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ロゴナ=ダウラ (Logonna-Daoulas 、ブルトン語 ご :Logonna-Daoulaz)は、フランス 、ブルターニュ地域 ちいき 圏 けん 、フィニステール県 けん のコミューン 。
名 な の由来 ゆらい は Loc-Onna、すなわち聖 せい オマ(Omma)に捧 ささ げられた場所 ばしょ である。聖 せい オマは誤 あやま ってアイルランド島 とう のTech Munnaの聖職 せいしょく 者 しゃ 、聖 せい モナ(Monna)であると認識 にんしき されていた。聖 せい モナはロゴナ=ダウラの教会 きょうかい の守護 しゅご 聖人 せいじん である。
ロゴナ=ダウラの位置 いち
ロゴナ=ダウラはブレスト停泊 ていはく 地 ち の中 なか ほどにある。ロゴナはミニョンヌとカンフルーの2つの入江 いりえ に挟 はさ まれた半島 はんとう を形成 けいせい しており、その位置 いち はブレスト とカンペール の中 なか 間 あいだ である。
1869年 ねん に発行 はっこう されたポル・ポティエ・ド・クルシーの著作 ちょさく La Bretagne contemporaine, Finistère は以下 いか のように記 しる している。『ダウラのから半島 はんとう の先端 せんたん のロゴナのブールに通 つう じる道 みち ほどに多様 たよう で、肥沃 ひよく で、のどかなものはない。道程 どうてい には木立 こだち や果樹 かじゅ 、そして逞 たくま しく育 そだ つ実 みの り豊 ゆた かな木々 きぎ が途切 とぎ れず、時 とき にはその間 あいだ からこの土地 とち を分 わ かつ多 おお くの入江 いりえ が眺 なが められ、陸地 りくち が庭園 ていえん のようにも見 み えてくる。』
バンジャマン・ジラールは1889年 ねん にこのように述 の べている。『ロゴナ=ダウラのコミューンは、ダウラ川 がわ 、ブレスト停泊 ていはく 地 ち 、ロピタル川 がわ 〔カンフルー川 がわ 〕に挟 はさ まれた半島 はんとう のようなところにある。その東側 ひがしがわ を国道 こくどう 170号線 ごうせん が通 とお る[ 1] 。その土地 とち は非常 ひじょう に肥沃 ひよく である。集落 しゅうらく はコミューンの南端 なんたん にあり、205人 にん の住民 じゅうみん がおり、1710年 ねん に建 た てられた教会 きょうかい には優雅 ゆうが なリブアーチ、美 うつく しい彫刻 ちょうこく 、美 うつく しい鐘楼 しゅろう がある。ロピタル川 がわ 〔カンフルー川 がわ 〕河口 かこう の水車 みずぐるま と、川 かわ と同 おな じ名前 なまえ のオピタル=カンフルー の集落 しゅうらく の間 あいだ では、豊富 ほうふ なケルサントン石 せき の採掘 さいくつ が行 おこ なわれている[ 2] 。』
半島 はんとう の形状 けいじょう であったため、ロゴナ=ダウラは他 た から孤立 こりつ してきた。1924年 ねん にウエスト・エクレール紙 し はこのように再 ふたた び書 か いている。『往来 おうらい する道 みち のないロゴナ=ダウラのコミューンは、打 う ち捨 す てられたように見 み える。観光 かんこう 客 きゃく は野原 のはら を通過 つうか するよう強 し いられるので、土地 とち 所有 しょゆう 者 しゃ が不満 ふまん を持 も つのは当然 とうぜん のことである。交通 こうつう 手段 しゅだん となれば、ダウラ駅 えき から10km、ランデルノーから22km、ブレストから42km離 はな れたこのコミューンに自動車 じどうしゃ サービスは存在 そんざい しない。ブレスト、シャトーラン 、ル・フーとロゴナ=ダウラ間 あいだ の交通 こうつう 手段 しゅだん となるのは船 ふね である。これらの町 まち からやってきた船 ふね は、ロゴナの町 まち から徒歩 とほ で10分 ふん かかる小 ちい さな港 みなと の近 ちか くで停止 ていし せず通過 つうか する。』[ 3]
