち のホテルなどを使用 しよう せず、軍事 ぐんじ 用 よう テントを設営 せつえい して宿泊 しゅくはく していた。
また複数 ふくすう の豪邸 ごうてい 、専用 せんよう ヨットなど贅沢 ぜいたく 三昧 ざんまい な私生活 しせいかつ を送 おく っていた事 こと は国民 こくみん の間 あいだ にも知 し られていた。アメリカに敵対 てきたい しながらアメリカの有名 ゆうめい な女性 じょせい 歌手 かしゅ を借 か り切 き った豪華 ごうか 客船 きゃくせん に招 まね き家族 かぞく で私的 してき なコンサートを楽 たの しむなど独裁 どくさい 者 しゃ として日々 ひび の饗宴 きょうえん を満喫 まんきつ していたが、この女性 じょせい 歌手 かしゅ は後 のち に出演 しゅつえん 料 りょう を返却 へんきゃく した[55] 。
1986年 ねん 、米 べい 軍 ぐん の爆 ばく 撃 げき により破壊 はかい された首都 しゅと トリポリ の自宅 じたく を世界 せかい のマスメディア に向 む け自 みずか ら公開 こうかい 、その際 さい に、日本 にっぽん のラブホテル で使用 しよう されるような「回転 かいてん ベッド 」の愛用 あいよう が明 あき らかになり、国際 こくさい 社会 しゃかい の失笑 しっしょう を買 か った[56] 。
また公的 こうてき な資金 しきん もカッザーフィーの思 おも うがままに使用 しよう された。サッカー好 す きの息子 むすこ サーディー を自 みずか ら所有 しょゆう するクラブアル=アリSC (英語 えいご 版 ばん ) の選手 せんしゅ とし、さらにリビア代表 だいひょう 選手 せんしゅ に仕立 したて て上 あ げただけでなく、イタリアの名門 めいもん サッカークラブユヴェントスFC の株 かぶ を国営 こくえい 公社 こうしゃ に買 か い取 と らせ、役員 やくいん に就任 しゅうにん させている[57] 。そのほかにもセリエA に多額 たがく の資金 しきん 援助 えんじょ を行 おこな い、ペルージャ・カルチョ 等 ひとし の有名 ゆうめい クラブに所属 しょぞく させたが、明 あき らかに力量 りきりょう 不足 ふそく であり、通算 つうさん 2試合 しあい だけしか出場 しゅつじょう できなかった[58] 。世界 せかい 有数 ゆうすう の強豪 きょうごう 国 こく であるサッカーアルゼンチン代表 だいひょう を、これまた高額 こうがく なギャラでリビアに招 まね き親善 しんぜん 試合 しあい をしたこともある。
反乱 はんらん 軍 ぐん によるリビア制圧 せいあつ 後 ご には、豪奢 ごうしゃ な邸宅 ていたく と完全 かんぜん カスタムされたフィアット・500 EV等 とう の高価 こうか な私財 しざい が発見 はっけん された。そのほか海外 かいがい に天文学 てんもんがく 的 てき な金額 きんがく の隠 かく し財産 ざいさん があることも判明 はんめい し、如何 いか にして現在 げんざい のリビア政府 せいふ に戻 もど すべきか検討 けんとう もされている。
2016年 ねん になって、カッザーフィー政権 せいけん 時代 じだい のリビアが、タックスヘイヴン (租税 そぜい 回避 かいひ 地 ち )を隠 かく れ蓑 みの にする形 かたち で、核兵器 かくへいき 開発 かいはつ に向 む けての取引 とりひき を実施 じっし していたことが明 あき らかになった[59] 。
高所 こうしょ 恐怖症 きょうふしょう [ 編集 へんしゅう ]
告発 こくはつ サイトであるウィキリークス は、カッザーフィーは建物 たてもの の2階 かい より上 うえ 階 かい には滞在 たいざい できないこと、長時間 ちょうじかん の航空機 こうくうき による移動 いどう や海上 かいじょう の飛行 ひこう を嫌 きら うなど、高所 こうしょ 恐怖症 きょうふしょう である可能 かのう 性 せい を指摘 してき した[56] 。
