ラファイエット侯爵 こうしゃく マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ (Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert Du Motier, Marquis De La Fayette、1757年 ねん 9月6日 にち - 1834年 ねん 5月 がつ 20日 はつか [ 2] )は、フランス の貴族 きぞく 、軍人 ぐんじん 、政治 せいじ 家 か である。単 たん に「ラファイエット 」として知 し られる[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう ではヨークタウンの戦 たたか い をはじめとする数々 かずかず の戦闘 せんとう でアメリカ軍 ぐん を指揮 しき した。そしてフランスに帰国 きこく した後 のち 、1789年 ねん のフランス革命 かくめい と1830年 ねん のフランス7月 がつ 革命 かくめい で重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たした。
ラファイエットは、フランス中 ちゅう 南部 なんぶ のオーヴェルニュ (英語 えいご 版 ばん ) 、シャヴァニアック の裕福 ゆうふく な領主 りょうしゅ 一家 いっか に生 う まれた。軍人 ぐんじん となる一族 いちぞく の伝統 でんとう に従 したが い、13歳 さい で士官 しかん に任官 にんかん する。アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう におけるアメリカの大義 たいぎ が崇高 すうこう なものと確信 かくしん するようになり、栄光 えいこう を求 もと めて新大陸 しんたいりく へ旅立 たびだ った。19歳 さい で少将 しょうしょう となるが、当初 とうしょ 、アメリカ軍 ぐん を指揮 しき することはなかった。ブランディワインの戦 たたか い で負傷 ふしょう したが、なんとか整然 せいぜん とした退却 たいきゃく を行 おこな い、ロードアイランドの戦 たたか い では素晴 すば らしい働 はたら きを見 み せた。独立 どくりつ 戦争 せんそう 中盤 ちゅうばん に、フランスの支援 しえん を増 ふ やすロビー活動 かつどう のため一 いち 時 じ 帰国 きこく 。1780年 ねん にアメリカへ戻 もど り、大陸 たいりく 軍 ぐん の上級 じょうきゅう 指揮 しき 官 かん となった。1781年 ねん 、ヴァージニアでチャールズ・コーンウォリス 率 ひき いるイギリス軍 ぐん を、他 た のアメリカ・フランス軍 ぐん が布陣 ふじん するまで足止 あしど めし、ヨークタウンの戦 たたか いで決定的 けっていてき 勝利 しょうり を得 え た。
フランスに帰国 きこく 後 ご 、財政 ざいせい 危機 きき に対応 たいおう するため1787年 ねん に開催 かいさい された名士 めいし 会 かい に任命 にんめい される。1789年 ねん にはフランスの3つの階級 かいきゅう 、聖職 せいしょく 者 しゃ ・貴族 きぞく ・平民 へいみん の代表 だいひょう が集 あつ まった三 さん 部会 ぶかい (英語 えいご 版 ばん ) に選出 せんしゅつ された。憲法 けんぽう 制定 せいてい 国民 こくみん 議会 ぎかい の創設 そうせつ 後 ご 、トーマス・ジェファーソン の助力 じょりょく を得 え て、人間 にんげん と市民 しみん の権利 けんり の宣言 せんげん の作成 さくせい を手伝 てつだ う。この文章 ぶんしょう はアメリカ独立 どくりつ 宣言 せんげん の影響 えいきょう を受 う けたもので、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 国家 こっか の基本 きほん 原則 げんそく を確立 かくりつ するための自然 しぜん 法 ほう を基 もと としていた。また、自然 しぜん 権 けん の哲学 てつがく を踏 ふ まえて、奴隷 どれい 制度 せいど 廃止 はいし を提唱 ていしょう した。バスティーユ襲撃 しゅうげき の後 のち 、国民 こくみん 衛兵 えいへい 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい され、革命 かくめい 中 ちゅう 、中道 ちゅうどう であろうと努 つと めた。1792年 ねん 8月 がつ 、急進 きゅうしん 派 は が彼 かれ の逮捕 たいほ を命令 めいれい すると、オーストリア領 りょう ネーデルラントへ逃亡 とうぼう 。そこでオーストリア軍 ぐん に捕 つか まり、5年 ねん 以上 いじょう 牢獄 ろうごく で過 す ごした。
1797年 ねん 、ナポレオン・ボナパルト が自由 じゆう を保障 ほしょう するとフランスに帰国 きこく したが、ナポレオン政権 せいけん への参加 さんか は拒否 きょひ した。1814年 ねん の王政 おうせい 復古 ふっこ 後 ご 、自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は の上院 じょういん 議員 ぎいん となり、死 し ぬまでほとんどの間 あいだ 、その職 しょく を務 つと めた。1824年 ねん にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく にジェームズ・モンロー 大統領 だいとうりょう から国賓 こくひん として招 まね かれ、全 ぜん 24州 しゅう を訪問 ほうもん し(英語 えいご 版 ばん ) 大 だい 歓迎 かんげい を受 う ける。1830年 ねん のフランス7月 がつ 革命 かくめい では、フランスの独裁 どくさい 者 しゃ となる要請 ようせい を断 ことわ り、ルイ・フィリップ が王位 おうい に就 つ くのを支持 しじ したが、王 おう が専制 せんせい 的 てき になると反対 はんたい 派 は となった。1834年 ねん 5月 がつ 20日 はつか に死去 しきょ 。パリのピクピュス墓地 ぼち (英語 えいご 版 ばん ) にバンカーヒル の土 ど で埋葬 まいそう された。ラファイエットは、フランス・アメリカ両国 りょうこく での活躍 かつやく から「両 りょう 大陸 たいりく の英雄 えいゆう (The Hero of the Two Worlds 、Le Héros des Deux Mondes)」として知 し られている。
ラファイエットは、1757年 ねん 9月 がつ 6日 にち 、オーヴェルニュ (英語 えいご 版 ばん ) 州 しゅう (現在 げんざい のオート=ロワール県 けん )ル・ピュイ=アン=ヴレ 近 ちか くのシャヴァニアック にあるシャヴァニアック城 じょう (英語 えいご 版 ばん ) で、擲弾兵 へい の大佐 たいさ であったブルターニュ 貴族 きぞく のラファイエット侯爵 こうしゃく ミシェル・ルイ・クリストフ・ロシュ・ジルベール・ポーレット・デュ・モティエ (英語 えいご 版 ばん ) とオーヴェルニュ貴族 きぞく のマリー・ルイーズ・ジョリー・ド・ラ・リヴィエール(Marie Louise Jolie de La Rivière)の間 あいだ に生 う まれた[ 4] 。
オーヴェルニュ (英語 えいご 版 ばん ) 、シャヴァニアック=ラファイエット にあるラファイエットの生家 せいか
ラファイエットの妻 つま 、マリー・アドリエンヌ・フランソワーズ (英語 えいご 版 ばん )
ラファイエットの血筋 ちすじ は、オーヴェルニュで、おそらくはフランス全土 ぜんど においても、最 もっと も歴史 れきし があり、かつ著名 ちょめい な血筋 ちすじ の一 ひと つである。ラファイエット家 か (英語 えいご 版 ばん ) の男 おとこ たちは、勇気 ゆうき と騎士 きし 道 どう 精神 せいしん で名声 めいせい を獲得 かくとく し、危険 きけん を恐 おそ れないことで知 し られてきた[ 5] 。遠 とお い先祖 せんぞ の一人 ひとり に、1429年 ねん のオルレアン包囲 ほうい 戦 せん でジャンヌ・ダルク とともに戦 たたか ったフランス元帥 げんすい ジルベール・ド・ラファイエット3世 せい がいる。伝説 でんせつ によれば、他 た の先祖 せんぞ が第 だい 6回 かい 十字軍 じゅうじぐん で茨 いばら の冠 かんむり (英語 えいご 版 ばん ) を手 て に入 い れたとされる[ 6] 。母方 ははかた の先祖 せんぞ も高貴 こうき であり、曾祖父 そうそふ (母親 ははおや の母方 ははかた の祖父 そふ )はラ・リヴィエール(La Rivière)伯爵 はくしゃく で、1770年 ねん に死去 しきょ するまで、ルイ15世 せい の親衛 しんえい 騎馬 きば 隊 たい である親衛 しんえい 銃 じゅう 士 し 隊 たい (英語 えいご 版 ばん ) 、別名 べつめい 黒 くろ 銃 じゅう 士 し 隊 たい の隊長 たいちょう を務 つと めた[ 7] 。ラファイエットの父方 ちちかた の伯父 おじ ジャック=ロシュ(Jacques-Roch)は、1734年 ねん 1月 がつ 18日 にち 、ポーランド継承 けいしょう 戦争 せんそう 中 なか にミラノ でのオーストリア軍 ぐん との戦闘 せんとう で戦死 せんし した。それにより彼 かれ の弟 おとうと であるミシェルが侯爵 こうしゃく 位 い を継 つ いだ[ 8] 。
ラファイエットの父 ちち ミシェルも1759年 ねん 8月 がつ 1日 にち 、ミンデンの戦 たたか い でイギリス 率 ひき いる同盟 どうめい 軍 ぐん との戦闘 せんとう 中 ちゅう に砲弾 ほうだん に当 あ たり戦死 せんし した[ 9] 。ラファイエットは侯爵 こうしゃく とシャヴァニアック卿 きょう の位 い を継 つ いだが、財産 ざいさん は母親 ははおや が相続 そうぞく [ 9] 。ラファイエットは収入 しゅうにゅう が少 すく ないため、国王 こくおう から780リーブル の年金 ねんきん を与 あた えられた。ラファイエットの母 はは は、恐 おそ らくは夫 おっと を失 うしな ったショックから、父 ちち や祖父 そふ と住 す むためパリへ引 ひ っ越 こ し、残 のこ されたラファイエットは、持参 じさん 金 きん と共 とも に城 しろ を贈 おく られていた父方 ちちかた の祖母 そぼ シャヴァニアック夫人 ふじん (Mme de Chavaniac)によりシャヴァニアックで育 そだ てられた[ 8] 。
1768年 ねん 、ラファイエットが11歳 さい の時 とき 、パリに呼 よ ばれ、リュクサンブール宮殿 きゅうでん 内 うち のラ・リヴィエール伯爵 はくしゃく 邸 てい で母親 ははおや や曾祖父 そうそふ と暮 く らした。ラファイエットはパリ大学 だいがく の一部 いちぶ であるコレージュ・ドゥ・プレシ (Collège du Plessis)に入 はい り、一族 いちぞく の伝統 でんとう である軍人 ぐんじん の道 みち を継 つ ぐことを決 き めた[ 10] 。曾祖父 そうそふ のラ・リヴィエール伯爵 はくしゃく は、ラファイエットを将来 しょうらい 銃 じゅう 士 し となるための訓練 くんれん 教程 きょうてい に入 い れた[ 11] 。1770年 ねん 4月 がつ 3日 にち と24日 にち に母 はは と曾祖父 そうそふ がそれぞれ亡 な くなり、25,000リーブルの収入 しゅうにゅう が遺 のこ された。また叔父 おじ の死 し により、12歳 さい で年 とし 12万 まん リーブルもの収入 しゅうにゅう を相続 そうぞく した[ 9] 。このように財産 ざいさん を相続 そうぞく したことで、ラファイエットはブルターニュとオーヴェルニュ、トゥーレーヌ などに領地 りょうち を持 も つ大 だい 領主 りょうしゅ となった。
1771年 ねん 5月、ラファイエットは14歳 さい になる前 まえ に銃 じゅう 士 し 隊 たい の士官 しかん 、少尉 しょうい に任命 にんめい された。軍事 ぐんじ パレードでの行進 こうしん や国王 こくおう に仕 つか えるなど、彼 かれ の職務 しょくむ はほとんど儀礼 ぎれい 的 てき なものであり、引 ひ き続 つづ き学業 がくぎょう を続 つづ けた[ 13] 。
このころ、アヤン公爵 こうしゃく ジャン=ポール=フランソワ・ド・ノアイユ (英語 えいご 版 ばん ) は、5人 にん の娘 むすめ の何人 なんにん かを嫁 とつ がせようとしていた。14歳 さい のラファイエットは、ノアイユの12歳 さい の娘 むすめ マリー・アドリエンヌ・フランソワーズ (英語 えいご 版 ばん ) とお似合 にあ いに思 おも われ、庇護 ひご 者 しゃ であったラファイエットの叔父 おじ に話 はなし を持 も ち掛 か けた[ 14] 。しかしこの縁談 えんだん は、二人 ふたり 、特 とく に娘 むすめ が若 わか すぎると思 おも ったノアイユの妻 つま (英語 えいご 版 ばん ) に反対 はんたい された。ただし2年間 ねんかん 結婚 けっこん を口 くち にしないと合意 ごうい することで解決 かいけつ し、その間 あいだ 、将来 しょうらい の結婚 けっこん 相手 あいて の2人 ふたり は時々 ときどき カジュアルな場 ば で会 あ い、互 たが いを知 し るようになった[ 15] 。この計画 けいかく はうまくいき、二人 ふたり は恋 こい に落 お ちて、結婚 けっこん から1807年 ねん にアドリエンヌが死 し ぬまで幸 しあわ せに過 す ごした[ 16] 。
アメリカ独立 どくりつ 運動 うんどう に加 くわ わることを決意 けつい した場所 ばしょ であるメス の、知事 ちじ 公邸 こうてい 前 まえ にあるラファイエットの像 ぞう
1773年 ねん に婚姻 こんいん 契約 けいやく を結 むす んだ後 のち 、ラファイエットは妻 つま とヴェルサイユ にある義父 ぎふ の家 いえ に住 す んだ。そしてヴェルサイユの乗馬 じょうば 学校 がっこう (同級生 どうきゅうせい にはのちのシャルル10世 せい もいた)と、名門 めいもん のアカデミー・ド・ヴェルサイユ (Académie de Versailles )で学業 がくぎょう を続 つづ けた。1773年 ねん 4月 がつ には、義父 ぎふ の要請 ようせい により国王 こくおう 連隊 れんたい から移 うつ り[ 17] 、ノアイユの竜騎兵 りゅうきへい 隊 たい の中尉 ちゅうい に任 にん じられた[ 18] 。ラファイエット夫妻 ふさい は毎週 まいしゅう 王妃 おうひ の舞踏 ぶとう 会 かい に出席 しゅっせき したが、ラファイエットはダンス が下手 へた でマリー・アントワネット にからかわれ、酒 さけ も弱 よわ く、宮廷 きゅうてい 内 ない でうまく立 た ち回 まわ れなかった。
1775年 ねん 、ラファイエットはメス で行 おこな われた所属 しょぞく 部隊 ぶたい の年度 ねんど 演習 えんしゅう に参加 さんか し、そこで東部 とうぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん のルフェック侯爵 こうしゃく シャルル=フランソワ・ド・ブログリー (英語 えいご 版 ばん ) に出会 であ った。夕食 ゆうしょく で二 に 人 にん はイギリスの北米 ほくべい 植民 しょくみん 地 ち で起 お きている反乱 はんらん について議論 ぎろん した。ラファイエットは父親 ちちおや を殺 ころ したイギリスを憎 にく んでいて、イギリスが敗北 はいぼく すればその国際 こくさい 的 てき な地位 ちい が低下 ていか すると考 かんが えていた、という見解 けんかい があり[ 20] 、また、フリーメイソン に加入 かにゅう して間 あいだ もないラファイエットが、反乱 はんらん について話 はな すことで、「『自由 じゆう のために戦 たたか う人々 ひとびと 』としてのアメリカ人 じん の姿 すがた が、彼 かれ の騎士 きし 道 どう 的 てき そして今 いま やフリーメイソン的 てき な創造 そうぞう 力 りょく に火 ひ を付 つ けた」と記 しる す者 もの もいる[ 21] 。
ヨハン・ド・カルブ (英語 えいご 版 ばん ) 男爵 だんしゃく (左 ひだり )がラファイエット(中央 ちゅうおう )を サイラス・ディーン に紹介 しょうかい した場面 ばめん 。アロンソ・チャペル (英語 えいご 版 ばん ) 画 が 。1879年 ねん 。
1775年 ねん 9月 がつ 、18歳 さい になったラファイエットはパリに戻 もど り、結婚 けっこん のプレゼントとして約束 やくそく されていた竜騎兵 りゅうきへい の隊長 たいちょう となった。12月には最初 さいしょ の子供 こども 、アンリエット(Henriette)が生 う まれた。この間 あいだ にラファイエットは、アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう が自分 じぶん の信念 しんねん に合 あ うと確信 かくしん するようになり[ 22] 、「私 わたし の心 しん は捧 ささ げられた」と語 かた った[ 23] 。