町 まち には2箇所 かしょ の港 みなと がある。そして数 すう 多 おお くの小川 おがわ と小 しょう 河川 かせん がある。多 おお くの水辺 みずべ では、一帯 いったい の地質 ちしつ 学 がく 上 じょう の豊 ゆた かさを示 しめ す断崖 だんがい やひだが存在 そんざい する。田園 でんえん 風景 ふうけい は、1950年代 ねんだい の区画 くかく 整理 せいり にもかかわらず、ボカージュ (生垣 いけがき で仕切 しき られた畑 はたけ や牧草 ぼくそう 地 ち )の国 くに の特徴 とくちょう を保 たも ち、一般 いっぱん 的 てき にガレンヌ(garennes)と呼 よ ばれるでこぼこした道路 どうろ 、傾斜 けいしゃ があり、生垣 いけがき ではカシ、トネリコ、ヤナギが優勢 ゆうせい である。
ロズの海岸 かいがん
ベンディ岬 みさき
Ar-Chastelという名 な の、岬 みさき にもうけられた砦 とりで が、ポワント・サン・ジャン(pointe Saint-Jean)という幅 はば が広 ひろ く深 ふか い溝 みぞ で守 まも られていた。これがロゴナ=ダウラである[ 4] 。
ロゴナ=ダウラは、ノートルダム・ド・ダウラ修道院 しゅうどういん の古 ふる い小 しょう 修道院 しゅうどういん 主任 しゅにん 司祭 しさい の職 しょく がおかれたところで、13世紀 せいき にはイルヴィネック教区 きょうく の一部 いちぶ であった。い伝 いつた えでは、5世紀 せいき にアイルランド島 とう から石 いし の船 ふね で聖 せい モナはやってきて現在 げんざい のコミューンの場所 ばしょ 、ポルシスカン(Porsisquin)集落 しゅうらく の中 なか にある土地 とち に定住 ていじゅう した。彼 かれ は教会 きょうかい を高 たか い場所 ばしょ で建設 けんせつ し始 はじ めた。そこは彼 かれ の妹 いもうと でディリノン にいる聖 せい なる修道 しゅうどう 女 おんな 、ノンヌが見 み える場所 ばしょ だった。彼 かれ はクレメネイ(Clemenehy)に決 き めたのだが、その土地 とち には実 じつ は魔法 まほう がかけられていた。夜間 やかん に作業 さぎょう 中 ちゅう 、悪魔 あくま は教会 きょうかい を破壊 はかい してしまった。聖 せい モナは、現在 げんざい ロゴナの教会 きょうかい のある場所 ばしょ に教会 きょうかい を建 た てることに決 き めた。その後 ご 、彼 かれ はこの場所 ばしょ から聖 せい ノンヌの教会 きょうかい を見 み ることができないという事実 じじつ を絶望 ぜつぼう をもって理解 りかい し、以下 いか のように言 い った。『あなたの家 いえ を建 た てなさい。私 わたし の扉 とびら から入 はい ると、私 わたし はそれがあなたのものだとわかるのです。』(Graet da di, eus toull va dor me velo da hini)。現在 げんざい もある集落 しゅうらく の名 な 、ClemenehyとはKreac'h Menec'hi、すなわち『修道 しゅうどう 士 し の住宅 じゅうたく のある丘 おか 』となる。それは重要 じゅうよう で宗教 しゅうきょう 的 てき な過去 かこ のできごとであったのだろう。
ロゴナの古 ふる い城主 じょうしゅ は、ダウラを細 こま かく分 わ け、1208年 ねん に以下 いか のように分離 ぶんり した。イルヴィヤックはピエール・ド・マエストロワの妻 つま コンスタンス・ド・レオンの特権 とっけん としてわたり、後 のち にレオン 子爵 ししゃく ギヨマール4世 せい に割 わ り当 あ てられた。ギヨマール4世 せい の子孫 しそん サロモンは、ロゴナの貴族 きぞく ロスモルデュック家 か の祖 そ である。ロゴナは、13世紀 せいき 以来 いらい ロスモルデュック家 か の世襲 せしゅう 荘園 しょうえん の中心 ちゅうしん 地 ち となった。この荘園 しょうえん は現在 げんざい のコミューンとしてのロゴナの領域 りょういき を包括 ほうかつ しており、近隣 きんりん の小 しょう 教区 きょうく に大 おお きな足跡 あしあと を残 のこ した。
