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八原やはらはくどおり

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
八原やはら はくどおり
Hiromichi Yahara
八原やはら はくどおり
生誕せいたん 1902ねん10月2にち
日本の旗 日本にっぽん 鳥取とっとりけん米子よなご
死没しぼつ (1981-05-07) 1981ねん5月7にち(78さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1923 - 1945
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん大佐たいさ
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八原やはら はくどおり(やはら ひろみち、1902ねん明治めいじ35ねん10月2にち - 1981ねん昭和しょうわ56ねん5月7にち)は、日本にっぽん陸軍りくぐん軍人ぐんじん最終さいしゅう階級かいきゅう陸軍りくぐん大佐たいさ沖縄おきなわせんだい32ぐん高級こうきゅう参謀さんぼうとして戦略せんりゃく持久じきゅう作戦さくせん立案りつあん指揮しきした。アメリカぐんからは「すぐれた戦術せんじゅつとしての名声めいせいをほしいままにし、その判断はんだんには計画けいかくせいがあった」とたかひょうされている[1]

人物じんぶつ

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鳥取とっとりけん米子よなごみなせい出身しゅっしん生家せいか養蚕ようさん農家のうか自作農じさくのう)。ちちはちはら宇三郎うさぶろう役場やくば吏員りいん

ちち宇三郎うさぶろう生家せいかむら一番いちばん地主じぬしではあったが、次男じなんちち役場やくばのささやかな給料きゅうりょう、それにいち町歩ちょうぶちか桑畑くわばたけからのぼ養蚕ようさん収入しゅうにゅう生活せいかつをまかなっていた。水田すいでん果樹かじゅえんからの収入しゅうにゅうはごくわずかなもので、どもがふえるにしたがい、自家じか飯米はんまい確保かくほできず、端境期はざかいきには当時とうじ南京なんきんまいといった外米がいまいなどをわねばならぬといった状態じょうたいだった。いわば、当時とうじ平均へいきんてきまずしい農村のうそん自作農じさくのうだった。[2] ちち宇三郎うさぶろうあに長年ながねん村長そんちょうつとめており、当時とうじ米子よなごでは最高さいこう学府がくふであった高橋たかはしじゅく漢学かんがくまなんだインテリで、むら名士めいしといってもよい存在そんざいだった[3]小学校しょうがっこうさんねんのとき、はは・ちよのと死別しべつ

米子よなご中学校ちゅうがっこうげん米子よなごひがし高校こうこう)に入学にゅうがくすると八原やはら頭脳ずのう明晰めいせきぶりが発揮はっきされ、学術がくじゅつ科目かもくぜん科目かもく成績せいせきが「かぶと」で唯一ゆいいつ武術ぶじゅつのみが「おつ」であった。5年間ねんかん在学ざいがくちゅういち病欠びょうけつすることもなく皆勤かいきんしょうけており、卒業そつぎょうしきでは首席しゅせきとして卒業生そつぎょうせい総代そうだいえらばれている[4]八原やはら中学ちゅうがく卒業そつぎょうするころ大正たいしょうデモクラシー高揚こうようで、陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう海軍兵学校かいぐんへいがっこうなどのぐん学校がっこう志願しがんしゃ激減げきげんしていたが、八原やはら家計かけいのことをかんがえて陸軍りくぐん士官しかん学校がっこう進学しんがくしている[5]

八原やはら学科がっかがく)は抜群ばつぐん成績せいせきで、教官きょうかんからも一目いちもくかれており講義こうぎさいには意見いけんもとめられるほどであった。陸軍りくぐんしょう人事じんじ局長きょくちょう額田ぬかたひろし中将ちゅうじょう八原やはらのことを「快活かいかつ優秀ゆうしゅうしゃ将校しょうこうだん寵児ちょうじであった。」と称賛しょうさんしている[6]。しかし銃剣じゅうけんどう馬術ばじゅつなどのじゅつについては、陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこうから進学しんがくしてきた生徒せいとにはかなわず平均へいきんてき成績せいせきであり、なかでも馬術ばじゅつがもっとも苦手にがてであった。そのため、総合そうごうてき卒業そつぎょう成績せいせきでは歩兵ほへいの5番目ばんめまり、恩賜おんし銀時計ぎんどけいることはできなかった[7]

