ロバート・フック (Robert Hooke 、1635年 ねん 7月 がつ 28日 にち 〈7月 がつ 18日 にち 〉- 1703年 ねん 3月3日 にち )は、イギリス の自然 しぜん 哲学 てつがく 者 もの 、建築 けんちく 家 か 、博物学 はくぶつがく 者 もの 、生物 せいぶつ 学者 がくしゃ 。王立 おうりつ 協会 きょうかい フェロー[ 1] 。実験 じっけん と理論 りろん の両面 りょうめん を通 つう じて科学 かがく 革命 かくめい で重要 じゅうよう な役割 やくわり を演 えん じた。
成人 せいじん 後 ご の人生 じんせい は3つの期間 きかん に分 わ けられる。当初 とうしょ は貧 まず しいが優秀 ゆうしゅう な科学 かがく 研究 けんきゅう 者 しゃ だった。その後 ご 経済 けいざい 的 てき に成功 せいこう し、1666年 ねん のロンドン大火 たいか では復興 ふっこう のために大 おお いに貢献 こうけん した。しかし晩年 ばんねん は気難 きむずか しくなり、様々 さまざま な論争 ろんそう に首 くび をつっこんだ。歴史 れきし 的 てき にあまり名 めい が残 のこ らなかったのは、この晩年 ばんねん の所業 しょぎょう が災 わざわ いしている。
弾性 だんせい に関 かん する法則 ほうそく (フックの法則 ほうそく )、『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』、生体 せいたい の最小 さいしょう 単位 たんい を "cell"(細胞 さいぼう )と名付 なづ けたことで知 し られている。その業績 ぎょうせき からすると、フックについて書 か かれた文献 ぶんけん は驚 おどろ くほど少 すく ない。一時期 いちじき は王立 おうりつ 協会 きょうかい の実験 じっけん 監督 かんとく を務 つと め、同 どう 協会 きょうかい の協議 きょうぎ 会 かい の一員 いちいん でもあった。ロンドン大火 たいか 後 ご の焼 や け跡 あと の測量 そくりょう を指揮 しき し、焼 や け跡 あと のほぼ半分 はんぶん の測量 そくりょう を行 おこな った。建築 けんちく 家 か としても有名 ゆうめい だったが、現存 げんそん している建築 けんちく 物 ぶつ は少 すく なく、一部 いちぶ は他人 たにん の設計 せっけい だと思 おも われていた。大火 たいか 後 ご のロンドンの都市 とし 計画 けいかく に関与 かんよ し、今 いま もその影響 えいきょう がロンドンの街並 まちな みに残 のこ っている。歴史 れきし 家 か アラン・チャップマンは「イングランドのレオナルド 」と評 ひょう した[ 2] 。
プロテクトレート 時代 じだい にオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく ウォドム・カレッジで学 まな び、ジョン・ウィルキンズ を中心 ちゅうしん に結成 けっせい された王 おう 党派 とうは の一団 いちだん に参加 さんか した。医学 いがく 者 しゃ トーマス・ウィリス や化学 かがく 者 しゃ ロバート・ボイル の助手 じょしゅ を務 つと め、ボイルが気体 きたい の法則 ほうそく を見出 みいだ した実験 じっけん に使 つか った真空 しんくう ポンプの製作 せいさく を手伝 てつだ った。最初 さいしょ 期 き のグレゴリー式 しき 望遠鏡 ぼうえんきょう を作 つく って火星 かせい や木星 もくせい が自転 じてん していることを観察 かんさつ し、化石 かせき を研究 けんきゅう して進化 しんか 論 ろん を唱 とな えた初期 しょき の1人 ひとり となった[ 3] [ 4] 。光 ひかり の屈折 くっせつ 現象 げんしょう を研究 けんきゅう して波動 はどう 説 せつ に到達 とうたつ 。物体 ぶったい を熱 ねっ すると膨張 ぼうちょう すること、空気 くうき が比較的 ひかくてき 疎 まば らな微粒子 びりゅうし でできていることなどを示唆 しさ した。測量 そくりょう や地図 ちず 作成 さくせい の分野 ぶんや でも先駆 せんく 的 てき 業績 ぎょうせき を残 のこ しており、史上 しじょう 初 はつ の近代 きんだい 的 てき 平面 へいめん 図 ず を作成 さくせい した。ロンドン復興 ふっこう 時 じ には格子 こうし 状 じょう の街 まち 区 く にする再建 さいけん 案 あん を提案 ていあん したが、既存 きそん の道路 どうろ をそのまま再建 さいけん する案 あん が採用 さいよう された。重力 じゅうりょく が(距離 きょり について)逆 ぎゃく 2乗 じょう の法則 ほうそく に従 したが うこと、惑星 わくせい がそういった法則 ほうそく に従 したが って運行 うんこう していることにほぼ気 き づいており、ニュートンがその考 かんが え方 かた を発展 はってん させた[ 5] 。科学 かがく 的 てき 研究 けんきゅう のほとんどは1662年 ねん に就任 しゅうにん した王立 おうりつ 協会 きょうかい の実験 じっけん 監督 かんとく として行 い ったものとロバート・ボイルの助手 じょしゅ 時代 じだい に行 い ったものであるという。
フックの顕微鏡 けんびきょう (『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』にある版画 はんが )
フックの前 ぜん 半生 はんせい については、1696年 ねん に書 か き始 はじ めた未完 みかん の自伝 じでん によるところが大 おお きい。Richard Waller が1705年 ねん に出版 しゅっぱん した The Posthumous Works of Robert Hooke, M.D. S.R.S. でその自伝 じでん の原稿 げんこう を参照 さんしょう している。Waller の著作 ちょさく と John Ward の Lives of the Gresham Professors 、ジョン・オーブリー の Brief Lives がフックのほぼ同 どう 時代 じだい の伝記 でんき 的 てき 記録 きろく の全 すべ てである。
1635年 ねん ワイト島 とう フレッシュウォーターで生 う まれる。兄 あに が2人 ふたり 、姉 あね が2人 にん おり、7年 ねん 後 ご にさらにもう1人 ひとり 生 う まれている[ 6] 。父 ちち は英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい の聖職 せいしょく 者 しゃ で[ 7] 、2人 ふたり の兄 あに も聖職 せいしょく 者 しゃ になった。当然 とうぜん ロバートも聖職 せいしょく 者 しゃ になることを期待 きたい されていた。
父 ちち は地元 じもと の学校 がっこう の責任 せきにん 者 しゃ でもあり、ロバートの身体 しんたい が弱 よわ いこともあって自宅 じたく で勉強 べんきょう を教 おし えた。父 ちち は王 おう 党派 とうは でチャールズ1世 せい 支持 しじ 者 しゃ であり、ワイト島 とう に逃 に げてきたことがほぼ確実 かくじつ である。ロバートも当然 とうぜん ながら忠実 ちゅうじつ な君主 くんしゅ 制 せい 主義 しゅぎ 者 しゃ として育 そだ てられた。
幼 おさな いころから観察 かんさつ することが好 す きで、機械 きかい や製図 せいず に惹 ひ かれていた。真鍮 しんちゅう 時計 とけい を分解 ぶんかい して木 き でその複製 ふくせい を作 つく ると、それが十分 じゅうぶん に動作 どうさ したという。製図 せいず の技法 ぎほう を学 まな び、石炭 せきたん 、石灰石 せっかいせき 、鉄鉱 てっこう 石 せき などを原料 げんりょう として自分 じぶん の手 て で素材 そざい を作 つく った。