1776年 ねん には、サイラス・ディーン を含 ふく むアメリカの使節 しせつ とルイ16世 せい 、シャルル・ド・ヴェルジェンヌ (英語 えいご 版 ばん ) 外務 がいむ 大臣 だいじん との間 あいだ で、繊細 せんさい な交渉 こうしょう が行 おこな われた。ルイ16世 せい とヴェルジェンヌは、アメリカ人 じん に武器 ぶき や士官 しかん を送 おく ることで、北 きた アメリカにおけるフランスの影響 えいきょう 力 りょく を回復 かいふく し、イギリスに対 たい し七 なな 年 ねん 戦争 せんそう での敗北 はいぼく の復讐 ふくしゅう を果 は たすことを望 のぞ んでいた。ラファイエットはフランス士官 しかん がアメリカへ送 おく られる話 はなし を聞 き くと、それに加 くわ わることを求 もと めた。彼 かれ はディーンに会 あ い、若年 じゃくねん に関 かか わらず参加 さんか を認 みと められた。1776年 ねん 12月7日 にち 、ディーンはラファイエットを少将 しょうしょう に就 つ けた[ 24] 。
フランスがアメリカに士官 しかん とその他 た の支援 しえん を送 おく る計画 けいかく は、イギリスに知 し られると無 む に帰 かえ し、戦争 せんそう となる恐 おそ れがあった。ラファイエットの義父 ぎふ ノアイユはラファイエットを叱 しか り、彼 かれ にロンドンへ行 い き、駐 ちゅう 英 えい 大使 たいし でラファイエットの義理 ぎり の叔父 おじ であるノアイユ侯爵 こうしゃく (英語 えいご 版 ばん ) を訪 たず ねるよう伝 つた え、1777年 ねん 2月 がつ にラファイエットはそうした。しかしその間 あいだ もラファイエットはアメリカ行 い きの計画 けいかく を捨 す てなかった。ラファイエットはジョージ3世 せい を紹介 しょうかい され、ロンドンの社交 しゃこう 界 かい で3週間 しゅうかん 過 す ごした。そしてフランスへの帰国 きこく 途中 とちゅう に、義父 ぎふ から身 み を隠 かく し、アメリカへ行 い くつもりであると手紙 てがみ を書 か いた。ノアイユは激怒 げきど し、ルイ16世 せい に、特 とく にラファイエットの名前 なまえ を挙 あ げて、フランスの士官 しかん がアメリカに行 い くのを禁止 きんし する命令 めいれい を出 だ すよう説得 せっとく した。ヴェルジェンヌがラファイエット逮捕 たいほ を命 めい じるよう国王 こくおう を説得 せっとく した可能 かのう 性 せい もあるが、定 さだ かでない[ 25] 。
ラファイエットが1777年 ねん 3月 がつ 25日 にち にアメリカへ向 む け出航 しゅっこう したポーイヤック にあるラファイエット広場 ひろば (Plaza Lafayette)
スペイン、バスク州 しゅう パサイア にある、1777年 ねん のラファイエットの出発 しゅっぱつ を記念 きねん する銘板 めいばん
ラファイエットは大陸 たいりく 会議 かいぎ には彼 かれ の旅費 りょひ を出 だ す資金 しきん がないと知 し り、自 みずか ら112,000ポンドを出 だ して帆船 はんせん 「ヴィクトワール(Victoire)」を購入 こうにゅう した[ 26] [ 27] 。「ヴィクトワール」が待 ま つボルドーへ行 い き、家族 かぞく の反応 はんのう を尋 たず ねる手紙 てがみ を送 おく った。彼 かれ の妻 つま や他 た の親族 しんぞく からの手紙 てがみ はラファイエットを心理 しんり 的 てき に動揺 どうよう させた。同行 どうこう した士官 しかん の不満 ふまん のため、出航 しゅっこう 後 ご すぐに、ラファイエットは船 ふね を反転 はんてん させボルドーへ戻 もど った。ボルドーの軍 ぐん 司令 しれい 官 かん はラファイエットにマルセイユにいる義父 ぎふ の連隊 れんたい に報告 ほうこく するよう命令 めいれい した。アメリカで軍事 ぐんじ および政治 せいじ のリーダーになることを望 のぞ んでいたブログリーはラファイエットにボルドーで会 あ い、実 じつ は政府 せいふ はラファイエットをアメリカへ行 い かせたがっていると信 しん じさせた。アメリカ独立 どくりつ 運動 うんどう が人気 にんき だったパリではラファイエット支援 しえん の動 うご きも相当 そうとう あったが、ブログリーの話 はなし は事実 じじつ ではなかった。ラファイエットはそれを信 しん じようとし、マルセイユへの報告 ほうこく 命令 めいれい に従 したが うふりをし東 ひがし へ数 すう マイル行 おこな ったところで逆戻 ぎゃくもど りし船 せん に帰 かえ った。「ヴィクトワール」は1777年 ねん 3月 がつ 25日 にち にジロンド川 がわ 岸 きし のポーイヤック を出航 しゅっこう 。新大陸 しんたいりく への2ヶ月 かげつ 間 あいだ は船酔 ふなよ いと退屈 たいくつ の旅 たび であった[ 28] 。船長 せんちょう のルボルシェ(Lebourcier)[ 27] は西 にし インド諸島 しょとう で積荷 つみに を売 う るつもりであったが、逮捕 たいほ を恐 おそ れたラファイエットは寄港 きこう 阻止 そし のため積荷 つみに を買 か い取 と った[ 29] 。そして1777年 ねん 6月 がつ 13日 にち 、サウスカロライナ州 しゅう ジョージタウン (英語 えいご 版 ばん ) 近 ちか くのノースアイランドに上陸 じょうりく した[ 30] [ 31] 。
ラファイエットはアメリカに到着 とうちゃく すると、裕福 ゆうふく な地主 じぬし のベンジャミン・ハガー (英語 えいご 版 ばん ) 少佐 しょうさ と会 あ い、彼 かれ と2週間 しゅうかん 過 す ごした後 のち 、フィラデルフィアへ向 む かった。大陸 たいりく 会議 かいぎ は、ディーンにより募集 ぼしゅう されたものの、その多 おお くが英語 えいご を話 はな せなかったり、軍隊 ぐんたい 経験 けいけん に乏 とぼ しいフランス人 じん 士官 しかん たちに閉口 へいこう していた。ラファイエットは来 く る途中 とちゅう で英語 えいご を少 すこ し学 まな んでおり(到着 とうちゃく 後 ご 1年 ねん 足 た らずで流暢 りゅうちょう になった)、フリーメイソンであることがフィラデルフィアで活躍 かつやく する道 みち を開 ひら いた。ラファイエットは無償 むしょう 奉仕 ほうし を申 もう し出 で 、大陸 たいりく 会議 かいぎ は1777年 ねん 7月 がつ 31日 にち 、彼 かれ を少将 しょうしょう に任命 にんめい した[ 32] [ 33] 。ラファイエットの庇護 ひご 者 しゃ には、最近 さいきん フランスに到着 とうちゃく したアメリカの使節 しせつ ベンジャミン・フランクリン もおり、大陸 たいりく 会議 かいぎ に対 たい しラファイエットを受 う け入 い れることを促 うなが す手紙 てがみ を書 か いていた[ 34] 。
ラファイエットとジョージ・ワシントン の初対面 しょたいめん 、1777年 ねん 8月 がつ 5日 にち 。Currier and Ives (英語 えいご 版 ばん )
大陸 たいりく 軍 ぐん 総 そう 司令 しれい 官 かん のジョージ・ワシントン 将軍 しょうぐん は、大陸 たいりく 会議 かいぎ に軍事 ぐんじ 問題 もんだい に関 かん する指示 しじ を与 あた えるためにフィラデルフィアへやって来 き た。ラファイエットは1777年 ねん 8月 がつ 5日 にち の晩餐 ばんさん でワシントンに会 あ った。リープソンによれば、「二人 ふたり はほとんどすぐに絆 きずな を結 むす んだ」[ 35] 。ワシントンはラファイエットの熱意 ねつい に感銘 かんめい を受 う け、このメイソンを良 よ く思 おも うようになった。一方 いっぽう 、ラファイエットはワシントンにただただ畏敬 いけい の念 ねん を抱 だ いていた[ 35] 。ワシントンはラファイエットに兵営 へいえい を見 み せたが、その軍隊 ぐんたい の有様 ありさま に恥 は ずかしさをあらわにした。これに対 たい しラファイエットは「私 わたし は学 まな びに来 き たのであり、教 おし えに来 き たのではありません」と応 こた えた[ 36] 。ラファイエットはその立場 たちば に関 かん し混乱 こんらん があったものの、ワシントンの幕僚 ばくりょう に加 くわ わった。大陸 たいりく 会議 かいぎ はその任務 にんむ を名誉 めいよ 的 てき なものと見 み なしていたが、ラファイエット自身 じしん は、ワシントンが彼 かれ に任 まか せる用意 ようい があると考 かんが えたときには、師団 しだん の指揮 しき を与 あた えられる一 いち 人前 にんまえ の指揮 しき 官 かん であると考 かんが えていた。ワシントンはラファイエットに外国 がいこく 人 じん であることから師団 しだん は任 まか せられないが、「友人 ゆうじん かつ父親 ちちおや 」として彼 かれ を内々 ないない に手元 てもと に置 お くことを喜 よろこ んでいると語 かた った[ 37] 。
ブランディワインの戦 たたか いで負傷 ふしょう したラファイエット
ラファイエットの初戦 しょせん は、1777年 ねん 9月 がつ 11日 にち のブランディワインの戦 たたか い であった[ 38] 。イギリス軍 ぐん を指揮 しき するウィリアム・ハウ 将軍 しょうぐん は、(強固 きょうこ に守 まも られていたデラウェア湾 わん ではなく)船 ふね で南 みなみ のチェサピーク湾 わん へ部隊 ぶたい を輸送 ゆそう し、反乱 はんらん 軍 ぐん の首都 しゅと に向 む かわせて、フィラデルフィア攻撃 こうげき を計画 けいかく した[ 39] 。イギリス軍 ぐん がアメリカ軍 ぐん の背後 はいご に回 まわ ると、ワシントンはラファイエットを送 おく り、ジョン・サリバン 将軍 しょうぐん と合流 ごうりゅう させた。合流 ごうりゅう 後 ご 、ラファイエットはトマス・コンウェイ (英語 えいご 版 ばん ) 准 じゅん 将 しょう が指揮 しき する第 だい 3ペンシルバニア旅団 りょだん とともに行動 こうどう し、攻撃 こうげき に対峙 たいじ するため部隊 ぶたい を集 あつ めようとした。イギリス兵 へい とヘッセン兵 へい (英語 えいご 版 ばん ) は数 かず に任 まか せて前進 ぜんしん を続 つづ け、ラファイエットは足 あし に銃弾 じゅうだん を受 う けた。アメリカ軍 ぐん が退却 たいきゃく する間 あいだ 、ラファイエットは傷 きず の治療 ちりょう をせずに部隊 ぶたい を立 た て直 なお し、秩序 ちつじょ だった撤退 てったい を可能 かのう にした[ 40] 。戦 たたか いの後 のち 、ワシントンはラファイエットの「勇敢 ゆうかん さと軍事 ぐんじ への熱意 ねつい 」について言及 げんきゅう し、その月 つき の終 お わりにイギリス軍 ぐん がフィラデルフィアを占領 せんりょう したため慌 あわ てて逃 に げた大陸 たいりく 会議 かいぎ への手紙 てがみ の中 なか で、ラファイエットを師団 しだん の指揮 しき 官 かん とすることを推薦 すいせん した[ 30] 。
ラファイエットはベスレヘム にあったモラヴィア兄弟 きょうだい 団 だん の入植 にゅうしょく 地 ち で2か月 げつ 間 あいだ 療養 りょうよう し、11月に戦場 せんじょう へ復帰 ふっき した。そしてアダム・ステファン (英語 えいご 版 ばん ) 少将 しょうしょう が率 ひき いていた師団 しだん の指揮 しき を引 ひ き継 つ いだ[ 41] 。ニュージャージーのイギリス軍 ぐん を偵察 ていさつ するナサニエル・グリーン 将軍 しょうぐん を支援 しえん し、1777年 ねん 11月24日 にち に兵 へい 300名 めい でグロスター で数 かず で上回 うわまわ るヘッセン兵 へい に勝利 しょうり した(英語 えいご 版 ばん ) [ 42] 。
バレーフォージのラファイエット(右 みぎ )とワシントン。ジョン・ワード・ダンズモア(John Ward Dunsmore)画 が 。
ラファイエットは1777年 ねん から78年 ねん の冬 ふゆ をバレーフォージ に置 お かれたワシントンの野営 やえい 地 ち で過 す ごし、兵士 へいし と苦難 くなん を共 とも にした[ 43] 。ホレイショ・ゲイツ 率 ひき いる戦争 せんそう 委員 いいん 会 かい (英語 えいご 版 ばん ) は、ラファイエットにニューヨーク州 しゅう オルバニーからケベック (英語 えいご 版 ばん ) を侵攻 しんこう する準備 じゅんび を依頼 いらい した。オルバニーに着 つ いたラファイエットは、侵攻 しんこう には兵士 へいし が少 すく なすぎると知 し った。ワシントンに状況 じょうきょう を報告 ほうこく する手紙 てがみ を書 か き、バレーフォージへ戻 もど る計画 けいかく を立 た てた。出発 しゅっぱつ する前 まえ 、ラファイエットが「Kayewla(恐 おそ ろしい騎手 きしゅ )」と記 しる したオナイダ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) を、アメリカ側 がわ で徴募 ちょうぼ した[ 30] 。バレーフォージでラファイエットは冬 ふゆ にケベックを侵攻 しんこう しようとする戦争 せんそう 委員 いいん 会 かい の決定 けってい を批判 ひはん した。大陸 たいりく 会議 かいぎ はこれに同意 どうい し、ゲイツは戦争 せんそう 委員 いいん 会 かい を去 さ った[ 44] 。その間 あいだ 、米 べい 仏 ふつ 間 あいだ で締結 ていけつ された同盟 どうめい が1778年 ねん 3月 がつ に公 おおやけ にされ、フランスが正式 せいしき にアメリカの独立 どくりつ を承認 しょうにん した[ 6] 。
ラファイエットの副官 ふっかん 、ミシェル・カピテーヌ・デュ・シェスノワ(Michel Capitaine du Chesnoy)によるバレン・ヒルの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) の地図 ちず 。
フランスの介入 かいにゅう の兆候 ちょうこう に対 たい して、イギリスはニューヨークに陸海 りくかい 軍 ぐん を集結 しゅうけつ しようとし[ 45] 、1778年 ねん 5月 がつ にフィラデルフィアへ撤退 てったい を開始 かいし した。ペンシルバニアのバレン・ヒル (英語 えいご 版 ばん ) 付近 ふきん を偵察 ていさつ するため、ワシントンは5月18日 にち 、ラファイエットと兵 へい 2,200名 めい を送 おく り出 だ した。その翌日 よくじつ 、イギリス軍 ぐん は近 ちか くでラファイエットが宿営 しゅくえい していることを知 し り、彼 かれ を捕 と らえるため兵 へい 5,000名 めい を送 おく った。ハウは5月 がつ 20日 はつか 、さらに6,000名 めい を率 ひき いてラファイエットの左翼 さよく へ攻撃 こうげき を命令 めいれい した。側面 そくめん を崩 くず されたものの、イギリス軍 ぐん が優柔不断 ゆうじゅうふだん でいる間 あいだ に、ラファイエットは秩序 ちつじょ 立 た った退却 たいきゃく を行 おこな った。数 かず 的 てき 優位 ゆうい を装 よそお うため、ラファイエットは兵士 へいし に、岩 いわ (現在 げんざい のラファイエット・ヒル (英語 えいご 版 ばん ) )の上 うえ の森 もり から姿 すがた を見 み せ、イギリス軍 ぐん を繰 く り返 かえ し射撃 しゃげき するよう命令 めいれい した[ 46] 。ラファイエットの部隊 ぶたい は同時 どうじ に切通 きりとおし 経由 けいゆ で脱出 だっしゅつ し、マットソンの浅瀬 あさせ (Matson's Ford)を渡河 とか することができた[ 47] 。
ラファイエットの副官 ふっかん であったミシェル・カピタン・ドゥ・シェスノイ(Michel Capitaine du Chesnoy)によるモンマスの戦 たたか い の地図 ちず 。
その後 ご イギリス軍 ぐん はフィラデルフィアからニューヨークへ移動 いどう した。大陸 たいりく 軍 ぐん は後 ご を追 お い、ニュージャージー中部 ちゅうぶ のモンマス・コートハウス (英語 えいご 版 ばん ) で攻撃 こうげき をかけた(モンマスの戦 たたか い )[ 6] 。当初 とうしょ ラファイエットが兵 へい 4000を率 ひき いる指揮 しき 官 かん となったが、戦 たたか いが大 おお きくなりそうなのを見 み てチャールズ・リー 将軍 しょうぐん が指揮 しき 権 けん を要求 ようきゅう したため、ワシントンは指揮 しき 官 かん をリー将軍 しょうぐん に変更 へんこう した。リーは6月 がつ 28日 にち にイギリス軍 ぐん 側面 そくめん へ移動 いどう したが、戦闘 せんとう 開始 かいし 後 ご 間 あいだ もなく矛盾 むじゅん する命令 めいれい を出 だ し、アメリカ兵 へい に混乱 こんらん をもたらした。ラファイエットはワシントンに前線 ぜんせん に出 で るよう伝言 でんごん を送 おく り、ワシントンが到着 とうちゃく したときにはリーの兵 へい が退却 たいきゃく 中 ちゅう であった。ワシントンはリーを罷免 ひめん して自 みずか ら指揮 しき を執 と り、アメリカ軍 ぐん を立 た て直 なお した。モンマスでかなりの損害 そんがい を受 う けたイギリス軍 ぐん は夜間 やかん に撤退 てったい し、無事 ぶじ ニューヨークへたどり着 つ いた[ 49] 。
