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ロバート・フック - Wikipedia コンテンツにスキップ

ロバート・フック

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロバート・フック
歴史れきし画家がかリタ・グリアによるフックの肖像しょうぞう油絵あぶらえ、2004ねんさく
生誕せいたん 1635ねん7がつ28にち7がつ18にち
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこく ワイトとう フレッシュウォーター英語えいごばん
死没しぼつ (1703-03-03) 1703ねん3月3にち(67さいぼつ
イングランド王国の旗 イングランド王国おうこく ロンドン
研究けんきゅう分野ぶんや 物理ぶつりがく化学かがく
研究けんきゅう機関きかん オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく
出身しゅっしんこう クライスト・チャーチ (オックスフォおっくすふぉド大学どだいがく)
指導しどう教員きょういん ロバート・ボイル
おも業績ぎょうせき フックの法則ほうそく
顕微鏡けんびきょうによる観察かんさつ
"cell" を細胞さいぼう意味いみはじめて使用しよう
署名しょめい
プロジェクト:人物じんぶつでん
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ロバート・フックRobert Hooke1635ねん7がつ28にち7がつ18にち〉- 1703ねん3月3にち)は、イギリス自然しぜん哲学てつがくもの建築けんちく博物学はくぶつがくもの生物せいぶつ学者がくしゃ王立おうりつ協会きょうかいフェロー[1]実験じっけん理論りろん両面りょうめんつうじて科学かがく革命かくめい重要じゅうよう役割やくわりえんじた。

概要がいよう

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成人せいじん人生じんせいは3つの期間きかんけられる。当初とうしょまずしいが優秀ゆうしゅう科学かがく研究けんきゅうしゃだった。その経済けいざいてき成功せいこうし、1666ねんロンドン大火たいかでは復興ふっこうのためにおおいに貢献こうけんした。しかし晩年ばんねん気難きむずかしくなり、様々さまざま論争ろんそうくびをつっこんだ。歴史れきしてきにあまりめいのこらなかったのは、この晩年ばんねん所業しょぎょうわざわいしている。

弾性だんせいかんする法則ほうそくフックの法則ほうそく)、『顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』、生体せいたい最小さいしょう単位たんいを "cell"(細胞さいぼう)と名付なづけたことでられている。その業績ぎょうせきからすると、フックについてかれた文献ぶんけんおどろくほどすくない。一時期いちじき王立おうりつ協会きょうかい実験じっけん監督かんとくつとめ、どう協会きょうかい協議きょうぎかい一員いちいんでもあった。ロンドン大火たいかあと測量そくりょう指揮しきし、あとのほぼ半分はんぶん測量そくりょうおこなった。建築けんちくとしても有名ゆうめいだったが、現存げんそんしている建築けんちくぶつすくなく、一部いちぶ他人たにん設計せっけいだとおもわれていた。大火たいかのロンドンの都市とし計画けいかく関与かんよし、いまもその影響えいきょうがロンドンの街並まちなみにのこっている。歴史れきしアラン・チャップマンは「イングランドのレオナルド」とひょうした[2]

プロテクトレート時代じだいオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくウォドム・カレッジでまなび、ジョン・ウィルキンズ中心ちゅうしん結成けっせいされたおう党派とうは一団いちだん参加さんかした。医学いがくしゃトーマス・ウィリス化学かがくしゃロバート・ボイル助手じょしゅつとめ、ボイルが気体きたい法則ほうそく見出みいだした実験じっけん使つかった真空しんくうポンプの製作せいさく手伝てつだった。最初さいしょグレゴリーしき望遠鏡ぼうえんきょうつくって火星かせい木星もくせい自転じてんしていることを観察かんさつし、化石かせき研究けんきゅうして進化しんかろんとなえた初期しょき1人ひとりとなった[3][4]ひかり屈折くっせつ現象げんしょう研究けんきゅうして波動はどうせつ到達とうたつ物体ぶったいねっすると膨張ぼうちょうすること、空気くうき比較的ひかくてきまばらな微粒子びりゅうしでできていることなどを示唆しさした。測量そくりょう地図ちず作成さくせい分野ぶんやでも先駆せんくてき業績ぎょうせきのこしており、史上しじょうはつ近代きんだいてき平面へいめん作成さくせいした。ロンドン復興ふっこうには格子こうしじょうまちにする再建さいけんあん提案ていあんしたが、既存きそん道路どうろをそのまま再建さいけんするあん採用さいようされた。重力じゅうりょくが(距離きょりについて)ぎゃく2じょう法則ほうそくしたがうこと、惑星わくせいがそういった法則ほうそくしたがって運行うんこうしていることにほぼづいており、ニュートンがそのかんがかた発展はってんさせた[5]科学かがくてき研究けんきゅうのほとんどは1662ねん就任しゅうにんした王立おうりつ協会きょうかい実験じっけん監督かんとくとしてったものとロバート・ボイルの助手じょしゅ時代じだいったものであるという。

生涯しょうがい

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フックの顕微鏡けんびきょう(『顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』にある版画はんが

フックのぜん半生はんせいについては、1696ねんはじめた未完みかん自伝じでんによるところがおおきい。Richard Waller が1705ねん出版しゅっぱんした The Posthumous Works of Robert Hooke, M.D. S.R.S. でその自伝じでん原稿げんこう参照さんしょうしている。Waller の著作ちょさくと John Ward の Lives of the Gresham Professorsジョン・オーブリーBrief Lives がフックのほぼどう時代じだい伝記でんきてき記録きろくすべてである。

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1635ねんワイトとうフレッシュウォーターでまれる。あに2人ふたりあねが2にんおり、7ねんにさらにもう1人ひとりまれている[6]ちち英国えいこく国教こっきょうかい聖職せいしょくしゃ[7]2人ふたりあに聖職せいしょくしゃになった。当然とうぜんロバートも聖職せいしょくしゃになることを期待きたいされていた。

