(Translated by https://www.hiragana.jp/)
三条坊門殿 - Wikipedia コンテンツにスキップ

三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん(さんじょうぼうもんどの)は、現在げんざい京都きょうと京都きょうと中京ちゅうきょうにあった邸宅ていたく三条さんじょう殿どの三条さんじょう高倉たかくら殿どのともばれ、室町むろまち幕府ばくふ足利あしかが将軍家しょうぐんけ邸宅ていたくとしてもちいられた。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

この邸宅ていたくもとは三条坊門南高倉東一町に存在そんざい(『中古ちゅうこ京師けいし内外ないがい地図ちず』)し、のちひがしとなり三条さんじょう坊門ぼうもんみなみ万里小路まりこうじひがしうつった(『ざいもりきょう大膳だいぜん大夫たいふゆうもり)』)という。これが事実じじつとすれば、前者ぜんしゃ現在げんざい中京ちゅうきょう御所八幡ごしょはちまんまち後者こうしゃおなじく東八幡ひがしはちまんまち付近ふきんにあったとみられている。

坊門ぼうもん三条殿さんじょうでんもと初代しょだい将軍しょうぐん足利尊氏あしかがたかうじおとうと直義ただよし邸宅ていたくであり、たてたけし3ねん1336ねん)にはここに邸宅ていたく存在そんざいしていたことが『梅松うめまつろん』にえる。その直義ただよしらくきたにあった足利あしかがゆかりのいえ刹をやしきちかくに移設いせつして自己じこ持仏堂じぶつどうとして一族いちぞくのための仏事ぶつじおこなった。これが、等持院とうじいん由来ゆらいになったとするせつがある(今枝いまえだあいしん細川ほそかわたけみのるせつ、なお通説つうせつたかし創建そうけんとする)。当時とうじたかし政務せいむ大半たいはん直義ただよし委任いにんしており、直義ただよし三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん実質じっしつじょう室町むろまち幕府ばくふ中心ちゅうしん機能きのうたしていた。なお、ほらいんおおやけけんの『えんたいれき』によれば、かんひさし3ねん1344ねん)12月に火災かさい焼失しょうしつし、翌年よくねん2がつには再建さいけんされている。

貞和さだかず5ねん1349ねん)、失脚しっきゃくした直義ただよし出家しゅっけして三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんわたし、わりに鎌倉かまくらにいたたかし嫡男ちゃくなん義詮よしあきら京都きょうともどり、直義ただよし三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん居住きょじゅうした。その発生はっせいしたかんおう擾乱じょうらんによって直義ただよし滅亡めつぼうし、三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん文和ふみかず元年がんねん1352ねんうるう2がつ20日はつか京都きょうとはいった南朝なんちょうぐん攻撃こうげきによって炎上えんじょうした(『えんたいれき[1])。足利尊氏あしかがたかうじ義詮よしあきら京都きょうと復帰ふっき義詮よしあきら三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん再建さいけんせずに仁木にきよりゆきあきら邸宅ていたくなどを利用りようしていたが、義詮よしあきらが2だい将軍しょうぐん就任しゅうにんしたのち貞治さだはる4ねん1365ねん)2がつ11にちになって、もと三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんひがしとなり造営ぞうえいしたあたらしい邸宅ていたくうつみ、以後いごここが三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんしょうされるようになった。一方いっぽう直義ただよし以来いらいきゅう三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん跡地あとちには直義ただよしれいを「大倉おおくら明神みょうじん」としてまつることとあたらしい三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん鎮守ちんじゅとしての目的もくてきゆうした三条さんじょう坊門ぼうもん八幡宮はちまんぐう造営ぞうえいされ、貞治さだはる6ねん1367ねん)9がつ28にちには、三宝さんぼういんひかりずみ三条さんじょう坊門ぼうもん八幡宮はちまんぐう別当べっとう補任ほにんされた。これが現在げんざい御所ごせ八幡宮はちまんぐう起源きげんかんがえられている。

