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五十鈴いすず (けい巡洋艦じゅんようかん)

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五十鈴いすず
1944年に三菱重工業横浜造船所で改装後の「五十鈴」
1944ねん三菱重工業みつびしじゅうこうぎょう横浜よこはま造船ぞうせんしょ改装かいそうの「五十鈴いすず
基本きほん情報じょうほう
建造けんぞうしょ 浦賀うらが船渠せんきょ[1]
運用うんようしゃ  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
かんしゅ けい巡洋艦じゅんようかん
きゅうめい 長良ながらがた
かんれき
計画けいかく 1917ねん計画けいかく
発注はっちゅう 1919ねん
起工きこう 1920ねん8がつ10日とおか[1]
進水しんすい 1921ねん10月29にち[1]
竣工しゅんこう 1923ねん8がつ15にち[1]
最期さいご 1945ねん4がつ7にち沈没ちんぼつ
除籍じょせき 1945ねん6がつ20日はつか
要目ようもく計画けいかく
基準きじゅん排水はいすいりょう 公表こうひょう:5,170ロングトン (5,253 t)[1]
常備じょうび排水はいすいりょう 5,570ロングトン (5,659 t)[2]
全長ぜんちょう 162.15m
最大さいだいはば 14.17m
吃水きっすい 4.80m
機関きかん 90,000馬力ばりき
速力そくりょく 36.0ノット
乗員じょういん 竣工しゅんこう定員ていいん450めい[3]
へいそう 50口径こうけいいちよんねんしき14cmたんそうほう 77もん
40口径こうけいさんねんしき8cmたんそう高角こうかくほう 22もん
6.5mmたんそう機銃きじゅう 22てい
八年式連装魚雷発射管 48もん
機雷きらい48
搭載とうさい 滑走かっそうだい 1だい
航空機こうくうき1搭載とうさい可能かのう
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五十鈴いすず(いすず)は、大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐんけい巡洋艦じゅんようかん長良ながらがたの2ばんかんである。 かんめいかわで、三重みえけん伊勢いせ伊勢神宮いせじんぐう内宮ないくう)をながれる五十鈴川いすずがわよりづけられた[2]

概要がいよう

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完成かんせい高速こうそくけい巡洋艦じゅんようかんとして水雷すいらい戦隊せんたい旗艦きかんてきした優秀ゆうしゅうかんであり、歴代れきだい艦長かんちょうからはほり悌吉山本やまもと五十六いそろく山口やまぐち多聞たもん松永まつながさだ高須たかす四郎しろうはらあらわさんろう牧田まきたさとし三郎さぶろう津留つる雄三ゆうぞう松山まつやましげるなどのち著名ちょめいになった指揮しきかん輩出はいしゅつした。1944ねん9がつ14にちには防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんとして改装かいそうされた。

かんがた

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射出しゃしゅつ実験じっけん

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長良ながらがた建造けんぞうにはいまだ射出しゃしゅつ実用じつようされておらず、搭載とうさい自己じこのエンジンによるプロペラ加速かそくかん速力そくりょくによって発生はっせいする合成ごうせい風力ふうりょくによって滑走かっそうだいからはつかんする必要ひつようがあった。海軍かいぐんでは5,500トンがたけいめぐかくかんもちいてさまざまな方式ほうしき射出しゃしゅつ試作しさく実験じっけんおこなっており、五十鈴いすずにおいてもその実験じっけん経歴けいれきがある。

1929ねん3がつ五十鈴いすず滑走かっそうだい萱場かやばしきかんはつ促進そくしん装置そうちカタパルト)の試作しさくけられ、はつ射出しゃしゅつ実験じっけん成功せいこうした。萱場かやばしきかんはつ促進そくしん装置そうちはスプリングのちからにより加速かそくをつける方式ほうしき射出しゃしゅつであった。

萱場かやばしきかんはつ促進そくしん装置そうち同年どうねん4がつには五十鈴いすずから由良ゆら移設いせつされ、由良ゆらにてやく4年間ねんかん長期ちょうき実験じっけんおこなわれたが、火薬かやくしき射出しゃしゅつ実用じつようともな撤去てっきょされている。

戦時せんじ改装かいそう

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1944ねん改装かいそうではきゅうろくしき25mm連装れんそう機銃きじゅう2という対空たいくうへいそうから、前述ぜんじゅつのようにはちきゅうしき12.7cm連装れんそう高角こうかくほう36もんきゅうろくしき25mm3連装れんそう機銃きじゅう11たんそう25mm機銃きじゅう5九三式単装13mm機銃きじゅう8対空たいくうへいそうぞう備され、対空たいくう能力のうりょく飛躍ひやくてき向上こうじょうした。また、電波でんぱ兵器へいき21ごうでんさがせ対空たいくうよう)が艦橋かんきょうじょうに、22ごうでんさがせたい水上すいじょうよう)と13ごうでんさがせ対空たいくうよう)が後部こうぶマストに装備そうびされ(のこっている写真しゃしんから13ごうでんさがせ装備そうびはレイテおき海戦かいせんにはわず海戦かいせん装備そうびされたとかんがえられる)、たいせん兵器へいき水中すいちゅう聴音ちょうおん爆雷ばくらい投射とうしゃなど新式しんしきのものが装備そうびされた。なお、低下ていかした水上すいじょう戦闘せんとう能力のうりょくおぎなうために後部こうぶの2はちねんしき連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかんきゅうしき4連装れんそう魚雷ぎょらい発射はっしゃかんへの転換てんかんおこなわれ、これにより酸素さんそ魚雷ぎょらい発射はっしゃ能力のうりょくた。前部ぜんぶの2発射はっしゃかん撤去てっきょされてウェルデッキ廃止はいしされ、兵員へいいんしつてられた。

