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メシャ碑文ひぶん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
破壊はかいされたのち復元ふくげんされた現在げんざいのメシャ碑文ひぶん茶色ちゃいろ部分ぶぶん現存げんそんするオリジナルのもので、黒色こくしょく部分ぶぶん復元ふくげんされたもの

メシャ碑文ひぶん(メシャひぶん、19世紀せいきには「モアブ」としてられた)はくろ玄武岩げんぶがん石碑せきひで、紀元前きげんぜん9世紀せいきモアブメシャおうによって作成さくせいされ、1868ねん発見はっけんされた。34ぎょうからるこの碑文ひぶんは、フェニキア文字もじ記述きじゅつされたものとしては、古代こだいイスラエルから回収かいしゅうされたもののうち最大さいだいのものである。それはメシャによって、紀元前きげんぜん850ねんごろ、かれイスラエルたいする反乱はんらんにおける勝利しょうりとモアブの独立どくりつ記録きろく記念きねんするものとして、かれもと主君しゅくんであったアハブ死後しご作成さくせいされた。

いしは、たかさ124cm、はば71cmであつみもあり、上部じょうぶまるくなっている。それは古代こだいのディボン、現在げんざいヨルダンマダバけんディバン英語えいごばんにおいて、1868ねん8がつにエルサレムのイギリスじん宣教師せんきょうしフレデリック・オーガスタス・クライン英語えいごばんによって発見はっけんされた。しかし翌年よくねん所有しょゆうけんをめぐるあらそいで、地元じもと住民じゅうみんによって石碑せきひ破壊はかいされてしまった。しかしながら、シャルル・シモン・クレルモン=ガノー英語えいごばんによって破片はへんおおくは回収かいしゅうされ、またすでられていた拓本たくほんによって欠損けっそんおぎなって碑文ひぶん復元ふくげんされた。拓本たくほん公開こうかいおよ復元ふくげんされた石碑せきひおおくの出版しゅっぱんぶつ百科ひゃっか事典じてん公表こうひょうされている)は、現在げんざいルーヴル美術館びじゅつかん存在そんざいする。

内容ないよう

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碑文ひぶん記述きじゅつ

  1. かみケモシュいかりのゆえに、いかにしてモアブがイスラエルおうオムリ征服せいふくされたか。メシャの勝利しょうりはオムリの息子むすこ名前なまえへの言及げんきゅうい)にのぞみ、ガドのアタロト、ネボ、ヤハツの人々ひとびとのぞむ。
  2. かれ公共こうきょう事業じぎょう要衝ようしょうにある要塞ようさい修復しゅうふくし、宮殿きゅうでん貯水池ちょすいち造営ぞうえいする。そして、
  3. かれホロナイムたいする戦争せんそう
עמרי מלך ישראלイスラエルのおうオムリ石碑せきひじょう明言めいげんされる

この碑文ひぶんは、れつおうした 3:4-27 に記録きろくされているメシャおう記述きじゅつおぎな裏付うらづけるものであるとの解釈かいしゃく可能かのうであり、そのことによって聖書せいしょ考古学こうこがく資料しりょうぐんなかでもひときわ顕著けんちょ地位ちい獲得かくとくする。しかしながら、それらにたいするおおきな意見いけん相違そういもある。聖書せいしょではモアブを征服せいふくしたのはオムリのアハブであり、反乱はんらんはアハブのヨラムたいするものである。さらに聖書せいしょでは、ケモシュがメシャに勝利しょうりあたえるのではなく、ヤハウェがヨラムに勝利しょうりあたえる。れつおうによれば、メシャが自分じぶん息子むすこを(かみへの)生贄いけにえとし、それを動揺どうようしたイスラエルが撤退てったいする。

複数ふくすうがたしめ語尾ごび -im が -in となるとうのわずかな相違そうい例外れいがいとして、碑文ひぶんモアブは、初期しょきヘブライ書式しょしき同一どういつである。そこにもちいられているモアブ文字もじは、セムけい言語げんごのうちもっとふるフェニキアけい文字もじである。この文字もじ形態けいたい意味いみする事柄ことがらは、アルファベット形成けいせい歴史れきしや、当時とうじモアブにおける文化ぶんか水準すいじゅんかんする、とても重要じゅうよう興味深きょうみぶか情報じょうほう提供ていきょうする。このメシャ、オムリとアハブとのあいだひろげられた英雄えいゆうてきたたかいを記録きろくした古代こだい記念きねんは、紀元前きげんぜん850ねんごろてられた。そう、「我々われわれは、かれ古代こだい世界せかい労働ろうどうしゃ自身じしんとききざんだ歴史れきしかれらのどう時代じだいじんみ、かれ自身じしん目撃もくげきしゃであったなんせんねんまえ出来事できごとしるした同一どういつ石板せきばんにしている」。