べい子中こなかだい17そつ、(同期生どうきせい湯浅ゆあさ禎夫さだお)をて、1923ねん7がつ陸軍りくぐん士官しかん学校がっこうだい35)を卒業そつぎょう同年どうねん10がつ歩兵ほへい少尉しょうい任官にんかん歩兵ほへいだい63連隊れんたいづけなどをて、最年少さいねんしょう入学にゅうがくした陸軍りくぐんだい学校がっこうだい41)を1929ねん11月に優等ゆうとう(5)で卒業そつぎょう恩賜おんし軍刀ぐんとう拝領はいりょうした。

1930ねん12月、陸軍りくぐんしょう人事じんじきょくづけ勤務きんむとなり、人事じんじきょく課員かいん補任ほにん)に異動いどう1933ねん10月から1935ねん12月までりくだい優等生ゆうとうせい特典とくてんとしてアメリカに海外かいがい留学りゅうがくしている。八原やはらはアメリカ社会しゃかいるために、下宿げしゅくさき近所きんじょひとたちをんで交流こうりゅうしたが、アメリカ社会しゃかいとの交流こうりゅうなか八原やはらおどろかされたのが、アメリカの大学生だいがくせい志願しがんせい予備よびやく将校しょうこう訓練くんれん課程かてい高度こうど軍事ぐんじ教練きょうれんけていることで、日本にっぽん大学生だいがくせい軍事ぐんじ教練きょうれん強制きょうせいてき初歩しょほ訓練くんれんぎないのとではおおきながあったことだった。有事ゆうじさいにこれらの大学生だいがくせい卒業生そつぎょうせい優秀ゆうしゅう将校しょうこうとしてぐん編入へんにゅうされるため、常備じょうびぐん日本にっぽん陸軍りくぐん半分はんぶんしか兵力へいりょくがないアメリカぐん有事ゆうじさい実力じつりょく痛感つうかんさせられた。また、1年間ねんかんわたってノースカロライナしゅうムールトリー要塞ようさい連隊れんたいづけ将校しょうこうとして勤務きんむし、アメリカ陸軍りくぐん歩兵ほへい学校がっこう見学けんがくしアメリカ陸軍りくぐん戦術せんじゅつ精通せいつうしている。日本にっぽん陸軍りくぐんたいソビエトが基本きほんであって、アメリカぐんたいする評価ひょうかは「拝金はいきん主義しゅぎのアメリカでは将校しょうこうですらだらしがない、戦闘せんとうはじまればオロオロするだけだ」などと軽侮けいぶする傾向けいこうがあったが、八原やはらはそのようなアメリカ軽視けいし見方みかたたいし「アメリカぐん実力じつりょく日本にっぽん陸軍りくぐんかんがえているようなあまいものではないよ」「一番いちばん注目ちゅうもくしなければばらないのは、彼等かれら火力かりょく重視じゅうししていることだ。砲門ほうもんかず大差たいさなくても砲弾ほうだんりょうちがう。日本にっぽん野砲やほうはせいぜい1にち10はつぐらいだろうが、アメリカの工業こうぎょうりょく日本にっぽん段違だんちがいで、戦時せんじになると軍需ぐんじゅ生産せいさんりょく膨大ぼうだいなものになるからいくらでもてる。平時へいじのアメリカをて、戦時せんじ実力じつりょく推察すいさつしてはくにあやまる」とまと反論はんろんをしていたが、作戦さくせん参謀さんぼう主流しゅりゅう派閥はばつぞくする士官しかんたちは日米にちべい戦争せんそう敗勢はいせいにすらその見識けんしき否定ひていつづけた。

しかし、かれのアメリカにたいするただしい理解りかいは、沖縄おきなわせん指揮しきかされることとなった[8]