あたらしい、三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん義詮よしあきら3だい将軍しょうぐん足利あしかが義満よしみつあらたに室町むろまち殿どのはな御所ごしょ)を造営ぞうえいして、永和えいわ4ねん1378ねん)に室町むろまち殿どの移転いてんするまでもちいられた。以後いご義満よしみつ室町むろまち殿どの居住きょじゅうし、出家しゅっけの4だい将軍しょうぐん義持よしもち室町むろまち殿どのゆずって、みずからは北山きたやま殿どのあらたに造営ぞうえいしてうつんだ。一方いっぽう室町むろまち殿どの移転いてん以後いご三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんもちいられずに荒廃こうはいしていった。ところが、義満よしみつ不仲ふなかであった義持よしもちは、義満よしみつぼつ翌年よくねんであるおうひさし16ねん1409ねん)になって義詮よしあきら先例せんれいならって三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん再興さいこうしてうつんだ。ところが、6だい将軍しょうぐんになったおとうと義教よしのりは、えいとおる3ねん1431ねん)になって義満よしみつ先例せんれいならうとして今度こんど室町むろまち殿どの再興さいこうしてうつんだ。当時とうじ室町むろまち殿どのは「うえ御所ごしょ」、三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんは「しも御所ごしょ」としょうされていた(『けん内記ないき嘉吉よしきち元年がんねん10がつ23にちじょう)。幼少ようしょうにして8だい将軍しょうぐんになった足利あしかが義政よしまさは、当時とうじ母方ははかた一族いちぞくである烏丸からすまにん邸宅ていたくそだてられていたが、にん邸宅ていたくをそのまま烏丸からすま殿どのしょうして居住きょじゅうし、室町むろまち殿どの三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんのどちらにもはいらなかった。室町むろまち殿どの早世そうせいした7だい将軍しょうぐん足利あしかが義勝よしかつ義政よしまさあに)が死去しきょした場所ばしょであったことから、義政よしまさ御所ごしょ室町むろまち殿どのではなく三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんうつすことになったが、しょ大名だいみょう反対はんたいにより室町むろまち殿どの変更へんこうされた[2]。これは、たかし以来いらい守護しゅご幕臣ばくしんたちは将軍しょうぐん居宅きょたく周囲しゅういむことがもとめられ、将軍しょうぐん居宅きょたくえるとかれらも屋敷やしき移転いてんさせていたが、ここにおいて、守護しゅごたち下京しもぎょうにある三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんよりも烏丸からすま殿どのおな上京じょうきょうにあり自分じぶんたち屋敷やしき移転いてんさせる必要ひつようせい室町むろまち殿どののぞんだことによる。また成長せいちょうした義政よしまさちち義教よしのりならって室町むろまち殿どのむことを希望きぼうしたことによって守護しゅごたちかんがえを結果けっかてき追認ついにんした[3]。その結果けっか義政よしまさ室町むろまち殿どの東山ひがしやま殿どのへとうつみ、三条さんじょう坊門ぼうもん殿でんもちいられることなく、荒廃こうはいしていった。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ ただし、当時とうじ正平しょうへい一統いっとうしたにあって北朝ほくちょう元号げんごう停止ていし状態じょうたいにあったため、『えんたいれき』をはじめとして同日どうじつ記録きろく南朝なんちょう元号げんごうである「正平しょうへい7ねん表記ひょうきになっている。
  2. ^ 聞御嘉吉よしきち3ねん8がつ28にちじょう
  3. ^ 田坂たさか泰之やすゆき室町むろまち京都きょうと都市とし空間くうかん幕府ばくふももさきゆう一郎いちろう山田やまだ邦和くにかず 編著へんちょ室町むろまち政権せいけん首府しゅふ構想こうそう京都きょうと-室町むろまち北山きたやま東山ひがしやま-』(文理ぶんりかく、2016ねんISBN 978-4-89259-798-5

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 黒板こくばん伸夫のぶお三条さんじょう坊門ぼうもん殿でん」(『国史こくしだい辞典じてん 6』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1985ねんISBN 978-4-642-00506-7
  • 細川ほそかわたけみのる空間くうかんから室町むろまち幕府ばくふ -足利あしかが邸宅ていたく寺社じしゃ-」(所収しょしゅう:『史学しがく雑誌ざっしだい107へん12ごう(1998ねん)/改題かいだい所収しょしゅう:「足利あしかが邸宅ていたく菩提寺ぼだいじ -等持寺とうじじ相国寺しょうこくじ中心ちゅうしんに-」細川ほそかわ京都きょうと寺社じしゃ室町むろまち幕府ばくふ』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2010ねんISBN 978-4-642-02887-5