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佐倉藩 - Wikipedia コンテンツにスキップ

佐倉さくらはん

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佐倉さくらけんから転送てんそう

佐倉さくらはん(さくらはん)は、下総しもうさこく印旛いんばぐん佐倉さくら現在げんざい千葉ちばけん佐倉さくら周辺しゅうへん)にかれたはん徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入国にゅうこく以来いらい佐倉さくら地域ちいき江戸えど東方とうほう要衝ようしょうとして重視じゅうしされ[1]一門いちもん譜代ふだい大名だいみょう配置はいちされた。1610ねんにゅうふうした土井どい利勝としかつは、近世きんせい佐倉さくらじょうとその城下町じょうかまち現在げんざい佐倉さくら中心ちゅうしん地区ちく)をきずいた。江戸えど時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうきにかけてはまくかく封地ほうちとなり、藩主はんしゅ頻繁ひんぱん交替こうたいしたが、1746ねん堀田ほったさいふうされて定着ていちゃくし、廃藩置県はいはんちけんまでつづいた[2]はん過半かはんめる堀田ほった石高いしたかはおおむね11まんせきで、現在げんざい千葉ちば県域けんいきでは最大さいだいはんであった[1]

江戸えど時代じだい前期ぜんき堀田ほった最初さいしょざいふうちゅうはんりょう佐倉さくら惣五郎そうごろう事件じけん発生はっせいしたとされる。佐倉さくらはんしょ藩中はんちゅうもっとおおくの老中ろうじゅう輩出はいしゅつしており、佐倉さくらじょうは「老中ろうじゅうしろ」ともしょうされる[1]

歴史れきし

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佐倉藩の位置(千葉県内)
小見川
小見川おみがわ
東金
東金とうがね
大網
大網おおあみ
船橋
船橋ふなばし
千葉
千葉ちば
寒川
寒川さむかわ
公津
おおやけ
佐倉
佐倉さくら
←本佐倉
本佐倉もとさくら
関連かんれん地図ちず千葉ちばけん[注釈ちゅうしゃく 1]

前史ぜんし戦国せんごく佐倉さくら地域ちいき

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室町むろまち時代ときよ後期こうき下総しもうさ千葉ちばしるしはたうら現在げんざい印旛沼いんばぬま中世ちゅうせいには香取かとりかいむすばれていた)にめんした水陸すいりく交通こうつう要衝ようしょうである下総しもうさこく印旛いんばぐんしるしひがしそう佐倉さくら拠点きょてんうつした[3]中世ちゅうせいに「佐倉さくら」としょうされたのは現在げんざい印旛いんばぐん酒々井しすいまち本佐倉もとさくら上本佐倉かみもとさくらから佐倉さくら大佐倉おおざくらにかけての一帯いったいであり[4]将門まさかどさん本佐倉もとさくらじょうきずかれ、城下じょうかには町場ちょうば形成けいせいされて、領国りょうごく支配しはい中心ちゅうしんとなった[5]

戦国せんごく時代じだい末期まっき千葉ちばこう北条ほうじょう従属じゅうぞくし、本佐倉もとさくらじょうこう北条ほうじょうささえじょうとなった。天正てんしょう18ねん1590ねん)、小田原おだわら征伐せいばつさいして本佐倉もとさくらじょう落城らくじょうし、千葉ちば没落ぼつらくした。

近世きんせい佐倉さくらじょう築城ちくじょう以前いぜん

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天正てんしょう18ねん1590ねん)、関東かんとう入国にゅうこくした徳川とくがわ家康いえやすは、各地かくちしょしょう配置はいちした。ただし佐倉さくら地域ちいきについては諸説しょせつがある。

ぶんろく2ねん1593ねん)、徳川とくがわ家康いえやすは5なん武田たけだ信吉のぶよし佐倉さくらに4まんせき配置はいちする。事典じてんるいによってはここからを「佐倉さくらはん」とあつか[9][10]慶長けいちょう7ねん1602ねん)に信吉のぶよし常陸ひたちこく水戸みとはんうつると、6なん松平まつだいらただしてるが5まんせきはいるが、よく慶長けいちょう8ねん1603ねん)に信濃しなのこく川中島かわなかじまてんふうした。ちゅうてる佐倉さくら領主りょうしゅであったのはわずか40にちであった。

慶長けいちょう11ねん1606ねん小笠原おがさわら吉次よしじ尾張おわりこく犬山いぬやまはんからはいる。以後いご佐倉さくらはん譜代ふだい大名だいみょうはんとしてつづくことになる。小笠原おがさわら吉次よしじ慶長けいちょう13ねん1608ねん常陸ひたちこく笠間かさまはんうつりふうした。

