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ロゴナ=ダウラ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Logonna-Daoulas
行政ぎょうせい
くに フランスの旗 フランス
地域ちいきけん (Région) ブルターニュ地域ちいきけん
けん (département) フィニステールけん
ぐん (arrondissement) ブレストぐん
小郡おごおり (canton) ダウラ小郡おごおり
INSEEコード 29137
郵便ゆうびん番号ばんごう 29460
市長しちょう任期にんき フランソワーズ・ペロン
2008ねん - 2014ねん
自治体じちたいあいだ連合れんごう (fr) fr:Communauté de communes du Pays de Landerneau-Daoulas
人口じんこう動態どうたい
人口じんこう 2 093にん
2010ねん
人口じんこう密度みつど 172にん/km2
住民じゅうみん呼称こしょう Logonnais
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい4819ふん 西経せいけい418ふん / 北緯ほくい48.31 西経せいけい4.3 / 48.31; -4.3座標ざひょう: 北緯ほくい4819ふん 西経せいけい418ふん / 北緯ほくい48.31 西経せいけい4.3 / 48.31; -4.3
標高ひょうこう 平均へいきん:m
最低さいてい:0m
最高さいこう:63m
面積めんせき 12.14km2
Logonna-Daoulasの位置(フランス内)
Logonna-Daoulas
Logonna-Daoulas
公式こうしきサイト Site de la commune
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ロゴナ=ダウラLogonna-Daoulasブルトン:Logonna-Daoulaz)は、フランスブルターニュ地域ちいきけんフィニステールけんコミューン

由来ゆらい

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由来ゆらいは Loc-Onna、すなわちせいオマ(Omma)にささげられた場所ばしょである。せいオマはあやまってアイルランドとうのTech Munnaの聖職せいしょくしゃせいモナ(Monna)であると認識にんしきされていた。せいモナはロゴナ=ダウラの教会きょうかい守護しゅご聖人せいじんである。

地理ちり

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ロゴナ=ダウラの位置いち

ロゴナ=ダウラはブレスト停泊ていはくなかほどにある。ロゴナはミニョンヌとカンフルーの2つの入江いりえはさまれた半島はんとう形成けいせいしており、その位置いちブレストカンペールなかあいだである。

1869ねん発行はっこうされたポル・ポティエ・ド・クルシーの著作ちょさく La Bretagne contemporaine, Finistère以下いかのようにしるしている。『ダウラのから半島はんとう先端せんたんのロゴナのブールにつうじるみちほどに多様たようで、肥沃ひよくで、のどかなものはない。道程どうていには木立こだち果樹かじゅ、そしてたくましくそだみのゆたかな木々きぎ途切とぎれず、ときにはそのあいだからこの土地とちかつおおくの入江いりえながめられ、陸地りくち庭園ていえんのようにもえてくる。』

バンジャマン・ジラールは1889ねんにこのようにべている。『ロゴナ=ダウラのコミューンは、ダウラがわ、ブレスト停泊ていはく、ロピタルがわ〔カンフルーがわ〕にはさまれた半島はんとうのようなところにある。その東側ひがしがわ国道こくどう170号線ごうせんとお[1]。その土地とち非常ひじょう肥沃ひよくである。集落しゅうらくはコミューンの南端なんたんにあり、205にん住民じゅうみんがおり、1710ねんてられた教会きょうかいには優雅ゆうがなリブアーチ、うつくしい彫刻ちょうこくうつくしい鐘楼しゅろうがある。ロピタルがわ〔カンフルーがわ河口かこう水車みずぐるまと、かわおな名前なまえオピタル=カンフルー集落しゅうらくあいだでは、豊富ほうふなケルサントンせき採掘さいくつおこなわれている[2]。』

半島はんとう形状けいじょうであったため、ロゴナ=ダウラはから孤立こりつしてきた。1924ねんにウエスト・エクレールはこのようにふたたいている。『往来おうらいするみちのないロゴナ=ダウラのコミューンは、てられたようにえる。観光かんこうきゃく野原のはら通過つうかするよういられるので、土地とち所有しょゆうしゃ不満ふまんつのは当然とうぜんのことである。交通こうつう手段しゅだんとなれば、ダウラえきから10km、ランデルノーから22km、ブレストから42kmはなれたこのコミューンに自動車じどうしゃサービスは存在そんざいしない。ブレスト、シャトーラン、ル・フーとロゴナ=ダウラあいだ交通こうつう手段しゅだんとなるのはふねである。これらのまちからやってきたふねは、ロゴナのまちから徒歩とほで10ふんかかるちいさなみなとちかくで停止ていしせず通過つうかする。』[3]

