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二元論 にげんろん (にげんろん、dualism)とは、世界 せかい や事物 じぶつ の根本 こんぽん 的 てき な原理 げんり として、それらは背反 はいはん する二 ふた つの原理 げんり や基本 きほん 的 てき 要素 ようそ から構成 こうせい される、または二 ふた つからなる区分 くぶん に分 わ けられるとする概念 がいねん のこと。例 たと えば、原理 げんり としては善 ぜん と悪 あく 、要素 ようそ としては精神 せいしん と物体 ぶったい など。二元論 にげんろん 的 てき な考 かんが え方 かた は、それが語 かた られる地域 ちいき や時代 じだい に応 おう じて多岐 たき に渡 わた っている。二元 にげん 説 せつ とも言 い われるが、論理 ろんり 学 がく における矛盾 むじゅん 原理 げんり および排中 はいちゅう 原理 げんり とは異 こと なる。
言説 げんせつ が多岐 たき に渡 わた る理由 りゆう は論点 ろんてん の相違 そうい に求 もと められる。古 ふる くは存在 そんざい 論 ろん の解釈 かいしゃく 手段 しゅだん であり、論 ろん の一部 いちぶ であったと言 い える。存在 そんざい 論 ろん は古 ふる くから客観 きゃっかん 的 てき (今日 きょう 的 てき には科学 かがく 的 まと )態度 たいど で記述 きじゅつ するか、主観 しゅかん 的 てき 態度 たいど で記述 きじゅつ するかの違 ちが いがあった。前者 ぜんしゃ はさらに通 つう 時 じ 的 てき に原因 げんいん 論 ろん (因果 いんが 論 ろん )で捉 とら える場合 ばあい と、共 とも 時 じ 的 てき に位相 いそう 論 ろん (位相 いそう 空間 くうかん 論 ろん )的 てき に捉 とら える場合 ばあい とに分 わ かれる。後者 こうしゃ も精神 せいしん と物質 ぶっしつ のような微視的 びしてき な視点 してん と、自己 じこ と宇宙 うちゅう のような巨視的 きょしてき な視点 してん に分 わ かれる。
それらが玉石混淆 ぎょくせきこんこう で論議 ろんぎ されてきたため、時代 じだい が下 くだ るにつれて善悪 ぜんあく 二元論 にげんろん のような人間 にんげん 社会 しゃかい 的 てき な二元論 にげんろん に陥 おちい ってしまったと言 い える。
1966年 ねん 、仏教 ぶっきょう 学者 がくしゃ のエドワード・コンツェはメディアン会議 かいぎ において、アイザック・ヤコブ・シュミットの初期 しょき の提案 ていあん を受 う けて執筆 しっぴつ された論文 ろんぶん 「Buddhism and Gnosis」の中 なか で、大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう とグノーシス主義 しゅぎ との現象 げんしょう 学 がく 的 てき な共通 きょうつう 点 てん を指摘 してき している。克服 こくふく されずに残 のこ っている、あるいは克服 こくふく するためには特別 とくべつ な霊的 れいてき 知識 ちしき を必要 ひつよう とする邪悪 じゃあく な傾向 けいこう の存在 そんざい を釈迦 しゃか が説 と く限 かぎ りにおいて仏教 ぶっきょう は、「反 はん 宇宙 うちゅう 論 ろん 」・「反 はん 宇宙 うちゅう 的 てき 二元論 にげんろん 」で知 し られているグノーシス主義 しゅぎ の一派 いっぱ だとしている。
グノーシス主義 しゅぎ は物理 ぶつり 的 てき 世界 せかい 、肉体 にくたい 的 てき 世界 せかい から「霊的 れいてき 知識 ちしき ・認識 にんしき 」によって救済 きゅうさい されるとする反 はん 宇宙 うちゅう 的 てき 二元論 にげんろん 、極端 きょくたん な霊肉 れいにく 二元論 にげんろん をとる。人間 にんげん が肉体 にくたい 、宇宙 うちゅう 等 とう の非 ひ 本来 ほんらい 的 てき なものによって阻害 そがい されているという反 はん 宇宙 うちゅう 的 てき 二元論 にげんろん の立場 たちば から、物理 ぶつり 的 てき な宇宙 うちゅう を超 こ える超越 ちょうえつ 的 てき 存在 そんざい と人間 にんげん の本来 ほんらい 的 てき 自己 じこ の本質 ほんしつ 的 てき 同一 どういつ の「認識 にんしき 」を救済 きゅうさい とみなす。コンツェの8つの類似 るいじ 点 てん に基 もと づいて、ホーラーは解放 かいほう のための洞察 どうさつ であるグノーシスとジュニャーナ 、智慧 ちえ をソフィアと般若 はんにゃ として擬人 ぎじん 化 か すること、洞察 どうさつ 力 りょく の欠如 けつじょ であるアグノーシスと無明 むみょう によって、この世 よ に閉 と じ込 こ められるなどの類似 るいじ 点 てん を挙 あ げている。