1648年 ねん に父 ちち が亡 な くなり、徒弟 とてい 修業 しゅうぎょう が受 う けられるようにと父 ちち が残 のこ した40ポンドの遺産 いさん を手 て にした[ 6] [ 8] 。父 ちち はロバートが機械 きかい 好 す きだということで、時計 とけい 職人 しょくにん か装飾 そうしょく 写本 しゃほん の絵師 えし になるだろうと考 かんが えていた。フック自身 じしん は画家 がか にも興味 きょうみ があった。徒弟 とてい 修業 しゅうぎょう するつもりでロンドンに出 で たが、Samuel Cowper やピーター・レリー の下 した で短期間 たんきかん 学 まな んで優秀 ゆうしゅう さを見出 みいだ され、すぐに Richard Busby のウェストミンスター・スクール に入学 にゅうがく できた。間 あいだ もなくラテン語 らてんご やギリシャ語 ご を習得 しゅうとく し[ 8] 、ヘブライ語 ご も学 まな び、ユークリッドの『原論 げんろん 』 も習得 しゅうとく した[ 8] 。また、そこで生涯 しょうがい の研究 けんきゅう 対象 たいしょう となる力学 りきがく に出会 であ った。
学校 がっこう の通常 つうじょう の教育 きょういく と平行 へいこう して Busby が個人 こじん 教授 きょうじゅ した生徒 せいと の1人 ひとり だったと見 み られている。当時 とうじ の文献 ぶんけん には学校 がっこう に「ほとんど出 で てこなかった」とあり、これは Busby が個人 こじん 教授 きょうじゅ した生徒 せいと に共通 きょうつう している。Busby は熱心 ねっしん な王 おう 党派 とうは で、チャールズ1世 せい 、2世 せい 時代 じだい のイングランドで開花 かいか し始 はじ めた科学 かがく の精神 せいしん をあらゆる手段 しゅだん で保持 ほじ しようとした。これはプロテクトレート(イングランド共和 きょうわ 国 こく )時代 じだい の聖書 せいしょ に忠実 ちゅうじつ な教育 きょういく とは相反 あいはん するものだった。Busby や選 えら ばれた生徒 せいと 達 たち にとって英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい は科学 かがく 的 てき 探究 たんきゅう の精神 せいしん が神 かみ の御 ご 業 ぎょう に沿 そ うものとして支持 しじ する枠組 わくぐ みだった。例 たと えば Busby は Bishop of Bath and Wells になった George Hooper について「ウェストミンスター・スクールで教育 きょういく を受 う けた中 なか でも最高 さいこう の学者 がくしゃ 、最良 さいりょう の紳士 しんし であり、完璧 かんぺき なビショップだ」と述 の べている。
ロバート・ボイル
1653年 ねん 、オルガン も習 なら っていたフックはオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく クライスト・チャーチ の聖歌 せいか 隊 たい に居場所 いばしょ を確保 かくほ した[ 9] 。そこで医学 いがく 者 しゃ トーマス・ウィリス に出会 であ い、化学 かがく 助手 じょしゅ として雇 やと われ、大 おお きな賞賛 しょうさん を受 う けることになる。また自然 しぜん 哲学 てつがく 者 しゃ ロバート・ボイル と出会 であ い、1655年 ねん ごろから1662年 ねん まで助手 じょしゅ として雇 やと われ、ボイルの空気 くうき ポンプ "machina Boyleana" の製作 せいさく 、操作 そうさ 、実演 じつえん を担当 たんとう した[ 10] 。学士 がくし 号 ごう を取得 しゅとく するのは1662年 ねん か1663年 ねん ごろのことである。1659年 ねん 、ウィルキンズに空気 くうき より重 おも い乗 の り物 もの で飛行 ひこう するためのいくつかの要素 ようそ を説明 せつめい しているが、人間 にんげん の筋力 きんりょく では不充分 ふじゅうぶん だと結論 けつろん 付 つ けている。
フックは自身 じしん のオックスフォード時代 じだい を科学 かがく への情熱 じょうねつ を形成 けいせい した時代 じだい としており、このころ知 し り合 あ った友人 ゆうじん 、とくにクリストファー・レン は生涯 しょうがい に渡 わた っての親友 しんゆう となった。当時 とうじ のウォドム・カレッジはジョン・ウィルキンズ の指導 しどう 下 か にあり、ウィルキンズはフックやその周辺 しゅうへん に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。ウィルキンズも王 おう 党派 とうは であり、その時代 じだい の不穏 ふおん さと不確 ふたし かさに気 き づいていた。王 おう 党派 とうは の科学 かがく 者 しゃ にとって、プロテクトレートが科学 かがく を脅 おど かそうとしていると思 おも える切迫 せっぱく 感 かん があった。ウィルキンズが開催 かいさい していた「哲学 てつがく 的 てき 会合 かいごう 」は明 あき らかに極 きわ めて重要 じゅうよう だが、ボイルが1658年 ねん に実施 じっし して1660年 ねん に出版 しゅっぱん した実験 じっけん 以外 いがい にほとんど記録 きろく が残 のこ っていない。このグループが王立 おうりつ 協会 きょうかい 創設 そうせつ の中核 ちゅうかく となった。ボイルの空気 くうき ポンプの元 もと になったのは Valentine Greatorex の使 つか っていたポンプで、フックは彼 かれ について「大事 だいじ を成 な し遂 と げるには大雑把 おおざっぱ すぎる」と評 ひょう している[ 11] 。
フックは特 とく に目 め が鋭 するど く、数学 すうがく 者 しゃ としても優秀 ゆうしゅう だった。どちらもボイルには欠 か けていた資質 ししつ である。Gunther はボイルの実験 じっけん で計測 けいそく 値 ち を読 よ み取 と ったのはフックで、ボイルの法則 ほうそく を数学 すうがく 的 てき に定式 ていしき 化 か したのもフックだったのではないかと示唆 しさ している。いずれにしてもボイルにとってフックは得 え がたい助手 じょしゅ であり、両者 りょうしゃ が互 たが いに尊敬 そんけい しあっていたことは明白 めいはく である。
ウィルキンズが亡 な くなったとき、その蔵書 ぞうしょ から形見分 かたみわ けしてもらえることになったフックは、トーマス・ウィリスがウィルキンズに贈呈 ぞうてい した著書 ちょしょ De anima brutorum を譲 ゆず り受 う けた。その本 ほん は現在 げんざい Wellcome Library にある。
クリスティアーン・ホイヘンス