1935ねん11月、人事じんじきょく課員かいん補任ほにん)となり、りくだい教官きょうかんてんじ、1937ねん8がつ歩兵ほへい少佐しょうさ昇進しょうしんだい2ぐん参謀さんぼう就任しゅうにん同年どうねん12がつだい5ぐん参謀さんぼうとなり、りくだい教官きょうかん異動いどう1939ねん8がつ歩兵ほへい中佐ちゅうさ進級しんきゅう1940ねん9月、大本営だいほんえいづけおおせづけ大本営だいほんえい参謀さんぼう作戦さくせん)、タイ大使館たいしかんづけ武官ぶかん補佐ほさかん歴任れきにんした。タイ大使館たいしかんづけ駐在ちゅうざい武官ぶかんというのは表面ひょうめんだけで、うらではたるイギリスとの戦争せんそう準備じゅんびとしてマレービルマ情報じょうほう収集しゅうしゅうという任務にんむたずさわっていたが、そのさいに、のちおなだい32ぐん参謀さんぼうちょうとして沖縄おきなわせんたたかちょういさむとよくサイゴン一緒いっしょになり、サイゴンの映画えいがかん海外かいがい映画えいが一緒いっしょ観賞かんしょうし、宿舎しゅくしゃのマゼスティック・ホテルちかくのすき痛飲つういんしている[9]

戦中せんちゅう

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戦争せんそうはじまると、だい15ぐん参謀さんぼうとしてビルマげんミャンマー)攻略こうりゃく作戦さくせん担当たんとうした。積極せっきょく攻勢こうせい提示ていじし、ぐん司令しれいかん飯田いいだ祥二郎しょうじろうとしばしば対立たいりつした。そのデング熱でんぐねつ発症はっしょう内地ないち帰還きかんした。回復かいふく陸軍りくぐんだい学校がっこう教官きょうかん発令はつれいされ、1943ねん3月、陸軍りくぐん大佐たいさ昇進しょうしん1944ねん3がつ20日はつか沖縄おきなわ防衛ぼうえいになだい32ぐん高級こうきゅう参謀さんぼう作戦さくせん担当たんとう)となった。当初とうしょ水際みずぎわでの積極せっきょく攻勢こうせい立案りつあんしていたが、防衛ぼうえい部隊ぶたい主力しゅりょくであるだい9師団しだん台湾たいわん移転いてんは「戦略せんりゃく持久じきゅう方針ほうしん変更へんこうし、アメリカぐん襲来しゅうらいそなえた。この結果けっか以下いかの「沖縄おきなわせんでの評価ひょうか」のこう説明せつめいのとおり、アメリカぐんおおくの死傷ししょうしゃ司令しれいかん戦死せんしという犠牲ぎせいをもたらし、日本にっぽんぐんとしてのおおきな成果せいかをあげる。

1945ねん6月18にち沖縄おきなわ本島ほんとう南部なんぶ摩文仁まぶに洞窟どうくつめられただい32ぐん司令しれいかん牛島うしじまみつる中将ちゅうじょうは、自分じぶん最期さいごさとるとちょういさむ参謀さんぼうちょうのぞ八原やはら参謀さんぼうに、日本にっぽん本土ほんど帰還きかんしてせんくんつたえることや、アメリカぐん後方こうほう潜入せんにゅうしてゆうげきせん仕掛しかける任務にんむあたえ、自分じぶんちょう自決じけつ決意けついした。八原やはら2めい参謀さんぼう日本にっぽん本土ほんど帰還きかんする任務にんむめいぜられた。そのよるにはのこったわずかな缶詰かんづめなどの食糧しょくりょうだい32ぐん司令しれい最後さいご宴会えんかいもよおされた。21にちには沖縄おきなわせんのアメリカぐん司令しれいかんサイモン・B・バックナー・ジュニア中将ちゅうじょう戦死せんししたというらせをけ、歓喜かんきしたが、よく22にちには司令しれい洞窟どうくつ周辺しゅうへんにアメリカぐん進出しんしゅつはげしい攻撃こうげきくわえてきたため、6月23にち牛島うしじまちょう自決じけつし、だい32ぐん実質じっしつじょう組織そしきてき抵抗ていこう終了しゅうりょうした[10]