まちには2箇所かしょみなとがある。そしてすうおおくの小川おがわしょう河川かせんがある。おおくの水辺みずべでは、一帯いったい地質ちしつがくじょうゆたかさをしめ断崖だんがいやひだが存在そんざいする。田園でんえん風景ふうけいは、1950年代ねんだい区画くかく整理せいりにもかかわらず、ボカージュ生垣いけがき仕切しきられたはたけ牧草ぼくそう)のくに特徴とくちょうたもち、一般いっぱんてきにガレンヌ(garennes)とばれるでこぼこした道路どうろ傾斜けいしゃがあり、生垣いけがきではカシ、トネリコ、ヤナギが優勢ゆうせいである。

歴史れきし

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ロズの海岸かいがん
ベンディみさき

Ar-Chastelというの、みさきにもうけられたとりでが、ポワント・サン・ジャン(pointe Saint-Jean)というはばひろふかみぞまもられていた。これがロゴナ=ダウラである[4]

ロゴナ=ダウラは、ノートルダム・ド・ダウラ修道院しゅうどういんふるしょう修道院しゅうどういん主任しゅにん司祭しさいしょくがおかれたところで、13世紀せいきにはイルヴィネック教区きょうく一部いちぶであった。いいつたえでは、5世紀せいきにアイルランドとうからいしふねせいモナはやってきて現在げんざいのコミューンの場所ばしょ、ポルシスカン(Porsisquin)集落しゅうらくなかにある土地とち定住ていじゅうした。かれ教会きょうかいたか場所ばしょ建設けんせつはじめた。そこはかれいもうとディリノンにいるせいなる修道しゅうどうおんな、ノンヌがえる場所ばしょだった。かれはクレメネイ(Clemenehy)にめたのだが、その土地とちにはじつ魔法まほうがかけられていた。夜間やかん作業さぎょうちゅう悪魔あくま教会きょうかい破壊はかいしてしまった。せいモナは、現在げんざいロゴナの教会きょうかいのある場所ばしょ教会きょうかいてることにめた。そのかれはこの場所ばしょからせいノンヌの教会きょうかいることができないという事実じじつ絶望ぜつぼうをもって理解りかいし、以下いかのようにった。『あなたのいえてなさい。わたしとびらからはいると、わたしはそれがあなたのものだとわかるのです。』(Graet da di, eus toull va dor me velo da hini)。現在げんざいもある集落しゅうらく、ClemenehyとはKreac'h Menec'hi、すなわち『修道しゅうどう住宅じゅうたくのあるおか』となる。それは重要じゅうよう宗教しゅうきょうてき過去かこのできごとであったのだろう。

ロゴナのふる城主じょうしゅは、ダウラをこまかくけ、1208ねん以下いかのように分離ぶんりした。イルヴィヤックはピエール・ド・マエストロワのつまコンスタンス・ド・レオンの特権とっけんとしてわたり、のちレオン子爵ししゃくギヨマール4せいてられた。ギヨマール4せい子孫しそんサロモンは、ロゴナの貴族きぞくロスモルデュックである。ロゴナは、13世紀せいき以来いらいロスモルデュック世襲せしゅう荘園しょうえん中心ちゅうしんとなった。この荘園しょうえん現在げんざいのコミューンとしてのロゴナの領域りょういき包括ほうかつしており、近隣きんりんしょう教区きょうくおおきな足跡あしあとのこした。

ロゴナは本質ほんしつてきにはうみ関連かんれんした生業せいぎょうでなりたつ教区きょうくであったが、17世紀せいき後半こうはんから18世紀せいきはじめにかけて、亜麻あま栽培さいばい帆布ほぬの生産せいさんという仕事しごと文化ぶんかしめされるようになった。れいとして、ケルアル集落しゅうらくでは9リーヴル価値かちがある亜麻あまたね3ブッシェル、ラルヴォール集落しゅうらくでは1だいつむしゃ2だい収穫しゅうかくした亜麻あまから種子しゅしをかきとる梳毛そもう2だいがあった。洗濯せんたくじょうであるkanndiは2箇所かしょ、ロウー集落しゅうらくとケネカデック集落しゅうらくにあった[5]

