(Translated by https://www.hiragana.jp/)
八幡山城 - Wikipedia コンテンツにスキップ

八幡はちまん山城やましろ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
logo
logo
八幡はちまん山城やましろ
滋賀しがけん
本丸櫓の石垣
本丸ほんまる石垣いしがき
別名べつめい 八幡やはたじょう近江八幡おうみはちまんじょう
城郭じょうかく構造こうぞう 放射ほうしゃじょうしきれんかく山城やましろ居館きょかん
天守てんしゅ構造こうぞう 不明ふめい天守てんしゅだいあり:現存げんそんせず)
築城ちくじょうぬし 豊臣とよとみ秀吉ひでよし豊臣とよとみ秀次しゅうじ
築城ちくじょうねん 1585ねん天正てんしょう13ねん
おも改修かいしゅうしゃ 京極きょうごく高次こうじ
おも城主じょうしゅ 羽柴はしば秀次しゅうじ京極きょうごく高次こうじ
はいじょうねん 1595ねんぶんろく4ねん
遺構いこう 曲輪くるわ石垣いしがき空堀からぼりいぬはしり、居館きょかん
指定してい文化財ぶんかざい なし
再建さいけん造物ぞうぶつ なし
位置いち 北緯ほくい358ふん39.548びょう 東経とうけい1364ふん56.251びょう / 北緯ほくい35.14431889 東経とうけい136.08229194 / 35.14431889; 136.08229194
地図ちず
八幡山城の位置(滋賀県内)
八幡山城
八幡はちまん山城やましろ
テンプレートを表示ひょうじ

八幡はちまん山城やましろ(はちまんやまじょう)は、滋賀しがけん近江八幡おうみはちまん宮内町みやうちまち周辺しゅうへん近江おうみこく蒲生がもうぐん)にあった日本にっぽんしろ山城やましろ)。羽柴はしば秀次しゅうじ居城きょじょうとしてられる。別名べつめい近江八幡おうみはちまんじょうともばれている。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

近江八幡おうみはちまんえきより北西ほくせいやく2.5kmにある、独立どくりつおか鶴翼山かくよくざん通称つうしょう八幡やはたさん標高ひょうこう283m、だか100m)のみなみ半分はんぶん山上さんじょう築城ちくじょうされた。急峻きゅうしゅん山城やましろである。現在げんざい八幡山はちまんやま独立どくりつおかとなっているが、築城ちくじょう当時とうじ東西とうざいうちみずうみがあり、みなみ平野へいや城下町じょうかまちはいした構造こうぞうは、安土あづちじょう類似るいじしたうらない築城ちくじょうしている。城下町じょうかまち安土あづち城下町じょうかまち移住いじゅうさせて形成けいせいされた。かつての城下町じょうかまち一部いちぶにち牟禮むれ八幡宮はちまんぐう境内けいだい八幡はちまんほりとともに近江八幡おうみはちまん八幡やはた伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちく名称めいしょう重要じゅうよう伝統でんとうてき建造けんぞうぶつぐん保存ほぞん地区ちくとして選定せんていされている。八幡やはたほり琵琶湖びわこみずいてつくられたほり戦闘せんとうようをなすだけでなく運河うんが役割やくわりたしていた。1970年代ねんだいにはてて公園こうえん駐車ちゅうしゃじょうにする計画けいかくてられたが「よみがえる近江八幡おうみはちまんかい」「八幡やはたほりまもかい」などの住民じゅうみん運動うんどうによってよみがえり、時代じだいげき撮影さつえい使つかわれるなど名所めいしょひとつとなっている。

2017ねん平成へいせい29ねん)4がつ6にち、「ぞく日本にっぽん100名城めいじょう」(157ばん)に選定せんていされた。

沿革えんかく

[編集へんしゅう]
豊臣とよとみ秀次しゅうじぞう / 瑞泉寺ずいせんじぞう
のきまるかわら八幡やはた山城やましろ出土しゅつど遺物いぶつ) / 近江八幡おうみはちまん市立しりつ図書館としょかん所蔵しょぞう