デスタン (英語 えいご 版 ばん ) 提督 ていとく 率 ひき いるフランス艦隊 かんたい が1778年 ねん 7月 がつ 8日 にち 、デラウェア湾 わん に到着 とうちゃく 。ワシントンはフランス艦隊 かんたい とともに、北部 ほくぶ のイギリス軍 ぐん 根拠地 こんきょち であるニューポート を攻撃 こうげき する計画 けいかく を立 た てた。ラファイエットとグリーン将軍 しょうぐん が攻撃 こうげき 参加 さんか のため3000名 めい の兵士 へいし とともに派遣 はけん された。ラファイエットは仏 ふつ 米 べい 連合 れんごう 軍 ぐん の指揮 しき を執 と ることを望 のぞ んだが、デスタンに拒絶 きょぜつ された。8月9日 にち 、アメリカ軍 ぐん はデスタンに相談 そうだん することなくイギリス軍 ぐん を攻撃 こうげき 。アメリカ軍 ぐん はデスタンに艦隊 かんたい をナラガンセット湾 わん に入 い れるよう要請 ようせい したが、デスタンは拒否 きょひ し、海上 かいじょう でイギリス艦隊 かんたい を破 やぶ ろうとした[ 4] 。その海戦 かいせん は嵐 あらし が両 りょう 軍 ぐん の艦隊 かんたい を四散 しさん させ被害 ひがい を与 あた えたため決着 けっちゃく せずに終 お わった[ 30] 。
1778年 ねん 8月 がつ 30日 にち 時点 じてん の、ナラガンセット湾 わん 周辺 しゅうへん のラファイエットとサリバンの配置 はいち を記 しる したフランス軍 ぐん の地図 ちず 。
デスタンは修理 しゅうり のため艦隊 かんたい をボストンに向 む かわせたが、フランス艦隊 かんたい がニューポートから逃 に げたと考 かんが えたボストン市民 しみん の抗議 こうぎ 行動 こうどう に遭 あ った。ジョン・ハンコック とラファイエットが事態 じたい を沈静 ちんせい 化 か させるため派遣 はけん され、その後 ご ラファイエットはデスタンの行動 こうどう により撤退 てったい が必要 ひつよう になったロード島 とう へ戻 もど った。これらの行動 こうどう に対 たい して大陸 たいりく 会議 かいぎ は、ラファイエットは「勇敢 ゆうかん かつ熟練 じゅくれん 、慎重 しんちょう 」であると評 ひょう した[ 30] 。ラファイエットは戦争 せんそう を拡大 かくだい させて、フランスの旗 はた の下 もと で、アメリカの他 た 地域 ちいき や、更 さら にはヨーロッパでイギリス軍 ぐん と戦 たたか うことを望 のぞ んだが、その提案 ていあん はあまり関心 かんしん を持 も たれていないと知 し った。1778年 ねん 10月 がつ 、ラファイエットはワシントンと大陸 たいりく 議会 ぎかい にフランスへの帰国 きこく を要望 ようぼう し認 みと められる。そして大陸 たいりく 議会 ぎかい はラファイエットに儀礼 ぎれい 剣 けん を贈 おく ることを議決 ぎけつ した。病気 びょうき のため出発 しゅっぱつ が遅 おく れたものの、ラファイエットは1779年 ねん 1月 がつ にフランスへ向 む け出航 しゅっこう した[ 51] 。
ラファイエットは1779年 ねん 2月 がつ パリに帰着 きちゃく したが、国王 こくおう の命 いのち に背 そむ いてアメリカに行 い ったため、8日間 にちかん の軟禁 なんきん となった[ 30] 。これは単 たん にルイ16世 せい の顔 かお を立 た てたにすぎず、ラファイエットは英雄 えいゆう として歓迎 かんげい され、すぐに王 おう との狩 か りに招待 しょうたい された[ 52] 。アメリカの使節 しせつ が病気 びょうき のため、ベンジャミン・フランクリンの孫 まご ウィリアム・テンプル・フランクリン (英語 えいご 版 ばん ) がラファイエットに大陸 たいりく 会議 かいぎ から託 たく された金 きん メッキの儀礼 ぎれい 剣 けん を贈 おく った[ 53] 。
ラファイエットは自 みずか らフランス軍 ぐん を率 ひき いてイギリスへ侵攻 しんこう することを主張 しゅちょう した。スペインが対 たい イギリスの同盟 どうめい 国 こく となり、支援 しえん のためイギリス海峡 かいきょう へ艦船 かんせん を送 おく ったが、スペイン艦 かん は1779年 ねん 8月 がつ まで到着 とうちゃく せず、フランス・スペイン連合 れんごう 艦隊 かんたい が捕捉 ほそく できないイギリスのより高速 こうそく な艦隊 かんたい に接 せっ 敵 てき された。9月に侵攻 しんこう 計画 けいかく は破棄 はき され、ラファイエットはその望 のぞ みをアメリカへ戻 もど ることに変更 へんこう した[ 54] 。1779年 ねん 12月、アドリエンヌはジョルジュ・ワシントン・ラファイエット (英語 えいご 版 ばん ) を産 う んだ[ 55] 。
ラファイエットはベンジャミン・フランクリンとともに、ジャン=バティスト・ド・ロシャンボー 将軍 しょうぐん 率 ひき いる6,000の兵 へい をアメリカへ送 おく る約束 やくそく を守 まも るため活動 かつどう した[ 30] 。ラファイエットはアメリカ軍 ぐん の少将 しょうしょう に復帰 ふっき し、米 べい 仏 ふつ 各 かく 軍 ぐん を指揮 しき するロシャンボーとワシントンとの連絡 れんらく 係 がかり となることになった。1780年 ねん 3月 がつ 、フリゲ ふりげ ート艦 とかん 「エルミオンヌ (英語 えいご 版 ばん ) 」でアメリカへ向 む け、ロシュフォール を出発 しゅっぱつ [ 56] [ 57] 、同年 どうねん 4月 がつ 27日 にち にボストンに到着 とうちゃく した[ 58] 。
1780年 ねん にラファイエットをアメリカへ運 はこ んだフランスのフリゲ ふりげ ート艦 とかん 「エルミオンヌ」
ラファイエットはアメリカに戻 もど ると、独立 どくりつ 運動 うんどう が特 とく に南部 なんぶ における数 すう 度 ど の軍事 ぐんじ 的 てき 敗北 はいぼく により停滞 ていたい していることを知 し った[ 59] 。ラファイエットはあたかも「アメリカを救 すく うために騎士 きし 道 どう 時代 じだい から来 き た、輝 かがや く鎧 よろい を身 み に付 つ けた騎士 きし 」として見 み られ、ボストンでは熱狂 ねっきょう 的 てき に歓迎 かんげい された[ 60] 。彼 かれ は南西 なんせい へ向 む かい、1780年 ねん 5月 がつ 10日 とおか 、モリスタウン でワシントンと再 さい 合流 ごうりゅう した。ワシントンとその幕僚 ばくりょう は、フランスの大軍 たいぐん が彼 かれ らを支援 しえん するためアメリカに来 く ることをラファイエットに約束 やくそく したと聞 き いて喜 よろこ んだ[ 61] 。ラファイエットの人気 にんき を認識 にんしき したワシントンは、ラファイエットに植民 しょくみん 地 ち の役人 やくにん 宛 あ てにより多 おお くの兵士 へいし と食料 しょくりょう を大陸 たいりく 軍 ぐん へ供出 きょうしゅつ するよう促 うなが す手紙 てがみ を書 か かせた(アレクサンダー・ハミルトン がスペルを直 なお した)[ 62] 。これはラファイエットがフランス艦隊 かんたい の到着 とうちゃく を待 ま つ間 あいだ 、数 すう か月 げつ で実 み を結 むす んだ[ 63] 。しかし艦隊 かんたい が到着 とうちゃく した時 とき には思 おも ったより少 すく ない兵士 へいし と物資 ぶっし しかなく、ロシャンボーは増援 ぞうえん を待 ま ち、それからイギリス軍 ぐん と戦 たたか うことに決 き めた。ニューヨークほかの地域 ちいき を奪取 だっしゅ する大胆 だいたん な計画 けいかく を提案 ていあん したラファイエットは不満 ふまん をあらわにし、ロシャンボーはラファイエットが謝罪 しゃざい するまで彼 かれ を受 う け入 い れることをはっきりと拒否 きょひ した。ワシントンはラファイエットに我慢 がまん するよう忠告 ちゅうこく した[ 64] 。
大陸 たいりく 軍 ぐん 少将 しょうしょう の軍服 ぐんぷく を着 き たラファイエット。チャールズ・ウィルソン・ピール 画 が 。
その夏 なつ 、ワシントンはラファイエットに1個 いっこ 師団 しだん を任 まか せた。ラファイエットは自分 じぶん の部隊 ぶたい に惜 お しげもなく金 かね を使 つか い、ノーザン・ニュージャージー (英語 えいご 版 ばん ) とニューヨーク植民 しょくみん 地 ち をパトロールした。ラファイエットは重要 じゅうよう な行動 こうどう をすることもなく、11月にワシントンは師団 しだん を解散 かいさん させ、兵士 へいし をそれぞれの植民 しょくみん 地 ち 連隊 れんたい へ戻 もど した。戦況 せんきょう はアメリカにとって良 よ くなく、南部 なんぶ における大半 たいはん の戦闘 せんとう は不利 ふり に運 はこ び、そしてベネディクト・アーノルド 将軍 しょうぐん はイギリス軍 ぐん に寝返 ねがえ った[ 65] 。
ラファイエットは1780-81年 ねん の冬 ふゆ のはじめをフィラデルフィアで過 す ごし、アメリカ哲学 てつがく 協会 きょうかい は彼 かれ を外国 がいこく 人 じん 初 はつ の会員 かいいん に選 えら んだ。大陸 たいりく 会議 かいぎ はラファイエットにフランスへ帰国 きこく し兵士 へいし と物資 ぶっし を支援 しえん するロビー活動 かつどう を行 おこな うよう頼 たの んだが、ラファイエットは拒否 きょひ し、代 か わりに手紙 てがみ を送 おく った[ 66] 。
大陸 たいりく 軍 ぐん が1781年 ねん 1月 がつ のサウスカロライナにおけるカウペンスの戦 たたか い で勝利 しょうり した後 のち 、ワシントンはラファイエットに、フィラデルフィアの彼 かれ の部隊 ぶたい を再 さい 編成 へんせい し、ヴァージニアへ向 む かい、フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン が指揮 しき する部隊 ぶたい と合流 ごうりゅう するよう命令 めいれい した。この連合 れんごう 部隊 ぶたい はベネディクト ・アーノルドが指揮 しき するイギリス軍 ぐん を、海 うみ への脱出 だっしゅつ を阻止 そし するフランス艦隊 かんたい とともに捕捉 ほそく しようとした。もしこれに成功 せいこう していれば、アーノルドは直 ただ ちに絞首刑 こうしゅけい になっていた。ラファイエットと彼 かれ の部隊 ぶたい の一部 いちぶ (残 のこ りはアナポリスに残 のこ された)はヨークタウン でシュトイベンに合流 ごうりゅう することができたが、イギリス側 がわ が制海権 せいかいけん を握 にぎ り計画 けいかく は防 ふせ がれた。シュトイベンはワシントンに陸上 りくじょう 部隊 ぶたい とフランス艦隊 かんたい を用 もち いてチャールズ・コーンウォリス 率 ひき いるイギリスの本隊 ほんたい を罠 わな にかける計画 けいかく を提案 ていあん した。ワシントンから新 あら たな命令 めいれい を受 う けなかったラファイエットはペンシルベニアへ向 む け北 きた へ移動 いどう を開始 かいし したが、結局 けっきょく 、軍事 ぐんじ 行動 こうどう が想定 そうてい されるヴァージニアへ移動 いどう するよう命令 めいれい されるだけに終 お わった。激怒 げきど したラファイエットは決定的 けっていてき な戦 たたか いが他 た の場所 ばしょ で行 おこな われているのに僻地 へきち に見捨 みす てられていると思 おも い込 こ み、無駄 むだ に命令 めいれい に反対 はんたい した。また、フィラデルフィアにいるフランス大使 たいし のアンヌ=セザール・ド・ラ・ルゼーヌ (英語 えいご 版 ばん ) に、部隊 ぶたい の補給 ほきゅう が乏 とぼ しい状態 じょうたい にあるとの手紙 てがみ を送 おく った。ラファイエットが望 のぞ んだとおり、ルゼーヌは強力 きょうりょく なフランスの支援 しえん を勧告 かんこく する手紙 てがみ を本国 ほんごく に送 おく った。これは国王 こくおう に承認 しょうにん され、来 きた るべき戦 たたか いで決定的 けっていてき な役割 やくわり を担 にな うこととなる。手紙 てがみ がイギリス軍 ぐん に奪 うば われることを恐 おそ れていたワシントンは、勝負 しょうぶ を決 けっ する戦役 せんえき でコーンウォリスを罠 わな にかけようと計画 けいかく していることをラファイエットに伝 つた えることができなかった[ 67] 。
ヨークタウンの戦 たたか いの重要 じゅうよう 地点 ちてん の地図 ちず
ラファイエットは、リッチモンド で彼 かれ を捕 と らえようとするコーンウォリスから逃 のが れた[ 68] 。1781年 ねん 6月 がつ 、コーンウォリスはチェサピーク湾 わん へ前進 ぜんしん し、陸路 りくろ でのフィラデルフィア攻撃 こうげき に備 そな えて港 みなと の建設 けんせつ を監督 かんとく するよう、ロンドンから命令 めいれい を受 う けた[ 68] 。イギリス軍 ぐん が移動 いどう すると、ラファイエットは小 しょう 部隊 ぶたい を送 おく り、不意 ふい に現 あらわ れては後衛 こうえい や徴発 ちょうはつ 隊 たい を攻撃 こうげき し、もっと多 おお くの軍勢 ぐんぜい がいるように印象 いんしょう 付 つ けた[ 69] 。
7月 がつ 4日 にち 、イギリス軍 ぐん はウィリアムズバーグ を去 さ り、ジェームズ川 がわ の渡河 とか にとりかかった。コーンウォリスは、ラファイエットを待伏 まちぶ せようとして、南岸 なんがん に前衛 ぜんえい だけを渡河 とか させ、残 のこ りの部隊 ぶたい の多 おお くを北岸 ほくがん の森 もり の中 なか に隠 かく した。7月6日 にち 、ラファイエットはアンソニー・ウェイン 将軍 しょうぐん に約 やく 800の兵 へい で北岸 ほくがん のイギリス軍 ぐん を攻撃 こうげき するよう命令 めいれい した。ウェインは自軍 じぐん の兵力 へいりょく が大幅 おおはば に劣 おと ることに気 き づいたが、退却 たいきゃく せず銃剣 じゅうけん 突撃 とつげき を行 おこな った。アメリカ軍 ぐん は突撃 とつげき により時間 じかん を稼 かせ ぎ、イギリス軍 ぐん は追撃 ついげき しなかった。このグリーンスプリングの戦 たたか い はコーンウォリスの勝利 しょうり となったが、アメリカ軍 ぐん は兵士 へいし が勇敢 ゆうかん さを示 しめ したことで力 ちから づけられた[ 68] [ 70] 。
8月 がつ までにコーンウォリスのイギリス軍 ぐん はヨークタウンに入 はい った。ラファイエットはマルバーン・ヒル (英語 えいご 版 ばん ) に陣 じん を置 お き、ヨーク川 かわ 近 ちか くでハンプトン・ローズ にいるイギリス艦隊 かんたい を守 まも るための陣地 じんち を建設 けんせつ する命令 めいれい を受 う けたイギリス軍 ぐん を取 と り囲 かこ むように砲兵 ほうへい を並 なら べた。ラファイエットの封 ふう じ込 こ め行動 こうどう は、フランス艦隊 かんたい が到着 とうちゃく しチェサピーク湾 わん の海戦 かいせん で勝利 しょうり し、コーンウォリスから海軍 かいぐん の援護 えんご を奪 うば ったことでイギリス軍 ぐん を追 お い詰 つ めた[ 6] [ 71] [ 72] 。9月14日 にち にワシントンの軍 ぐん がウィリアムズバーグでラファイエットらと合流 ごうりゅう 。9月28日 にち 、フランス艦隊 かんたい の港湾 こうわん 封鎖 ふうさ と合 あ わせヨークタウンを包囲 ほうい した。イギリス軍 ぐん に残 のこ された2つの堡塁 ほうるい も10月 がつ 14日 にち 、アレクサンダー・ハミルトンが第 だい 10堡塁 ほうるい を、ラファイエット率 ひき いる400名 めい が第 だい 9堡塁 ほうるい を占領 せんりょう した[ 70] 。イギリス軍 ぐん の反 はん 撃 げき も失敗 しっぱい し、コーンウォリスは10月19日 にち に降伏 ごうぶく した[ 76] 。
コーンウォリス卿 きょう の降伏 ごうぶく (ジョン・トランブル )
ヨークタウンの戦 たたか いはアメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう の最後 さいご の大 だい 規模 きぼ 戦闘 せんとう であったが、イギリスは未 いま だに主要 しゅよう な港湾 こうわん 都市 とし を数 すう か所 しょ 保持 ほじ していた。ラファイエットはそれらへの遠征 えんせい を望 のぞ んだが、ワシントンはフランスに追加 ついか の海軍 かいぐん 支援 しえん を求 もと めるのが有益 ゆうえき だと考 かんが えた。大陸 たいりく 議会 ぎかい はラファイエットを、ヨーロッパにいるアメリカの使節 しせつ 、パリのベンジャミン・フランクリン、マドリードのジョン・ジェイ 、ハーグのジョン・アダムズ のアドバイザーに任命 にんめい し、使節 しせつ に対 たい しては「ラファイエットとコミュニケーションを図 はか り、全 すべ て彼 かれ に同意 どうい するよう指示 しじ した。またルイ16世 せい に対 たい し、ラファイエットの行動 こうどう を称賛 しょうさん する公文書 こうぶんしょ を送 おく った[ 77] 。
ラファイエットは1781年 ねん 12月18日 にち にフランスへ向 む けボストンを出発 しゅっぱつ 。帰国 きこく すると英雄 えいゆう として歓迎 かんげい され、1782年 ねん 1月 がつ 22日 にち にはヴェルサイユ宮殿 きゅうでん で歓待 かんたい を受 う けた。娘 むすめ の誕生 たんじょう に立 た ち会 あ い、トマス・ジェファーソンの勧 すす めでマリー=アントワネット・ヴァージニー(Marie-Antoinette Virginie)と名付 なづ けた[ 78] [ 79] 。いくつもの階級 かいきゅう を飛 と び越 こ え、少将 しょうしょう (英語 えいご 版 ばん ) に任命 にんめい され[ 80] 、聖 ひじり ルイ勲章 くんしょう (英語 えいご 版 ばん ) シュバリエを授与 じゅよ された。1782年 ねん 、まだ公式 こうしき な平和 へいわ 条約 じょうやく が締結 ていけつ されていなかったイギリス領 りょう 西 にし インドに対 たい するフランス・スペインの遠征 えんせい に取 と り組 く んだが、1783年 ねん に英 えい 米 べい 間 あいだ でパリ条約 じょうやく が締結 ていけつ され遠征 えんせい は中止 ちゅうし された。ラファイエットはそれらの交渉 こうしょう に関 かか わっていた[ 81] [ 82] 。