土井どい利勝としかつによって近世きんせい佐倉さくらじょう築城ちくじょうされる以前いぜん、「佐倉さくら地域ちいき支配しはい拠点きょてんがどこにあったのかについては、以下いかのようなせつがあるもののはっきりしない。

  • 本佐倉もとさくらじょうかれたというせつ。『くに指定してい史跡しせきガイド』は、本佐倉もとさくらじょう千葉ちば改易かいえき徳川とくがわによって接収せっしゅうされ、その佐倉さくらはんはんちょうかれたとしる[11]。『日本にっぽんしろがわかる事典じてん』は、徳川とくがわによる接収せっしゅういちはいじょうとされたものの、小笠原おがさわら吉次よしじ土井どい利勝としかつ本佐倉もとさくらじょうはいって再興さいこうされ、佐倉さくらじょうへのはんちょう移転いてん一国一城いっこくいちじょうれいによりはいじょうされたとしる[12]
  • 本佐倉もとさくら陣屋じんやかれたとするせつ[13]
    • 大堀おおほり陣屋じんや酒々井しすいまち上本佐倉かみもとさくら佐倉さくら大佐倉おおざくらきた大堀おおほり)と特定とくていするせつ[5]地元じもとには武田たけだ信吉のぶよし建設けんせつしたかんとの伝承でんしょうがあり、「まん千代ちよ殿どの屋敷やしき」(まんせんだい武田たけだ信吉のぶよし幼名ようみょう)とのつたえられている[5]柴田しばた(1986)によれば、大堀おおほり陣屋じんや千葉ちば滅亡めつぼうにゅうふうした徳川とくがわ家臣かしん三浦みうら義次よしじ武田たけだ信吉のぶよし)が本佐倉もとさくらじょうはいして本拠ほんきょうつしたが、慶長けいちょう8ねん(1603ねん)にはいされたとしている[14]。「本佐倉もとさくら北大ほくだいほり遺跡いせき」として発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれているが、17世紀せいき初頭しょとう以前いぜんにさかのぼる遺物いぶつ出土しゅつどしている[15]。16世紀せいきにはすで使用しようされていたとみられ[16]本佐倉もとさくらじょうたいする居館きょかん可能かのうせいもある[15]
  • 近世きんせい佐倉さくらじょう地点ちてんにあった鹿島かしまじょう鹿島台かしまだいじょうかれたとするせつ近世きんせい佐倉さくらじょうのある地点ちてんには、かつて千葉ちば築城ちくじょうこころみた。千葉ちばおやたね鹿島かしまみきたね築城ちくじょうめいじたが中断ちゅうだん(ここから「鹿島台かしまだい」とばれるという)、その千葉ちばくにたね築城ちくじょうこころみたが完成かんせいのまま頓挫とんざしたという。『角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてん』によれば、小笠原おがさわら吉次よしじ鹿島かしまじょうはいったという[17]

土井どい利勝としかつ近世きんせい佐倉さくらじょう築城ちくじょう

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土井どい利勝としかつ

慶長けいちょう15ねん1610ねん)1がつ下総しもうさこく香取かとりぐん小見川おみがわはんから土井どい利勝としかつが3まん2000せきはいった。利勝としかつ同年どうねん12がつ徳川とくがわ秀忠ひでただづけ老中ろうじゅうとなる。

利勝としかつは、慶長けいちょう16ねん(1611ねん)より7年間ねんかんをかけて、鹿島かしまだい近世きんせい城郭じょうかくとしての佐倉さくらじょう築城ちくじょうした[注釈ちゅうしゃく 4]佐倉さくらじょう周辺しゅうへんには城下町じょうかまち形成けいせいされた[1]

土井どい利勝としかつまくかく重鎮じゅうちんとして累進るいしんかさねて随時ずいじ加増かぞうされ、寛永かんえい2ねんには14まん2せんせきりょうするにいたる(歴代れきだい佐倉さくら藩主はんしゅ最大さいだい石高こくだか[17]利勝としかつは、寛永かんえい10ねん1633ねん)に下総しもふさこく古河ふるかわはん転出てんしゅつした。

老中ろうじゅうしろ

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寛永かんえい10ねん(1633ねん)、豊後ぶんごこく日田ひたはんより石川いしかわただしそうが7まんせきはいり、よく寛永かんえい11ねん1634ねん)に近江おうみこく膳所ぜぜはんうつりふう

寛永かんえい12ねん1635ねん)に摂津せっつこく高槻たかつきはんから松平まつだいら家信いえのぶ形原かたはら松平まつだいら)が4まんせきはいった。寛永かんえい15ねん松平まつだいら康信やすのぶ家督かとく継承けいしょうしたさいおとうとしん信忠のぶただに2000せきずつ分与ぶんよ[17]寛永かんえい17ねん1640ねん)、康信やすのぶ旧領きゅうりょう摂津せっつこく高槻たかつきはんもどる。