八原やはらは、牛島うしじまちょう自決じけつ見届みとどけたあと、牛島うしじま命令めいれいどおり、日本にっぽん本土ほんどへのせんくん伝達でんたつのため、民間みんかんじんになりすまし脱出だっしゅつはかるが、6月25にち民間みんかんじん敗残はいざんへいすうじゅうにんこめ具志頭ぐしかみ洞窟どうくつはいったところでアメリカぐん包囲ほういされた。年間ねんかん留学りゅうがく経験けいけんでアメリカじんをよくっている八原やはらは、アメリカぐん民間みんかんじん殺害さつがいすることはないことをっており、玉砕ぎょくさいすると意気込いきご敗残はいざんへいせると、英語えいごでアメリカぐん投降とうこうもう民間みんかんじんすうじゅうめいとも捕虜ほりょとなった[11]八原やはら後年こうねん手記しゅきにその投降とうこう状況じょうきょうを「うつくしい場面ばめんだ。いまてき味方みかたもない。人間にんげんあいちた光景こうけいである。かつて豪雨ごううのあるよる、フィラデルフィアの南郊なんこうがいで、自動車じどうしゃみちがい暴走ぼうそうさせて困却こんきゃくしたさい付近ふきん青年せいねんたちが、あめをおかしてけつけ、たすけてくれたことをついおもしてしまった」[12]回想かいそうしている。

アメリカぐん収容しゅうようしょはいってからも偽名ぎめい使つか身分みぶん教師きょうしにせわり、民間みんかんじんとして作業さぎょう従事じゅうじしていたが、7がつ23にち沖縄おきなわ県庁けんちょうもと課長かちょうで、アメリカぐん係官かかりかんをしていた日本人にっぽんじん男性だんせいからの調しらべをけたさい身元みもと露見ろけんした。八原やはらはそのままアメリカぐんわたされ、そのはアメリカぐんから尋問じんもんけたが、住居じゅうきょとして一軒家いっけんや農家のうかあたえられるなど高級こうきゅう士官しかん捕虜ほりょとしてあつかわれ、日本にっぽんまれの日本語にほんご堪能かんのうなアメリカぐん連絡れんらく将校しょうこうてがわれ、もと日本にっぽんへいとう番兵ばんぺいけられた。八原やはらはアメリカぐん機関きかん『バックナー』も自由じゆうむことができ、『バックナー』紙面しめん日本にっぽんへの原子げんしばくだん投下とうかポツダム宣言せんげん受諾じゅだくることとなった。そのも、アメリカ陸軍りくぐんだい10ぐん参謀さんぼうちょうらと、沖縄おきなわせんについて論議ろんぎしたりしながら捕虜ほりょとして12月30にちまでごしたのち1946ねん1がつ復員ふくいんした[13]

戦後せんご

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内地ないち復員ふくいん故郷こきょうかえって、実父じっぷ農地のうちりて農夫のうふをしていたが、ぐん消滅しょうめつ現金げんきん収入しゅうにゅう途絶とだえて困窮こんきゅうしていたときに、ぐん残務ざんむ整理せいりきょくからこえがかかり一旦いったんしょく単身たんしん上京じょうきょうした。しかし、1947ねん復員ふくいん一段落いちだんらくすると、またしょくうしなうこととなり、岳父がくふ清水しみず喜重よししげもと中将ちゅうじょうにも就職しゅうしょく斡旋あっせん依頼いらいしたが、捗々はかばかしくいかなかった。ここで、八原やはら職業しょくぎょう軍人ぐんじんとして家族かぞくかえりみなかった半生はんせいかえり、今後こんご家族かぞくとも生活せいかつしようとかんがえて、故郷こきょうかえることとし、故郷こきょう農作業のうさぎょうかたわら、反物たんもの行商ぎょうしょうはじめて極貧ごくひんながらもどうにか現金げんきん収入しゅうにゅうた。1950ねん警察けいさつ予備よびたい創設そうせつされ、きゅうぐん高級こうきゅう軍人ぐんじんであった八原やはらにも入隊にゅうたいさそいがあったが「もう二度にど他人たにん強制きょうせいするような仕事しごとはしたくない」とことわっている。その高度こうど経済けいざい成長せいちょうはじまったが、八原やはらはその恩恵おんけいをあまりけなかったにもかかわらず、子供こどもには高等こうとう教育きょういくけさせようと、教育きょういくには糸目いとめをつけなかった[14]