1582ねん天正てんしょう10ねん)の本能寺ほんのうじへん山崎やまざきたたかのしばらくのち灰燼かいじんかえした安土あづちじょうは、清洲きよす会議かいぎさん法師ほうし織田おだ秀信ひでのぶ)を城主じょうしゅに、織田おだ信雄のぶお後見人こうけんにんとして再興さいこうすることとなった。しかしよく1583ねん天正てんしょう11ねん)の賤ヶだけたたか以降いこう政情せいじょう豊臣とよとみ秀吉ひでよし天下てんか移行いこうするなかで、1585ねん天正てんしょう13ねん)の紀州きしゅう四国しこく征伐せいばつ副将ふくしょうかく戦陣せんじんはい武勲ぶくんてた豊臣とよとみ秀次しゅうじは8がつ23にち論功行賞ろんこうこうしょう近江八幡おうみはちまん43まんいし豊臣とよとみ秀次しゅうじは20まんせき宿老しゅくろうに23まんせき)をあたえられると安土あづちじょう隣地りんち八幡山はちまんやまじょうきずき、安土あづちじょう建物たてもの城下町じょうかまち移築いちくすることにした。

豊臣とよとみ秀吉ひでよし八幡はちまん山城やましろ安土あづちじょうわる近江おうみこくくにじょうとして、豊臣とよとみ秀吉ひでよし自身じしん普請ふしん指揮しきをとり、山頂さんちょう城郭じょうかくふもとにある居館きょかん、そして安土あづちじょうから移築いちくした城下町じょうかまち造営ぞうえいちからそそいだ。しかし、八幡山はちまんやま安土山あづちやまちがけわしいやまで、やま斜面しゃめん充分じゅうぶん活用かつようできずふもと居館きょかんしろ中心ちゅうしんとなった。(ここから多数たすうきりもん金箔きんぱくかわら出土しゅつどしている。金箔きんぱくかわらには安土あづちじょうだい坂城さかきとよく形状けいじょうともえもんかわらもある。)

豊臣とよとみ秀吉ひでよし八幡やはたさん築城ちくじょうねらいは、豊臣とよとみ秀次しゅうじ宿老しゅくろう田中たなか吉政よしまさはいし、水口みずぐち岡山おかやまじょう中村なかむら一氏かずうじ長浜ながはまじょう山内やまうち一豊かずとよ佐和さわ山城やましろ堀尾ほりお吉晴よしはる竹ヶ鼻たけがはなじょう一柳いちりゅうただしまつはいして、近江おうみこく軍事ぐんじてき経済けいざいてき要衝ようしょうとして万全ばんぜん体制たいせいにすることにあった。

豊臣とよとみ秀次しゅうじは18さい入城にゅうじょうしたが、1590ねん天正てんしょう18ねん)に尾張おわりこく清洲きよすしろうつりふうわって京極きょうごく高次こうじが2まん8せんせき入城にゅうじょうしたが、1595ねんぶんろく4ねん秀次しゅうじ事件じけん羽柴はしば秀次しゅうじ切腹せっぷく聚楽第じゅらくだいどう時期じき築城ちくじょうから10ねん八幡はちまん山城やましろはいじょうとなり、京極きょうごく高次こうじ大津おおつじょううつった。

本丸ほんまるあとには秀次しゅうじはは豊臣とよとみ秀吉ひでよしあね日秀ひびりあまさとし)が開基かいき村雲むらくも門跡もんぜき瑞龍寺ずいりゅうじ1963ねん昭和しょうわ38ねん)に移転いてんされている。

城郭じょうかく

[編集へんしゅう]
八幡はちまん山城やましろ周辺しゅうへん地域ちいき空中くうちゅう写真しゃしん/国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

城跡じょうせきおおきくけて2つからっている。ひとつは山頂さんちょう山城やましろと、2ほん尾根おねはさまれたたにすじ空間くうかん居館きょかん配置はいちする。このように防衛ぼうえい空間くうかんとしての山城やましろ部分ぶぶんと、居住きょじゅう空間くうかん居館きょかん分離ぶんりする構造こうぞうは、戦国せんごく城郭じょうかく数多かずおおられるが、近世きんせい城郭じょうかくではめずらしく、時代じだい逆行ぎゃっこうした次元じげん分離ぶんり形態けいたいをとっている。これは築城ちくじょう小牧こまき長久手ながくてたたか翌年よくねんで、しかも徳川とくがわ家康いえやすとの講和こうわ以前いぜん段階だんかいとなっており、東国とうごくたいして臨戦りんせん態勢たいせい緊張きんちょうにあり、防衛ぼうえいせんとして八幡はちまん山城やましろ機能きのうしたことに起因きいんする。

