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ラファイエット

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ラファイエット侯爵こうしゃく
1791ねんのラファイエット中将ちゅうじょうジョセフ=デジレ・コート英語えいごばん
渾名あだな りょう世界せかい英雄えいゆう(The Hero of the Two Worlds 、Le Héros des Deux Mondes)[1]
生誕せいたん (1757-09-06) 1757ねん9月6にち
フランス王国おうこくシャヴァニアック
死没しぼつ (1834-05-20) 1834ねん5がつ20日はつか(76さいぼつ
フランスの旗 フランス王国おうこくパリ
ぐんれき 1771ねん - 1792ねん
1830ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう
  • 少将しょうしょう (アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく)
  • 中将ちゅうじょう (フランス)
除隊じょたい
署名しょめい
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ラファイエット侯爵こうしゃくマリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette、1757ねん9月6にち - 1834ねん5がつ20日はつか[2])は、フランス貴族きぞく軍人ぐんじん政治せいじである。たんに「ラファイエット」としてられる[注釈ちゅうしゃく 1]アメリカ独立どくりつ戦争せんそうではヨークタウンのたたかをはじめとする数々かずかず戦闘せんとうでアメリカぐん指揮しきした。そしてフランスに帰国きこくしたのち1789ねんフランス革命かくめい1830ねんフランス7がつ革命かくめい重要じゅうよう役割やくわりたした。 

概要がいよう

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ラファイエットは、フランスちゅう南部なんぶオーヴェルニュ英語えいごばんシャヴァニアック裕福ゆうふく領主りょうしゅ一家いっかまれた。軍人ぐんじんとなる一族いちぞく伝統でんとうしたがい、13さい士官しかん任官にんかんする。アメリカ独立どくりつ戦争せんそうにおけるアメリカの大義たいぎ崇高すうこうなものと確信かくしんするようになり、栄光えいこうもとめて新大陸しんたいりく旅立たびだった。19さい少将しょうしょうとなるが、当初とうしょ、アメリカぐん指揮しきすることはなかった。ブランディワインのたたか負傷ふしょうしたが、なんとか整然せいぜんとした退却たいきゃくおこない、ロードアイランドのたたかでは素晴すばらしいはたらきをせた。独立どくりつ戦争せんそう中盤ちゅうばんに、フランスの支援しえんやすロビー活動かつどうのためいち帰国きこく。1780ねんにアメリカへもどり、大陸たいりくぐん上級じょうきゅう指揮しきかんとなった。1781ねん、ヴァージニアでチャールズ・コーンウォリスひきいるイギリスぐんを、のアメリカ・フランスぐん布陣ふじんするまで足止あしどめし、ヨークタウンのたたかいで決定的けっていてき勝利しょうりた。

フランスに帰国きこく財政ざいせい危機きき対応たいおうするため1787ねん開催かいさいされた名士めいしかい任命にんめいされる。1789ねんにはフランスの3つの階級かいきゅう聖職せいしょくしゃ貴族きぞく平民へいみん代表だいひょうあつまったさん部会ぶかい英語えいごばん選出せんしゅつされた。憲法けんぽう制定せいてい国民こくみん議会ぎかい創設そうせつトーマス・ジェファーソン助力じょりょくて、人間にんげん市民しみん権利けんり宣言せんげん作成さくせい手伝てつだう。この文章ぶんしょうアメリカ独立どくりつ宣言せんげん影響えいきょうけたもので、民主みんしゅ主義しゅぎ国家こっか基本きほん原則げんそく確立かくりつするための自然しぜんほうもととしていた。また、自然しぜんけん哲学てつがくまえて、奴隷どれい制度せいど廃止はいし提唱ていしょうした。バスティーユ襲撃しゅうげきのち国民こくみん衛兵えいへい司令しれいかん任命にんめいされ、革命かくめいちゅう中道ちゅうどうであろうとつとめた。1792ねん8がつ急進きゅうしんかれ逮捕たいほ命令めいれいすると、オーストリアりょうネーデルラントへ逃亡とうぼう。そこでオーストリアぐんつかまり、5ねん以上いじょう牢獄ろうごくごした。

1797ねんナポレオン・ボナパルト自由じゆう保障ほしょうするとフランスに帰国きこくしたが、ナポレオン政権せいけんへの参加さんか拒否きょひした。1814ねん王政おうせい復古ふっこ自由じゆう主義しゅぎ上院じょういん議員ぎいんとなり、ぬまでほとんどのあいだ、そのしょくつとめた。1824ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくジェームズ・モンロー大統領だいとうりょうから国賓こくひんとしてまねかれ、ぜん24しゅう訪問ほうもん英語えいごばんだい歓迎かんげいける。1830ねんのフランス7がつ革命かくめいでは、フランスの独裁どくさいしゃとなる要請ようせいことわり、ルイ・フィリップ王位おういくのを支持しじしたが、おう専制せんせいてきになると反対はんたいとなった。1834ねん5がつ20日はつか死去しきょ。パリのピクピュス墓地ぼち英語えいごばんバンカーヒル埋葬まいそうされた。ラファイエットは、フランス・アメリカ両国りょうこくでの活躍かつやくから「りょう大陸たいりく英雄えいゆう(The Hero of the Two Worlds 、Le Héros des Deux Mondes)」としてられている。

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ラファイエットは、1757ねん9がつ6にちオーヴェルニュ英語えいごばんしゅう現在げんざいオート=ロワールけんル・ピュイ=アン=ヴレちかくのシャヴァニアックにあるシャヴァニアックじょう英語えいごばんで、擲弾へい大佐たいさであったブルターニュ貴族きぞく[3]ラファイエット侯爵こうしゃくミシェル・ルイ・クリストフ・ロシュ・ジルベール・ポーレット・デュ・モティエ英語えいごばんとオーヴェルニュ貴族きぞく[3]のマリー・ルイーズ・ジョリー・ド・ラ・リヴィエール(Marie Louise Jolie de La Rivière)のあいだまれた[4]

オーヴェルニュ英語えいごばんシャヴァニアック=ラファイエットにあるラファイエットの生家せいか
ラファイエットのつまマリー・アドリエンヌ・フランソワーズ英語えいごばん

ラファイエットの血筋ちすじは、オーヴェルニュで、おそらくはフランス全土ぜんどにおいても、もっと歴史れきしがあり、かつ著名ちょめい血筋ちすじひとつである。ラファイエット英語えいごばんおとこたちは、勇気ゆうき騎士きしどう精神せいしん名声めいせい獲得かくとくし、危険きけんおそれないことでられてきた[5]とお先祖せんぞ一人ひとりに、1429ねんオルレアン包囲ほういせんジャンヌ・ダルクとともにたたかったフランス元帥げんすいジルベール・ド・ラファイエット3せいがいる。伝説でんせつによれば、先祖せんぞだい6かい十字軍じゅうじぐんいばらかんむり英語えいごばんれたとされる[6]母方ははかた先祖せんぞ高貴こうきであり、曾祖父そうそふ母親ははおや母方ははかた祖父そふ)はラ・リヴィエール(La Rivière)伯爵はくしゃくで、1770ねん死去しきょするまで、ルイ15せい親衛しんえい騎馬きばたいである親衛しんえいじゅうたい英語えいごばん別名べつめいくろじゅうたい隊長たいちょうつとめた[7]。ラファイエットの父方ちちかた伯父おじジャック=ロシュ(Jacques-Roch)は、1734ねん1がつ18にちポーランド継承けいしょう戦争せんそうなかミラノでのオーストリアぐんとの戦闘せんとう戦死せんしした。それによりかれおとうとであるミシェルが侯爵こうしゃくいだ[8]

ラファイエットのちちミシェルも1759ねん8がつ1にちミンデンのたたかイギリスひきいる同盟どうめいぐんとの戦闘せんとうちゅう砲弾ほうだんたり戦死せんしした[9]。ラファイエットは侯爵こうしゃくとシャヴァニアックきょういだが、財産ざいさん母親ははおや相続そうぞく[9]。ラファイエットは収入しゅうにゅうすくないため、国王こくおうから780リーブル年金ねんきんあたえられた[3]。ラファイエットのははは、おそらくはおっとうしなったショックから、ちち祖父そふむためパリへし、のこされたラファイエットは、持参じさんきんともしろおくられていた父方ちちかた祖母そぼシャヴァニアック夫人ふじん(Mme de Chavaniac)によりシャヴァニアックでそだてられた[8]

1768ねん、ラファイエットが11さいとき、パリにばれ、リュクサンブール宮殿きゅうでんうちのラ・リヴィエール伯爵はくしゃくてい母親ははおや曾祖父そうそふらした。ラファイエットはパリ大学だいがく一部いちぶであるコレージュ・ドゥ・プレシ(Collège du Plessis)にはいり、一族いちぞく伝統でんとうである軍人ぐんじんみちぐことをめた[10]曾祖父そうそふのラ・リヴィエール伯爵はくしゃくは、ラファイエットを将来しょうらいじゅうとなるための訓練くんれん教程きょうていれた[11]。1770ねん4がつ3にちと24にちはは曾祖父そうそふがそれぞれくなり、25,000リーブルの収入しゅうにゅうのこされた。また叔父おじにより、12さいとし12まんリーブルもの収入しゅうにゅう相続そうぞくした[9]。このように財産ざいさん相続そうぞくしたことで、ラファイエットはブルターニュとオーヴェルニュ、トゥーレーヌなどに領地りょうちだい領主りょうしゅとなった[12]

1771ねん5月、ラファイエットは14さいになるまえじゅうたい士官しかん少尉しょうい任命にんめいされた。軍事ぐんじパレードでの行進こうしん国王こくおうつかえるなど、かれ職務しょくむはほとんど儀礼ぎれいてきなものであり、つづ学業がくぎょうつづけた[13]

このころ、アヤン公爵こうしゃくジャン=ポール=フランソワ・ド・ノアイユ英語えいごばんは、5にんむすめ何人なんにんかをとつがせようとしていた。14さいのラファイエットは、ノアイユの12さいむすめマリー・アドリエンヌ・フランソワーズ英語えいごばんとお似合にあいにおもわれ、庇護ひごしゃであったラファイエットの叔父おじはなしけた[14]。しかしこの縁談えんだんは、二人ふたりとくむすめわかすぎるとおもったノアイユのつま英語えいごばん反対はんたいされた。ただし2年間ねんかん結婚けっこんくちにしないと合意ごういすることで解決かいけつし、そのあいだ将来しょうらい結婚けっこん相手あいて2人ふたり時々ときどきカジュアルない、たがいをるようになった[15]。この計画けいかくはうまくいき、二人ふたりこいちて、結婚けっこんから1807ねんにアドリエンヌがぬまでしあわせにごした[16]

はなれふつ

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アメリカ独立どくりつ運動うんどうとの出会であ

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アメリカ独立どくりつ運動うんどうくわわることを決意けついした場所ばしょであるメスの、知事ちじ公邸こうていまえにあるラファイエットのぞう

1773ねん婚姻こんいん契約けいやくむすんだのち、ラファイエットはつまヴェルサイユにある義父ぎふいえんだ。そしてヴェルサイユの乗馬じょうば学校がっこう同級生どうきゅうせいにはのちのシャルル10せいもいた)と、名門めいもんアカデミー・ド・ヴェルサイユAcadémie de Versailles)で学業がくぎょうつづけた。1773ねん4がつには、義父ぎふ要請ようせいにより国王こくおう連隊れんたいからうつ[17]、ノアイユの竜騎兵りゅうきへいたい中尉ちゅういにんじられた[18]。ラファイエット夫妻ふさい毎週まいしゅう王妃おうひ舞踏ぶとうかい出席しゅっせきしたが、ラファイエットはダンス下手へたマリー・アントワネットにからかわれ、さけよわく、宮廷きゅうていないでうまくまわれなかった[19]

1775ねん、ラファイエットはメスおこなわれた所属しょぞく部隊ぶたい年度ねんど演習えんしゅう参加さんかし、そこで東部とうぶ方面ほうめんぐん司令しれいかんルフェック侯爵こうしゃくシャルル=フランソワ・ド・ブログリー英語えいごばん出会であった。夕食ゆうしょくにんはイギリスの北米ほくべい植民しょくみんきている反乱はんらんについて議論ぎろんした。ラファイエットは父親ちちおやころしたイギリスをにくんでいて、イギリスが敗北はいぼくすればその国際こくさいてき地位ちい低下ていかするとかんがえていた、という見解けんかいがあり[20]、また、フリーメイソン加入かにゅうしてあいだもないラファイエットが、反乱はんらんについてはなすことで、「『自由じゆうのためにたたか人々ひとびと』としてのアメリカじん姿すがたが、かれ騎士きしどうてきそしていまやフリーメイソンてき創造そうぞうりょくけた」としるものもいる[21]

ヨハン・ド・カルブ英語えいごばん男爵だんしゃくひだり)がラファイエット(中央ちゅうおう)を サイラス・ディーン紹介しょうかいした場面ばめんアロンソ・チャペル英語えいごばん。1879ねん

1775ねん9がつ、18さいになったラファイエットはパリにもどり、結婚けっこんのプレゼントとして約束やくそくされていた竜騎兵りゅうきへい隊長たいちょうとなった。12月には最初さいしょ子供こども、アンリエット(Henriette)がまれた。このあいだにラファイエットは、アメリカ独立どくりつ戦争せんそう自分じぶん信念しんねんうと確信かくしんするようになり[22]、「わたししんささげられた」とかたった[23]