ラファイエットはジェファーソンとともに、アメリカの対 たい 仏 ふつ 債務 さいむ の削減 さくげん を狙 ねら い、両国 りょうこく 間 あいだ の貿易 ぼうえき 協定 きょうてい 締結 ていけつ に向 む け働 ばたら いた[ 83] 。また、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の終了 しゅうりょう と解放 かいほう 黒人 こくじん の権利 けんり の平等 びょうどう を提唱 ていしょう する、フランスの奴隷 どれい 制度 せいど 廃止 はいし グループ黒人 こくじん の友 とも 協会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) に加 くわ わった。ラファイエットは、奴隷 どれい 所有 しょゆう 者 しゃ であるワシントンへ1783年 ねん の手紙 てがみ で、奴隷 どれい を解放 かいほう し彼 かれ らを小作農 こさくのう とすることを勧 すす めた[ 84] 。ワシントンはラファイエットの考 かんが えに関心 かんしん を示 しめ したが、奴隷 どれい 解放 かいほう は拒否 きょひ した。一方 いっぽう ラファイエットは計画 けいかく 実現 じつげん のため、 フランス領 りょう ギアナ のプランテーション を購入 こうにゅう した[ 85] 。
1784年 ねん 、マウント・バーノンのラファイエットとワシントン
ラファイエットは1784年 ねん から1785年 ねん にかけアメリカを訪問 ほうもん し、訪 おとず れた全 すべ ての州 しゅう で熱狂 ねっきょう 的 てき な歓迎 かんげい を受 う けた。8月17日 にち にはマウント・バーノンにあるワシントンの農場 のうじょう も訪 おとず れた。ヴァージニア州 しゅう 議会 ぎかい 下院 かいん (英語 えいご 版 ばん ) では演説 えんぜつ を行 おこな い、「全 ぜん 人類 じんるい の自由 じゆう 」を求 もと め、奴隷 どれい 解放 かいほう を訴 うった えた[ 86] 。また、ペンシルベニア州 しゅう 議会 ぎかい では連邦 れんぽう 樹立 じゅりつ への支援 しえん を訴 うった えた。1778年 ねん に会 あ ったことがある者 もの もいる、イロコイ族 ぞく との和平 わへい 交渉 こうしょう に参加 さんか するためニューヨークのモホーク・バレー (英語 えいご 版 ばん ) を訪 おとず れた[ 87] 。ハーバード大学 だいがく から名誉 めいよ 学位 がくい を、ボストン市 し からワシントンの肖像 しょうぞう 画 が を、ヴァージニア州 しゅう からは胸像 きょうぞう を贈 おく られた。メリーランド州 しゅう 議会 ぎかい は彼 かれ と彼 かれ の男性 だんせい 相続 そうぞく 人 じん を「州 しゅう の生 う まれながらの市民 しみん 」とし称 とな えた。そして1789年 ねん のアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 憲法 けんぽう 批准 ひじゅん 後 ご には、合衆国 がっしゅうこく の生 う まれながらの市民 しみん とされた[ 88] [ 89] [ 90] [ 注釈 ちゅうしゃく 2] [ 91] 。後 のち に、ラファイエットはフランスに市民 しみん 権 けん という概念 がいねん が生 う まれる前 まえ にアメリカ市民 しみん になったことを自慢 じまん した[ 92] 。コネチカット、マサチューセッツ、ヴァージニア各州 かくしゅう もラファイエットに市民 しみん 権 けん を与 あた えた[ 5] [ 90] [ 93] [ 94] 。
ラファイエットは、パリのブルボン通 どお り(rue de Bourbon)にあった自邸 じてい (Hôtel de La Fayette)をアメリカ人 じん の集合 しゅうごう 所 しょ とした。ベンジャミン・フランクリン、ジョン・ジェイ夫妻 ふさい 、ジョン・アダムズ、アビゲイル・アダムズ は毎週 まいしゅう 月曜日 げつようび にそこで会 あ い、ラファイエットの家族 かぞく や、クレモン=トネール伯爵 はくしゃく (英語 えいご 版 ばん ) 、 スタール夫人 ふじん など自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ の貴族 きぞく と食事 しょくじ をした[ 95] 。ラファイエットはフランス国内 こくない のアメリカ産品 さんぴん に対 たい する貿易 ぼうえき 障壁 しょうへき を下 さ げる活動 かつどう を続 つづ け、フランクリンとジェファーソンがヨーロッパ諸国 しょこく と友好 ゆうこう ・通商 つうしょう 条約 じょうやく を結 むす ぶのを手伝 てつだ った。また、一 いち 世紀 せいき 前 まえ のナントの勅 みことのり 令 れい の廃止 はいし 以来 いらい 、フランスのユグノー が耐 た えてきた不当 ふとう な仕打 しう ちを正 ただ そうとした[ 96] 。
1785年 ねん にはプロイセン の軍事 ぐんじ 演習 えんしゅう を見学 けんがく するためシレジアへ行 い き、国王 こくおう フリードリヒ2世 せい に、続 つづ いて訪問 ほうもん したオーストリアでは皇帝 こうてい ヨーゼフ2世 せい にそれぞれ謁見 えっけん するなど、ヨーロッパ諸国 しょこく の君主 くんしゅ や貴族 きぞく と交友 こうゆう を深 ふか めた。1786年 ねん 、公爵 こうしゃく 領 りょう への昇格 しょうかく を企図 きと し、オーベルニュのランジャック を188,800リーブルで購入 こうにゅう し領地 りょうち を拡大 かくだい したが、公爵 こうしゃく 昇進 しょうしん は実現 じつげん しなかった。
ラファイエットが三 さん 部会 ぶかい に提案 ていあん した「人間 にんげん と市民 しみん の権利 けんり の宣言 せんげん 」
1786年 ねん 12月29日 にち 、ルイ16世 せい はフランスの財政 ざいせい 危機 きき (英語 えいご 版 ばん ) に対処 たいしょ するため、名士 めいし 会 かい を招集 しょうしゅう 。ラファイエットは1787年 ねん 2月 がつ 22日 にち に名士 めいし 会 かい に任 にん じられた[ 98] 。演説 えんぜつ の中 なか でラファイエットは、政府 せいふ の土地 とち 買収 ばいしゅう の高度 こうど な知識 ちしき から利益 りえき を得 え ている宮廷 きゅうてい 内 ない の人間 にんげん 関係 かんけい を非難 ひなん し、その改革 かいかく を提唱 ていしょう した[ 99] 。そしてフランス全土 ぜんど を代表 だいひょう する「真 しん の国民 こくみん 議会 ぎかい 」を求 もと めた[ 100] 。ルイ16世 せい は代 か わりに1789年 ねん に三 さん 部会 ぶかい (英語 えいご 版 ばん ) を開催 かいさい することとし、ラファイエットはリオン から貴族 きぞく (第 だい 二 に 階 かい 級 きゅう )議員 ぎいん に選出 せんしゅつ された[ 101] 。三 さん 部会 ぶかい は伝統 でんとう 的 てき に、3つの身分 みぶん 、聖職 せいしょく 者 しゃ 、貴族 きぞく 、平民 へいみん が身分 みぶん 毎 ごと に一票 いっぴょう 投票 とうひょう する、つまり平民 へいみん が投票 とうひょう に負 ま けるものであった[ 102] 。
三 さん 部会 ぶかい は1789年 ねん 5月 がつ 5日 にち に召集 しょうしゅう されたが、最初 さいしょ から、一票 いっぴょう を議員 ぎいん 一 いち 人 にん 毎 ごと にするか身分 みぶん 毎 ごと にするかの議論 ぎろん で紛糾 ふんきゅう した。身分 みぶん 毎 ごと なら貴族 きぞく と聖職 せいしょく 者 しゃ で平民 へいみん に投票 とうひょう で勝 か つことができる一方 いっぽう 、議員 ぎいん 毎 ごと にすれば人数 にんずう で上回 うわまわ る平民 へいみん が議事 ぎじ を支配 しはい することができる[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。会議 かいぎ の前 まえ に、「30人 にん 委員 いいん 会 かい [ 注釈 ちゅうしゃく 4] 」のメンバーとしてラファイエットは身分 みぶん 毎 ごと ではなく議員 ぎいん 毎 ごと 一票 いっぴょう を煽 あお った[ 105] 。ラファイエットは自分 じぶん が属 ぞく する貴族 きぞく 階級 かいきゅう の過半数 かはんすう の同意 どうい を得 え ることができなかったが、聖職 せいしょく 者 しゃ は喜 よろこ んで平民 へいみん 側 がわ に付 つ き[ 注釈 ちゅうしゃく 5] 、6月17日 にち 、このグループは自 みずか ら国民 こくみん 議会 ぎかい と名乗 なの った[ 107] 。王 おう 党派 とうは は彼 かれ らを議場 ぎじょう から締 し め出 だ し、国民 こくみん 議会 ぎかい 側 がわ は室内 しつない 球戯 きゅうぎ 場 じょう に集 あつ まり集会 しゅうかい を行 おこな った。これが「球戯 きゅうぎ 場 じょう の誓 ちか い 」であり、排除 はいじょ された議員 ぎいん たちは憲法 けんぽう が制定 せいてい されるまで離脱 りだつ しないことを誓 ちか った[ 108] 。国民 こくみん 議会 ぎかい は会合 かいごう を続 つづ け、7月 がつ 11日 にち にラファイエットは、ジェファーソンの助言 じょげん を受 う け執筆 しっぴつ した「人間 にんげん と市民 しみん の権利 けんり の宣言 せんげん 」の草案 そうあん を議会 ぎかい に提示 ていじ した[ 109] 。同日 どうじつ 、財務 ざいむ 総監 そうかん で改革 かいかく 者 しゃ とみられていたジャック・ネッケル が罷免 ひめん されると、弁護士 べんごし のカミーユ・デムーラン が武装 ぶそう した群衆 ぐんしゅう を率 ひき いる。ルイ16世 せい はブロイ公爵 こうしゃく が率 ひき いる軍隊 ぐんたい でパリを包囲 ほうい [ 110] したが、7月 がつ 14日 にち に群衆 ぐんしゅう がバスティーユ要塞 ようさい を襲撃 しゅうげき した[ 111] 。
国民 こくみん 衛兵 えいへい 、ヴェルサイユ、短剣 たんけん の日 ひ [ 編集 へんしゅう ]
マリー・アントワネット と共 とも にヴェルサイユ宮殿 きゅうでん のバルコニーに立 た つラファイエット
パリのフランス軍事 ぐんじ 博物館 はくぶつかん に展示 てんじ されている、ラファイエットの国民 こくみん 衛兵 えいへい の将軍 しょうぐん 時代 じだい のサーベル
7月 がつ 15日 にち 、ラファイエットは、議会 ぎかい の下 した で治安 ちあん を維持 いじ するために設立 せつりつ された武装 ぶそう 組織 そしき である国民 こくみん 衛兵 えいへい の司令 しれい 官 かん に任命 にんめい された[ 112] [ 113] 。ラファイエットはその名称 めいしょう と、シンボル(青 あお ・白 しろ ・赤 あか の円形 えんけい 章 あきら )を提案 ていあん した。パリ市 し の赤 あか と青 あお に王家 おうけ の白 しろ を組 く み合 あ わせたもので、フランス三 さん 色 しょく 旗 はた の原型 げんけい となった[ 109] [ 111] 。ラファイエットは国民 こくみん 衛兵 えいへい 司令 しれい 官 かん として困難 こんなん に直面 ちょくめん した。王 おう と多 おお くの王 おう 党派 とうは がラファイエットとその支持 しじ 者 しゃ を革命 かくめい 同然 どうぜん とみなす一方 いっぽう 、平民 へいみん の多 おお くはラファイエットが国王 こくおう の権力 けんりょく 維持 いじ を助 す けようとしていると感 かん じていた。
国民 こくみん 議会 ぎかい は8月 がつ 26日 にち に人間 にんげん と市民 しみん の権利 けんり の宣言 せんげん を採択 さいたく したが[ 114] 、10月2日 にち 、ルイ16世 せい はこれを拒否 きょひ した[ 115] 。その3日 にち 後 ご 、魚屋 さかなや の女性 じょせい たちに率 ひき いられたパリ市民 しみん がパン不足 ふそく を訴 うった えてヴェルサイユへ行進 こうしん した。ラファイエットは渋々 しぶしぶ 国民 こくみん 衛兵 えいへい を連 つ れ、行進 こうしん の後 のち に続 つづ いた。ヴェルサイユで、ルイ16世 せい は人権 じんけん 宣言 せんげん に対 たい する議会 ぎかい の決議 けつぎ を受 う け入 い れたが、パリに行 い くことを拒否 きょひ したため、夜明 よあ けに群衆 ぐんしゅう が宮殿 きゅうでん になだれ込 こ んだ。ラファイエットは国王 こくおう 一家 いっか を宮殿 きゅうでん のバルコニーに出 だ し秩序 ちつじょ を取 と り戻 もど そうとしたが[ 116] [ 117] 、群衆 ぐんしゅう は国王 こくおう 一家 いっか をパリのテュイルリー宮殿 きゅうでん に連 つ れて行 い こうとしていた[ 118] [ 119] 。ルイ16世 せい がバルコニーに出 で ると群衆 ぐんしゅう は「国王 こくおう 万 まん 歳 さい !」と繰 く り返 かえ した。マリー・アントワネット は子供 こども とともに現 あらわ れたが、子供 こども たちに中 なか に戻 もど るよう言 い った。マリー・アントワネットは独 ひと り戻 もど り、人々 ひとびと が彼女 かのじょ を撃 う つと叫 さけ んだが、彼女 かのじょ はそこに留 と まり、発砲 はっぽう も無 な かった。ラファイエットがマリー・アントワネットの手 て にキスすると、群衆 ぐんしゅう から歓声 かんせい が起 お こった[ 120] [ 121] 。
1790年 ねん 7月 がつ 14日 にち の連盟 れんめい 祭 さい (英語 えいご 版 ばん ) におけるラファイエットの宣誓 せんせい 。 フランス革命 かくめい 博物館 はくぶつかん (英語 えいご 版 ばん ) 所蔵 しょぞう 。
急進 きゅうしん 派 は が影響 えいきょう 力 りょく を増 ま す中 なか にあっても、ラファイエットは国民 こくみん 衛兵 えいへい 司令 しれい 官 かん として、秩序 ちつじょ を維持 いじ し中道 ちゅうどう であろうとした[ 122] 。彼 かれ とパリ市長 しちょう ジャン=シルヴァン・バイイ は、1790年 ねん 5月 がつ 12日 にち 、急進 きゅうしん 的 てき なジャコバン派 は の影響 えいきょう 力 りょく とバランスを取 と ることを目的 もくてき とした政治 せいじ 組織 そしき 、1789年 ねん の会 かい (英語 えいご 版 ばん ) [ 注釈 ちゅうしゃく 6] を設立 せつりつ した[ 124] 。7月14日 にち にシャン・ド・マルス で開 ひら かれた連盟 れんめい 祭 さい (英語 えいご 版 ばん ) では大 だい 群衆 ぐんしゅう を前 まえ に、「国民 こくみん 議会 ぎかい で採択 さいたく され国王 こくおう が同意 どうい した憲法 けんぽう を最大限 さいだいげん の力 ちから で支持 しじ するために、国家 こっか 、法 ほう 、国王 こくおう に対 たい し忠誠 ちゅうせい を誓 ちか う」と宣誓 せんせい した[ 125] 。続 つづ いて軍隊 ぐんたい と国王 こくおう も宣誓 せんせい を行 おこな った[ 126] 。
ラファイエットは続 つづ く数 すう か月 げつ 、秩序 ちつじょ 維持 いじ のために働 はたら き続 つづ けた。1791年 ねん 2月 がつ 28日 にち 、ヴィンセンヌでの紛争 ふんそう を処理 しょり するため、国民 こくみん 衛兵 えいへい の一部 いちぶ とともにチュイルリーを出発 しゅっぱつ した。彼 かれ がいない間 あいだ 、武装 ぶそう した数 すう 百 ひゃく 名 めい の貴族 きぞく が国王 こくおう を守 まも るためにテュイルリー宮殿 きゅうでん に集 あつ まった。だがこれは、貴族 きぞく が国王 こくおう を連 つ れ去 さ り、反 はん 革命 かくめい のトップに立 た てようとしているとの噂 うわさ になった。ラファイエットはすぐにテュイルリーに戻 もど り、一瞬 いっしゅん の膠着 こうちゃく 状態 じょうたい の後 のち 、貴族 きぞく たちを武装 ぶそう 解除 かいじょ した。この一 いち 件 けん は短剣 たんけん の日 ひ (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ばれ、迅速 じんそく に国王 こくおう を守 まも ったことでラファイエットの人気 にんき 拡大 かくだい を後押 あとお しした[ 128] 。にもかかわらず、国王 こくおう 一家 いっか はますます宮殿 きゅうでん の囚人 しゅうじん と化 か していった[ 129] 。4月18日 にち には国民 こくみん 衛兵 えいへい がラファイエットの命令 めいれい に背 そむ き、群衆 ぐんしゅう と一緒 いっしょ に、ルイ16世 せい がミサに出席 しゅっせき する予定 よてい だったサン=クルー への出発 しゅっぱつ を阻止 そし した[ 111] [ 130] [ 131] 。
