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佐藤さとう百太郎ももたろう

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佐藤さとう百太郎ももたろう

佐藤さとう 百太郎ももたろう(さとう ももたろう、1853ねんよしみひさし6ねん) - 1910ねん明治めいじ43ねん12月24にち)は、日本にっぽん実業じつぎょうで、日本にっぽんにおける百貨店ひゃっかてん創始そうししゃであり、日本にっぽん領事りょうじをもつとめた。 日米にちべい貿易ぼうえき先駆せんくしゃである8代目だいめ大野おおの伝兵衛でんべえ大野おおのしげる1829ねん - 1876ねん 7がつ29にち)の親類しんるい義弟ぎてい

明治めいじ4ねん1871ねん岩倉いわくら使節しせつだんいちぎょう通訳つうやくとしても活躍かつやくした。藍綬らんじゅ褒章ほうしょう受章じゅしょう

経歴けいれき

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1853ねんよしみひさし6ねん)、下総しもうさこく佐倉さくら現在げんざい千葉ちばけん佐倉さくら本町ほんちょう)にじゅん天堂てんどう2代目だいめ佐藤さとう尚中しょうちゅう長男ちょうなんとしてまれる。成徳しげのりかん現在げんざい千葉ちば県立けんりつ佐倉さくら高等こうとう学校がっこう前身ぜんしん)をて、元治もとはる元年がんねんには横浜よこはまヘボンじゅく現在げんざい明治めいじ学院がくいん高校こうこう前身ぜんしん)で米国べいこく長老ちょうろう教会きょうかいけい医療いりょう伝道でんどう宣教師せんきょうしヘボン夫人ふじんから英語えいごまなぶ。1867ねん慶応けいおう3ねん)、私費しひサンフランシスコおもむく。1871ねん明治めいじ4ねん)にいち帰国きこくするが、すぐに明治めいじ政府せいふからの官費かんぴにより、ボストン技術ぎじゅつ学校がっこう現在げんざいマサチュまさちゅセッツ工科大学せっつこうかだいがく)で経済けいざいがくなどをまなぶ。ニューヨークに「日本にっぽん米国べいこくりょうしょう組合くみあい会社かいしゃ」を設立せつりつして雑貨ざっかとう販売はんばい従事じゅうじ[1]

対等たいとう日米にちべい貿易ぼうえきについては、百太郎ももたろう親類しんるい義兄ぎけい)である大野おおのしげる頴(8代目だいめ大野おおの伝兵衛でんべえ)による東金とうがねまち現在げんざい千葉ちばけん東金とうがね東金とうがねちゃ輸出ゆしゅつはしりである。茶園ちゃえんあずまよしみえんい、有栖川宮熾仁親王ありすがわのみやたるひとしんのう命名めいめいした。1874ねんごろまであずまよしみえん東金とうがね茶園ちゃえん)の営業えいぎょう成績せいせき良好りょうこう状態じょうたいをつづけていた。横浜よこはま貿易ぼうえきにおけるちゃ輸出ゆしゅつじょうきょう良好りょうこうであったからである。しゅう頴は商売しょうばいについてはかなり進取しんしゅてきなところがあり、アメリカとの直接ちょくせつ取引とりひき企図きとしたのである。横浜よこはま支店してんっていたウォルシーギー商会しょうかい契約けいやくむすびアメリカへの直輸出ちょくゆしゅつ実現じつげんするにいたった。しゅう頴が米国べいこくへの直輸出ちょくゆしゅつをはじめたのはなんであるかはっきりしたことはからぬが、狭山さやまちゃよりははやかったとおもわれる。 しかし、しゅう頴は、やまいゆかし、享年きょうねん47さいというわかさでくなった。

