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佐々ささしげるせい

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佐々ささ しげるせい
佐々ささしげるせい肖像しょうぞう富山とやま郷土きょうど博物館はくぶつかんぞう
時代じだい 戦国せんごく時代じだい - 安土あづち桃山ももやま時代じだい
生誕せいたん 天文てんもん5ねん1がつ15にち1536ねん2がつ6にち)?
えいただし9ねん1512ねん)、えいただし13ねん1516ねん)、天文てんもん8ねん1539ねんせつあり
死没しぼつ 天正てんしょう16ねんうるう5月14にち1588ねん7がつ7にち
別名べつめい 内蔵助くらのすけ通称つうしょう
戒名かいみょう なりせいてら庭月にわづき道閑どうかんだい居士こじ
墓所はかしょ 兵庫ひょうごけん尼崎あまがさきほうえんてら
京都きょうと上京かみぎょう慈眼寺じがんじ
京都きょうときたりゅうしょうてら
官位かんい したがえじょう陸奥むつまもるしたがえよん侍従じじゅう
主君しゅくん 織田おだ信長のぶなが秀信ひでのぶ豊臣とよとみ秀吉ひでよし
氏族しぞく 佐々ささ近江おうみはじめ
父母ちちはは ちち佐々ささしげるむねもりまさし)、はは堀場ほりばはじめむすめ?
兄弟きょうだい 政次まさじまごかいなりせいちょうしんむね丹羽にわしつ山田やまだしげるこくしつ前野まえのよしやすしむろ佐々ささただしかちはは
つま 正室せいしつ慈光いん村井むらい貞勝さだかつむすめ)、早川はやかわしゅみずむすめ
まつ千代丸ちよまる早川はやかわ雄介ゆうすけずいいずみいんたけほしいん光秀みつひでいん松寿しょうじゅいん山岡やまおかけいしつ狩野かの孝信たかのぶしつ不破ふわもりこくしつ(佐々ささ成光なるみつはは)
養子ようし佐久間さくま勝之かつゆきのち養子ようし縁組えんぐみ解消かいしょう)、成光なるみつしんむね ?
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佐々ささ しげるせい(さっさ なりまさ)は、戦国せんごく時代じだいから安土あづち桃山ももやま時代じだいにかけての武将ぶしょう大名だいみょう佐々ささしげるむねもりまさしとも)の[1]通称つうしょう内蔵ないぞうすけ家紋かもん棕櫚しゅろシュロ)。馬印うまじるしかねさんかい菅笠すげがさ鷹司たかつかさ孝子たかこほんいん徳川とくがわ家光いえみつ正室せいしつ)の外祖父がいそふ

出自しゅつじ

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佐々ささは、現在げんざい名古屋なごや西にしにあたる尾張おわりこく春日井かすがいぐん比良びらじょう拠点きょてんとした土豪どごうで、元々もともと織田おだしんやすぞくしていたとされる(『武功ぶこう夜話やわ』)。佐々ささ宇多うた源氏げんじ近江おうみ佐々木ささきの庶流で、尾張おわりこくうつ斯波しばの、ついで織田おだ家臣かしんになったとおもわれる。そのほかに上総かずさこくしょうから尾張おわりうつったとするせつ藤原ふじわら出身しゅっしんせつ菅原すがわらせい名乗なのったとするせつがある[2]

生涯しょうがい

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尾張おわり時代じだい

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佐々ささしげるむね三男さんなんとして、尾張おわりこく春日井かすがいぐん比良びらじょうまれる。

天文てんもん19ねん1550ねん)、織田おだ信長のぶながつかえる(『尾張おわり佐々ささ系譜けいふ』)[3]あに政次まさじまごかいがいたが、なりむね次男じなんまごかい弘治こうじ2ねん8がつ24にち1556ねん9月27にち)の稲生いのうたたか武者むしゃ大将たいしょうとして出陣しゅつじん奮戦ふんせんするも29さい討死うちじに長男ちょうなん政次まさじえいろく3ねん1560ねん)のおけ狭間はざまたたか討死うちじににするなど兄弟きょうだい相次あいついでくなったため、えいろく3ねん(1560ねん)にちちなるむねから家督かとくぎ、比良びら城主じょうしゅとなる。25さいであった[4]

えいろく4ねん1561ねん)、森部もりべたたかい(稲葉いなば山城やましろたたか参照さんしょう)でてきしょう稲葉いなば又右衛門またえもんつねどおり稲葉いなば一鉄いってつ叔父おじ)を池田いけだひさしきょうとも大功たいこうてる(『信長のぶながこう』)。

えいろく10ねん1567ねん)、なりせいくろ母衣ほろしゅの10にん筆頭ひっとうとなった[5]信長のぶなが場合ばあいは、くろあかそれぞれ10にんというれのよいかずにしていたあたり、うままわり小姓こしょうなか武功ぶこうすぐれたもの選抜せんばつしたとかんがえられる。くろ母衣ほろしゅうままわりから、あか母衣ほろしゅ小姓こしょうしゅからえらばれたようである[6]

えいろく11ねん(1568ねん)、信長のぶなが足利あしかが義昭よしあきほうじて6まんへい上洛じょうらくについた。この上洛じょうらく近江おうみこった観音寺かんおんじじょうたたかでは、六角ろっかく義賢よしかたみのさくじょう観音寺かんおんじじょう攻略こうりゃくし、9月28にちきょうはいった。そこにはなりせい姿すがたもあった[7]

えいろく12ねん(1569ねん)、信長のぶなが伊勢いせこく北畠きたばたけきょう大河内おおこうちじょうめたさいに、柴田しばた勝家かついえもりなり不破ふわ光治こうじともしろ東側ひがしがわめる部隊ぶたいひきいている(『信長のぶながこう』)。