寛永かんえい19ねん1642ねん)、信濃しなのこく松本まつもとはんから老中ろうじゅう堀田ほったただしもりが11まんせきはいるが、慶安けいあん4ねん1651ねん)に3だい将軍しょうぐん徳川とくがわ家光いえみつ殉死じゅんし堀田ほった正信まさのぶ万治まんじ3ねん1660ねん)、幕政ばくせい不満ふまんいだき、佐倉さくら無断むだんじょうしたため、改易かいえきじょふう正信まさのぶ時代じだいには「農民のうみん窮状きゅうじょう将軍しょうぐん直訴じきそして処刑しょけいされた」義民ぎみん佐倉さくら惣五郎そうごろう事件じけんがあったとされるが、事実じじつとして確認かくにんできる事項じこうすくない(おおやけむらの「惣五郎そうごろう」という有力ゆうりょく農民のうみんなんらかの理由りゆう処刑しょけいされ、その堀田ほった改易かいえきと「惣五郎そうごろうたたり」をむすびつける伝承でんしょうしょうじたことは確認かくにんされる。佐倉さくら惣五郎そうごろう参照さんしょう)。このほか堀田ほった領国りょうごくでは寛政かんせい20ねん(1643ねん)に「農民のうみん窮乏きゅうぼうすくうためはんべいぞうやぶ自害じがいした」東金とうがね義人ぎじん大多和おおたわ四郎しろうみぎ衛門えもん伝承でんしょうつたわっている[18]

寛文ひろふみ元年がんねん1661ねん)、上野うえのこく館林たてばやしはんから松平まつだいらじょうひさし大給おぎゅう松平まつだいら)がはいるが、のべたから6ねん1678ねん)に肥前ひぜんこく唐津からつはんうつりふう

同年どうねん松平まつだいらじょうひさわるかたちで、肥前ひぜんこく唐津からつから老中ろうじゅう大久保おおくぼただしあさが8まん3000せきはいる。1680ねんのべたから8ねん)に1まんせき加増かぞうけ、1681ねん天和てんわ元年がんねん)にちゅうあさ老中ろうじゅう首座しゅざとなる。なお、ちゅうあさは1684ねん貞享ていきょう元年がんねん)に江戸城えどじょうない大老たいろう堀田ほった正俊まさとし堀田ほったただしもりで、正信まさのぶおとうと)の殺害さつがい事件じけん遭遇そうぐうし、居合いあわせた阿部あべ正武まさたけ戸田とだ忠昌ただまさらとともに加害かがいしゃ稲葉いなばただしきゅうっている。貞享ていきょう3ねん1686ねん)に相模さがみこく小田原おだわらはんうつりふう

同年どうねん武蔵むさしこく岩槻いわつきはんから老中ろうじゅう戸田とだ忠昌ただまさが6まん1000せきにゅうふう元禄げんろく7ねんに1まんせき加増かぞうされて7まん1000せきとなる。元禄げんろく12ねんあといだ忠真ただざねおとうと忠章ただあきに3200せき(これにくわ新田しんでん3800せき)をぶんし、佐倉さくらはん6まん7800せきとなる[17]忠真ただざね元禄げんろく14ねん1701ねん)、越後えちごこく高田たかだはんうつりふう

戸田とだ忠真ただざねわりで、越後えちごこく高田たかだはんから新任しんにん老中ろうじゅう稲葉いなばただしが10まん2000せきにゅうふうせいいのちけて、藩儒はんじゅ磯辺いそべあきらげん地域ちいき歴史れきし地理ちりしょそうがいろく』『佐倉さくら風土記ふどき』を編纂へんさんしている。次代じだい稲葉いなばただしとおる8ねん1723ねん)に山城やましろこくよどみはんうつりふう

稲葉いなばただしわりで、山城やましろこくよどみはんから新任しんにん老中ろうじゅう松平まつだいらじょう大給おぎゅう松平まつだいらじょうひさまご)が6まんせきはいった。じょう邑はとおる改革かいかく推進すいしんした老中ろうじゅうとしてられる(のちに老中ろうじゅう首座しゅざ勝手かってかけ老中ろうじゅう)。のべとおる2ねん(1745ねん)、徳川とくがわ家重いえしげ将軍しょうぐん就任しゅうにんするとじょう邑は老中ろうじゅう罷免ひめんされ、げんふうけたうえ隠居いんきょめいじられた。じょう邑のゆう家督かとくいだがのべとおる3ねん1746ねん)に出羽でわこく山形やまがたはんうつりふうされた。