最終さいしゅうへいそう以下いかとおり。

かんれき

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1920ねん8がつ10日とおか起工きこう[4]。1921ねん10がつ29にち進水しんすい[4]。1923ねん6がつ10日とおか全力ぜんりょくこう試運転しうんてんちゅう漁船ぎょせん衝突しょうとつ事故じここした[5]同年どうねん8がつ15にち竣工しゅんこう[4]横須賀よこすか鎮守ちんじゅせき[4]

1923ねん12月1にちだいいち艦隊かんたいだいさん戦隊せんたい編入へんにゅう[4]。1924ねん12月1にちだい艦隊かんたいだい水雷すいらい戦隊せんたい編入へんにゅう[4]。1926ねん12月1にち予備よびかんとなる[4]。1927ねん3がつ3にちだいいち遣外けんがい艦隊かんたい編入へんにゅう[4]。1929ねん11月30にちうまこう要港ようこう警備けいびかんとなる[4]。1930ねん12月1にち横須賀よこすか鎮守ちんじゅ警備けいびかんとなる[4]。1931ねん5がつ15にち予備よびかんとなる[4]。1932ねん12月1にちうまこう要港ようこう警備けいびかんとなる[4]同年どうねん12がつ5にち台湾たいわんおき暴風雨ぼうふううにより沈没ちんぼつした駆逐くちくかん早蕨さわらび乗組のりくみいん救助きゅうじょ活動かつどうおこな[6]。1933ねん11月1にちだいいち艦隊かんたいだいなな戦隊せんたい編入へんにゅう[4]。1934ねん11月15にちだいいち艦隊かんたいだいはち戦隊せんたい編入へんにゅう[4]。1935ねん11月15にち予備よびかんとなる[4]。1936ねん12月1にちだいいち艦隊かんたいだいいち潜水せんすい戦隊せんたい編入へんにゅう[4]

1937ねん昭和しょうわ12ねん)8がつ21にち[7]五十鈴いすず123456戦艦せんかん長門ながと陸奥みちのく榛名はるな霧島きりしまとも多度津たどつこう出港しゅっこうし、長江ながえ河口かこう沿岸えんがんで23にちまで作戦さくせん行動こうどうおこな[よう出典しゅってん]

1937ねん12月1にちだい艦隊かんたいだい潜水せんすい戦隊せんたい編入へんにゅう[4]。1938ねん3がつ1にち予備よびかんとなる[4]。1939ねん11月15にちだい艦隊かんたいだいさん潜水せんすい戦隊せんたい編入へんにゅう[4]

1940ねん昭和しょうわ15ねん)10がつ11にち横浜よこはまこうおきおこなわれた紀元きげんせんろくひゃくねん特別とくべつ観艦式かんかんしき参加さんか[8]

1940ねん11月15にちだいろく艦隊かんたいだいさん潜水せんすい戦隊せんたい編入へんにゅう[4]。1941ねん9がつ15にちだい二遣支艦隊だいじゅう戦隊せんたい編入へんにゅう[4]

太平洋戦争たいへいようせんそう

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太平洋戦争たいへいようせんそう開戦かいせんにはすでに旧式きゅうしきしつつあったが、開戦かいせん劈頭へきとう香港ほんこん攻略こうりゃくせん参加さんかした。1942ねん昭和しょうわ17ねん4がつ10日とおかだいみなみ艦隊かんたいだいじゅうろく戦隊せんたい編入へんにゅう。5月、しょうスンダ列島れっとう戡定かんてい作戦さくせん参加さんか

9月、「五十鈴いすず」と「鬼怒きぬ」は陸軍りくぐん輸送ゆそう従事じゅうじした[9]。「五十鈴いすず」はだい二師団歩兵第十六連隊第三大隊の460めいせた[10]。「五十鈴いすず」と「鬼怒きぬ」は9月13にちにバタビアから出航しゅっこうし、アンボン経由けいゆで9がつ20日はつかにラバウルに到着とうちゃく[11]陸軍りくぐん部隊ぶたい一部いちぶろし、また青葉あおば支隊したい司令しれいやく80めいせるとショートランドへかった[12]。ショートランドには9月22にち到着とうちゃくし、陸軍りくぐん部隊ぶたいろした[11]。その五十鈴いすず」は前進ぜんしん部隊ぶたい編入へんにゅうとなり、9月25にちにトラックに到着とうちゃくし、だい水雷すいらい戦隊せんたい旗艦きかんとなった[13]


だいさんソロモン海戦かいせんの11月12にち夜戦やせんのちの11月13にちに「五十鈴いすず」や「鳥海とりうみ」、「衣笠きぬがさそと南洋なんよう部隊ぶたいぬしたいはガダルカナルとう飛行場ひこうじょう砲撃ほうげき実施じっし予定よてい支援しえんたい(「鈴谷すずや」、「摩耶まや」、「天龍てんりゅう」など)とともにショートランドを出撃しゅつげき[14]同日どうじつ支援しえんたいおもたいわかれてかんほう射撃しゃげき実施じっしし、そのりょう部隊ぶたいさい合流ごうりゅうした[15]。11月14にち、ショートランドへかう途中とちゅうに630ふんから9にかけて2空襲くうしゅうけて「衣笠きぬがさ沈没ちんぼつなどの被害ひがい発生はっせい[16]。「五十鈴いすず」も至近しきんだんけてだい2、だい3かんしつ満水まんすいかじ故障こしょう被害ひがいしょうじた[16]。「五十鈴いすず」は空襲くうしゅうけるなか落伍らくごしたところで被害ひがいけ、一時いちじ完全かんぜん停止ていししたが、煙幕えんまくして沈没ちんぼつ寸前すんぜんせかける作戦さくせんこうそうしたのかそれ以上いじょう攻撃こうげきけなかった[17]という。