失墜 しっつい :ヴァレンヌ事件 じけん とシャン・ド・マルスの虐殺 ぎゃくさつ [ 編集 へんしゅう ]
1791年 ねん 6月 がつ 20日 はつか のヴァレンヌ事件 じけん として知 し られる策謀 さくぼう で、ルイ16世 せい は国外 こくがい 脱出 だっしゅつ 一 いち 歩 ほ 手前 てまえ までいった。ラファイエットは国民 こくみん 衛兵 えいへい の指揮 しき 官 かん として国王 こくおう 一家 いっか の保護 ほご 責任 せきにん を負 お っていたが、そのためにジョルジュ・ダントン のような急進 きゅうしん 派 は から非難 ひなん され、マクシミリアン・ロベスピエール からは民衆 みんしゅう への裏切者 うらぎりもの と名指 なざ しされた[ 133] 。これらの非難 ひなん によりラファイエットは王 おう 党派 とうは であると印象 いんしょう 付 つ けられ、その名声 めいせい はダメージを負 お い[ 134] 、ジャコバン派 は や他 た の急進 きゅうしん 派 は の力 ちから を強化 きょうか した。ラファイエットは法 ほう に基 もと づく統治 とうち を訴 うった え続 つづ けたが、暴徒 ぼうと とそのリーダーにかき消 け された[ 135] 。
シャン・ド・マルスの虐殺 ぎゃくさつ を描 えが いた絵 え 。中央 ちゅうおう に剣 けん を持 も つラファイエットがいる。
ラファイエットの評判 ひょうばん は1791年 ねん 後半 こうはん まで低下 ていか を続 つづ けた。急進 きゅうしん 派 は のコルドリエ・クラブ は7月 がつ 17日 にち に、王政 おうせい 廃止 はいし か、国民 こくみん 投票 とうひょう でそれを決 き めるかを求 もと める国民 こくみん 議会 ぎかい への請願 せいがん 書 しょ への署名 しょめい を集 あつ めるイベントをシャン・ド・マルスで開催 かいさい した。集 あつ まった市民 しみん は約 やく 1万 まん 人 にん に達 たっ し、スパイと疑 うたが われた2人 ふたり が絞首刑 こうしゅけい となった。ラファイエットは治安 ちあん 回復 かいふく のため部隊 ぶたい を率 ひき いてシャン・ド・マルスへ向 む かったが、銃撃 じゅうげき や投石 とうせき にあった。竜騎兵 りゅうきへい が崩 くず れると、兵士 へいし が 群衆 ぐんしゅう に向 む かって発砲 はっぽう し 、多数 たすう の死傷 ししょう 者 しゃ が出 で た。戒厳 かいげん 令 れい が出 だ され、ダントンや ジャン=ポール・マラー など、暴徒 ぼうと のリーダーたちは逃亡 とうぼう し身 み を隠 かく した。この虐殺 ぎゃくさつ の後 のち 、市民 しみん の間 あいだ でのラファイエットの評判 ひょうばん は、王室 おうしつ の利益 りえき に同調 どうちょう していると信 しん じられて劇的 げきてき に悪化 あっか した[ 136] 。虐殺 ぎゃくさつ 直後 ちょくご 、暴徒 ぼうと がラファイエットの家 いえ を襲 おそ い、妻 つま に危害 きがい を加 くわ えようとした。国民 こくみん 議会 ぎかい は9月に憲法 けんぽう を完成 かんせい させ、それを見 み てラファイエットは10月 がつ 初旬 しょじゅん に国民 こくみん 衛兵 えいへい を辞職 じしょく した[ 137] 。
ラファイエットは1791年 ねん 10月 がつ 、オーベルニュの領地 りょうち へ戻 もど った[ 138] 。11月にはパリ市長 しちょう 選挙 せんきょ に立候補 りっこうほ したが、ジロンド派 は の候補 こうほ に大敗 たいはい した。1792年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 、フランスはオーストリアに宣戦 せんせん 布告 ふこく し、オーストリア領 りょう ネーデルラント (現在 げんざい のベルギー )への侵攻 しんこう 準備 じゅんび を開始 かいし した。1791年 ねん 6月 がつ 30日 にち に中将 ちゅうじょう に昇進 しょうしん していたラファイエットは、同年 どうねん 12月 がつ 14日 にち 、3つの軍 ぐん のうちの1つ、メスを拠点 きょてん とする中央 ちゅうおう 方面 ほうめん 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) の司令 しれい 官 かん となった[ 140] 。ラファイエットは、徴募 ちょうぼ 兵 へい と国民 こくみん 衛兵 えいへい の団結 だんけつ 力 りょく を高 たか めるために最善 さいぜん を尽 つ くしたが、兵士 へいし の多 おお くはジャコバン派 は のシンパであり、上官 じょうかん を嫌 きら っていた。この感情 かんじょう は軍隊 ぐんたい でよく見 み られ、マルカンの戦 たたか い の後 のち には、敗走 はいそう したフランス兵 へい が指揮 しき 官 かん のテオバルド・ディヨン (英語 えいご 版 ばん ) をリール に連 つ れ込 こ み、暴徒 ぼうと が殺害 さつがい したこともあった。軍 ぐん 司令 しれい 官 かん の一人 ひとり 、ロシャンボーは辞任 じにん した[ 141] 。ラファイエットは、もう一人 ひとり の司令 しれい 官 かん ニコラ・リュクネール とともに、軍隊 ぐんたい が再 ふたた び戦闘 せんとう を行 おこな ったら何 なに が起 お こるか懸念 けねん して、和平 わへい 交渉 こうしょう の開始 かいし を議会 ぎかい に要請 ようせい した[ 142] 。
1792年 ねん 6月 がつ 、ラファイエットは議会 ぎかい への軍事 ぐんじ 郵便 ゆうびん を通 つう じて急進 きゅうしん 派 は の影響 えいきょう 力 りょく が増 ま していることを批判 ひはん し[ 143] 、急進 きゅうしん 派 は を「力 ちから によって終 お わらせたい」と手紙 てがみ をしめくくった[ 142] 。これは時機 じき を見 み 誤 あやま ったもので、パリは急進 きゅうしん 派 は が完全 かんぜん に支配 しはい していた。ラファイエットはパリへ行 い き、6月28日 にち にジャコバン派 は などの急進 きゅうしん 派 は を非難 ひなん する激 はげ しい演説 えんぜつ を行 おこな った。しかし軍 ぐん を脱走 だっそう したとして告発 こくはつ された。ラファイエットはジャコバン派 は に対峙 たいじ する志願 しがん 者 しゃ を集 あつ めたが、わずかな人数 にんずう しか現 あらわ れなかったことで民衆 みんしゅう の態度 たいど を知 し り、急 いそ いでパリを離 はな れた。ロベスピエールはラファイエットを裏切者 うらぎりもの と呼 よ び、暴徒 ぼうと が彼 かれ の人形 にんぎょう を火刑 かけい にした[ 144] 。1792年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、ラファイエットは北部 ほくぶ 方面 ほうめん 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) の指揮 しき 官 かん に異動 いどう となった。
国王 こくおう と王妃 おうひ に危害 きがい が加 くわ えられた場合 ばあい にはオーストリアとプロイセンがパリを破壊 はかい すると警告 けいこく した7月 がつ 25日 にち のブラウンシュヴァイクの宣言 せんげん は、ラファイエットと国王 こくおう 一家 いっか に破滅 はめつ をもたらした。8月 がつ 10日 とおか に群衆 ぐんしゅう がテュイルリー宮殿 きゅうでん を襲撃 しゅうげき し、国王 こくおう と王妃 おうひ は立法 りっぽう 議会 ぎかい により、タンプル塔 とう に幽閉 ゆうへい された。立法 りっぽう 議会 ぎかい が国王 こくおう の権限 けんげん を停止 ていし し、国王 こくおう と王妃 おうひ は数 すう か月 げつ 後 ご に処刑 しょけい されることになる。8月14日 にち 、司法 しほう 大臣 だいじん のダントンがラファイエット逮捕 たいほ の令状 れいじょう を出 だ す。ラファイエットはアメリカ行 い きを望 のぞ んで、オーストリア領 りょう ネーデルラントへ逃亡 とうぼう した[ 145] 。
牢獄 ろうごく のラファイエット
ラファイエットはロシュフォール (英語 えいご 版 ばん ) 付近 ふきん で、同行 どうこう していた元 もと フランス軍 ぐん 将校 しょうこう のジャン=グザヴィエ・ブロー・ド・プシ (英語 えいご 版 ばん ) がフランス軍 ぐん 将校 しょうこう を代表 だいひょう してオーストリア領 りょう の通行 つうこう 許可 きょか を求 もと めた際 さい 、オーストリアに捕 と らわれた。最初 さいしょ は他 た のフランスからの逃亡 とうぼう 者 しゃ 同様 どうよう に許可 きょか されたが、ラファイエットがいることが発覚 はっかく すると取 と り消 け された[ 146] 。反 はん フランスでオーストリアの同盟 どうめい 国 こく であったプロイセン の国王 こくおう フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 せい は、かつてラファイエットを受 う け入 い れたことがあったが、それはフランス革命 かくめい 前 まえ のことであった。今 いま や、他国 たこく の君主 くんしゅ 制 せい を転覆 てんぷく させるのを防 ふせ ぐため拘禁 こうきん するよう、革命 かくめい の危険 きけん な扇動 せんどう 者 しゃ とみなした[ 147] 。
ラファイエットはニヴェル (英語 えいご 版 ばん ) に留 と められた後 のち [ 148] 、ルクセンブルク へ移 うつ され、同盟 どうめい 軍 ぐん の軍事 ぐんじ 裁判 さいばん は、彼 かれ とプシ、他 た 2人 ふたり を革命 かくめい での行動 こうどう により国事犯 こくじはん であると宣告 せんこく した。裁判 さいばん は、復位 ふくい したフランス国王 こくおう が最終 さいしゅう 判決 はんけつ を宣告 せんこく するまで、彼 かれ らの拘束 こうそく を命令 めいれい [ 149] 。1792年 ねん 9月 がつ 12日 にち 、裁判 さいばん の命令 めいれい に従 したが い、プロイセンの管理 かんり 下 か に移 うつ された。ラファイエットらはプロイセンの要塞 ようさい 都市 とし ヴェセル (英語 えいご 版 ばん ) に運 はこ ばれ、9月19日 にち から同年 どうねん 12月 がつ 22日 にち までヴェセル要塞 ようさい (英語 えいご 版 ばん ) の不潔 ふけつ な独房 どくぼう に入 い れられた。フランス革命 かくめい 軍 ぐん がラインラント を脅 おびや かすと、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 せい は彼 かれ らを東 ひがし のマクデブルク へ移 うつ し、1793年 ねん 1月 がつ 4日 にち から1794年 ねん 1月 がつ 4日 にち まで1年間 ねんかん 、そこに留 と められた[ 150] 。
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 せい は予想 よそう 外 がい に健闘 けんとう するフランス軍 ぐん と戦闘 せんとう を続 つづ けても得 え るものは少 すく なく、ポーランド王国 おうこく (英語 えいご 版 ばん ) のほうが容易 ようい に収穫 しゅうかく を得 え られると判断 はんだん した。そこでフランスとの武力 ぶりょく 対立 たいりつ を止 と め、捕虜 ほりょ をかつての同盟 どうめい 相手 あいて であるオーストリア皇帝 こうてい フランツ2世 せい に引 ひ き渡 わた した。ラファイエットらは最初 さいしょ シレジアのナイセ(現在 げんざい のポーランド領 りょう ニサ )に移 うつ された。1794年 ねん 5月 がつ 17日 にち にオーストリア国境 こっきょう を越 こ え、翌日 よくじつ 、モラヴィアのオルミュッツ(現在 げんざい チェコ領 りょう オロモウツ )にあるイエズス会 かい の大学 だいがく 跡 あと のバラック建 だ ての牢獄 ろうごく に入 い れられた[ 151] 。
ラファイエットは捕 と らえられてから、かつて与 あた えられたアメリカ市民 しみん 権 けん を用 もち いて解放 かいほう されようとし、ハーグにいるアメリカ公使 こうし ウィリアム・ショート と連絡 れんらく を取 と った。ショートや他 た の使節 しせつ たちはラファイエットのアメリカへの貢献 こうけん に応 こた えたいと考 かんが えていたが、アメリカ市民 しみん としてよりもフランス人 じん 将校 しょうこう としての位置 いち づけが優先 ゆうせん されることを知 し っていた。当時 とうじ 大統領 だいとうりょう だったワシントンは、ヨーロッパの問題 もんだい にアメリカを巻 ま き込 こ むような行動 こうどう は避 さ けるように使節 しせつ に指示 しじ しており[ 152] 、かつアメリカはプロイセンやオーストリアと外交 がいこう 関係 かんけい を持 も っていなかった[ 153] 。代 か わりにラファイエットと、フランスで投獄 とうごく されている彼 かれ の妻 つま [ 注釈 ちゅうしゃく 7] に金 かね を送 おく った。国務 こくむ 長官 ちょうかん のジェファーソンは、ラファイエットに1777年 ねん から1783年 ねん までの少将 しょうしょう としての勤務 きんむ に対 たい して利息 りそく 付 つ きで支払 しはら うという抜 ぬ け道 みち を発見 はっけん した。この法律 ほうりつ はアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 議会 ぎかい を通過 つうか し、ワシントン大統領 だいとうりょう が署名 しょめい した。これらの資金 しきん は投獄 とうごく されているラファイエット夫妻 ふさい の特権 とっけん となった[ 155] [ 156] 。
ラファイエットを救出 きゅうしゅつ するより直接的 ちょくせつてき な手段 しゅだん として、アレクサンダー・ハミルトンの義理 ぎり の妹 いもうと アンジェリカ・シューラー・チャーチ (英語 えいご 版 ばん ) と、その夫 おっと で大陸 たいりく 軍 ぐん に従軍 じゅうぐん し今 いま はイギリスの国会 こっかい 議員 ぎいん であるジョン・バーカー・チャーチ (英語 えいご 版 ばん ) は脱獄 だつごく 計画 けいかく を企 くわだ てた。彼 かれ らは、若 わか いハノーファー人 じん の医師 いし エリック・ボルマン (英語 えいご 版 ばん ) を雇 やと い、南 みなみ カロライナの医学 いがく 生 せい で、ラファイエットが最初 さいしょ にアメリカに行 い った際 さい に滞在 たいざい したベンジャミン・ハガーの息子 むすこ であるフランシス・キンロック・ハガー (英語 えいご 版 ばん ) が手助 てだす けをした。彼 かれ らの助 たす けを借 か りてラファイエットはオルミュッツ郊外 こうがい の田園 でんえん 地帯 ちたい で護送 ごそう 馬車 ばしゃ から脱出 だっしゅつ したが、道 みち に迷 まよ い再 ふたた び捕 つか まった[ 注釈 ちゅうしゃく 8] [ 157] 。
妻子 さいし と再会 さいかい した獄中 ごくちゅう のラファイエットを描 えが いた、19世紀 せいき 初 はじ めの絵 え 。
アドリエンヌはフランスの牢獄 ろうごく から釈放 しゃくほう されると、アメリカの駐 ちゅう フランス大使 たいし ジェームズ・モンロー の助力 じょりょく で、彼女 かのじょ と彼女 かのじょ の娘 むすめ のパスポートをコネチカット州 しゅう から入手 にゅうしゅ し、これで一家 いっか 全員 ぜんいん がアメリカの市民 しみん 権 けん を得 え た。息子 むすこ のジョルジュ・ワシントンはすでにフランスを密 みつ 出国 しゅっこく しアメリカに渡 わた っていた[ 158] 。アドリエンヌと二人 ふたり の娘 むすめ はウィーンへ行 い き、フランツ皇帝 こうてい に謁見 えっけん し、監禁 かんきん 中 ちゅう のラファイエットと一緒 いっしょ に住 す む許可 きょか を得 え た。1年 ねん 前 まえ に脱出 だっしゅつ を試 こころ みて以来 いらい 、厳 きび しい孤独 こどく な監禁 かんきん に耐 た えてきたラファイエットは、1795年 ねん 10月 がつ 15日 にち に兵士 へいし が牢獄 ろうごく の扉 とびら を開 あ けて妻 つま と娘 むすめ を入 い れたとき驚愕 きょうがく した。一家 いっか は続 つづ く2年間 ねんかん 、監禁 かんきん されながら一緒 いっしょ に過 す ごした[ 159] [ 160] 。
外交 がいこう やマスコミ、個人 こじん 的 てき なアピールなどを通 つう じて、大西洋 たいせいよう の両 りょう 岸 きし にいるラファイエットのシンパは、その影響 えいきょう 力 りょく を発揮 はっき し、恐怖 きょうふ 政治 せいじ 後 ご のフランス政府 せいふ に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。若 わか い常勝 じょうしょう 将軍 しょうぐん ナポレオン・ボナパルト がオルミュッツにいる国事犯 こくじはん の釈放 しゃくほう を掛 か け合 あ い、カンポ・フォルミオ条約 じょうやく により釈放 しゃくほう されることになった。こうしてラファイエットの5年 ねん 以上 いじょう に及 およ ぶ投獄 とうごく 生活 せいかつ は終 お わりを告 つ げた。ラファイエット一家 いっか と捕虜 ほりょ 仲間 なかま は、1797年 ねん 9月 がつ 19日 にち にオーストリアの護衛 ごえい の下 しも オルミュッツを離 はな れて、プラハ北方 ほっぽう で国境 こっきょう を越 こ え、10月4日 にち 、ハンブルクでアメリカ領事 りょうじ に引 ひ き渡 わた された[ 161] [ 162] 。
