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中村なかむら不折ふせつ

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中村なかむら不折ふせつ肖像しょうぞう
海岸かいがんさんにんむすめ」1939ねん東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん

中村なかむら 不折ふせつ(なかむら ふせつ、1866ねん8がつ19にち慶応けいおう2ねん7がつ10日とおか) - 1943ねん昭和しょうわ18ねん6月6にち)は、明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわ活躍かつやくした日本にっぽん洋画ようが書家しょかせい太平洋たいへいよう美術びじゅつ学校がっこう校長こうちょう夏目なつめ漱石そうせき吾輩わがはいねこである』の挿絵さしえ画家がかとしてられる。本名ほんみょう:中村なかむら鈼太ろう(なかむら さくたろう)。

中国ちゅうごくしょ収集しゅうしゅうとしてもられ、とうだい書家しょかであるかおきょう現存げんそんする唯一ゆいいつ真蹟しんせきといわれる「かおきょう自書じしょけんちゅうつげじょう」などを収集しゅうしゅうし、1936ねん台東たいとう根岸ねぎし旧宅きゅうたくあと書道しょどう博物館はくぶつかんげん台東たいとう区立くりつ書道しょどう博物館はくぶつかん)を開館かいかんした。

経歴けいれき

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伊那いなだて高遠こうえん図書館としょかんにあるおりしょ

ちち源蔵げんぞうはは・りゅうの子供こどもとして江戸えど京橋きょうばし八丁堀はっちょうぼりげん中央ちゅうおうみなと)にまれる。幼名ようみょうは鈼太ろう1870ねんには明治維新めいじいしん混乱こんらんけ、一家いっかをあげちち郷里きょうり長野ながのけん高遠たかとおげん長野ながのけん伊那いな)へかえる。幼少ようしょうよりこのみ、ものかたちうつすことをたのしみとした。19さいとき北原きたはら安定あんてい漢籍かんせき真壁まかべくもきょう南画なんが白鳥はくちょうつたなあんしょまなぶ。西高遠にしたかとお学校がっこう授業じゅぎょうせい代用だいよう教員きょういん)となる。21さいとき西にし伊那部いなべ学校がっこうじょきょうとなる。22さいとき飯田いいだ小学校しょうがっこう図画ずが数学すうがく教師きょうしとなる。担任たんにん生徒せいと菱田ひしだ春草しゅんそう樋口ひぐち龍峡りゅうきょうがいた[1]夏期かき休暇きゅうか利用りようして河野こうの次郎じろう洋画ようが初歩しょほまなぶ。

上京じょうきょう正岡まさおか子規しきとの出会であ

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中村なかむら不折ふせつ・いと夫妻ふさい

1887ねん4がつ上京じょうきょうし、高橋たかはし是清これきよかんみながら、じゅく不同ふどうしゃ」に入門にゅうもん小山こやま正太郎しょうたろう師事しじまなんだ。25さいときだい2かい明治めいじ美術びじゅつかい展覧てんらんかい水彩すいさい3てん出品しゅっぴん1891ねん油彩ゆさいはじめ、現存げんそんする最初さいしょ作例さくれい自画像じがぞう」を制作せいさく。28さいときだい5かい明治めいじ美術びじゅつかい展覧てんらんかいに「あわれむべし自宅じたく写生しゃせい」ほかを出品しゅっぴんした。

1894ねんには正岡子規まさおかしき出会であい、日本にっぽん新聞しんぶんしゃ発行はっこうする新聞しんぶん日本にっぽん』の記者きしゃとなり、新聞しんぶんしょう日本にっぽん』の挿絵さしえ担当たんとうする。新聞しんぶんしょう日本にっぽん』126ごう俳句はいく掲載けいさいされ、はじめて「不折ふせつ」の使用しようする。30さいとき正岡まさおか子規しきとともににちしん戦争せんそう従軍じゅうぐんし、中国ちゅうごくわたしょ興味きょうみつ。

31さいとき堀場ほりばいとと結婚けっこん日本にっぽん新聞しんぶんしゃ入社にゅうしゃつづ挿絵さしえ担当たんとうする。34さいときだい10かい明治めいじ美術びじゅつ展覧てんらんかいに「あわけむり」「紅葉こうようむら」を出品しゅっぴん。「紅葉こうようむら」は1900ねんパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい褒賞ほうしょう受賞じゅしょうする。その下谷しもたに中根なかねがん31番地ばんち画室がしつ新築しんちく転居てんきょした。