損傷そんしょう復旧ふっきゅう以後いご輸送ゆそう救援きゅうえん活動かつどう従事じゅうじ

1943ねん4がつ1にちだいよん艦隊かんたいだいじゅうよん戦隊せんたい編入へんにゅう[18]

6がつ10日とおか空母くうぼたか」が三宅島みやけじまおきでアメリカ潜水せんすいかん雷撃らいげきかみなり[19]から横須賀よこすかかっていた「五十鈴いすず」はその救難きゅうなん曳航えいこうおこなった[19]。それから「五十鈴いすず」は横須賀よこすかでナウルへ派遣はけんされる横須賀よこすか鎮守ちんじゅだい特別とくべつ陸戦りくせんたいせ、6月16にちだいさん戦隊せんたいなどととも横須賀よこすか出発しゅっぱつして6がつ21にちにトラックにいた[20]

てき潜水せんすいかんによる被害ひがい増加ぞうかたいし、戦艦せんかん大和やまと」やだいじゅうよん戦隊せんたいなどのみず偵をパラオへ派遣はけんたいせん掃蕩そうとうにあたらせる命令めいれいが6がつ21にちされた[21]。「五十鈴いすずは、7がつ6にちにパラオにいている[22]

1943ねん9がつだいじゅうなな師団しだん南東なんとう方面ほうめん派遣はけん決定けっていされた[23]。まずひのとごう輸送ゆそう部隊ぶたいによる輸送ゆそうおこなわれ、つづいてだい輸送ゆそうのためのひのとよんごう輸送ゆそう部隊ぶたいだいじゅうよん戦隊せんたい(「那珂なか」、「五十鈴いすず」)、「木曾きそ」、「多摩たま」、「粟田あわたまる」、「日枝ひえまる」、「野分のわけ」、「まいふう」、「護國ごこくまる」、「清澄きよすみまる」、「やまくも」で編成へんせいされた[23]。このうち、だいじゅうよん戦隊せんたいは「やまくも」、「護國ごこくまる」、「清澄きよすみまる」とともにだい輸送ゆそうたいとなった[24]。10月11にちだい輸送ゆそうたいはトラックはつ[24]上海しゃんはいへとかった[24]。その途中とちゅう、「五十鈴いすず」はかみなりしたきゅうかてかん間宮まみや救援きゅうえんかっている[24]上海しゃんはい陸軍りくぐん部隊ぶたいせただい輸送ゆそうたいは10月28にちにトラックに到着とうちゃくした[24]。「五十鈴いすず」はりくへい471めいなどをのせていた[25]輸送ゆそう部隊ぶたい兵力へいりょく増強ぞうきょうにより「やまくも」がはずれてだいじゅうなな駆逐くちくたい編入へんにゅうされただい輸送ゆそうたいは11月1にちにトラックはつ[24]ラバウルかっただい輸送ゆそうたい空襲くうしゅうけて被害ひがいし、「五十鈴いすず」は航行こうこう不能ふのうとなった「清澄きよすみまる」を曳航えいこうして「那珂なか」、「いそふう」、「水無月みなつき」とともに11月4にちカビエンいた[26]。カビエンでは「清澄きよすみまる」から人員じんいん物件ぶっけんかんへの移動いどうおこなわれ、「五十鈴いすず」は追加ついか人員じんいん196めいなどをのせた[27]同日どうじつ、「五十鈴いすず」はカビエンでさわかみなりし1ばん、3ばん14センチほう旋回せんかい不能ふのうとなったが航行こうこう可能かのうであった[28]。これはオーストラリアのカタリナ飛行ひこうていによって敷設ふせつされた磁気じき機雷きらいによるもので、前部ぜんぶ2ばん14センチほうした爆発ばくはつした[27]だいじゅうよん戦隊せんたいは11月5にちにラバウルに陸軍りくぐん部隊ぶたい揚陸ようりくし、11月9にちにトラックにもどった[29]

アメリカぐんのギルバート諸島しょとうらいおさむによりタラワへの増援ぞうえん計画けいかくされ、11月21にちだいじゅうよん戦隊せんたいはトラックをはっしてポナペ陸軍りくぐん部隊ぶたいせ、11月25にちにクェゼリンにいた[30]。しかし、ギルバート奪還だっかん困難こんなん情勢じょうせいとなり、陸軍りくぐん部隊ぶたい一部いちぶミレおくられることとなった[31]だいじゅうよん戦隊せんたいは「かみなり」とともにこの輸送ゆそう従事じゅうじし、12月1にちにミレに到着とうちゃく[32]。12月2にち、クェゼリンにもどった[32]

12月5にち、アメリカぐん機動きどう部隊ぶたいがマーシャル諸島しょとう来襲らいしゅう。「五十鈴いすず」はルオットで空襲くうしゅうにあい、こう甲板かんぱんへの直撃ちょくげきだん[33]、または6ばん14センチほう[34]、もしくはその右側みぎがわばくだん3はつ命中めいちゅうなどで後部こうぶ弾薬だんやく浸水しんすい、スクリューじく3ほん使用しよう不能ふのう舵取かじとり主軸しゅじく折損せっそんなどの被害ひがいけた[35]うえ甲板かんぱん貫通かんつうした不発ふはつばくだん舵機だき機械きかいじくっていた[36]、との証言しょうげんもある。人的じんてき被害ひがい戦死せんし20めい負傷ふしょうしゃ40めいであった[33]。「五十鈴いすず」はおなじく空襲くうしゅう損傷そんしょうした「長良ながら」とともに現地げんち工作こうさくかんやましもまる」により応急おうきゅう修理しゅうりけ、そのトラックへかった[37]。12月12にち、トラック入港にゅうこう[37]。1944ねん1がつ17にち、トラックはつ[18]。1月23にち横須賀よこすか[18]

