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今中いまなか慎二しんじ

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今中いまなか 慎二しんじ
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 大阪おおさか門真かどま
生年月日せいねんがっぴ (1971-03-06) 1971ねん3月6にち(53さい
身長しんちょう
体重たいじゅう
182 cm
73 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき ひだりとうひだり
ポジション 投手とうしゅ
プロ 1988ねん ドラフト1
はつ出場しゅつじょう 1989ねん5がつ26にち
最終さいしゅう出場しゅつじょう 2001ねん7がつ13にち
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき
  • 中日ちゅうにちドラゴンズ (2012 - 2013)

今中いまなか 慎二しんじ(いまなか しんじ、1971ねん3月6にち - )は、大阪おおさか門真かどま出身しゅっしんもとプロ野球やきゅう選手せんしゅ投手とうしゅひだりとうひだり)、野球やきゅう解説かいせつしゃ野球やきゅう評論ひょうろん

愛称あいしょうは、先輩せんぱいからは「チュー」、同級生どうきゅうせいからは「イマチュー」とばれる。

現役げんえき時代じだい中日ちゅうにちドラゴンズ一筋ひとすじでプレーし、最多さいた勝利しょうり沢村さわむら栄治えいじしょう獲得かくとくするなど、1990年代ねんだいNPB代表だいひょうする左腕さわんとして活躍かつやくした[1]

経歴けいれき

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アマチュア時代じだい

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大阪おおさか門真かどま古川ふるかわきょうえき周辺しゅうへんまれ[2]、3さい年上としうえあに影響えいきょう浜町はまちょう小学校しょうがっこう2年生ねんせいとき野球やきゅうはじめた[3]本来ほんらいみぎきだが、あにみぎようグラブってってしまい[4]いえのこたつにまよんだペルシャねこゆずったかいの中年ちゅうねん女性じょせいから左利ひだりきようのグラブをもらって使つかはじめたことがきっかけで、ひだりげになった[3]。3年生ねんせいになるとあにおな軟式なんしき野球やきゅうチームにはいったが、みずかのぞんでの入団にゅうだんではなく、あにわすれた弁当べんとうとどけにったところ「明日あしたから練習れんしゅうい」とわれての入団にゅうだんであった。4年生ねんせいからは投手とうしゅになった[3]門真かどまだいいち中学ちゅうがくすすむと同年どうねん設立せつりつされたリトルシニアチームである門真かどまシニアに入団にゅうだんし、1ねんからエースとなっている[3]当時とうじから球速きゅうそくがあったが、チームの守備しゅびりょくたかくないことなどから大会たいかいではなかなかてず、野球やきゅうめようかともかんがえたという[3]

大阪おおさかさんだい高校こうこう大東だいとう校舎こうしゃ進学しんがく入学にゅうがく当初とうしょ目立めだった存在そんざいではなかったが、山本やまもとやすし監督かんとく徹底的てっていてききたげられ[5]見違みちがえるような速球そっきゅうげるようになり、同校どうこうおとずれた阪神はんしんタイガーススカウトの田丸たまるひとしからもこう評価ひょうかけたという[3]。1ねんなつ大阪おおさか大会たいかいからベンチりをたし、あき大会たいかいでは準々じゅんじゅん決勝けっしょうたいPL学園がくえんせん登板とうばんした。この試合しあいは0たい1でやぶれたものの、立浪たつなみ和義かずよし野村のむらひろしようして翌年よくねんはるなつ連覇れんぱたす強豪きょうごう相手あいてに1失点しってんおさえ、NPBスカウトらから注目ちゅうもくあつめるようになった[3]。2ねんふゆにはクモまく出血しゅっけつははくし、精神せいしんてきおおきくんだが[6]、3ねんになると精神せいしんてきなおり、将来しょうらいのプロりを明確めいかく目指めざすようになった。

3年生ねんせい進級しんきゅうした1988年度ねんどより大東だいとう校舎こうしゃ大阪桐蔭おおさかとういん高校こうこうとして独立どくりつする。3ねんなつ大阪おおさか大会たいかいでは15三振さんしんうばいながら延長えんちょうせんすえ初戦しょせん敗退はいたい[7]甲子園こうしえん出場しゅつじょうすることはなかった。漫然まんぜん大学だいがくへの進学しんがく予定よていしていたが、球速きゅうそく145 km/h速球そっきゅう[8]などによってぜん球団きゅうだんのスカウトが来校らいこう[7]するほどたか注目ちゅうもくあつめており、1988年度ねんどドラフト会議かいぎ中日ちゅうにちドラゴンズから1指名しめいけた[9]担当たんとうスカウトはほうもと英明えいめいで、契約けいやくきん年俸ねんぽうそれぞれ6000まんえん、480まんえん(いずれも推定すいてい)で入団にゅうだん契約けいやくむすんでいる[10]同期どうきには、バッテリーんでいた桐山きりやまあきらけい(1988ねん日本にっぽんハムファイターズドラフトがい入団にゅうだん)がいる。

プロ選手せんしゅ時代じだい

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現役げんえき前半ぜんはん

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1989ねん近藤こんどう真一しんいち上原うえはらあきられいならい、キャンプからオープンせん期間きかんぐんウエスタン・リーグ)でランニングなど体力たいりょく強化きょうか守備しゅび練習れんしゅうれた[8]。バッテリーコーチの新宅しんたく洋志ひろしぐん投手とうしゅコーチの稲葉いなば光雄みつお指導しどうけてフォーム修正しゅうせい体力たいりょく向上こうじょう[8]はやくも5月26にちにはナゴヤ球場きゅうじょうでのたい読売よみうりジャイアンツ巨人きょじんせん一軍いちぐんセントラル・リーグはつ登板とうばんたした[7]。9月17にち広島ひろしまでのたい広島東洋ひろしまとうようカープせんでは先発せんぱつして北別府きたべふがくい、2かいマメつぶしながらもアロンアルフアかためて5かい[7]プロはつ勝利しょうりげた。オフの秋季しゅうきキャンプにはロサンゼルス・ドジャースから臨時りんじコーチがており、当時とうじMLB流行りゅうこうしていたスプリット・フィンガード・ファストボールけいのフォークボールを習得しゅうとくした[11]