その子供こどもらが独立どくりつすると、行商ぎょうしょうめて長男ちょうなん同居どうきょし、ようやくいた生活せいかつができるようになった。本人ほんにんは85さいまできるとっていたが、1981ねん5月7にちに78さい永眠えいみんあさつま様子ようすったところ、布団ふとんなかですでにいきっていた。八原やはら警察けいさつ予備よびたいさそいを辞退じたいしたのちも、きゅう軍人ぐんじんたちとは距離きょりをとっており、唯一ゆいいつ陸士りくし同期生どうきせい会合かいごう出席しゅっせきするだけであった。また、きゅう軍人ぐんじんのなかでもみずからアメリカぐん捕虜ほりょとなって生還せいかんした八原やはらを「八原やはら軍人ぐんじん面汚つらよごしだ」と白眼しろめするものおお[15]葬式そうしき参列さんれつしたきゅうぐん関係かんけいしゃはたった5にんだけだったという[16]

沖縄おきなわせん作戦さくせん参謀さんぼうとして

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沖縄おきなわせんではだい32ぐん参謀さんぼうとして司令しれいかん牛島うしじまみつる中将ちゅうじょうをよく補佐ほさし、持久じきゅう戦術せんじゅつ提案ていあんした。当初とうしょ航空こうくう支援しえんでの水際みずぎわ撃滅げきめつせん主眼しゅがんとしていたが、大本営だいほんえいあやまった敵情てきじょう判断はんだんによる防衛ぼうえい戦略せんりゃく見直みなおしにより、沖縄おきなわ防衛ぼうえいようであっただい9師団しだん台湾たいわんかれ、約束やくそくされていた補充ほじゅう師団しだん到着とうちゃくしなかった。そのため、本土ほんど決戦けっせんばす時間じかんかせぎの捨石すていしとなるようにとの大本営だいほんえい要請ようせいたいし、持久じきゅうせんへの方針ほうしん転換てんかんがもっとも堅実けんじつ作戦さくせんであるとかんがえた。八原やはらはただ兵力へいりょく不足ふそくのため持久じきゅうせん提案ていあんしたのではなく、地道じみち持久じきゅうせん長期間ちょうきかんアメリカがわ出血しゅっけついることにより、アメリカ世論せろん厭戦えんせん気分きぶんうごかし、日本にっぽん立場たちば有利ゆうりにするかんがえがあったという[17]

精鋭せいえいであっただい9師団しだん台湾たいわん移転いてんにより作戦さくせん見直みなおしをせまられた八原やはらは、航空こうくう部隊ぶたい支援しえんけての水際みずぎわ撃滅げきめつせんという(アメリカぐんとの圧倒的あっとうてき火力かりょく無視むしした)大本営だいほんえい現実げんじつてき作戦さくせん構想こうそうしりぞけ、過去かこんだ日本にっぽん柔道じゅうどうがアメリカの拳闘けんとう異種いしゅ格闘技かくとうぎせんたたかい、柔道じゅうどう寝技ねわざ拳闘けんとうくだしたという一節いっせつおもし、圧倒的あっとうてき火力かりょくほこるアメリカぐん相手あいて正攻法せいこうほうではてないため、堅牢けんろう洞窟どうくつ陣地じんち構築こうちくしてそこに籠城ろうじょうし、徹底てっていした戦略せんりゃく持久じきゅう主眼しゅがんとするだい転換てんかん接近せっきんせんむ「寝技ねわざ戦法せんぽう」しか対抗たいこう手段しゅだんはないとかんがえ、だい32ぐん徹底てっていした陣地じんち構築こうちくめいじた。しかし、これはたんなるおもきではなく、八原やはら日本にっぽんぐん参謀さんぼうおおくがゆうした悪癖あくへきである自軍じぐん戦力せんりょくたいする過大かだい評価ひょうか一切いっさいせず、だい32ぐんの2.5師団しだんたいし、進攻しんこうしてくるアメリカぐんは6~10師団しだん実際じっさいは8師団しだんじゃく)と正確せいかく予想よそういち師団しだんあたりの火力かりょくかんほう射撃しゃげき空爆くうばくふくめると戦力せんりょくは30ばい以上いじょうになると分析ぶんせきしており、この戦力せんりょくおぎなうためには、不沈艦ふちんかん沖縄おきなわ自然しぜんりょくじゅうふん発揮はっきするほかはないとかんがえたからである [18]