1776ねんには、サイラス・ディーンふくむアメリカの使節しせつとルイ16せいシャルル・ド・ヴェルジェンヌ英語えいごばん外務がいむ大臣だいじんとのあいだで、繊細せんさい交渉こうしょうおこなわれた。ルイ16せいとヴェルジェンヌは、アメリカじん武器ぶき士官しかんおくることで、きたアメリカにおけるフランスの影響えいきょうりょく回復かいふくし、イギリスにたいななねん戦争せんそうでの敗北はいぼく復讐ふくしゅうたすことをのぞんでいた。ラファイエットはフランス士官しかんがアメリカへおくられるはなしくと、それにくわわることをもとめた。かれはディーンにい、若年じゃくねんかかわらず参加さんかみとめられた。1776ねん12月7にち、ディーンはラファイエットを少将しょうしょうけた[24]

フランスがアメリカに士官しかんとその支援しえんおく計画けいかくは、イギリスにられるとかえし、戦争せんそうとなるおそれがあった。ラファイエットの義父ぎふノアイユはラファイエットをしかり、かれにロンドンへき、ちゅうえい大使たいしでラファイエットの義理ぎり叔父おじであるノアイユ侯爵こうしゃく英語えいごばんたずねるようつたえ、1777ねん2がつにラファイエットはそうした。しかしそのあいだもラファイエットはアメリカきの計画けいかくてなかった。ラファイエットはジョージ3せい紹介しょうかいされ、ロンドンの社交しゃこうかいで3週間しゅうかんごした。そしてフランスへの帰国きこく途中とちゅうに、義父ぎふからかくし、アメリカへくつもりであると手紙てがみいた。ノアイユは激怒げきどし、ルイ16せいに、とくにラファイエットの名前なまえげて、フランスの士官しかんがアメリカにくのを禁止きんしする命令めいれいすよう説得せっとくした。ヴェルジェンヌがラファイエット逮捕たいほめいじるよう国王こくおう説得せっとくした可能かのうせいもあるが、さだかでない[25]

アメリカへ出発しゅっぱつ

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ラファイエットが1777ねん3がつ25にちにアメリカへ出航しゅっこうしたポーイヤックにあるラファイエット広場ひろば(Plaza Lafayette)
スペイン、バスクしゅうパサイアにある、1777ねんのラファイエットの出発しゅっぱつ記念きねんする銘板めいばん

ラファイエットは大陸たいりく会議かいぎにはかれ旅費りょひ資金しきんがないとり、みずから112,000ポンドをして帆船はんせん「ヴィクトワール(Victoire)」を購入こうにゅうした[26][27]。「ヴィクトワール」がつボルドーへき、家族かぞく反応はんのうたずねる手紙てがみおくった。かれつま親族しんぞくからの手紙てがみはラファイエットを心理しんりてき動揺どうようさせた。同行どうこうした士官しかん不満ふまんのため、出航しゅっこうすぐに、ラファイエットはふね反転はんてんさせボルドーへもどった。ボルドーのぐん司令しれいかんはラファイエットにマルセイユにいる義父ぎふ連隊れんたい報告ほうこくするよう命令めいれいした。アメリカで軍事ぐんじおよび政治せいじのリーダーになることをのぞんでいたブログリーはラファイエットにボルドーでい、じつ政府せいふはラファイエットをアメリカへかせたがっているとしんじさせた。アメリカ独立どくりつ運動うんどう人気にんきだったパリではラファイエット支援しえんうごきも相当そうとうあったが、ブログリーのはなし事実じじつではなかった。ラファイエットはそれをしんじようとし、マルセイユへの報告ほうこく命令めいれいしたがうふりをしひがしすうマイルおこなったところで逆戻ぎゃくもどりしせんかえった。「ヴィクトワール」は1777ねん3がつ25にちジロンドがわきしポーイヤック出航しゅっこう新大陸しんたいりくへの2ヶ月かげつあいだ船酔ふなよいと退屈たいくつたびであった[28]船長せんちょうのルボルシェ(Lebourcier)[27]西にしインド諸島しょとう積荷つみにるつもりであったが、逮捕たいほおそれたラファイエットは寄港きこう阻止そしのため積荷つみにった[29]。そして1777ねん6がつ13にちサウスカロライナしゅうジョージタウン英語えいごばんちかくのノースアイランドに上陸じょうりくした[30][31]

アメリカ独立どくりつ戦争せんそう

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ラファイエットはアメリカに到着とうちゃくすると、裕福ゆうふく地主じぬしベンジャミン・ハガー英語えいごばん少佐しょうさい、かれと2週間しゅうかんごしたのち、フィラデルフィアへかった。大陸たいりく会議かいぎは、ディーンにより募集ぼしゅうされたものの、そのおおくが英語えいごはなせなかったり、軍隊ぐんたい経験けいけんとぼしいフランスじん士官しかんたちに閉口へいこうしていた。ラファイエットは途中とちゅう英語えいごすこまなんでおり(到着とうちゃく1ねんらずで流暢りゅうちょうになった)、フリーメイソンであることがフィラデルフィアで活躍かつやくするみちひらいた。ラファイエットは無償むしょう奉仕ほうしもう大陸たいりく会議かいぎは1777ねん7がつ31にちかれ少将しょうしょう任命にんめいした[32][33]。ラファイエットの庇護ひごしゃには、最近さいきんフランスに到着とうちゃくしたアメリカの使節しせつベンジャミン・フランクリンもおり、大陸たいりく会議かいぎたいしラファイエットをれることをうなが手紙てがみいていた[34]

ラファイエットとジョージ・ワシントン初対面しょたいめん、1777ねん8がつ5にちCurrier and Ives英語えいごばん

大陸たいりくぐんそう司令しれいかんジョージ・ワシントン将軍しょうぐんは、大陸たいりく会議かいぎ軍事ぐんじ問題もんだいかんする指示しじあたえるためにフィラデルフィアへやってた。ラファイエットは1777ねん8がつ5にち晩餐ばんさんでワシントンにった。リープソンによれば、「二人ふたりはほとんどすぐにきずなむすんだ」[35]。ワシントンはラファイエットの熱意ねつい感銘かんめいけ、このメイソンをおもうようになった。一方いっぽう、ラファイエットはワシントンにただただ畏敬いけいねんいていた[35]。ワシントンはラファイエットに兵営へいえいせたが、その軍隊ぐんたい有様ありさまずかしさをあらわにした。これにたいしラファイエットは「わたしまなびにたのであり、おしえにたのではありません」とこたえた[36]。ラファイエットはその立場たちばかん混乱こんらんがあったものの、ワシントンの幕僚ばくりょうくわわった。大陸たいりく会議かいぎはその任務にんむ名誉めいよてきなものとなしていたが、ラファイエット自身じしんは、ワシントンがかれまかせる用意よういがあるとかんがえたときには、師団しだん指揮しきあたえられるいち人前にんまえ指揮しきかんであるとかんがえていた。ワシントンはラファイエットに外国がいこくじんであることから師団しだんまかせられないが、「友人ゆうじんかつ父親ちちおや」としてかれ内々ないない手元てもとくことをよろこんでいるとかたった[37]

ブランディワイン、バレーフォージ、オルバニー

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ブランディワインのたたかいで負傷ふしょうしたラファイエット

ラファイエットの初戦しょせんは、1777ねん9がつ11にちブランディワインのたたかであった[38]。イギリスぐん指揮しきするウィリアム・ハウ将軍しょうぐんは、(強固きょうこまもられていたデラウェアわんではなく)ふねみなみチェサピークわん部隊ぶたい輸送ゆそうし、反乱はんらんぐん首都しゅとかわせて、フィラデルフィア攻撃こうげき計画けいかくした[39] 。イギリスぐんがアメリカぐん背後はいごまわると、ワシントンはラファイエットをおくり、ジョン・サリバン将軍しょうぐん合流ごうりゅうさせた。合流ごうりゅう、ラファイエットはトマス・コンウェイ英語えいごばんじゅんしょう指揮しきするだい3ペンシルバニア旅団りょだんとともに行動こうどうし、攻撃こうげき対峙たいじするため部隊ぶたいあつめようとした。イギリスへいヘッセンへい英語えいごばんかずまかせて前進ぜんしんつづけ、ラファイエットはあし銃弾じゅうだんけた。アメリカぐん退却たいきゃくするあいだ、ラファイエットはきず治療ちりょうをせずに部隊ぶたいなおし、秩序ちつじょだった撤退てったい可能かのうにした[40]たたかいののち、ワシントンはラファイエットの「勇敢ゆうかんさと軍事ぐんじへの熱意ねつい」について言及げんきゅうし、そのつきわりにイギリスぐんがフィラデルフィアを占領せんりょうしたためあわててげた大陸たいりく会議かいぎへの手紙てがみなかで、ラファイエットを師団しだん指揮しきかんとすることを推薦すいせんした[30]

ラファイエットはベスレヘムにあったモラヴィア兄弟きょうだいだん入植にゅうしょくで2かげつあいだ療養りょうようし、11月に戦場せんじょう復帰ふっきした。そしてアダム・ステファン英語えいごばん少将しょうしょうひきいていた師団しだん指揮しきいだ[41]。ニュージャージーのイギリスぐん偵察ていさつするナサニエル・グリーン将軍しょうぐん支援しえんし、1777ねん11月24にちへい300めいグロスターかず上回うわまわるヘッセンへい勝利しょうりした英語えいごばん[42]

バレーフォージのラファイエット(みぎ)とワシントン。ジョン・ワード・ダンズモア(John Ward Dunsmore)

ラファイエットは1777ねんから78ねんふゆバレーフォージかれたワシントンの野営やえいごし、兵士へいし苦難くなんともにした[43]ホレイショ・ゲイツひきいる戦争せんそう委員いいんかい英語えいごばんは、ラファイエットにニューヨークしゅうオルバニーからケベック英語えいごばん侵攻しんこうする準備じゅんび依頼いらいした。オルバニーにいたラファイエットは、侵攻しんこうには兵士へいしすくなすぎるとった。ワシントンに状況じょうきょう報告ほうこくする手紙てがみき、バレーフォージへもど計画けいかくてた。出発しゅっぱつするまえ、ラファイエットが「Kayewla(おそろしい騎手きしゅ)」としるしたオナイダぞく英語えいごばんを、アメリカがわ徴募ちょうぼした[30]。バレーフォージでラファイエットはふゆにケベックを侵攻しんこうしようとする戦争せんそう委員いいんかい決定けってい批判ひはんした。大陸たいりく会議かいぎはこれに同意どういし、ゲイツは戦争せんそう委員いいんかいった[44]。そのあいだべいふつあいだ締結ていけつされた同盟どうめいが1778ねん3がつおおやけにされ、フランスが正式せいしきにアメリカの独立どくりつ承認しょうにんした[6]

バレン・ヒル、モンマス、ロードアイランド

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ラファイエットの副官ふっかん、ミシェル・カピテーヌ・デュ・シェスノワ(Michel Capitaine du Chesnoy)によるバレン・ヒルのたたか英語えいごばん地図ちず

フランスの介入かいにゅう兆候ちょうこうたいして、イギリスはニューヨークに陸海りくかいぐん集結しゅうけつしようとし[45]、1778ねん5がつにフィラデルフィアへ撤退てったい開始かいしした。ペンシルバニアのバレン・ヒル英語えいごばん付近ふきん偵察ていさつするため、ワシントンは5月18にち、ラファイエットとへい2,200めいおくした。その翌日よくじつ、イギリスぐんちかくでラファイエットが宿営しゅくえいしていることをり、かれらえるためへい5,000めいおくった。ハウは5がつ20日はつか、さらに6,000めいひきいてラファイエットの左翼さよく攻撃こうげき命令めいれいした。側面そくめんくずされたものの、イギリスぐん優柔不断ゆうじゅうふだんでいるあいだに、ラファイエットは秩序ちつじょった退却たいきゃくおこなった。かずてき優位ゆういよそおうため、ラファイエットは兵士へいしに、いわ現在げんざいラファイエット・ヒル英語えいごばん)のうえもりから姿すがたせ、イギリスぐんかえ射撃しゃげきするよう命令めいれいした[46]。ラファイエットの部隊ぶたい同時どうじ切通きりとおし経由けいゆ脱出だっしゅつし、マットソンの浅瀬あさせ(Matson's Ford)を渡河とかすることができた[47]

ラファイエットの副官ふっかんであったミシェル・カピタン・ドゥ・シェスノイ(Michel Capitaine du Chesnoy)によるモンマスのたたか地図ちず

そのイギリスぐんはフィラデルフィアからニューヨークへ移動いどうした。大陸たいりくぐんい、ニュージャージー中部ちゅうぶモンマス・コートハウス英語えいごばん攻撃こうげきをかけた(モンマスのたたか[6]当初とうしょラファイエットがへい4000をひきいる指揮しきかんとなったが、たたかいがおおきくなりそうなのをチャールズ・リー将軍しょうぐん指揮しきけん要求ようきゅうしたため、ワシントンは指揮しきかんをリー将軍しょうぐん変更へんこうした[48]。リーは6がつ28にちにイギリスぐん側面そくめん移動いどうしたが、戦闘せんとう開始かいしあいだもなく矛盾むじゅんする命令めいれいし、アメリカへい混乱こんらんをもたらした。ラファイエットはワシントンに前線ぜんせんるよう伝言でんごんおくり、ワシントンが到着とうちゃくしたときにはリーのへい退却たいきゃくちゅうであった。ワシントンはリーを罷免ひめんしてみずか指揮しきり、アメリカぐんなおした。モンマスでかなりの損害そんがいけたイギリスぐん夜間やかん撤退てったいし、無事ぶじニューヨークへたどりいた[49]