1994ねん、ルーヴル美術館びじゅつかんにあるメシャ碑文ひぶんと the paper squeeze of it 双方そうほう調しらべたのち、フランスじん学者がくしゃアンドレ・ルメールは、メシャ碑文ひぶんの31ぎょうに「ダビデいえ」とのフレーズがみとめられることを報告ほうこくした(in Biblical Archaeology Review [May/June 1994], pp. 30-37)。ルメールは破壊はかいされた1文字もじ、"[D]avid," 冒頭ぼうとうの "D" を補填ほてんして語句ごく解読かいどくしなければならなかった。31ぎょう後方こうほう位置いちするその完成かんせいぶんは、「Horonen のために、かれら[ダ]ビデのいえむ、」"As for Horonen, there lived in it the house of [D]avid," וחורננ. ישב. בה. בת[ד]וד.‎(ちゅうかく括弧かっこ[]でかこまれた文字もじ単語たんご補填ほてんされた文字もじ破壊はかいされたか、あるいはうしなわれた破片はへんじょうのもの)。たいていの学者がくしゃは、のどの文字もじ補填ほてんしても意味いみ解釈かいしゃくがもたらされないことにづく。バルク・マルガリットはそこにことなる文字もじ "m," を補填ほてんしようとこころみ、そのさらにいくつかの文字もじためした。その結果けっかしょうじたみが、「いま、Horoneyn は占領せんりょうされ、[まえ]にんの[エド]ムじんの[支配しはい]はおわり[焉]をむかえた。」"Now Horoneyn was occupied at the en[d] of [my pre]decessor['s reign] by [Edom]ites."(Baruch Margalit, "Studies in NWSemitic Inscriptions," Ugarit-Forschungen 26, p. 275).しかしながらマルガリットの解釈かいしゃくは、学術がくじゅつてき出版しゅっぱんぶつにおいておおきな支持しじあつめることはかった。

2001ねんべつのフランスじん学者がくしゃピエール・ボルドルイユ(fr:Pierre Bordreuil)は、かれ少数しょうすう学者がくしゃたちが、ルメールの「ダビデのいえ」というみを碑文ひぶんの31ぎょうから確認かくにんすることが出来できなかったと(フランス語ふらんすご小論文しょうろんぶんなかで)報告ほうこくした。(Pierre Bordreuil, "A propos de l'inscription de Mesha': deux notes," in P. M. Michele Daviau, John W. Wevers and Michael Weigl [Eds.], The World of the Aramaeans III, pp. 158-167, especially pp. 162-163 [Sheffield, England: Sheffield Academic Press, 2001]).

ただし、さらに時期じきに「ダビデのいえ」へ言及げんきゅうテル・ダン石碑せきひ断片だんぺんじょうに、アラムじんである敵国てきこくおうによって記述きじゅつされた。この献辞けんじ(メシャ碑文ひぶん)はイスラエルのてきモアブじんからなり、同様どうよう勝利しょうり自慢じまんする。もしルメールがただしいならば、『タイム』 1995ねん12月8にちごうべたように、これらはいまや、ダビデ王朝おうちょうかんする2つの初期しょき参考さんこう文献ぶんけんである。ひとつはメシャ碑文ひぶんぜん9世紀せいきなかごろ)、他方たほうはテル・ダン碑文ひぶんぜん9世紀せいきちゅうごろからまえ8世紀せいきなかごろ)。これら専門せんもんてき議論ぎろん全貌ぜんぼうについては、Lawrence J. Mykytiuk, _Identifying Biblical Persons in Northwest Semitic Inscriptions of 1200–539 B.C.E._, Academia Biblica series, no. 12 (Atlanta: Society of Biblical Literature, 2004), pp. 265-277 を参照さんしょうせよ。

1998ねん学者がくしゃアンソン・レイニーは、メシャ碑文ひぶん12ぎょうの2単語たんごאראל. דודה‎ を "its Davidic altar-hearth"「これらダビデのいえ祭壇さいだん」というこまらせる訳出やくしゅつをした。(Anson F. Rainey, "Mesha and Syntax," in _The Land That I Will Show You_, edited by J. Andrew Dearman and M. Patrick Graham, Supplement Series, no. 343 [Sheffield, England: Sheffield Academic Press, 2001], pp. 300-306).