後期こうき堀田ほった時代じだい

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のべとおる3ねん(1746ねん)、松平まつだいらじょうゆうわるかたちで、出羽いずはこく山形やまがたはんから老中ろうじゅう堀田ほったただしあきら正信まさのぶおとうとである正俊まさとしまご)が10まんせきにゅうふう。その幕末ばくまつまで堀田ほった支配しはい定着ていちゃくした。佐倉さくらはん歴史れきしにおいては、せいあきら以後いご堀田ほったを「後期こうき堀田ほった」ともしょうする[17]

せいあきら老中ろうじゅう首座しゅざをつとめ、たかられき10ねんに1まんせき加増かぞうされて11まんせきとなった。このうち4まんせき程度ていど出羽いずはこく村山むらやまぐん所領しょりょうであり、のべとおる4ねん(1747ねん)に柏倉かしわぐら陣屋じんや現在げんざい山形やまがた柏倉かしわぐら)がかれてぶんりょう統治とうちにあたった[19]

堀田ほったただしあきらは、前期ぜんき堀田ほった改易かいえきむすびつける伝承でんしょうしょうじていた佐倉さくら惣五郎そうごろう父子ふし慰霊いれいおこない、以後いご藩主はんしゅ継承けいしょうした。佐倉さくらはん堀田ほった公認こうにんすることにより、佐倉さくら惣五郎そうごろう義民ぎみん伝説でんせつ発展はってんすることになった。

2だい藩主はんしゅ堀田ほったただしじゅんは、奏者そうしゃばん寺社じしゃ奉行ぶぎょう大坂おおさか城代じょうだい京都きょうと所司代しょしだいなどの要職ようしょく歴任れきにんした[17]一方いっぽうはん財政ざいせいはこのころから窮状きゅうじょうせるようになった[17]天明てんめい3ねん(1783ねん)には、浅間あさまさん噴火ふんか利根川とねがわ洪水こうずい背景はいけいとして、しろづけりょう年貢ねんぐ減免げんめんなどをもとめる百姓ひゃくしょう一揆いっき発生はっせいした[17]寛政かんせい4ねん(1792ねん)、藩校はんこうとして学問がくもんしょ(のちにぬるどう成徳しげのり書院しょいんなどに改称かいしょう)を設立せつりつした。

だい4だい藩主はんしゅ堀田ほったただしあいは、勝手かってかた主役しゅやくむかい藤左衛門とうざえもん推進すいしんしゃとして、「三ツ割みつわりほう」など財政ざいせい改革かいかく中心ちゅうしんとする藩政はんせい改革かいかくすすめた[17]

堀田ほった正睦まさとし

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文政ぶんせい8ねん(1825ねん)にだい5だい藩主はんしゅとなった堀田ほった正睦まさとしは、2にわたって幕府ばくふ老中ろうじゅうつとめた人物じんぶつとしてられる。1度目どめ水野みずの忠邦ただくにとともに天保てんぽう改革かいかく推進すいしん安政あんせい2ねん老中ろうじゅう再任さいにんされ、ペリー来航らいこう以降いこう外国がいこく事務じむ取扱とりあつかい老中ろうじゅうとなり、ハリスとの日米にちべい修好しゅうこう通商つうしょう条約じょうやく締結ていけつなどで奔走ほんそうした。しかし将軍しょうぐん継嗣けいし問題もんだいなどで井伊いい直弼なおすけ対立たいりつし、安政あんせい5ねん(1858ねん)に老中ろうじゅう罷免ひめんされ蟄居ちっきょした。

佐倉さくら藩政はんせいうえでは「天保てんぽう改革かいかく」を実施じっし[17]家中かちゅう扶持ふち政策せいさく学制がくせい改革かいかくすすむ農政のうせいさくおこなった[17]正睦まさとし蘭学らんがく奨励しょうれいした人物じんぶつとしてられており、天保てんぽう7ねんには藩校はんこう成徳しげのり書院しょいんとして拡充かくじゅうし、儒学じゅがく武芸ぶげいのほかに蘭学らんがく医学いがくれた[17]。また、医師いし佐藤さとう泰然たいぜんまねいて佐倉さくら城下じょうか本町ほんまちげん佐倉さくら本町ほんちょう(もとまち))にじゅん天堂てんどうひらかせた。蘭方らんぽう医学いがくかんしては「西にし長崎ながさきひがし佐倉さくら」とならしょうされ[17][20]、また佐倉さくらは「みなみそう学都がくと」とうたわれたという[9]

安政あんせい6ねん(1859ねん)に正睦まさとし家督かとく堀田ほったただしりんゆずった(せいりん佐倉さくらはん最後さいご藩主はんしゅとなる)が、若年じゃくねんのために正睦まさとし後見こうけんとして佐倉さくらはんの「万延まんえん改革かいかく」を実施じっしした。側用人そばようにん依田よださだみき勝手かって元締もとじめ任命にんめいして財政ざいせい改善かいぜんこころみた[17]正睦まさとしもと元年がんねん(1864ねん)に死去しきょした。