7男 なん 1女 じょ で、長男 ちょうなん のムハンマド (英語 えいご 版 ばん ) は、カッザーフィーと第 だい 一 いち 夫人 ふじん との間 あい の子 こ (ちなみに次男 じなん 以降 いこう は全員 ぜんいん 第 だい 二 に 夫人 ふじん との間 あい の子 こ [60] )で、リビアオリンピック委員 いいん 会 かい 委員 いいん 長 ちょう であった[60] 。
次男 じなん のサイフ・アル=イスラーム は、1972年 ねん 生 う まれで、2011年 ねん までカッザーフィー開発 かいはつ 基金 ききん (旧 きゅう :国際 こくさい 慈善 じぜん 基金 ききん )総裁 そうさい を務 つと め、2005年 ねん 4月 がつ には愛知 あいち 万博 ばんぱく 視察 しさつ のために来日 らいにち している。その際 さい に日本 にっぽん のTBSテレビ のインタビューを受 う けたことがある。また、愛知 あいち 万博 ばんぱく においてリビアをフレンドシップ国 こく として交流 こうりゅう していた田原 たはら 市 し も訪 おとず れ、渡辺 わたなべ 崋山 かざん の絵 え を寄贈 きぞう している。2006年 ねん には国際 こくさい 慈善 じぜん 基金 ききん 総裁 そうさい としてフィリピンのイスラム武装 ぶそう 組織 そしき アブ・サヤフ に誘拐 ゆうかい された人質 ひとじち の解放 かいほう に一役 ひとやく 買 か った。2009年 ねん にパンナム機 き 爆破 ばくは 事件 じけん のメグラヒ懲役 ちょうえき 囚 しゅう が末期 まっき がんを理由 りゆう にスコットランド の拘置 こうち 所 しょ から釈放 しゃくほう された問題 もんだい では釈放 しゃくほう に向 む け積極 せっきょく 的 てき に動 うご き、メグラヒと一緒 いっしょ に飛行機 ひこうき に乗 の りトリポリの空港 くうこう に降 お り立 た った。近年 きんねん [いつ? ] 、父親 ちちおや の政治 せいじ を批判 ひはん したり、国内 こくない の民主 みんしゅ 化 か が必要 ひつよう だとする発言 はつげん を行 おこな うなどして注目 ちゅうもく された。2009年 ねん 10月 がつ 6日 にち に父 ちち カッザーフィーが「サイフ・アル=イスラームには、彼 かれ に役割 やくわり を果 は たさせる地位 ちい が必要 ひつよう だ」と発言 はつげん し、急 せ きょ設 もう けられた「人民 じんみん 社会 しゃかい 指導 しどう 部 ぶ 総合 そうごう 調整 ちょうせい 官 かん 」という職 しょく に就任 しゅうにん した。後継 こうけい 者 しゃ としての立場 たちば を強 つよ めたのではないかとも言 い われた。「人民 じんみん 社会 しゃかい 指導 しどう 部 ぶ 」は全 ぜん 人民 じんみん 会議 かいぎ 、全 ぜん 人民 じんみん 委員 いいん 会 かい に助言 じょげん を行 おこな う機関 きかん とされるが実態 じったい は不明 ふめい 。2010年 ねん 6月 がつ 、ロシアの首都 しゅと モスクワで自身 じしん の描 えが いた絵画 かいが の個展 こてん を開 ひら き、注目 ちゅうもく された。2011年 ねん 2月 がつ の反 はん 政府 せいふ デモに対 たい してはテレビで武力 ぶりょく 弾圧 だんあつ を肯定 こうてい する演説 えんぜつ をおこなった。8月22日 にち までに三男 さんなん サーアディーと共 とも に反 はん カッザーフィー勢力 せいりょく に身柄 みがら を拘束 こうそく されたと報道 ほうどう されたが、その日 ひ の夜 よる に報道陣 ほうどうじん 前 まえ に無事 ぶじ な姿 すがた を見 み せ抵抗 ていこう 継続 けいぞく を訴 うった えている[61] 。その後 ご 行方 ゆくえ がわからなくなったが、11月19日 にち にリビア南部 なんぶ で身柄 みがら を拘束 こうそく された[62] 。その後 ご 裁判 さいばん にかけられ、2015年 ねん には銃殺 じゅうさつ 刑 けい がい渡 いわた されたが、2017年 ねん 6月 がつ に恩赦 おんしゃ により釈放 しゃくほう [63] 。2018年 ねん 12月に予定 よてい されていた大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ への出馬 しゅつば を表明 ひょうめい した[64] ものの選挙 せんきょ は延期 えんき され続 つづ けており、2020年 ねん 2月 がつ 現在 げんざい も実施 じっし されていない[65] 。