ちち地元じもと学校がっこう責任せきにんしゃでもあり、ロバートの身体しんたいよわいこともあって自宅じたく勉強べんきょうおしえた。ちちおう党派とうはチャールズ1せい支持しじしゃであり、ワイトとうげてきたことがほぼ確実かくじつである。ロバートも当然とうぜんながら忠実ちゅうじつ君主くんしゅせい主義しゅぎしゃとしてそだてられた。

おさないころから観察かんさつすることがきで、機械きかい製図せいずかれていた。真鍮しんちゅう時計とけい分解ぶんかいしてでその複製ふくせいつくると、それが十分じゅうぶん動作どうさしたという。製図せいず技法ぎほうまなび、石炭せきたん石灰石せっかいせき鉄鉱てっこうせきなどを原料げんりょうとして自分じぶん素材そざいつくった。

1648ねんちちくなり、徒弟とてい修業しゅうぎょうけられるようにとちちのこした40ポンドの遺産いさんにした[6][8]ちちはロバートが機械きかいきだということで、時計とけい職人しょくにん装飾そうしょく写本しゃほん絵師えしになるだろうとかんがえていた。フック自身じしん画家がかにも興味きょうみがあった。徒弟とてい修業しゅうぎょうするつもりでロンドンにたが、Samuel Cowper やピーター・レリーした短期間たんきかんまなんで優秀ゆうしゅうさを見出みいだされ、すぐに Richard Busbyウェストミンスター・スクール入学にゅうがくできた。あいだもなくラテン語らてんごやギリシャ習得しゅうとく[8]、ヘブライまなび、ユークリッドの『原論げんろん習得しゅうとくした[8]。また、そこで生涯しょうがい研究けんきゅう対象たいしょうとなる力学りきがく出会であった。

学校がっこう通常つうじょう教育きょういく平行へいこうして Busby が個人こじん教授きょうじゅした生徒せいと1人ひとりだったとられている。当時とうじ文献ぶんけんには学校がっこうに「ほとんどてこなかった」とあり、これは Busby が個人こじん教授きょうじゅした生徒せいと共通きょうつうしている。Busby は熱心ねっしんおう党派とうはで、チャールズ1せい、2せい時代じだいのイングランドで開花かいかはじめた科学かがく精神せいしんをあらゆる手段しゅだん保持ほじしようとした。これはプロテクトレート(イングランド共和きょうわこく時代じだい聖書せいしょ忠実ちゅうじつ教育きょういくとは相反あいはんするものだった。Busby やえらばれた生徒せいとたちにとって英国えいこく国教こっきょうかい科学かがくてき探究たんきゅう精神せいしんかみぎょう沿うものとして支持しじする枠組わくぐみだった。たとえば Busby は Bishop of Bath and Wells になった George Hooper について「ウェストミンスター・スクールで教育きょういくけたなかでも最高さいこう学者がくしゃ最良さいりょう紳士しんしであり、完璧かんぺきなビショップだ」とべている。

オックスフォード時代じだい

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ロバート・ボイル

1653ねんオルガンならっていたフックはオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクライスト・チャーチ聖歌せいかたい居場所いばしょ確保かくほした[9]。そこで医学いがくしゃトーマス・ウィリス出会であい、化学かがく助手じょしゅとしてやとわれ、おおきな賞賛しょうさんけることになる。また自然しぜん哲学てつがくしゃロバート・ボイル出会であい、1655ねんごろから1662ねんまで助手じょしゅとしてやとわれ、ボイルの空気くうきポンプ "machina Boyleana" の製作せいさく操作そうさ実演じつえん担当たんとうした[10]学士がくしごう取得しゅとくするのは1662ねんか1663ねんごろのことである。1659ねん、ウィルキンズに空気くうきよりおももの飛行ひこうするためのいくつかの要素ようそ説明せつめいしているが、人間にんげん筋力きんりょくでは不充分ふじゅうぶんだと結論けつろんけている。

フックは自身じしんのオックスフォード時代じだい科学かがくへの情熱じょうねつ形成けいせいした時代じだいとしており、このころった友人ゆうじん、とくにクリストファー・レン生涯しょうがいわたっての親友しんゆうとなった。当時とうじのウォドム・カレッジはジョン・ウィルキンズ指導しどうにあり、ウィルキンズはフックやその周辺しゅうへんおおきな影響えいきょうあたえた。ウィルキンズもおう党派とうはであり、その時代じだい不穏ふおんさと不確ふたしかさにづいていた。おう党派とうは科学かがくしゃにとって、プロテクトレートが科学かがくおどかそうとしているとおもえる切迫せっぱくかんがあった。ウィルキンズが開催かいさいしていた「哲学てつがくてき会合かいごう」はあきらかにきわめて重要じゅうようだが、ボイルが1658ねん実施じっしして1660ねん出版しゅっぱんした実験じっけん以外いがいにほとんど記録きろくのこっていない。このグループが王立おうりつ協会きょうかい創設そうせつ中核ちゅうかくとなった。ボイルの空気くうきポンプのもとになったのは Valentine Greatorex使つかっていたポンプで、フックはかれについて「大事だいじげるには大雑把おおざっぱすぎる」とひょうしている[11]

フックはとくするどく、数学すうがくしゃとしても優秀ゆうしゅうだった。どちらもボイルにはけていた資質ししつである。Gunther はボイルの実験じっけん計測けいそくったのはフックで、ボイルの法則ほうそく数学すうがくてき定式ていしきしたのもフックだったのではないかと示唆しさしている。いずれにしてもボイルにとってフックはがたい助手じょしゅであり、両者りょうしゃたがいに尊敬そんけいしあっていたことは明白めいはくである。