沖縄おきなわ地盤じばんかた珊瑚礁さんごしょうでできているところもおおく、掘削くっさくによりかんほう射撃しゃげき大型おおがたばくだんえられる陣地じんち構築こうちくすることができた。八原やはら指揮しきにより、地形ちけい沿った洞窟どうくつ陣地じんちほうゆか塹壕ざんごう次々つぎつぎつくられ、それらは地下ちかトンネルで接続せつぞくされまた巧妙こうみょう擬装ぎそうされた。山腹さんぷくには前面ぜんめんほか後方こうほう斜面しゃめんにも陣地じんちつくられ(はん斜面しゃめん陣地じんち)(reverse slope defense)アメリカぐんはげしいほう爆撃ばくげきえられるようなたくみな構造こうぞうとなっていた[19]日本にっぽんぐんはその陣地じんち活用かつようし、まずアメリカぐん部隊ぶたい日本にっぽんぐん陣地じんち直前ちょくぜんまで誘導ゆうどうすると、じゅう機関きかんじゅうけい機関きかんじゅうとう掃射そうしゃして戦車せんしゃ部隊ぶたい歩兵ほへい部隊ぶたい分断ぶんだんした。いでてき戦車せんしゃを、たい戦車せんしゃほう山砲さんぽう野砲やほう地雷じらい歩兵ほへい肉弾にくだんせんによって撃破げきはし、てき増援ぞうえん部隊ぶたいじゅう榴弾りゅうだんほう野戦やせん重砲じゅうほう重砲じゅうほう砲撃ほうげきによりたたいた。

アメリカぐん日本にっぽんぐん組織そしきてき抵抗ていこうがないままに嘉手納かでな無血むけつ上陸じょうりくしたものの、その日本にっぽんぐん持久じきゅう戦略せんりゃくによっておおきな犠牲ぎせいいられることとなる。八原やはら戦略せんりゃく地味じみだが非常ひじょう効果こうかてきであった。しかし大本営だいほんえいからの攻撃こうげき催促さいそくちょういさむ参謀さんぼうちょう直情ちょくじょうてき思考しこうにより、八原やはら反対はんたいにもかかわらずアメリカぐん上陸じょうりくしてやく1週間しゅうかんには持久じきゅうせんから無謀むぼう夜間やかん突撃とつげき切換きりかえられた。八原やはら想定そうていどおり前線ぜんせん兵力へいりょくだい損害そんがいこうむり、砲兵ほうへい部隊ぶたい弾薬だんやく大半たいはん使つかたした。その牛島うしじま中将ちゅうじょう八原やはら戦略せんりゃく全面ぜんめんてき採用さいようし、徹底てっていした防衛ぼうえいせんにより嘉数かかず高地こうち防衛ぼうえいせんシュガーローフのたたかくびさとじょう攻防こうぼうせんでは、苦境くきょうのなかで善戦ぜんせんした。アメリカのマスコミはアメリカぐんのあまりにもおおきな損害そんがい進撃しんげきスピードのおそさに、アメリカぐん司令しれいかんサイモン・B・バックナー・ジュニア中将ちゅうじょうはげしくバッシングしている。