三男 さんなん のアッ=サーディー は、元 もと プロサッカー選手 せんしゅ 。リビアの旧 きゅう 宗主 そうしゅ 国 こく でもあるイタリア のサッカー クラブ、ペルージャ に入団 にゅうだん したことは大 おお きな話題 わだい となった[60] 。2002年 ねん 日 にち 韓 かん ワールドカップを見 み に日本 にっぽん に入国 にゅうこく したことがあるが、成田空港 なりたくうこう で彼 かれ のボディガードが拳銃 けんじゅう を所持 しょじ していたために足止 あしど めをくらったことがある。彼 かれ はリビア軍 ぐん の司令 しれい 官 かん の娘 むすめ と結婚 けっこん 、選手 せんしゅ 引退 いんたい 後 ご はリビアサッカー協会 きょうかい 会長 かいちょう を務 つと めていた。1996年 ねん にトリポリでサッカーの試合 しあい 中 ちゅう に観客 かんきゃく が暴動 ぼうどう をおこし、通 とお りに繰 く り出 だ して「反 はん カッザーフィー」を叫 さけ んだ事件 じけん では、サッカーの審判 しんぱん 団 だん がアッ=サーディーがオーナーを務 つと めるサッカークラブに有利 ゆうり な判定 はんてい を連発 れんぱつ したことが原因 げんいん とされている。
四 よん 男 なん のハーンニーバール は、海運 かいうん 会社 かいしゃ を経営 けいえい するビジネスマンだが[60] 、欧州 おうしゅう での豪遊 ごうゆう で知 し られ、パリでスピード違反 いはん 事件 じけん を起 お こしてしまったり、スイスで婦女 ふじょ 暴行 ぼうこう 事件 じけん を起 お こしたとして拘束 こうそく されてしまったり(結局 けっきょく 無罪 むざい 放免 ほうめん となった)、数々 かずかず のトラブルを起 お こしている。2009年 ねん 12月22日 にち にはスイスでの暴行 ぼうこう 事件 じけん を報 ほう じた際 さい に自分 じぶん の顔写真 かおじゃしん を掲載 けいさい したとしてスイスの新聞 しんぶん 「トリビューン・ド・ジュネーブ」に名誉 めいよ 棄損 きそん での損害 そんがい 賠償 ばいしょう を求 もと める訴 うった えを起 お こした。また同 どう 25日 にち にはイギリスの高級 こうきゅう ホテルにボディーガードらと宿泊 しゅくはく していたが部屋 へや から女性 じょせい の悲鳴 ひめい が聞 き こえたためにホテル側 がわ が警察 けいさつ に通報 つうほう し、警察 けいさつ が到着 とうちゃく するとハーンニーバールの妻 つま (元 もと モデル)が顔 かお から血 ち だらけになっていたなどの騒 さわ ぎを起 お こしている。なお、妻 つま は2011年 ねん リビア内戦 ないせん の際 さい にレバノン へ亡命 ぼうめい を図 はか ろうとしたものの、拒否 きょひ されている[66] 。
五 ご 男 なん のアル=ムアタシム=ビッラーフ [67] は、リビア陸軍 りくぐん 少尉 しょうい で、過去 かこ 、父親 ちちおや に反乱 はんらん を企 くわだ てたこともある。が、のちに父親 ちちおや はそれを許 ゆる し、2009年 ねん には「国家 こっか 安全 あんぜん 保障 ほしょう 顧問 こもん 」という地位 ちい にあった。2009年 ねん 、リビアと米国 べいこく の今後 こんご の関係 かんけい についてヒラリー・クリントン 米 べい 国務 こくむ 長官 ちょうかん と会談 かいだん を行 おこな い父親 ちちおや の有力 ゆうりょく 後継 こうけい 者 しゃ として注目 ちゅうもく された[60] 。2011年 ねん 10月 がつ 20日 はつか 、父親 ちちおや と共 とも に死亡 しぼう した[68] 。