戊辰戦争ぼしんせんそうから明治めいじ

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慶応けいおう4ねん(1868ねん)1がつ鳥羽とば伏見ふしみたたかせいりん京都きょうとのぼってしん政府せいふ徳川とくがわ存続そんぞく徳川とくがわ慶喜よしのぶ追討ついとうれいしをもとめるが、軟禁なんきんされる。藩主はんしゅ不在ふざい佐倉さくらでは家老がろう平野ひらのぬい殿どのしん政府せいふからの大多喜おおたきはん藩主はんしゅ大河内おおこうちただししつ)への出兵しゅっぺい命令めいれいおうじるなど、しん政府せいふしたがった。

明治めいじ4ねん(1871ねん)7がつ廃藩置県はいはんちけんによって佐倉さくらはん廃止はいしされ、佐倉さくらけん設置せっちされた。

こう

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佐倉さくらけん同年どうねん11がつだい1府県ふけん統合とうごうにより印旛いんばけん改編かいへんされた。なお、「印旛いんばけん」は印旛いんばぐん佐倉さくら県庁けんちょうくとされたことによるけんめいであるが、実際じっさい県庁けんちょうかれることはなかった[注釈ちゅうしゃく 5]。1873ねん明治めいじ6ねん)に印旛いんばけん木更津きさらづけん合併がっぺい千葉ちばけんになった。

最後さいご佐倉さくら藩主はんしゅ堀田ほったただしりん華族かぞくれっし、明治めいじ17ねん(1884ねん)に伯爵はくしゃくじょされた。なお、堀田ほった正久まさひさせいりん養嗣子ようししである正恒まさつね)は1959ねんから4にわたって佐倉さくら市長しちょうつとめた。

歴代れきだい藩主はんしゅ

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武田たけだ

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親藩しんぱん 4まんせき

  1. 信吉のぶよし

長沢ながさわ松平まつへい

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親藩しんぱん 5まんせき

  1. ちゅうてる

小笠原おがさわら

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譜代ふだい 2まん2せんせき

  1. 吉次よしじ

土井どい

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譜代ふだい 3まん2せんせき→14まん2せんせき

  1. 利勝としかつ

石川いしかわ

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譜代ふだい 7まんせき

  1. ちゅうそう

形原かたはら松平まつだいら

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譜代ふだい 4まんせき

  1. 家信かしん
  2. 康信やすのぶ

堀田ほった

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譜代ふだい 11まんせき

  1. せいもり
  2. 正信まさのぶ

大給おぎゅう松平まつだいら

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譜代ふだい 6まんせき

  1. ひさし

大久保おおくぼ

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譜代ふだい 8まん3せんせき→9まん3せんせき

  1. ちゅうあさ

戸田とだ

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譜代ふだい 6まん1せんせき→7まん1せんせき

  1. 忠昌ただまさ
  2. 忠真ただざね

稲葉いなば

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譜代ふだい 10まん2せんせき

  1. せい
  2. せい

大給おぎゅう松平まつだいら

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譜代ふだい 6まんせき

  1. たすく

堀田ほった

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譜代ふだい 10まんせき→11まんせき

  1. せいあきら
  2. せいじゅん
  3. 正時まさとき
  4. せいあい
  5. 正睦まさとし
  6. せいりん

領地りょうち

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幕末ばくまつ領地りょうち

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明治維新めいじいしんのちに、相馬そうまぐん8むらきゅう幕府ばくふりょう1むらきゅうはた本領ほんりょう4むらきゅう高岡たかおかはんりょう4むらほか、寺社じしゃじょのみの編入へんにゅうが1むら)、埼玉さいたまぐん1むらきゅう幕府ばくふりょう)、愛甲あいこうぐん2むらきゅうはた本領ほんりょう)がくわわった。なおあいきゅう存在そんざいするため、むらすう合計ごうけい一致いっちしない。

下総しもうさこく

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江戸えど佐倉さくらとをむす交通こうつうとして佐倉さくら街道かいどうがあり、江戸えど近郊きんこう主要しゅよう街道かいどうとして幕府ばくふ道中どうちゅう奉行ぶぎょう管轄かんかつにあった[21]佐倉さくら街道かいどうは、千住せんじゅ宿やどから船橋ふなばし大和田おおわだ臼井うすいなどを佐倉さくらいた道筋みちすじで、成田なりた参詣さんけいみちとしてにぎわった[21]。ただし千住せんじゅ宿やど経由けいゆする佐倉さくら街道かいどう遠回とおまわりとなるため、日本橋にほんばしから行徳ぎょうとく水路すいろをとる道筋みちすじ一般いっぱんもちいられた[21]。また、千葉ちばまちから曾利を経由けいゆして佐倉さくらいた道筋みちすじもあった[21]