聖書せいしょのモアブおうメシャ、および聖書せいしょきたイスラエル王国おうこくおうオムリと、メシャ碑文ひぶんない人物じんぶつ同一どういつせいについては、とりわけメシャ碑文ひぶん説話せつわが、聖書せいしょれつおう歴代れきだい説話せつわとうまく合致がっちすることから、学術がくじゅつてきなコミュニティーで一般いっぱんれられている。

しかしながら、メシャ碑文ひぶんないのダビデの同一どういつせいについては物議ぶつぎかもしたままである。この論争ろんそうには、メシャ碑文ひぶん31ぎょう断片だんぺんてき状態じょうたいであることからしょうじる側面そくめんと、1990年代ねんだいからしゅとしてヨーロッパの学者がくしゃたちあいだにある、ヘブライ聖書せいしょ旧約きゅうやく聖書せいしょ)の歴史れきしてき信頼しんらいせい問題もんだいにしたり退しりぞけたりする傾向けいこうからしょうじる側面そくめんとがある。ヨーロッパにおいて、P・R・デイヴィス、トマス・L・トンプソン(en:Thomas L. Thompson)、ニールス・P・レムシュらは聖書せいしょ史実しじつせい拒絶きょぜつするつよ傾向けいこうせるが、たいするアンドレ・ルメール、K・A・キチン(en:Kenneth Kitchen)、イェンス・ブルーン・コフォードやのヨーロッパの学者がくしゃたちはこの傾向けいこうとは無縁むえんである。おおくの学者がくしゃたちが、1つ、あるいは傾向けいこうかたむくが、実際じっさいには中立ちゅうりつてき立場たちばしめす。がいして、きたアメリカとイスラエルの学者がくしゃたちが、メシャ碑文ひぶんない聖書せいしょのダビデおうとの同一どういつせいしんじることをいとわない傾向けいこうがある。この論争ろんそう以外いがいにも、聖書せいしょちゅう言及げんきゅうされたダビデおう存在そんざい確証かくしょうする古代こだい碑文ひぶんにおいて、通常つうじょう、メシャ碑文ひぶんにはよりすくなく、テル・ダン石碑せきひにはよりおおくの焦点しょうてんあつまる。

本文ほんぶん

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本文ほんぶんモアブで、文字もじ現代げんだいヘブライえた。

1. אנכ. משע. בנ. כמש.. . מלכ. מאב. הד
2. יבני | אבי. מלכ. על. מאב. שלשנ. שת. ואנכ. מלכ
3. תי. אחר. אבי | ואעש. הבמת. זאת. לכמש. בקרחה | ב[נס. י]
4. שע. כי. השעני. מכל. המלכנ. וכי. הראני. בכל. שנאי | עמר
5. י. מלכ. ישראל. ויענו. את. מאב. ימנ. רבן. כי. יאנפ. כמש. באר
6. צה | ויחלפה. בנה. ויאמר. גמ. הא. אענו. את. מאב | בימי. אמר. כ[...]
7. וארא. בה. ובבתה | וישראל. אבד. אבד. עלמ. וירש. עמרי. את א[ר]
8. צ. מהדבא | וישב. בה. ימה. וחצי. ימי. בנה. ארבענ. שת. ויש
9. בה. כמש. בימי | ואבנ. את. בעלמענ. ואעש. בה. האשוח. ואבנ
10. את. קריתנ | ואש. גד. ישב. בארצ. עטרת. מעלמ. ויבנ. לה. מלכ. י
11. שראל. את. עטרת | ואלתחמ. בקר. ואחזה | ואהרג. את. כל. העמ. [מ]
12. הקר. רית. לכמש. ולמאב | ואשב. משמ. את. אראל. דודה. ואס
13. חבה. לפני. כמש. בקרית | ואשב. בה. את. אש. שרנ. ואת. אש
14. מחרת | ויאמר. לי. כמש. לכ. אחז. את. נבה. על. ישראל | וא
15. הלכ. הללה. ואלתחמ. בה. מבקע. השחרת. עד. הצהרמ | ואח
16. זה. ואהרג. כלה. שבעת. אלפנ. גברנ. ו[גר]נ | וגברת. וגר
17. ת. ורחמת | כי. לעשתר. כמש. החרמתה | ואקח. משמ. א[ת. כ]
18. לי. יהוה. ואסחב. המ. לפני. כמש | ומלכ. ישראל. בנה. את
19. יהצ. וישב. בה. בהלתחמה. בי | ויגרשה. כמש. מפני | ו
20. אקח. ממאב. מאתנ. אש. כל. רשה | ואשאה. ביהצ. ואחזה.
21. לספת. על. דיבנ | אנכ. בנתי. קרחה. חמת. היערנ. וחמת
22. העפל | ואנכ. בנתי. שעריה. ואנכ. בנתי. מגדלתה | וא
23. נכ. בנתי. בת. מלכ. ואנכ. עשתי. כלאי. האש[וח למי]נ. בקרב
24. הקר | ובר. אנ. בקרב. הקר. בקרחה. ואמר. לכל. העמ. עשו. ל
25. כמ. אש. בר. בביתה | ואנכ. כרתי. המכרתת. לקרחה. באסר
26. [י]. ישראל | אנכ. בנתי. ערער. ואנכ. עשתי. המסלת. בארננ.
27. אנכ. בנתי. בת. במת. כי. הרס. הא | אנכ. בנתי. בצר. כי. עינ
28. ----- ש. דיבנ. חמשנ. כי. כל. דיבנ. משמעת | ואנכ. מלכ
29. ת[י] ----- מאת. בקרנ. אשר. יספתי. על. הארצ | ואנכ. בנת
30. [י. את. מה]דבא. ובת. דבלתנ | ובת. בעלמענ. ואשא. שמ. את. [...]
31. --------- צאנ. הארצ | וחורננ. ישב. בה. ב
32. --------- אמר. לי. כמש. רד. הלתחמ. בחורננ | וארד
33. ---------[ויש]בה. כמש. בימי. ועל[...]. משמ. עש
34. -------------- שת. שדק | וא