もとかめ元年がんねん1570ねん)6がつ姉川あねがわたたか先立さきだつ「八相はっそうやま退すさくち」では、やなでん広正ひろまさ中条ちゅうじょうただしらととも少数しょうすううままわりしゅひきいて殿軍でんぐん参加さんかし、鉄砲てっぽうたいもちいて活躍かつやくしたとされる(『信長のぶながこう』『当代とうだい』) 。

天正てんしょう2ねん1574ねん)、長島ながしま一向いっこう一揆いっきとのたたかいで長男ちょうなんまつ千代ちよまるうしなう。天正てんしょう3ねん1575ねん)5がつ21にち長篠ながしのたたかでは、前田まえだ利家としいえらと3000にん鉄砲てっぽうたい指揮しきした[8]

ただし、この時期じき越前えちぜんこく入国にゅうこく以前いぜん)のなりせい活動かつどうによっては、『信長のぶながこう』を出典しゅってんとするものがほとんどで、その経歴けいれき実績じっせきについては不明ふめいてんおお[9]

府中ふちゅうさんにんしゅ時代じだい

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佐々ささしげるせい馬印うまじるし

天正てんしょう3ねん(1575ねん)9がつ織田おだ信長のぶなが越前えちぜんこく制圧せいあつ柴田しばた勝家かついえ北陸ほくりく方面ほうめん軍団ぐんだんちょうとした。越前えちぜん12ぐんのうち8ぐん柴田しばた勝家かついえ府中ふちゅう近辺きんぺんの2ぐんなりせい前田まえだ利家としいえ不破ふわ光治こうじの3にん府中ふちゅうさんにんしゅ)にあたえられた。府中ふちゅう2ぐんはおよそ10まんせきだったとされ、その地域ちいき政務せいむつねに3にん連名れんめいおこなっているところから、領地りょうちけず収入しゅうにゅうのみを分配ぶんぱいしたあいきゅう知行ちぎょうであった[10]なりせい小丸こまるじょうきずいて居城きょじょうとした。このころなりせいは、勝家かついえ利家としいえ光治こうじ行動こうどうともにすることがおおかったが、府中ふちゅうさんにんしゅかち与力よりきとはいえ、なか独立どくりつした、織田おだぐんゆうげき部隊ぶたいてき存在そんざいでもあった。北陸ほくりく上方かみがた往復おうふくすることがおおく、上杉うえすぎ対峙たいじしながらも北陸ほくりくでのたたかいがくとしばしば畿内きないされて石山いしやま合戦かっせん播磨はりまこく平定へいてい荒木あらき村重むらしげ征伐せいばつ有岡ありおかじょうたたか)などにも従軍じゅうぐんしている。このとき府中ふちゅうさんにんしゅ荒木あらき一族いちぞく処刑しょけいめいぜられ実行じっこうしている。

天正てんしょう5ねん1577ねん)8がつ北国きたぐにけて出陣しゅつじんし、能登のとこく侵入しんにゅうした上杉うえすぎぜいめるために柴田しばた勝家かついえらととも加賀かがこく侵攻しんこうしたが、ななじょう陥落かんらくけて同年どうねん10がつ撤退てったいしている(手取川てどりがわたたか)。しかし、手取川てどりがわたたかいからわずか半年はんとし天正てんしょう6ねん(1578ねん)3がつ上杉うえすぎ謙信けんしん死去しきょすると次第しだい形勢けいせい逆転ぎゃくてんする。

天正てんしょう8ねん(1580ねん)3がつ信長のぶなが石山いしやま本願寺ほんがんじ講和こうわむすばれた途端とたん北陸ほくりく方面ほうめん活発かっぱつし、柴田しばた勝家かついえ一向いっこう一揆いっき制圧せいあつ同年どうねん11がつかちがついに加賀かが平定へいていすると、それに従軍じゅうぐんして能登のとこくえつ中国ちゅうごく現在げんざい富山とやまけん)にも進出しんしゅつした。

越中えっちゅう時代じだい

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天正てんしょう8ねん1580ねん以降いこう神保じんぼ長住ながずみ助勢じょせいとして一向いっこう一揆いっきおよび上杉うえすぎ景勝かげかつたいする最前線さいぜんせんであったえつ中国ちゅうごく平定へいていかかわった。同年どうねんあきには治水ちすい事業じぎょうにも着手ちゃくしゅし、富山とやまじょうしたまもるために現在げんざい富山とやまうちながれる常願寺川じょうがんじがわ沿いに「佐々ささつつみ」とばれる堤防ていぼうきずいている。

天正てんしょう9ねん1581ねん正月しょうがつ下旬げじゅんから2がつ下旬げじゅんごろなりせい富山とやまじょう入城にゅうじょうする[11]。このとき越前えちぜん所領しょりょうわたしたと推測すいそくされるが、すくなくても同年どうねん11がつまで旧領きゅうりょうすすむ年貢ねんぐ後始末あとしまつなどの残務ざんむ処理しょりつづいていたことがかっている[12]なりせいのもとに神保じんぼう越中えっちゅうぜい編成へんせいされた[13]。このとき神保じんぼ長住ながずみなりせい指揮しきとなる。

天正てんしょう10ねん1582ねん)3がつ長住ながずみ旧臣きゅうしん小島こじましょく鎮、唐人とうじんおやひろらに富山とやまじょう急襲きゅうしゅうされ、らえられる事件じけん発生はっせいする。あいだもなく織田おだぐん反攻はんこうたすけられたが、長住ながずみ失脚しっきゃくし、追放ついほうされた。なお、富山とやまじょうめのさい意見いけんちがいから柴田しばた勝家かついえ口論こうろんとなったとつたえられている[14]長住ながずみ失脚しっきゃくしたことによりなりせいえつ中国ちゅうごくいちこく守護しゅごとなり、富山とやまじょう居城きょじょうとしてだい規模きぼ改修かいしゅうおこなった。このころなりせい絶頂ぜっちょうであった。