千葉ちばまちとその周辺しゅうへん陸上りくじょう海上かいじょう交通こうつう要衝ようしょうであり、佐倉さくらはん外港がいこうとしての役割やくわりになった[22]千葉ちばまち周辺しゅうへんがいつから佐倉さくらはんりょうであったかははっきりしないが、元禄げんろく戸田とだ時代じだいには千葉ちばまち周辺しゅうへん佐倉さくらはん支配しはいにあり、のべとおる3ねん(1746ねん以後いご後期こうき堀田ほった時代じだいには千葉ちばぐん31かそん佐倉さくらはんしろづけりょうであった[23]後期こうき堀田ほった千葉ちばまち千葉ちば役所やくしょいて支配しはい拠点きょてんとした[24]千葉ちば没落ぼつらく寒村かんそんとなっていた千葉ちばまちは、交通こうつう発展はってんとともに繁栄はんえいげたとられる[22]文政ぶんせい8ねん(1825ねん)には海防かいぼうのために千葉ちばまち猪鼻いのはなさん陣屋じんや亥鼻いのはな陣屋じんや[25] )がかれた[24]

佐倉さくらはん寒川さむかわうら海上かいじょう輸送ゆそう拠点きょてんとし、御蔵おぐらてて年貢ねんぐまいなどを集積しゅうせきして江戸えど廻送かいそうした[26][27][22]文政ぶんせい4ねん(1821ねん)の藩政はんせい改革かいかく以後いご佐倉さくら領内りょうないむら年貢ねんぐ椎木しいきぞう佐倉さくら)か寒川さむかわぞうのいずれかに収納しゅうのうした[27]江戸えどへの輸送ゆそう寒川さむかわ船問屋ふなどんやけ、大力だいりきせんによっておこなわれた[27]

出羽でわこく

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佐倉藩の位置(山形県内)
山形
山形やまがた
磐城平
磐城いわきひらた
柏倉
柏倉かしわぐら
関連かんれん地図ちず山形やまがたけん

後期こうき堀田ほった時代じだい出羽いずはこく村山むらやまぐん(1878ねん以後いご東村山ひがしむらやまぐんみなみ村山むらやまぐん一部いちぶにあたる地域ちいき)にあったぶんりょうやく4まんせき規模きぼおおきく、明治めいじまで存続そんぞくした。

ぶんりょう統治とうち拠点きょてんとして、のべとおる4ねん(1747ねん)に柏倉かしわぐら陣屋じんや現在げんざい山形やまがた柏倉かしわぐら)がかれた[28]柏倉かしわぐらには藩校はんこう成徳しげのり書院しょいん分校ぶんこうきた庠)もかれ、武士ぶしのみならず百姓ひゃくしょうまなぶことができたという[28]代官だいかんつとめていた田内たうちあずか七郎しちろうなりしん名代なだいかんとされ[28]平清水ひらしみずむら山形やまがた平清水ひらしみず)のひら清水焼きよみずやき振興しんこうたずさわったことから同地どうち報恩ほうおんてられている[29]柏倉かしわぐら陣屋じんや跡地あとちには堀田ほった永久えいきゅう稲荷いなり神社じんじゃのこ[28]

旧領きゅうりょう一部いちぶは、1889ねん明治めいじ22ねん)にむら編成へんせいしたさいきゅう領主りょうしゅから堀田ほったむらしょうした(みなみ村山むらやまぐん。のち蔵王ざおうむら改称かいしょう)。おおむね現在げんざい山形やまがた蔵王ざおう地区ちくにあたり、「蔵王堀田ざおうほった」の地名ちめいもある[30]

文化ぶんか産業さんぎょう人物じんぶつ

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藩校はんこう

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寛政かんせい4ねん(1792ねん)、藩校はんこうとして学問がくもんしょ設立せつりつ。のちにぬるどう成徳しげのり書院しょいんなどに改称かいしょう千葉ちば県立けんりつ佐倉さくら高等こうとう学校がっこうがその系譜けいふぐとされる。

じゅん天堂てんどう

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佐倉さくらじゅん天堂てんどう記念きねんかん

堀田ほった正睦まさとしは、蘭方らんぽう佐藤さとう泰然たいぜんまねいて佐倉さくら城下じょうか本町ほんまちげん佐倉さくら本町ほんちょう(もとまち))に病院びょういんけん医学いがくじゅくじゅん天堂てんどう」(佐倉さくらじゅん天堂てんどう)をひらかせた。

