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リブニク

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Rybnik
Main Square
Main Square
Rybnikの旗
はた
Rybnikの紋章
紋章もんしょう
Rybnikの位置(ポーランド内)
Rybnik
Rybnik
Rybnikの位置(シロンスク県内)
Rybnik
Rybnik
Rybnikの位置(リブニク内)
Rybnik
Rybnik
北緯ほくい505ふん 東経とうけい1833ふん / 北緯ほくい50.083 東経とうけい18.550 / 50.083; 18.550
Country ポーランドの旗 ポーランド
けん シロンスクけん
ぐん city county
Established 10th century
Town rights 1327
政府せいふ
 • 市長しちょう Piotr Kuczera
面積めんせき
 • 都市とし 148 km2
最高さいこう標高ひょうこう
290 m
最低さいてい標高ひょうこう
210 m
人口じんこう
(2021)
 • 都市とし 135,994にん
 • 密度みつど 920にん/km2
 • 都市としけん
527,017にん
ひとしときおび UTC+1 (CET)
 • 夏時間なつじかん UTC+2 (CEST)
郵便ゆうびん番号ばんごう
44-200 to 44-292
市外しがい局番きょくばん +48 32
カープレート SR
ウェブサイト https://www.rybnik.eu/

リブニクRybnik [ˈrɨbɲik] ( 音声おんせいファイル)、シレジア:Rybńik)は、ポーランド南部なんぶ都市としシロンスクけんぞくし、チェコとの国境こっきょうちかい。クラクフ西にしやく100kmに位置いちする。大都市だいとしけんである上部じょうぶシレジア石炭せきたん盆地ぼんちみなみのはずれにあり、リブニク炭田たんでん中心ちゅうしんである。

人口じんこうやく14まんにんで、ポーランドでだい25失業しつぎょうりつやく11%で、ポーランド平均へいきんの16%より相当そうとうひくい。

歴史れきし

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リブニクの聖堂せいどう

リブニクのは、ポーランドの「さかな」(ryba)からており、ポーランドで「さかないけ」を意味いみしていた(ロマでは現在げんざいでも「rebniko」は「さかないけ」を意味いみする)。中世ちゅうせいにはこの経済けいざいにおいて養殖ようしょく重要じゅうようだったためであり、今日きょうでも紋章もんしょうさかなえがかれている。

都市とし起源きげんは9世紀せいきから10世紀せいきにさかのぼる。3つのスラブじん集落しゅうらく現在げんざいにあったが、次第しだいに1つのまち統合とうごうされた。ドイツじんによる東方とうほう植民しょくみんすすんだ結果けっか1308ねんよりまえ時点じてん正確せいかくとし不明ふめい)でマクデブルクほうしたがった都市とし権利けんりた。そのポーランド王国おうこく一部いちぶでありつづけたが、1327ねんシレジア地方ちほうボヘミア封土ほうどとなった。15世紀せいきにはフス戦争せんそうによって荒廃こうはいした。1526ねん以降いこう、シレジアをふくむボヘミアはハプスブルク支配しはいかれた。

オーストリア継承けいしょう戦争せんそうはじまると、1740ねんにリブニクをふくむシレジアのだい部分ぶぶんプロイセン王国おうこく併合へいごうされた。オーストリアは1763ねんにこの併合へいごうみとめた。18世紀せいきには炭鉱たんこうがリブニクの経済けいざいにおいて重要じゅうよう位置いちめるようになっていた。1871ねんにプロイセンはリブニクをふくめてドイツ帝国ていこく統合とうごうされた。

19世紀せいきから20世紀せいきはじめにかけて、ドイツ帝国ていこくによるドイツはんポーランド政策せいさく強化きょうかによって、上部じょうぶシレジアはドイツじんとポーランドじん民族みんぞく主義しゅぎしゃによる緊張きんちょうたかまった。だいいち世界せかい大戦たいせん1918ねん、ポーランドは独立どくりつ回復かいふくした。民族みんぞく対立たいりつによる社会しゃかい不安ふあんなかで、上部じょうぶシレジアの帰属きぞくめるための投票とうひょうおこなわれた。ドイツへの投票とうひょう多数たすうだったにもかかわらず、双方そうほう満足まんぞくさせるために上部じょうぶシレジアは2つに分割ぶんかつされることとなった。リブニクではドイツへのひょうすくなかったため、ポーランドに帰属きぞくすることになった。この投票とうひょう上部じょうぶシレジア分割ぶんかつは、さんシレジア蜂起ほうきまねき、最初さいしょ蜂起ほうき1919ねん)はリブニクを中心ちゅうしんとしてこった。

せんあいだポーランドだい共和きょうわこくでは、リブニクは高度こうど政治せいじてき経済けいざいてき自治じちけんつシレジアけんぞくした。1939ねんだい世界せかい大戦たいせんはじまると、リブニクはドイツの占領せんりょうかれ、ドイツに編入へんにゅうされた。住民じゅうみん民族みんぞくべつけられ、「さいドイツ」されるか、公民こうみんけん剥奪はくだつされるか、ポーランド総督そうとく地域ちいき追放ついほうされた。

火力かりょく発電はつでんしょ

1945ねん、ドイツが敗北はいぼくして大戦たいせん終結しゅうけつすると、リブニクはふたたびポーランドに統合とうごうされた。ポーランドの領土りょうど西にし移動いどうしたため、リブニクはドイツとの国境こっきょうまちではなくなった。住民じゅうみんは「さいポーランド」されるかドイツに追放ついほうされた。リブニクにいたドイツじんおおくは西にしドイツドルステン英語えいごばん移住いじゅうした。ドルステンは1994ねんにリブニクの姉妹しまい都市としとなっている。

大戦たいせん炭鉱たんこう重要じゅうよう産業さんぎょうとしてつづけている。1970年代ねんだい石炭せきたん火力かりょく発電はつでんしょ建設けんせつされ、この地域ちいき周辺しゅうへん電力でんりょく供給きょうきゅうしている。2002ねんカトヴィツェ経済けいざい大学だいがくとシレジア大学だいがくグリヴィツェのシレジア理工りこう大学だいがくは、この地域ちいき教育きょういく機会きかい促進そくしんするためにリブニクに共同きょうどうキャンパスを開設かいせつした。

おも出身しゅっしんしゃ

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姉妹しまい都市とし

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リブニクは11の都市とし姉妹しまい都市とし提携ていけいをしている[1]

外部がいぶリンク

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