1990ねん、キャンプで投手とうしゅコーチの池田いけだ英俊ひでとしにフォロースルーなどを指導しどうされてストレートのびや変化球へんかきゅうのキレが改善かいぜんした[12]。また、シンカー習得しゅうとくにも挑戦ちょうせんした[13]。3月4にち守備しゅび練習れんしゅうでノックのたまひざててノースローの調整ちょうせいつづいたが、3月24にち豊橋とよはし市民しみん球場きゅうじょうおこなわれた福岡ふくおかダイエーホークスとのオープンせんでは村田むらた勝喜かつよしって、5かいで61きゅうげ2安打あんだ四球しきゅう失点しってん好投こうとうせた[12]開幕かいまく将来しょうらいひだりのエースとしての期待きたいをかけられ、おも先発せんぱつとして起用きようされた[14]当時とうじはまだ漫然まんぜんげるようなところがあった[15]ものの、先発せんぱつローテーション定着ていちゃくして6完投かんとう記録きろく規定きてい投球とうきゅうかいにも到達とうたつして10しょう記録きろくしている。

1991ねんオールスターゲームはじめて出場しゅつじょうし、だい2せんの7かいから2イニングをげ1安打あんだ失点しってんおさえている。同年どうねん佐々岡ささおか真司しんじとの最優秀さいゆうしゅう防御ぼうぎょりつあらそい、シーズン最終さいしゅうせんダブルヘッダー連続れんぞくして先発せんぱつしたものの防御ぼうぎょりつ0.08のでタイトルをのがした。このとしたいヤクルトスワローズせん救援きゅうえん失敗しっぱいしたさい監督かんとく星野ほしのせんいち激怒げきどしてコンクリートせい火鉢ひばちなんって骨折こっせつしたことがあった。こればかりはいまちゅうはないが「今中いまなか行動こうどう遠因えんいんきたこと」として今中いまなかのエピソードとしてかたられることもある[16]

星野ほしのわって高木たかぎ守道もち監督かんとく就任しゅうにんした1992ねんは4がつ19にちたい巨人きょじんせんでゴロの打球だきゅうひだり手首てくびたって骨折こっせつし、3かげつ夏場なつば復帰ふっきしている[17]骨折こっせつなおってあいだもないころはなかなか握力あくりょくもどらず、かるくキャッチボールをしても手首てくびするどいたみがはしった。しかし、なぜかカーブだけはいたみがなくげられたため、リハビリとしてカーブだけをもちいたどおとうキャッチボールをつづけた。最初さいしょのうちはコントロールがつかなかったが次第しだいにコツをつかみ、これが今中いまなかだまともいえるスローカーブ習得しゅうとくしたきっかけだという[18][17]、また前腕ぜんわん筋肉きんにくきたえるなかひだりひじ遊離ゆうり軟骨なんこつ偶然ぐうぜんくっついたともべている[19]同年どうねんは11試合しあい登板とうばんわったものの8しょう2はい防御ぼうぎょりつ1.77の成績せいせきのこしている。

1993ねん自身じしんはつ開幕かいまく投手とうしゅつとめ、開幕かいまく4連勝れんしょうのちで5連敗れんぱいきっしたがそこからおおきくかえ[15]、7がつ6にちたいヤクルトせんでは当時とうじのセ・リーグ最多さいたタイ記録たいきろくとなる1試合しあい16だつ三振さんしん記録きろくした。2ねんぶりに出場しゅつじょうしたオールスターゲームではだい1せんに2番手ばんてとして登板とうばんし、2かいげ4安打あんだ2失点しってんだった。同年どうねん先発せんぱつしゅうに1、2かい登板とうばん[15]、249イニングをげている。また、9月2にちのナゴヤ球場きゅうじょうでのたいヤクルトせんでは9かい二死にしから池山いけやまたかしひろし同点どうてん本塁打ほんるいだたれ、延長えんちょうまでつづけたものの15かいけにわって首位しゅい浮上ふじょうのチャンスをのがした。この試合しあい翌年よくねん10.8決戦けっせんならんで、現役げんえき時代じだいもっと印象いんしょうのこっているという[20]同年どうねん最終さいしゅうてき成績せいせきは17しょう7はい防御ぼうぎょりつ2.20、247だつ三振さんしん最多さいた勝利しょうり最多さいただつ三振さんしんなどにかがやき、審査しんさ項目こうもくすべたして沢村さわむらしょう受賞じゅしょうした。ちなみに、1990年代ねんだい審査しんさ項目こうもくすべたしたのは、今中いまなか以外いがいには1991ねん佐々岡ささおか真司しんじのみである。また、ベストナインゴールデングラブしょうにも選出せんしゅつされている。

1994ねんオールスターゲームだい2せんの9かい登板とうばんし、イチローらをさんしゃ凡退ぼんたいっている。同年どうねんはチームがシーズン最終さいしゅうせんまで巨人きょじんはげしく優勝ゆうしょうあらそい、ちゅう2にちちゅう3にち先発せんぱつつづいたがいたみなどをうったえることはなかった。10.8決戦けっせんでは試合しあい先立さきだって中村なかむら武志たけし選手せんしゅかい面々めんめんに「ってもけてもいいから先発せんぱつしてしい」とたのまれるほど信頼しんらいあつめており、4かい5失点しってん降板こうばんして敗戦はいせん投手とうしゅとなったもののほか選手せんしゅたちいはなかったという[21]同年どうねんなつごろから左肩ひだりかた状態じょうたい徐々じょじょ悪化あっかしていったと、今中いまなか自身じしんのちかたっている[22]