ニコラ・ディヴェーレスとジャン・プルランは、当時とうじのロゴナ180住民じゅうみん代表だいひょうとして、1789ねんさん部会ぶかいにおいて、カンペールのセネシャル管轄かんかつ区内くないでのだいさん身分みぶん代表だいひょう選挙せんきょ参加さんかした[6]

ロゴナ=ダウラの戦死せんししゃ記念きねんには、106にんのフランスにいのちささげたものきざまれている。72にんだいいち世界せかい大戦たいせん、30にんだい世界せかい大戦たいせん、4にんだいいちインドシナ戦争せんそうにおける戦死せんししゃである[7]上記じょうきのうち10にん海上かいじょう行方ゆくえ不明ふめいになっている。また、メルス・エル・ケビールでの死者ししゃ3にんふくまれている。

みがいたロゴナせき
ロズの採石さいせきじょう

17世紀せいきのロゴナ=ダウラで、農業のうぎょう家畜かちく飼育しいく漁業ぎょぎょうわって重要じゅうよう経済けいざい活動かつどうとなったのは採石さいせきで、2箇所かしょ鉱脈こうみゃくのおかげで領主りょうしゅロスマデュック採石さいせきじょうっていた。

最初さいしょ鉱脈こうみゃくは17世紀せいき以来いらい稼働かどうし、かたランプロファイアがとれ、最後さいごにはケルサンタイト、地元じもとでケルサントンせきばれるいしがとれた。ケルサンタイトはマグマからしょうじた花崗岩かこうがんで、はじめて発見はっけんされたロペレにある集落しゅうらく、ケルサントンよりそのがとられた。ロゴナにはケルサントンせきのとれる採石さいせきじょう数箇所すうかしょあり、きめがこまかく風化ふうかつよいことからロスモルデュック彫刻ちょうこくたちに非常ひじょう人気にんきがあった。ケルヴァダンとラン・ヴラーズの採石さいせきじょうはかつてロゴナないにあったが、1946ねんのコミューン境界きょうかい再編さいへんによってオピタル=カンフルーに自治体じちたい変更へんこうされた。

もう1つの鉱脈こうみゃくは、黄土おうどしょく独特どくとく花崗岩かこうがんで、まるで木材もくざいせたかのような、てつ酸化さんかぶつ同心円どうしんえんえがいてアクセントとなっている。このいしはそのもロゴナせき(pierre de Logonna)とばれ、16世紀せいき以来いらい稼働かどうするロズの採石さいせきじょうでとれた。その黄土おうどしょくいし産出さんしゅつしたのはサント・マルグリット集落しゅうらく東側ひがしがわにあり、1960年代ねんだいまで稼働かどうしていた。いしおおきさ、風化ふうかたいするつよさ、水上すいじょう輸送ゆそう容易ようい運搬うんぱんできることが、ロゴナせきがフィニステール中央ちゅうおうから西部せいぶにかけ教会きょうかい建物たてもの資材しざいもちいられた理由りゆうとなった。現代げんだいでもロゴナせきもちいられ、1958ねん完成かんせいしたブレストのサン・ルイ教会きょうかい、1965ねん完成かんせいしたランデヴェネック修道院しゅうどういん建物たてものにも使つかわれた。

20世紀せいき初頭しょとう採石さいせきじょうでは、石工せっこう親方おやかたとして300にん以上いじょう雇用こようされていた。かれらのおおくは外部がいぶからやってきて、ロゴナの女性じょせい結婚けっこんした。農夫のうふ漁師りょうし、カキ養殖ようしょく業者ぎょうしゃ冬季とうきになると採石さいせきじょうはたらいていた。

ロズの採石さいせきじょう以外いがいではもはやいしはとられなくなっている。一部いちぶおおかれすくなかれゴミ捨ごみすのように使つかわれたが、べつ採石さいせきじょうみずがたまり植生しょくせいまれた。

人口じんこう統計とうけい

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1962ねん 1968ねん 1975ねん 1982ねん 1990ねん 1999ねん 2006ねん 2010ねん
1358 1223 1115 1312 1429 1579 1969 2093

参照さんしょうもと:1999ねんまでEHESS[8]、2000ねん以降いこうINSEE[9][10]

経済けいざい

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ロゴナ=ダウラでの、テーブルじょうのカキ養殖ようしょくだな