ウィルキンズがくなったとき、その蔵書ぞうしょから形見分かたみわけしてもらえることになったフックは、トーマス・ウィリスがウィルキンズに贈呈ぞうていした著書ちょしょ De anima brutorumゆずけた。そのほん現在げんざい Wellcome Library にある。

ぜんまい時計とけい

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クリスティアーン・ホイヘンス

フックの自伝じでんてきノートによれば、1655ねんごろから天文学てんもんがく興味きょうみはじめたという。1657ねんごろからジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ機構きこう改良かいりょうはじめ、重力じゅうりょく計時けいじ機構きこうについて研究けんきゅうをすすめた。当時とうじ航海こうかいにとってだい問題もんだいだった経度けいど特定とくていする方法ほうほうおもいつき、ボイルらのたすけを特許とっきょ取得しゅとくしようとしたとしるしている。その過程かていでコイルばね(ぜんまいばね)を使つかった懐中時計かいちゅうどけい発明はつめいしている[注釈ちゅうしゃく 1]。しかし特許とっきょ取得しゅとくせず、発明はつめいをそのままにしておいたことでおおきなとみ機会きかいのがしてしまった。そのことでフックは発明はつめいについて用心深ようじんぶかくなった。ぜんまい時計とけいについてはホイヘンスが1675ねん2がつJournal de Scavans発表はっぴょうしているが、フックがその15ねんまえ独自どくじ発明はつめいしていたことはほぼ確実かくじつられている。1717ねん、Henry Sully はパリでアンクルだつすすむについて「ロンドンのグレシャム大学だいがく幾何きかがく教授きょうじゅだったフック博士はかせ発明はつめい」だとしるしている[12]ウィリアム・デラム もそれをフックの発明はつめいとしている[13]

王立おうりつ協会きょうかい

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1660ねん王立おうりつ協会きょうかい創設そうせつされ、1661ねん4がつにはどう協会きょうかいほそいガラスかんみずげられる現象げんしょうについて議論ぎろんこった。このときフックはかんふとさと水位すいい上昇じょうしょう相関そうかん関係かんけいがあることを報告ほうこくしている(いわゆる毛細管もうさいかん現象げんしょう)。その報告ほうこくMicrography Observ. 6ごう掲載けいさいされ、そのなかで「重力じゅうりょく流動りゅうどうせい」についてもろんじている。1661ねん11月5にちRobert Moray協会きょうかいのために実験じっけん監督かんとくするもの必要ひつようだと提案ていあん満場一致まんじょういっちでフックがそれにえらばれた。任命にんめいは11月12にちおこなわれ、そこにはボイルがかれ助手じょしゅから解放かいほうしたことへの感謝かんしゃ記録きろくされている。

1664ねん、John Cutler は王立おうりつ協会きょうかい毎年まいとし50ポンドを提供ていきょうして Mechanick Lecture創設そうせつ。フックがそのにんえらばれた。1664ねん6がつ27にち、フックは協会きょうかい事務じむきょく常駐じょうちゅうするようになる。1665ねん1がつ11にちには事務じむ局長きょくちょうとなり、Cutler の年金ねんきんのほかに30ポンドの給料きゅうりょう支払しはらわれるようになった[注釈ちゅうしゃく 2]

王立おうりつ協会きょうかいでの役割やくわりは、自分じぶん考案こうあんした実験じっけん会員かいいん示唆しさした実験じっけんおこなうことだった。初期しょき実験じっけんとしては、ねっした空気くうき封入ふうにゅうしたガラスだま冷却れいきゃくされるとれる実験じっけん生命せいめいねつPabulum vitae)とほのおflammae)がおなじであることをしめ実験じっけんなどがある。また、いぬひらけむねした状態じょうたいかしておけることを実験じっけんしめし、呼吸こきゅうはいへの空気くうきれであること、静脈じょうみゃく動脈どうみゃく血液けつえきことなることをしめした。重力じゅうりょくについての実験じっけんおこなっており、物体ぶったい落下らっか実験じっけん物体ぶったい重量じゅうりょう測定そくてい実験じっけん様々さまざま高度こうどでの気圧きあつ測定そくてい実験じっけん最大さいだい61mのたかさの実験じっけんなどがある。

太陽たいよう恒星こうせいが1秒間びょうかん移動いどうする角度かくど測定そくていする機器きき考案こうあんし、火薬かやく威力いりょく測定そくていする機器きき考案こうあんした。とく時計とけいよう精密せいみつ歯車はぐるまつく機械きかい考案こうあんし、フックのくなるころにはそれが普通ふつう使つかわれていた[14]

1663ねんから1664ねんにかけて、顕微鏡けんびきょう使つかった様々さまざま観察かんさつおこない、1665ねんに『顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』を出版しゅっぱんした。アントニ・ファン・レーウェンフック業績ぎょうせきたか評価ひょうかし、かれ観察かんさつ記録きろくラテン語らてんごやくして出版しゅっぱんし、また、王立おうりつ協会きょうかい会員かいいんとしてまねいた。

1664ねん3がつ20日はつか、グレシャム大学だいがく幾何きかがく教授きょうじゅしょくを Arthur Dacres からいだ。1691ねん12月には医学いがく博士はかせごう取得しゅとくしている[15]