ロゴナは本質 ほんしつ 的 てき には海 うみ に関連 かんれん した生業 せいぎょう でなりたつ教区 きょうく であったが、17世紀 せいき 後半 こうはん から18世紀 せいき 初 はじ めにかけて、亜麻 あま の栽培 さいばい や帆布 ほぬの の生産 せいさん という仕事 しごと や文化 ぶんか が示 しめ されるようになった。例 れい として、ケルアル集落 しゅうらく では9リーヴル の価値 かち がある亜麻 あま の種 たね 3ブッシェル 、ラルヴォール集落 しゅうらく では織 お り機 き 1台 だい 、紡 つむ ぎ車 しゃ 2台 だい 、収穫 しゅうかく した亜麻 あま から種子 しゅし をかきとる梳毛 そもう 機 き 2台 だい があった。洗濯 せんたく 場 じょう であるkanndiは2箇所 かしょ 、ロウー集落 しゅうらく とケネカデック集落 しゅうらく にあった[ 5] 。
ニコラ・ディヴェーレスとジャン・プルランは、当時 とうじ のロゴナ180戸 こ の住民 じゅうみん の代表 だいひょう として、1789年 ねん 三 さん 部会 ぶかい において、カンペールのセネシャル管轄 かんかつ 区内 くない での第 だい 三 さん 身分 みぶん 代表 だいひょう 選挙 せんきょ に参加 さんか した[ 6] 。
ロゴナ=ダウラの戦死 せんし 者 しゃ 記念 きねん 碑 ひ には、106人 にん のフランスに命 いのち を捧 ささ げた者 もの の名 な が刻 きざ まれている。72人 にん が第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 、30人 にん が第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 、4人 にん が第 だい 一 いち 次 じ インドシナ戦争 せんそう における戦死 せんし 者 しゃ である[ 7] 。上記 じょうき のうち10人 にん は海上 かいじょう で行方 ゆくえ 不明 ふめい になっている。また、メルス・エル・ケビール での死者 ししゃ 3人 にん が含 ふく まれている。
磨 みが いたロゴナ石 せき
ロズの採石 さいせき 場 じょう
17世紀 せいき のロゴナ=ダウラで、農業 のうぎょう 、家畜 かちく の飼育 しいく 、漁業 ぎょぎょう に代 か わって重要 じゅうよう な経済 けいざい 活動 かつどう となったのは採石 さいせき で、2箇所 かしょ の鉱脈 こうみゃく のおかげで領主 りょうしゅ ロスマデュック家 か は採石 さいせき 場 じょう を持 も っていた。
最初 さいしょ の鉱脈 こうみゃく は17世紀 せいき 以来 いらい 稼働 かどう し、硬 かた いランプロファイア がとれ、最後 さいご にはケルサンタイト、地元 じもと でケルサントン石 せき と呼 よ ばれる石 いし がとれた。ケルサンタイトはマグマから生 しょう じた花崗岩 かこうがん で、初 はじ めて発見 はっけん されたロペレにある集落 しゅうらく 、ケルサントンよりその名 な がとられた。ロゴナにはケルサントン石 せき のとれる採石 さいせき 場 じょう が数箇所 すうかしょ あり、きめが細 こま かく風化 ふうか に強 つよ いことからロスモルデュック家 か の彫刻 ちょうこく 家 か たちに非常 ひじょう に人気 にんき があった。ケルヴァダンとラン・ヴラーズの採石 さいせき 場 じょう はかつてロゴナ内 ない にあったが、1946年 ねん のコミューン境界 きょうかい 再編 さいへん によってオピタル=カンフルーに自治体 じちたい が変更 へんこう された。