わたりふつ帰国きこく

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1901ねん6がつにはフランスわたラファエル・コラン師事しじする。島崎しまざき藤村とうそん刊行かんこうした『落梅しゅう』の挿絵さしえ担当たんとう。37さいときアカデミー・ジュリアンてんじ、ジャン=ポール・ローランスらから指導しどうけ、39さいでジュリアンじゅくのコンクールに入賞にゅうしょう。また沼田ぬまた一雅かずまさおか精一せいいちとともにムードンおもむき、オーギュスト・ロダン訪問ほうもんして署名しょめいりのデッサンをもらう。同郷どうきょう荻原おぎわら碌山ろくざんパリ留学りゅうがくするとその面倒めんどうた。

フランス留学りゅうがくから1905ねん帰国きこくは、明治めいじ美術びじゅつかい後身こうしんである太平洋たいへいよう画会がかい所属しょぞくし、おも歴史れきし分野ぶんや活躍かつやくして東西とうざい歴史れきし題材だいざいとする油絵あぶらえおおえがいた。1907ねん時期じき作品さくひんである「建国けんこく剏業」は東京とうきょう主催しゅさいの「勧業かんぎょう博覧はくらんかい」に出品しゅっぴんされだい1とう受賞じゅしょうしたが、天皇てんのう祖先そせんしんたるてんあきら大神おおがみとそれを守護しゅごする7にん男神おかみたちをすべてはだかえがいたため、当時とうじ文部もんぶ大臣だいじんであった九鬼くき隆一りゅういちは「不敬ふけいである」と激怒げきどした。なおこの作品さくひん関東大震災かんとうだいしんさい焼失しょうしつしてしまった。

作家さっかとの交流こうりゅう

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夏目なつめ漱石そうせき吾輩わがはいねこである上巻じょうかん挿絵さしえ(1905ねん刊行かんこう

また、もり鷗外夏目なつめ漱石そうせきらの作家さっかともしたしく、挿絵さしえ題字だいじ手掛てがけることもおおかった。

島崎しまざき藤村とうそん詩集ししゅう若菜わかなしゅう』(1897ねん)、『一葉いちようぶね』(1898ねん)の挿絵さしえ担当たんとうした。

1905ねんに『吾輩わがはいねこである上巻じょうかん刊行かんこうされ挿絵さしええがいた。漱石そうせきおりてて「発売はつばいからわずか20日はつか初版しょはんれ、それはおり軽妙けいみょう挿絵さしえのおかげであり、おおいにげの景気けいきたすけてくれたことを感謝かんしゃする」というむね手紙てがみおくっている[2]

よく1906ねんには、伊藤いとう左千夫さちお小説しょうせつ野菊のぎくはか』の挿絵さしえ手掛てがけている。

1922ねん7がつ9にちもり鷗外がぼっしたさいは、

はかもり林太郎りんたろうそといちモホルラスしょ中村なかむら不折ふせつ依託いたくみや内省ないせい陸軍りくぐん榮典えいてん絶對ぜったいリヤメヲ請フ

との遺言ゆいごんにより、おり墓碑銘ぼひめい揮毫きごうした。

書道しょどう博物館はくぶつかん創設そうせつ

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台東たいとう区立くりつ書道しょどう博物館はくぶつかん(2014ねん撮影さつえい

その日本にっぽん新聞しんぶんしゃ退社たいしゃ朝日新聞社あさひしんぶんしゃ社員しゃいんとなる。43さいときりゅうねむりじょう』を刊行かんこう前田まえだだまおおとりらと健筆けんぴつかい結成けっせい。47さいとき河東かわとう碧梧桐へきごとうらと『りゅうねむりかい』を結成けっせい。『らんていじょ刊行かんこう。49さいとき東京とうきょう大正たいしょう博覧はくらんかいに「くるわしかきよし出品しゅっぴん。「永寿えいじゅねんさんがつびん」を入手にゅうしゅ。50さいとき下谷しもたに上根岸かみねぎし125番地ばんちげん台東たいとう根岸ねぎし2丁目ちょうめ)に転居てんきょする。『芸術げいじゅつ解剖かいぼうがく』『あかかべ発行はっこう。51さいとき折山おりやまじんへいたつ溌墨はつぼくだい1しゅうだい2しゅう刊行かんこうだい10かい文展ぶんてんに「黎明れいめい」「たそがれ」を出品しゅっぴん。64さいとき太平洋たいへいよう美術びじゅつ学校がっこう開校かいこう初代しょだい校長こうちょう就任しゅうにんした。