1995ねん疲労ひろうなどでカーブなどたまのキレがわるくなっていた[21]が、チームない唯一ゆいいつ規定きてい投球とうきゅうかい到達とうたつしてリーグ2の15完投かんとうげた。同年どうねんのオールスターゲームではだい1せんに2番手ばんてとして登板とうばんし、2イニングをパーフェクトにおさえている。またMLBのスカウトからは、同年どうねん渡米とべいしてロサンゼルス・ドジャースでプレーした野茂のも英雄ひでおよりたか評価ひょうかけており、シンシナティ・レッズ監督かんとくデーブ・ジョンソンからシーズンちゅうにトレードによる獲得かくとく打診だしんがあったという。しかし本人ほんにんらないところでのはなしであり、本人ほんにんもMLBに興味きょうみはなかったとのちかたっている[23]

星野ほしの監督かんとく復帰ふっきした1996ねん、4ねん連続れんぞく開幕かいまく投手とうしゅつとめ、6月27にちのナゴヤ球場きゅうじょうでのたい広島ひろしませんでは球団きゅうだん史上しじょう最速さいそくの186試合しあいで1000だつ三振さんしん達成たっせいする[24]などの活躍かつやくで、7がつまでに9しょうげている。しかし、7がつ16にち東京とうきょうドームでのたい巨人きょじんせんでプロ最短さいたんの1/3かい降板こうばんし、左肩ひだりかたいたみをうったえた。翌日よくじつ検査けんさ左肩ひだりかた関節かんせつ周囲しゅういえんのため2週間しゅうかん安静あんせい必要ひつようという診断しんだんけて一軍いちぐん登録とうろく抹消まっしょうされ、直後ちょくごオールスターゲーム出場しゅつじょう辞退じたいし、わりに斎藤さいとうたかし出場しゅつじょうしている[24]。この故障こしょう半月はんつきまえにも腰痛ようつう登板とうばん回避かいひしていたが、優勝ゆうしょうあらそいをしているチーム事情じじょうもあって1週間しゅうかんには投球とうきゅう練習れんしゅう再開さいかいし、7がつ29にち一軍いちぐん復帰ふっき、8がつ4にちのナゴヤ球場きゅうじょうでのたい巨人きょじんせんでは1失点しってん完投かんとう勝利しょうりげた。その左肩ひだりかた違和感いわかんのこったまま登板とうばんかさねて[24]さらに4しょうし、4ねん連続れんぞく2ケタ勝利しょうりとなる14しょう記録きろくしている。また、そのあいだの9がつ24にち横浜よこはまベイスターズたたかえ横浜よこはまスタジアム)では、6失点しってんしながらも完投かんとうで13しょうげたが、試合しあいまえのウォーミングアップで右手みぎて人差ひとさゆび骨折こっせつしていたなかでの投球とうきゅうだった[25]

現役げんえき後半こうはん

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1997ねん、キャンプまえふたた左肩ひだりかた故障こしょうして従来じゅうらいとはあきらかにことなるいたみをかん[26]精密せいみつ検査けんさによりおく筋肉きんにく損傷そんしょう確認かくにんされた[27]。このためかた状態じょうたいたしかめながら負担ふたんおさえるスローペースな調整ちょうせいをしたものの、オープンせんはつ登板とうばんとなった3がつ20日はつかたいロッテせんでは球速きゅうそく最高さいこう124km/hにとどまっている[27]さら試合しあいにはかた関節かんせつ周囲しゅういえん再発さいはつ判明はんめいして投球とうきゅう練習れんしゅうができなくなり、5ねん連続れんぞく開幕かいまく投手とうしゅ断念だんねんした。6月に一軍いちぐん登録とうろくされ、6月8にちナゴヤドームでのたい巨人きょじんせんリリーフとしてシーズンはつ登板とうばんたしたものの、球威きゅういやキレがもどらずぐんもどってさい調整ちょうせいつづけた[28]。8月に一軍いちぐん復帰ふっきして8がつ15にちのナゴヤドームでのたいヤクルトせんでシーズンはつ先発せんぱつし、最速さいそく143km/hの速球そっきゅうと90km/hだいのスローカーブで6かいを3安打あんだ1失点しってんおさえてはつ勝利しょうりげた[29]が、同年どうねんは2しょうわっている。例年れいねんノースローだった秋季しゅうきキャンプでは、投手とうしゅコーチの宮田みやたただしてんめたにもかかわらず積極せっきょくてき投球とうきゅう練習れんしゅうおこない、感覚かんかく回復かいふくしてきたと周囲しゅういかたっていた[28]同年どうねんオフの12月6にちにはフジチクふく社長しゃちょうつとめていた藤村ふじむら芳行よしゆき長女ちょうじょとの結婚けっこん披露宴ひろうえんげ、星野ほしの鈴木すずき礼治れいじ愛知あいち県知事けんちじ)、松岡まつおか利勝としかつ衆議院しゅうぎいん議員ぎいん)、葛西かさい敬之たかゆき東海旅客鉄道とうかいりょかくてつどう代表だいひょう取締役とりしまりやく)らが出席しゅっせき[30]鈴木すずき宗男むねお夫妻ふさい媒酌人ばいしゃくにんつとめている[31]

1998ねんかた状態じょうたい回復かいふくし、キャンプから筋力きんりょく強化きょうかとおとうなどをかさねた。5月16にち横浜よこはません(ナゴヤドーム)では先発せんぱつした1かいに1てんうしなったものの、その直球ちょっきゅうし、5かい1失点しってん成績せいせきでシーズン2しょうげたが[32][33]結果けっかてきにこの勝利しょうり現役げんえき生活せいかつ最後さいごぼしとなった。6月5にちのナゴヤドームでのたい巨人きょじんせんでは最速さいそく140 km/hを記録きろくして90km/hのスローカーブももどり、8かい131きゅうげ2安打あんだ1失点しってん内容ないよう復活ふっかつきざしをせた[34]。しかし好調こうちょう持続じぞくせず、自身じしん4連敗れんぱいむかえた7がつ9にちたいヤクルトせん先発せんぱつして2/3かいで5安打あんだ4失点しってんとKOされて2しょう8はいとなると、監督かんとく星野ほしのあらためて軟投なんとうへの転向てんこうめいじられて一軍いちぐん登録とうろく抹消まっしょうされた[34]あきからはそれまでつよ拒否きょひしていたウエイトトレーニングにもすすんでみ、ランニングや坂路さかじはしり下半身かはんしん強化きょうかし、自身じしんはつとなる12月の自主じしゅトレもおこなった[28]。このとし契約けいやく更改こうかいは12月20にちの16球団きゅうだん事務所じむしょおこな予定よていだったが、はやめにいえたにもかかわらず、名古屋なごや市内しない繁華はんかがいにおいて、だい渋滞じゅうたいまれたことや同日どうじつ17にチームメイトである門倉かどくらけん結婚けっこん披露宴ひろうえんひかえており、今中いまなか球団きゅうだん幹部かんぶ出席しゅっせきする予定よていだったことから、契約けいやく更改こうかい急遽きゅうきょ結婚式けっこんしきじょう変更へんこうしたうえおこなわれた[35]