もう1つの鉱脈 こうみゃく は、黄土 おうど 色 しょく の独特 どくとく の花崗岩 かこうがん で、まるで木材 もくざい に似 に せたかのような、鉄 てつ の酸化 さんか 物 ぶつ が同心円 どうしんえん を描 えが いてアクセントとなっている。この石 いし はその名 な もロゴナ石 せき (pierre de Logonna)と呼 よ ばれ、16世紀 せいき 以来 いらい 稼働 かどう するロズの採石 さいせき 場 じょう でとれた。その他 た に黄土 おうど 色 しょく の石 いし を産出 さんしゅつ したのはサント・マルグリット集落 しゅうらく の東側 ひがしがわ にあり、1960年代 ねんだい まで稼働 かどう していた。石 いし の大 おお きさ、風化 ふうか に対 たい する強 つよ さ、水上 すいじょう 輸送 ゆそう で容易 ようい に運搬 うんぱん できることが、ロゴナ石 せき がフィニステール中央 ちゅうおう 部 ぶ から西部 せいぶ にかけ教会 きょうかい 建物 たてもの の資材 しざい に用 もち いられた理由 りゆう となった。現代 げんだい でもロゴナ石 せき は用 もち いられ、1958年 ねん に完成 かんせい したブレストのサン・ルイ教会 きょうかい 、1965年 ねん に完成 かんせい したランデヴェネック 修道院 しゅうどういん 建物 たてもの にも使 つか われた。
20世紀 せいき 初頭 しょとう 、採石 さいせき 場 じょう では、石工 せっこう や親方 おやかた として300人 にん 以上 いじょう が雇用 こよう されていた。彼 かれ らの多 おお くは外部 がいぶ からやってきて、ロゴナの女性 じょせい と結婚 けっこん した。農夫 のうふ 、漁師 りょうし 、カキ養殖 ようしょく 業者 ぎょうしゃ も冬季 とうき になると採石 さいせき 場 じょう で働 はたら いていた。
ロズの採石 さいせき 場 じょう 以外 いがい ではもはや石 いし はとられなくなっている。一部 いちぶ は多 おお かれ少 すく なかれゴミ捨 ごみす て場 ば のように使 つか われたが、別 べつ の採石 さいせき 場 じょう は水 みず がたまり植生 しょくせい が生 う まれた。
1962年 ねん
1968年 ねん
1975年 ねん
1982年 ねん
1990年 ねん
1999年 ねん
2006年 ねん
2010年 ねん
1358
1223
1115
1312
1429
1579
1969
2093
参照 さんしょう 元 もと :1999年 ねん までEHESS[ 8] 、2000年 ねん 以降 いこう INSEE [ 9] [ 10]
ロゴナ=ダウラでの、テーブル状 じょう のカキ養殖 ようしょく 棚 だな
農業 のうぎょう はコミューンの東部 とうぶ に集中 しゅうちゅう しており、ウマやウシの飼育 しいく で名高 なだか い。
コキーユ・ド・サン・ジャック(fr )とはホタテの一種 いっしゅ で、20世紀 せいき 半 なか ばまではブレスト停泊 ていはく 地 ち の中 なか で漁 りょう が行 おこな われ、コミューンの重要 じゅうよう な経済 けいざい 活動 かつどう となっている。現在 げんざい ロゴナの貝 かい はオピタル・カンフルーやル・フー産 さん の貝 かい と競争 きょうそう している。
カンフルーおよびミニョンヌの入江 いりえ は、ヨーロッパヒラガキ の豊 ゆた かな漁場 ぎょじょう であった。19世紀 せいき 半 なか ばまでにブルターニュのどこでも見 み られたように大 だい 規模 きぼ な浚渫 しゅんせつ が行 おこな われ、資源 しげん の減少 げんしょう が憂慮 ゆうりょ された。それでもロゴナのカキ養殖 ようしょく 業 ぎょう は成長 せいちょう し、1920年 ねん から1921年 ねん の深刻 しんこく な伝染 でんせん 病 びょう 流行 りゅうこう にも生 い き残 のこ った。1940年代 ねんだい からカキ養殖 ようしょく が繁栄 はんえい の時代 じだい をむかえた。1970年代 ねんだい 、2度 ど の寄生虫 きせいちゅう 発生 はっせい でヨーロッパヒラガキが打撃 だげき を受 う け、日本 にっぽん 産 さん のマガキ が導入 どうにゅう された。
2005年 ねん より、ム む ール貝 るがい の養殖 ようしょく が始 はじ まった。
サン・モナ教会 きょうかい - 教区 きょうく 教会 きょうかい
サント・マルグリット礼拝 れいはい 堂 どう - ゴシック様式 ようしき とルネサンス様式 ようしき の要素 ようそ を持 も ち、優美 ゆうび な塔 とう が特徴 とくちょう
サン・ジャン・バティスト礼拝 れいはい 堂 どう - 航行 こうこう に不向 ふむ きなダウラ川 かわ を見下 みお ろす場所 ばしょ にある。16世紀 せいき