フックの自伝 じでん 的 てき ノートによれば、1655年 ねん ごろから天文学 てんもんがく に興味 きょうみ を持 も ち始 はじ めたという。1657年 ねん ごろからジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリ の振 ふ り子 こ 機構 きこう を改良 かいりょう し始 はじ め、重力 じゅうりょく と計時 けいじ 機構 きこう について研究 けんきゅう をすすめた。当時 とうじ の航海 こうかい にとって大 だい 問題 もんだい だった経度 けいど を特定 とくてい する方法 ほうほう を思 おも いつき、ボイルらの助 たす けを得 え て特許 とっきょ を取得 しゅとく しようとしたと記 しる している。その過程 かてい でコイルばね(ぜんまいばね )を使 つか った懐中時計 かいちゅうどけい を発明 はつめい している[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。しかし特許 とっきょ は取得 しゅとく せず、発明 はつめい をそのままにしておいたことで大 おお きな富 とみ を得 え る機会 きかい を逃 のが してしまった。そのことでフックは発明 はつめい について用心深 ようじんぶか くなった。ぜんまい時計 とけい についてはホイヘンス が1675年 ねん 2月 がつ の Journal de Scavans に発表 はっぴょう しているが、フックがその15年 ねん 前 まえ に独自 どくじ に発明 はつめい していたことはほぼ確実 かくじつ と見 み られている。1717年 ねん 、Henry Sully はパリでアンクル脱 だつ 進 すすむ 機 き について「ロンドンのグレシャム大学 だいがく の幾何 きか 学 がく 教授 きょうじゅ だったフック博士 はかせ の発明 はつめい 」だと記 しる している[ 12] 。ウィリアム・デラム もそれをフックの発明 はつめい としている[ 13] 。
1660年 ねん に王立 おうりつ 協会 きょうかい が創設 そうせつ され、1661年 ねん 4月 がつ には同 どう 協会 きょうかい で細 ほそ いガラス管 かん に水 みず が吸 す い上 あ げられる現象 げんしょう について議論 ぎろん が起 お こった。このときフックは管 かん の太 ふと さと水位 すいい の上昇 じょうしょう に相関 そうかん 関係 かんけい があることを報告 ほうこく している(いわゆる毛細管 もうさいかん 現象 げんしょう )。その報告 ほうこく は Micrography Observ. 6号 ごう に掲載 けいさい され、その中 なか で「重力 じゅうりょく の流動 りゅうどう 性 せい 」についても論 ろん じている。1661年 ねん 11月5日 にち 、Robert Moray が協会 きょうかい のために実験 じっけん を監督 かんとく する者 もの が必要 ひつよう だと提案 ていあん 。満場一致 まんじょういっち でフックがそれに選 えら ばれた。任命 にんめい は11月12日 にち に行 おこな われ、そこにはボイルが彼 かれ を助手 じょしゅ から解放 かいほう したことへの感謝 かんしゃ も記録 きろく されている。
1664年 ねん 、John Cutler は王立 おうりつ 協会 きょうかい に毎年 まいとし 50ポンドを提供 ていきょう して Mechanick Lecture を創設 そうせつ 。フックがその任 にん に選 えら ばれた。1664年 ねん 6月 がつ 27日 にち 、フックは協会 きょうかい 事務 じむ 局 きょく に常駐 じょうちゅう するようになる。1665年 ねん 1月 がつ 11日 にち には事務 じむ 局長 きょくちょう となり、Cutler の年金 ねんきん のほかに30ポンドの給料 きゅうりょう が支払 しはら われるようになった[ 注釈 ちゅうしゃく 2] 。
王立 おうりつ 協会 きょうかい での役割 やくわり は、自分 じぶん で考案 こうあん した実験 じっけん や会員 かいいん が示唆 しさ した実験 じっけん を行 おこな うことだった。初期 しょき の実験 じっけん としては、熱 ねっ した空気 くうき を封入 ふうにゅう したガラス球 だま が冷却 れいきゃく されると割 わ れる実験 じっけん 、生命 せいめい の持 も つ熱 ねつ (Pabulum vitae )と炎 ほのお (flammae )が同 おな じであることを示 しめ す実験 じっけん などがある。また、犬 いぬ を開 ひらけ 胸 むね した状態 じょうたい で生 い かしておけることを実験 じっけん で示 しめ し、呼吸 こきゅう が肺 はい への空気 くうき の出 だ し入 い れであること、静脈 じょうみゃく と動脈 どうみゃく の血液 けつえき が異 こと なることを示 しめ した。重力 じゅうりょく についての実験 じっけん も行 おこな っており、物体 ぶったい の落下 らっか 実験 じっけん 、物体 ぶったい の重量 じゅうりょう 測定 そくてい 実験 じっけん 、様々 さまざま な高度 こうど での気圧 きあつ 測定 そくてい 実験 じっけん 、最大 さいだい 61mの高 たか さの振 ふ り子 こ 実験 じっけん などがある。
太陽 たいよう や他 た の恒星 こうせい が1秒間 びょうかん に移動 いどう する角度 かくど を測定 そくてい する機器 きき を考案 こうあん し、火薬 かやく に威力 いりょく を測定 そくてい する機器 きき を考案 こうあん した。特 とく に時計 とけい 用 よう の精密 せいみつ な歯車 はぐるま を作 つく る機械 きかい を考案 こうあん し、フックの亡 な くなるころにはそれが普通 ふつう に使 つか われていた[ 14] 。
1663年 ねん から1664年 ねん にかけて、顕微鏡 けんびきょう を使 つか った様々 さまざま な観察 かんさつ を行 おこな い、1665年 ねん に『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』を出版 しゅっぱん した。アントニ・ファン・レーウェンフック の業績 ぎょうせき を高 たか く評価 ひょうか し、彼 かれ の観察 かんさつ 記録 きろく をラテン語 らてんご 訳 やく して出版 しゅっぱん し、また、王立 おうりつ 協会 きょうかい 会員 かいいん として招 まね いた。
1664年 ねん 3月 がつ 20日 はつか 、グレシャム大学 だいがく の幾何 きか 学 がく 教授 きょうじゅ 職 しょく を Arthur Dacres から引 ひ き継 つ いだ。1691年 ねん 12月には医学 いがく 博士 はかせ 号 ごう を取得 しゅとく している[ 15] 。
特 とく に晩年 ばんねん のフックは短気 たんき で気位 きぐらい が高 たか く、知的 ちてき 論争 ろんそう で相手 あいて を不快 ふかい にさせる傾向 けいこう があった。それでもウォドム・カレッジでの王 おう 党派 とうは の仲間 なかま たち、特 とく にクリストファー・レン とは常 つね に仲 なか がよかった。彼 かれ の名声 めいせい は死後 しご に低下 ていか しているが、その原因 げんいん は一般 いっぱん にアイザック・ニュートン との間 あいだ の確執 かくしつ にあったとされている。ヘンリー・オルデンバーグ との時計 とけい の機構 きこう の発明 はつめい 者 しゃ がどちらかという論争 ろんそう もよく知 し られている。ニュートンはフックの死後 しご に王立 おうりつ 協会 きょうかい 会長 かいちょう となり、フックの業績 ぎょうせき を覆 おお い隠 かく そうと様々 さまざま なことを行 おこな った。唯一 ゆいいつ の肖像 しょうぞう 画 が を破棄 はき したのもその一 いち 例 れい である。レンの息子 むすこ がレンの生涯 しょうがい について本 ほん を書 か いているが、レンの業績 ぎょうせき を誇張 こちょう する傾向 けいこう が見 み られ、フックは軽視 けいし されている。フックが再 さい 評価 ひょうか されるようになったのは20世紀 せいき に入 はい ってからで、Robert Gunther や Margaret Espinasse の研究 けんきゅう によるところが大 おお きい。長 なが く無名 むめい だったが、今 いま では当時 とうじ の最 もっと も重要 じゅうよう な科学 かがく 者 しゃ の1人 ひとり と認 みと められている[ 16] 。