ラファイエットはハンブルクからナポレオンに感謝 かんしゃ の手紙 てがみ を送 おく った。フランスの総裁 そうさい 政府 せいふ はラファイエットが忠誠 ちゅうせい を誓 ちか わない限 かぎ り帰国 きこく を嫌 いや がっていたが、違憲 いけん な手段 しゅだん で権力 けんりょく を手 て に入 い れたと信 しん じていたラファイエットは忠誠 ちゅうせい を誓 ちか おうとしなかった。その仕返 しかえ しに、政府 せいふ は残 のこ されたブルターニュの領地 りょうち [ 注釈 ちゅうしゃく 9] を売却 ばいきゃく しようとした。ラファイエット一家 いっか にはアメリカから帰国 きこく したジョルジュ・ワシントンが合流 ごうりゅう し、アドリエンヌの叔母 おば が所有 しょゆう するハンブルク近郊 きんこう の地所 じしょ で療養 りょうよう した。アメリカとフランスの紛争 ふんそう のため、アメリカに渡 わた ることもできず、ラファイエットは国 くに を失 うしな う状態 じょうたい になった[ 165] 。
ラグランジュ=ブレノー城 じょう 。
アドリエンヌはパリに戻 もど って夫 おっと の帰国 きこく を実現 じつげん させようとし、フランスに凱旋 がいせん したナポレオンに取 と り入 い った。ブリュメール18日 にち のクーデター (1799年 ねん 11月9日 にち )の後 のち 、ラファイエットは政権 せいけん 交代 こうたい に伴 ともな う混乱 こんらん を利用 りよう して、「モティエ 」の名前 なまえ 入 い りのパスポートでフランスに潜 もぐ り込 こ んだ。ナポレオンは怒 いか りを露 あら わにしたが、アドリエンヌはそれが単 たん にポーズであると理解 りかい した上 うえ で、ラファイエットがナポレオンを支援 しえん し、公 おおやけ の場 ば から引退 いんたい しアドリエンヌが取 と り戻 もど していた地所 じしょ であるラグランジュ (英語 えいご 版 ばん ) へ行 い くと誓 ちか うことを提案 ていあん した。ナポレオンはラファイエットが留 と まることを許可 きょか 。ラファイエットは市民 しみん 権 けん を持 も たず、政治 せいじ 活動 かつどう をすれば略式 りゃくしき 逮捕 たいほ の対象 たいしょう となっていたが、市民 しみん 権 けん の回復 かいふく を約束 やくそく された。ラファイエットはラグランジュで静 しず かに過 す ごし、ワシントンが1799年 ねん 12月に死去 しきょ した際 さい にナポレオンがパリで開催 かいさい した追悼 ついとう 会 かい にラファイエットは招待 しょうたい されず、彼 かれ の名前 なまえ も言及 げんきゅう されなかった[ 166] 。
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 下院 かいん にある、シェッファー画 が の1824年 ねん の肖像 しょうぞう 。
1800年 ねん 3月 がつ 1日 にち 、ナポレオンはラファイエットの市民 しみん 権 けん を復活 ふっかつ させ、ラファイエットは資産 しさん の一部 いちぶ を取 と り戻 もど すことができた。ナポレオンはラファイエットにアメリカ公使 こうし になることを打診 だしん したが、ラファイエットはナポレオンの政権 せいけん に関 かか わるつもりはなく、きっぱりと拒絶 きょぜつ した。1802年 ねん 、ラファイエットはナポレオンを終身 しゅうしん 統 すべ 領 りょう とする国民 こくみん 投票 とうひょう で、反対 はんたい するわずかな少数 しょうすう 派 は となった[ 167] 。ナポレオンはラファイエットを元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん とし、レジオンドヌール勲章 くんしょう を授与 じゅよ しようとしたものの、民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 政府 せいふ からの栄誉 えいよ なら喜 よろこ んで受 う けたであろうが、ラファイエットは拒否 きょひ した[ 168] 。
1804年 ねん 、ナポレオンはラファイエットが参加 さんか しなかった国民 こくみん 投票 とうひょう を経 へ て皇帝 こうてい に即位 そくい 。ラファイエットは革命 かくめい 記念 きねん 日 び の演説 えんぜつ を行 おこな ったが、比較的 ひかくてき 沈黙 ちんもく したままでいた[ 169] 。アメリカのルイジアナ買収 ばいしゅう 後 ご 、ジェファーソン大統領 だいとうりょう が知事 ちじ に興味 きょうみ ないかと尋 たず ねたが、ラファイエットは個人 こじん 的 てき な事情 じじょう とフランスの自由 じゆう のために働 はたら く願望 がんぼう を理由 りゆう に断 ことわ った[ 170] [ 92] 。
1807年 ねん 、オーヴェルニュ滞在 たいざい 中 ちゅう に、アドリエンヌは過去 かこ の投獄 とうごく が原因 げんいん で合併症 がっぺいしょう にかかった。彼女 かのじょ は精神 せいしん 錯乱 さくらん に陥 おちい ったが、クリスマスイブには回復 かいふく し、ベッドに家族 かぞく を集 あつ めてラファイエットに、こう言 い った「私 わたし はあなたのものです(Je suis toute à vous)」[ 171] 。翌日 よくじつ 彼女 かのじょ は亡 な くなった[ 172] 。アドリエンヌの死後 しご 数 すう 年間 ねんかん 、ナポレオンのヨーロッパにおける勢力 せいりょく が高 たか まり衰 おとろ える間 あいだ 、ラファイエットはほとんどをラグランジュで静 しず かに過 す ごした。多 おお くの影響 えいきょう 力 りょく を持 も つ人物 じんぶつ や一般 いっぱん 市民 しみん 、特 とく にアメリカ人 じん がラファイエットを訪問 ほうもん した。ラファイエットは多 おお くの手紙 てがみ を、特 とく にジェファーソンに書 か き、ワシントンとかつてそうしていたように贈 おく り物 もの を交換 こうかん した[ 173] 。
1814年 ねん 、反 はん ナポレオン同盟 どうめい 軍 ぐん がフランスに侵攻 しんこう し王政 おうせい が復活 ふっかつ 。ルイ16世 せい の弟 おとうと ・プロヴァンス伯 はく がルイ18世 せい として即位 そくい した。ラファイエットは新 しん 国王 こくおう に歓迎 かんげい されたが、総 そう 人口 じんこう 2500万 まん 人 にん に対 たい し男性 だんせい 9万 まん 人 にん にしか与 あた えられなかった代議 だいぎ 院 いん の新 あら たな制限 せいげん 選挙 せんきょ 権 けん には反対 はんたい した。ラファイエットは1814年 ねん の選挙 せんきょ に立候補 りっこうほ せず、ラグランジュに留 とど まった[ 174] 。
フランス国内 こくない では復員 ふくいん 兵 へい などの間 あいだ に不満 ふまん が広 ひろ がっていた。トスカーナ群島 ぐんとう のエルバ島 とう に流刑 りゅうけい となっていたナポレオンは、好機 こうき 到来 とうらい と見 み て、1815年 ねん 3月 がつ 1日 にち 数 すう 百 ひゃく の兵 へい を率 ひき いてカンヌに上陸 じょうりく した。続々 ぞくぞく とナポレオンの下 した に人 ひと が集 あつ まり、その月末 げつまつ にはパリを占領 せんりょう 、ルイ18世 せい はヘント へ逃亡 とうぼう した。ラファイエットはナポレオンから新 しん 政府 せいふ への参加 さんか を求 もと められたが拒否 きょひ した[ 175] が、 1815年 ねん 憲法 けんぽう で創設 そうせつ された新 あら たな代議 だいぎ 院 いん に選出 せんしゅつ されることは受 う け入 い れた。ワーテルローの戦 たたか いでナポレオンが敗北 はいぼく した後 のち 、ラファイエットは彼 かれ の退位 たいい を求 もと めた。ナポレオンの弟 おとうと リュシアン・ボナパルト に対 たい し、ラファイエットはこう主張 しゅちょう した。
何 なん の権利 けんり があって国民 こくみん を非難 ひなん するのか……皇帝 こうてい の利益 りえき のために我慢 がまん が必要 ひつよう なのか?国民 こくみん は彼 かれ に従 したが って、イタリアの野原 のはら にエジプトの砂漠 さばく 、ドイツの平野 へいや 、ロシアの凍土 とうど まで行 い った……そして50回戦 かいせん い、敗北 はいぼく し勝利 しょうり したりする中 なか で、300万 まん 人 にん ものフランス兵 へい を弔 とむら わなければならなかった[ 176] 。
ワーテルローの戦 たたか いから4日 にち 後 ご の1815年 ねん 6月 がつ 22日 にち 、ナポレオンは退位 たいい した。ラファイエットはナポレオンのアメリカ行 い きを手配 てはい したが、イギリスが妨害 ぼうがい し、ナポレオンはセントヘレナ に流 なが され生涯 しょうがい を閉 と じた[ 177] 。代議 だいぎ 院 いん は解散 かいさん する前 まえ にラファイエットを和平 わへい 交渉 こうしょう の委員 いいん に指名 しめい したが、フランスの大半 たいはん を占領 せんりょう した連合 れんごう 軍 ぐん により無視 むし され、プロイセン軍 ぐん はラグランジュを接収 せっしゅう し司令 しれい 部 ぶ を置 お いた。プロイセン軍 ぐん は1815年 ねん 後半 こうはん に去 さ り、ラファイエットは自宅 じたく に戻 もど り、再 ふたた び一 いち 市民 しみん となった[ 178] 。
パリとラグランジュにあるラファイエットの家 いえ は、独立 どくりつ 戦争 せんそう の英雄 えいゆう に会 あ いたいというアメリカ人 じん や他 た の人々 ひとびと を受 う け入 い れた。アイルランド人 じん の小説 しょうせつ 家 か シドニー・モーガン夫人 ふじん (英語 えいご 版 ばん ) が1818年 ねん 、ラ・グランジュに1か月 げつ 間 あいだ 滞在 たいざい した間 あいだ に会 あ った者 もの の中 なか には、アメリカ人 じん 旅行 りょこう 者 しゃ と並 なら んで、オランダの画家 がか アリ・シェフェール や歴史 れきし 家 か のオーギュスタン・ティエリ もいた。他 た の訪問 ほうもん 者 しゃ には、哲学 てつがく 者 しゃ のジェレミ・ベンサム 、アメリカの学者 がくしゃ ジョージ・ティックノー (英語 えいご 版 ばん ) や作家 さっか のファニー・ライト (英語 えいご 版 ばん ) もいた[ 179] 。
王政 おうせい 復古 ふっこ 後 ご の最初 さいしょ の十 じゅう 年間 ねんかん 、ラファイエットはフランスやヨーロッパ諸国 しょこく の数々 かずかず の陰謀 いんぼう を支援 しえん したが、成功 せいこう したものはなかった。様々 さまざま な炭焼 すみやき 党 とう の陰謀 いんぼう にも関 かか わり、フランス軍 ぐん の守備 しゅび 隊 たい がいたベルフォール へ行 い き、そこの革命 かくめい 政府 せいふ で主要 しゅよう な地位 ちい に就 つ くことに応 おう じた。政府 せいふ が陰謀 いんぼう に気 き づいたと警告 けいこく され、明 あき らかな関与 かんよ をせずにベルフォールへの道 みち を引 ひ き返 かえ した。1821年 ねん に始 はじ まったギリシャ独立 どくりつ 戦争 せんそう を支援 しえん し、手紙 てがみ を通 つう じてアメリカ政府 せいふ にギリシャ人 じん と同盟 どうめい するよう説得 せっとく を試 こころ みた[ 181] 。フランス政府 せいふ はギリシャ問題 もんだい に関与 かんよ しているラファイエットとジョルジュ・ワシントン両 りょう 名 な を逮捕 たいほ しようと考 かんが えたが、実行 じっこう した場合 ばあい の政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう について慎重 しんちょう であった。ラファイエットは1823年 ねん まで代議員 だいぎいん 議員 ぎいん を務 つと めた[ 182] が、1824年 ねん の選挙 せんきょ で保守 ほしゅ 派 は の候補 こうほ に敗 やぶ れた。
1825年 ねん のラファイエット
1824年 ねん 、ジェームズ・モンロー大統領 だいとうりょう と議会 ぎかい は、建国 けんこく 50周年 しゅうねん 祝賀 しゅくが の一環 いっかん で、ラファイエットをアメリカに招待 しょうたい した[ 31] 。モンローはラファイエットがアメリカの軍艦 ぐんかん で来 く ることを企図 きと したが、ラファイエットはそうした旅 たび は非 ひ 民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 的 てき であると思 おも い、商船 しょうせん に席 せき を取 と った。ルイ18世 せい はこの旅 たび を良 よ く思 おも わず、ラファイエットを見送 みおく るためル・アーヴル に集 あつ まった群衆 ぐんしゅう を軍隊 ぐんたい で追 お い払 はら った[ 183] 。
ラファイエットは、息子 むすこ のジョルジュ・ワシントンと秘書 ひしょ のオーギュスト・ルバスール (英語 えいご 版 ばん ) とともに、1824年 ねん 8月 がつ 15日 にち 、ニューヨークに到着 とうちゃく した (英語 えいご 版 ばん ) 。ラファイエットは、はるか昔 むかし の戦友 せんゆう である独立 どくりつ 戦争 せんそう の元 もと 兵士 へいし たちに歓迎 かんげい された。ニューヨークでは四 よん 日間 にちかん 連続 れんぞく で昼夜 ちゅうや 、祝賀会 しゅくがかい が行 おこな われた。その後 ご 、ボストンへ疲 つか れを癒 いや す旅 たび に出 で かけたが、道中 どうちゅう 、全 すべ ての町 まち で歓迎 かんげい が催 もよお され、喝采 かっさい する市民 しみん の列 れつ が見 み られた。アンガーによれば、「それは将来 しょうらい 世代 せだい にまで関 かか わってくる神秘 しんぴ 的 てき な体験 たいけん だった。ラファイエットは遠 とお く離 はな れた時代 じだい から姿 すがた を現 あらわ した、アメリカの決定的 けっていてき な瞬間 しゅんかん における、最後 さいご の指導 しどう 者 しゃ であり英雄 えいゆう であった。人々 ひとびと は彼 かれ のような人物 じんぶつ を二度 にど と見 み ることができないことを分 わ かっていた。」[ 184] 。
ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア (英語 えいご 版 ばん ) は、ラファイエットを称 たた える祝賀会 しゅくがかい を他 た に負 ま けないよう精 しらげ 一 いち 杯 はい に行 い った。フィラデルフィアでは、ラファイエット歓迎 かんげい の場所 ばしょ が必要 ひつよう なことから、解体 かいたい されそうだった古 ふる い州 しゅう 議事堂 ぎじどう (現在 げんざい の独立 どくりつ 記念 きねん 館 かん )を改装 かいそう した。それまでアメリカでは記念 きねん 碑 ひ を建 た てることは一般 いっぱん 的 てき ではなかったが、ラファイエットの訪問 ほうもん をきっかけに碑 いしぶみ の建立 こんりゅう が次々 つぎつぎ 起 お こり、たいていは彼 かれ 自身 じしん が礎石 そせき を置 お いた。また、多 おお くの都市 とし が公共 こうきょう の建物 たてもの に肖像 しょうぞう 画 が を依頼 いらい し、無数 むすう の土産物 みやげもの に肖像 しょうぞう 画 が が描 えが かれたように、芸術 げいじゅつ も恩恵 おんけい を受 う けた。当初 とうしょ は4ヶ月 かげつ 間 あいだ で独立 どくりつ 13州 しゅう のみを訪問 ほうもん する予定 よてい だったが、24州 しゅう すべてを周 しゅう ったため、滞在 たいざい 期間 きかん は16ヶ月 かげつ にも及 およ んだ[ 185] 。
おそらく1824年 ねん のアメリカ訪問 ほうもん を記念 きねん した、ラファイエットの肖像 しょうぞう 入 い り手袋 てぶくろ 。
訪問 ほうもん した市 し や町 まち では熱狂 ねっきょう 的 てき に歓迎 かんげい された。その中 なか には彼 かれ にちなんで名 な づけられた最初 さいしょ の街 まち であるノースカロライナ州 しゅう ファイエットビル もあった[ 186] 。ワシントンD.C. では、モンロー大統領 だいとうりょう が平服 へいふく で、ホワイトハウス の周囲 しゅうい に衛兵 えいへい がいないことに驚 おどろ いた。マウントバーノンを40年 ねん ぶりに訪問 ほうもん し、ワシントンの墓 はか を詣 もう でた。1824年 ねん 10月 がつ 19日 にち にはヨークタウンでコーンウォリス降伏 ごうぶく 記念 きねん 式典 しきてん に出席 しゅっせき し、その後 ご 、古 ふる い友人 ゆうじん であるジェファーソンに会 あ いにモンティチェロ へ行 い った。そこには予想 よそう 外 がい にもジェームズ・マディソン も来 き ていた。また、同 おな じく存命 ぞんめい の元 もと 大統領 だいとうりょう である89歳 さい のジョン・アダムズともボストン近 ちか くの彼 かれ の家 いえ で食事 しょくじ をした[ 187] 。