デスタン英語えいごばん提督ていとくひきいるフランス艦隊かんたいが1778ねん7がつ8にち、デラウェアわん到着とうちゃく。ワシントンはフランス艦隊かんたいとともに、北部ほくぶのイギリスぐん根拠地こんきょちであるニューポート攻撃こうげきする計画けいかくてた。ラファイエットとグリーン将軍しょうぐん攻撃こうげき参加さんかのため3000めい兵士へいしとともに派遣はけんされた。ラファイエットはふつべい連合れんごうぐん指揮しきることをのぞんだが、デスタンに拒絶きょぜつされた。8月9にち、アメリカぐんはデスタンに相談そうだんすることなくイギリスぐん攻撃こうげき。アメリカぐんはデスタンに艦隊かんたいナラガンセットわんれるよう要請ようせいしたが、デスタンは拒否きょひし、海上かいじょうでイギリス艦隊かんたいやぶろうとした[4]。その海戦かいせんあらしりょうぐん艦隊かんたい四散しさんさせ被害ひがいあたえたため決着けっちゃくせずにわった[30]

1778ねん8がつ30にち時点じてんの、ナラガンセットわん周辺しゅうへんのラファイエットとサリバンの配置はいちしるしたフランスぐん地図ちず

デスタンは修理しゅうりのため艦隊かんたいをボストンにかわせたが、フランス艦隊かんたいがニューポートからげたとかんがえたボストン市民しみん抗議こうぎ行動こうどうった。ジョン・ハンコックとラファイエットが事態じたい沈静ちんせいさせるため派遣はけんされ、そのラファイエットはデスタンの行動こうどうにより撤退てったい必要ひつようになったロードとうもどった[50]。これらの行動こうどうたいして大陸たいりく会議かいぎは、ラファイエットは「勇敢ゆうかんかつ熟練じゅくれん慎重しんちょう」であるとひょうした[30]。ラファイエットは戦争せんそう拡大かくだいさせて、フランスのはたもとで、アメリカの地域ちいきや、さらにはヨーロッパでイギリスぐんたたかうことをのぞんだが、その提案ていあんはあまり関心かんしんたれていないとった。1778ねん10がつ、ラファイエットはワシントンと大陸たいりく議会ぎかいにフランスへの帰国きこく要望ようぼうみとめられる。そして大陸たいりく議会ぎかいはラファイエットに儀礼ぎれいけんおくることを議決ぎけつした。病気びょうきのため出発しゅっぱつおくれたものの、ラファイエットは1779ねん1がつにフランスへ出航しゅっこうした[51]

フランスへ帰国きこく

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ラファイエットは1779ねん2がつパリに帰着きちゃくしたが、国王こくおういのちそむいてアメリカにったため、8日間にちかん軟禁なんきんとなった[30]。これはたんルイ16せいかおてたにすぎず、ラファイエットは英雄えいゆうとして歓迎かんげいされ、すぐにおうとのりに招待しょうたいされた[52]。アメリカの使節しせつ病気びょうきのため、ベンジャミン・フランクリンのまごウィリアム・テンプル・フランクリン英語えいごばんがラファイエットに大陸たいりく会議かいぎからたくされたきんメッキの儀礼ぎれいけんおくった[53]

ラファイエットはみずからフランスぐんひきいてイギリスへ侵攻しんこうすることを主張しゅちょうした。スペインがたいイギリスの同盟どうめいこくとなり、支援しえんのためイギリス海峡かいきょう艦船かんせんおくったが、スペインかんは1779ねん8がつまで到着とうちゃくせず、フランス・スペイン連合れんごう艦隊かんたい捕捉ほそくできないイギリスのより高速こうそく艦隊かんたいせってきされた。9月に侵攻しんこう計画けいかく破棄はきされ、ラファイエットはそののぞみをアメリカへもどることに変更へんこうした[54]。1779ねん12月、アドリエンヌはジョルジュ・ワシントン・ラファイエット英語えいごばんんだ[55]

ラファイエットはベンジャミン・フランクリンとともに、ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー将軍しょうぐんひきいる6,000のへいをアメリカへおく約束やくそくまもるため活動かつどうした[30]。ラファイエットはアメリカぐん少将しょうしょう復帰ふっきし、べいふつかくぐん指揮しきするロシャンボーとワシントンとの連絡れんらくがかりとなることになった。1780ねん3がつフリゲふりげト艦とかんエルミオンヌ英語えいごばん」でアメリカへけ、ロシュフォール出発しゅっぱつ[56][57]同年どうねん4がつ27にちにボストンに到着とうちゃくした[58]

1780ねんにラファイエットをアメリカへはこんだフランスのフリゲふりげト艦とかん「エルミオンヌ」

度目どめのアメリカゆき

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ラファイエットはアメリカにもどると、独立どくりつ運動うんどうとく南部なんぶにおけるすう軍事ぐんじてき敗北はいぼくにより停滞ていたいしていることをった[59]。ラファイエットはあたかも「アメリカをすくうために騎士きしどう時代じだいからた、かがやよろいけた騎士きし」としてられ、ボストンでは熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいされた[60]かれ南西なんせいかい、1780ねん5がつ10日とおかモリスタウンでワシントンとさい合流ごうりゅうした。ワシントンとその幕僚ばくりょうは、フランスの大軍たいぐんかれらを支援しえんするためアメリカにることをラファイエットに約束やくそくしたといてよろこんだ[61]。ラファイエットの人気にんき認識にんしきしたワシントンは、ラファイエットに植民しょくみん役人やくにんてによりおおくの兵士へいし食料しょくりょう大陸たいりくぐん供出きょうしゅつするよううなが手紙てがみかせた(アレクサンダー・ハミルトンがスペルをなおした)[62]。これはラファイエットがフランス艦隊かんたい到着とうちゃくあいだすうげつむすんだ[63]。しかし艦隊かんたい到着とうちゃくしたときにはおもったよりすくない兵士へいし物資ぶっししかなく、ロシャンボーは増援ぞうえんち、それからイギリスぐんたたかうことにめた。ニューヨークほかの地域ちいき奪取だっしゅする大胆だいたん計画けいかく提案ていあんしたラファイエットは不満ふまんをあらわにし、ロシャンボーはラファイエットが謝罪しゃざいするまでかれれることをはっきりと拒否きょひした。ワシントンはラファイエットに我慢がまんするよう忠告ちゅうこくした[64]

大陸たいりくぐん少将しょうしょう軍服ぐんぷくたラファイエット。チャールズ・ウィルソン・ピール

そのなつ、ワシントンはラファイエットに1個いっこ師団しだんまかせた。ラファイエットは自分じぶん部隊ぶたいしげもなくかね使つかい、ノーザン・ニュージャージー英語えいごばんとニューヨーク植民しょくみんをパトロールした。ラファイエットは重要じゅうよう行動こうどうをすることもなく、11月にワシントンは師団しだん解散かいさんさせ、兵士へいしをそれぞれの植民しょくみん連隊れんたいもどした。戦況せんきょうはアメリカにとってくなく、南部なんぶにおける大半たいはん戦闘せんとう不利ふりはこび、そしてベネディクト・アーノルド将軍しょうぐんはイギリスぐん寝返ねがえった[65]

ラファイエットは1780-81ねんふゆのはじめをフィラデルフィアでごし、アメリカ哲学てつがく協会きょうかいかれ外国がいこくじんはつ会員かいいんえらんだ。大陸たいりく会議かいぎはラファイエットにフランスへ帰国きこく兵士へいし物資ぶっし支援しえんするロビー活動かつどうおこなうようたのんだが、ラファイエットは拒否きょひし、わりに手紙てがみおくった[66]

大陸たいりくぐんが1781ねん1がつのサウスカロライナにおけるカウペンスのたたか勝利しょうりしたのち、ワシントンはラファイエットに、フィラデルフィアのかれ部隊ぶたいさい編成へんせいし、ヴァージニアへかい、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン指揮しきする部隊ぶたい合流ごうりゅうするよう命令めいれいした。この連合れんごう部隊ぶたいはベネディクト ・アーノルドが指揮しきするイギリスぐんを、うみへの脱出だっしゅつ阻止そしするフランス艦隊かんたいとともに捕捉ほそくしようとした。もしこれに成功せいこうしていれば、アーノルドはただちに絞首刑こうしゅけいになっていた。ラファイエットとかれ部隊ぶたい一部いちぶのこりはアナポリスにのこされた)はヨークタウンでシュトイベンに合流ごうりゅうすることができたが、イギリスがわ制海権せいかいけんにぎ計画けいかくふせがれた。シュトイベンはワシントンに陸上りくじょう部隊ぶたいとフランス艦隊かんたいもちいてチャールズ・コーンウォリスひきいるイギリスの本隊ほんたいわなにかける計画けいかく提案ていあんした。ワシントンからあらたな命令めいれいけなかったラファイエットはペンシルベニアへきた移動いどう開始かいししたが、結局けっきょく軍事ぐんじ行動こうどう想定そうていされるヴァージニアへ移動いどうするよう命令めいれいされるだけにわった。激怒げきどしたラファイエットは決定的けっていてきたたかいが場所ばしょおこなわれているのに僻地へきち見捨みすてられているとおもみ、無駄むだ命令めいれい反対はんたいした。また、フィラデルフィアにいるフランス大使たいしアンヌ=セザール・ド・ラ・ルゼーヌ英語えいごばんに、部隊ぶたい補給ほきゅうとぼしい状態じょうたいにあるとの手紙てがみおくった。ラファイエットがのぞんだとおり、ルゼーヌは強力きょうりょくなフランスの支援しえん勧告かんこくする手紙てがみ本国ほんごくおくった。これは国王こくおう承認しょうにんされ、きたるべきたたかいで決定的けっていてき役割やくわりになうこととなる。手紙てがみがイギリスぐんうばわれることをおそれていたワシントンは、勝負しょうぶけっする戦役せんえきでコーンウォリスをわなにかけようと計画けいかくしていることをラファイエットにつたえることができなかった[67]

バージニアおよびヨークタウン

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ヨークタウンのたたかいの重要じゅうよう地点ちてん地図ちず

ラファイエットは、リッチモンドかれらえようとするコーンウォリスからのがれた[68]。1781ねん6がつ、コーンウォリスはチェサピークわん前進ぜんしんし、陸路りくろでのフィラデルフィア攻撃こうげきそなえてみなと建設けんせつ監督かんとくするよう、ロンドンから命令めいれいけた[68]。イギリスぐん移動いどうすると、ラファイエットはしょう部隊ぶたいおくり、不意ふいあらわれては後衛こうえい徴発ちょうはつたい攻撃こうげきし、もっとおおくの軍勢ぐんぜいがいるように印象いんしょうけた[69]

7がつ4にち、イギリスぐんウィリアムズバーグり、ジェームズがわ渡河とかにとりかかった。コーンウォリスは、ラファイエットを待伏まちぶせようとして、南岸なんがん前衛ぜんえいだけを渡河とかさせ、のこりの部隊ぶたいおおくを北岸ほくがんもりなかかくした。7月6にち、ラファイエットはアンソニー・ウェイン将軍しょうぐんやく800のへい北岸ほくがんのイギリスぐん攻撃こうげきするよう命令めいれいした。ウェインは自軍じぐん兵力へいりょく大幅おおはばおとることにづいたが、退却たいきゃくせず銃剣じゅうけん突撃とつげきおこなった。アメリカぐん突撃とつげきにより時間じかんかせぎ、イギリスぐん追撃ついげきしなかった。このグリーンスプリングのたたかはコーンウォリスの勝利しょうりとなったが、アメリカぐん兵士へいし勇敢ゆうかんさをしめしたことでちからづけられた[68][70]

8がつまでにコーンウォリスのイギリスぐんはヨークタウンにはいった。ラファイエットはマルバーン・ヒル英語えいごばんじんき、ヨークかわちかくでハンプトン・ローズにいるイギリス艦隊かんたいまもるための陣地じんち建設けんせつする命令めいれいけたイギリスぐんかこむように砲兵ほうへいならべた。ラファイエットのふう行動こうどうは、フランス艦隊かんたい到着とうちゃくチェサピークわん海戦かいせん勝利しょうりし、コーンウォリスから海軍かいぐん援護えんごうばったことでイギリスぐんめた[6][71][72]。9月14にちにワシントンのぐんがウィリアムズバーグでラファイエットらと合流ごうりゅう[73]。9月28にち、フランス艦隊かんたい港湾こうわん封鎖ふうさわせヨークタウンを包囲ほういした[74]。イギリスぐんのこされた2つの堡塁ほうるいも10がつ14にち、アレクサンダー・ハミルトンがだい10堡塁ほうるいを、ラファイエットひきいる400めいだい9堡塁ほうるい占領せんりょうした[70][75]。イギリスぐんはんげき失敗しっぱいし、コーンウォリスは10月19にち降伏ごうぶくした[76]