フックは暗号 あんごう をつかってアイデアを隠 かく すことがあった。王立 おうりつ 協会 きょうかい の実験 じっけん 監督 かんとく として、協会 きょうかい に送 おく られてくる様々 さまざま なアイデアを試 ため し、後 のち にそのアイデアは自分 じぶん のものだと主張 しゅちょう したという証拠 しょうこ がある。フックは極 きわ めて多忙 たぼう だったため、自分 じぶん のアイデアを特許 とっきょ 化 か して事業 じぎょう を起 お こすといった暇 ひま がなかった。科学 かがく 全体 ぜんたい が大 おお きく発展 はってん した時代 じだい であり、様々 さまざま な場所 ばしょ で様々 さまざま なアイデアが生 う まれていた。
それでもフックが創意 そうい に富 と み、大変 たいへん な実験 じっけん 施設 しせつ を作 つく り上 あ げ、様々 さまざま な業績 ぎょうせき を残 のこ したことは事実 じじつ である。重力 じゅうりょく の逆 ぎゃく 2乗 じょう 法則 ほうそく を発見 はっけん したというフックの主張 しゅちょう については後述 こうじゅつ する。弾性 だんせい 、光学 こうがく 、気圧 きあつ 測定 そくてい などの分野 ぶんや で多数 たすう の発明 はつめい や工夫 くふう を行 おこな ったことは確 たし かである。王立 おうりつ 協会 きょうかい でのフックの論文 ろんぶん はニュートンの時代 じだい に行方 ゆくえ 不明 ふめい になっていたが最近 さいきん 発見 はっけん された。これが新 あら たな再 さい 評価 ひょうか に繋 つな がると期待 きたい されている。
『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』にあるシラミ の図 ず
フックの性格 せいかく の悪 わる い面 めん についての記述 きじゅつ は多 おお い。最初 さいしょ の伝記 でんき を書 か いた Richard Waller もその人柄 ひとがら について「卑劣 ひれつ で陰鬱 いんうつ で人 ひと を信用 しんよう せず、嫉妬 しっと 深 ふか い」と評 ひょう している[ 14] 。この Waller の評価 ひょうか がその後 ご 2世紀 せいき に渡 わた って影響 えいきょう を与 あた え、不 ふ 機嫌 きげん で自己 じこ 中心 ちゅうしん 的 てき で非 ひ 社交 しゃこう 的 てき だというフック像 ぞう が定着 ていちゃく することになった。例 たと えば Arthur Berry はフックについて「当時 とうじ の科学 かがく 的 てき 発見 はっけん のほとんどを自分 じぶん の手柄 てがら だと主張 しゅちょう した」としている[ 17] 。Sullivan はフックがニュートンとのやり取 と りにおいて「明 あき らかに無法 むほう 」であり、「虚栄 きょえい 心 しん 」の持 も ち主 ぬし だったと記 しる している[ 18] 。Manuel は「怒 いか りっぽく、嫉妬 しっと 深 ふか く、執念深 しゅうねんぶか い」と記 しる している[ 19] 。More は「シニカルで毒舌 どくぜつ 」だったとしている[ 20] 。Andrade はやや同情 どうじょう 的 てき だがそれでも「気 き 難 むずか しく、疑 うたが い深 ぶか く短気 たんき 」だとしている[ 21] 。
1935年 ねん 、フックの日記 にっき が出版 しゅっぱん され[ 22] 、フックの別 べつ の面 めん が明 あき らかになり、特 とく に Espinasse が詳細 しょうさい に研究 けんきゅう している。彼女 かのじょ は「不 ふ 機嫌 きげん で嫉妬 しっと 深 ふか い隠遁 いんとん 者 しゃ というフック像 ぞう は完全 かんぜん に間違 まちが いだ」としている[ 23] 。フックは時計 とけい 職人 しょくにん の トーマス・トンピオン や機器 きき 製造 せいぞう 者 しゃ の Christopher Cocks (Cox) といった名 な の知 し れた職人 しょくにん とよくやり取 と りしている。また、クリストファー・レン やジョン・オーブリー とは終生 しゅうせい 親友 しんゆう だった。また、日記 にっき にはロバート・ボイルと頻繁 ひんぱん に会 あ い、お茶 ちゃ や夕食 ゆうしょく を共 とも にしていることが記 しる されていた。実験 じっけん 助手 じょしゅ のハリー・ハントともよくお茶 ちゃ を飲 の んでいる。ハントの姪 めい やいとこを自宅 じたく に招 まね いて数学 すうがく を教 おし えてもいる。
フックは、ワイト島 とう 、オックスフォード、ロンドンで人生 じんせい の大半 たいはん を過 す ごした。結婚 けっこん はしなかったが、恋愛 れんあい がまったくなかったわけではないことが日記 にっき から判明 はんめい している。1703年 ねん 3月 がつ 3日 にち 、ロンドンで死去 しきょ 。死後 しご 、グレシャム大学 だいがく の自室 じしつ にかなりの大金 たいきん を溜 た め込 こ んでいることがわかった。St Helen's Bishopsgate に埋葬 まいそう されたが、墓 はか の正確 せいかく な位置 いち はわかっていない。
フックが描 えが いたノミ
1660年 ねん 、フックは弾性 だんせい についてのフックの法則 ほうそく を発見 はっけん 。弾性 だんせい のあるばねの伸 の びに対 たい して張力 ちょうりょく が比例 ひれい することを示 しめ した法則 ほうそく である。当初 とうしょ この発見 はっけん を "ceiiinosssttuv" というアナグラムで記述 きじゅつ し、1678年 ねん にその答 こた え "Ut tensio, sic vis"(英語 えいご では "As the extension, so the force.")を発表 はっぴょう した。フックの弾性 だんせい についての研究 けんきゅう の成果 せいか としてぜんまいばね の開発 かいはつ があり、それを使 つか ってそれなりの精度 せいど の携帯 けいたい 型 がた の時計 とけい が作 つく られるようになった。この発明 はつめい についてクリスティアーン・ホイヘンス とどちらが先 さき かという論争 ろんそう が起 お き、両者 りょうしゃ の死後 しご も1世紀 せいき 以上 いじょう に渡 わた って論争 ろんそう が続 つづ くことになった。しかし、後 のち に発見 はっけん されたフックの1670年 ねん 6月 がつ 23日 にち 付 づ けの文書 ぶんしょ で、王立 おうりつ 協会 きょうかい でぜんまいばねのデモンストレーションを行 おこな ったことが記 しる されており、フックの主張 しゅちょう を裏付 うらづ けている[ 24] 。
20世紀 せいき 以降 いこう の視点 してん からすると、弾性 だんせい の法則 ほうそく を最初 さいしょ にアナグラム で発表 はっぴょう したという事実 じじつ が興味深 きょうみぶか い。これは当時 とうじ の科学 かがく 界 かい では珍 めずら しいことではなく、ホイヘンスやガリレオ・ガリレイ らもアナグラムを使 つか ったことがある。アナグラムは詳細 しょうさい を明 あ かさずに先 さき に発見 はっけん したことを示 しめ す手段 しゅだん だった。