1999ねん、2がつ11にちには投球とうきゅう練習れんしゅうはじめるなどはやめの調整ちょうせいおこなっていたが、一方いっぽうでブルペンにはいるのがこわくなるほど左肩ひだりかた状態じょうたい悪化あっかしていた[36]。7月15にちのナゴヤドームでのたい広島ひろしません先発せんぱつしたものの2かい6失点しってんわり、福岡ふくおか病院びょういんあらためて検査けんさけた[22]当初とうしょはリハビリによる治療ちりょうかんがえていたが、かた状態じょうたい数日すうじつしかつづかない状況じょうきょうにケジメをつけるため、炎症えんしょう原因げんいんだった左肩ひだりかたすべりえきつつみ除去じょきょして突起とっきこつを3箇所かしょ切除せつじょする手術しゅじゅつを8がつ20日はつかけている[36]執刀しっとうおどろくほど患部かんぶ悪化あっかしていたが5時間じかんかかった手術しゅじゅつ成功せいこうし、そのまま福岡ふくおかすうヶ月かげつあいだリハビリをつづけた。同年どうねん入団にゅうだんはじめてチームがリーグ制覇せいはたしたものの、9月30にち神宮じんぐうでのたいヤクルトせん優勝ゆうしょうまったとき福岡ふくおか市内しない医師いしともよるりをしていたという[7]結局けっきょく、このシーズンはプロはつ勝利しょうりわり、自身じしんプロ入団にゅうだんはつのリーグ優勝ゆうしょうには貢献こうけんできなかった。ダイエーとの日本にっぽんシリーズさいには経過けいか報告ほうこくねて福岡ふくおか宿舎しゅくしゃたずね、チームメイトに激励げきれい言葉ことばをかけてしずかにっている[36]

2000ねん、11ねんぶりにぐんキャンプでのスタートとなり、はじめて一軍いちぐん登板とうばんのないままシーズンをえた。オフの契約けいやく更改こうかい大幅おおはば減俸げんぽうとなって翌年よくねん2がつまでかかり、星野ほしの監督かんとくからは「契約けいやくするだけでも感謝かんしゃするように」という最後さいご通告つうこくけている[36]

2001ねんは1がつ伊良湖岬いらごみさきでの合同ごうどう自主じしゅトレで積極せっきょくてきにランニングに姿勢しせい投手とうしゅコーチの山田やまだ久志ひさし評価ひょうかされ、2ねんぶりに一軍いちぐんキャンプでのスタートとなった[36]。キャンプ直前ちょくぜんの1がつ30にちには読谷よみたん球場きゅうじょうのブルペンで100きゅうみ、キャンプちゅう投球とうきゅう練習れんしゅうたますうをこなしたが制球せいきゅう問題もんだいがあった。オープンせんでは球速きゅうそく最高さいこう131km/hにとどまったものの、フォークシュートやこのとしあたらしくためしていたまっスラ(カットボール)を駆使くしして3がつ3にちたいロッテせんでは4かいを1失点しってんおさえている。しかし野手やしゅ状態じょうたいがるにれてたれる場面ばめんえ、3月23にち教育きょういくリーグでのたい阪神はんしんせんでは5かい106きゅうげて8安打あんだ5四球しきゅう3失点しってん内容ないようで、開幕かいまく一軍いちぐんりをあきらめた[37]同年どうねんは2ねんぶりに一軍いちぐん登板とうばんたしたがプロはつ一軍いちぐん先発せんぱつしの7試合しあい登板とうばんにとどまり、星野ほしの監督かんとく辞任じにん発表はっぴょう翌日よくじつの9がつ26にち児玉こだま光雄みつお球団きゅうだん代表だいひょう補佐ほさから戦力せんりょくがい通告つうこくけた。これを気力きりょく限界げんかいなどから10がつ引退いんたい決意けつい山田やまだ中継なかつぎとしての再生さいせいかんが[38]阪神はんしんからはテスト参加さんかさそいがあるなど[39]球団きゅうだんからも獲得かくとく打診だしんがあったという[22]。11月10にち引退いんたい記者きしゃ会見かいけんひらいた[22]

現役げんえき引退いんたい

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2002ねん3月23にちにナゴヤドームでのオリックス・ブルーウェーブとのオープンせんさい引退いんたいセレモニーがおこなわれ、たにけい対戦たいせんしたのち長男ちょうなんから花束はなたば贈呈ぞうていされた[40]中日ちゅうにち選手せんしゅ引退いんたいセレモニーがオープンせんひらかれるのは1997ねんかく源治げんじ以来いらいであり、今中いまなかつぎは2010ねん立浪たつなみ和義かずよしであった。また、同年どうねんよりNHK野球やきゅう解説かいせつしゃとなり、名古屋なごや民放みんぽうきょくでもゲスト解説かいせつおこなっているほか中日ちゅうにちスポーツ野球やきゅう評論ひょうろんつとめている。

2009ねんのパ・リーグ順位じゅんい予想よそうでは日本にほんハムのリーグ優勝ゆうしょう的中てきちゅうさせた。

2010ねんも、中日ちゅうにちとソフトバンクの優勝ゆうしょう予想よそう的中てきちゅうさせた。また、プロ野球やきゅうマスターズリーグでは名古屋なごや80D'sersに所属しょぞくしている。