コーンウォリスきょう降伏ごうぶくジョン・トランブル

りょう大陸たいりく英雄えいゆう

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ヨークタウンのたたかいはアメリカ独立どくりつ戦争せんそう最後さいごだい規模きぼ戦闘せんとうであったが、イギリスはいまだに主要しゅよう港湾こうわん都市としすうしょ保持ほじしていた。ラファイエットはそれらへの遠征えんせいのぞんだが、ワシントンはフランスに追加ついか海軍かいぐん支援しえんもとめるのが有益ゆうえきだとかんがえた。大陸たいりく議会ぎかいはラファイエットを、ヨーロッパにいるアメリカの使節しせつ、パリのベンジャミン・フランクリン、マドリードのジョン・ジェイ、ハーグのジョン・アダムズのアドバイザーに任命にんめいし、使節しせつたいしては「ラファイエットとコミュニケーションをはかり、すべかれ同意どういするよう指示しじした。またルイ16せいたいし、ラファイエットの行動こうどう称賛しょうさんする公文書こうぶんしょおくった[77]

ラファイエットは1781ねん12月18にちにフランスへけボストンを出発しゅっぱつ帰国きこくすると英雄えいゆうとして歓迎かんげいされ、1782ねん1がつ22にちにはヴェルサイユ宮殿きゅうでん歓待かんたいけた。むすめ誕生たんじょうい、トマス・ジェファーソンのすすめでマリー=アントワネット・ヴァージニー(Marie-Antoinette Virginie)と名付なづけた[78][79]。いくつもの階級かいきゅうえ、少将しょうしょう英語えいごばん任命にんめいされ[80]ひじりルイ勲章くんしょう英語えいごばんシュバリエを授与じゅよされた。1782ねん、まだ公式こうしき平和へいわ条約じょうやく締結ていけつされていなかったイギリスりょう西にしインドにたいするフランス・スペインの遠征えんせいんだが、1783ねんえいべいあいだパリ条約じょうやく締結ていけつされ遠征えんせい中止ちゅうしされた。ラファイエットはそれらの交渉こうしょうかかわっていた[81][82]

ラファイエットはジェファーソンとともに、アメリカのたいふつ債務さいむ削減さくげんねらい、両国りょうこくあいだ貿易ぼうえき協定きょうてい締結ていけつばたらいた[83]。また、奴隷どれい貿易ぼうえき終了しゅうりょう解放かいほう黒人こくじん権利けんり平等びょうどう提唱ていしょうする、フランスの奴隷どれい制度せいど廃止はいしグループ黒人こくじんとも協会きょうかい英語えいごばんくわわった。ラファイエットは、奴隷どれい所有しょゆうしゃであるワシントンへ1783ねん手紙てがみで、奴隷どれい解放かいほうかれらを小作農こさくのうとすることをすすめた[84]。ワシントンはラファイエットのかんがえに関心かんしんしめしたが、奴隷どれい解放かいほう拒否きょひした。一方いっぽうラファイエットは計画けいかく実現じつげんのため、 フランスりょうギアナプランテーション購入こうにゅうした[85]

1784ねん、マウント・バーノンのラファイエットとワシントン

ラファイエットは1784ねんから1785ねんにかけアメリカを訪問ほうもんし、おとずれたすべてのしゅう熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいけた。8月17にちにはマウント・バーノンにあるワシントンの農場のうじょうおとずれた。ヴァージニアしゅう議会ぎかい下院かいん英語えいごばんでは演説えんぜつおこない、「ぜん人類じんるい自由じゆう」をもとめ、奴隷どれい解放かいほううったえた[86]。また、ペンシルベニアしゅう議会ぎかいでは連邦れんぽう樹立じゅりつへの支援しえんうったえた。1778ねんったことがあるものもいる、イロコイぞくとの和平わへい交渉こうしょう参加さんかするためニューヨークのモホーク・バレー英語えいごばんおとずれた[87]ハーバード大学だいがくから名誉めいよ学位がくいを、ボストンからワシントンの肖像しょうぞうを、ヴァージニアしゅうからは胸像きょうぞうおくられた。メリーランドしゅう議会ぎかいかれかれ男性だんせい相続そうぞくじんを「しゅうまれながらの市民しみん」としとなえた。そして1789ねんアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく憲法けんぽう批准ひじゅんには、合衆国がっしゅうこくまれながらの市民しみんとされた[88][89][90][注釈ちゅうしゃく 2][91]のちに、ラファイエットはフランスに市民しみんけんという概念がいねんまれるまえにアメリカ市民しみんになったことを自慢じまんした[92]。コネチカット、マサチューセッツ、ヴァージニア各州かくしゅうもラファイエットに市民しみんけんあたえた[5][90][93][94]

ラファイエットは、パリのブルボンどおり(rue de Bourbon)にあった自邸じてい(Hôtel de La Fayette)をアメリカじん集合しゅうごうしょとした。ベンジャミン・フランクリン、ジョン・ジェイ夫妻ふさい、ジョン・アダムズ、アビゲイル・アダムズ毎週まいしゅう月曜日げつようびにそこでい、ラファイエットの家族かぞくや、クレモン=トネール伯爵はくしゃく英語えいごばんスタール夫人ふじんなど自由じゆう主義しゅぎしゃ貴族きぞく食事しょくじをした[95]。ラファイエットはフランス国内こくないのアメリカ産品さんぴんたいする貿易ぼうえき障壁しょうへきげる活動かつどうつづけ、フランクリンとジェファーソンがヨーロッパ諸国しょこく友好ゆうこう通商つうしょう条約じょうやくむすぶのを手伝てつだった。また、いち世紀せいきまえナントのみことのりれい廃止はいし以来いらい、フランスのユグノーえてきた不当ふとう仕打しうちをただそうとした[96]

1785ねんにはプロイセン軍事ぐんじ演習えんしゅう見学けんがくするためシレジアへき、国王こくおうフリードリヒ2せいに、つづいて訪問ほうもんしたオーストリアでは皇帝こうていヨーゼフ2せいにそれぞれ謁見えっけんするなど、ヨーロッパ諸国しょこく君主くんしゅ貴族きぞく交友こうゆうふかめた[97]。1786ねん公爵こうしゃくりょうへの昇格しょうかく企図きとし、オーベルニュのランジャックを188,800リーブルで購入こうにゅう領地りょうち拡大かくだいしたが、公爵こうしゃく昇進しょうしん実現じつげんしなかった[12]

フランス革命かくめい

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名士めいしかいさん部会ぶかい

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ラファイエットがさん部会ぶかい提案ていあんした「人間にんげん市民しみん権利けんり宣言せんげん

1786ねん12月29にち、ルイ16せいフランスの財政ざいせい危機きき英語えいごばん対処たいしょするため、名士めいしかい招集しょうしゅう。ラファイエットは1787ねん2がつ22にち名士めいしかいにんじられた[98]演説えんぜつなかでラファイエットは、政府せいふ土地とち買収ばいしゅう高度こうど知識ちしきから利益りえきている宮廷きゅうていない人間にんげん関係かんけい非難ひなんし、その改革かいかく提唱ていしょうした[99]。そしてフランス全土ぜんど代表だいひょうする「しん国民こくみん議会ぎかい」をもとめた[100]。ルイ16せいわりに1789ねんさん部会ぶかい英語えいごばん開催かいさいすることとし、ラファイエットはリオンから貴族きぞくだいかいきゅう議員ぎいん選出せんしゅつされた[101]さん部会ぶかい伝統でんとうてきに、3つの身分みぶん聖職せいしょくしゃ貴族きぞく平民へいみん身分みぶんごと一票いっぴょう投票とうひょうする、つまり平民へいみん投票とうひょうけるものであった[102]

さん部会ぶかいは1789ねん5がつ5にち召集しょうしゅうされたが、最初さいしょから、一票いっぴょう議員ぎいんいちにんごとにするか身分みぶんごとにするかの議論ぎろん紛糾ふんきゅうした。身分みぶんごとなら貴族きぞく聖職せいしょくしゃ平民へいみん投票とうひょうつことができる一方いっぽう議員ぎいんごとにすれば人数にんずう上回うわまわ平民へいみん議事ぎじ支配しはいすることができる[注釈ちゅうしゃく 3]会議かいぎまえに、「30にん委員いいんかい[注釈ちゅうしゃく 4]」のメンバーとしてラファイエットは身分みぶんごとではなく議員ぎいんごと一票いっぴょうあおった[105]。ラファイエットは自分じぶんぞくする貴族きぞく階級かいきゅう過半数かはんすう同意どういることができなかったが、聖職せいしょくしゃよろこんで平民へいみんがわ[注釈ちゅうしゃく 5]、6月17にち、このグループはみずか国民こくみん議会ぎかい名乗なのった[107]おう党派とうはかれらを議場ぎじょうからし、国民こくみん議会ぎかいがわ室内しつない球戯きゅうぎじょうあつまり集会しゅうかいおこなった。これが「球戯きゅうぎじょうちか」であり、排除はいじょされた議員ぎいんたちは憲法けんぽう制定せいていされるまで離脱りだつしないことをちかった[108]国民こくみん議会ぎかい会合かいごうつづけ、7がつ11にちにラファイエットは、ジェファーソンの助言じょげん執筆しっぴつした「人間にんげん市民しみん権利けんり宣言せんげん」の草案そうあん議会ぎかい提示ていじした[109]同日どうじつ財務ざいむ総監そうかん改革かいかくしゃとみられていたジャック・ネッケル罷免ひめんされると、弁護士べんごしカミーユ・デムーラン武装ぶそうした群衆ぐんしゅうひきいる。ルイ16せいブロイ公爵こうしゃくひきいる軍隊ぐんたいでパリを包囲ほうい[110]したが、7がつ14にち群衆ぐんしゅうバスティーユ要塞ようさい襲撃しゅうげきした[111]

国民こくみん衛兵えいへい、ヴェルサイユ、短剣たんけん

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マリー・アントワネットともにヴェルサイユ宮殿きゅうでんのバルコニーにつラファイエット
パリのフランス軍事ぐんじ博物館はくぶつかん展示てんじされている、ラファイエットの国民こくみん衛兵えいへい将軍しょうぐん時代じだいのサーベル

7がつ15にち、ラファイエットは、議会ぎかいした治安ちあん維持いじするために設立せつりつされた武装ぶそう組織そしきである国民こくみん衛兵えいへい司令しれいかん任命にんめいされた[112][113]。ラファイエットはその名称めいしょうと、シンボル(あおしろあか円形えんけいあきら)を提案ていあんした。パリあかあお王家おうけしろわせたもので、フランスさんしょくはた原型げんけいとなった[109][111]。ラファイエットは国民こくみん衛兵えいへい司令しれいかんとして困難こんなん直面ちょくめんした。おうおおくのおう党派とうはがラファイエットとその支持しじしゃ革命かくめい同然どうぜんとみなす一方いっぽう平民へいみんおおくはラファイエットが国王こくおう権力けんりょく維持いじけようとしているとかんじていた。

国民こくみん議会ぎかいは8がつ26にち人間にんげん市民しみん権利けんり宣言せんげん採択さいたくしたが[114]、10月2にち、ルイ16せいはこれを拒否きょひした[115]。その3にち魚屋さかなや女性じょせいたちにひきいられたパリ市民しみんがパン不足ふそくうったえてヴェルサイユへ行進こうしんした。ラファイエットは渋々しぶしぶ国民こくみん衛兵えいへいれ、行進こうしんのちつづいた。ヴェルサイユで、ルイ16せい人権じんけん宣言せんげんたいする議会ぎかい決議けつぎれたが、パリにくことを拒否きょひしたため、夜明よあけに群衆ぐんしゅう宮殿きゅうでんになだれんだ。ラファイエットは国王こくおう一家いっか宮殿きゅうでんのバルコニーに秩序ちつじょもどそうとしたが[116][117]群衆ぐんしゅう国王こくおう一家いっかをパリのテュイルリー宮殿きゅうでんれてこうとしていた[118][119]。ルイ16せいがバルコニーにると群衆ぐんしゅうは「国王こくおうまんさい!」とかえした。マリー・アントワネット子供こどもとともにあらわれたが、子供こどもたちになかもどるようった。マリー・アントワネットはひともどり、人々ひとびと彼女かのじょつとさけんだが、彼女かのじょはそこにまり、発砲はっぽうかった。ラファイエットがマリー・アントワネットのにキスすると、群衆ぐんしゅうから歓声かんせいこった[120][121]

1790ねん7がつ14にち連盟れんめいさい英語えいごばんにおけるラファイエットの宣誓せんせいフランス革命かくめい博物館はくぶつかん英語えいごばん所蔵しょぞう

急進きゅうしん影響えいきょうりょくなかにあっても、ラファイエットは国民こくみん衛兵えいへい司令しれいかんとして、秩序ちつじょ維持いじ中道ちゅうどうであろうとした[122]かれとパリ市長しちょうジャン=シルヴァン・バイイは、1790ねん5がつ12にち急進きゅうしんてきジャコバン影響えいきょうりょくとバランスをることを目的もくてきとした政治せいじ組織そしき1789ねんかい英語えいごばん[注釈ちゅうしゃく 6]設立せつりつした[124]。7月14にちシャン・ド・マルスひらかれた連盟れんめいさい英語えいごばんではだい群衆ぐんしゅうまえに、「国民こくみん議会ぎかい採択さいたくされ国王こくおう同意どういした憲法けんぽう最大限さいだいげんちから支持しじするために、国家こっかほう国王こくおうたい忠誠ちゅうせいちかう」と宣誓せんせいした[125]つづいて軍隊ぐんたい国王こくおう宣誓せんせいおこなった[126][127]