1662年 ねん 、新 あら たに創設 そうせつ された王立 おうりつ 協会 きょうかい の実験 じっけん 監督 かんとく になると、毎週 まいしゅう の会合 かいごう で行 おこな う実験 じっけん をとりしきるようになり、この職 しょく を40年間 ねんかん 務 つと めることになった。この職 しょく にあったことでフックはイギリスだけでなく世界 せかい の科学 かがく 界 かい の中心 ちゅうしん に位置 いち することになり、同時 どうじ に他 た の科学 かがく 者 しゃ らとの激 はげ しい論争 ろんそう を引 ひ き起 お こす原因 げんいん にもなった。上述 じょうじゅつ のホイヘンスだけでなく、アイザック・ニュートン やヘンリー・オルデンバーグ との論争 ろんそう がよく知 し られている。1664年 ねん にはグレシャム大学 だいがく の幾何 きか 学 がく 教授 きょうじゅ に任命 にんめい され、力学 りきがく の Cutlerian Lecturer にも任命 にんめい された[ 25] 。
1680年 ねん 7月 がつ 8日 にち 、ガラス板 ばん の固有 こゆう 振動 しんどう による振動 しんどう 節 ぶし パターンを観察 かんさつ 。ガラス板 ばん に小麦粉 こむぎこ をまぶし、その縁 えん に沿 そ って弓 ゆみ をすべらせて振動 しんどう させ、振動 しんどう パターンを観察 かんさつ した[ 26] [ 27] 。このパターンは1787年 ねん にクラドニの著書 ちょしょ に初 はじ めて記載 きさい され、クラドニ図形 ずけい と呼 よ ばれている。
フックが描 えが いたコルク の細胞 さいぼう 構造 こうぞう
フックの顕微鏡 けんびきょう
1665年 ねん 、顕微鏡 けんびきょう と望遠鏡 ぼうえんきょう を使 つか った観察 かんさつ 記録 きろく (スケッチ )を『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』(Micrographia) として出版 しゅっぱん 。これには生物 せいぶつ 学 がく の史上 しじょう 初 はつ の観察 かんさつ が含 ふく まれていた。弾性 だんせい に関連 かんれん する実験 じっけん において弾性 だんせい 力 りょく を持 も つコルク を観察 かんさつ した際 さい に小 ちい さな部屋 へや のような構造 こうぞう を発見 はっけん した。修道院 しゅうどういん の小 しょう 部屋 へや が並 なら んでいる様子 ようす に似 に ているため、これを小 しょう 部屋 へや という意味 いみ のcell(細胞 さいぼう ) と名 な づけた。しかしコルクは、植物 しょくぶつ の死骸 しがい であったために彼 かれ が実際 じっさい に見 み たものは細胞 さいぼう そのものではなく死 し 細胞 さいぼう の細胞 さいぼう 壁 かべ であった。フックが使 つか った顕微鏡 けんびきょう はロンドンのクリストファー・ホワイトが製作 せいさく したもので、現在 げんざい はワシントンD.C.の国立 こくりつ 健康 けんこう 医学 いがく 博物館 はくぶつかん にある。
『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』にはフック(とおそらくボイル)の燃焼 ねんしょう についての考 かんが え方 かた が含 ふく まれている。実験 じっけん から彼 かれ は燃焼 ねんしょう には空気 くうき に含 ふく まれる何 なん らかの物質 ぶっしつ が関係 かんけい していると結論 けつろん 付 つ けていた。現代 げんだい から見 み ればそれは酸素 さんそ だということが明 あき らかだが、17世紀 せいき には一般 いっぱん 的 てき な考 かんが え方 かた ではなかった。さらにフックは呼吸 こきゅう が空気 くうき の特定 とくてい の成分 せいぶん に関係 かんけい していると結論 けつろん 付 つ けていた[ 28] 。Partington はフックがそのまま燃焼 ねんしょう について研究 けんきゅう を続 つづ けていたら酸素 さんそ を発見 はっけん していただろうと記 しる している[ 29] 。
『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』にある月 つき とプレアデス星団 せいだん のスケッチ
フックはこの土星 どせい のスケッチで、環 たまき と惑星 わくせい が互 たが いに影 かげ を落 お としている部分 ぶぶん (aとb)に注目 ちゅうもく している。
さらに野心 やしん 的 てき な取 と り組 く みとして、フックは(太陽 たいよう 以外 いがい の)恒星 こうせい の距離 きょり を測定 そくてい しようとした。対象 たいしょう として選 えら んだのはりゅう座 ざ γ がんま 星 ほし で、視差 しさ 測定 そくてい で距離 きょり を求 もと めようとした。何 なん 度 ど かの観測 かんそく を経 へ て1669年 ねん に距離 きょり を求 もと めることができた。フックが使 つか っていた器具 きぐ はあまりにも不正確 ふせいかく で、測定 そくてい 結果 けっか も正確 せいかく な値 ね からはほど遠 とお かった[ 30] 。りゅう座 ざ γ がんま 星 ほし は1725年 ねん 、ジェームズ・ブラッドリー が光行 みつゆき 差 さ を発見 はっけん した恒星 こうせい としても知 し られている。
恒星 こうせい の距離 きょり 測定 そくてい 以外 いがい にも天文学 てんもんがく の分野 ぶんや で活動 かつどう している。『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』にはプレアデス星団 せいだん と月 つき のクレーター のスケッチがある。そのようなクレーターがどうやってできるのかも実験 じっけん で研究 けんきゅう している[ 31] 。
手製 てせい の望遠鏡 ぼうえんきょう を作成 さくせい して土星 どせい の環 たまき を観察 かんさつ し[ 32] 、1664年 ねん 5月 がつ には木星 もくせい の表面 ひょうめん にある渦 うず を発見 はっけん した(ただし、フックが発見 はっけん した渦 うず は赤道 せきどう の北部 ほくぶ に位置 いち しており、赤道 せきどう の南部 なんぶ に存在 そんざい する現在 げんざい の大 だい 赤 あか 斑 まだら とは異 こと なると考 かんが えられている)。
最初 さいしょ の連 れん 星 ぼし (おひつじ座 ざ γ がんま 星 ほし )を1664年 ねん に発見 はっけん した[ 33] 。
ミルトン・キーンズの教会 きょうかい
フックが一般 いっぱん に名声 めいせい を得 え たのはクリストファー・レン の助手 じょしゅ としてロンドンの測量 そくりょう を行 おこな ったことからである。フックとレンは1666年 ねん のロンドン大火 たいか 後 ご のロンドン復興 ふっこう に尽力 じんりょく し、大火 たいか の記念 きねん 碑 ひ 、グリニッジ天文台 てんもんだい 、後 のち に大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん となったモンタギュー・ハウス 、精神 せいしん 病院 びょういん の代名詞 だいめいし として知 し られた王立 おうりつ ベスレム病院 びょういん などを設計 せっけい した。他 ほか にも王立 おうりつ 内科 ないか 医 い 協会 きょうかい の建物 たてもの (1679年 ねん )、ウォリックシャー の Ragley Hall 、バッキンガムシャー はミルトン・キーンズの教区 きょうく 教会 きょうかい も設計 せっけい した。クリストファー・レンと共同 きょうどう でセント・ポール大 だい 聖堂 せいどう の建築 けんちく に関 かか わっており、ドーム建設 けんせつ にはフックが考案 こうあん した工法 こうほう が使 つか われた。