人柄ひとがら論争ろんそう

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とく晩年ばんねんのフックは短気たんき気位きぐらいたかく、知的ちてき論争ろんそう相手あいて不快ふかいにさせる傾向けいこうがあった。それでもウォドム・カレッジでのおう党派とうは仲間なかまたち、とくクリストファー・レンとはつねなかがよかった。かれ名声めいせい死後しご低下ていかしているが、その原因げんいん一般いっぱんアイザック・ニュートンとのあいだ確執かくしつにあったとされている。ヘンリー・オルデンバーグとの時計とけい機構きこう発明はつめいしゃがどちらかという論争ろんそうもよくられている。ニュートンはフックの死後しご王立おうりつ協会きょうかい会長かいちょうとなり、フックの業績ぎょうせきおおかくそうと様々さまざまなことをおこなった。唯一ゆいいつ肖像しょうぞう破棄はきしたのもそのいちれいである。レンの息子むすこがレンの生涯しょうがいについてほんいているが、レンの業績ぎょうせき誇張こちょうする傾向けいこうられ、フックは軽視けいしされている。フックがさい評価ひょうかされるようになったのは20世紀せいきはいってからで、Robert Gunther や Margaret Espinasse の研究けんきゅうによるところがおおきい。なが無名むめいだったが、いまでは当時とうじもっと重要じゅうよう科学かがくしゃ1人ひとりみとめられている[16]

フックは暗号あんごうをつかってアイデアをかくすことがあった。王立おうりつ協会きょうかい実験じっけん監督かんとくとして、協会きょうかいおくられてくる様々さまざまなアイデアをためし、のちにそのアイデアは自分じぶんのものだと主張しゅちょうしたという証拠しょうこがある。フックはきわめて多忙たぼうだったため、自分じぶんのアイデアを特許とっきょして事業じぎょうこすといったひまがなかった。科学かがく全体ぜんたいおおきく発展はってんした時代じだいであり、様々さまざま場所ばしょ様々さまざまなアイデアがまれていた。

それでもフックが創意そういみ、大変たいへん実験じっけん施設しせつつくげ、様々さまざま業績ぎょうせきのこしたことは事実じじつである。重力じゅうりょくぎゃく2じょう法則ほうそく発見はっけんしたというフックの主張しゅちょうについては後述こうじゅつする。弾性だんせい光学こうがく気圧きあつ測定そくていなどの分野ぶんや多数たすう発明はつめい工夫くふうおこなったことはたしかである。王立おうりつ協会きょうかいでのフックの論文ろんぶんはニュートンの時代じだい行方ゆくえ不明ふめいになっていたが最近さいきん発見はっけんされた。これがあらたなさい評価ひょうかつながると期待きたいされている。

顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』にあるシラミ

フックの性格せいかくわるめんについての記述きじゅつおおい。最初さいしょ伝記でんきいた Richard Waller もその人柄ひとがらについて「卑劣ひれつ陰鬱いんうつひと信用しんようせず、嫉妬しっとふかい」とひょうしている[14]。この Waller の評価ひょうかがその2世紀せいきわたって影響えいきょうあたえ、機嫌きげん自己じこ中心ちゅうしんてき社交しゃこうてきだというフックぞう定着ていちゃくすることになった。たとえば Arthur Berry はフックについて「当時とうじ科学かがくてき発見はっけんのほとんどを自分じぶん手柄てがらだと主張しゅちょうした」としている[17]。Sullivan はフックがニュートンとのやりりにおいて「あきらかに無法むほう」であり、「虚栄きょえいしん」のぬしだったとしるしている[18]。Manuel は「いかりっぽく、嫉妬しっとふかく、執念深しゅうねんぶかい」としるしている[19]。More は「シニカルで毒舌どくぜつ」だったとしている[20]。Andrade はやや同情どうじょうてきだがそれでも「むずかしく、うたがぶか短気たんき」だとしている[21]

1935ねん、フックの日記にっき出版しゅっぱんされ[22]、フックのべつめんあきらかになり、とくに Espinasse が詳細しょうさい研究けんきゅうしている。彼女かのじょは「機嫌きげん嫉妬しっとふか隠遁いんとんしゃというフックぞう完全かんぜん間違まちがいだ」としている[23]。フックは時計とけい職人しょくにんトーマス・トンピオン機器きき製造せいぞうしゃの Christopher Cocks (Cox) といったれた職人しょくにんとよくやりりしている。また、クリストファー・レンジョン・オーブリーとは終生しゅうせい親友しんゆうだった。また、日記にっきにはロバート・ボイルと頻繁ひんぱんい、おちゃ夕食ゆうしょくともにしていることがしるされていた。実験じっけん助手じょしゅのハリー・ハントともよくおちゃんでいる。ハントのめいやいとこを自宅じたくまねいて数学すうがくおしえてもいる。

フックは、ワイトとう、オックスフォード、ロンドンで人生じんせい大半たいはんごした。結婚けっこんはしなかったが、恋愛れんあいがまったくなかったわけではないことが日記にっきから判明はんめいしている。1703ねん3がつ3にち、ロンドンで死去しきょ死後しご、グレシャム大学だいがく自室じしつにかなりの大金たいきんんでいることがわかった。St Helen's Bishopsgate埋葬まいそうされたが、はか正確せいかく位置いちはわかっていない。

力学りきがく

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フックがえがいたノミ

1660ねん、フックは弾性だんせいについてのフックの法則ほうそく発見はっけん弾性だんせいのあるばねのびにたいして張力ちょうりょく比例ひれいすることをしめした法則ほうそくである。当初とうしょこの発見はっけんを "ceiiinosssttuv" というアナグラムで記述きじゅつし、1678ねんにそのこたえ "Ut tensio, sic vis"(英語えいごでは "As the extension, so the force.")を発表はっぴょうした。フックの弾性だんせいについての研究けんきゅう成果せいかとしてぜんまいばね開発かいはつがあり、それを使つかってそれなりの精度せいど携帯けいたいがた時計とけいつくられるようになった。この発明はつめいについてクリスティアーン・ホイヘンスとどちらがさきかという論争ろんそうき、両者りょうしゃ死後しごも1世紀せいき以上いじょうわたって論争ろんそうつづくことになった。しかし、のち発見はっけんされたフックの1670ねん6がつ23にちけの文書ぶんしょで、王立おうりつ協会きょうかいでぜんまいばねのデモンストレーションをおこなったことがしるされており、フックの主張しゅちょう裏付うらづけている[24]