ラファイエットはつづすうげつ秩序ちつじょ維持いじのためにはたらつづけた。1791ねん2がつ28にち、ヴィンセンヌでの紛争ふんそう処理しょりするため、国民こくみん衛兵えいへい一部いちぶとともにチュイルリーを出発しゅっぱつした。かれがいないあいだ武装ぶそうしたすうひゃくめい貴族きぞく国王こくおうまもるためにテュイルリー宮殿きゅうでんあつまった。だがこれは、貴族きぞく国王こくおうり、はん革命かくめいのトップにてようとしているとのうわさになった。ラファイエットはすぐにテュイルリーにもどり、一瞬いっしゅん膠着こうちゃく状態じょうたいのち貴族きぞくたちを武装ぶそう解除かいじょした。このいちけん短剣たんけん英語えいごばんばれ、迅速じんそく国王こくおうまもったことでラファイエットの人気にんき拡大かくだい後押あとおしした[128]。にもかかわらず、国王こくおう一家いっかはますます宮殿きゅうでん囚人しゅうじんしていった[129]。4月18にちには国民こくみん衛兵えいへいがラファイエットの命令めいれいそむき、群衆ぐんしゅう一緒いっしょに、ルイ16せいがミサに出席しゅっせきする予定よていだったサン=クルーへの出発しゅっぱつ阻止そしした[111][130][131][132]

失墜しっつい:ヴァレンヌ事件じけんとシャン・ド・マルスの虐殺ぎゃくさつ

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1791ねん6がつ20日はつかヴァレンヌ事件じけんとしてられる策謀さくぼうで、ルイ16せい国外こくがい脱出だっしゅついち手前てまえまでいった。ラファイエットは国民こくみん衛兵えいへい指揮しきかんとして国王こくおう一家いっか保護ほご責任せきにんっていたが、そのためにジョルジュ・ダントンのような急進きゅうしんから非難ひなんされ、マクシミリアン・ロベスピエールからは民衆みんしゅうへの裏切者うらぎりもの名指なざしされた[133]。これらの非難ひなんによりラファイエットはおう党派とうはであると印象いんしょうけられ、その名声めいせいはダメージを[134]、ジャコバン急進きゅうしんちから強化きょうかした。ラファイエットはほうもとづく統治とうちうったつづけたが、暴徒ぼうととそのリーダーにかきされた[135]

シャン・ド・マルスの虐殺ぎゃくさつえがいた中央ちゅうおうけんつラファイエットがいる。

ラファイエットの評判ひょうばんは1791ねん後半こうはんまで低下ていかつづけた。急進きゅうしんコルドリエ・クラブは7がつ17にちに、王政おうせい廃止はいしか、国民こくみん投票とうひょうでそれをめるかをもとめる国民こくみん議会ぎかいへの請願せいがんしょへの署名しょめいあつめるイベントをシャン・ド・マルスで開催かいさいした。あつまった市民しみんやく1まんにんたっし、スパイとうたがわれた2人ふたり絞首刑こうしゅけいとなった。ラファイエットは治安ちあん回復かいふくのため部隊ぶたいひきいてシャン・ド・マルスへかったが、銃撃じゅうげき投石とうせきにあった。竜騎兵りゅうきへいくずれると、兵士へいし群衆ぐんしゅうかって発砲はっぽう多数たすう死傷ししょうしゃた。戒厳かいげんれいされ、ダントンや ジャン=ポール・マラーなど、暴徒ぼうとのリーダーたちは逃亡とうぼうかくした。この虐殺ぎゃくさつのち市民しみんあいだでのラファイエットの評判ひょうばんは、王室おうしつ利益りえき同調どうちょうしているとしんじられて劇的げきてき悪化あっかした[136]虐殺ぎゃくさつ直後ちょくご暴徒ぼうとがラファイエットのいえおそい、つま危害きがいくわえようとした。国民こくみん議会ぎかいは9月に憲法けんぽう完成かんせいさせ、それをてラファイエットは10がつ初旬しょじゅん国民こくみん衛兵えいへい辞職じしょくした[137]

戦争せんそう、そして亡命ぼうめい

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ラファイエットは1791ねん10がつ、オーベルニュの領地りょうちもどった[138]。11月にはパリ市長しちょう選挙せんきょ立候補りっこうほしたが、ジロンド候補こうほ大敗たいはいした[139]。1792ねん4がつ20日はつか、フランスはオーストリアに宣戦せんせん布告ふこくし、オーストリアりょうネーデルラント現在げんざいベルギー)への侵攻しんこう準備じゅんび開始かいしした。1791ねん6がつ30にち中将ちゅうじょう昇進しょうしんしていたラファイエットは、同年どうねん12がつ14にち、3つのぐんのうちの1つ、メスを拠点きょてんとする中央ちゅうおう方面ほうめんぐん英語えいごばん司令しれいかんとなった[140]。ラファイエットは、徴募ちょうぼへい国民こくみん衛兵えいへい団結だんけつりょくたかめるために最善さいぜんくしたが、兵士へいしおおくはジャコバンのシンパであり、上官じょうかんきらっていた。この感情かんじょう軍隊ぐんたいでよくられ、マルカンのたたかのちには、敗走はいそうしたフランスへい指揮しきかんテオバルド・ディヨン英語えいごばんリールみ、暴徒ぼうと殺害さつがいしたこともあった。ぐん司令しれいかん一人ひとり、ロシャンボーは辞任じにんした[141]。ラファイエットは、もう一人ひとり司令しれいかんニコラ・リュクネールとともに、軍隊ぐんたいふたた戦闘せんとうおこなったらなにこるか懸念けねんして、和平わへい交渉こうしょう開始かいし議会ぎかい要請ようせいした[142]

1792ねん6がつ、ラファイエットは議会ぎかいへの軍事ぐんじ郵便ゆうびんつうじて急進きゅうしん影響えいきょうりょくしていることを批判ひはん[143]急進きゅうしんを「ちからによってわらせたい」と手紙てがみをしめくくった[142]。これは時機じきあやまったもので、パリは急進きゅうしん完全かんぜん支配しはいしていた。ラファイエットはパリへき、6月28にちにジャコバンなどの急進きゅうしん非難ひなんするはげしい演説えんぜつおこなった。しかしぐん脱走だっそうしたとして告発こくはつされた。ラファイエットはジャコバン対峙たいじする志願しがんしゃあつめたが、わずかな人数にんずうしかあらわれなかったことで民衆みんしゅう態度たいどり、いそいでパリをはなれた。ロベスピエールはラファイエットを裏切者うらぎりものび、暴徒ぼうとかれ人形にんぎょう火刑かけいにした[144]。1792ねん7がつ12にち、ラファイエットは北部ほくぶ方面ほうめんぐん英語えいごばん指揮しきかん異動いどうとなった。

国王こくおう王妃おうひ危害きがいくわえられた場合ばあいにはオーストリアとプロイセンがパリを破壊はかいすると警告けいこくした7がつ25にちブラウンシュヴァイクの宣言せんげんは、ラファイエットと国王こくおう一家いっか破滅はめつをもたらした。8がつ10日とおか群衆ぐんしゅうがテュイルリー宮殿きゅうでん襲撃しゅうげきし、国王こくおう王妃おうひ立法りっぽう議会ぎかいにより、タンプルとう幽閉ゆうへいされた。立法りっぽう議会ぎかい国王こくおう権限けんげん停止ていしし、国王こくおう王妃おうひすうげつ処刑しょけいされることになる。8月14にち司法しほう大臣だいじんのダントンがラファイエット逮捕たいほ令状れいじょうす。ラファイエットはアメリカきをのぞんで、オーストリアりょうネーデルラントへ逃亡とうぼうした[145]

投獄とうごく

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牢獄ろうごくのラファイエット

ラファイエットはロシュフォール英語えいごばん付近ふきんで、同行どうこうしていたもとフランスぐん将校しょうこうジャン=グザヴィエ・ブロー・ド・プシ英語えいごばんがフランスぐん将校しょうこう代表だいひょうしてオーストリアりょう通行つうこう許可きょかもとめたさい、オーストリアにらわれた。最初さいしょのフランスからの逃亡とうぼうしゃ同様どうよう許可きょかされたが、ラファイエットがいることが発覚はっかくするとされた[146]はんフランスでオーストリアの同盟どうめいこくであったプロイセン国王こくおうフリードリヒ・ヴィルヘルム2せいは、かつてラファイエットをれたことがあったが、それはフランス革命かくめいまえのことであった。いまや、他国たこく君主くんしゅせい転覆てんぷくさせるのをふせぐため拘禁こうきんするよう、革命かくめい危険きけん扇動せんどうしゃとみなした[147]

ラファイエットはニヴェル英語えいごばんめられたのち[148]ルクセンブルクうつされ、同盟どうめいぐん軍事ぐんじ裁判さいばんは、かれとプシ、2人ふたり革命かくめいでの行動こうどうにより国事犯こくじはんであると宣告せんこくした。裁判さいばんは、復位ふくいしたフランス国王こくおう最終さいしゅう判決はんけつ宣告せんこくするまで、かれらの拘束こうそく命令めいれい[149]。1792ねん9がつ12にち裁判さいばん命令めいれいしたがい、プロイセンの管理かんりうつされた。ラファイエットらはプロイセンの要塞ようさい都市としヴェセル英語えいごばんはこばれ、9月19にちから同年どうねん12がつ22にちまでヴェセル要塞ようさい英語えいごばん不潔ふけつ独房どくぼうれられた。フランス革命かくめいぐんラインラントおびやかすと、フリードリヒ・ヴィルヘルム2せいかれらをひがしマクデブルクうつし、1793ねん1がつ4にちから1794ねん1がつ4にちまで1年間ねんかん、そこにめられた[150]

フリードリヒ・ヴィルヘルム2せい予想よそうがい健闘けんとうするフランスぐん戦闘せんとうつづけてもるものはすくなく、ポーランド王国おうこく英語えいごばんのほうが容易ようい収穫しゅうかくられると判断はんだんした。そこでフランスとの武力ぶりょく対立たいりつめ、捕虜ほりょをかつての同盟どうめい相手あいてであるオーストリア皇帝こうていフランツ2せいわたした。ラファイエットらは最初さいしょシレジアのナイセ(現在げんざいポーランドりょうニサ)にうつされた。1794ねん5がつ17にちにオーストリア国境こっきょうえ、翌日よくじつ、モラヴィアのオルミュッツ(現在げんざいチェコりょうオロモウツ)にあるイエズスかい大学だいがくあとのバラックての牢獄ろうごくれられた[151]

ラファイエットはらえられてから、かつてあたえられたアメリカ市民しみんけんもちいて解放かいほうされようとし、ハーグにいるアメリカ公使こうしウィリアム・ショート連絡れんらくった。ショートや使節しせつたちはラファイエットのアメリカへの貢献こうけんこたえたいとかんがえていたが、アメリカ市民しみんとしてよりもフランスじん将校しょうこうとしての位置いちづけが優先ゆうせんされることをっていた。当時とうじ大統領だいとうりょうだったワシントンは、ヨーロッパの問題もんだいにアメリカをむような行動こうどうけるように使節しせつ指示しじしており[152]、かつアメリカはプロイセンやオーストリアと外交がいこう関係かんけいっていなかった[153]わりにラファイエットと、フランスで投獄とうごくされているかれつま[注釈ちゅうしゃく 7]かねおくった。国務こくむ長官ちょうかんのジェファーソンは、ラファイエットに1777ねんから1783ねんまでの少将しょうしょうとしての勤務きんむたいして利息りそくきで支払しはらうというみち発見はっけんした。この法律ほうりつアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかい通過つうかし、ワシントン大統領だいとうりょう署名しょめいした。これらの資金しきん投獄とうごくされているラファイエット夫妻ふさい特権とっけんとなった[155][156]

ラファイエットを救出きゅうしゅつするより直接的ちょくせつてき手段しゅだんとして、アレクサンダー・ハミルトンの義理ぎりいもうとアンジェリカ・シューラー・チャーチ英語えいごばんと、そのおっと大陸たいりくぐん従軍じゅうぐんいまはイギリスの国会こっかい議員ぎいんであるジョン・バーカー・チャーチ英語えいごばん脱獄だつごく計画けいかくくわだてた。かれらは、わかハノーファーじん医師いしエリック・ボルマン英語えいごばんやとい、みなみカロライナの医学いがくせいで、ラファイエットが最初さいしょにアメリカにったさい滞在たいざいしたベンジャミン・ハガーの息子むすこであるフランシス・キンロック・ハガー英語えいごばん手助てだすけをした。かれらのたすけをりてラファイエットはオルミュッツ郊外こうがい田園でんえん地帯ちたい護送ごそう馬車ばしゃから脱出だっしゅつしたが、みちまよふたたつかまった[注釈ちゅうしゃく 8][157]

妻子さいし再会さいかいした獄中ごくちゅうのラファイエットをえがいた、19世紀せいきはじめの

アドリエンヌはフランスの牢獄ろうごくから釈放しゃくほうされると、アメリカのちゅうフランス大使たいしジェームズ・モンロー助力じょりょくで、彼女かのじょ彼女かのじょむすめのパスポートをコネチカットしゅうから入手にゅうしゅし、これで一家いっか全員ぜんいんがアメリカの市民しみんけんた。息子むすこのジョルジュ・ワシントンはすでにフランスをみつ出国しゅっこくしアメリカにわたっていた[158]。アドリエンヌと二人ふたりむすめはウィーンへき、フランツ皇帝こうてい謁見えっけんし、監禁かんきんちゅうのラファイエットと一緒いっしょ許可きょかた。1ねんまえ脱出だっしゅつこころみて以来いらいきびしい孤独こどく監禁かんきんえてきたラファイエットは、1795ねん10がつ15にち兵士へいし牢獄ろうごくとびらけてつまむすめれたとき驚愕きょうがくした。一家いっかつづく2年間ねんかん監禁かんきんされながら一緒いっしょごした[159][160]