わたしはメシャ、カモシ[アト](Kemosh[-yatti])の息子むすこ、ディボンのモアブのおうである。わたしちちはモアブのおうであった-

30年間ねんかんわたしわたしちちのちおうとなった。そしてわたしはこのたかところ[1]ケモシュ(Kemosh)のため Qarcho(または Qeriho、聖域せいいきないつくった

・・・なぜなら、かれはすべてのおうたちをわたしあたえ、なぜなら、かれは-わたし見下みおろせるようにされたからである-わたしのすべての

てきたちを。オムリはイスラエルのおうであり、かれ長年ながねんわたってモアブをしいたげていたが、このためにケモシュはいきどおっていた-

かれたいして。そしてかれ息子むすこかれ地位ちい君臨くんりんし、かれおなじくかたった。「わたしはモアブをしいたげるであろう!」。わたし日々ひび

かれはそうかたった。しかしわたしかれかれいえ[2]見下みおろし、そしてイスラエル敗北はいぼくした。それは

永久えいきゅう敗北はいぼくした!。そしてオムリはメデバうばい、かれはそこに居住きょじゅうした-

かれ自身じしん日々ひびかれ息子むすこ日々ひびなかばの期間きかん:40年間ねんかん。しかし、ケモシュはわたし日々ひびにそれを回復かいふくさせた。そしてわたしきずき- バアル・

メオンを、そのなか貯水池ちょすいち建造けんぞうした。そしてわたしは Qiryaten(キルヤタイム?) をきずいた。そしてガド人々ひとびとが-んでいた

アタロト-いにしえときから-;イスラエルのおうかれ自身じしんのためにきずいたアタロト、わたしたたかいを

仕掛しかけ-この都市としたいして-これを攻略こうりゃくした。そしてわたし都市としすべての人々ひとびところした-ケモシュへの犠牲ぎせいとして、

またモアブのために。そしてわたしはそこからかれ叔父おじゆかかえり、わたしはそれを-かえった-

Qerioit(ケリヨト?)のケモシュの面前めんぜんに。そしてわたしはシャロンの人々ひとびとをそこに定住ていじゅうさせた。-人々ひとびとについてもおなさまに-

Maharit の。そしてケモシュはわたしわれた。「け、イスラエルからネボうばえ」。そしてわたしよるき、たたかい-

夜明よあけから正午しょうごいたるまでこれと-、わたしはこれをにし、そしてわたしぜん住民じゅうみんころした。なな

せんにんおとこたち外国がいこくじんおんなたち外国がいこくじんぼく少女しょうじょたちわたしはそれに敢行かんこうした-

アシュタロト・ケモシュのために殺戮さつりく(the ban)を。そしてそこからわたしヤハウェ祭器さいき(the vessels)をうばい、わたしはそれらをささげた-