大火 たいか 後 ご の再建 さいけん において、フックは幹線 かんせん 道路 どうろ を幅広 はばひろ くして街 まち 区 く を格子 こうし 状 じょう に設計 せっけい し直 なお すことを提案 ていあん 。この考 かんが え方 かた は後 のち にパリ改造 かいぞう 、リヴァプール 、アメリカの各 かく 都市 とし で採用 さいよう されている。大火 たいか 後 ご に不動産 ふどうさん 業者 ぎょうしゃ がこっそり境界 きょうかい をずらしていたため、不動産 ふどうさん の財産 ざいさん 権 けん についての議論 ぎろん が生 しょう じ、道路 どうろ を従来 じゅうらい と完全 かんぜん に変 か えてしまうフックの案 あん は問題 もんだい を複雑 ふくざつ 化 か させるものとして反対 はんたい された。土地 とち の境界 きょうかい をめぐるいざこざが絶 た えず、フックは測量 そくりょう 士 し としての技量 ぎりょう と仲裁 ちゅうさい の才能 さいのう を発揮 はっき して多 おお くの問題 もんだい 解決 かいけつ にあたった。
建築 けんちく 家 か としてのフックの業績 ぎょうせき については、Cooper の著書 ちょしょ が詳 くわ しい[ 34] 。
当時 とうじ 、天体 てんたい 間 あいだ に働 はたら く引力 いんりょく や斥力 せきりょく を伝 つた えているのはエーテル だと信 しん じられていた。そんな中 なか で1665年 ねん の『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』でフックは重力 じゅうりょく による引力 いんりょく の法則 ほうそく を論 ろん じている。1666年 ねん には王立 おうりつ 協会 きょうかい で "On gravity"(重力 じゅうりょく について)と題 だい して講演 こうえん をし、移動 いどう する物体 ぶったい は何 なん らかの力 ちから を受 う けない限 かぎ りそのまま直進 ちょくしん すること(慣性 かんせい の法則 ほうそく )と引力 いんりょく は距離 きょり が近 ちか いほど強 つよ くなるという法則 ほうそく を追加 ついか した。Dugald Stewart は著書 ちょしょ Elements of the Philosophy of the Human Mind [ 35] で、フック自身 じしん の世界 せかい 体系 たいけい についての言葉 ことば を引用 いんよう している。それによると、フックは次 つぎ の3点 てん を述 の べている。
全 すべ ての天体 てんたい は重力 じゅうりょく によってその各 かく 部分 ぶぶん を中心 ちゅうしん に引 ひ きつけているだけでなく、天体 てんたい 間 あいだ で相互 そうご に引 ひ き付 つ けあって運動 うんどう する。
外部 がいぶ から力 ちから が継続 けいぞく 的 てき に加 くわ わらない限 かぎ り、天体 てんたい は単純 たんじゅん に直進 ちょくしん し続 つづ ける。しかし、重力 じゅうりょく によって天体 てんたい は円軌道 えんきどう 、楕円 だえん 軌道 きどう などの曲線 きょくせん を描 えが く。
この引力 いんりょく は天体 てんたい 同士 どうし が近 ちか いほど強 つよ くなる。距離 きょり と引力 いんりょく の強 つよ さの関係 かんけい がどうなっているか、今 いま のところ私 わたし にも発見 はっけん できていない。
1670年 ねん の講演 こうえん では、重力 じゅうりょく はあらゆる天体 てんたい に作用 さよう すると説明 せつめい し、重力 じゅうりょく が距離 きょり が離 はな れるに従 したが って小 ちい さくなること、重力 じゅうりょく がなければ物体 ぶったい は直進 ちょくしん し続 つづ けることを説明 せつめい している。
1672年 ねん 、アイザック・ニュートン が光 ひかり の粒子 りゅうし 説 せつ を発表 はっぴょう すると、フックは光 ひかり の波動 はどう 説 せつ で応戦 おうせん 。また、論文 ろんぶん の内容 ないよう の大 だい 部分 ぶぶん は自分 じぶん が『顕微鏡 けんびきょう 図譜 ずふ 』で既 すで に発表 はっぴょう 済 ず みと主張 しゅちょう 、大 おお きな議論 ぎろん となった。
1674年 ねん には "An Attempt to Prove the Motion of the Earth from Observations"(観察 かんさつ から地球 ちきゅう の運動 うんどう を証明 しょうめい する試 こころ み)[ 36] の付録 ふろく として「世界 せかい 体系 たいけい 」の若干 じゃっかん 進化 しんか した考 かんが え方 かた を公表 こうひょう している。フックは明 あき らかに太陽 たいよう と惑星 わくせい の間 あいだ に相互 そうご に引力 いんりょく が働 はたら いていると仮定 かてい し、距離 きょり が近 ちか いほど引力 いんりょく が強 つよ くなるとしている。
しかし1674年 ねん までにフックが重力 じゅうりょく について逆 ぎゃく 2乗 じょう の法則 ほうそく が成 な り立 た つとした記述 きじゅつ はない。フックの考 かんが えた重力 じゅうりょく は従来 じゅうらい よりも普遍 ふへん 性 せい があったものの、万有引力 ばんゆういんりょく にまで到達 とうたつ していなかった[ 37] 。また、付随 ふずい する証拠 しょうこ についても述 の べていないし、数学 すうがく 的 てき に証明 しょうめい したわけでもない。これらについて1674年 ねん にフックは「(重力 じゅうりょく の)いくつかの度合 どあ いについて私 わたし はまだ実験 じっけん 的 てき に検証 けんしょう していない」(つまり、重力 じゅうりょく がどういう法則 ほうそく に従 したが うかをまだ知 し らない)と述 の べ、最終 さいしゅう 的 てき に「先 さき にやらなければならないことがたくさんあって、これに専念 せんねん できない」としている[ 36] 。