外交がいこうやマスコミ、個人こじんてきなアピールなどをつうじて、大西洋たいせいようりょうきしにいるラファイエットのシンパは、その影響えいきょうりょく発揮はっきし、恐怖きょうふ政治せいじのフランス政府せいふおおきな影響えいきょうあたえた。わか常勝じょうしょう将軍しょうぐんナポレオン・ボナパルトがオルミュッツにいる国事犯こくじはん釈放しゃくほうい、カンポ・フォルミオ条約じょうやくにより釈放しゃくほうされることになった。こうしてラファイエットの5ねん以上いじょうおよ投獄とうごく生活せいかつわりをげた。ラファイエット一家いっか捕虜ほりょ仲間なかまは、1797ねん9がつ19にちにオーストリアの護衛ごえいしもオルミュッツをはなれて、プラハ北方ほっぽう国境こっきょうえ、10月4にち、ハンブルクでアメリカ領事りょうじわたされた[161][162]

ラファイエットはハンブルクからナポレオンに感謝かんしゃ手紙てがみおくった。フランスの総裁そうさい政府せいふはラファイエットが忠誠ちゅうせいちかわないかぎ帰国きこくいやがっていたが、違憲いけん手段しゅだん権力けんりょくれたとしんじていたラファイエットは忠誠ちゅうせいちかおうとしなかった。その仕返しかえしに、政府せいふのこされたブルターニュの領地りょうち[注釈ちゅうしゃく 9]売却ばいきゃくしようとした[163]。ラファイエット一家いっかにはアメリカから帰国きこくしたジョルジュ・ワシントンが合流ごうりゅうし、アドリエンヌの叔母おば所有しょゆうするハンブルク近郊きんこう地所じしょ療養りょうようした。アメリカとフランスの紛争ふんそうのため、アメリカにわたることもできず、ラファイエットはくにうしな状態じょうたいになった[165]

ラグランジュ=ブレノーじょう

アドリエンヌはパリにもどっておっと帰国きこく実現じつげんさせようとし、フランスに凱旋がいせんしたナポレオンにった。ブリュメール18にちのクーデター(1799ねん11月9にち)ののち、ラファイエットは政権せいけん交代こうたいともな混乱こんらん利用りようして、「モティエ」の名前なまえりのパスポートでフランスにもぐんだ。ナポレオンはいかりをあらわにしたが、アドリエンヌはそれがたんにポーズであると理解りかいしたうえで、ラファイエットがナポレオンを支援しえんし、おおやけから引退いんたいしアドリエンヌがもどしていた地所じしょであるラグランジュ英語えいごばんくとちかうことを提案ていあんした。ナポレオンはラファイエットがまることを許可きょか。ラファイエットは市民しみんけんたず、政治せいじ活動かつどうをすれば略式りゃくしき逮捕たいほ対象たいしょうとなっていたが、市民しみんけん回復かいふく約束やくそくされた。ラファイエットはラグランジュでしずかにごし、ワシントンが1799ねん12月に死去しきょしたさいにナポレオンがパリで開催かいさいした追悼ついとうかいにラファイエットは招待しょうたいされず、かれ名前なまえ言及げんきゅうされなかった[166]

政治せいじからの退避たいひ

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アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく下院かいんにある、シェッファーの1824ねん肖像しょうぞう

1800ねん3がつ1にち、ナポレオンはラファイエットの市民しみんけん復活ふっかつさせ、ラファイエットは資産しさん一部いちぶもどすことができた。ナポレオンはラファイエットにアメリカ公使こうしになることを打診だしんしたが、ラファイエットはナポレオンの政権せいけんかかわるつもりはなく、きっぱりと拒絶きょぜつした。1802ねん、ラファイエットはナポレオンを終身しゅうしんすべりょうとする国民こくみん投票とうひょうで、反対はんたいするわずかな少数しょうすうとなった[167]。ナポレオンはラファイエットを元老げんろういん議員ぎいんとし、レジオンドヌール勲章くんしょう授与じゅよしようとしたものの、民主みんしゅ主義しゅぎ政府せいふからの栄誉えいよならよろこんでけたであろうが、ラファイエットは拒否きょひした[168]

1804ねん、ナポレオンはラファイエットが参加さんかしなかった国民こくみん投票とうひょう皇帝こうてい即位そくい。ラファイエットは革命かくめい記念きねん演説えんぜつおこなったが、比較的ひかくてき沈黙ちんもくしたままでいた[169]。アメリカのルイジアナ買収ばいしゅう、ジェファーソン大統領だいとうりょう知事ちじ興味きょうみないかとたずねたが、ラファイエットは個人こじんてき事情じじょうとフランスの自由じゆうのためにはたら願望がんぼう理由りゆうことわった[170][92]

1807ねん、オーヴェルニュ滞在たいざいちゅうに、アドリエンヌは過去かこ投獄とうごく原因げんいん合併症がっぺいしょうにかかった。彼女かのじょ精神せいしん錯乱さくらんおちいったが、クリスマスイブには回復かいふくし、ベッドに家族かぞくあつめてラファイエットに、こうった「わたしはあなたのものです(Je suis toute à vous)」[171]翌日よくじつ彼女かのじょくなった[172]。アドリエンヌの死後しごすう年間ねんかん、ナポレオンのヨーロッパにおける勢力せいりょくたかまりおとろえるあいだ、ラファイエットはほとんどをラグランジュでしずかにごした。おおくの影響えいきょうりょく人物じんぶつ一般いっぱん市民しみんとくにアメリカじんがラファイエットを訪問ほうもんした。ラファイエットはおおくの手紙てがみを、とくにジェファーソンにき、ワシントンとかつてそうしていたようにおくもの交換こうかんした[173]

復古ふっこ王政おうせい

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1814ねんはんナポレオン同盟どうめいぐんがフランスに侵攻しんこう王政おうせい復活ふっかつ。ルイ16せいおとうとプロヴァンスはくルイ18せいとして即位そくいした。ラファイエットはしん国王こくおう歓迎かんげいされたが、そう人口じんこう2500まんにんたい男性だんせい9まんにんにしかあたえられなかった代議だいぎいんあらたな制限せいげん選挙せんきょけんには反対はんたいした。ラファイエットは1814ねん選挙せんきょ立候補りっこうほせず、ラグランジュにとどまった[174]

フランス国内こくないでは復員ふくいんへいなどのあいだ不満ふまんひろがっていた。トスカーナ群島ぐんとうエルバとう流刑りゅうけいとなっていたナポレオンは、好機こうき到来とうらいて、1815ねん3がつ1にちすうひゃくへいひきいてカンヌに上陸じょうりくした。続々ぞくぞくとナポレオンのしたひとあつまり、その月末げつまつにはパリを占領せんりょう、ルイ18せいヘント逃亡とうぼうした。ラファイエットはナポレオンからしん政府せいふへの参加さんかもとめられたが拒否きょひした[175]が、 1815ねん憲法けんぽう創設そうせつされたあらたな代議だいぎいん選出せんしゅつされることはれた。ワーテルローのたたかいでナポレオンが敗北はいぼくしたのち、ラファイエットはかれ退位たいいもとめた。ナポレオンのおとうとリュシアン・ボナパルトたいし、ラファイエットはこう主張しゅちょうした。

なん権利けんりがあって国民こくみん非難ひなんするのか……皇帝こうてい利益りえきのために我慢がまん必要ひつようなのか?国民こくみんかれしたがって、イタリアの野原のはらにエジプトの砂漠さばく、ドイツの平野へいや、ロシアの凍土とうどまでった……そして50回戦かいせんい、敗北はいぼく勝利しょうりしたりするなかで、300まんにんものフランスへいとむらわなければならなかった[176]

ワーテルローのたたかいから4にちの1815ねん6がつ22にち、ナポレオンは退位たいいした。ラファイエットはナポレオンのアメリカきを手配てはいしたが、イギリスが妨害ぼうがいし、ナポレオンはセントヘレナながされ生涯しょうがいじた[177]代議だいぎいん解散かいさんするまえにラファイエットを和平わへい交渉こうしょう委員いいん指名しめいしたが、フランスの大半たいはん占領せんりょうした連合れんごうぐんにより無視むしされ、プロイセンぐんはラグランジュを接収せっしゅう司令しれいいた。プロイセンぐんは1815ねん後半こうはんり、ラファイエットは自宅じたくもどり、ふたたいち市民しみんとなった[178]

パリとラグランジュにあるラファイエットのいえは、独立どくりつ戦争せんそう英雄えいゆういたいというアメリカじん人々ひとびとれた。アイルランドじん小説しょうせつシドニー・モーガン夫人ふじん英語えいごばんが1818ねん、ラ・グランジュに1かげつあいだ滞在たいざいしたあいだったものなかには、アメリカじん旅行りょこうしゃならんで、オランダの画家がかアリ・シェフェール歴史れきしオーギュスタン・ティエリもいた。訪問ほうもんしゃには、哲学てつがくしゃジェレミ・ベンサム、アメリカの学者がくしゃジョージ・ティックノー英語えいごばん作家さっかファニー・ライト英語えいごばんもいた[179]

王政おうせい復古ふっこ最初さいしょじゅう年間ねんかん、ラファイエットはフランスやヨーロッパ諸国しょこく数々かずかず陰謀いんぼう支援しえんしたが、成功せいこうしたものはなかった。様々さまざま炭焼すみやきとう陰謀いんぼうにもかかわり[180]、フランスぐん守備しゅびたいがいたベルフォールき、そこの革命かくめい政府せいふ主要しゅよう地位ちいくことにおうじた。政府せいふ陰謀いんぼうづいたと警告けいこくされ、あきらかな関与かんよをせずにベルフォールへのみちかえした。1821ねんはじまったギリシャ独立どくりつ戦争せんそう支援しえんし、手紙てがみつうじてアメリカ政府せいふにギリシャじん同盟どうめいするよう説得せっとくこころみた[181]。フランス政府せいふはギリシャ問題もんだい関与かんよしているラファイエットとジョルジュ・ワシントンりょう逮捕たいほしようとかんがえたが、実行じっこうした場合ばあい政治せいじてき影響えいきょうについて慎重しんちょうであった。ラファイエットは1823ねんまで代議員だいぎいん議員ぎいんつとめた[182]が、1824ねん選挙せんきょ保守ほしゅ候補こうほやぶれた[180]

アメリカ旅行りょこう

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1825ねんのラファイエット

1824ねん、ジェームズ・モンロー大統領だいとうりょう議会ぎかいは、建国けんこく50周年しゅうねん祝賀しゅくが一環いっかんで、ラファイエットをアメリカに招待しょうたいした[31]。モンローはラファイエットがアメリカの軍艦ぐんかんることを企図きとしたが、ラファイエットはそうしたたび民主みんしゅ主義しゅぎてきであるとおもい、商船しょうせんせきった。ルイ18せいはこのたびおもわず、ラファイエットを見送みおくるためル・アーヴルあつまった群衆ぐんしゅう軍隊ぐんたいはらった[183]

ラファイエットは、息子むすこのジョルジュ・ワシントンと秘書ひしょオーギュスト・ルバスール英語えいごばんとともに、1824ねん8がつ15にちニューヨークに到着とうちゃくした英語えいごばん。ラファイエットは、はるかむかし戦友せんゆうである独立どくりつ戦争せんそうもと兵士へいしたちに歓迎かんげいされた。ニューヨークではよん日間にちかん連続れんぞく昼夜ちゅうや祝賀会しゅくがかいおこなわれた。その、ボストンへつかれをいやたびかけたが、道中どうちゅうすべてのまち歓迎かんげいもよおされ、喝采かっさいする市民しみんれつられた。アンガーによれば、「それは将来しょうらい世代せだいにまでかかわってくる神秘しんぴてき体験たいけんだった。ラファイエットはとおはなれた時代じだいから姿すがたあらわした、アメリカの決定的けっていてき瞬間しゅんかんにおける、最後さいご指導しどうしゃであり英雄えいゆうであった。人々ひとびとかれのような人物じんぶつ二度にどることができないことをかっていた。」[184]

ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア英語えいごばんは、ラファイエットをたたえる祝賀会しゅくがかいけないようしらげいちはいった。フィラデルフィアでは、ラファイエット歓迎かんげい場所ばしょ必要ひつようなことから、解体かいたいされそうだったふるしゅう議事堂ぎじどう現在げんざい独立どくりつ記念きねんかん)を改装かいそうした。それまでアメリカでは記念きねんてることは一般いっぱんてきではなかったが、ラファイエットの訪問ほうもんをきっかけにいしぶみ建立こんりゅう次々つぎつぎこり、たいていはかれ自身じしん礎石そせきいた。また、おおくの都市とし公共こうきょう建物たてもの肖像しょうぞう依頼いらいし、無数むすう土産物みやげもの肖像しょうぞうえがかれたように、芸術げいじゅつ恩恵おんけいけた。当初とうしょは4ヶ月かげつあいだ独立どくりつ13しゅうのみを訪問ほうもんする予定よていだったが、24しゅうすべてをしゅうったため、滞在たいざい期間きかんは16ヶ月かげつにもおよんだ[185]