横須賀よこすか工廠こうしょう三菱みつびし横浜よこはま造船ぞうせんしょ修理しゅうりおこなわれ、同時どうじ防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんへと改造かいぞうされた[38]。これにより、14センチほう航空こうくうへいそう撤去てっきょされてはちきゅうしき12.7センチ連装れんそう高角こうかくほう3装備そうびされたほか、魚雷ぎょらい発射はっしゃかんきゅうしき4連装れんそう発射はっしゃかん2への変更へんこういちごういちさんごうごうでんさがせ水中すいちゅうさがせしんじ水中すいちゅう聴音ちょうおん爆雷ばくらい投射とうしゃ爆雷ばくらい投下とうか軌条きじょう装備そうびなどがなされた[39]

だいさんじゅういち戦隊せんたい

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1944ねん8がつ20日はつか、「五十鈴いすず」はたいせん掃討そうとう部隊ぶたいとして編成へんせいされただいさんじゅういち戦隊せんたい旗艦きかんとなった[40]もとは「名取なとり」が旗艦きかんにあてられる予定よていであったが、「名取なとり」よりでんさがせみずはか兵器へいき充実じゅうじつしていたことや「名取なとり」の戦没せんぼつにより「五十鈴いすず」が旗艦きかんになることとなった[41]

1944ねん昭和しょうわ19ねん9月14にち改装かいそうえた五十鈴いすずたいせん掃討そうとう従事じゅうじすることなく、だいいち機動きどう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん小沢おざわおさむ三郎さぶろう中将ちゅうじょう指揮しきだいさん艦隊かんたい一員いちいんとしてレイテおき海戦かいせん投入とうにゅうされた。これは機動きどう部隊ぶたい前衛ぜんえいになうはずだっただいゆうげき部隊ぶたい指揮しきかん志摩しま清英きよひでだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん)を台湾たいわんおき航空こうくうせん残敵ざんてき掃討そうとう投入とうにゅうしたため、機動きどう部隊ぶたい直衛なおえ不足ふそくしたための臨時りんじ措置そちである。レイテおき海戦かいせんエンガノみさきおき海戦かいせんにおいて、てき13うち4確実かくじつ撃墜げきつい報告ほうこくしている(実戦じっせんはて不明ふめい)。この戦闘せんとうで、小沢おざわ機動きどう部隊ぶたい本隊ほんたい空母くうぼ4せきみずづる瑞鳳ずいほう千歳ちとせ千代田ちよだ)、けいじゅん1せき多摩たま)、駆逐くちくかん2せき秋月しゅうげつはつつき)を喪失そうしつした[42]

小沢おざわ機動きどう部隊ぶたい残存ざんそん部隊ぶたい日向ひなた小沢おざわ中将ちゅうじょう座乗ざじょう〉、伊勢いせ大淀おおよど五十鈴いすず若月わかつき霜月しもづきくわまききりすぎ)は27にち奄美あまみ大島おおしまり、ここで2せき大淀おおよど若月わかつき)は内地ないちにもどらずマニラにかった[42]五十鈴いすずは10月29にち帰着きちゃく修理しゅうりをおこなった[42]。まもなくだいいち機動きどう艦隊かんたいおよびだいさん艦隊かんたいかいたいされた[43]

ごう作戦さくせん

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当時とうじレイテ島れいてとうでは上陸じょうりくしてきた連合れんごうぐん日本にっぽんぐん守備しゅびたいあいだ激戦げきせんがくりひろげられており(レイテ島れいてとうたたか)、日本にっぽんぐんレイテ島れいてとう増援ぞうえん輸送ゆそう作戦さくせんごう作戦さくせん呼称こしょうして多数たすう水上すいじょう部隊ぶたい投入とうにゅうしていた[44]。11月11にちごう作戦さくせんだいさん輸送ゆそう部隊ぶたいレイテ島れいてとうオルモックわんべいぐん機動きどう部隊ぶたい艦載かんさい多数たすう襲撃しゅうげきけて駆逐くちくかんあさしものこして全滅ぜんめつ旗艦きかんしまふう沈没ちんぼつだい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん早川はやかわ幹夫みきお少将しょうしょう戦死せんしした[45]日本にっぽん海軍かいぐんは11月15にち戦時せんじ編制へんせい改定かいていをおこない、だいじゅう戦隊せんたいかいたいしてだいいち水雷すいらい戦隊せんたいだい水雷すいらい戦隊せんたい増強ぞうきょうしていたが[43]、この事態じたいをうけてだいいち水雷すいらい戦隊せんたいだい艦隊かんたい所属しょぞく)とだい水雷すいらい戦隊せんたいだい艦隊かんたい所属しょぞく)を統合とうごう[46]だいいち水雷すいらい戦隊せんたいだい水雷すいらい戦隊せんたい転用てんようするかたちで、いちみずせん司令しれいかん木村きむら昌福まさとみ少将しょうしょうだい水雷すいらい戦隊せんたい司令しれいかん補職ほしょくされた[46]。このため「だいさんじゅういち戦隊せんたいほんがつはちがつ たいせん作戦さくせん専務せんむ部隊ぶたいトシテ編成へんせいセラレ 逐次ちくじ増勢ぞうせいセラレマシテあいだモナクちくきゅう駆逐くちくかんじゅうよんせき海防かいぼうかんきゅうせき航空こうくうたいいちたいトナル予定よてい御座ぎょざイマスガ これだいいち水雷すいらい戦隊せんたい補充ほじゅう兵力へいりょくト致シマシテだい艦隊かんたい編入へんにゅう ぬしトシテ比島ひじまくさむら島内とうないたいせん作戦さくせんなみニ「レイテ」方面ほうめん輸送ゆそう護衛ごえい作戦さくせん充当じゅうとうセシムルコトト致度トそんジマス」(昭和しょうわ19ねん11月14にち及川おいかわ古志こしろう軍令ぐんれい総長そうちょう奏上そうじょうより)という方針ほうしんで、だいさんじゅういち戦隊せんたい旗艦きかん五十鈴いすず」)はだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん志摩しま清英きよひで中将ちゅうじょう旗艦きかん足柄あしがら」)に編入へんにゅうされた[46]

