(Translated by https://www.hiragana.jp/)
上杉吉憲 - Wikipedia コンテンツにスキップ

上杉うえすぎよしけん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
上杉うえすぎよしけん
上杉うえすぎよしけんぞう上杉うえすぎ歴代れきだい藩主はんしゅぞうより、上杉うえすぎ博物館はくぶつかんくら
時代じだい 江戸えど時代じだい中期ちゅうき
生誕せいたん 貞享ていきょう元年がんねん11月8にち1684ねん12月14にち
死没しぼつ とおる7ねん5月1にち1722ねん6月14にち
改名かいめい かつ千代ちよ幼名ようみょう)→よしけん
別名べつめい 通称つうしょう喜平きへい
戒名かいみょう とくいん殿どの法印ほういんけんだい僧都そうずたいしん
官位かんい したがえよん侍従じじゅうみん大輔だいすけ
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
主君しゅくん 徳川とくがわ綱吉つなよし家宣いえのぶ家継いえつぐよしはじめ
はん 出羽でわ米沢よねざわはん藩主はんしゅ
氏族しぞく 上杉うえすぎ
父母ちちはは ちち上杉うえすぎつなけんはは茨木いばらぎせい寿ひさしいん
養母ようぼ徳川とくがわ光貞みつさだむすめさかえひめ
兄弟きょうだい よしけん吉良きら義周よしちか上杉うえすぎけんこう[1]かつあまねかちのべ
ゆたかひめ黒田くろだ長貞ながさだ正室せいしつ
やしなえ兄弟きょうだい[2]つるひめ島津しまつつなたか継室けいしつ
阿久あくさとし津軽つがるまさししつ
酒井さかい忠平ちゅうへいむろのち大炊おおい御門みかどけいおんしつ
つま 正室せいしつ黒田くろだつなせいむすめ
継室けいしつとして婚約こんやく鍋島なべしまよししげる養女ようじょ[3]
側室そくしつ山中やまなかさち寿ことぶきいん)、山本やまもと
そうけん宗房むねふさ畠山はたけやま義紀よしのり重定しげさだ
テンプレートを表示ひょうじ

上杉うえすぎ よしけん(うえすぎ よしのり)は、江戸えど時代じだい中期ちゅうき大名だいみょう出羽でわこく米沢よねざわはん5だい藩主はんしゅ山内やまうち上杉うえすぎ21だい当主とうしゅ

経歴けいれき

[編集へんしゅう]

貞享ていきょう元年がんねん1684ねん)、4だい藩主はんしゅ上杉うえすぎつなけんの庶長子ちょうしとして誕生たんじょうした。庶子しょしではあったが、ちち正室せいしつさかえひめとのあいだ嫡子ちゃくしがなかったので、さかえひめ養母ようぼとして正式せいしき世子せいしとなり、喜平きへい改名かいめいした。元禄げんろく11ねん1698ねん)11月28にち元服げんぷくし、したがえよんみん大輔だいすけ叙任じょにん。5だい将軍しょうぐん徳川とくがわ綱吉つなよしへんいみなよしけん名乗なのった。元禄げんろく16ねん1703ねん)8がつ21にちちち隠居いんきょにより家督かとくいだ。同日どうじつ侍従じじゅう兼任けんにん

宝永ほうえい元年がんねん9がつ1704ねん9がつ)、家督かとく相続そうぞく早々そうそう江戸えど幕府ばくふより江戸城えどじょう半蔵門はんぞうもん清水しみずもん石垣いしがき普請ふしんめいじられた。宝永ほうえい2ねん1705ねん)に米沢よねざわはつ入部にゅうぶした。またこのとし片山かたやまもとはんまねく。とおる4ねん1719ねん)にはおとうとかつあまねに1まんせき分与ぶんよしてささえはんである米沢よねざわ新田しんでんはんたてはんさせた。先述せんじゅつ普請ふしん手伝てつだいなどもあってはん財政ざいせい窮乏きゅうぼうすすみ、参勤交代さんきんこうたい費用ひようにすら事欠ことか有様ありさまで、とおる5ねん1720ねん)の参勤交代さんきんこうたいさいには藩士はんしの俸禄100せきちゅうの300ぶん人別にんべつぜに100ぶん徴収ちょうしゅうして江戸えどへのみちてた。また藩士はんし各々おのおの窮乏きゅうぼうし、正徳まさのり年間ねんかんにはすで中級ちゅうきゅう武士ぶしうままわりくみなかですら、家財かざいって、また細工ざいくぶつをして生計せいけいてるなどのものおおくなった。

とおる7ねん1722ねん)、死去しきょした。享年きょうねん39。墓所はかしょ米沢よねざわあと長男ちょうなんそうけんいだ。

系譜けいふ

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 早世そうせい
  2. ^ いずれも吉良きら義央よしなかむすめ
  3. ^ 婚約こんやくちゅう死去しきょ

えんじた俳優はいゆう

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]