仏教 ぶっきょう の宇宙 うちゅう 論 ろん では極楽 ごくらく 、東方 とうほう 浄瑠璃 じょうるり 世界 せかい 、妙 みょう 喜 き 世界 せかい 、八大地獄 はちだいじごく 、十 じゅう 界 かい 等 ひとし の物理 ぶつり 的 てき 宇宙 うちゅう には存在 そんざい しない複数 ふくすう の超越 ちょうえつ 的 てき 世界 せかい を規定 きてい することがある。密教 みっきょう におけるパーターラ 等 ひとし もある。
古代 こだい インドにおいては、自我 じが を自己 じこ の内部 ないぶ に追求 ついきゅう し、呼吸 こきゅう や思考 しこう や自意識 じいしき の背後 はいご に心臓 しんぞう に宿 やど っている親指 おやゆび の大 おお きさのプルシャ を想定 そうてい し、アートマン とこれを呼 よ び、現象 げんしょう 界 かい の背後 はいご にある唯一 ゆいいつ の実在 じつざい をブラフマン と呼 よ んだ(アートマンとブラフマンの二元論 にげんろん )。だが、このアートマンとブラフマンの二元論 にげんろん は、小宇宙 しょううちゅう と大 だい 宇宙 うちゅう の照応 しょうおう 観念 かんねん を背景 はいけい としたウパニシャッド の神秘 しんぴ 主義 しゅぎ 的 てき なウパーサナ(upasana、同 どう 置 おけ )の直感 ちょっかん のなかで、アートマン=ブラフマン (梵我一如 いちにょ 、ぼんがいちにょ)として、一元論 いちげんろん に還元 かんげん されることになった。
サーンキャ学派 がくは [7] は、人間 にんげん に内在 ないざい するアートマン の超越 ちょうえつ 性 せい を強調 きょうちょう し、精神 せいしん 原理 げんり のプルシャ と物質 ぶっしつ 原理 げんり のプラクリティ を抽出 ちゅうしゅつ し、体系 たいけい 的 てき な二元論 にげんろん を構築 こうちく した。その体系 たいけい は、普遍 ふへん のプルシャと結合 けつごう したプラクリティから、統覚 とうかく 機能 きのう 、自我 じが 意識 いしき 、思考 しこう 器官 きかん 、10器官 きかん 、5微細 びさい 元素 げんそ 、5粗大 そだい 元素 げんそ へと分 わ かれる、25原理 げんり の図式 ずしき を備 そな えている。これを今 いま 述 の べた順 じゅん に降下 こうか する方向 ほうこう で理解 りかい すると宇宙 うちゅう 論 ろん となる。反対 はんたい に上 のぼ る方向 ほうこう で辿 たど ると、ヨーガ の深化 しんか に対応 たいおう する、人間 にんげん 存在 そんざい が備 そな えている重層 じゅうそう 的 てき な主観 しゅかん /客観 きゃっかん の二元論 にげんろん 構造 こうぞう を示 しめ すことになる。つまり、精神 せいしん /外界 がいかい 、思考 しこう /対象 たいしょう 、自我 じが 意識 いしき /表象 ひょうしょう 、意識 いしき /無意識 むいしき 、自我 じが /非 ひ 自我 じが といった二元論 にげんろん の広 ひろ いテーマを内包 ないほう している。さらに究極 きゅうきょく の二 に 元 げん はプルシャの解脱 げだつ のために結合 けつごう し、世界 せかい を開 ひらけ 展 てん するとされる。目的 もくてき 論 ろん 的 てき に結合 けつごう する。この二 に 元 げん は、さらに高次 こうじ の存在 そんざい により統合 とうごう される一元論 いちげんろん を内 うち に孕 はら んでいる。
『バガヴァッド・ギーター 』においては、サーンキャ学派 がくは の二元論 にげんろん をベースとしつつ、クリシュナ 神 かみ が至高 しこう の存在 そんざい と宣言 せんげん される。また、タントラにおいても、シヴァ神 しん とシャクティ神 かみ 妃 ひ という二元 にげん が合一 ごういつ し、一元 いちげん となることで解脱 げだつ する。
神秘 しんぴ 主義 しゅぎ (神秘 しんぴ 論 ろん )においては、世界 せかい を大 おお きく二 ふた つの範疇 はんちゅう (分類 ぶんるい )に分 わ けて認識 にんしき ・理解 りかい するという人間 にんげん の性質 せいしつ を意味 いみ している。例 たと えば、人 ひと が木 き を認識 にんしき する際 さい に、周 まわ りの木 き でないものと分 わ かつものとして木 き を認識 にんしき する、また世界 せかい と自己 じこ を分 わ かつものとして、自己 じこ を理解 りかい するということである。