1679年 ねん 11月、フックはニュートンと頻繁 ひんぱん に手紙 てがみ のやり取 と りをし始 はじ めた[ 38] 。それらの手紙 てがみ の全文 ぜんぶん が出版 しゅっぱん されている[ 39] 。表向 おもてむ きの用件 ようけん はフックが王立 おうりつ 協会 きょうかい の通信 つうしん (手紙 てがみ )の管理 かんり をすることになったとニュートンに伝 つた えるものだった[ 40] 。そのため、会員 かいいん からそれぞれの行 い っている研究 けんきゅう について、あるいは他 た の会員 かいいん の研究 けんきゅう に対 たい する見解 けんかい について聞 き きたいという手紙 てがみ だった。そして、ニュートンへの刺激 しげき になればという形 かたち で様々 さまざま な問題 もんだい についてニュートンの意見 いけん を訊 たず ねている。中心 ちゅうしん となる天体 てんたい の引力 いんりょく と接線 せっせん 方向 ほうこう への運動 うんどう から惑星 わくせい の軌道 きどう が構成 こうせい されること、フックの弾性 だんせい についての法則 ほうそく 、当時 とうじ パリで生 う まれた新 あら たな惑星 わくせい の運動 うんどう に関 かん する仮説 かせつ (フックはその解説 かいせつ にかなりの文 ぶん を連 つら ねている)、国勢調査 こくせいちょうさ を実行 じっこう ・改良 かいりょう する努力 どりょく について、ロンドンとケンブリッジの緯度 いど の差 さ について、などである。ニュートンは地球 ちきゅう の動 うご きを検出 けんしゅつ する実験 じっけん として、空中 くうちゅう に物体 ぶったい を浮 う かせて落下 らっか させる実験 じっけん を提案 ていあん した。重要 じゅうよう な点 てん はニュートンが落下 らっか 物体 ぶったい が垂線 すいせん から逸 そ れることで地球 ちきゅう の動 うご きを検出 けんしゅつ できると考 かんが えた点 てん で、もし地面 じめん がなければ物体 ぶったい が螺旋 らせん 軌道 きどう を描 えが いて中心 ちゅうしん に落下 らっか していくと考察 こうさつ している。フックはその考察 こうさつ には同意 どうい しなかった[ 41] 。その後 ご も手紙 てがみ のやりとりが続 つづ き、フックが1月 がつ 6日 にち 付 づ けの手紙 てがみ で、引力 いんりょく はそれぞれの物体 ぶったい の中心 ちゅうしん 間 あいだ の距離 きょり の2乗 じょう に比例 ひれい し、速度 そくど は引力 いんりょく の平方根 へいほうこん に比例 ひれい するから、ケプラーが想定 そうてい したように速度 そくど は距離 きょり に比例 ひれい することになると結論 けつろん 付 つ けている[ 42] 。この速度 そくど に関 かん するフックの推論 すいろん は実際 じっさい には間違 まちが っている[ 43] 。
1686年 ねん 、ニュートン の『自然 しぜん 哲学 てつがく の数学 すうがく 的 てき 諸 しょ 原理 げんり (プリンキピア)』が王立 おうりつ 協会 きょうかい に提出 ていしゅつ されたとき、重力 じゅうりょく が距離 きょり の2乗 じょう に反比例 はんぴれい するという見解 けんかい は自分 じぶん がニュートンに伝 つた えたのだと主張 しゅちょう した。エドモンド・ハレー の同 どう 時代 じだい の記録 きろく によれば、フックはそれによって曲線 きょくせん 軌道 きどう が描 えが かれるという点 てん はニュートン独自 どくじ の説 せつ だと認 みと めていた[ 39] 。
最近 さいきん の研究 けんきゅう で、重力 じゅうりょく が距離 きょり の2乗 じょう に反比例 はんぴれい するという仮説 かせつ は1660年代 ねんだい 末 まつ までには広 ひろ く知 し られており、様々 さまざま な人々 ひとびと が様々 さまざま な理由 りゆう でそれを発展 はってん させていたことがわかっている[ 44] 。ニュートン自身 じしん も1660年代 ねんだい に惑星 わくせい が円軌道 えんきどう だと仮定 かてい したとき、中心 ちゅうしん 方向 ほうこう へ引 ひ っ張 ぱ られる力 ちから は中心 ちゅうしん との距離 きょり と逆 ぎゃく 2乗 じょう の関係 かんけい にあることを示 しめ した[ 45] 。1686年 ねん 5月 がつ にフックが逆 ぎゃく 2乗 じょう の法則 ほうそく を自分 じぶん のものだと主張 しゅちょう したとき、ニュートンはその反論 はんろん として他者 たしゃ のフック以前 いぜん の業績 ぎょうせき を示 しめ した[ 39] 。さらにニュートンはフックから最初 さいしょ に逆 ぎゃく 2乗 じょう の法則 ほうそく について聞 き いたのがもし事実 じじつ だとしても、それを数学 すうがく 的 てき に定式 ていしき 化 か したのは自分 じぶん であり、フックは単 たん に観察 かんさつ から大 おお まかに推論 すいろん したに過 す ぎないと主張 しゅちょう した[ 39] 。
一方 いっぽう でニュートンは『プリンキピア』の全 すべ ての版 はん でフックや他 た の先人 せんじん (レン、ハレーなど)への敬意 けいい を表 あらわ している[ 46] 。ニュートンはまたフックとハレーが1679年 ねん から1680年 ねん に交 か わした書簡 しょかん が天体 てんたい の運動 うんどう に対 たい する興味 きょうみ を持 も たせてくれたとしているが、それはフックがニュートンに何 なに か新 あたら しい知識 ちしき を授 さづ けたという意味 いみ ではないとしている[ 39] 。
ニュートンは数学 すうがく と光学 こうがく の発展 はってん に大 おお いに貢献 こうけん した先駆 せんく 者 しゃ だったが、一方 いっぽう でフックは創造 そうぞう 的 てき 実験 じっけん 家 か であり、あまりにも広範囲 こうはんい に手 て をつけたため、重力 じゅうりょく などの研究 けんきゅう に専念 せんねん できなかったとしても驚 おどろ くべきことではない。両者 りょうしゃ の死後 しご 数 すう 十 じゅう 年 ねん 後 ご の1759年 ねん 、アレクシス・クレロー はフックの重力 じゅうりょく に関 かん する著作 ちょさく を読 よ んで「一見 いっけん して得 え られた真理 しんり と証明 しょうめい された真理 しんり には大 おお きな隔 へだ たりがあることを示 しめ している」とし[ 47] 、「フックのアイデアがニュートンの偉大 いだい さを減 げん じることはない」とした[ 48] 。
一時期 いちじき フックの肖像 しょうぞう 画 が とされた絵 え 。今 いま ではヤン・ファン・ヘルモント の肖像 しょうぞう 画 が であることがほぼ確実 かくじつ とされている。
近年 きんねん 、ロバート・フックの肖像 しょうぞう の可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている被 ひ 写 うつし 人物 じんぶつ 不 ふ 詳 しょう の肖像 しょうぞう 画 が (メアリー・ビール 作 さく )。ただしアイザック・バロー の肖像 しょうぞう 画 が とする説 せつ もある。
ロバート・フックのものとされる肖像 しょうぞう 画 が が現存 げんそん しないことは、フックとアイザック・ニュートン の激 はげ しい論争 ろんそう の結果 けっか とされることがある。フックが存命 ぞんめい 中 ちゅう は王立 おうりつ 協会 きょうかい はグレシャム大学 だいがく で会合 かいごう を開 ひら いていたが、その死後 しご 数カ月 すうかげつ 以内 いない にニュートンが会長 かいちょう となり、新 あら たな王立 おうりつ 協会 きょうかい の会合 かいごう 場所 ばしょ を建設 けんせつ する計画 けいかく が持 も ち上 あ がった。1710年 ねん に新 あら たな建物 たてもの に移転 いてん する際 さい 、フックの肖像 しょうぞう 画 が が行方 ゆくえ 不明 ふめい になり、未 いま だに発見 はっけん されていない。
タイム 誌 し は1939年 ねん 7月 がつ 3日 にち の号 ごう でフックと思 おも われる肖像 しょうぞう 画 が が見 み つかったと発表 はっぴょう した。しかしアシュレイ・モンタギュー がその来歴 らいれき を調査 ちょうさ したが、フックとの明確 めいかく な関係 かんけい は見 み つからなかった。さらにモンタギューはフック存命 ぞんめい 中 ちゅう のフックの容貌 ようぼう に関 かん する記述 きじゅつ を発見 はっけん したが、その内容 ないよう はタイム誌 し が発表 はっぴょう した肖像 しょうぞう 画 が とは全 まった く似 に ていなかった[ 49] 。