六 ろく 男 なん はサイフ・アル=アラブ (英語 えいご 版 ばん ) 。ドイツに留学 りゅうがく 経験 けいけん のある学生 がくせい とされるが、2011年 ねん 4月 がつ 30日 にち 夜 よる 、NATO軍 ぐん の空爆 くうばく で29歳 さい で死亡 しぼう したとリビア政府 せいふ から発表 はっぴょう された[60] 。政権 せいけん 運営 うんえい にはほとんど関 かか わっていなかったとされている。
七 なな 男 なん のハミース (英語 えいご 版 ばん ) はトリポリの軍 ぐん 学校 がっこう で軍事 ぐんじ 学 がく と科学 かがく の学士 がくし 位 い を取得 しゅとく 後 ご 、モスクワに留学 りゅうがく しフルンゼ軍事 ぐんじ 学院 がくいん (ru )とロシア連邦 れんぽう 軍 ぐん 士官 しかん 学校 がっこう (ru )を卒業 そつぎょう [60] 。2010年 ねん にはマドリードのIE ビジネススクール で修士 しゅうし 位 い を取得 しゅとく した。
2011年 ねん リビア内戦 ないせん ではリビア軍 ぐん で最 もっと も重要 じゅうよう とされる第 だい 32特殊 とくしゅ 連隊 れんたい (通称 つうしょう ハミース旅団 りょだん )の司令 しれい 官 かん に就任 しゅうにん した。8月29日 にち に死亡 しぼう したとの発表 はっぴょう が10月 がつ にあった。
長女 ちょうじょ のアーイシャ (英語 えいご 版 ばん ) は、弁護士 べんごし で、イラク 元 もと 大統領 だいとうりょう サッダーム・フセイン の弁護 べんご 団 だん に加 くわ わると報道 ほうどう され(実際 じっさい にはイラクに入国 にゅうこく できず)、注目 ちゅうもく を浴 あ びた[60] 。アーイシャは2006年 ねん に父親 ちちおや カッザーフィーのいとこと結婚 けっこん した。2009年 ねん 7月 がつ に、国連 こくれん 開発 かいはつ 計画 けいかく (UNDP)の親善 しんぜん 大使 たいし に任命 にんめい されていたが、2011年 ねん の内戦 ないせん でリビア政府 せいふ による市民 しみん への武力 ぶりょく 行使 こうし に対 たい する措置 そち としてその役 やく を解任 かいにん された[69] 。また内戦 ないせん を避 さ けマルタ へ亡命 ぼうめい を図 はか ろうとしたものの、拒否 きょひ されている[66] 。特定 とくてい の部隊 ぶたい を率 ひき いているわけでは無 な いが、リビア軍 ぐん 将校 しょうこう の肩書 かたがき があり、階級 かいきゅう は陸軍 りくぐん 中将 ちゅうじょう である。
養女 ようじょ のハナは、1986年 ねん のアメリカ軍 ぐん のリビア爆 ばく 撃 げき で死亡 しぼう したとされ、2006年 ねん には爆 ばく 撃 げき 20周年 しゅうねん ・ハナ死亡 しぼう 20年 ねん の追悼 ついとう 行事 ぎょうじ が開催 かいさい されたが、2011年 ねん リビア内戦 ないせん によるトリポリ陥落 かんらく 後 ご 、実 じつ は生存 せいぞん しており、医師 いし としてトリポリの病院 びょういん に勤務 きんむ していたとの報道 ほうどう もなされた(ハナ死亡 しぼう 後 ご に養女 ようじょ とした別 べつ の少女 しょうじょ に再 ふたた びハナと名付 なづ けたという説 せつ もある)。
甥 おい のムハンマド・ムフタール・ラシュタルは、2007年 ねん よりニカラグア 大統領 だいとうりょう のダニエル・オルテガ の個人 こじん 秘書 ひしょ や外交 がいこう 顧問 こもん を務 つと めていた。
^ 6月19日 にち 生 う まれ説 せつ もある。かつては9月 がつ 生 う まれ説 せつ もあった。