明治維新めいじいしんじゅん天堂てんどうは2だいどうぬし佐藤さとう尚中しょうちゅう泰然たいぜん弟子でし養嗣子ようししとなる)のもと、東京とうきょううつり、教育きょういく部門ぶもん順天堂大学じゅんてんどうだいがくとして、病院びょういん順天堂大学じゅんてんどうだいがく医学部いがくぶ附属ふぞく順天堂医院じゅんてんどういいんとして系譜けいふをつないでいる(学校がっこう法人ほうじんじゅん天堂てんどう参照さんしょう)。

ゆかりの人物じんぶつ

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じゅん天堂てんどう佐藤さとう泰然たいぜん実子じっしには、松本まつもとりょうじゅん医師いし男爵だんしゃく)、はやしただし外交がいこうかん伯爵はくしゃく)らがいる。

明治めいじ以後いご活躍かつやくした佐倉さくらはん出身しゅっしんしゃ佐倉さくら藩士はんし子弟してい)としては、西村にしむら茂樹しげき教育きょういくしゃ)、浅井あさいただし画家がか)、神田かんだ孝平たかひら政治せいじ男爵だんしゃく)、津田つだせん農学のうがくしゃ教育きょういくしゃ)、依田よだ學海がっかい漢学かんがくしゃげき作家さっか)らがいる。

備考びこう

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  • 最後さいご藩主はんしゅであった堀田ほったただしりんは、1890ねん明治めいじ23ねん)に佐倉さくら邸宅ていたくかまえた。「きゅう堀田ほったてい」であり、くに重要じゅうよう文化財ぶんかざい指定していされている。
  • 堀田ほった菩提寺ぼだいじ甚大じんだいてらで、堀田ほったただしあきらうつりふうさい山形やまがたから移転いてんしたとつたえられる[30]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 赤丸あかまる本文ほんぶんないはんりょうとして言及げんきゅうする土地とちあおまるはそれ以外いがい
  2. ^ 中村なかむら孝也たかや徳川とくがわ家康いえやす研究けんきゅう』では、佐倉さくらふうじられた人物じんぶつを「三浦みうら監物けんもつ義次よしじ」とある。『寛政かんせいじゅうおさむ諸家しょか』によれば、佐倉さくらふうじられた三浦みうら人物じんぶつは「三浦みうら監物けんもつ重成しげなり」である。『大網白里おおあみしらさとまち』は「義次よしじとこの重成しげなりどう一人物いちじんぶつであるかどうかは、現在げんざいのところ判定はんていしえない」としている(本文ほんぶんでは佐倉さくらふうじられた人物じんぶつとして「重成しげなり」を採用さいよう[7]
  3. ^ 佐倉さくら』によれば、天正てんしょう19ねん(1591ねん)に知行ちぎょうりがおこなわれ、上総かずさ国大こくだいもう現在げんざい大網白里おおあみしらさと大網おおあみ)・本納ほんのう現在げんざい茂原もはら本納ほんのう)および下総しもふさこく佐倉さくらで1まんせきあてがわれた[7]
  4. ^ 現在げんざい佐倉さくら城址じょうし公園こうえん城跡じょうせきいちかく国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかんつ。
  5. ^ 印旛いんば県庁けんちょう最終さいしゅうてき現在げんざい千葉ちばけん流山ながれやまかれた(葛飾かつしかけん印旛いんば県庁けんちょうあと参照さんしょう)。佐倉さくらには支所ししょかれた。