越中えっちゅう支配しはい実態じったい不明ふめいてんおおい。家臣かしんたいする知行ちぎょうあてぎょう安堵あんど寺社じしゃりょう寄進きしん安堵あんどかんする発給はっきゅう文書ぶんしょ偽文書ぎぶんしょふくめて25てん前後ぜんこう確認かくにんされている[15]知行ちぎょうあてぎょう寺領じりょう安堵あんどいずれも「いしこう表示ひょうじではなく、「たわらこう表示ひょうじによってなされているのが特徴とくちょうである[16]たい一向いっこう一揆いっきたい上杉うえすぎたいする臨戦りんせん態勢たいせいなか苛酷かこくな「り」支配しはいおこなわれていたことから、「いしこう表示ひょうじによる安定あんていてき検地けんちとは性質せいしつことなることがうかがえる[17]

天正てんしょう10ねん1582ねん)6がつ本能寺ほんのうじへん発生はっせいする。この時点じてんで、なりせいぞくする北陸ほくりく方面ほうめんぐん上杉うえすぎぐん越中えっちゅう最後さいご拠点きょてんである魚津うおづじょうを3ヶ月かげつ攻囲こういすえ攻略こうりゃくしたばかりであり、あとすこしで上杉うえすぎ景勝かげかつ本城ほんじょうである春日かすが山城やましろせまいきおいであった(魚津うおづじょうたたか)。このクーデターによって北陸ほくりく方面ほうめんしょしょう動揺どうようし、その対応たいおう足並あしなみがそろわなかった。へんほうとどくと、北陸ほくりく方面ほうめんかくしょうはそれぞれの領地りょうちげたため上杉うえすぎぐん反撃はんげきい、なりせいはその防戦ぼうせん身動みうごきがれなかった。一方いっぽうなりせいおなじく北陸ほくりく方面ほうめんぐんぞくする柴田しばた勝家かついえ上洛じょうらくはかったが、対峙たいじしていた毛利もうり輝元てるもと和睦わぼくして中国ちゅうごくだいがえによっていちはや畿内きないもどった羽柴はしば秀吉ひでよし明智あけち光秀みつひでたす手柄てがらてられ(山崎やまざきたたか)、さきされた。

天正てんしょう10ねん1582ねん6月27にち清洲きよす会議かいぎにおいて勝家かついえ秀吉ひでよしとの織田おだ実権じっけんあらそいが表面ひょうめんすると、なりせいかちかたについた。清洲きよす会議かいぎ領地りょうちさい配分はいぶんではえつ中国ちゅうごく安堵あんどされた。このころ本能寺ほんのうじへんのち一時いちじてき空城そらじょうとなった魚津うおづじょうには須田すだみつるおや中心ちゅうしんとする上杉うえすぎぜいはいり、越中えっちゅう東部とうぶにおける失地しっち奪還だっかんしていたが、なりせいふたた魚津うおづじょうめて上杉うえすぎかたから奪還だっかんしている。この時期じきかちむすめ婿むこであった佐久間さくま勝之かつゆきもりまさしおとうと)がなりせい養子ようしとなっていたことにより、なりせいかち支持しじする立場たちばになっていたとかんがえられている[18]

秀吉ひでよしへの臣従しんじゅう

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佐々ささしげるせい剃髪ていはつして羽柴はしば秀吉ひでよし降伏ごうぶくしたという佐々ささしげるせい剃髪ていはつ阯(富山とやまけん富山とやま安養坊あんようぼう

天正てんしょう11ねん1583ねん4がつ賤ヶだけたたかでも勝家かついえかたくみする。しかし、なりせい上杉うえすぎ景勝かげかつへのそなえのため越中えっちゅううごけなかったため、叔父おじ平左衛門へいざえもんひきいるへい600にん援軍えんぐんとしてすにとどまった。合戦かっせんちゅうにおける前田まえだ利家としいえ寝返ねがえりや上杉うえすぎ景勝かげかつ圧力あつりょくもあり、柴田しばた勝家かついえきたしょうじょう敗走はいそうする。このたたかいに自身じしん着陣ちゃくじんしなかったものの、勝家かついえかただったなりせいむすめ人質ひとじちして剃髪ていはつすること秀吉ひでよし降伏ごうぶくし、越中えっちゅういちこく安堵あんどされた。このころ畿内きないでは「佐々ささしげるせい裏切うらぎりによってかちほろんだ」との風説ふうせつながれていたという(『多聞たもんいん日記にっき』)[19]

天正てんしょう12ねん1584ねん正月しょうがつ4にちなりせい前田まえだ玄以げんいとともに秀吉ひでよし茶会ちゃかいまねかれた(『宗及そうきゅうちゃ日記にっき』)。同月どうげつ12にちには「陸奥むつまもる」に任官にんかんした御礼おれい参内さんだいしている[20]

徳川とくがわ家康いえやすはん秀吉ひでよし姿勢しせい明確めいかくにした天正てんしょう12ねん3がつ以降いこう家康いえやす大久保おおくぼ忠世ただよとの交流こうりゅう確認かくにんされている[21][22]。このころ小牧こまき長久手ながくてたたかこっている。