ラングレオのキリスト教化 きょうか されたメンヒル - 詳 くわ しい日付 ひづけ は不明 ふめい だが、ロマネスク時代 じだい から15世紀 せいき までの間 あいだ とされる。祝福 しゅくふく を与 あた えるキリストと、12使徒 しと が彫 ほ られている
ロスモルデュック城 じょう - 10世紀 せいき にはロスモルデュックの地 ち がランデヴェネック修道院 しゅうどういん の特許 とっきょ 状 じょう 台帳 だいちょう に記 しる されていた。ロスモルデュック城主 じょうしゅ であったルイ・ド・ロスモルデュック伯 はく はフランス革命 かくめい 時代 じだい に王 おう 党派 とうは の士官 しかん であり、ヴァンデの反乱 はんらん でシュアンとともに戦 たたか った。1793年 ねん から1798年 ねん にかけ国有 こくゆう 資産 しさん として売却 ばいきゃく の憂 う き目 め に合 あ うが、フランス国立 こくりつ 古文書 こもんじょ 学校 がっこう の卒業生 そつぎょうせい で考古 こうこ 学者 がくしゃ のジョルジュ・ド・ロスモルデュック伯 はく が19世紀 せいき に城 しろ と周辺 しゅうへん を再度 さいど 手 しゅ に入 い れた。現在 げんざい はフランス歴史 れきし 文化財 ぶんかざい に登録 とうろく されている。
ムーラン・ア・メール - 水力 すいりょく タービンを動力 どうりょく として穀物 こくもつ を挽 ひ いていた製粉 せいふん 所 しょ 。カンフルー川 がわ の北 きた に位置 いち する。約 やく 100フィートの堤防 ていぼう が入江 いりえ の入口 いりくち に築 きず かれ池 いけ のようになっている
サン・モナ教会 きょうかい 内部 ないぶ
ケルサントン石 せき でできた聖 せい モナ像 ぞう
サント・マルグリット礼拝 れいはい 堂 どう
サン・ジャン・バティスト礼拝 れいはい 堂 どう
聖 ひじり ジャンの泉 いずみ
ラングレオのメンヒル
ロスモルデュック城 じょう
池 いけ に面 めん したムーラン・メール
^ この道路 どうろ は後 のち に国道 こくどう 165号 ごう に改称 かいしょう され、ブレストとカンペールおよびナントを結 むす ぶ高速 こうそく 道路 どうろ である現在 げんざい の国道 こくどう 165号 ごう の整備 せいび の際 さい に県道 けんどう に改 あらた められた
^ Benjamin Girard, La Bretagne maritime , C. Thèse, Rochefort, 1889, consultable sur Gallica
^ J. Leroy, fr:L'Ouest-Éclair n°8339 du 15 août 1924, consultable sur Gallica
^ A. Jarno, De quelques points intéressants de nos côtes , Bulletin de la Société Archéologique du Finistère, 1928, consultable sur Gallica
^ Andrée Le Gall-Sanquer, Jean-Luc Richard, Marie-Louise Richard, "L'or bleu (An aour glaz ) : le lin au pays de Landerneau-Daoulas", Association Dourdon, Cloître Imprimeurs, 2005, [ISBN 2-9505493-1-4 ]
^ fr:Archives parlementaires de 1787 à 1860 ; 2-7. États généraux ; Cahiers des sénéchaussées et bailliages, série 1, tome 5, sur Gallica
^ Mémorial GenWeb
^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=20226
^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
^ http://www.insee.fr