上記じょうき戦時せんじ編制へんせい改定かいてい実施じっしされるまえ11月5にち豊田とよだふく連合れんごう艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかんだいさんじゅういち戦隊せんたい五十鈴いすずうめももきり)にマニラ方面ほうめん輸送ゆそう任務にんむめいじ、さらにまつがた2せきくわすぎ)ととも南西なんせい方面ほうめん部隊ぶたい指揮しきはいごう作戦さくせん従事じゅうじするようめいじた(GFでんれいさくだい515ごう[47]。11月9にちだいさんじゅういち戦隊せんたいだいよん航空こうくう戦隊せんたい日向ひなた伊勢いせ)ととも佐世保させぼ出撃しゅつげき。14にちさんじゅういち戦隊せんたい澎湖列島れっとううまこう出発しゅっぱつしてマニラにむかった[47]11月19にち、「五十鈴いすず」はコレヒドールとうおきべい潜水せんすいかんヘイク (USS Hake, SS-256) の魚雷ぎょらいかんけ、かじながされるなど大破たいはした。駆逐くちくかんもも[48]護衛ごえいによりシンガポールに避退した[47]だいさんじゅういち戦隊せんたい司令しれい秋月しゅうげつがた駆逐くちくかん霜月しもづき」に旗艦きかん変更へんこうし、「もも」とともにシンガポールを出撃しゅつげきした[47]。だが11月25にちべい潜水せんすいかんにより「霜月しもつき」は撃沈げきちんされ、沈没ちんぼつ江戸えど兵太郎へいたろう少将しょうしょうふくめだいさんじゅういち戦隊せんたい司令しれい全滅ぜんめつした[47][49]新任しんにんだいさんじゅういち戦隊せんたい司令しれいかん鶴岡つるおか信道のぶみち少将しょうしょう[47]新編しんぺんだいさんじゅういち司令しれいは12月22にちにマニラへ進出しんしゅつしたが[47]、「五十鈴いすず」に乗艦じょうかんすることはなかった。 「五十鈴いすず」はスラバヤ修理しゅうりおこな[50]

1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ5にち大本営だいほんえい海軍かいぐんだい艦隊かんたいかいたい同日どうじつだいじゅう方面ほうめん艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん福留ふくとめしげる中将ちゅうじょう〉を編制へんせいし、だい戦隊せんたい羽黒はぐろ足柄あしがら大淀おおよど〉、だいよん航空こうくう戦隊せんたい日向ひなた伊勢いせ〉を編入へんにゅう[51]だい艦隊かんたい所属しょぞくだっただいさんじゅういち戦隊せんたいを、戦時せんじ編制へんせいにおいて連合れんごう艦隊かんたい附属ふぞくとした[47][51]。さらに連合れんごう艦隊かんたい兵力へいりょく部署ぶしょにおいて、だいさんじゅういち戦隊せんたい高雄たかお警備けいび部隊ぶたい編入へんにゅうした[47]だいさんじゅういち戦隊せんたい司令しれいは2がつ24にち台湾たいわん高雄たかお出発しゅっぱつ、28にちくれ帰投きとうし、まつがた駆逐くちくかんたけ」を旗艦きかんとした[50]。 スラバヤで修理しゅうりちゅうの「五十鈴いすず」は、2がつ13にちに3がつ下旬げじゅん修理しゅうり完成かんせい内地ないち回航かいこう指示しじ大本営だいほんえい海軍かいぐん軍令ぐんれい)にもとめた[50]軍令ぐんれいは「五十鈴いすず」をだいじゅう方面ほうめん艦隊かんたい任務にんむもちいることを予定よていしていた[50]。3月15にち日本にっぽん海軍かいぐんだいさんじゅういち戦隊せんたいだい艦隊かんたい司令しれい長官ちょうかん伊藤いとう整一せいいち中将ちゅうじょう旗艦きかん大和やまと」)に編入へんにゅうし、さんじゅういち戦隊せんたい旗艦きかん秋月しゅうげつがた駆逐くちくかん花月かげつ」をあてた[50]。 3月25にち、「五十鈴いすず」はだいさんじゅういち戦隊せんたいからのぞかれだいじゅう方面ほうめん艦隊かんたい付属ふぞくとなった[50]