これはあずまよしみえん東金とうがね茶園ちゃえん)にっては最大さいだい痛手いたでとなり、将来しょうらい目途もくとたず、くわえて客観きゃっかん情勢じょうせい悪化あっか傾向けいこうしめしてていた。すなわち、ちゃ輸出ゆしゅつりょうり、ちゃ価格かかく低落ていらくしめしていた。要因よういんとしては、日本にっぽん製茶せいちゃ業者ぎょうしゃなか悪質あくしつなものがいて、粗悪そあくしな輸出ゆしゅつしたため、アメリカがわ不信ふしんしめし、輸入ゆにゅう制限せいげんしはじめたことがそのしゅたるものであった。 一説いっせつによると、静岡しずおかのある業者ぎょうしゃやなぎ混入こんにゅうしておくったのが発覚はっかくしてそれが直接ちょくせつのきっかけとなったということである。

日本にっぽん政府せいふはそれまでは業者ぎょうしゃにまかせりで放任ほうにんしていたので、あく結果けっかまねいてしまったのである。そこで、明治めいじ12ねん1879ねん横浜よこはまだいいちかい製茶せいちゃ共進きょうしんかいひらいて対策たいさくこうじてみたが、なかなか好転こうてん見込みこみはたなかった。 その大野おおのでは、養嗣子ようしし佐藤さとう哲次郎てつじろうこうをついだ。かれ万延まんえん元年がんねん1860ねん10月15にち出生しゅっしょうで、しゅう頴のぼっした明治めいじ9ねんには17さい少年しょうねんであった。とてもこうさくするほどのちからはなかったであろう。親戚しんせき重立おもだったもの使用人しようにんちゅう幹部かんぶたちが後始末あとしまつ努力どりょくしたのであろうが、製茶せいちゃぎょう縮小しゅくしょうしてゆくよりほかはなかった。あずまよしみえん東金とうがねちゃ明治めいじ20ねん1887ねん)ごろまでは操業そうぎょうをつづけていたが、もなく廃業はいぎょうしてしまったごとくである。

一方いっぽう百太郎ももたろうは、1875ねん狭山さやまちゃニューヨーク輸出ゆしゅつ、その翌年よくねんには佐倉さくらちゃ輸出ゆしゅつ1875ねん明治めいじ8ねん)に一時いちじ帰国きこくして、みせ米国べいこく商法しょうほうまな商業しょうぎょう実習じっしゅうせい募集ぼしゅうし、森村もりむらゆたか森村もりむらぐみ)、新井あらいりょう一郎いちろう伊達だて忠七ちゅうしち三井物産みついぶっさん)、鈴木すずき東一郎とういちろう丸善まるぜん)、増田ますだ林三郎りんざぶろう狭山さやまちゃ)を米国べいこくもどる。1876ねん明治めいじ9ねん)、ニューヨークで森村もりむらゆたかともに「商会しょうかい」を設立せつりつして雑貨ざっかしょういとなみ、森村もりむらゆたかあに森村もりむら左衛門さえもん日本にっぽんから骨董こっとうひん陶器とうき提灯ちょうちんなどを仕入しいれておくった(1877ねん佐藤さとう雑貨ざっか卸売おろしうりに失敗しっぱいして多額たがく借金しゃっきんったことから、森村もりむら商会しょうかいめて1878ねん独立どくりつ[2][3]。また新井あらいりょう一郎いちろうとは「佐藤さとう新井組あらいぐみ」を共同きょうどう経営けいえいして生糸きいと貿易ぼうえき着手ちゃくしゅ帰国きこく大蔵省おおくらしょう出仕しゅっし。1910ねん、57さいぼつ京都きょうと伏見ふしみ桃山ももやま善光寺ぜんこうじほうむられる。

森村もりむらゆたか共同きょうどう商会しょうかいげる

著書ちょしょ

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編著へんちょ

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関連かんれん文献ぶんけん

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出典しゅってん

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  1. ^ 星野ほしの文書ぶんしょ星野ほしの長太郎ちょうたろう 富澤とみざわ一弘かずひろ高崎経済大学たかさきけいざいだいがく論集ろんしゅう だい44かんだい3ごう 2001
  2. ^ 森村もりむらゆたか渡米とべい③ 「商会しょうかい」の一角いっかくからのスタート森村商事もりむらしょうじ
  3. ^ 愛知大学あいちだいがく経済けいざい論集ろんしゅうだい 142~147 ごう - 53 ページ

関連かんれん項目こうもく

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