この小牧こまき長久手ながくてたたかいの最中さいちゅうにおいて、なりせい徳川とくがわかた寝返ねがえったタイミングは天正てんしょう12ねん5がつ中旬ちゅうじゅん[23]、もしくは8がつ[21] とされている。羽柴はしば秀吉ひでよし丹羽にわ長秀ながひでかいして前田まえだ利家としいえ佐々ささしげるせい出陣しゅつじんうながし、3月に両者りょうしゃがこれにおうじて前田まえだしげるつぎ[24]平左衛門へいざえもん[25]派遣はけんされたこと、7がつ羽柴はしばがわ滝川たきがわ一益かずます降伏ごうぶくしたことで作戦さくせん変更へんこう余儀よぎなくされた秀吉ひでよし越前えちぜんしゅう能登のとしゅう越中えっちゅうしゅ小牧こまきからの撤退てったいめいじた史料しりょう[26]存在そんざいするため、小牧こまき長久手ながくてたたかいに越中えっちゅうしゅ一員いちいんとして参戦さんせんした佐々ささ平左衛門へいざえもんが7がつ越中えっちゅう帰国きこくしたことで羽柴はしばぐん苦戦くせんったなりせい寝返ねがえりを決断けつだんしたとする見方みかたもある[27]天正てんしょう12ねん8がつ28にちにはしゅう吉方えほう前田まえだ利家としいえ朝日あさひ山城やましろ石川いしかわけん金沢かなざわ加賀朝日かがあさひまち)を攻撃こうげきしている(『加賀かがはん史料しりょう[21]・『顕如けんにょ上人しょうにん貝塚かいづか御座所ござしょ日記にっき[27])。確実かくじつ史料しりょう裏付うらづけはないがこれがはんしゅう吉方えほうとしての最初さいしょ軍事ぐんじ行動こうどうである[21]。この攻撃こうげき前田まえだ家臣かしん村井むらいちょうよりゆき撃退げきたいされている。

同年どうねん9月9にち (旧暦きゅうれき)新暦しんれき10月12にち)、利家としいえ領国りょうごくである加賀かがこく能登のとこく分断ぶんだんをはかるべく、宝達山ほうだつさんえてつぼ山砦さんさい布陣ふじんし、総勢そうぜい15000にんしゅう吉方えほうった利家としいえ末森すえのもりじょう包囲ほういするが、金沢かなざわじょうから急行きゅうこうした前田まえだ利家としいえ末森すえのもりじょう殺到さっとうする佐々ささぐん背後はいごから攻撃こうげきし、佐々ささぐん敗北はいぼくきっした(末森すえのもりじょうたたか)。この時期じきいても越後えちごこく上杉うえすぎ景勝かげかつとも敵対てきたいしていたため正面しょうめん作戦さくせんいられ、苦戦くせんつづいた。小牧こまき長久手ながくてたたかいの最中さいちゅう秀吉ひでよし信雄のぶおとのあいだ和議わぎ成立せいりつして家康いえやす停戦ていせんすると、厳冬げんとう飛騨山脈ひださんみゃくきたアルプス)・立山たてやま山系さんけいみずかえて浜松はままつへと踏破とうはして家康いえやす再挙さいきょうながした(「さらさらえ」、後述こうじゅつ)。しかし家康いえやす説得せっとく失敗しっぱい[注釈ちゅうしゃく 1]し、織田おだ信雄のぶお滝川たきがわ一益かずますからもこころよ返事へんじられなかった。なりせい失意しついなかふたた越中えっちゅう帰国きこくする。しかし、それでもなりせいはん豊臣とよとみ前田まえだ姿勢しせいくずすことはなかった。

天正てんしょう13ねん1585ねん)、秀吉ひでよし小牧こまき長久手ながくてたたかいののちいま反抗はんこうつづける佐々ささしげるせい討伐とうばつするためみずか越中えっちゅうし、富山とやまじょうを10まんぐん包囲ほういし、なりせい織田おだ信雄のぶお仲介ちゅうかいにより降伏ごうぶくした(富山とやまやく)。秀吉ひでよし裁定さいていにより、一命いちめいたすけられたものの、越中えっちゅう東部とうぶ新川しんかわぐんのぞすべての領土りょうど没収ぼっしゅうされた。ただし、つづぐんないしょしろには、青山あおやま前田まえだ家臣かしん)・舟見ふなみ上杉うえすぎ家臣かしん)らが遺臣いしん蜂起ほうきそな駐留ちゅうりゅうしたうえ富山とやまじょうやぶ却され、なりせい在国ざいこくゆるされず妻子さいしとも大坂おおさか移住いじゅうさせられた。以後いごしばらくは御伽おとぎしゅとして秀吉ひでよしつかえた。さらにまかなりょうとして摂津せっつこく能勢のせぐんに1まんせきあたえられた。

天正てんしょう15ねん1587ねん)、なりせい羽柴はしば名字みょうじあたえられている[30]


さらさら

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さらさらえをえがいた錦絵にしきえ歌川うたがわかおるがた

針ノ木峠はりのきとうげは「さらさらえ」とばれ、越中えっちゅう信州しんしゅうをつなぐみちであった。天正てんしょう12ねん(1584ねん)、なりせいがこのとうげえて信州しんしゅうから浜松はままつまでき、家康いえやす面会めんかいしたとされるが確実かくじつなことは不明ふめいである。『太閤たいこう』がこれを文学ぶんがくしてつたえ、地元じもとの『肯搆いずみたちろく』がさらに大幅おおはば脚色きゃくしょくしたもので[31]様々さまざませつ存在そんざいしている[32]

以下いかの3つのルートの可能かのうせいがあると指摘してきされている。

  1. ザラ峠ざらとうげはりとうげルートで、立山たてやま連峰れんぽうえたとするせつ。『絵本えほん太閤たいこう』などにもかれている江戸えど時代じだいから提示ていじされているせつである[33][34]
  2. 冬季とうき立山たてやまえは困難こんなんであるため、飛騨ひだから安房峠あぼうとうげえて信州しんしゅうるルートをとおったとするせつ[35][36]
  3. 越後えちご経由けいゆルートで、えつちゅうから日本海にほんかい沿いを北上ほくじょうして越後えちご糸魚川いといがわ地域ちいきはいり、そこから南下なんかするせんこく街道かいどうとおるというせつ[22]上杉うえすぎがわでありながら佐々ささ徳川とくがわ内応ないおうしている村上むらかみ義長よしなが勢力せいりょく範囲はんい通過つうかするとともに、義長よしながから種々しゅじゅ援助えんじょけて越後えちご通過つうかしたとされている[22][37]