おそらく1824ねんのアメリカ訪問ほうもん記念きねんした、ラファイエットの肖像しょうぞう手袋てぶくろ

訪問ほうもんしたまちでは熱狂ねっきょうてき歓迎かんげいされた。そのなかにはかれにちなんでづけられた最初さいしょまちであるノースカロライナしゅうファイエットビルもあった[186]ワシントンD.C.では、モンロー大統領だいとうりょう平服へいふくで、ホワイトハウス周囲しゅうい衛兵えいへいがいないことにおどろいた。マウントバーノンを40ねんぶりに訪問ほうもんし、ワシントンのはかもうでた。1824ねん10がつ19にちにはヨークタウンでコーンウォリス降伏ごうぶく記念きねん式典しきてん出席しゅっせきし、そのふる友人ゆうじんであるジェファーソンにいにモンティチェロった。そこには予想よそうがいにもジェームズ・マディソンていた。また、おなじく存命ぞんめいもと大統領だいとうりょうである89さいのジョン・アダムズともボストンちかくのかれいえ食事しょくじをした[187]

道路どうろ通行つうこう不能ふのうになり、1824ねんから25ねんふゆをワシントンでごした。ちょうど、いずれの候補者こうほしゃ選挙せんきょじん過半数かはんすう獲得かくとくできず上院じょういん決定けっていゆだねられた、激戦げきせん1824ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ最終さいしゅうばんであった。1825ねん2がつ9にち議会ぎかいジョン・クィンシー・アダムズ大統領だいとうりょう選出せんしゅつした。そのよる、ラファイエットがつめるなか次点じてんアンドリュー・ジャクソン将軍しょうぐんとアダムズがホワイトハウスで握手あくしゅした[188]

1825ねん3がつ、ラファイエットは南部なんぶおよび西部せいぶしゅうへのたび開始かいしした[189]たび一般いっぱんてきなパターンは、都市としあいだ州兵しゅうへい護衛ごえいし、特別とくべつつくられたもんとおってまちはいり、地元じもと政治せいじ有力ゆうりょくしゃ歓迎かんげいされるというもので、みながラファイエットを一目いちもくたがった。戦跡せんせき歴史れきしてき場所ばしょ訪問ほうもん歓迎かんげいばんさんかいといった特別とくべつ行事ぎょうじおこなわれ、民衆みんしゅう独立どくりつ戦争せんそう伝説でんせつてき英雄えいゆう時間じかんはわきにかれた[190]

1824ねん-1825ねんのアメリカ旅行りょこうからフランスへの帰国きこく乗船じょうせんした「ブランディワイン」ごう

ラファイエットは、ジャクソン将軍しょうぐんテネシーしゅうザ・ハーミテージ自宅じたくたずねた。蒸気じょうきせんでオハイオがわ遡上そじょうちゅうふねしずみ、息子むすこ秘書ひしょにより救命きゅうめいボートにせられ、ケンタッキーしゅう川岸かわぎし上陸じょうりくしたのち反対はんたい方向ほうこうかうべつ蒸気じょうきせん救助きゅうじょされた。そのふね船長せんちょう反転はんてんし、ラファイエットをルイビルれてった。そこから北東ほくとう方面ほうめんかい、ナイアガラのたき見物けんぶつしたのち近代きんだい驚異きょういおもわれていたエリー運河うんがとおりオルバニーへった。ダニエル・ウェブスター演説えんぜついたのち、1825ねん6がつ、マサチューセッツしゅうバンカーヒル記念きねんとう礎石そせきいた。また、自分じぶんはかくためバンカーヒルのった[191]

バンカーヒルののち、メインしゅうとバーモントしゅうき、これですべてのしゅう訪問ほうもんした。ふたたびジョン・アダムズにい、そのニューヨーク、そしてブルックリンき、そこの公共こうきょう図書館としょかん定礎ていそしきおこなった。9月6にち、ホワイトハウスでジョン・クィンシー・アダムズ大統領だいとうりょうに68さい誕生たんじょう祝福しゅくふくされ、翌日よくじつ帰国きこくいた[192]。ラファイエットは自分じぶんはかにかけるのほかにもおくものもらった。フロリダの広大こうだい土地とちとともに[193]議会ぎかいはモンロー大統領だいとうりょう要請ようせいでラファイエットのくにへの奉仕ほうし感謝かんしゃして、20まんドルをおくることを決議けつぎしていた[194]。ラファイエットは、「サスケハナ(Susquehanna)」から、かれアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくのためにながした戦場せんじょうにちなんで「ブランディワイン英語えいごばん」と改名かいめいされたふねりフランスへかえった[194]

フランス7がつ革命かくめい

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ラファイエットとオルレアンこう、1830ねん7がつ31にち

ラファイエットの帰国きこくやく1ねんまえにルイ18せい死去しきょし、シャルル10せい即位そくいした。シャルル10せい絶対ぜったい王政おうせい復活ふっかつさせようとしており、ラファイエットが帰国きこくしたときには、おう命令めいれい抗議こうぎこしていた[195]。ラファイエットは国王こくおう反対はんたいしたものなかもっと有名ゆうめいであった。1827ねん選挙せんきょで70さいのラファイエットは代議だいぎいん当選とうせんし、結果けっか不満ふまんなシャルル10せい議会ぎかい解散かいさんさい選挙せんきょめいじたものの、ラファイエットは再度さいど議席ぎせき獲得かくとくした[196]

ラファイエットは、シャルル10せいおこなった市民しみん自由じゆう制限せいげんや、あらたに導入どうにゅうされた報道ほうどう機関きかん検閲けんえつたいして、依然いぜんとして積極せっきょくてき発言はつげんした。ラファイエットは議会ぎかいはげしい演説えんぜつおこない、あたらしい命令めいれい非難ひなんし、アメリカふう代表だいひょうせい政府せいふ提唱ていしょうした。また、ラグランジュにアメリカじんやフランスじんなどを晩餐ばんさんまねいた。招待客しょうたいきゃくみな政治せいじ自由じゆう権利けんりかんするスピーチをきにた。ラファイエットはシャルル10せい簡単かんたん逮捕たいほできないとおもうほどの人気にんきしゃだったが、かれへのスパイ活動かつどう徹底てっていしていた。とある政府せいふのスパイは「アメリカの自由じゆう称賛しょうさんする、ラファイエットの扇動せんどうてき乾杯かんぱいあいさつ」を記録きろくしている[197]

1830ねん7がつ25にち、シャルル10せい中流ちゅうりゅう階級かいきゅうから参政さんせいけん剥奪はくだつ代議だいぎいん解散かいさんするなながつみことのりれい英語えいごばん署名しょめいみことのりれい翌日よくじつ公表こうひょうされた[198]。7月27にち、パリ市民しみんはバリケードをつくり、暴動ぼうどうこした[199]議会ぎかい反抗はんこうして開催かいさいつづけた。ラグランジュにいたラファイエットは、進行しんこうちゅう事態じたいるとパリへけつけ、革命かくめいのリーダーとして歓迎かんげいけた。同志どうし議員ぎいんたちが優柔不断ゆうじゅうふだんになるとラファイエットはバリケードにかい、もなく国王こくおうぐん敗走はいそうした。1789ねん革命かくめいさい過激かげき行動こうどうかえされることをおそれた議員ぎいんたちは、ラファイエットをさい発足ほっそくさせた国民こくみん衛兵えいへい司令しれいかん任命にんめいし、秩序ちつじょ維持いじするようめいじた。議会ぎかいはラファイエットが統治とうちしゃであると宣言せんげんすることをのぞんだが、かれはこの権力けんりょく付与ふよ違憲いけんなし拒否きょひした。また、8がつ2にち退位たいいしたシャルル10せいとの交渉こうしょう拒否きょひした。おおくのわか革命かくめい共和きょうわせいもとめたが、ラファイエットは内戦ないせんにつながるとかんがえ、アメリカにんだ経験けいけんがあり、シャルル10せいよりはるかにしたしまれていたオルレアン公爵こうしゃくルイ・フィリップ王位おういかせることにした。そして、王位おういれたルイ・フィリップから様々さまざま改革かいかくおこな同意どういた。ラファイエットは国民こくみん衛兵えいへい司令しれいかんとどまったがながくはつづかなかった。国王こくおう即位そくいみじかなごやかな雰囲気ふんいきはすぐにうすれ、1830ねん12月24にち議会ぎかい多数たすうめる保守ほしゅ国民こくみん衛兵えいへい司令しれいかん権限けんげん削減さくげん決議けつぎ。ラファイエットはこれに抗議こうぎ辞職じしょくした[200][201]

晩年ばんねん、そして死去しきょ

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「ラファイエット将軍しょうぐん」ゴンデルフィンガー(Gondelfinger)。1834ねん

ラファイエットは、改革かいかく後退こうたいさせ、公約こうやく否定ひていしたルイ=フィリップにますます幻滅げんめつしていった。そしてルイ=フィリップにいかりを爆発ばくはつさせ、政府せいふがリヨンでのストライキを制圧せいあつするために武力ぶりょく行使こうししたことで、このみぞひろがっていった。ラファイエットは議席ぎせき利用りようして自由じゆう主義しゅぎてき提案ていあん推進すいしんし、1831ねんには近隣きんりん住民じゅうみんからラグランジュの村長そんちょうセーヌ=エ=マルヌけん県議会けんぎかい議員ぎいん選出せんしゅつされた。翌年よくねんには、おなじくルイ=フィリップの敵対てきたいしゃであったジャン・マクシミリアン・ラマルク将軍しょうぐん葬儀そうぎかんかつぎ、演説えんぜつおこなった。 ラファイエットは冷静れいせいになるよううったえたが、とおりで暴動ぼうどうこり、バスティーユ広場ひろばではバリケードがつくられた。ルイ=フィリップはこのろくがつ暴動ぼうどう武力ぶりょく制圧せいあつし、ラファイエットは憤慨ふんがいした。かれは1832ねん11月に議会ぎかいひらかれるまでラグランジュにもどり、議会ぎかいではシャルル10せい同様どうよう検閲けんえつ導入どうにゅうしたルイ=フィリップを非難ひなんした[202]

パリ、ピクピュス墓地ぼち英語えいごばんにあるラファイエットのはか

1834ねん1がつ3にち上院じょういん演説えんぜつしたのがおおやけでの最後さいごとなった。翌月よくげつ肺炎はいえんたおれ、回復かいふくしたものの、5月に雷雨らいうたれたのちたきりになった[203]。1834ねん5がつ20日はつかにパリのダンジュー=サン=オノーレどおり6番地ばんち現在げんざいパリ8ダンジューどおり8番地ばんち)において76さい死去しきょピクピュス墓地ぼち英語えいごばんつまはかとなり埋葬まいそうされ、息子むすこのジョルジュ・ワシントンがバンカーヒルのをかけた[199][204]。ルイ=フィリップおう市民しみん参列さんれつしないよう軍隊ぐんたいしき葬儀そうぎめいじたが、群衆ぐんしゅう排除はいじょされたことに抗議こうぎした[186]

アメリカでは、ジャクソン大統領だいとうりょうがラファイエットに1799ねん12月にくなったワシントンがけたのとおな栄誉えいよあたえることをめいじた。上下じょうげ両院りょういんは30日間にちかんくろおおい、議員ぎいん喪章もしょうけた。議会ぎかい国民こくみんたい同様どうよう哀悼あいとうすることをもとめた。同年どうねん、クインシー・アダムズぜん大統領だいとうりょうは3あいだにわたるラファイエットの追悼ついとう演説えんぜつおこない、かれは「人類じんるい純粋じゅんすいかつ私心ししん後援こうえんしゃのリストの上位じょうい位置いちする」とべた[205]

信条しんじょう

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ラファイエットは、立憲りっけん君主くんしゅせい確固かっこたる信奉しんぽうしゃであった。フランスがつねにそうであったように、民主みんしゅてき国民こくみん議会ぎかい君主くんしゅ協力きょうりょくすることで、伝統でんとうてき理想りそう革命かくめいてき理想りそう融合ゆうごうさせることができるとしんじていた。ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンのようなアメリカの建国けんこくちちたちと密接みっせつ関係かんけいっていたことから、かれ民主みんしゅ主義しゅぎ体制たいせい実現じつげんたりにすることができた。ラファイエットのかんがえたフランスの政府せいふ構造こうぞうは、アメリカの政府せいふ形態けいたい直接ちょくせつ影響えいきょうけており、イギリスの政府せいふ形態けいたいにも影響えいきょうけていた。れいげると、ラファイエットはアメリカのような二院にいんせい立法府りっぽうふしんじていた。しかし、ジャコバンはフランスにおける君主くんしゅせいきらっていたため、国民こくみん議会ぎかい反対はんたいひょうとうじた。このかんがえは、とくマクシミリアン・ロベスピエール権力けんりょくにぎったときに、ラファイエットが失墜しっついする原因げんいんとなった[206]