だいじゅう方面ほうめん艦隊かんたい

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1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ1にち五十鈴いすず修理しゅうり完成かんせい[52]五十鈴いすず即座そくざティモールとうをはじめとするスンダ列島れっとう所在しょざい陸軍りくぐん部隊ぶたい撤退てったいさせる「ごう作戦さくせん」に投入とうにゅうされた。4がつ4にち水雷すいらいてい掃海そうかいてい2せきとともにスラバヤを出撃しゅつげき[53]途中とちゅうべいえい潜水せんすいかんねらわれるも無事ぶじにティモールとうクーパンに入港にゅうこうだい48師団しだん将兵しょうへい収容しゅうよう[54]。4月5にちよるにクーパンをはなれて帰路きろについたが4がつ6にちにはオーストラリア空軍くうぐんばくげきにより2かい攻撃こうげきける[55]。これにたいして、付近ふきん展開てんかいしていた日本にっぽん陸軍りくぐん航空こうくう部隊ぶたいだい17錬成れんせい飛行ひこうたい一式いっしきせんはやぶさ邀撃ようげきだいいちB-25 20だい18・だい2飛行ひこうたい)がばくげきおこなうも「はやぶさ」2妨害ぼうがい艦艇かんてい損害そんがいかった[56]。20ふんだい攻撃こうげきB-24 9だい21・だい24飛行ひこうたい)が来襲らいしゅうするも、増援ぞうえん2ふくむ「はやぶさ」4ばくげき妨害ぼうがいしつつB-24 2(マクドナルド大尉たいい・フォード中尉ちゅうい)を確実かくじつ撃墜げきつい実戦じっせんはて確実かくじつ[56]艦艇かんてい損害そんがい五十鈴いすず至近しきんだん2はつによりかじ故障こしょうしたほかかんくび不発ふはつばくだん1はつ命中めいちゅう[57]、「はやぶさ」は1被弾ひだんのみでぜん帰還きかんしている。なお、撃墜げきついされ落下傘らっかさん降下こうかしたB-24乗員じょういん五十鈴いすず機銃きじゅう掃射そうしゃおこない、「はやぶさ」はのちに飛来ひらいしたカタリナ1だい112海難かいなん救助きゅうじょ飛行ひこうたいバルマン大尉たいい)をさらに撃墜げきついしている[56]つづいて潜水せんすいかんによる攻撃こうげきがありだいじゅうごう掃海そうかいてい撃沈げきちんされたが、五十鈴いすずスンバワとうビマ入港にゅうこう、そこでだい48師団しだん将兵しょうへいろしてだい46師団しだん将兵しょうへいせた[58]

4がつ7にち早朝そうちょう、ビマを出港しゅっこうした五十鈴いすずはスンバワとう北方ほっぽうにおいて[50]べい潜水せんすいかんガビラン (USS Gabilan, SS-252) から1ほんチャー(USS Charr, SS-328) から3ほん魚雷ぎょらいけ846ふんごろ沈没ちんぼつした。艦長かんちょう以下いか450にん救助きゅうじょされ、190にんおよ便乗びんじょうした陸軍りくぐん将兵しょうへい人数にんずう不明ふめい)が戦死せんしした。大和やまとなどが坊ノ岬ぼうのみさきおき海戦かいせん撃沈げきちんされるやく半日はんにちまえのことであった。結局けっきょく五十鈴いすずたいせん掃討そうとう従事じゅうじすることはなかった。五十鈴いすず同年どうねん6がつ20日はつかもっ除籍じょせきされた。

歴代れきだい艦長かんちょう

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※『艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん』150-152ぺーじ、『日本にっぽん海軍かいぐんだい9かんだい10かんの「将官しょうかん履歴りれきおよび『官報かんぽう』にもとづく。

艤装ぎそういんちょう

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  1. 石渡いしわたたけあきら 大佐たいさ:1921ねん9がつ1にち - 1923ねん8がつ15にち[59]

艦長かんちょう

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  1. 石渡いしわたたけあきら 大佐たいさ:1923ねん8がつ15にち[59] - 1923ねん11月20にち
  2. 心得こころえほり悌吉 中佐ちゅうさ:1923ねん11がつ20日はつか - 1923ねん12月1にち
  3. ほり悌吉 大佐たいさ:1923ねん12月1にち - 1924ねん3がつ6にち
  4. 市村いちむら久雄ひさお 大佐たいさ:1924ねん3がつ6にち - 1924ねん12月1にち
  5. 松山まつやましげる 大佐たいさ:1924ねん12月1にち - 1925ねん11月20にち
  6. 田村たむら重彦しげひこ 大佐たいさ:1925ねん11がつ20日はつか - 1926ねん7がつ1にち
  7. 中原なかはらかい 大佐たいさ:1926ねん7がつ1にち - 1926ねん12月1にち
  8. 津留つる雄三ゆうぞう 大佐たいさ:1926ねん12月1にち - 1927ねん12月1にち
  9. 鎮目しずめしず 大佐たいさ:1927ねん12月1にち - 1928ねん8がつ20日はつか
  10. 山本やまもと五十六いそろく 大佐たいさ:1928ねん8がつ20日はつか - 1928ねん12がつ10日とおか
  11. 羽仁はに六郎ろくろう 大佐たいさ:1928ねん12がつ10日とおか - 1929ねん9がつ26にち
  12. けんいけなか健一けんいち 大佐たいさ:1929ねん9がつ26にち - 1929ねん11月27にち
  13. 高須たかす四郎しろう 大佐たいさ:1929ねん11月27にち - 1930ねん12月1にち
  14. 後藤ごとうあきらどう 大佐たいさ:1930ねん12月1にち - 1931ねん9がつ14にち
  15. けん堀江ほりえ六郎ろくろう 大佐たいさ:1931ねん9がつ14にち - 1931ねん11月14にち
  16. 藍原あいはらゆうこう 大佐たいさ:1931ねん11月14にち - 1932ねん2がつ16にち
  17. けん真崎まさき勝次かつじ 大佐たいさ:1932ねん2がつ16にち - 1932ねん6がつ20日はつか
  18. 山田やまだ省三しょうぞう 大佐たいさ:1932ねん6がつ20日はつか - 1932ねん11月15にち
  19. 山口やまぐちみのる 大佐たいさ:1932ねん11月15にち - 1933ねん11月15にち
  20. 山田やまだみつる 大佐たいさ:1933ねん11月15にち - 1934ねん11月15にち
  21. 牧田まきたさとし三郎さぶろう 大佐たいさ:1934ねん11月15にち - 1935ねん11月15にち
  22. 千葉ちばけいぞう 大佐たいさ:1935ねん11月15にち - 1936ねん1がつ7にち
  23. けんはらあらわさんろう 大佐たいさ:1936ねん1がつ7にち - 1936ねん4がつ25にち
  24. 松永まつながさだ 大佐たいさ:1936ねん4がつ25にち - 1936ねん12月1にち
  25. 山口やまぐち多聞たもん 大佐たいさ:1936ねん12月1にち - 1937ねん12月1にち
  26. ちゅう邑元 大佐たいさ:1937ねん12月1にち - 1938ねん11月20にち
  27. 橋本はしもとあい 大佐たいさ:1938ねん11がつ20日はつか - 1939ねん11月15にち[60]
  28. 鶴岡つるおか信道のぶみち 大佐たいさ:1939ねん11月15にち - 1941ねん9がつ1にち
  29. うら孝一こういち 大佐たいさ:1941ねん9がつ1にち -
  30. 篠田しのだ清彦きよひこ 大佐たいさ:1943ねん1がつ30にち - 1944ねん6がつ20日はつか
  31. 松田まつだはじめわれ 大佐たいさ:1944ねん6がつ20日はつか -