20世紀せいき以降いこう視点してんからすると、弾性だんせい法則ほうそく最初さいしょアナグラム発表はっぴょうしたという事実じじつ興味深きょうみぶかい。これは当時とうじ科学かがくかいではめずらしいことではなく、ホイヘンスやガリレオ・ガリレイらもアナグラムを使つかったことがある。アナグラムは詳細しょうさいかさずにさき発見はっけんしたことをしめ手段しゅだんだった。

1662ねんあらたに創設そうせつされた王立おうりつ協会きょうかい実験じっけん監督かんとくになると、毎週まいしゅう会合かいごうおこな実験じっけんをとりしきるようになり、このしょくを40年間ねんかんつとめることになった。このしょくにあったことでフックはイギリスだけでなく世界せかい科学かがくかい中心ちゅうしん位置いちすることになり、同時どうじ科学かがくしゃらとのはげしい論争ろんそうこす原因げんいんにもなった。上述じょうじゅつのホイヘンスだけでなく、アイザック・ニュートンヘンリー・オルデンバーグとの論争ろんそうがよくられている。1664ねんにはグレシャム大学だいがく幾何きかがく教授きょうじゅ任命にんめいされ、力学りきがくの Cutlerian Lecturer にも任命にんめいされた[25]

1680ねん7がつ8にち、ガラスばん固有こゆう振動しんどうによる振動しんどうぶしパターンを観察かんさつ。ガラスばん小麦粉こむぎこをまぶし、そのえん沿ってゆみをすべらせて振動しんどうさせ、振動しんどうパターンを観察かんさつした[26][27]。このパターンは1787ねんにクラドニの著書ちょしょはじめて記載きさいされ、クラドニ図形ずけいばれている。

顕微鏡けんびきょう

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フックがえがいたコルク細胞さいぼう構造こうぞう
フックの顕微鏡けんびきょう

1665ねん顕微鏡けんびきょう望遠鏡ぼうえんきょう使つかった観察かんさつ記録きろくスケッチ)を『顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』(Micrographia) として出版しゅっぱん。これには生物せいぶつがく史上しじょうはつ観察かんさつふくまれていた。弾性だんせい関連かんれんする実験じっけんにおいて弾性だんせいりょくコルク観察かんさつしたさいちいさな部屋へやのような構造こうぞう発見はっけんした。修道院しゅうどういんしょう部屋へやならんでいる様子ようすているため、これをしょう部屋へやという意味いみcell(細胞さいぼうづけた。しかしコルクは、植物しょくぶつ死骸しがいであったためにかれ実際じっさいたものは細胞さいぼうそのものではなく細胞さいぼう細胞さいぼうかべであった。フックが使つかった顕微鏡けんびきょうはロンドンのクリストファー・ホワイトが製作せいさくしたもので、現在げんざいはワシントンD.C.の国立こくりつ健康けんこう医学いがく博物館はくぶつかんにある。

顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』にはフック(とおそらくボイル)の燃焼ねんしょうについてのかんがかたふくまれている。実験じっけんからかれ燃焼ねんしょうには空気くうきふくまれるなんらかの物質ぶっしつ関係かんけいしていると結論けつろんけていた。現代げんだいからればそれは酸素さんそだということがあきらかだが、17世紀せいきには一般いっぱんてきかんがかたではなかった。さらにフックは呼吸こきゅう空気くうき特定とくてい成分せいぶん関係かんけいしていると結論けつろんけていた[28]。Partington はフックがそのまま燃焼ねんしょうについて研究けんきゅうつづけていたら酸素さんそ発見はっけんしていただろうとしるしている[29]

天文学てんもんがく

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顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』にあるつきプレアデス星団せいだんのスケッチ
フックはこの土星どせいのスケッチで、たまき惑星わくせいたがいにかげとしている部分ぶぶん(aとb)に注目ちゅうもくしている。

さらに野心やしんてきみとして、フックは(太陽たいよう以外いがいの)恒星こうせい距離きょり測定そくていしようとした。対象たいしょうとしてえらんだのはりゅうγがんまほしで、視差しさ測定そくてい距離きょりもとめようとした。なんかの観測かんそくて1669ねん距離きょりもとめることができた。フックが使つかっていた器具きぐはあまりにも不正確ふせいかくで、測定そくてい結果けっか正確せいかくからはほどとおかった[30]。りゅうγがんまほしは1725ねんジェームズ・ブラッドリー光行みつゆき発見はっけんした恒星こうせいとしてもられている。

恒星こうせい距離きょり測定そくてい以外いがいにも天文学てんもんがく分野ぶんや活動かつどうしている。『顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』にはプレアデス星団せいだんつきのクレーターのスケッチがある。そのようなクレーターがどうやってできるのかも実験じっけん研究けんきゅうしている[31]

手製てせい望遠鏡ぼうえんきょう作成さくせいして土星どせいたまき観察かんさつ[32]、1664ねん5がつには木星もくせい表面ひょうめんにあるうず発見はっけんした(ただし、フックが発見はっけんしたうず赤道せきどう北部ほくぶ位置いちしており、赤道せきどう南部なんぶ存在そんざいする現在げんざいだいあかまだらとはことなるとかんがえられている)。

最初さいしょれんぼしおひつじγがんまほし)を1664ねん発見はっけんした[33]

建築けんちく設計せっけい

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ミルトン・キーンズの教会きょうかい

フックが一般いっぱん名声めいせいたのはクリストファー・レン助手じょしゅとしてロンドンの測量そくりょうおこなったことからである。フックとレンは1666ねんロンドン大火たいかのロンドン復興ふっこう尽力じんりょくし、大火たいか記念きねんグリニッジ天文台てんもんだいのちだいえい博物館はくぶつかんとなったモンタギュー・ハウス精神せいしん病院びょういん代名詞だいめいしとしてられた王立おうりつベスレム病院びょういんなどを設計せっけいした。ほかにも王立おうりつ内科ないか協会きょうかい建物たてもの(1679ねん)、ウォリックシャーRagley Hallバッキンガムシャーはミルトン・キーンズの教区きょうく教会きょうかい設計せっけいした。クリストファー・レンと共同きょうどうセント・ポールだい聖堂せいどう建築けんちくかかわっており、ドーム建設けんせつにはフックが考案こうあんした工法こうほう使つかわれた。