道路 どうろ が通行 つうこう 不能 ふのう になり、1824年 ねん から25年 ねん の冬 ふゆ をワシントンで過 す ごした。ちょうど、いずれの候補者 こうほしゃ も選挙 せんきょ 人 じん の過半数 かはんすう を獲得 かくとく できず上院 じょういん の決定 けってい に委 ゆだ ねられた、激戦 げきせん の1824年 ねん 大統領 だいとうりょう 選挙 せんきょ の最終 さいしゅう 盤 ばん であった。1825年 ねん 2月 がつ 9日 にち 、議会 ぎかい はジョン・クィンシー・アダムズ を大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ した。その夜 よる 、ラファイエットが見 み つめる中 なか 、次点 じてん のアンドリュー・ジャクソン 将軍 しょうぐん とアダムズがホワイトハウスで握手 あくしゅ した[ 188] 。
1825年 ねん 3月 がつ 、ラファイエットは南部 なんぶ および西部 せいぶ 州 しゅう への旅 たび を開始 かいし した[ 189] 。旅 たび の一般 いっぱん 的 てき なパターンは、都市 とし 間 あいだ を州兵 しゅうへい が護衛 ごえい し、特別 とくべつ に造 つく られた門 もん を通 とお って町 まち に入 はい り、地元 じもと の政治 せいじ 家 か や有力 ゆうりょく 者 しゃ に歓迎 かんげい されるというもので、皆 みな がラファイエットを一目 いちもく 見 み たがった。戦跡 せんせき や歴史 れきし 的 てき な場所 ばしょ の訪問 ほうもん や歓迎 かんげい 晩 ばん さん会 かい といった特別 とくべつ 行事 ぎょうじ が行 おこな われ、民衆 みんしゅう が独立 どくりつ 戦争 せんそう の伝説 でんせつ 的 てき な英雄 えいゆう に会 あ う時間 じかん はわきに置 お かれた[ 190] 。
1824年 ねん -1825年 ねん のアメリカ旅行 りょこう からフランスへの帰国 きこく 時 じ に乗船 じょうせん した「ブランディワイン」号 ごう 。
ラファイエットは、ジャクソン将軍 しょうぐん をテネシー州 しゅう ザ・ハーミテージ の自宅 じたく に訪 たず ねた。蒸気 じょうき 船 せん でオハイオ川 がわ を遡上 そじょう 中 ちゅう に船 ふね が沈 しず み、息子 むすこ と秘書 ひしょ により救命 きゅうめい ボートに乗 の せられ、ケンタッキー州 しゅう の川岸 かわぎし に上陸 じょうりく した後 のち 、反対 はんたい 方向 ほうこう へ向 む かう別 べつ の蒸気 じょうき 船 せん に救助 きゅうじょ された。その船 ふね の船長 せんちょう は反転 はんてん し、ラファイエットをルイビル へ連 つ れて行 い った。そこから北東 ほくとう 方面 ほうめん へ向 む かい、ナイアガラの滝 たき を見物 けんぶつ した後 のち 、近代 きんだい の驚異 きょうい と思 おも われていたエリー運河 うんが を通 とお りオルバニーへ行 い った。ダニエル・ウェブスター の演説 えんぜつ を聞 き いた後 のち 、1825年 ねん 6月 がつ 、マサチューセッツ州 しゅう のバンカーヒル記念 きねん 塔 とう の礎石 そせき を置 お いた。また、自分 じぶん の墓 はか に撒 ま くためバンカーヒルの土 ど を採 と った[ 191] 。
バンカーヒルの後 のち 、メイン州 しゅう とバーモント州 しゅう に行 い き、これで全 すべ ての州 しゅう を訪問 ほうもん した。再 ふたた びジョン・アダムズに会 あ い、その後 ご ニューヨーク、そしてブルックリン へ行 い き、そこの公共 こうきょう 図書館 としょかん の定礎 ていそ 式 しき を行 おこな った。9月6日 にち 、ホワイトハウスでジョン・クィンシー・アダムズ大統領 だいとうりょう に68歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を祝福 しゅくふく され、翌日 よくじつ 、帰国 きこく の途 と に就 つ いた[ 192] 。ラファイエットは自分 じぶん の墓 はか にかける土 ど のほかにも贈 おく り物 もの を貰 もら った。フロリダの広大 こうだい な土地 とち とともに[ 193] 、議会 ぎかい はモンロー大統領 だいとうりょう の要請 ようせい でラファイエットの国 くに への奉仕 ほうし に感謝 かんしゃ して、20万 まん ドルを贈 おく ることを決議 けつぎ していた[ 194] 。ラファイエットは、「サスケハナ(Susquehanna)」から、彼 かれ がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく のために血 ち を流 なが した戦場 せんじょう にちなんで「ブランディワイン (英語 えいご 版 ばん ) 」と改名 かいめい された船 ふね に乗 の りフランスへ帰 かえ った[ 194] 。
ラファイエットとオルレアン公 こう 、1830年 ねん 7月 がつ 31日 にち 。
ラファイエットの帰国 きこく 約 やく 1年 ねん 前 まえ にルイ18世 せい が死去 しきょ し、シャルル10世 せい が即位 そくい した。シャルル10世 せい は絶対 ぜったい 王政 おうせい を復活 ふっかつ させようとしており、ラファイエットが帰国 きこく した時 とき には、王 おう の命令 めいれい は抗議 こうぎ を引 ひ き起 お こしていた[ 195] 。ラファイエットは国王 こくおう に反対 はんたい した者 もの の中 なか で最 もっと も有名 ゆうめい であった。1827年 ねん の選挙 せんきょ で70歳 さい のラファイエットは代議 だいぎ 院 いん に当選 とうせん し、結果 けっか に不満 ふまん なシャルル10世 せい が議会 ぎかい を解散 かいさん し再 さい 選挙 せんきょ を命 めい じたものの、ラファイエットは再度 さいど 議席 ぎせき を獲得 かくとく した[ 196] 。
ラファイエットは、シャルル10世 せい が行 おこ なった市民 しみん の自由 じゆう の制限 せいげん や、新 あら たに導入 どうにゅう された報道 ほうどう 機関 きかん の検閲 けんえつ に対 たい して、依然 いぜん として積極 せっきょく 的 てき に発言 はつげん した。ラファイエットは議会 ぎかい で激 はげ しい演説 えんぜつ を行 おこな い、新 あたら しい命令 めいれい を非難 ひなん し、アメリカ風 ふう の代表 だいひょう 制 せい 政府 せいふ を提唱 ていしょう した。また、ラグランジュにアメリカ人 じん やフランス人 じん などを晩餐 ばんさん に招 まね いた。招待客 しょうたいきゃく は皆 みな 、政治 せいじ 、自由 じゆう 、権利 けんり に関 かん するスピーチを聞 き きに来 き た。ラファイエットはシャルル10世 せい が簡単 かんたん に逮捕 たいほ できないと思 おも うほどの人気 にんき 者 しゃ だったが、彼 かれ へのスパイ活動 かつどう は徹底 てってい していた。とある政府 せいふ のスパイは「アメリカの自由 じゆう を称賛 しょうさん する、ラファイエットの扇動 せんどう 的 てき な乾杯 かんぱい あいさつ」を記録 きろく している[ 197] 。
1830年 ねん 7月 がつ 25日 にち 、シャルル10世 せい は中流 ちゅうりゅう 階級 かいきゅう から参政 さんせい 権 けん を剥奪 はくだつ し代議 だいぎ 院 いん を解散 かいさん する七 なな 月 がつ 勅 みことのり 令 れい (英語 えいご 版 ばん ) に署名 しょめい 。勅 みことのり 令 れい は翌日 よくじつ 公表 こうひょう された[ 198] 。7月27日 にち 、パリ市民 しみん はバリケードを造 つく り、暴動 ぼうどう を起 お こした[ 199] 。議会 ぎかい は反抗 はんこう して開催 かいさい を続 つづ けた。ラグランジュにいたラファイエットは、進行 しんこう 中 ちゅう の事態 じたい を知 し るとパリへ駆 か けつけ、革命 かくめい のリーダーとして歓迎 かんげい を受 う けた。同志 どうし の議員 ぎいん たちが優柔不断 ゆうじゅうふだん になるとラファイエットはバリケードに向 む かい、間 ま もなく国王 こくおう 軍 ぐん は敗走 はいそう した。1789年 ねん 革命 かくめい の際 さい の過激 かげき な行動 こうどう が繰 く り返 かえ されることを恐 おそ れた議員 ぎいん たちは、ラファイエットを再 さい 発足 ほっそく させた国民 こくみん 衛兵 えいへい の司令 しれい 官 かん に任命 にんめい し、秩序 ちつじょ を維持 いじ するよう命 めい じた。議会 ぎかい はラファイエットが統治 とうち 者 しゃ であると宣言 せんげん することを望 のぞ んだが、彼 かれ はこの権力 けんりょく 付与 ふよ を違憲 いけん と見 み なし拒否 きょひ した。また、8月 がつ 2日 にち に退位 たいい したシャルル10世 せい との交渉 こうしょう も拒否 きょひ した。多 おお くの若 わか い革命 かくめい 家 か が共和 きょうわ 制 せい を求 もと めたが、ラファイエットは内戦 ないせん につながると考 かんが え、アメリカに住 す んだ経験 けいけん があり、シャルル10世 せい よりはるかに親 した しまれていたオルレアン公爵 こうしゃく ルイ・フィリップ を王位 おうい に就 つ かせることにした。そして、王位 おうい を受 う け入 い れたルイ・フィリップから様々 さまざま な改革 かいかく を行 おこな う同意 どうい を得 え た。ラファイエットは国民 こくみん 衛兵 えいへい 司令 しれい 官 かん に留 とど まったが長 なが くは続 つづ かなかった。国王 こくおう 即位 そくい の短 みじか い和 なご やかな雰囲気 ふんいき はすぐに薄 うす れ、1830年 ねん 12月24日 にち 、議会 ぎかい の多数 たすう を占 し める保守 ほしゅ 派 は が国民 こくみん 衛兵 えいへい 司令 しれい 官 かん の権限 けんげん の削減 さくげん を決議 けつぎ 。ラファイエットはこれに抗議 こうぎ し辞職 じしょく した[ 200] 。
「ラファイエット将軍 しょうぐん の死 し 」ゴンデルフィンガー(Gondelfinger)画 が 。1834年 ねん 。
ラファイエットは、改革 かいかく を後退 こうたい させ、公約 こうやく を否定 ひてい したルイ=フィリップにますます幻滅 げんめつ していった。そしてルイ=フィリップに怒 いか りを爆発 ばくはつ させ、政府 せいふ がリヨンでのストライキを制圧 せいあつ するために武力 ぶりょく を行使 こうし したことで、この溝 みぞ は広 ひろ がっていった。ラファイエットは議席 ぎせき を利用 りよう して自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な提案 ていあん を推進 すいしん し、1831年 ねん には近隣 きんりん 住民 じゅうみん からラグランジュの村長 そんちょう とセーヌ=エ=マルヌ県 けん の県議会 けんぎかい 議員 ぎいん に選出 せんしゅつ された。翌年 よくねん には、同 おな じくルイ=フィリップの敵対 てきたい 者 しゃ であったジャン・マクシミリアン・ラマルク 将軍 しょうぐん の葬儀 そうぎ で棺 かん を担 かつ ぎ、演説 えんぜつ を行 おこな った。 ラファイエットは冷静 れいせい になるよう訴 うった えたが、通 とお りで暴動 ぼうどう が起 お こり、バスティーユ広場 ひろば ではバリケードが造 つく られた。ルイ=フィリップはこの六 ろく 月 がつ 暴動 ぼうどう を武力 ぶりょく で制圧 せいあつ し、ラファイエットは憤慨 ふんがい した。彼 かれ は1832年 ねん 11月に議会 ぎかい が開 ひら かれるまでラグランジュに戻 もど り、議会 ぎかい ではシャルル10世 せい 同様 どうよう に検閲 けんえつ を導入 どうにゅう したルイ=フィリップを非難 ひなん した[ 202] 。
パリ、ピクピュス墓地 ぼち (英語 えいご 版 ばん ) にあるラファイエットの墓 はか
1834年 ねん 1月 がつ 3日 にち に上院 じょういん で演説 えんぜつ したのが公 おおやけ の場 ば での最後 さいご となった。翌月 よくげつ 、肺炎 はいえん で倒 たお れ、回復 かいふく したものの、5月に雷雨 らいう に打 う たれたのち寝 ね たきりになった[ 203] 。1834年 ねん 5月 がつ 20日 はつか にパリのダンジュー=サン=オノーレ通 どお り6番地 ばんち (現在 げんざい のパリ8区 く ダンジュー通 どお り8番地 ばんち )において76歳 さい で死去 しきょ 。ピクピュス墓地 ぼち (英語 えいご 版 ばん ) の妻 つま の墓 はか の隣 となり に埋葬 まいそう され、息子 むすこ のジョルジュ・ワシントンがバンカーヒルの土 ど をかけた[ 199] [ 204] 。ルイ=フィリップ王 おう は市民 しみん が参列 さんれつ しないよう軍隊 ぐんたい 式 しき の葬儀 そうぎ を命 めい じたが、群衆 ぐんしゅう は排除 はいじょ されたことに抗議 こうぎ した[ 186] 。
アメリカでは、ジャクソン大統領 だいとうりょう がラファイエットに1799年 ねん 12月に亡 な くなったワシントンが受 う けたのと同 おな じ栄誉 えいよ を与 あた えることを命 めい じた。上下 じょうげ 両院 りょういん は30日間 にちかん 黒 くろ 旗 き で覆 おお い、議員 ぎいん は喪章 もしょう を付 つ けた。議会 ぎかい は国民 こくみん に対 たい し同様 どうよう に哀悼 あいとう することを求 もと めた。同年 どうねん 、クインシー・アダムズ前 ぜん 大統領 だいとうりょう は3時 じ 間 あいだ にわたるラファイエットの追悼 ついとう 演説 えんぜつ を行 おこな い、彼 かれ は「人類 じんるい の純粋 じゅんすい かつ私心 ししん の無 な い後援 こうえん 者 しゃ のリストの上位 じょうい に位置 いち する」と述 の べた[ 205] 。
ラファイエットは、立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい の確固 かっこ たる信奉 しんぽう 者 しゃ であった。フランスが常 つね にそうであったように、民主 みんしゅ 的 てき な国民 こくみん 議会 ぎかい が君主 くんしゅ と協力 きょうりょく することで、伝統 でんとう 的 てき な理想 りそう と革命 かくめい 的 てき な理想 りそう を融合 ゆうごう させることができると信 しん じていた。ジョージ・ワシントンやトマス・ジェファーソンのようなアメリカの建国 けんこく の父 ちち たちと密接 みっせつ な関係 かんけい を持 も っていたことから、彼 かれ は民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 体制 たいせい の実現 じつげん を目 ま の当 あ たりにすることができた。ラファイエットの考 かんが えたフランスの政府 せいふ 構造 こうぞう は、アメリカの政府 せいふ 形態 けいたい に直接 ちょくせつ 影響 えいきょう を受 う けており、イギリスの政府 せいふ 形態 けいたい にも影響 えいきょう を受 う けていた。例 れい を挙 あ げると、ラファイエットはアメリカのような二院 にいん 制 せい の立法府 りっぽうふ を信 しん じていた。しかし、ジャコバン派 は はフランスにおける君主 くんしゅ 制 せい を嫌 きら っていたため、国民 こくみん 議会 ぎかい は反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じた。この考 かんが えは、特 とく にマクシミリアン・ロベスピエール が権力 けんりょく を握 にぎ ったときに、ラファイエットが失墜 しっつい する原因 げんいん となった[ 206] 。
ラファイエットは1789年 ねん の人間 にんげん と市民 しみん の権利 けんり の宣言 せんげん の執筆 しっぴつ 者 しゃ であり、強固 きょうこ な奴隷 どれい 制度 せいど 反対 はんたい 者 しゃ でもあった。著作 ちょさく の中 なか で特 とく に奴隷 どれい 制 せい について言及 げんきゅう することは無 な かったが、ワシントンやジェファーソンなどの友人 ゆうじん や同僚 どうりょう に宛 あ てた手紙 てがみ では、論争 ろんそう の的 まと となっていたこのテーマについて自分 じぶん の立場 たちば を明確 めいかく にしていた。ラファイエットは奴隷 どれい を所有 しょゆう するのではなく、プランテーションで自由 じゆう な借地 しゃくち 人 じん として働 はたら かせることを提案 ていあん し、実際 じっさい 、1785年 ねん にフランスの植民 しょくみん 地 ち カイエンヌ にプランテーションを購入 こうにゅう して考 かんが えを実行 じっこう し、奴隷 どれい を売買 ばいばい しないように命 めい じた[ 207] 。ラファイエットは、奴隷 どれい 制度 せいど が多 おお くの経済 けいざい において重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしていることを認識 にんしき しつつも、奴隷 どれい をゆっくりと解放 かいほう することを提案 ていあん し、その生涯 しょうがい を奴隷 どれい 廃止 はいし 論 ろん 者 しゃ として過 す ごした。ラファイエットは、彼 かれ の考 かんが えがワシントンに受 う け入 い れられアメリカ国内 こくない の奴隷 どれい を解放 かいほう し、そこから広 ひろ まっていくことを願 ねが っていたが、彼 かれ の努力 どりょく は無駄 むだ ではなかった。ワシントンは最終 さいしゅう 的 てき にマウント・ヴァーノンのプランテーションでこれを実行 じっこう し始 はじ めた。が、生涯 しょうがい 奴隷 どれい を開放 かいほう することはなかった[ 208] 。後 のち にラファイエットの孫 まご 、ギュスターブ・ド・ボーモン(Gustave de Beaumont)は人種 じんしゅ 差別 さべつ 問題 もんだい を論 ろん ずる小説 しょうせつ を書 か いている[ 209] 。ラファイエットは1794年 ねん のフランスにおける奴隷 どれい 制 せい 廃止 はいし に大 おお きな役割 やくわり を果 は たした。そしてハイチでは、「人間 にんげん の権利 けんり と市民 しみん の権利 けんり 宣言 せんげん 」の2年 ねん 後 ご に暴動 ぼうどう が勃発 ぼっぱつ した[ 210] 。