肥後ひご時代ときよ

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比良びら城跡じょうせき佐々ささしげるせい城址じょうしいしぶみなりせいはか愛知あいちけん名古屋なごや西にし比良びら ひかりどおりてら

天正てんしょう15ねん1587ねん)の九州きゅうしゅう征伐せいばつこうをあげたことを契機けいきに、その九州きゅうしゅう国分こくぶでは肥後ひごいちこくあたえられた。秀吉ひでよし早急そうきゅう改革かいかくつつしむように指示しじしたともわれるが、やまいていたなりせいは、早速さっそく検地けんちおこなおうとし、それに反発はんぱつする隈部くまべちかしひさし中心ちゅうしんとする国人くにびと一斉いっせい蜂起ほうきまねくこととなり、これを自力じりきしずめることができなかった(肥後ひご国人くにびと一揆いっき)。

天正てんしょう16ねん1588ねん)2がつなりせい謝罪しゃざいのため大坂おおさか出向でむいたが、秀吉ひでよし面会めんかい拒否きょひされ尼崎あまがさき幽閉ゆうへいされる。秀吉ひでよし安国寺あんこくじ恵瓊えけいによる助命じょめい嘆願たんがんみみをかすこともなく、加藤かとう清正きよまさ検使けんしとして、なりせい切腹せっぷくめいじた[38]切腹せっぷくとき短刀たんとうよこいち文字もじいたあと、臓腑ぞうふをつかみして天井てんじょうげつけたといわれる。はか摂津せっつこく尼崎あまがさきほうえんてらにある[38]なりせい二人ふたりあにむすめ年齢ねんれいから、ぼつ年齢ねんれい53さいせつ有力ゆうりょくとされている[39][注釈ちゅうしゃく 2]戒名かいみょうなりせいてら庭月にわづきほら閑大居士こじ[38]辞世じせいうたは「このごろの やく妄想もうそうきし てつはちぶくろ いまやぶるなり」[42][43][44]。これは、秀吉ひでよし肥後ひご一揆いっき責任せきにんわれ、「召喚しょうかんされて以来いらい災難さいなん災厄さいやくによって悶々もんもんなやみぬき、おもいめぐらした妄想もうそう、それをれておいたてつはちぶくろともいうべきわが肉体にくたいを、いまやぶっておもむく」というさとるたち心境しんきょうんだものである[45][46]。なお、「肥後ひご一揆いっき責任せきにん」について、ほぼおな時期じき検地けんち実施じっしなどおなじような経緯けいい辿たどったにもかかわらず、領主りょうしゅ黒田くろだ孝高よしたか処分しょぶんけなかった豊前ぶぜん国人くにびと一揆いっきとの比較ひかくから、「一揆いっき発生はっせいさせた」責任せきにんではなく、島津しまつなど服属ふくぞくしたばかりの九州きゅうしゅうしょ大名だいみょう手前てまえ一揆いっき自力じりき鎮圧ちんあつ出来できなかった」責任せきにんについての責任せきにんわれたとするせつもある[47]

平成へいせい10ねん1998ねん)、ほうえんてら境内けいだい供養くようとう一角いっかくなりせいこうしんはかかいに辞世じせい建立こんりゅうされた。しんはかおなおおきさである[48]

逸話いつわ

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  • なりせい武勇ぶゆうこのかかえに熱心ねっしんであった。かかえのさいに5000せき知行ちぎょう約束やくそくしては6000せきや7000せき知行ちぎょうあたえることもあった。そのため、なりせいのもとに武勇ぶゆうさんじた(『名将めいしょう言行げんこうろく』)[49]
  • 天正てんしょう2ねん正月しょうがつ織田おだ信長のぶなが浅井あさいひさせい長政ながまさ父子ふし朝倉あさくら義景よしかげ、3にん髑髏しゃれこうべうす家臣かしん披露ひろう酒肴さけさかなとするが、なりせいうたげ終了しゅうりょう信長のぶながまえて、その行為こういを『こう漢書かんしょ』をひきつつたしなめ、信長のぶながもその批判ひはんよろこんでききいれたという(『信長のぶなが』)。ただし、この逸話いつわは『信長のぶなが作者さくしゃ小瀬こせはじめあんによる創作そうさく史実しじつではないとされている。内面ないめんつめなおせといわんばかりの痛烈つうれつ批判ひはん末席まっせきものからび、したしく政談せいだんにまでおよ信長のぶなが姿すがたは、はじめあん独特どくとく道徳どうとく訓話くんわによくられるえがかたである[50]
  • 天正てんしょう18ねん1590ねん)の小田原おだわら征伐せいばつで、蒲生がもうきょうが「かねさんかい菅笠すげがさ」の馬印うまじるし使用しよう許可きょか秀吉ひでよしねがたところ、秀吉ひでよしは「さんかい菅笠すげがさ武勇ぶゆうこえた佐々ささしげるせい使用しようした馬標うまじるしなので、たやすくは許可きょかすることはできない。」ときょうげた。これをいたきょう小田原おだわら激戦げきせんひろげた。そこで秀吉ひでよしきょう馬標うまじるしかかげることをゆるしたという逸話いつわのこる(『常山つねやまおさむだん』)[51]
  • 常願寺川じょうがんじがわ中流ちゅうりゅう馬瀬口ませぐち一帯いったいがしばしば決壊けっかいし、富山とやまじょうした災害さいがいをもたらした。なりせい天正てんしょう8ねん1580ねん)、人海じんかい工法こうほうによって巨石きょせきあつめ、馬瀬口ませぐち上流じょうりゅう底辺ていへん40メートル、ながさ150メートルにおよぶかまぼこがたかすみつつみきずいた[52]富山とやま西にしばん正源寺しょうげんじは、なりせいをはじめ歴代れきだい藩主はんしゅ水難すいなんけの祈願きがんをしたてらつたわる[53]
  • 家紋かもんは「棕櫚しゅろ」であるものの、軍旗ぐんきには佐々木ささき一族いちぞく定紋じょうもんである「よっゆいすみよっ)」を使用しようしていたという。
  • 上新川かみしんかわぐん大山おおやままち鍬崎山くわさきやま埋蔵まいぞうきん伝説でんせつつたえられている。天正てんしょう13ねんなりせい秀吉ひでよしぐん攻撃こうげきける直前ちょくぜん黄金おうごん100まんりょうめたという。ふもと集落しゅうらくには、「朝日あさひさす夕日ゆうひかがやくわさきななつむすびななむすび 黄金おうごんいっぱいひかかがやく」というさとつたわっている[53]