しかし日本にっぽんぐん損耗そんこうはげしく、八原やはらはアメリカぐんをよりなが沖縄おきなわ足止あしどめするため、ぜんぐん沖縄おきなわ南端なんたんまで撤退てったいさせ防衛ぼうえいせん継続けいぞく提案ていあん牛島うしじま八原やはら戦略せんりゃく採用さいようし、雨天うてん利用りようして摩文仁まぶに高地こうち撤退てったいした。その持久じきゅうせんによりアメリカの上陸じょうりくぐん多大ただい死傷ししょうしゃさせたのみならず、最高さいこう司令しれいかんサイモン・B・バックナー・ジュニア中将ちゅうじょう戦死せんしさせるなどアメリカぐん多大ただい損害そんがいあたえて、さらに1かげつあいだアメリカぐん足止あしどめしている[20]。このバックナー司令しれいかん戦死せんしは、アメリカぐん史上しじょう司令しれいかんクラスはつ戦死せんししゃであり、アメリカ国内こくない世論せろん騒然そうぜんとなった。

八原やはらは、もしだいきゅう師団しだんかれず、自分じぶん想定そうていしたような徹底てっていした持久じきゅうせんをおこなっておれば、終戦しゅうせんまでくびさとちこたえることが可能かのう牛島うしじま司令しれいかんなずにんだのではないかと回想かいそうしている[21]

八原やはら自身じしんは、自分じぶん在住ざいじゅうしたアメリカをよく理解りかいしたうえ作戦さくせん計画けいかくてた。そのためはちはら評価ひょうかしたのは敵手てきしゅであるアメリカぐんであった。アメリカぐん八原やはら作戦さくせん計画けいかくたか評価ひょうかしている[17][22]。また、作家さっか山本やまもとななたいらは、敗戦はいせん捕虜ほりょ収容しゅうようしょでアメリカぐん将兵しょうへいいち兵士へいしいたるまで「沖縄おきなわ日本にっぽんぐん作戦さくせんスマートだった」「あれを徹底的てっていてきにやられたらまいところだった」と評価ひょうかしていた、とのこしている[17][23]。また、アメリカ陸軍りくぐん戦史せんし最後さいごたたかい」でも、「沖縄おきなわにおける日本にっぽんぐんは、まことに優秀ゆうしゅう計画けいかくぜんはかりごとをもって、わが進攻しんこうかった」とべられている。

持久じきゅうせんともなった沖縄おきなわせんによって、おおくの県民けんみん犠牲ぎせいになった。とくに、日本にっぽんぐん戦闘せんとうりょくおおくをうしなったのちでのくびさと放棄ほうき南部なんぶ摩文仁まぶに高地こうち撤退てったいによる持久じきゅう作戦さくせん継続けいぞくは、「すんのこかぎ後退こうたいぜんたたかえすべし」という大本営だいほんえい方針ほうしん墨守ぼくしゅしたものであり、アメリカぐんからは軍事ぐんじてき視点してんで「見事みごとくびさと撤退てったいし、ときをうつさず南部なんぶあらたな戦線せんせん確立かくりつした」「アメリカぐん全力ぜんりょくをあげて集中しゅうちゅう攻撃こうげきくわえても、戦闘せんとうわらすまでにさん週間しゅうかん以上いじょうようしたのである。」とたか評価ひょうかされたものの[20]沖縄おきなわ県民けんみん生命せいめい保護ほご重要じゅうようせい島田しまだあきら沖縄おきなわ県知事けんちじ麾下きかだい62師団しだん上野うえの参謀さんぼうちょうからの死地しちくびさともとめるくびさと放棄ほうき反対はんたい意見いけん退しりぞけ、結果けっかとしてぐん勝利しょうりしん南部なんぶ避難ひなんしていた沖縄おきなわ県民けんみん多大ただい被害ひがいこしたてんで、今日きょうでも根強ねづよ批判ひはんがある[24]八原やはら自身じしんも、みずからの作戦さくせんによってしょうじた沖縄おきなわけん住民じゅうみんへの犠牲ぎせいたいする責任せきにんつよかんじていた。八原やはら戦後せんご沖縄おきなわおとずれていない[17]