グランジュ=ブレノー城 じょう (英語 えいご 版 ばん ) の庭園 ていえん にいるラファイエット」、1830年 ねん 。ルイーズ=アデオネ・ドローリン (英語 えいご 版 ばん ) 画 が 。フランス軍事 ぐんじ 博物館 はくぶつかん 所蔵 しょぞう 。
生涯 しょうがい を通 とお して、ラファイエットは啓蒙 けいもう 時代 じだい の理想 りそう 、特 とく に人間 にんげん の権利 けんり と市民 しみん ナショナリズム(英語 えいご 版 ばん ) の主導 しゅどう 者 しゃ であった。そしてその視点 してん は欧米 おうべい の知識 ちしき 人 じん などにより本気 ほんき で取 と り入 い れられた[ 211] 。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく におけるラファイエットのイメージは、自分 じぶん 自身 じしん のものでない国 くに の自由 じゆう のために無給 むきゅう で戦 たたか う、その「無私 むし 」からもたらされている[ 212] 。サミュエル・アダムズ は、ラファイエットが「自由 じゆう という輝 かがや かしい大義 たいぎ のために」戦 たたか ったとき、「家庭 かてい 生活 せいかつ の楽 たの しみを捨 す て、戦争 せんそう の苦難 くなん と危険 きけん に身 み をさらした」と称賛 しょうさん した[ 212] 。この考 かんが えは多 おお くの同 どう 時代 じだい 人 じん に共有 きょうゆう され、ラファイエットが一 いち 国 こく の利益 りえき ではなく、全 ぜん 人類 じんるい の自由 じゆう を推進 すいしん しようとしているというイメージを確立 かくりつ した[ 212] 。フランス革命 かくめい の間 あいだ 、アメリカ人 じん はラファイエットを新 しん 世界 せかい から旧 きゅう 世界 せかい へ移出 いしゅつ しようとしているアメリカの理想 りそう の提唱 ていしょう 者 しゃ であるとみていた。これは、国父 こくふ であり、アメリカの理想 りそう の体現 たいげん 者 しゃ とされたジョージ・ワシントンの息子 むすこ 代 か わりかつ弟子 でし という、その立場 たちば により強化 きょうか された[ 213] 。小説 しょうせつ 家 か のジェイムズ・フェニモア・クーパー は1820年代 ねんだい のパリでラファイエットと友人 ゆうじん になった。 クーパーはラファイエットの貴族 きぞく 自由 じゆう 主義 しゅぎ を称賛 しょうさん し、「自由 じゆう の原理 げんり のために若 わか さと身体 しんたい と財産 ざいさん を捧 ささ げた」と褒 ほ めたたえた[ 214] 。
ラファイエットがアメリカの象徴 しょうちょう となった理由 りゆう には、アメリカの特定 とくてい の地域 ちいき とは無縁 むえん だったこともある。外国 がいこく 生 う まれで、アメリカに住 す んだことがなく、ニューイングランドや大西洋 たいせいよう 岸 がん 中部 ちゅうぶ 、そして南部 なんぶ で戦 たたか ったことが、ラファイエットを求心力 きゅうしんりょく のある象徴 しょうちょう とした[ 215] 。アメリカ人 じん はフランス革命 かくめい でラファイエットが中道 ちゅうどう であろうとしたことを見 み て人気 にんき を高 たか めた。アメリカ人 じん は革命 かくめい の大義 たいぎ に当然 とうぜん に共感 きょうかん を持 も っていたが、また、ルイ16世 せい がアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の初期 しょき の友人 ゆうじん であったことも覚 おぼ えていた。1792年 ねん にラファイエットが失墜 しっつい したときには、アメリカ人 じん は彼 かれ の更迭 こうてつ を派閥 はばつ 主義 しゅぎ のせいにする傾向 けいこう があった[ 216] 。
1824年 ねん にラファイエットがアメリカを訪問 ほうもん した頃 ころ 、アメリカ人 じん は1819年 ねん 恐慌 きょうこう とミズーリ妥協 だきょう に帰結 きけつ した派閥 はばつ 対立 たいりつ から、合衆国 がっしゅうこく の成功 せいこう について疑問 ぎもん を感 かん じており[ 217] 、ラファイエットがいかに独立 どくりつ の成功 せいこう を判断 はんだん したか考 かんが えた[ 218] 。文化 ぶんか 史家 しか のロイド・クレイマー(Lloyd Kramer)によれば、ラファイエットは、「19世紀 せいき 初頭 しょとう にアメリカのナショナル・アイデンティティ を形成 けいせい し、それ以来 いらい 、国家 こっか のイデオロギーの主要 しゅよう なテーマであった、アメリカの建国 けんこく の父 ちち や制度 せいど 、自由 じゆう が、世界 せかい で最 もっと も民主 みんしゅ 的 てき かつ平等 びょうどう 主義 しゅぎ 的 てき で繁栄 はんえい した社会 しゃかい を生 う み出 だ したという信念 しんねん という、自 みずか らのイメージに外国 がいこく 人 じん による裏付 うらづ けを与 あた えた」[ 219] 。
歴史 れきし 家 か のジルベール・シナール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) は1936年 ねん にこう書 か いている「ラファイエットは若 わか くして伝説 でんせつ 的 てき な人物 じんぶつ かつ象徴 しょうちょう となったが、後世 こうせい の人々 ひとびと はその神話 しんわ を快 こころよ く受 う け入 い れ、その共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ の栄光 えいこう である若 わか き英雄 えいゆう を穢 けが そうとするのは、偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい と冒涜 ぼうとく に他 た ならないと考 かんが えられているだろう。」[ 220] 。その伝説 でんせつ は政治 せいじ 的 てき に利用 りよう されており、1917年 ねん にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 参戦 さんせん に関 かん し国民 こくみん の支援 しえん を得 え るため、ラファイエットの名前 なまえ とイメージが繰 く り返 かえ し登場 とうじょう した。そしてチャールズ・E・スタントン (英語 えいご 版 ばん ) の有名 ゆうめい な台詞 せりふ 「ラファイエット、我々 われわれ はここにいる(Lafayette, we are here)」で最高潮 さいこうちょう に達 たっ した。これはアメリカにおけるラファイエットのイメージに損失 そんしつ を生 しょう じさせた。前線 ぜんせん からの復員 ふくいん 兵 へい は「ラファイエットに借 か りは返 かえ した、じゃあ今 いま 誰 だれ に借 か りがあるのか?(We've paid our debt to Lafayette, who the hell do we owe now?)」と歌 うた いながら帰国 きこく した[ 221] 。アン・C・ラブランド(Anne C. Loveland)によれば、戦争 せんそう が終 お わるまでに「ラファイエットはもはや国民 こくみん の英雄 えいゆう や象徴 しょうちょう として役立 やくだ たなくなった」[ 222] 。しかしながら、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 議会 ぎかい は2002年 ねん にラファイエットにアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 名誉 めいよ 市民 しみん を与 あた えることを決議 けつぎ した[ 223] 。
フランスにおけるラファイエットの評価 ひょうか はより複雑 ふくざつ である。トーマス・ゲインズ(Thomas Gaines)は、ラファイエットの死 し に対 たい する反応 はんのう はアメリカよりフランスの方 ほう がはるかに静 しず かだったと指摘 してき し、これはフランス政府 せいふ の変化 へんか が非常 ひじょう に混沌 こんとん としていたのに対 たい し、アメリカではラファイエットが唯一 ゆいいつ の革命 かくめい における最後 さいご に生 い き残 のこ った英雄 えいゆう だったからではないかと言及 げんきゅう している[ 224] 。ラファイエットの役割 やくわり は、フランス史 し 、特 とく にフランス革命 かくめい において、より微妙 びみょう な評価 ひょうか をされている。19世紀 せいき の歴史 れきし 家 か ジュール・ミシュレ は、ラファイエットをその才能 さいのう に値 あたい するものをはるかに超 こ えて群衆 ぐんしゅう に持 も ち上 あ げられた「平凡 へいぼん な偶像 ぐうぞう 」と評 ひょう した[ 225] 。ジャン・テュラール (英語 えいご 版 ばん ) 、ジャン=フランソワ・ファイヤール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、アルフレ・フィエロ (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) は『Histoire et dictionnaire de la Révolution française(フランス革命 かくめい の歴史 れきし と事典 じてん )』の中 なか で、死 し の床 ゆか のナポレオンがラファイエットに関 かん して語 かた った言葉 ことば 、自分 じぶん がフランス革命 かくめい 時 じ にラファイエットの地位 ちい にいたなら「国王 こくおう は未 いま だに王位 おうい に就 つ いたままだっただろう」、を記 しる している[ 226] 。また彼 かれ らはラファイエットを「空 から っぽ頭 あたま の政治 せいじ 屋 や (an empty-headed political dwarf)」「フランスの君主 くんしゅ 制 せい の破壊 はかい に最 もっと も責任 せきにん がある面々 めんめん の一人 ひとり 」であると見 み なしていた[ 227] 。ゲインズはこれに同意 どうい せず、リベラルやマルクス主義 まるくすしゅぎ の歴史 れきし 家 か もこの見解 けんかい に反対 はんたい していると指摘 してき している[ 227] 。ロイド・クレイマーは、1989年 ねん のフランス革命 かくめい 200周年 しゅうねん 直前 ちょくぜん の調査 ちょうさ で、フランス人 じん の57%がラファイエットを最 もっと も尊敬 そんけい する革命 かくめい の人物 じんぶつ と考 かんが えていることを紹介 しょうかい している。ラファイエットは「1990年代 ねんだい 初頭 しょとう には明 あき らかに1790年代 ねんだい 初頭 しょとう よりも多 おお くのフランス人 じん 支持 しじ 者 しゃ がいた」[ 225] 。
マーク・リープソン (英語 えいご 版 ばん ) は、ラファイエットの人生 じんせい に関 かん する論文 ろんぶん をこう締 し めくくっている。
ラファイエット
侯爵 こうしゃく は
完璧 かんぺき からかけ
離 はな れていた。
時 とき にはうぬぼれが
強 つよ く、ナイーブ、
未熟 みじゅく 、
自己 じこ 中心 ちゅうしん 的 てき であった。しかし、
自分 じぶん の
人生 じんせい や
運命 うんめい を
危険 きけん にさらすことになっても、
一貫 いっかん して
理想 りそう に
執着 しゅうちゃく した。それらの
理想 りそう は、
世界 せかい で
最 もっと も
永続 えいぞく 的 てき な2つの
国家 こっか 、
アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく とフランスの
国 くに の
基本 きほん 原則 げんそく となり
証明 しょうめい された。それはレガシーであり、
軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ や
政治 せいじ 家 か の
中 なか で、
彼 かれ に
匹敵 ひってき する
者 もの はほとんどいない
[ 228] 。
^ 彼 かれ のフルネームはめったに使 つか われない。代 か わりにラファイエット侯爵 こうしゃく と記 しる されることが多 おお い(アメリカでは「Lafayette」、フランスでは公式 こうしき には「La Fayette」と記 しる される)。伝記 でんき 作家 さっか のルイス・R・ゴッツチョーク (英語 えいご 版 ばん ) は、ラファイエット自身 じしん は「Lafayette」と「La Fayette」両方 りょうほう を使 つか っていたと述 の べている。同 どう 世代 せだい の人々 ひとびと は、彼 かれ の先祖 せんぞ 、小説 しょうせつ 家 か のラファイエット夫人 ふじん (Madame de La Fayette)に似 に せて「La Fayette」を用 もち いていた。しかしラファイエットの家族 かぞく は「Lafayette」と書 か いていた。Gottschalk, pp. 153–54参照 さんしょう 。
^ ニューヨークタイムズの記事 きじ にはメリーランド州 しゅう の法律 ほうりつ の写 うつし が載 の っている。「ラファイエット侯爵 こうしゃく とのその男性 だんせい 相続 そうぞく 人 じん を永久 えいきゅう に帰化 きか させる法律 ほうりつ ……メリーランド州 しゅう 議会 ぎかい は以下 いか を制定 せいてい する。ここにラファイエット侯爵 こうしゃく とその男性 だんせい 相続 そうぞく 人 じん を永久 えいきゅう にこの州 しゅう の生 う まれながらの市民 しみん であると宣告 せんこく し、今後 こんご 、生 う まれながらの市民 しみん としてのすべての免除 めんじょ 、権利 けんり および特権 とっけん を付与 ふよ されるものとする。そのような免除 めんじょ 、権利 けんり 及 およ び特権 とっけん の享有 きょうゆう 及 およ び行使 こうし においては、この国 くに の憲法 けんぽう 及 およ び法律 ほうりつ に準拠 じゅんきょ するものとする。」
^ 1789年 ねん 7月 がつ の議員 ぎいん 数 すう は、第 だい 一 いち 身分 みぶん (聖職 せいしょく 者 しゃ )295名 めい 、第 だい 二 に 身分 みぶん (貴族 きぞく )278名 めい 、第 だい 三 さん 身分 みぶん (平民 へいみん )604名 めい
^ 30人 にん 委員 いいん 会 かい は、社会 しゃかい 改革 かいかく を目指 めざ すグループである「愛国 あいこく 派 は (パトリオット)」が設立 せつりつ した党派 とうは 。ラファイエットのほかニコラ・ド・コンドルセ などが参加 さんか していた
^ 聖職 せいしょく 者 しゃ 議員 ぎいん の多数 たすう は農民 のうみん や職人 しょくにん 出身 しゅっしん であったため柔軟 じゅうなん であった。
^ ラファイエット派 は とも呼 よ ばれ、後 のち にジャコバン派 は の一部 いちぶ と合流 ごうりゅう しフイヤン派 は となった。
^ アドリエンヌの祖父母 そふぼ 、母親 ははおや 、姉 あね は処刑 しょけい されている。
^ ボルマンとハガーは、捕 つか まり短期間 たんきかん 投獄 とうごく された後 のち に釈放 しゃくほう され、ラファイエットを救出 きゅうしゅつ しようとしたことで世界 せかい 的 てき な人気 にんき 者 しゃ になった。Lane, p. 218参照 さんしょう 。また、彼 かれ らはアメリカに渡 わた ってワシントンと会 あ い、オルミュッツの状況 じょうきょう を説明 せつめい した。Unger, loc. 7031参照 さんしょう 。
^ 1793、1794年 ねん に立法 りっぽう 議会 ぎかい はシャバニャック城 じょう を含 ふく む領地 りょうち を没収 ぼっしゅう し売却 ばいきゃく していた。なお、この没収 ぼっしゅう に対 たい し1826年 ねん に総額 そうがく 45万 まん フランの補償 ほしょう 金 きん を得 え ている。
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