くろひゃくごう伝説でんせつ

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佐々ささしげるせい愛妾あいしょうはやひゃくごうひめがそのしたられたとつたわる「磯部いそべ一本いっぽんえのきあと富山とやまけん富山とやま磯部いそべまち

早百合さゆり(さゆり)」とうつくしい側室そくしつがいたとされる。なりせいはこのはやひゃくごうふか寵愛ちょうあいしてはばからず、はやひゃくごう懐妊かいにんする。それが嫉妬しっとんだか、ある時成ときなりせいしろ留守るすにしたときに、「はやひゃくごう密通みっつうしている。おはらうちにいるどもはなりまさしさまではない」とうわさながれた。じょうしたなりせいはこれをいて烈火れっかごといかり、有無うむわさずはやひゃくごう神通川じんづうがわかわ沿いまできずり、かみ逆手さかてちゅうげ、ころしてしまった。それだけでなく、はやひゃくごう一族いちぞく18にんすべてのくびをはね、獄門ごくもんはりつけにしてしまう。はやひゃくごうぬとき、「おのれなりせい此の此処ここら斬罪ざんざいせらるるとも怨恨えんこん悪鬼あっきすうねんならずして、なんじ子孫しそんころづく家名かめい断絶だんぜつせしむべし」(『絵本えほん太閤たいこう』)とさけんだ。また、はやひゃくごうひめは「立山たてやま黒百合くろゆりはないたら、佐々ささ滅亡めつぼうする」とのろいの言葉ことばのこしてんだともう(くろひゃくごう伝説でんせつ)。佐々ささみずほゆうなりせいおいである佐々ささただしかち子孫しそん)によると、ははに「わがでは、絶対ぜったいユリはなけてはいけません」とわれていたという[54] はやひゃくごうころされた神通川じんづうがわあたりでは、風雨ふううよるおんなくび鬼火おにびるといい、それを 「ぶらり」とった。そのにも無念むねんげたはやひゃくごうにまつわるエピソードは数多かずおおのこされている。このエピソード以外いがいにも、数多すうた真偽しんぎ不明ふめいなエピソードがのこされている。また、なりせい失脚しっきゃく一端いったんとなったとわれるくろユリ伝説でんせつがある。秀吉ひでよし正室せいしつきた政所まんどころちんはなとされるくろユリなりせいからおくられ、披露ひろうのため茶会ちゃかいひらくと、淀殿よどどの大量たいりょうくろユリを急遽きゅうきょせ、めずらしくもなんともないとわんばかりにかざってみせ、きた政所まんどころはじをかかされたとなりせいにくんだという。

肥後ひごおさむせいについての諸説しょせつ

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佐々ささしげるせいほろぼす元凶げんきょうとなった肥後ひご国人くにびと一揆いっきとその原因げんいんとされる検地けんち強行きょうこうについては、様々さまざま評価ひょうかがある。従来じゅうらいは、しょう勢力せいりょくながら武士ぶしである国人くにびと割拠かっきょするこえたい秀吉ひでよし慎重しんちょう統治とうちもとめたのにたいし、なりせい強硬きょうこう手段しゅだんたため反発はんぱつまね一揆いっき勃発ぼっぱつしたとされ、そこからぎゃく秀吉ひでよし陰謀いんぼうせつとなえられていた。しかし、このせつには、疑問ぎもんもしくはより複雑ふくざつ背景はいけいがあるという意見いけん提示ていじされている[55]

秀吉ひでよしなりせい慎重しんちょう領国りょうごく運営うんえいもとめた論拠ろんきょは、『太閤たいこう』にある「箇条かじょうじょうしょせいしょ)」にしるされた国人くにびと知行ちぎょう安堵あんどさんねん検地けんち禁止きんしにある。しかし、天正てんしょう13ねん(1585ねん)6がつ6にちあたえたとされるこのしょ宛名あてなが「佐々ささ内蔵助くらのすけ」となっており、それに先立さきだつ6がつ2にちなりせい肥後ひご国主こくしゅ任命にんめいする領地りょうちあて行状ぎょうじょう(『かえでのき文書ぶんしょ纂』)にある宛名あてな羽柴はしば肥後ひご侍従じじゅう」とも、またそれに先立さきだつ5がつ晦日みそか国人くにびと相良さがらちょうごと大矢野おおやの種基たねもとてた朱印しゅいんじょうにあるなりせいす「羽柴はしば陸奥むつもり」ともことなる。また、文体ぶんたい漢文かんぶん和漢わかんぶんざっているてん不自然ふしぜんである[56]。これらを証拠しょうこに、じょうしょには疑問ぎもんていされている[55][57]