大火たいか再建さいけんにおいて、フックは幹線かんせん道路どうろ幅広はばひろくしてまち格子こうしじょう設計せっけいなおすことを提案ていあん。このかんがかたのちパリ改造かいぞうリヴァプール、アメリカのかく都市とし採用さいようされている。大火たいか不動産ふどうさん業者ぎょうしゃがこっそり境界きょうかいをずらしていたため、不動産ふどうさん財産ざいさんけんについての議論ぎろんしょうじ、道路どうろ従来じゅうらい完全かんぜんえてしまうフックのあん問題もんだい複雑ふくざつさせるものとして反対はんたいされた。土地とち境界きょうかいをめぐるいざこざがえず、フックは測量そくりょうとしての技量ぎりょう仲裁ちゅうさい才能さいのう発揮はっきしておおくの問題もんだい解決かいけつにあたった。

建築けんちくとしてのフックの業績ぎょうせきについては、Cooper の著書ちょしょくわしい[34]

フックとニュートン

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当時とうじ天体てんたいあいだはたら引力いんりょく斥力せきりょくつたえているのはエーテルだとしんじられていた。そんななかで1665ねんの『顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』でフックは重力じゅうりょくによる引力いんりょく法則ほうそくろんじている。1666ねんには王立おうりつ協会きょうかいで "On gravity"(重力じゅうりょくについて)とだいして講演こうえんをし、移動いどうする物体ぶったいなんらかのちからけないかぎりそのまま直進ちょくしんすること(慣性かんせい法則ほうそく)と引力いんりょく距離きょりちかいほどつよくなるという法則ほうそく追加ついかした。Dugald Stewart著書ちょしょ Elements of the Philosophy of the Human Mind[35]で、フック自身じしん世界せかい体系たいけいについての言葉ことば引用いんようしている。それによると、フックはつぎの3てんべている。

  1. すべての天体てんたい重力じゅうりょくによってそのかく部分ぶぶん中心ちゅうしんきつけているだけでなく、天体てんたいあいだ相互そうごけあって運動うんどうする。
  2. 外部がいぶからちから継続けいぞくてきくわわらないかぎり、天体てんたい単純たんじゅん直進ちょくしんつづける。しかし、重力じゅうりょくによって天体てんたい円軌道えんきどう楕円だえん軌道きどうなどの曲線きょくせんえがく。
  3. この引力いんりょく天体てんたい同士どうしちかいほどつよくなる。距離きょり引力いんりょくつよさの関係かんけいがどうなっているか、いまのところわたしにも発見はっけんできていない。

1670ねん講演こうえんでは、重力じゅうりょくはあらゆる天体てんたい作用さようすると説明せつめいし、重力じゅうりょく距離きょりはなれるにしたがってちいさくなること、重力じゅうりょくがなければ物体ぶったい直進ちょくしんつづけることを説明せつめいしている。

1672ねんアイザック・ニュートンひかり粒子りゅうしせつ発表はっぴょうすると、フックはひかり波動はどうせつ応戦おうせん。また、論文ろんぶん内容ないようだい部分ぶぶん自分じぶんが『顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』ですで発表はっぴょうみと主張しゅちょうおおきな議論ぎろんとなった。

1674ねんには "An Attempt to Prove the Motion of the Earth from Observations"(観察かんさつから地球ちきゅう運動うんどう証明しょうめいするこころみ)[36]付録ふろくとして「世界せかい体系たいけい」の若干じゃっかん進化しんかしたかんがかた公表こうひょうしている。フックはあきらかに太陽たいよう惑星わくせいあいだ相互そうご引力いんりょくはたらいていると仮定かていし、距離きょりちかいほど引力いんりょくつよくなるとしている。

しかし1674ねんまでにフックが重力じゅうりょくについてぎゃく2じょう法則ほうそくつとした記述きじゅつはない。フックのかんがえた重力じゅうりょく従来じゅうらいよりも普遍ふへんせいがあったものの、万有引力ばんゆういんりょくにまで到達とうたつしていなかった[37]。また、付随ふずいする証拠しょうこについてもべていないし、数学すうがくてき証明しょうめいしたわけでもない。これらについて1674ねんにフックは「(重力じゅうりょくの)いくつかの度合どあいについてわたしはまだ実験じっけんてき検証けんしょうしていない」(つまり、重力じゅうりょくがどういう法則ほうそくしたがうかをまだらない)とべ、最終さいしゅうてきに「さきにやらなければならないことがたくさんあって、これに専念せんねんできない」としている[36]