家族かぞく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 八原やはらはくどおり沖縄おきなわ決戦けっせん - 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1972ねん
  • 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ ISBN 4-7698-2218-9
  • 勝田かつたおか人物じんぶつ』』(編集へんしゅう勝田かつたおか人物じんぶつ編集へんしゅう委員いいんかい発行はっこう鳥取とっとり県立けんりつ米子よなごひがし高等こうとう学校がっこう創立そうりつひゃく周年しゅうねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんかい 2000ねん、331-335ぺーじ
  • はたいくへん日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてんだい2はん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、2005ねん
  • 沖縄おきなわ 日本にっぽんぐん最期さいご決戦けっせん別冊べっさつ歴史れきし読本とくほん 1992ねん
  • 決定けっていばん 太平洋戦争たいへいようせんそう8「いちおくそう特攻とっこう」「本土ほんど決戦けっせん」へのみち』 学習研究社がくしゅうけんきゅうしゃ 2010ねん
  • 山本やまもとななたいらいち下級かきゅう将校しょうこう帝国ていこく陸軍りくぐん』 文春ぶんしゅん文庫ぶんこ 1987ねん ISBN 978-4167306052
  • Roy E. Appleman, James M. Burns, Russell A. Gugeler, John Stevens (1947). OKINAWA: The Last Battle. United States Army in World War II: The War in the Pacific. Washington DC: United States Army Center of Military History. https://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Okinawa/index.html 
    • 和訳わやくしょべい陸軍りくぐんしょう戦史せんしきょくへん)『沖縄おきなわせん だい世界せかい大戦たいせん最後さいごたたかい』おさめたていさむわけ)、出版しゅっぱんしゃMuge、2011ねんISBN 978-4-9904879-7-3 
    • 和訳わやくしょ米国べいこく陸軍りくぐんしょうへん)『沖縄おきなわ日米にちべい最後さいご戦闘せんとう外間ほかませいよんろうわけ)、光人みつひとしゃ、1997ねんISBN 4769821522 

えんじた人物じんぶつ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ アメリカ陸軍りくぐん戦史せんしきょく編集へんしゅう『OKinawa The Last Battle』光人みつひとしゃ、2006ねん、103ぺーじ
  2. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』20ぺーじ
  3. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』23ぺーじ
  4. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』26ぺーじ
  5. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』27ぺーじ
  6. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』29ぺーじ
  7. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』31ぺーじ
  8. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』56 - 57ぺーじ
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  10. ^ 八原やはらはくどおり沖縄おきなわ決戦けっせん - 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1972ねん・2015ねん、425ぺーじ
  11. ^ 八原やはらはくどおり沖縄おきなわ決戦けっせん - 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1972ねん・2015ねん、457ぺーじ
  12. ^ 八原やはらはくどおり沖縄おきなわ決戦けっせん - 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1972ねん
  13. ^ 八原やはらはくどおり沖縄おきなわ決戦けっせん - 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1972ねん・2015ねん、481 - 483ぺーじ
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  15. ^ 稲垣いながきたけし沖縄おきなわ悲遇の作戦さくせん 異端いたん参謀さんぼうはちはらひろしどおり』404ぺーじ
  16. ^ 別冊べっさつ宝島たからじま編集へんしゅうへん日本にっぽん陸軍りくぐん指揮しきかん列伝れつでん宝島社たからじましゃ、2009ねん、177ぺーじ
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  19. ^ アメリカ陸軍りくぐん戦史せんしきょく編集へんしゅう『OKinawa The Last Battle』光人みつひとしゃ、2006ねん、115ぺーじ
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  21. ^ 八原やはらはくどおり沖縄おきなわ決戦けっせん - 高級こうきゅう参謀さんぼう手記しゅき読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、1972ねん
  22. ^ 伊藤いとう正徳まさのり帝国ていこく陸軍りくぐん最後さいご光人みつひとしゃNF文庫ぶんこ
  23. ^ 山本やまもとななたいらいち下級かきゅう将校しょうこう帝国ていこく陸軍りくぐん』284ぺーじ
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