なりせい入国にゅうこく検地けんち着手ちゃくしゅし、これに反発はんぱつした7がつ10日とおか隈部くまべちかしひさし反乱はんらん国人くにびと一揆いっき勃発ぼっぱつんだとされている。しかしながら、なりせい検地けんち実態じったいあきらかにされていない。大宰府だざいふ天満宮てんまんぐう文書ぶんしょのこ合志こうしぐん富納とみのうむら実施じっしれい(『肥後ひごこく合志こうしぐん富納とみのうむら天満てんま宮領みやりょう指出さしでぶんおけ日記にっき』)では、検地けんち指出さしで方式ほうしきおこなわれ、具体ぐたいてき石高こくだか記録きろくされていない。ところが、小代こしろちかしたいあたえた安堵あんどあてぎょう文書ぶんしょでは、秀吉ひでよし安堵あんどが200まちなのにたいし、なりせい秀吉ひでよし安堵あんどが50まちであり100まちあらたになりせいあたえるとしている。このような分析ぶんせきから、なりせい肥後ひご国人くにびと支配しはい朱印しゅいんじょうもとづく秀吉ひでよし直下ちょっかから、なりせい影響えいきょうりょくち、あいだはい重層じゅうそうがたへのえをおこないつつ、実質じっしつ領地りょうち削減さくげんしようとした行動こうどうがあったものとみなすせつもある。そのにも、領地りょうちえをおこな勢力せいりょく分散ぶんさんはかったてんられ、これらがふくあいてき国人くにびと反発はんぱつまねいたとも分析ぶんせきされている[55]

一方いっぽうで、なりせい切腹せっぷく当日とうじつ秀吉ひでよし一揆いっき鎮圧ちんあつくわわったしょ大名だいみょう発給はっきゅうした「陸奥むつまもる前後ぜんこう悪逆あくぎゃく条々じょうじょうごと」とばれるなりせい断罪だんざいする文書ぶんしょには検地けんちことれられず、なりせい隈部くまべちかしなが不仲ふなか一揆いっき原因げんいんであると断定だんていしている。また、前述ぜんじゅつのようにおなじく検地けんち国人くにびとたちの統治とうちめぐって勃発ぼっぱつしたとみられる豊前ぶぜん国人くにびと一揆いっきでは一揆いっきこした領主りょうしゅ黒田くろだ孝高よしたかへの処分しょぶんおこなわれていない[47]

さら隈部くまべちかしながらの反発はんぱつ原因げんいん検地けんちたいしてではなく、九州きゅうしゅう国分こくぶそのものにたいする不満ふまんであるとする指摘してきがある。肥後ひごこくでは、天正てんしょう年間ねんかんはいってから島津しまつ北上ほくじょう背景はいけいおや島津しまづがわ国人くにびとおや大友おおともがわ国人くにびとはげしくあらそってきたが、最終さいしゅうてき島津しまつ肥後ひご全域ぜんいき占領せんりょうし、おや大友おおともがわ国人くにびと島津しまづぐん領地りょうちして降伏ごうぶくすることを余儀よぎなくされていた。九州きゅうしゅう平定へいていにおいていちはや秀吉ひでよしへの臣従しんじゅうしめした隈部くまべらはもとおや大友おおともがわ国人くにびとであり、かれらは島津しまつうばわれた所領しょりょう回復かいふく期待きたいしていた。しかし、実際じっさい国分こくぶではもとおや大友おおともがわ国人くにびと旧領きゅうりょう回復かいふくみとめられず、一方いっぽう秀吉ひでよし敵対てきたいしてきたおや島津しまづがわ国人くにびとおおくが存続そんぞくみとめられた。旧領きゅうりょう回復かいふくたせなかったことなどで国人くにびとたちの豊臣とよとみ政権せいけんへの期待きたい反感はんかんわり、直接的ちょくせつてきにはしん領主りょうしゅであるなりせいけられたのはないかとしている[58]

秀吉ひでよしは、「畿内きない同前どうぜん体制たいせい」とばれるように九州きゅうしゅう畿内きない同様どうよう重視じゅうししていた。この背景はいけいには、すで朝鮮半島ちょうせんはんとうそしてあきらへの遠征えんせい文禄・慶長ぶんろくけいちょうえき)が視野しやにあったとされる。重要じゅうよう兵站へいたん後援こうえんとなる肥後ひご国主こくしゅなりせい任命にんめいした背景はいけいには、それだけ秀吉ひでよしなりせいたか評価ひょうかしていたというせつもある。羽柴はしばせい陸奥むつまもるという官職かんしょくあたえていたところが、この根拠こんきょとされている[55][57]

系譜けいふ

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家臣かしん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ただし、家康いえやすなりせい見捨みすてたわけではく、富山とやまやく最中さいちゅう羽柴はしばかたについていた信濃しなのこく真田さなだ昌幸まさゆき攻撃こうげきしている(だいいち上田うえだ合戦かっせん)のは、秀吉ひでよし牽制けんせいしてなりせいすく意図いとがあったとする指摘してきもある[28][29]
  2. ^ 53せつもっと有力ゆうりょくされているが、没年ぼつねんは50さいから73さいせつまで諸説しょせつあり、そこから逆算ぎゃくさんした生年せいねんになっているので、正確せいかく生年せいねんしょうである。ただし『たけ家事かじ』『武功ぶこう夜話やわ』には天文てんもん11ねん1542ねん)のだいいち小豆あずきざかたたか戦功せんこうげたむね記述きじゅつがあり、もしもそれがただしければ生年せいねん天文てんもん5ねん(1536ねんせつ天文てんもん8ねん(1539ねんせつかんがえにくくなる[40]。また、天文てんもん年間ねんかん誕生たんじょうせつは17世紀せいき後期こうきになってはじめて出現しゅつげんしたのにたいし、えいただし年間ねんかんせつはやし羅山らざん編纂へんさんした『豊臣とよとみ秀吉ひでよし』や加賀かが藩士はんし関屋せきや政春まさはる覚書おぼえがきおい有沢ありさわ武貞たけさだ整理せいりした『政春まさはる古兵ふるつわものだん』が採用さいようしていることに注意ちゅういすべきとする指摘してきもある。前者ぜんしゃなりせい死去しきょは6さいではあるものの時代じだいてきおおきくはなれておらず、後者こうしゃなりせいぼつまれであるがなりせい旧臣きゅうしんおおつかえていた加賀かがはん家臣かしんで、なりせい直接ちょくせつもの面識めんしきがあった可能かのうせいがあるからである[41]