1679ねん11月、フックはニュートンと頻繁ひんぱん手紙てがみのやりりをしはじめた[38]。それらの手紙てがみ全文ぜんぶん出版しゅっぱんされている[39]表向おもてむきの用件ようけんはフックが王立おうりつ協会きょうかい通信つうしん手紙てがみ)の管理かんりをすることになったとニュートンにつたえるものだった[40]。そのため、会員かいいんからそれぞれのっている研究けんきゅうについて、あるいは会員かいいん研究けんきゅうたいする見解けんかいについてきたいという手紙てがみだった。そして、ニュートンへの刺激しげきになればというかたち様々さまざま問題もんだいについてニュートンの意見いけんたずねている。中心ちゅうしんとなる天体てんたい引力いんりょく接線せっせん方向ほうこうへの運動うんどうから惑星わくせい軌道きどう構成こうせいされること、フックの弾性だんせいについての法則ほうそく当時とうじパリでまれたあらたな惑星わくせい運動うんどうかんする仮説かせつ(フックはその解説かいせつにかなりのぶんつらねている)、国勢調査こくせいちょうさ実行じっこう改良かいりょうする努力どりょくについて、ロンドンとケンブリッジの緯度いどについて、などである。ニュートンは地球ちきゅううごきを検出けんしゅつする実験じっけんとして、空中くうちゅう物体ぶったいかせて落下らっかさせる実験じっけん提案ていあんした。重要じゅうようてんはニュートンが落下らっか物体ぶったい垂線すいせんかられることで地球ちきゅううごきを検出けんしゅつできるとかんがえたてんで、もし地面じめんがなければ物体ぶったい螺旋らせん軌道きどうえがいて中心ちゅうしん落下らっかしていくと考察こうさつしている。フックはその考察こうさつには同意どういしなかった[41]。その手紙てがみのやりとりがつづき、フックが1がつ6にちけの手紙てがみで、引力いんりょくはそれぞれの物体ぶったい中心ちゅうしんあいだ距離きょりの2じょう比例ひれいし、速度そくど引力いんりょく平方根へいほうこん比例ひれいするから、ケプラーが想定そうていしたように速度そくど距離きょり比例ひれいすることになると結論けつろんけている[42]。この速度そくどかんするフックの推論すいろん実際じっさいには間違まちがっている[43]

1686ねんニュートンの『自然しぜん哲学てつがく数学すうがくてきしょ原理げんり(プリンキピア)』が王立おうりつ協会きょうかい提出ていしゅつされたとき、重力じゅうりょく距離きょりの2じょう反比例はんぴれいするという見解けんかい自分じぶんがニュートンにつたえたのだと主張しゅちょうした。エドモンド・ハレーどう時代じだい記録きろくによれば、フックはそれによって曲線きょくせん軌道きどうえがかれるというてんはニュートン独自どくじせつだとみとめていた[39]

最近さいきん研究けんきゅうで、重力じゅうりょく距離きょりの2じょう反比例はんぴれいするという仮説かせつは1660年代ねんだいまつまでにはひろられており、様々さまざま人々ひとびと様々さまざま理由りゆうでそれを発展はってんさせていたことがわかっている[44]。ニュートン自身じしんも1660年代ねんだい惑星わくせい円軌道えんきどうだと仮定かていしたとき、中心ちゅうしん方向ほうこうられるちから中心ちゅうしんとの距離きょりぎゃく2じょう関係かんけいにあることをしめした[45]。1686ねん5がつにフックがぎゃく2じょう法則ほうそく自分じぶんのものだと主張しゅちょうしたとき、ニュートンはその反論はんろんとして他者たしゃのフック以前いぜん業績ぎょうせきしめした[39]。さらにニュートンはフックから最初さいしょぎゃく2じょう法則ほうそくについていたのがもし事実じじつだとしても、それを数学すうがくてき定式ていしきしたのは自分じぶんであり、フックはたん観察かんさつからおおまかに推論すいろんしたにぎないと主張しゅちょうした[39]

一方いっぽうでニュートンは『プリンキピア』のすべてのはんでフックや先人せんじん(レン、ハレーなど)への敬意けいいあらわしている[46]。ニュートンはまたフックとハレーが1679ねんから1680ねんわした書簡しょかん天体てんたい運動うんどうたいする興味きょうみたせてくれたとしているが、それはフックがニュートンになにあたらしい知識ちしきさづけたという意味いみではないとしている[39]

ニュートンは数学すうがく光学こうがく発展はってんおおいに貢献こうけんした先駆せんくしゃだったが、一方いっぽうでフックは創造そうぞうてき実験じっけんであり、あまりにも広範囲こうはんいをつけたため、重力じゅうりょくなどの研究けんきゅう専念せんねんできなかったとしてもおどろくべきことではない。両者りょうしゃ死後しごすうじゅうねんの1759ねんアレクシス・クレローはフックの重力じゅうりょくかんする著作ちょさくんで「一見いっけんしてられた真理しんり証明しょうめいされた真理しんりにはおおきなへだたりがあることをしめしている」とし[47]、「フックのアイデアがニュートンの偉大いだいさをげんじることはない」とした[48]

肖像しょうぞう

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一時期いちじきフックの肖像しょうぞうとされたいまではヤン・ファン・ヘルモント肖像しょうぞうであることがほぼ確実かくじつとされている。
近年きんねん、ロバート・フックの肖像しょうぞう可能かのうせい指摘してきされているうつし人物じんぶつしょう肖像しょうぞうメアリー・ビールさく)。ただしアイザック・バロー肖像しょうぞうとするせつもある。

ロバート・フックのものとされる肖像しょうぞう現存げんそんしないことは、フックとアイザック・ニュートンはげしい論争ろんそう結果けっかとされることがある。フックが存命ぞんめいちゅう王立おうりつ協会きょうかいはグレシャム大学だいがく会合かいごうひらいていたが、その死後しご数カ月すうかげつ以内いないにニュートンが会長かいちょうとなり、あらたな王立おうりつ協会きょうかい会合かいごう場所ばしょ建設けんせつする計画けいかくがった。1710ねんあらたな建物たてもの移転いてんするさい、フックの肖像しょうぞう行方ゆくえ不明ふめいになり、いまだに発見はっけんされていない。

タイムは1939ねん7がつ3にちごうでフックとおもわれる肖像しょうぞうつかったと発表はっぴょうした。しかしアシュレイ・モンタギューがその来歴らいれき調査ちょうさしたが、フックとの明確めいかく関係かんけいつからなかった。さらにモンタギューはフック存命ぞんめいちゅうのフックの容貌ようぼうかんする記述きじゅつ発見はっけんしたが、その内容ないようはタイム発表はっぴょうした肖像しょうぞうとはまったていなかった[49]