太極 たいきょく 図 ず
中国 ちゅうごく を中心 ちゅうしん に発達 はったつ した陰陽 いんよう 思想 しそう では、世界 せかい は陰 かげ と陽 ひ の二 ふた つの要素 ようそ から成 な り立 た っていると考 かんが える。具体 ぐたい 的 てき には光 ひかり と闇 やみ 、昼 ひる と夜 よる 、男 おとこ と女 おんな 、剛 つよし と柔 やわら などにそれぞれ陽 ひ と陰 かげ の属性 ぞくせい が対応 たいおう すると考 かんが えられた。この場合 ばあい 二 ふた つは必 かなら ずしも対立 たいりつ することを意味 いみ せず、むしろ調和 ちょうわ するもの、調和 ちょうわ すべきものと捉 とら える。そして、一元化 いちげんか はしない。そういう点 てん では善悪 ぜんあく 二元論 にげんろん に陥 おちい りがちな、一神教 いっしんきょう が唱 とな える究極 きゅうきょく 的 てき には一元化 いちげんか するものと考 かんが える二元論 にげんろん とは、大 おお きく違 ちが っている。
道教 どうきょう (タオイズム)老子 ろうし は相 あい 待 まち を説 と く。例 たと えば、美 び は醜 みにく があるから、相反 あいはん するものと比較 ひかく するから、美 うつく しいのであるとする相対 そうたい である。相互 そうご いに待 ま っているとする。男 おとこ と女 おんな のようなものでの二元論 にげんろん だ。善 ぜん も悪 あく があるからである。比較 ひかく しながらも必要 ひつよう とする二 ふた つのものだ。
3000年 ねん 前 まえ より始 はじ まり現在 げんざい も信仰 しんこう されているゾロアスター教 きょう や、すでに消滅 しょうめつ したグノーシス主義 しゅぎ 、それらから影響 えいきょう を受 う けたマニ教 きょう 、ボゴミール派 は 、カタリ派 は などの宗教 しゅうきょう は、二元論 にげんろん 的 てき である。
神学 しんがく における二元論 にげんろん [ 編集 へんしゅう ]
神学 しんがく における二元論 にげんろん は、世界 せかい における二 ふた つの基本 きほん 原理 げんり として、例 たと えば善 ぜん と悪 あく というようなお互 たが いが背反 はいはん する人格 じんかく 化 か された神 かみ 々の存在 そんざい に対 たい する確信 かくしん という形 かたち で現 あらわ れている。そこでは、一方 いっぽう の神 かみ は善 ぜん であり、もう一方 いっぽう の神 かみ は悪 あく である。また、秩序 ちつじょ の神 かみ と混沌 こんとん の神 かみ として表 あらわ されることもある。
3世紀 せいき 、キリスト教徒 きりすときょうと の異端 いたん 者 しゃ であったシノペのマルキオン は、新約 しんやく 聖書 せいしょ と旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ はそれぞれ背反 はいはん する二 ふた つの神 かみ の御 ご 業 ぎょう だと考 かんが えた。
心 しん の哲学 てつがく における二元論 にげんろん [ 編集 へんしゅう ]
心 しん の哲学 てつがく における二元論 にげんろん は、まったく異 こと なる種類 しゅるい のものとして認識 にんしき される、心 こころ (精神 せいしん )と物質 ぶっしつ の関係 かんけい についての見方 みかた を示 しめ すものである。このような二元論 にげんろん はしばしば心身 しんしん 二元論 にげんろん とも呼 よ ばれる。
これと対照 たいしょう をなすものとして、心 しん も物質 ぶっしつ も根本 こんぽん 的 てき には同 おな じ種類 しゅるい のものだとする一元論 いちげんろん がある。
歴史 れきし 的 てき に最 もっと も有名 ゆうめい な二元論 にげんろん としてデカルトの実体 じったい 二元論 にげんろん がある。この時代 じだい の二元論 にげんろん は、法則 ほうそく に支配 しはい された機械 きかい 論 ろん 的 てき な存在 そんざい である物質 ぶっしつ と、思 おもえ 推実体 たい や霊魂 れいこん などと呼 よ ばれる能動 のうどう 性 せい をもつ(つまり自由 じゆう 意志 いし の担 にな い手 て となりうる)なにものかを対置 たいち した。