^ a b カダフィ大佐 たいさ が死亡 しぼう =リビア国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい 発表 はっぴょう 時事通信 じじつうしん
^ 公式 こうしき サイト(#外部 がいぶ リンク 参照 さんしょう )より。
^ 井上 いのうえ ひさし の『ニホン語 ご 日記 にっき 』によれば1969年 ねん の革命 かくめい でにわかに政権 せいけん 指導 しどう 者 しゃ になったとき、欧米 おうべい メディアの「カダフィ」のロ ろ ーマ字 まじ 表記 ひょうき は7つから8つあったという。冠詞 かんし の "al" をつけるか否 ひ かやイニシャルだけで G, Q, K などが使用 しよう される(リビア方言 ほうげん (en )では正則 せいそく アラビア語 ご の q の文字 もじ は g, k, kh と3通 とお りに発音 はつおん される可能 かのう 性 せい がある)ためで、実際 じっさい に日本 にっぽん 以外 いがい の主要 しゅよう メディアにおける表記 ひょうき は40種 しゅ 前後 ぜんこう もあり、さらに個人 こじん 名 めい ムアンマルの表記 ひょうき のヴァリエーションも含 ふく めれば更 さら に総数 そうすう は増 ふ える。詳 くわ しくは本 ほん 項目 こうもく 英語 えいご 版 ばん 該当 がいとう 記事 きじ (en )参照 さんしょう 。
^ 参考 さんこう リンク:Gaddafi? Qaddafi? Kaddafi? Let's call the whole things off! - newsling
^ 2011年 ねん (平成 へいせい 23年 ねん )3月 がつ 8日 にち 外務省 がいむしょう 告示 こくじ 第 だい 75号 ごう 「国際 こくさい 連合 れんごう 安全 あんぜん 保障 ほしょう 理事 りじ 会 かい 決議 けつぎ に基 もと づく資産 しさん 凍結 とうけつ 等 とう の措置 そち の対象 たいしょう となるリビアのカダフィ革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ 及 およ びその関係 かんけい 者 しゃ を指定 してい する件 けん 」
^ もっとも、小国 しょうこく や軍 ぐん の規模 きぼ の小 ちい さい国 くに (欧州 おうしゅう の公国 こうこく 、アフリカ諸国 しょこく など)では、軍 ぐん の常設 じょうせつ の最高 さいこう 位 い が大佐 たいさ である場合 ばあい もある。これは近代 きんだい 以前 いぜん の軍隊 ぐんたい では連隊 れんたい が平時 へいじ の編成 へんせい 上 じょう の最大 さいだい 単位 たんい であり、連隊 れんたい 長 ちょう を務 つと める大佐 たいさ が実質 じっしつ 的 てき に軍 ぐん の最高 さいこう 位 い であったことも関係 かんけい している。英語 えいご 版 ばん Colonel の該当 がいとう 項目 こうもく も参照 さんしょう のこと。
^ 大佐 たいさ 昇進 しょうしん 以前 いぜん のカッザーフィーの階級 かいきゅう を大尉 たいい (英 えい : captain )と解説 かいせつ する例 れい もあるが、これは誤 あやま りである。またアブー=バクル・ユーニス・ジャーベルも少将 しょうしょう (英 えい : major general )と誤記 ごき されることがある。参考 さんこう リンク:Libyan Army - UNIFORM INSIGNIA
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アフリカ統一機構 あふりかとういつきこう (1963 - 2002)アフリカ連合 れんごう (2002 - )
1 代行 だいこう 。
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