ケモシュの面前めんぜんに。そして、イスラエルのおうきずいたヤハツかれが-期間きかんちゅう滞在たいざいしたその場所ばしょ-

わたしたいする軍事ぐんじ行動こうどうの;ケモシュがわたしまえからかれはらった。そしてわたしは200にんおとこえら

モアブの、そのぜん師団しだん、これをわたし指揮しきしてヤハツにのぼった。わたしはこれをディボンにくわえるために、これを攻略こうりゃくした。わたし

Qarcho、そのかべ要塞ようさいかべきずき、わたしはそのもんきずき、

わたしはそのとうきずいた。そしてわたし王宮おうきゅうきずき、そしてわたし作成さくせいした-ついの-

貯水池ちょすいちを-都市とし最奥さいおうにあるいずみのための。さて、都市とし最奥さいおう-

Qarcho の-には水槽すいそうかったが、わたしすべての人々ひとびとかたった。「あなたかたいちにんひとりがかれ(ケモシュ)の-水槽すいそうつくるべきである-

いえで」。そしてわたしはイスラエルじん奴隷どれいもちい、Qarcho のほり開削かいさくした。わたしはアロエルをきずき、わたし

アルノンで軍用ぐんようどう整備せいびした。わたしベト・バモトきずいた、なぜならそれは破壊はかいされていたからである。わたし

ベツェルきずいた、なぜならそれは荒廃こうはいしていたからである。そしてディボンのおとこ戦闘せんとう隊形たいけいんだ、なぜならディボン全土ぜんど

従属じゅうぞくにあったからである。そしてわたしは、わたしがこのくわえたまち々のひゃくにん隊長たいちょうおうである。そして

わたしは、ベト・メデバ、Beth-Diblaten(ベト・ディブラタイム?)、ベト・バアル・メオンをきずき、わたしれてきた … れを-

このに。そしてホロナイム、そこに

… ケモシュはわたしわれた。「くだってけ、ホロナイムにたいたたかえ!」。わたしくだって

… ケモシュはわたし日々ひびにそれを回復かいふくされた …

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ high-place(こうしょ):神殿しんでん祭壇さいだんあらわ慣用かんよう。the Most High Place (いとこうしょ)と表現ひょうげんした場合ばあいにはてんあらわす。
  2. ^ ~のいえ人名じんめいであれば国家こっか王朝おうちょう意味いみし、かみめいであれば神殿しんでんあらわ慣用かんようとなる。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Franz Praetorius (1905-6), "Zur Inschrift des Meša`", in: Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft 59, pp. 33-35; 60, p. 402.
  • Dearman, J. Andrew (Ed.) (1989). Studies in the Mesha Inscription and Moab. Archaeology and Biblical Studies series, no. 2. Atlanta, Ga.: Scholars Press. ISBN 1-55540-357-3.
  • Davies, Philip R. (1992, 2nd edition 1995, reprinted 2004). In Search of 'Ancient Israel' Edinburgh: T. & T. Clark.
  • Horn, Siegfried H., "The Discovery of the Moabite Stone," in The Word of the Lord Shall Go Forth, Essays in Honor of David Noel Friedman in Celebration of His Sixtieth Birthday, (1983), Carol L. Meyers and M. O'Connor (eds.), pp. 488-505.
  • Lemaire, André (1994). "'House of David' Restored in Moabite Inscription." Biblical Archaeology Review 20 (3) May/June, pp. 30-37.
  • Margalit, Baruch ("1994"). "Studies in NWSemitic Inscriptions," Ugarit-Forschungen 26. Page 317 of this annual publication refers to "the recent publication (April, 1995) of two additional fragments" of another stele, therefore, the 1994 volume was actually published sometime after April 1995. On the Mesha stele inscription, see p. 275.
  • Parker, Simon B. (1997). Stories in Scripture and Inscriptions: Comparative Studies on Narratives in Northwest Semitic Inscriptions and the Hebrew Bible. New York: Oxford University Press. ISBN 0-19-511620-8. See pp. 44-46 for a clear, perceptive outline of the contents of the inscription on the Mesha stele.
  • Rainey, Anson F. (2001). "Mesha and Syntax." In J. Andrew Dearman and M. Patrick Graham (Eds.), The Land That I Will Show You, pp. 300-306. Supplement Series, no. 343. Sheffield, England: Sheffield Academic Press. ISBN 1-84127-257-4.
  • Mykytiuk, Lawrence J. (2004). Identifying Biblical Persons in Northwest Semitic Inscriptions of 1200–539 B.C.E. Academia Biblica series, no. 12. Atlanta, Ga.: Society of Biblical Literature. See pp. 95-110 and 265-277. ISBN 1-58983-062-8.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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