出典しゅってん

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  1. ^ はなまえ 2002, p. 11, はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  2. ^ はなまえ 2002, p. 10, はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  3. ^ はなまえ 2002, p. 72, 谷口たにぐち克広かつひろ佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  4. ^ はなまえ 2002, p. 16, はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  5. ^ はなまえ 2002, p. 17, はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  6. ^ はなまえ 2002, p. 74, 谷口たにぐち克広かつひろ佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  7. ^ はなまえ 2002, p. 18, はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  8. ^ はなまえ 2002, p. 20, はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
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  10. ^ はなまえ 2002, p. 77, 谷口たにぐち克広かつひろ佐々ささしげるせいとその時代じだい」.
  11. ^ 富山とやまけん通史つうしへん近世きんせいじょう、1980ねん
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  26. ^ 天正てんしょう12ねん7がつ6にちづけ羽柴はしば秀吉ひでよしあて羽柴はしば秀吉ひでよし書状しょじょう(『豊臣とよとみ秀吉ひでよし文書ぶんしょしゅう』2、1132ごう
  27. ^ a b 高岡たかおかとおる小牧こまき長久手ながくてたたかいと越中えっちゅう秀吉ひでよし陣立じんだてしょなりせい蜂起ほうき―」『富山とやまだんだい183ごう、2017ねん 
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  29. ^ 萩原はぎはら、2023ねん、P22.
  30. ^ 村川むらかわ浩平こうへい日本にっぽん近世きんせい武家ぶけ政権せいけんろん近代きんだい文芸ぶんげいしゃ、2000ねん、28ぺーじ 
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  37. ^ 片桐かたぎり昭彦あきひこ ちょ上越じょうえつへんさん委員いいんかい へん上越じょうえつ 通史つうし2 中世ちゅうせい』2004ねん、475ぺーじ 
  38. ^ a b c はなまえ 2002, p. 164, 森本もりもとしげる佐々ささしげるせい肥後ひご支配しはい」.
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  50. ^ はなまえ 2002, pp. 115–116, 奥村おくむら徹也てつや佐々ささしげるせい柴田しばた勝家かついえ」.
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  58. ^ 大山おおやま智美ともみちゅう近世きんせい移行いこうくにしゅ一揆いっき領主りょうしゅ検地けんち-肥後ひごこくしゅ一揆いっき素材そざいとして」『九州きゅうしゅう史学しがく』164ごう、2012ねん/所収しょしゅう:萩原はぎはら大輔だいすけ 編著へんちょ『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいじゅういちかん 佐々ささしげるせいえびすひかりさち出版しゅっぱん、2023ねん。2023ねん、P274-276・279-283.
  59. ^ はなまえ 2002, p. 33, はなぜん盛明もりあき佐々ささしげるせいとその時代じだい」.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • はなぜん盛明もりあき へん佐々ささしげるせいのすべて』新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、2002ねんISBN 4-404-02954-3 
  • 遠藤えんどう和子かずこ史伝しでん 佐々ささしげるせい学研がっけんパブリッシング、2002ねんISBN 4-05-901137-1 
  • 遠藤えんどう和子かずこ佐々ささしげるせいサイマル出版しゅっぱんかい、1986ねんISBN 978-4-313-75259-7 (のち人物じんぶつ文庫ぶんこ学陽書房がくようしょぼう、2010ねん
  • 高岡たかおかとおる小牧こまき長久手ながくてたたかいと越中えっちゅう秀吉ひでよし陣立じんだてしょなりせい蜂起ほうき-」『富山とやまだん』183ごう、2017ねん 
  • 萩原はぎはら大輔だいすけ『シリーズ・ゆたか大名だいみょう研究けんきゅう だいじゅういちかん 佐々ささしげるせいえびすひかりさち出版しゅっぱん、2023ねんISBN 978-4-86403-477-7 
    • 総論そうろん萩原はぎはら大輔だいすけゆたか大名だいみょう佐々ささしげるせいをめぐるしょ論点ろんてん」(P6-43.)
    • 付録ふろく1)萩原はぎはら大輔だいすけ佐々ささしげるせい居所きょしょ行動こうどう」(P434-444.)

現代げんだいにおける顕彰けんしょう

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毎年まいとし7がつ後半こうはん富山とやま上滝かみたき地区ちくにて、「観光かんこうおおやま佐々ささしげる政戦せいせんこく時代じだいまつり」などがもよおされている。

とやま城郭じょうかくカードNo.95(富山とみやまゆかりの武将ぶしょうカード)[1][2]

関連かんれん作品さくひん

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小説しょうせつ
  • 松本まつもと清張せいちょう 『ひとりの武将ぶしょう
  • 遠藤えんどう和子かずこ物語ものがたり佐々ささしげるせい
  • ぐんじゅん佐々ささしげるせいおのれれの信念しんねんきた勇将ゆうしょう
  • ふう真知まちつよし沙羅さら沙羅さらえ』
  • 簑輪みのわりょう 『くせものの
  • 吉原よしはらみのるづるしろ』(『きた國文こくぶんはな』79ごう2019ねんはるごう
  • 今村いまむらしょうわれ半夏生はんげしょうひと』(『戦国せんごく武将ぶしょうでん 東日本ひがしにっぽんへん収録しゅうろく
  • 𠮷はらみのる彼岸花ひがんばな』(『きた國文こくぶんはな』100ごう、2024ねんなつごう
テレビドラマ
映画えいが

関連かんれん項目こうもく

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  1. ^ 「とやま城郭じょうかくカードだいだん完成かんせいしました!」砺波となみ公式こうしきHP
  2. ^ 「とやま城郭じょうかくカード一覧いちらんだいだん)」砺波となみ公式こうしきHP