2003年 ねん 、歴史 れきし 家 か リサ・ジャーディン は新 あら たに発見 はっけん された肖像 しょうぞう 画 が がフックのものだと主張 しゅちょう したが[ 50] 、シンシナティ大学 だいがく の ウィリアム・ジェンセンがこれを論駁 ろんばく [ 51] した[ 52] 。ジャーディンがフックの肖像 しょうぞう 画 が とした絵 え はフランドルの学者 がくしゃ ヤン・ファン・ヘルモント を描 えが いたものとされている。
他 た にフックを描 えが いたと思 おも われるものとして次 つぎ のような作品 さくひん がある。
2003年 ねん 、歴史 れきし 画家 がか リタ・グリア がフックを記念 きねん するためのプロジェクトを自費 じひ で開始 かいし した。このプロジェクトはジョン・オーブリー[ 55] とリチャード・ウォラー[ 14] の2つの文献 ぶんけん にあるフックの容姿 ようし に関 かん する記述 きじゅつ に沿 そ って新 あら たに肖像 しょうぞう 画 が を描 えが くことを目指 めざ した。グリアの描 えが いたフックの肖像 しょうぞう 画 が はイギリスやアメリカでフックを扱 あつか ったテレビ番組 ばんぐみ で使 つか われ、本 ほん や雑誌 ざっし や広告 こうこく にも使 つか われた[ 56] [ 57] [ 58] [ 59] [ 60] [ 61] [ 62] 。
フックは子孫 しそん がおらず、晩年 ばんねん は論争 ろんそう を巻 ま き起 お こしがちな人物 じんぶつ だったため、長 なが らく記念 きねん 碑 ひ や記念 きねん 式典 しきてん などがなかったが、没後 ぼつご 300周年 しゅうねん となった2003年 ねん 以降 いこう 、各地 かくち に記念 きねん 銘板 めいばん が設置 せっち されるなどしている(詳 くわ しくは New memorials to Robert Hooke 2005 - 2009 )。
^ ぜんまい時計 とけい は15世紀 せいき に既 すで に存在 そんざい していた。
^ John Cutler とフックはその後 ご 数 すう 年間 ねんかん 、支払 しはら われるべき金額 きんがく で争 あらそ いを起 お こしている。Cutler が亡 な くなるとフックは Cutler 家 か の周辺 しゅうへん の人々 ひとびと に支援 しえん を求 もと めた。[1]
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^ a b c d e (Turnbull 1960 , pp. 297–314) に1679年 ねん 11月から1680年 ねん 1月 がつ までの両者 りょうしゃ の書簡 しょかん が、(Turnbull 1960 , pp. 431–448) に1686年 ねん のフックの優先 ゆうせん 権 けん 主張 しゅちょう の手紙 てがみ がある。
^ Turnbull 1960 , p. 297
^ フックの考 かんが えに従 したが って、このニュートンの考察 こうさつ を間違 まちが いだとする者 もの もいる。しかし次 つぎ のような事実 じじつ がある。 (a) フックはニュートンが空中 くうちゅう (抵抗 ていこう 物質 ぶっしつ 中 ちゅう )で重 おも い物体 ぶったい を落下 らっか させるとしている点 てん を無視 むし しており(Turnball 1960 , p. 301)、一方 いっぽう でフックが1679年 ねん 12月11日 にち に王立 おうりつ 協会 きょうかい に報告 ほうこく した内容 ないよう は「抵抗 ていこう を受 う けないことを仮定 かてい 」している(D Gjertsen, 'Newton Handbook' (1986), at page 259)。 (b) フックの1679年 ねん 12月9日 にち 付 づ けのニュートンへの返事 へんじ では、空気 くうき 抵抗 ていこう を受 う ける場合 ばあい と受 う けない場合 ばあい を考慮 こうりょ している。空気 くうき 抵抗 ていこう がない場合 ばあい は中心 ちゅうしん に落下 らっか することなく楕円 だえん 軌道 きどう を描 えが くとし、空気 くうき 抵抗 ていこう を受 う ける場合 ばあい は螺旋 らせん 軌道 きどう を描 えが きながら中心 ちゅうしん に落下 らっか するとしており、結局 けっきょく ニュートンの考察 こうさつ (Turnball 1960 , pp. 304–306)とよく似 に ている。 両者 りょうしゃ の描 えが いた図 ず はオンラインで参照 さんしょう 可能 かのう で、Curtis Wilson, chapter 13 in "Planetary Astronomy from the Renaissance to the Rise of Astrophysics, Part A, Tycho Brahe to Newton", (Cambridge UP 1989) の241ページにニュートンの1679年 ねん の図 ず があり、242ページにフックの1679年 ねん の図 ず がある。その後 ご の手紙 てがみ でニュートンは、螺旋 らせん 軌道 きどう は「空気 くうき のような抵抗 ていこう 物質 ぶっしつ がある場合 ばあい 」に正 ただ しいと主張 しゅちょう している(Turnball 1960 , p. 433)。
^ Turnbull 1960 , p. 309
^ See Curtis Wilson (1989) at page 244.
^ See "Meanest foundations and nobler superstructures: Hooke, Newton and the 'Compounding of the Celestiall Motions of the Planetts'", Ofer Gal, 2003 at page 9 .
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^ 例 たと えば1729年 ねん の英語 えいご 版 ばん の66ページ
^ 英語 えいご に翻訳 ほんやく されたものは W.W. Rouse Ball, "An Essay on Newton's 'Principia'" (London and New York: Macmillan, 1893), page 69 にある。
^ フランス語 ふらんすご の原文 げんぶん は "Explication abregée du systême du monde, et explication des principaux phénomenes astronomiques tirée des Principes de M. Newton" (1759), at Introduction (section IX), page 6: "Il ne faut pas croire que cette idée ... de Hook diminue la gloire de M. Newton", [and] "L'exemple de Hook" [serves] "à faire voir quelle distance il y a entre une vérité entrevue & une vérité démontrée".
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