2012ねんシーズンより古巣ふるす中日ちゅうにちぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにんどうシーズン権藤ごんどうひろし一軍いちぐん投手とうしゅコーチが退団たいだんしたことにともない、一軍いちぐん投手とうしゅコーチに就任しゅうにんした。

2013ねん当初とうしょはブルペン担当たんとうだったが、チームの不振ふしんにより6がつ12にちたい西武せいぶせんから近藤こんどうしん投手とうしゅコーチとわりでベンチ担当たんとうとなった。10月15にち球団きゅうだんより翌年よくねん契約けいやくむすばないことが発表はっぴょうされた[41]

2014ねんからはふたたびNHKの野球やきゅう解説かいせつしゃおも総合そうごうテレビ東海とうかいローカルの中日ちゅうにち主管しゅかん試合しあい、BSのメジャーリーグ中継ちゅうけい出演しゅつえん)として活動かつどうする。

選手せんしゅとしての特徴とくちょう

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投球とうきゅうスタイル

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細身ほそみ体型たいけいから全盛期ぜんせいきには最速さいそく150km/hちか[42]キレの速球そっきゅうと100km/h前後ぜんごスローカーブフォークボールや70-80km/hのちょうスローカーブ[43]ぜた投球とうきゅうをしていた。さらに1996ねんごろからはチェンジアップ使つかっていた[43]。これらの変化球へんかきゅう意識いしきてきまったおなじフォームでけて打者だしゃ翻弄ほんろうし、捕手ほしゅ中村なかむら武志たけしがリリース直前ちょくぜんまでサイン間違まちがいかと不安ふあんになることもすくなくなかったという[43]とくにカーブのほうがストレートよりも力強ちからづようでるようにえるフォームだったため、打者だしゃはストレートにまれたりカーブにからだんだりしやすくなった[21]

先発せんぱつときはいかに完投かんとうするかをつねかんがえ、5かいまではストレートとカーブで投球とうきゅうたてて、打者だしゃが3じゅんから4じゅんはいってれてくる6かいごろからフォークボールぜていった[44]。フォークはおおくても10きゅう程度ていどしかげなかったが、終盤しゅうばんからたましゅやすことでねらいをしぼりにくくさせて主導しゅどうけんにぎり、さらにたましゅすくない中盤ちゅうばんまでに攻略こうりゃくしようとして相手あいてこげ効果こうかもあったという[44]味方みかた得点とくてんかかわらず3てん以内いない完投かんとうするようなスタイルで、8てんったら7てんまではゆるすような山本やまもとあきらとは対照たいしょうてきだったと中村なかむら武志たけしひょうしている[21]。このため、重要じゅうよう試合しあいではてんられないところ評価ひょうかされて先発せんぱつまかされることがおおかった[21]

外角がいかくひくめのたまをベースにしながら、それをかすためにも内角ないかく有効ゆうこう使つかうことを重視じゅうししていた。内角ないかくへの投球とうきゅうはコースがあまくなると長打ちょうだになりやすいため勇気ゆうきとコントロールが必要ひつようだが、外角がいかくだけではんでたれるか四球しきゅうによる自滅じめつつながるとかんがえていた[45]

スローカーブ

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スローカーブは1992ねん骨折こっせつからのリハビリを習得しゅうとくしている。復帰ふっき直後ちょくごたい阪神はんしんせん和田わだゆたかたいしてフルカウントからカーブをげてめずらしく和田わだから見逃みのが三振さんしんうばい、手応てごたえをつかんだという[46]人差ひとさゆび中指なかゆびをボールの中心ちゅうしんからずらしてにかけ、非常ひじょうにゆるくにぎって親指おやゆびえる程度ていどにしていた。この状態じょうたいから手首てくびをひねらず、人差ひとさゆび親指おやゆびあいだからすっぽけるようなかんじでかおまえでリリースしてげたという[47]。ベースじょう真上まうえからとすようなイメージでげ、内外ないがいかくけも出来できていた[21]

打者だしゃからはストライクゾーンをはずれるほどたか軌道きどうからちてくるようにえるじょう、ミットにはいまえ空回からまわりしてまりそうになるようにかんじられたという[17]。このため打者だしゃ腰砕こしくだけになることがおおく、トーマス・オマリーをはじめ外国がいこくじん打者だしゃとくいやがられた[21]はらたつとくたいして8-9きゅう連続れんぞくでカーブだけをげたときにはすべファウルになっており[21]、ファウルをたせるのにもカウントをるにも有効ゆうこうなボールだった。また反発はんぱつりょくがないためたれてもばず[43]球速きゅうそくおそいため打者だしゃかなら反応はんのうする[18]など使つか勝手がってたまだったという。

フォークボール

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ゆびみじかひらきもせまいため、しっかりボールをはさむフォークボールの習得しゅうとくあきらめていた。しかし1989ねん秋季しゅうきキャンプでにぎりのあさいスプリット・フィンガード・ファストボールけいのフォークを習得しゅうとくし、1991ねんごろから使つかうようになった。落差らくさにはバラつきがあったが、1試合しあいなかでハッキリちるのは1きゅう程度ていど基本きほんてき変化へんかちいさかった[44]たかめにはいるとぜつ好球こうきゅうとなるが制球せいきゅう重視じゅうししすぎるとうでりから見破みやぶられるため、ひくめを意識いしきしながらもうでつよることを重視じゅうししていたという[11]

にぎりがあさくなるためフォークは改良かいりょうがしにくく、練習れんしゅうではほとんどげなかった。フォーク自体じたいやめされることがおおく、首脳しゅのうじんから試合しあいげるなとわれたりもしたが[43]、ストレートやカーブをかすためにもつづけた[26]。1994ねんから対戦たいせんするようになった落合おちあい博満ひろみつにも、フォークの存在そんざい非常ひじょうおおきいとひょうされている[26]