現代 げんだい の心 しん の哲学 てつがく の分野 ぶんや における二元論 にげんろん はデカルトの時代 じだい のものや心身 しんしん 相互 そうご 作用 さよう 説 せつ とは大 おお きく変化 へんか しており、物理 ぶつり 的 てき なものと対置 たいち させるものとして、主観 しゅかん 的 てき な意識 いしき 的 てき 体験 たいけん (現象 げんしょう 意識 いしき やクオリア )を考 かんが える。その上 うえ で性質 せいしつ 二元論 にげんろん または中立 ちゅうりつ 一元論 いちげんろん 的 てき な立場 たちば から議論 ぎろん を展開 てんかい する。こうした立場 たちば の議論 ぎろん で有名 ゆうめい なものとして例 たと えば、デイヴィッド・チャーマーズ の自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき 二元論 にげんろん 、コリン・マッギン の新 しん 神秘 しんぴ 主義 しゅぎ などがある。
現代 げんだい の文脈 ぶんみゃく でこうした二元論 にげんろん と対立 たいりつ するのは物的 ぶってき 一元論 いちげんろん 、つまり唯物 ゆいぶつ 論 ろん 、物理 ぶつり 主義 しゅぎ などと呼 よ ばれる立場 たちば である。有名 ゆうめい な立場 たちば として同 どう 一説 いっせつ 、機能 きのう 主義 しゅぎ 、表象 ひょうしょう 説 せつ 、高階 たかしな 思考 しこう 説 せつ などがある。
科学 かがく 哲学 てつがく における二元論 にげんろん [ 編集 へんしゅう ]
西洋 せいよう の科学 かがく 哲学 てつがく における二元論 にげんろん は、物事 ものごと を主体 しゅたい (観察 かんさつ 者 しゃ )と客体 かくたい (被 ひ 観察 かんさつ 者 しゃ )の二 ふた つに分 わ けて論 ろん じる方法 ほうほう を言 い う場合 ばあい が多 おお い。
批判 ひはん 者 しゃ は、このような二分 にぶん 法 ほう をその科学 かがく における致命 ちめい 的 てき な欠点 けってん だとしている。また社会 しゃかい 構築 こうちく 主義 しゅぎ の文献 ぶんけん では、この方法 ほうほう が主体 しゅたい と客体 かくたい の相互 そうご 作用 さよう に影響 えいきょう して、それをより複雑 ふくざつ なものにしてしまう可能 かのう 性 せい があると述 の べられている。
村上 むらかみ 真 しん 完 かん 『サーンクヤの哲学 てつがく - インドの二元論 にげんろん 』平楽 へいらく 寺 てら 書店 しょてん 、1982
ペトルマン『二元論 にげんろん の復権 ふっけん ―グノーシス主義 しゅぎ とマニ教 きょう 』教 きょう 文 ぶん 館 かん 、1985
宮元 みやもと 啓一 けいいち 『インドの「二元論 にげんろん 哲学 てつがく 」を読 よ む』春秋 しゅんじゅう 社 しゃ 、2008
Hoeller, Stephan A. (2012), Gnosticism: New Light on the Ancient Tradition of Inner Knowing , Quest Books
小学 しょうがく 館 かん 「グノーシス派 は 」『日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)』小学館 しょうがくかん 、コトバンク、2021a。 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)『グノーシス派 は 』 - コトバンク
ブリタニカ・ジャパン 「グノーシス派 は 」『ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん 』ブリタニカ・ジャパン、コトバンク、2021a。 ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん 『グノーシス派 は 』 - コトバンク
小学 しょうがく 館 かん 「グノーシス」『日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)』小学館 しょうがくかん 、コトバンク、2021b。 日本 にっぽん 大 だい 百科全書 ひゃっかぜんしょ (ニッポニカ)『グノーシス 』 - コトバンク
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Verardi, Givanni (1997), “The Buddhists, the Gnostics and the Antinomistic Society, or the Arabian Sea in the First Century AD” , AION 57 (3/4): 324–346, http://opar.unior.it/1042/1/Articolo_Verardi_pdf.pdf