農業のうぎょうはコミューンの東部とうぶ集中しゅうちゅうしており、ウマやウシの飼育しいく名高なだかい。

コキーユ・ド・サン・ジャック

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コキーユ・ド・サン・ジャック(fr)とはホタテの一種いっしゅで、20世紀せいきなかばまではブレスト停泊ていはくなかりょうおこなわれ、コミューンの重要じゅうよう経済けいざい活動かつどうとなっている。現在げんざいロゴナのかいはオピタル・カンフルーやル・フーさんかい競争きょうそうしている。

養殖ようしょく

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カンフルーおよびミニョンヌの入江いりえは、ヨーロッパヒラガキゆたかな漁場ぎょじょうであった。19世紀せいきなかばまでにブルターニュのどこでもられたようにだい規模きぼ浚渫しゅんせつおこなわれ、資源しげん減少げんしょう憂慮ゆうりょされた。それでもロゴナのカキ養殖ようしょくぎょう成長せいちょうし、1920ねんから1921ねん深刻しんこく伝染でんせんびょう流行りゅうこうにものこった。1940年代ねんだいからカキ養殖ようしょく繁栄はんえい時代じだいをむかえた。1970年代ねんだい、2寄生虫きせいちゅう発生はっせいでヨーロッパヒラガキが打撃だげきけ、日本にっぽんさんマガキ導入どうにゅうされた。

2005ねんより、ル貝るがい養殖ようしょくはじまった。

史跡しせき

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  • サン・モナ教会きょうかい - 教区きょうく教会きょうかい
  • サント・マルグリット礼拝れいはいどう - ゴシック様式ようしきとルネサンス様式ようしき要素ようそち、優美ゆうびとう特徴とくちょう
  • サン・ジャン・バティスト礼拝れいはいどう - 航行こうこう不向ふむきなダウラかわ見下みおろす場所ばしょにある。16世紀せいき
  • ラングレオのキリスト教化きょうかされたメンヒル - くわしい日付ひづけ不明ふめいだが、ロマネスク時代じだいから15世紀せいきまでのあいだとされる。祝福しゅくふくあたえるキリストと、12使徒しとられている
  • ロスモルデュックじょう - 10世紀せいきにはロスモルデュックのがランデヴェネック修道院しゅうどういん特許とっきょじょう台帳だいちょうしるされていた。ロスモルデュック城主じょうしゅであったルイ・ド・ロスモルデュックはくフランス革命かくめい時代じだいおう党派とうは士官しかんであり、ヴァンデの反乱はんらんでシュアンとともにたたかった。1793ねんから1798ねんにかけ国有こくゆう資産しさんとして売却ばいきゃくうが、フランス国立こくりつ古文書こもんじょ学校がっこう卒業生そつぎょうせい考古こうこ学者がくしゃのジョルジュ・ド・ロスモルデュックはくが19世紀せいきしろ周辺しゅうへん再度さいどしゅれた。現在げんざいはフランス歴史れきし文化財ぶんかざい登録とうろくされている。
  • ムーラン・ア・メール - 水力すいりょくタービンを動力どうりょくとして穀物こくもついていた製粉せいふんしょ。カンフルーがわきた位置いちする。やく100フィートの堤防ていぼう入江いりえ入口いりくちきずかれいけのようになっている

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ この道路どうろのち国道こくどう165ごう改称かいしょうされ、ブレストとカンペールおよびナントをむす高速こうそく道路どうろである現在げんざい国道こくどう165ごう整備せいびさい県道けんどうあらためられた
  2. ^ Benjamin Girard, La Bretagne maritime, C. Thèse, Rochefort, 1889, consultable sur Gallica
  3. ^ J. Leroy, fr:L'Ouest-Éclair n°8339 du 15 août 1924, consultable sur Gallica
  4. ^ A. Jarno, De quelques points intéressants de nos côtes, Bulletin de la Société Archéologique du Finistère, 1928, consultable sur Gallica
  5. ^ Andrée Le Gall-Sanquer, Jean-Luc Richard, Marie-Louise Richard, "L'or bleu (An aour glaz) : le lin au pays de Landerneau-Daoulas", Association Dourdon, Cloître Imprimeurs, 2005, [ISBN 2-9505493-1-4]
  6. ^ fr:Archives parlementaires de 1787 à 1860 ; 2-7. États généraux ; Cahiers des sénéchaussées et bailliages, série 1, tome 5, sur Gallica
  7. ^ Mémorial GenWeb
  8. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=20226
  9. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
  10. ^ http://www.insee.fr