2003ねん歴史れきし リサ・ジャーディンあらたに発見はっけんされた肖像しょうぞうがフックのものだと主張しゅちょうしたが[50]シンシナティ大学だいがくの ウィリアム・ジェンセンがこれを論駁ろんばく[51]した[52]。ジャーディンがフックの肖像しょうぞうとしたはフランドルの学者がくしゃヤン・ファン・ヘルモントえがいたものとされている。

にフックをえがいたとおもわれるものとしてつぎのような作品さくひんがある。

  • フック本人ほんにん使つかっていた印章いんしょうには特徴とくちょうてき人間にんげん頭部とうぶえがかれており、フックの肖像しょうぞうだという主張しゅちょうもある。
  • 1728ねんイーフレイム・チェンバーズの『サイクロペディア』の口絵くちえ版画はんがにはロバート・フックの胸像きょうぞうえがかれている[53]。ただし王立おうりつ協会きょうかい肖像しょうぞうも1710ねん紛失ふんしつしていたはずで、なにもとえがいたのかあきらかでない。
  • 埋葬まいそうされたロンドンの St Helen's Bishopsgate にはフックを記念きねんしたステンドグラスがあった[54]。ただし、非常ひじょう様式ようしきてきなものでせてえがいたとはえない。このまどは1993ねんIRA暫定ざんていによるビショップスゲート爆破ばくは事件じけん英語えいごばん破壊はかいされた。

2003ねん歴史れきし画家がかリタ・グリアがフックを記念きねんするためのプロジェクトを自費じひ開始かいしした。このプロジェクトはジョン・オーブリー[55]とリチャード・ウォラー[14] の2つの文献ぶんけんにあるフックの容姿ようしかんする記述きじゅつ沿ってあらたに肖像しょうぞうえがくことを目指めざした。グリアのえがいたフックの肖像しょうぞうはイギリスやアメリカでフックをあつかったテレビ番組ばんぐみ使つかわれ、ほん雑誌ざっし広告こうこくにも使つかわれた[56][57][58][59][60][61][62]

記念きねん

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フックは子孫しそんがおらず、晩年ばんねん論争ろんそうこしがちな人物じんぶつだったため、ながらく記念きねん記念きねん式典しきてんなどがなかったが、没後ぼつご300周年しゅうねんとなった2003ねん以降いこう各地かくち記念きねん銘板めいばん設置せっちされるなどしている(くわしくは New memorials to Robert Hooke 2005 - 2009)。

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ぜんまい時計とけいは15世紀せいきすで存在そんざいしていた。
  2. ^ John Cutler とフックはそのすう年間ねんかん支払しはらわれるべき金額きんがくあらそいをこしている。Cutler がくなるとフックは Cutler 周辺しゅうへん人々ひとびと支援しえんもとめた。[1]

出典しゅってん

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  28. ^ 顕微鏡けんびきょう図譜ずふ』の Observation 16 を参照さんしょう
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  37. ^ See page 239 in Curtis Wilson (1989), "The Newtonian achievement in astronomy", ch.13 (pages 233–274) in "Planetary astronomy from the Renaissance to the rise of astrophysics: 2A: Tycho Brahe to Newton", CUP 1989.
  38. ^ Iliffe, Robert (2007) Newton. A very short introduction, Oxford University Press
  39. ^ a b c d e (Turnbull 1960, pp. 297–314) に1679ねん11月から1680ねん1がつまでの両者りょうしゃ書簡しょかんが、(Turnbull 1960, pp. 431–448) に1686ねんのフックの優先ゆうせんけん主張しゅちょう手紙てがみがある。
  40. ^ Turnbull 1960, p. 297
  41. ^ フックのかんがえにしたがって、このニュートンの考察こうさつ間違まちがいだとするものもいる。しかしつぎのような事実じじつがある。
    (a) フックはニュートンが空中くうちゅう抵抗ていこう物質ぶっしつちゅう)でおも物体ぶったい落下らっかさせるとしているてん無視むししており(Turnball 1960, p. 301)、一方いっぽうでフックが1679ねん12月11にち王立おうりつ協会きょうかい報告ほうこくした内容ないようは「抵抗ていこうけないことを仮定かてい」している(D Gjertsen, 'Newton Handbook' (1986), at page 259)。
    (b) フックの1679ねん12月9にちけのニュートンへの返事へんじでは、空気くうき抵抗ていこうける場合ばあいけない場合ばあい考慮こうりょしている。空気くうき抵抗ていこうがない場合ばあい中心ちゅうしん落下らっかすることなく楕円だえん軌道きどうえがくとし、空気くうき抵抗ていこうける場合ばあい螺旋らせん軌道きどうえがきながら中心ちゅうしん落下らっかするとしており、結局けっきょくニュートンの考察こうさつ(Turnball 1960, pp. 304–306)とよくている。
    両者りょうしゃえがいたはオンラインで参照さんしょう可能かのうで、Curtis Wilson, chapter 13 in "Planetary Astronomy from the Renaissance to the Rise of Astrophysics, Part A, Tycho Brahe to Newton", (Cambridge UP 1989) の241ページにニュートンの1679ねんがあり、242ページにフックの1679ねんがある。その手紙てがみでニュートンは、螺旋らせん軌道きどうは「空気くうきのような抵抗ていこう物質ぶっしつがある場合ばあい」にただしいと主張しゅちょうしている(Turnball 1960, p. 433)。
  42. ^ Turnbull 1960, p. 309
  43. ^ See Curtis Wilson (1989) at page 244.
  44. ^ See "Meanest foundations and nobler superstructures: Hooke, Newton and the 'Compounding of the Celestiall Motions of the Planetts'", Ofer Gal, 2003 at page 9.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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