成績せいせき

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自身じしん通算つうさん記録きろくでは74完投かんとうげたことがほこりだったという[15]あずか死球しきゅうすくなく1994ねんと1995ねんにはあずか死球しきゅう0の成績せいせきのこしているが、「死球しきゅう恐怖きょうふしんがなければ打者だしゃは4わりてる」ともかたっており[48]、ある程度ていど死球しきゅうむをないとかんがえていた。また、同時どうじ敬遠けいえんすくないとしでは先発せんぱつとしてフルシーズンを敬遠けいえん0の記録きろくっている。たい巨人きょじんせんおお登板とうばんする先発せんぱつローテーションまれたこともあり、当該とうがいカードは通算つうさん25しょうげた巨人きょじんキラーであるが[15]金田かねだ正一しょういち江夏えなつゆたかの3ねん連続れんぞくたい巨人きょじんせん5しょう以上いじょう記録きろくにはいちおよばなかった。

また、ひだりげながら通算つうさん打率だりつたいひだり打者だしゃで.263(1301打数だすう342安打あんだ)、たいみぎ打者だしゃで.244(3528打数だすう860安打あんだ)とたいひだり打者だしゃほう相性あいしょうわる[49]。これについては、「むかしひだり打者だしゃ外角がいかくげるたま苦手にがてとしていたが現代げんだいひだり打者だしゃひだり投手とうしゅのスライダーなどにもうまく対応たいおうしており、ひだりたいひだり投手とうしゅ有利ゆうりという一般いっぱんろんかならずしもりたない時代じだいになった」、と引退いんたいの2002ねんかたっている[49]

25さいまでに通算つうさん85しょうをあげながら、その故障こしょうで100しょうとどくことなくユニフォームをいだ。どう時期じき台頭たいとうし、50さいまで現役げんえきつらぬき219しょうをマークした僚友りょうゆう山本やまもとあきらいきながさと対照たいしょうてきとなった。だが、中日ちゅうにちファンへのこした印象いんしょう山本やまもとおとらずつよいものがあり、磐石ばんじゃくまいエースぶりとともにながかたつたえられている。

選手せんしゅとの関係かんけい

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落合おちあい博満ひろみつ前田まえだ智徳とものりには簡単かんたん安打あんだたれるというイメージがあり、走者そうしゃのいる場面ばめんなどでは周囲しゅういつたわるほど気合きあいれて対決たいけつした[20]。この2人ふたり打者だしゃとしてもっと印象いんしょうのこっており、また自身じしん調子ちょうしのバロメーターでもあったという[20]投手とうしゅでは桑田くわた真澄ますみもっと印象いんしょうのこり、投球とうきゅうまったくバットがたらなかったことにくわえ、ってった記憶きおくがないというほど相性あいしょうわるさをかんじていた[20]

せい捕手ほしゅつとめていた中村なかむら武志たけしへの信頼しんらいあつく、引退いんたい出演しゅつえんした『サンデードラゴンズない中村なかむらからの餞別せんべつビデオをさいなみだながいちめんせた[50]

詳細しょうさい情報じょうほう

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年度ねんどべつ投手とうしゅ成績せいせき

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とし

たま

だん
とう

いた
さき

はつ
かん

とう
かん

ふう

よん
たま
かち

はい

せん





かち

りつ


もの
とう
たま
かい

やす

ほん
るい
あずか
よん
たま
けい

とお
あずか

たま
だつ
さん


とう


しつ

てん

せめ
てん
ぼう

りつ
W
H
I
P
1989 中日ちゅうにち 10 7 0 0 0 1 4 0 -- .200 200 40.2 71 5 17 0 0 30 1 0 32 31 6.86 2.16
1990 31 19 6 1 1 10 6 1 -- .625 641 144.2 169 12 54 2 4 85 2 0 67 62 3.86 1.57
1991 36 27 8 4 2 12 13 0 -- .480 822 193.0 192 10 59 6 3 167 6 0 66 54 2.52 1.31
1992 11 8 6 1 2 8 2 0 -- .800 294 76.1 52 8 19 2 0 66 0 0 17 15 1.77 0.93
1993 31 30 14 3 0 17 7 1 -- .708 982 249.0 183 20 59 1 2 247 5 0 67 61 2.20 0.98
1994 28 25 14 2 1 13 9 3 -- .591 785 197.0 166 18 42 2 0 156 8 0 68 63 2.88 1.06
1995 25 24 15 3 3 12 9 0 -- .571 773 189.0 178 18 45 2 0 150 6 1 72 69 3.29 1.18
1996 25 24 11 2 1 14 8 0 -- .636 757 179.2 175 13 57 0 1 153 8 0 75 66 3.31 1.30
1997 10 8 0 0 0 2 2 0 -- .500 195 44.2 42 5 19 1 3 18 0 0 23 20 4.03 1.43
1998 14 14 0 0 0 2 8 0 -- .200 276 62.1 64 4 28 2 1 50 1 0 41 37 5.34 1.49
1999 5 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 38 8.0 11 1 1 0 1 6 0 0 7 7 7.88 1.50
2001 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 49 11.0 12 1 6 0 0 1 0 0 4 4 3.27 1.64
通算つうさん:12ねん 233 187 74 16 10 91 69 5 -- .569 5812 1395.1 1315 115 406 18 15 1129 37 1 539 489 3.15 1.24
  • かく年度ねんど太字ふとじはリーグ最高さいこう