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e #海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく11-2(1972)pp.1057-1087、昭和しょうわ3ねん2がつ14にち(うちれい43)艦船かんせん要目ようもく公表こうひょう範囲はんい
  2. ^ a b 日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう 1928, pp. 266–267「五十鈴いすず いすず Isuzu.」
  3. ^ 大正たいしょう12ねん8がつ15にちづけ海軍かいぐんないれいだい302ごう海軍かいぐん定員ていいんれい改正かいせいだい50ひょう とう巡洋艦じゅんようかん定員ていいんひょう 其4」。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u けい巡洋艦じゅんようかん長良ながら五十鈴いすず名取なとり行動こうどう年表ねんぴょう、43ページ
  5. ^ #衝突しょうとつ
  6. ^ 駆逐くちくかん早蕨さわらび」、台湾たいわん沖合おきあい沈没ちんぼつ東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ7ねん12月5にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい4かん 昭和しょうわ6ねん-昭和しょうわ7ねん本編ほんぺんp47 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  7. ^ けい巡洋艦じゅんようかん長良ながら五十鈴いすず名取なとり行動こうどう年表ねんぴょう、43ページでは「五十鈴いすず」は8がつ20日はつか多度津たどつはつ
  8. ^ 紀元きげんせんろくひゃくねん祝典しゅくてん記録きろくだいろくさつ』、369ぺーじ
  9. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』195-196ページ、『南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>ガとう撤収てっしゅうまで』162-163ページ
  10. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』195-196ページ
  11. ^ a b 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』196ページ
  12. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』196ページ、『南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>ガとう撤収てっしゅうまで』162-163ページ
  13. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』196ページ、『南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>ガとう撤収てっしゅうまで』163ページ
  14. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい83かん 南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>ガとう撤収てっしゅうまで、376-377ページ
  15. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい83かん 南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>ガとう撤収てっしゅうまで、377-378ページ
  16. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい83かん 南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>ガとう撤収てっしゅうまで、378ページ
  17. ^ レイテおき この非情ひじょうなるだい海戦かいせん、288-289ページ
  18. ^ a b c けい巡洋艦じゅんようかん長良ながら五十鈴いすず名取なとり行動こうどう年表ねんぴょう、44ページ
  19. ^ a b 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』341ページ
  20. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』310、341ページ
  21. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』344-345ページ
  22. ^ 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう』345ページ
  23. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、436ページ
  24. ^ a b c d e f 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、437ページ
  25. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、504ページ
  26. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、437-438ページ
  27. ^ a b 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、507ページ
  28. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、438ページ、防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんとなった五十鈴いすず、38ページ
  29. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、438ページ
  30. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、477、481ページ
  31. ^ 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、488-489ページ
  32. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、489ページ
  33. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、508ページ
  34. ^ 防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんとなった五十鈴いすず、38ページ
  35. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、488ページ
  36. ^ レイテおき この非情ひじょうなるだい海戦かいせん、298ページ
  37. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこう、509ページ
  38. ^ けいじゅん長良ながら五十鈴いすず名取なとり変遷へんせん、25-26ページ
  39. ^ けいじゅん長良ながら五十鈴いすず名取なとり変遷へんせん、26ページ、防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんとなった五十鈴いすず、38ページ
  40. ^ 防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんとなった五十鈴いすず、39ページ
  41. ^ けいじゅん長良ながら五十鈴いすず名取なとり変遷へんせん、26ページ、防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんとなった五十鈴いすず、39ページ