晩年ばんねんは、みずか長年ながねんにわたり収集しゅうしゅうした書道しょどう資料しりょうのコレクションを保存ほぞん展示てんじすべく「書道しょどう博物館はくぶつかん」の創設そうせつ尽力じんりょくし、67さいとき博物館はくぶつかん創設そうせつ着手ちゃくしゅする。70さいとき帝国ていこく美術びじゅついん改組かいそしその会員かいいんとなる。このころ書道しょどう博物館はくぶつかん文部省もんぶしょうより財団ざいだん法人ほうじん認可にんかける。71さいとき1936ねん昭和しょうわ11ねん)に書道しょどう博物館はくぶつかん開館かいかんし、同年どうねん11がつ3にち開館かいかんしきおこなわれた。72さい帝国ていこく芸術げいじゅついん入会にゅうかい。1943ねん昭和しょうわ18ねん)6がつ6にち夕刻ゆうこく脳溢血のういっけつのため下谷しもたに自宅じたくにて急死きゅうし享年きょうねん78さい[3]。6月10にちちゅう根岸ねぎしえいしょうてらにて告別こくべつしきおこなわれ、多磨たま霊園れいえん埋葬まいそうされた。

おり没後ぼつごは、書道しょどう博物館はくぶつかん遺族いぞく運営うんえいしていたが[注釈ちゅうしゃく 1]1995ねん平成へいせい7ねん)に閉館へいかん台東たいとう寄贈きぞうされた。1999ねん平成へいせい11ねん)に「中村なかむら不折ふせつ記念きねんかん」が完成かんせいよく2000ねん平成へいせい12ねん)に「台東たいとう区立くりつ書道しょどう博物館はくぶつかん」としてオープンした。

おり作品さくひん

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絵画かいが作品さくひん

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油彩ゆさいなど
挿絵さしえなど

書道しょどう作品さくひん

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おり揮毫きごうした新宿しんじゅく中村屋なかむらやのロゴ

書家しょかとしては、もり鴎外おうがい墓碑銘ぼひめい揮毫きごうしたほか、個人こじん墓石はかいし文字もじ中心ちゅうしん全国ぜんこくに15ほどの石碑せきひ確認かくにんできる[4]

また中国ちゅうごくしょ拓本たくほん収集しゅうしゅう費用ひようまかなうため、様々さまざま企業きぎょう商品しょうひんロゴ手掛てがけた。有名ゆうめいなものに清酒せいしゅ日本にっぽんもり」のロゴがある。現在げんざいおりしょ宮坂みやさか醸造じょうぞう清酒せいしゅ真澄ますみ」や新宿しんじゅく中村屋なかむらやのロゴとしてもちいられている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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出典しゅってん

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  1. ^ つる田平たひらはちろうほかへん中村なかむら不折ふせつ信濃しなの毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ昭和しょうわ60ねん発行はっこう、228ページ
  2. ^ 吾輩わがはいねこデアル」挿絵さしえ”. 台東たいとうヴァーチャル美術館びじゅつかん. 台東たいとう区役所くやくしょ. 2015ねん10がつ3にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2015ねん10がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ 中村なかむら不折ふせつ 独立どくりつ行政ぎょうせい法人ほうじん国立こくりつ文化財ぶんかざい機構きこう 東京とうきょう文化財ぶんかざい研究所けんきゅうじょデータベース
  4. ^ はやしあつし近世きんせい近代きんだい著名ちょめい書家しょかによる石碑せきひ集成しゅうせい 下部かぶづる巌谷いわや一六いちろく金井かないきんほらら28めい1500』「中村なかむら不折ふせつ石碑せきひ一覧いちらんひょう」に収録しゅうろく勝山かつやましろ博物館はくぶつかん、2017ねん

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外部がいぶリンク

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