ラファイエットは1789ねん人間にんげん市民しみん権利けんり宣言せんげん執筆しっぴつしゃであり、強固きょうこ奴隷どれい制度せいど反対はんたいしゃでもあった。著作ちょさくなかとく奴隷どれいせいについて言及げんきゅうすることはかったが、ワシントンやジェファーソンなどの友人ゆうじん同僚どうりょうてた手紙てがみでは、論争ろんそうまととなっていたこのテーマについて自分じぶん立場たちば明確めいかくにしていた。ラファイエットは奴隷どれい所有しょゆうするのではなく、プランテーションで自由じゆう借地しゃくちじんとしてはたらかせることを提案ていあんし、実際じっさい、1785ねんにフランスの植民しょくみんカイエンヌにプランテーションを購入こうにゅうしてかんがえを実行じっこうし、奴隷どれい売買ばいばいしないようにめいじた[207]。ラファイエットは、奴隷どれい制度せいどおおくの経済けいざいにおいて重要じゅうよう役割やくわりたしていることを認識にんしきしつつも、奴隷どれいをゆっくりと解放かいほうすることを提案ていあんし、その生涯しょうがい奴隷どれい廃止はいしろんしゃとしてごした。ラファイエットは、かれかんがえがワシントンにれられアメリカ国内こくない奴隷どれい解放かいほうし、そこからひろまっていくことをねがっていたが、かれ努力どりょく無駄むだではなかった。ワシントンは最終さいしゅうてきにマウント・ヴァーノンのプランテーションでこれを実行じっこうはじめた。が、生涯しょうがい奴隷どれい開放かいほうすることはなかった[208]のちにラファイエットのまご、ギュスターブ・ド・ボーモン(Gustave de Beaumont)は人種じんしゅ差別さべつ問題もんだいろんずる小説しょうせついている[209]。ラファイエットは1794ねんのフランスにおける奴隷どれいせい廃止はいしおおきな役割やくわりたした。そしてハイチでは、「人間にんげん権利けんり市民しみん権利けんり宣言せんげん」の2ねん暴動ぼうどう勃発ぼっぱつした[210]

評価ひょうか

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グランジュ=ブレノーじょう英語えいごばん庭園ていえんにいるラファイエット」、1830ねんルイーズ=アデオネ・ドローリン英語えいごばんフランス軍事ぐんじ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう

生涯しょうがいとおして、ラファイエットは啓蒙けいもう時代じだい理想りそうとく人間にんげん権利けんり市民しみんナショナリズム英語えいごばん主導しゅどうしゃであった。そしてその視点してん欧米おうべい知識ちしきじんなどにより本気ほんきれられた[211]アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくにおけるラファイエットのイメージは、自分じぶん自身じしんのものでないくに自由じゆうのために無給むきゅうたたかう、その「無私むし」からもたらされている[212]サミュエル・アダムズは、ラファイエットが「自由じゆうというかがやかしい大義たいぎのために」たたかったとき、「家庭かてい生活せいかつたのしみをて、戦争せんそう苦難くなん危険きけんをさらした」と称賛しょうさんした[212]。このかんがえはおおくのどう時代じだいじん共有きょうゆうされ、ラファイエットがいちこく利益りえきではなく、ぜん人類じんるい自由じゆう推進すいしんしようとしているというイメージを確立かくりつした[212]。フランス革命かくめいあいだ、アメリカじんはラファイエットをしん世界せかいからきゅう世界せかい移出いしゅつしようとしているアメリカの理想りそう提唱ていしょうしゃであるとみていた。これは、国父こくふであり、アメリカの理想りそう体現たいげんしゃとされたジョージ・ワシントンの息子むすこわりかつ弟子でしという、その立場たちばにより強化きょうかされた[213]小説しょうせつジェイムズ・フェニモア・クーパーは1820年代ねんだいのパリでラファイエットと友人ゆうじんになった。 クーパーはラファイエットの貴族きぞく自由じゆう主義しゅぎ称賛しょうさんし、「自由じゆう原理げんりのためにわかさと身体しんたい財産ざいさんささげた」とめたたえた[214]

ラファイエットがアメリカの象徴しょうちょうとなった理由りゆうには、アメリカの特定とくてい地域ちいきとは無縁むえんだったこともある。外国がいこくまれで、アメリカにんだことがなく、ニューイングランドや大西洋たいせいようがん中部ちゅうぶ、そして南部なんぶたたかったことが、ラファイエットを求心力きゅうしんりょくのある象徴しょうちょうとした[215]。アメリカじんはフランス革命かくめいでラファイエットが中道ちゅうどうであろうとしたことを人気にんきたかめた。アメリカじん革命かくめい大義たいぎ当然とうぜん共感きょうかんっていたが、また、ルイ16せいアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく初期しょき友人ゆうじんであったこともおぼえていた。1792ねんにラファイエットが失墜しっついしたときには、アメリカじんかれ更迭こうてつ派閥はばつ主義しゅぎのせいにする傾向けいこうがあった[216]

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『Lafayette in Two Worlds: Public Cultures and Identities in an Age of Revolutions』にかんするロイド・クレイマー(Lloyd Kramer)へのBooknotesのインタビュー。1996ねん9がつ15にち。C-SPAN

1824ねんにラファイエットがアメリカを訪問ほうもんしたころ、アメリカじん1819ねん恐慌きょうこうミズーリ妥協だきょう帰結きけつした派閥はばつ対立たいりつから、合衆国がっしゅうこく成功せいこうについて疑問ぎもんかんじており[217]、ラファイエットがいかに独立どくりつ成功せいこう判断はんだんしたかかんがえた[218]文化ぶんか史家しかのロイド・クレイマー(Lloyd Kramer)によれば、ラファイエットは、「19世紀せいき初頭しょとうにアメリカのナショナル・アイデンティティ形成けいせいし、それ以来いらい国家こっかのイデオロギーの主要しゅようなテーマであった、アメリカの建国けんこくちち制度せいど自由じゆうが、世界せかいもっと民主みんしゅてきかつ平等びょうどう主義しゅぎてき繁栄はんえいした社会しゃかいしたという信念しんねんという、みずからのイメージに外国がいこくじんによる裏付うらづけをあたえた」[219]

歴史れきしジルベール・シナールフランス語ふらんすごばんは1936ねんにこういている「ラファイエットはわかくして伝説でんせつてき人物じんぶつかつ象徴しょうちょうとなったが、後世こうせい人々ひとびとはその神話しんわこころよれ、その共和きょうわ主義しゅぎしゃ栄光えいこうであるわか英雄えいゆうけがそうとするのは、偶像ぐうぞう崇拝すうはい冒涜ぼうとくならないとかんがえられているだろう。」[220]。その伝説でんせつ政治せいじてき利用りようされており、1917ねんにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくだいいち世界せかい大戦たいせん参戦さんせんかん国民こくみん支援しえんるため、ラファイエットの名前なまえとイメージがかえ登場とうじょうした。そしてチャールズ・E・スタントン英語えいごばん有名ゆうめい台詞せりふ「ラファイエット、我々われわれはここにいる(Lafayette, we are here)」で最高潮さいこうちょうたっした。これはアメリカにおけるラファイエットのイメージに損失そんしつしょうじさせた。前線ぜんせんからの復員ふくいんへいは「ラファイエットにりはかえした、じゃあいまだれりがあるのか?(We've paid our debt to Lafayette, who the hell do we owe now?)」とうたいながら帰国きこくした[221]。アン・C・ラブランド(Anne C. Loveland)によれば、戦争せんそうわるまでに「ラファイエットはもはや国民こくみん英雄えいゆう象徴しょうちょうとして役立やくだたなくなった」[222]。しかしながら、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議会ぎかいは2002ねんにラファイエットにアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく名誉めいよ市民しみんあたえることを決議けつぎした[223]

フランスにおけるラファイエットの評価ひょうかはより複雑ふくざつである。トーマス・ゲインズ(Thomas Gaines)は、ラファイエットのたいする反応はんのうはアメリカよりフランスのほうがはるかにしずかだったと指摘してきし、これはフランス政府せいふ変化へんか非常ひじょう混沌こんとんとしていたのにたいし、アメリカではラファイエットが唯一ゆいいつ革命かくめいにおける最後さいごのこった英雄えいゆうだったからではないかと言及げんきゅうしている[224]。ラファイエットの役割やくわりは、フランスとくにフランス革命かくめいにおいて、より微妙びみょう評価ひょうかをされている。19世紀せいき歴史れきしジュール・ミシュレは、ラファイエットをその才能さいのうあたいするものをはるかにえて群衆ぐんしゅうげられた「平凡へいぼん偶像ぐうぞう」とひょうした[225]ジャン・テュラール英語えいごばんジャン=フランソワ・ファイヤールフランス語ふらんすごばんアルフレ・フィエロフランス語ふらんすごばんは『Histoire et dictionnaire de la Révolution française(フランス革命かくめい歴史れきし事典じてん)』のなかで、ゆかのナポレオンがラファイエットにかんしてかたった言葉ことば自分じぶんがフランス革命かくめいにラファイエットの地位ちいにいたなら「国王こくおういまだに王位おういいたままだっただろう」、をしるしている[226]。またかれらはラファイエットを「からっぽあたま政治せいじ(an empty-headed political dwarf)」「フランスの君主くんしゅせい破壊はかいもっと責任せきにんがある面々めんめん一人ひとり」であるとなしていた[227]。ゲインズはこれに同意どういせず、リベラルやマルクス主義まるくすしゅぎ歴史れきしもこの見解けんかい反対はんたいしていると指摘してきしている[227]。ロイド・クレイマーは、1989ねんのフランス革命かくめい200周年しゅうねん直前ちょくぜん調査ちょうさで、フランスじんの57%がラファイエットをもっと尊敬そんけいする革命かくめい人物じんぶつかんがえていることを紹介しょうかいしている。ラファイエットは「1990年代ねんだい初頭しょとうにはあきらかに1790年代ねんだい初頭しょとうよりもおおくのフランスじん支持しじしゃがいた」[225]

マーク・リープソン英語えいごばんは、ラファイエットの人生じんせいかんする論文ろんぶんをこうめくくっている。

ラファイエット侯爵こうしゃく完璧かんぺきからかけはなれていた。ときにはうぬぼれがつよく、ナイーブ、未熟みじゅく自己じこ中心ちゅうしんてきであった。しかし、自分じぶん人生じんせい運命うんめい危険きけんにさらすことになっても、一貫いっかんして理想りそう執着しゅうちゃくした。それらの理想りそうは、世界せかいもっと永続えいぞくてきな2つの国家こっかアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくとフランスのくに基本きほん原則げんそくとなり証明しょうめいされた。それはレガシーであり、軍事ぐんじ指導しどうしゃ政治せいじなかで、かれ匹敵ひってきするものはほとんどいない[228]

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ かれのフルネームはめったに使つかわれない。わりにラファイエット侯爵こうしゃくしるされることがおおい(アメリカでは「Lafayette」、フランスでは公式こうしきには「La Fayette」としるされる)。伝記でんき作家さっかルイス・R・ゴッツチョーク英語えいごばんは、ラファイエット自身じしんは「Lafayette」と「La Fayette」両方りょうほう使つかっていたとべている。どう世代せだい人々ひとびとは、かれ先祖せんぞ小説しょうせつラファイエット夫人ふじん(Madame de La Fayette)にせて「La Fayette」をもちいていた。しかしラファイエットの家族かぞくは「Lafayette」といていた。Gottschalk, pp. 153–54参照さんしょう
  2. ^ ニューヨークタイムズの記事きじにはメリーランドしゅう法律ほうりつうつしっている。「ラファイエット侯爵こうしゃくとのその男性だんせい相続そうぞくじん永久えいきゅう帰化きかさせる法律ほうりつ……メリーランドしゅう議会ぎかい以下いか制定せいていする。ここにラファイエット侯爵こうしゃくとその男性だんせい相続そうぞくじん永久えいきゅうにこのしゅうまれながらの市民しみんであると宣告せんこくし、今後こんごまれながらの市民しみんとしてのすべての免除めんじょ権利けんりおよび特権とっけん付与ふよされるものとする。そのような免除めんじょ権利けんりおよ特権とっけん享有きょうゆうおよ行使こうしにおいては、このくに憲法けんぽうおよ法律ほうりつ準拠じゅんきょするものとする。」
  3. ^ 1789ねん7がつ議員ぎいんすうは、だいいち身分みぶん聖職せいしょくしゃ)295めいだい身分みぶん貴族きぞく)278めいだいさん身分みぶん平民へいみん)604めい[103]
  4. ^ 30にん委員いいんかいは、社会しゃかい改革かいかく目指めざすグループである「愛国あいこく(パトリオット)」が設立せつりつした党派とうは。ラファイエットのほかニコラ・ド・コンドルセなどが参加さんかしていた[104]
  5. ^ 聖職せいしょくしゃ議員ぎいん多数たすう農民のうみん職人しょくにん出身しゅっしんであったため柔軟じゅうなんであった[106]
  6. ^ ラファイエットともばれ、のちにジャコバン一部いちぶ合流ごうりゅうフイヤンとなった[123]
  7. ^ アドリエンヌの祖父母そふぼ母親ははおやあね処刑しょけいされている[154]
  8. ^ ボルマンとハガーは、つかまり短期間たんきかん投獄とうごくされたのち釈放しゃくほうされ、ラファイエットを救出きゅうしゅつしようとしたことで世界せかいてき人気にんきしゃになった。Lane, p. 218参照さんしょう。また、かれらはアメリカにわたってワシントンとい、オルミュッツの状況じょうきょう説明せつめいした。Unger, loc. 7031参照さんしょう
  9. ^ 1793、1794ねん立法りっぽう議会ぎかいはシャバニャックじょうふく領地りょうち没収ぼっしゅう売却ばいきゃくしていた[163]。なお、この没収ぼっしゅうたいし1826ねん総額そうがく45まんフランの補償ほしょうきんている[164]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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