タイトル

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表彰ひょうしょう

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記録きろく

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はつ記録きろく
  • はつ登板とうばん:1989ねん5がつ26にちたい読売よみうりジャイアンツ9回戦かいせんナゴヤ球場きゅうじょう)、8かいひょうに3番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい1失点しってん
  • はつだつ三振さんしん同上どうじょう、8かいひょう篠塚しのづか利夫としおから
  • はつ先発せんぱつ登板とうばん:1989ねん5がつ30にちたい広島東洋ひろしまとうようカープ5回戦かいせん広島ひろしま市民しみん球場きゅうじょう)、4かい3失点しってん敗戦はいせん投手とうしゅ
  • はつ勝利しょうり:1989ねん9がつ17にちたい広島東洋ひろしまとうようカープ22回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、5かい1失点しってん
  • はつ完投かんとう勝利しょうり:1990ねん6がつ2にちたい横浜よこはま大洋たいようホエールズ8回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、9かい1失点しってん
  • はつセーブ:1990ねん8がつ25にちたい読売よみうりジャイアンツ19回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、7かいひょう一死いっしに2番手ばんて救援きゅうえん登板とうばん完了かんりょう、2かい2/3失点しってん
  • はつ完封かんぷう勝利しょうり:1990ねん8がつ29にちたい広島東洋ひろしまとうようカープ23回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう
  • はつ本塁打ほんるいだ:1996ねん4がつ23にちたいヤクルトスワローズ4回戦かいせん明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅうじょう)、3かいひょうテリー・ブロスからみぎえつソロ
節目ふしめ記録きろく
  • 1000投球とうきゅう回数かいすう:1995ねん7がつ6にちたい読売よみうりジャイアンツ15回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう) ※史上しじょう261にん
  • 1000だつ三振さんしん:1996ねん6がつ27にちたい広島東洋ひろしまとうようカープ14回戦かいせん(ナゴヤ球場きゅうじょう)、5かいひょう金本かなもとともけんから ※史上しじょう97にん
その記録きろく
  • オールスターゲーム出場しゅつじょう:4かい(1991ねん、1993ねん - 1995ねん) ※1996ねん選出せんしゅつされるも出場しゅつじょう辞退じたい[51]

背番号せばんごう

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  • 14(1989ねん - 2001ねん
  • 71(2012ねん - 2013ねん

関連かんれん情報じょうほう

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出演しゅつえん番組ばんぐみ

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著書ちょしょ

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  • いは、あります。』(ザ・マサダ、2002ねん5がつISBN 4883970787
  • 中日ちゅうにちドラゴンズろん:"不気味ぶきみ"さにかくされた勝利しょうり方程式ほうていしき』(ベストセラーズ(ベスト新書しんしょ)、2010ねん10がつISBN 4584123047