  42. ^ a b c 戦史せんし叢書そうしょ93かん、30-34ぺーじ大本営だいほんえい海軍かいぐん水上すいじょう兵力へいりょく整頓せいとん基本きほん方針ほうしん
  43. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ93かん、34-36ぺーじだいいち機動きどう艦隊かんたいだいさん艦隊かんたいかいたい(じゅういちがつじゅうにち)」
  44. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93かん、51ぺーじ「レイテ増援ぞうえん輸送ゆそう作戦さくせんごう作戦さくせん呼称こしょう
  45. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93かん、62-65ぺーじ軍需ぐんじゅひん搭載とうさい船団せんだん全滅ぜんめつ
  46. ^ a b c 戦史せんし叢書そうしょ93かん、67-69ぺーじだいいち水雷すいらい戦隊せんたいかいたいだいさんじゅういち戦隊せんたいだい艦隊かんたい編入へんにゅう
  47. ^ a b c d e f g h i 戦史せんし叢書そうしょ93かん、73-74ぺーじ南西なんせい方面ほうめん艦隊かんたい駆逐くちくかん不足ふそくを訴う」
  48. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93かん74ぺーじ説明せつめいでは護衛ごえいかんうめとする。
  49. ^ 戦史せんし叢書そうしょ93かん、128-129ぺーじ水上すいじょう部隊ぶたい
  50. ^ a b c d e f g 戦史せんし叢書そうしょ93かん、179-180ぺーじだいさんじゅういち戦隊せんたいだい艦隊かんたい編入へんにゅう
  51. ^ a b 戦史せんし叢書そうしょ93かん、178-179ぺーじだい艦隊かんたいかいたい
  52. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、643ページ
  53. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、644ページ
  54. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、644-645ページ
  55. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、645-646ページ
  56. ^ a b c 梅本うめもと、2010ねん、p.120
  57. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、646ページ
  58. ^ 日本にっぽんけいじゅん戦史せんし、647ページ
  59. ^ a b 官報かんぽうだい3314ごう大正たいしょう12ねん8がつ16にち
  60. ^ 海軍かいぐん辞令じれい公報こうほう部内ぶないげんだい402ごう 昭和しょうわ14ねん11月15にち」 アジア歴史れきし資料しりょうセンター Ref.C13072076700 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 浅井あさいすすむしげる/へん日本にっぽん海軍かいぐん艦船かんせんめいこう東京とうきょうすい交社、1928ねん12月。 
  • アジア歴史れきし資料しりょうセンター(公式こうしき)(防衛ぼうえいしょう防衛ぼうえい研究所けんきゅうじょ)
    • 軍艦ぐんかん五十鈴いすず漁船ぎょせん衝突しょうとつけん』。Ref.C08050753900。 
  • 梅本うめもとひろしだい大戦たいせんはやぶさのエース』 だい日本にっぽん絵画かいが、2010ねん8がつ
  • 遠藤えんどうあきら高角こうかくほう防空ぼうくうかんはら書房しょぼう、1975ねん
  • 海軍かいぐんしょう/へん海軍かいぐん制度せいど沿革えんかく まきじゅういちの2』 明治めいじひゃくねん叢書そうしょ だい185かんはら書房しょぼう、1972ねん5がつ原著げんちょ1941ねん)。 
  • 海軍かいぐん歴史れきし保存ほぞんかい日本にっぽん海軍かいぐんだい7かんだい9かんだい10かん第一法規出版だいいちほうきしゅっぱん、1995ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽん水雷すいらい戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1986ねん
  • 木俣きまたしげるろう日本にっぽんけいじゅん戦史せんし図書としょ出版しゅっぱんしゃ、1989ねん
  • 外山とやまみさお艦長かんちょうたちの軍艦ぐんかん光人みつひとしゃ、2005ねんISBN 4-7698-1246-9
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょ 大本營だいほんえい海軍かいぐん聯合れんごう艦隊かんたい<7> 戦争せんそう最終さいしゅうだい93かんあさくも新聞しんぶんしゃ、1976ねん3がつ 
  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう写真しゃしん 日本にっぽん軍艦ぐんかん だい8かん けいじゅんI』光人みつひとしゃ、1990ねんISBN 4-76-980458-X
  • 雑誌ざっし歴史れきしぐんぞう」2003ねん12がつごう学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう『「歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ32・けいじゅん 球磨くま長良ながら川内せんだいがた学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2001ねんISBN 4-05-602582-7
  • 歴史れきしぐんぞう編集へんしゅう『「歴史れきしぐんぞう太平洋たいへいよう戦史せんしシリーズ51・帝国ていこく海軍かいぐん 真実しんじつ艦艇かんてい2』学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ、2005ねんISBN 4-05-604083-4
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい62かん 中部ちゅうぶ太平洋たいへいよう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>昭和しょうわじゅうななねんろくがつ以降いこうちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 防衛庁ぼうえいちょう防衛ぼうえい研修けんしゅうしょ戦史せんししつ戦史せんし叢書そうしょだい83かん 南東なんとう方面ほうめん海軍かいぐん作戦さくせん<2>ガとう撤収てっしゅうまでちょうくも新聞しんぶんしゃ
  • 雑誌ざっしまる編集へんしゅう『ハンディばん日本にっぽん海軍かいぐん艦艇かんてい写真しゃしんしゅう14 けいじゅん長良ながらがた光人みつひとしゃ、1997ねんISBN 4-7698-0784-8
    • 18-26ページ、阿部あべ安雄やすおけいじゅん長良ながら五十鈴いすず名取なとり変遷へんせん
    • 38-39ページ、鈴木すずきはんじゅ防空ぼうくう巡洋艦じゅんようかんとなった五十鈴いすず
    • 42-45ページ、伊達だてひさけい巡洋艦じゅんようかん長良ながら五十鈴いすず名取なとり行動こうどう年表ねんぴょう
  • 井上いのうえだんひらめ「レイテおき この非情ひじょうなるだい海戦かいせん 史上しじょう最大さいだい海戦かいせんから奇蹟きせきてき生還せいかんした激闘げきとう記録きろく」『生命せいめいあるかぎりをくにささげて』証言しょうげん昭和しょうわ戦争せんそう リバイバル戦記せんきコレクション2、光人みつひとしゃ、1990ねんISBN 4-7698-0486-5、271-326ページ
  • 官報かんぽう

関連かんれん項目こうもく

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