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d 城下町じょうかまちのなりたち”. 佐倉さくら (2018ねん5がつ1にち). 2022ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 佐倉さくらはん”. 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ). 2020ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  3. ^ 平成へいせい29年度ねんど特別とくべつてん戦国せんごく時代じだい千葉ちば古文書こもんじょかた争乱そうらん―」”. 千葉ちば市立しりつ郷土きょうど博物館はくぶつかん. 2022ねん2がつ26にち閲覧えつらん
  4. ^ 日本にっぽん歴史れきし地名ちめい大系たいけい 千葉ちばけん地名ちめい, p. 376.
  5. ^ a b c 本佐倉もとさくらじょう千葉ちば”. 酒々井しすいまち. 2020ねん11月11にち閲覧えつらん
  6. ^ 佐倉さくらはん”. ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん. 2020ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  7. ^ a b 家康いえやす関東かんとう支配しはい上総かずさ武士たけし去就きょしゅう (2) 三浦みうらかんぶつまちいき支配しはい 大網おおあみむら大網白里おおあみしらさとまち”. 大網白里おおあみしらさと大網白里おおあみしらさとデジタル博物館はくぶつかん(ADEAC所収しょしゅう. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  8. ^ 佐倉さくらはん”. 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはん. 平凡社へいぼんしゃ. 2020ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  9. ^ a b 佐倉さくらはん”. 百科ひゃっか事典じてんマイペディア. 平凡社へいぼんしゃ. 2020ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  10. ^ 佐倉さくらはん”. はんめいきゅう国名こくめいがわかる事典じてん. 講談社こうだんしゃ. 2020ねん11がつ10日とおか閲覧えつらん
  11. ^ 本佐倉もとさくら城跡じょうせき”. くに指定してい史跡しせきガイド. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  12. ^ 本佐倉もとさくらじょう”. 日本にっぽんしろがわかる事典じてん. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  13. ^ 13.佐倉さくらじょう国立こくりつ歴史れきし民俗みんぞく博物館はくぶつかん”. 千葉ちばけん教育きょういく委員いいんかい. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  14. ^ 柴田しばた龍司りゅうじ 1986, p. 441.
  15. ^ a b 房総ぼうそうにおける近世きんせい陣屋じんや, p. 26, PDFばん 28/313.
  16. ^ 柴田しばた龍司りゅうじ 1986, p. 442.
  17. ^ a b c d e f g h i j k l m n 佐倉さくらはん近世きんせい”. 角川かどかわ日本にっぽん地名ちめいだい辞典じてんきゅう地名ちめい)(JLogos所収しょしゅう. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  18. ^ 大多和おおたわ四郎しろうみぎ衛門えもん(義人ぎじん東金とうがね名主なぬし)(東金とうがね”. 東金とうがね東金とうがねデジタル歴史れきしかん(ADEAC所収しょしゅう. 2019ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  19. ^ 西にし山形やまがたコミュニティセンター”. 山形やまがた. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  20. ^ 佐倉さくら オランダ 長崎ながさき”. 田上たうえ市長しちょうのホッとトーク(市長しちょうコラム). 長崎ながさき (2014ねん11月28にち). 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  21. ^ a b c d だい4しょうだいななせつだいいちこう 交通こうつうじょう位置いち交通こうつう”. 千葉ちば だい2かん 近世きんせい近代きんだいへん(ADEAC所収しょしゅう. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  22. ^ a b c だい4しょうだいろくせつだいさんこう 藩政はんせい推移すいいとその特質とくしつ”. 千葉ちば だい2かん 近世きんせい近代きんだいへん(ADEAC所収しょしゅう. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  23. ^ だい4しょうだいななせつだいさんこう 宿場しゅくばまちみなとまちとしての千葉ちば佐倉さくらはんりょう”. 千葉ちば だい2かん 近世きんせい近代きんだいへん(ADEAC所収しょしゅう. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  24. ^ a b だい4しょうだいななせつだいさんこう 宿場しゅくばまちみなとまちとしての千葉ちば千葉ちば役所やくしょ”. 千葉ちば だい2かん 近世きんせい近代きんだいへん(ADEAC所収しょしゅう. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  25. ^ 房総ぼうそうにおける近世きんせい陣屋じんや, p. 96.
  26. ^ だい4しょうだいななせつだいいちこう 交通こうつうじょう位置いち海上かいじょう交通こうつう”. 千葉ちば だい2かん 近世きんせい近代きんだいへん(ADEAC所収しょしゅう. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  27. ^ a b c だい4しょうだいななせつだいこう 近世きんせいにおける千葉ちばみなと>1 寒川さむかわうら”. 千葉ちば だい2かん 近世きんせい近代きんだいへん(ADEAC所収しょしゅう. 2024ねん4がつ18にち閲覧えつらん
  28. ^ a b c d 西山にしやまがた史跡しせき案内あんない”. 社会しゃかい福祉ふくし法人ほうじんやまがた市民しみん福祉ふくしかい. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  29. ^ 平清水ひらしみず”. 山形やまがた観光かんこう協会きょうかい. 2020ねん11月15にち閲覧えつらん
  30. ^ a b 私立しりつ病院びょういんじゅん天堂てんどう」をひらかせた西洋せいようきの堀田ほった正睦まさとし”. 週刊しゅうかん朝日あさひ(AERAdot) (2014ねん8がつ16にち). 2020ねん11月15にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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  • 立身りっしんりゅう
  • 川越かわごえはん - 佐倉さくら同様どうよう、「老中ろうじゅうしろ」とばれることのあるはん
  • 佐倉さくらまき佐倉さくらななまき) - 江戸えど時代じだい幕府ばくふ下総しもうさ上総かずさ両国りょうこく所有しょゆうしたまき総称そうしょう。うち3まき佐倉さくらはん管理かんり委託いたくされた。

外部がいぶリンク

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先代せんだい
下総しもうさこく
行政ぎょうせい変遷へんせん
1593ねん - 1871ねん 佐倉さくらはん佐倉さくらけん
次代じだい
印旛いんばけん