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ 惜別せきべつだまじん 6かい 今中いまなか慎二しんじ『いいときも、わるいときもあった。でも気持きもちよくできた13年間ねんかんでした』」『週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん12月10にちごう、P.116
  2. ^ 天才てんさいサウスポーの原動力げんどうりょく打倒だとう巨人きょじん心意気こころいき!」『週刊しゅうかんベースボール』、1993ねん8がつ30にちごう、P.29
  3. ^ a b c d e f g 週刊しゅうかんベースボール』、1993ねん8がつ30にちごう、P.30
  4. ^ 山口やまぐち真司しんじきらいだったんですよ、巨人きょじんが」中学生ちゅうがくせい乱闘らんとう騒動そうどう無気力むきりょくけた"入団にゅうだんテスト"」『Full-Count』2023ねん11月17にち。2023ねん11月17にち閲覧えつらん
  5. ^ ““おっさん”は8がつ天国てんごくに…愛弟子まなでし今中いまなかさんから中日ちゅうにち大野おおのつよし名将めいしょうおしえ マウンドに帽子ぼうしいた本当ほんとう意味いみ. 中日ちゅうにちスポーツ・東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ (中日新聞社ちゅうにちしんぶんしゃ). (2020ねん8がつ24にち). オリジナルの2024ねん6がつ8にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20240608030738/https://www.chunichi.co.jp/article/109266 2024ねん6がつ8にち閲覧えつらん 柳川やながわ悠二ゆうじ大阪桐蔭おおさかとういん野球やきゅう PLとのめた「びと制度せいど廃止はいし」『NEWSポストセブン小学館しょうがくかん、2017ねん7がつ11にち。2023ねん10がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん6がつ8にち閲覧えつらん山口やまぐち真司しんじきゃくまえでの“懲罰ちょうばつ”「いまだったらありない」 攻撃こうげきちゅうずっとウサギびのおに指令しれい」『Full-Count』Creative2、2023ねん11月19にち。2023ねん10がつ20日はつか時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2024ねん6がつ8にち閲覧えつらん
  6. ^ 週刊しゅうかんベースボール』、1993ねん8がつ30にちごう、P.31
  7. ^ a b c d e 週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん12月10にちごう、P.118
  8. ^ a b c 期待きたいのドラフト1クンのなかあいだ報告ほうこく 今中いまなか慎二しんじ」『週刊しゅうかんベースボール』、1989ねん4がつ10にちごう、P.73
  9. ^ 制度せいどとしてい『ぎゃく指名しめい作戦さくせん』…中日ちゅうにち今中いまなか慎二しんじの“一本釣いっぽんづり”にこうして成功せいこうした 2大豊たいほう獲得かくとく会心かいしんドラフト」『中日ちゅうにちスポーツ・東京とうきょう中日ちゅうにちスポーツ』2022ねん3がつ23にち。2024ねん4がつ20日はつか閲覧えつらん
  10. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1988ねん12月4にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  11. ^ a b 「オレにくな! ストレートとカーブの本格ほんかく左腕さわん今中いまなか慎二しんじもと中日ちゅうにち)にく フォークの使つかかたおしえてください」『野球やきゅう小僧こぞう』、2010ねん2がつごう、P.123
  12. ^ a b 人物じんぶつショートシヨート 開幕かいまくいちぐんて、本当ほんとうたのしいですネ! もはや左腕さわんエースのあつかい。星野ほしの監督かんとく西本にしもととあわせて30しょう皮算用かわざんよう」『週刊しゅうかんベースボール』、1990ねん4がつ23にちごう、P.25
  13. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1990ねん3がつ2にちづけ朝刊ちょうかん、P.19
  14. ^ 「テクニカル・ポイント 中日ちゅうにち今中いまなか慎二しんじ 制球せいきゅうにしすぎて上体じょうたいだけのかたに」『週刊しゅうかんベースボール』、1990ねん7がつ9にちごう、P.68
  15. ^ a b c d e 週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん12月10にちごう、P.119
  16. ^ おこられたけど、使つかってくれた」 山本やまもと中村なかむら立浪たつなみ今中いまなか「4兄弟きょうだい」が星野ほしのいた」『デイリースポーツ online』株式会社かぶしきがいしゃデイリースポーツ、2018ねん1がつ7にち。2022ねん11月17にち閲覧えつらん
  17. ^ a b c 魔球まきゅう伝説でんせつ今中いまなか慎二しんじのカーブをった』中村なかむら武志たけし」『Sportiva』、2007ねん8がつごう、P.74
  18. ^ a b 魔球まきゅう伝説でんせつ2008 本人ほんにん解説かいせつ! カーブ 今中いまなか慎二しんじ わざと不安定ふあんていにぎることがコツ」『Sportiva』、2008ねん7がつごう、P.48
  19. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1993ねん2がつ6にちづけ朝刊ちょうかん、P.18
  20. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん12月10にちごう、P.120
  21. ^ a b c d e f g h 『Sportiva』、2007ねん8がつごう、P.75
  22. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん12月10にちごう、P.117
  23. ^ 故障こしょうかくして登板とうばんも「真面目まじめげろ」 つらかった痛烈つうれつ野次やじ球速きゅうそくない異変いへんに「うそでしょ」」『Full-Count』2023ねん11月30にち。2023ねん11月30にち閲覧えつらん
  24. ^ a b c 「にんげんドキュメント 野球やきゅう浪漫ろうまん 2かい 今中いまなか慎二しんじ 天才てんさいサウスポーの孤独こどくたたかい」『週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん4がつ16にちごう、P.42
  25. ^ 故障こしょうかくして登板とうばんも「真面目まじめげろ」 つらかった痛烈つうれつ野次やじ球速きゅうそくない異変いへんに「うそでしょ」」『Full-Count』2023ねん11月30にち。2023ねん11月30にち閲覧えつらん
  26. ^ a b c 野球やきゅう小僧こぞう』、2010ねん2がつごう、P.126
  27. ^ a b 中日ちゅうにち今中いまなか開幕かいまく断念だんねん」『週刊しゅうかんベースボール』、1997ねん4がつ7にちごう、P.21
  28. ^ a b c 週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん4がつ16にちごう、P.43
  29. ^ おそすぎたエース復活ふっかつ 今中いまなか(中日ちゅうにち)」『週刊しゅうかんベースボール』、1997ねん9がつ1にちごう、P.18
  30. ^ 週刊文春しゅうかんぶんしゅんだい44かんだい23ごう通巻つうかんだい2181ごう)、2002ねん6がつ13にちごう、26-31ぺーじ星野ほしのせんいち鈴木すずき宗男むねお からいすぎる人脈じんみゃく金脈きんみゃく 深層しんそうレポート「られざる素顔すがおだい2だん」(文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう
  31. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、1997ねん12月7にちづけ朝刊ちょうかん、P.35
  32. ^ 中日新聞ちゅうにちしんぶん』1998ねん5がつ17にち朝刊ちょうかんだいいちスポーツめん29めん「セ・リーグ だい7せつ 今中いまなか2しょう山崎やまざきたけししょう 継投けいとうりゅう最後さいごはサムソン」
  33. ^ 東京とうきょう新聞しんぶん』1998ねん5がつ17にち朝刊ちょうかんだいいちスポーツめん21めん「セ・リーグ 中日ちゅうにち快勝かいしょう
  34. ^ a b 「こんなハズじゃなかった… 今中いまなか慎二しんじ 速球そっきゅうか?軟投なんとうか?いま勝負しょうぶどころのもとエース」『週刊しゅうかんベースボール』、1998ねん10がつ5にちごう、P.54
  35. ^ 久保田くぼた龍雄たつおなぜ? 「年俸ねんぽうダウン」なのに祝福しゅくふくムード…契約けいやく更改こうかいきたまさかの“珍事ちんじ」『AERA dot.』2021ねん11月23にち、1ぺーじ。2021ねん11月23にち閲覧えつらん
  36. ^ a b c d e 週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん4がつ16にちごう、P.44
  37. ^ 週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん4がつ16にちごう、P.45
  38. ^ 残留ざんりゅうか?退団たいだんか?その去就きょしゅう注目ちゅうもくされるひとたち」『週刊しゅうかんベースボール』、2001ねん10がつ1にちごう、P.126
  39. ^ 復活ふっかつ苦心くしんも「来年らいねん契約けいやくできない」 かた限界げんかい阪神はんしんさそ断念だんねんえらんだ“中日ちゅうにち一筋ひとすじ」『Full-Count』2023ねん12月1にち。2023ねん11月30にち閲覧えつらん
  40. ^ 読売新聞よみうりしんぶん』、2002ねん3がつ24にちづけ朝刊ちょうかん、P.31
  41. ^ 来季らいき契約けいやくについて」『中日ちゅうにちドラゴンズ 公式こうしきサイト』2013ねん10がつ15にち。2013ねん10がつ23にち閲覧えつらん
  42. ^ 今中いまなか慎二しんじ復活ふっかつかけて-背水はいすいおとこたち)」『週刊しゅうかんベースボール』、1999ねん3がつ8にちごう、P.129
  43. ^ a b c d e 野球やきゅう小僧こぞう』、2010ねん2がつごう、P.125
  44. ^ a b c 野球やきゅう小僧こぞう』、2010ねん2がつごう、P.124
  45. ^ 「レフティーの不思議ふしぎ ひだりたいひだりきょじつ ひだりピッチャーの秘密ひみつ ひだり打者だしゃとの対戦たいせんなにかんがえる? 今中いまなか慎二しんじく」『週刊しゅうかんベースボール』、2002ねん7がつ15にちごう、P.13
  46. ^ 今中いまなか慎二しんじいは、あります。』ザマサダ、2002ねん
  47. ^ 「プロが公開こうかいとくじょうにぎり』 変化球へんかきゅうだい図鑑ずかん テクニカル・ポイント カーブへん 今中いまなか慎二しんじ」『週刊しゅうかんベースボール』、2004ねん6がつ7にちごう、P.14
  48. ^ 週刊しゅうかんベースボール』、2002ねん7がつ15にちごう、P.14
  49. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール』、2002ねん7がつ15にちごう、P.12
  50. ^ サンデードラゴンズ 2001ねん11月11にち放送ほうそう
  51. ^ ベースボール・レコード・ブック1997』、1996ねん12月発売はつばい、P.828

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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