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さんすめらぎみかど

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さんすめらぎみかど(さんこうごてい)は、古代こだい中国ちゅうごく神話しんわ伝説でんせつ時代じだいの8にん帝王ていおう[1]

概要がいよう

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さんすめらぎみかど」のかたりは『しゅうあや』(はるかん外史がいし)や『りょ春秋しゅんじゅう』(きんふさがへんなど)にみえるかたりである[2]。ところが、その構成こうせい具体ぐたいてき議論ぎろんおこなわれるようになったのはかんだいになってからで、しかもさんすめらぎ構成こうせいについて定論ていろんなかったとされる[2]

歴史れきししょでは「さんすめらぎみかど」よりも「みかどさんおう」というかたりのほうが用例ようれいおおかったとされ、はただいでもそれはわらなかった[3]。『りょ春秋しゅんじゅう』や『れい』、『史記しき』などには上古じょうこ時代じだいに「みかど時代じだい」が存在そんざいしたことを前提ぜんていとする記述きじゅつがあり、この「みかど」についても様々さまざませつ提示ていじされた[3]。ただ「みかど」については、『史記しきみかど本紀ほんぎ正義せいぎしたがってみかど顓頊みかど嚳()・から堯()・おそれしゅんためしゅん)とするせつがほぼ定論ていろんとされ、『けい以降いこうみかどと顓頊のあいだしょうひろし挿入そうにゅうする歴史れきし体系たいけいがとられるようになっていた[2]。ところが後世こうせいの「さんすめらぎみかどろん」はたん帝王ていおう系譜けいふをたどるものではなく、論者ろんしゃ価値かちかんにより顕彰けんしょうされた帝王ていおうのランキングとなりしょうひろし排除はいじょされるようになった(なおていげんは『史記しき』のみかどしょうひろしくわえるろくにんみかどせつをとった)[2]

他方たほうすめらぎはじめ従来じゅうらいかんせいみかどせつぎょう相生あいおいせつもとづく評価ひょうか基準きじゅんをもとに、これをふく羲からじゅんさんすめらぎみかど枠組わくぐみ配当はいとうし、ふく羲・かみみのりみかどさんすめらぎしょうひろし・顓頊・みかど嚳・堯・しゅんみかどとするせつをとった[2]

なお、『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎはじめすめらぎ26ねん紀元前きげんぜん201ねん)の記事きじには、しんおう(のちの始皇帝しこうてい)にたいして臣下しんかが「たいすめらぎ」の称号しょうごう推薦すいせんしたが、おうは「みかどごう」をせよと丞相じょうしょうめいじた[4]。そして「皇帝こうていごう創出そうしゅつされたが、これについて「さんすめらぎみかど」から創出そうしゅつされたとする見解けんかいがある一方いっぽう思想しそうてき背景はいけいや「天子てんしごうとの関係かんけいなど不明ふめいてんおおいとの指摘してきもある[4]

構成こうせい

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さんすめらぎ

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さんすめらぎについては諸説しょせつあるが、まず『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ由来ゆらいするせつがある[2]

このせつは『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎの「ゆう天皇てんのうゆうすめらぎゆうたいすめらぎゆうすめらぎさいとうと。」に由来ゆらいするが、さんしゃをセットにして開闢かいびゃく最初さいしょ帝王ていおうえたのはぬきしょ最初さいしょとされる[2]

一方いっぽうで『史記しき』五帝本紀索隠・正義せいぎは、かくしょにあるふくかみみのりみかどとするせつをまとめている[2]

また、ひがしかんおうの『風俗ふうぞくどおりすめらぎへんかくしょにあるせつ以下いかのようにまとめている[2]

  • ふく羲・おんなかみみのりとするせつ - 『春秋しゅんじゅううんくるる[2]
  • ふく羲・祝融しゅくゆうかみみのりとするせつ - 『れいごうおくりな[2]
  • ひうちじんふく羲・かみみのりとするせつ - 『含文嘉ぶんか』や『尚書しょうしょ大伝だいでん[2]

なお、『れい』(れいうん正義まさよし)ではかん学者がくしゃつぎのようであったという[2]

みかど

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  • ふとし皞伏羲・ほのおみかどかみみのりみかどしょう皞(しょうひろし)・顓頊とするせつ
    • りょ春秋しゅんじゅう』(じゅう)や『れい』(つきれい)など[3]
  • みかど・顓頊・みかど嚳()・みかど堯()・みかどしゅんしゅん)とするせつ
  • しょう皞(しょうひろし)・顓頊・みかど嚳(嚳)・から堯(堯)・おそれしゅんしゅん)とするせつ
    • あな安国やすくに尚書しょうしょじょ』、すめらぎはじめ謐『帝王ていおう世紀せいき』、まごちゅうほん』など(『史記しき』五帝本紀索隠・正義せいぎによる)[3][2]
  • つつみ羲・かみみのりみかど・堯・しゅんとするせつ

後世こうせいへの影響えいきょう

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信仰しんこう

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ナショナリズム

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研究けんきゅう

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ コトバンク「さんすめらぎみかど
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 南澤みなみさわ良彦よしひこ帝王ていおう世紀せいき』の成立せいりつとその意義いぎ」『日本にっぽん中国ちゅうごく学会がっかいほう』1992ねん10がつ 
  3. ^ a b c d e f 狩野かのただしただし霍光からおう莽へ (2)」『聖心女子大学せいしんじょしだいがく論叢ろんそうだい31/32かん聖心女子大学せいしんじょしだいがく、1969ねん3がつ15にち、45-62ぺーじ 
  4. ^ a b 杉村すぎむら伸二しんじはたかんはつにおける「皇帝こうてい」と「天子てんし」-戦国せんごく後期こうきかんはつくにせい展開てんかい君主くんしゅごう-」『福岡教育大学ふくおかきょういくだいがく紀要きようだい分冊ぶんさつ社会しゃかいへんだい60かん福岡教育大学ふくおかきょういくだいがく、2011ねん2がつ10日とおか、1-17ぺーじ 

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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