1967ねん昭和しょうわ42ねん)に山頂さんちょう本丸ほんまるから山麓さんろく居館きょかん部分ぶぶん集中しゅうちゅう豪雨ごううによってだい規模きぼ土砂崩どしゃくず発生はっせいしている。近江八幡おうみはちまんでは土砂どしゃ工事こうじ対応たいおう史跡しせき指定してい視野しやれた遺構いこう残存ざんそん状態じょうたい確認かくにんのため発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれている。

山城やましろ

[編集へんしゅう]
ちが虎口ここうれい
そと枡形ますがた虎口ここうれい

山城やましろ部分ぶぶんそう石垣いしがきづくりで、本丸ほんまるまるきたまる西にしまる出丸でまるがY字形じけいびる放射状ほうしゃじょう配置はいちされ、それぞれにこう石垣いしがき構築こうちくされている。1963ねん昭和しょうわ38ねん)に京都きょうとより移築いちくされた瑞龍寺ずいりゅうじもん八幡はちまん山城やましろ本丸ほんまる虎口ここうとなっている。また瑞龍寺ずいりゅうじ移築いちくともな事前じぜん発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれ、建物たてもの礎石そせきおにばんのきまるかわらなどのおおくの遺物いぶつ検出けんしゅつされた。また礎石そせきなかには五輪ごりんとうたから篋印とうそうとうなどの流用りゅうよう礎石そせきもちいたものがあり、石垣いしがきなかにもふくまれていることから、短期間たんきかん築城ちくじょう目指めざしたとかんがえられている。

本丸ほんまる西にしまるせっする西北せいほくすみに、15m四方しほう天守てんしゅだいがあり天守てんしゅがそびえていたと推定すいていされている。本丸ほんまる西側にしがわの2ヵ所かしょ1953ねん昭和しょうわ28ねん)の台風たいふう13ごう影響えいきょう石垣いしがき崩壊ほうかいしてしまい、現在げんざいはコンクリートでかためられている。この部分ぶぶん西にしまる方向ほうこううめもんがあり、通称つうしょう弁慶橋べんけいばし」といわれているうめもんうえをかかる土台どだいせきがあったとわれているが、これらも崩壊ほうかいまったあとをとどめていない。

本丸ほんまる虎口ここうは、方形ほうけい空間くうかんもうみぎない枡形ますがたとなっている。本丸ほんまる虎口ここうより90がり、そこからくだまるいたり、さらに90がるとまるひら虎口ここういたっている。このひら虎口ここうから本丸ほんまるむかどうせんには、横矢よこやがかかる仕掛しかけとなっており、鉄砲てっぽう弓矢ゆみやてるようになり防御ぼうぎょせいたかめている。まるには八幡山はちまんやまロープウェー八幡やはた城址じょうしえきがあり、展望てんぼうかん建設けんせつされている。

かく曲輪くるわ石垣いしがきすみ部分ぶぶん算木さんぎになっており、加工かこうされた石材せきざい使つかわれている。すみ部分ぶぶん石垣いしがき以外いがいほぼ割石わりいし自然しぜんせきまれており、本丸ほんまる石垣いしがき比較的ひかくてきおおきめの石材せきざい使用しようしている。石垣いしがき傾斜けいしゃ直線ちょくせんてきまれりがられない。本丸ほんまるくようにおびきょくがあり、これは本丸ほんまるとおらずかく曲輪くるわ往来おうらいできるバイパス機能きのうねている。西にしまるきたまる地表ちひょうめんには建物たてもの礎石そせきあと露出ろしゅつしており、この曲輪くるわにもなんらかの建物たてものっていたとおもわれている。山城やましろ大手おおて不明ふめいだが、まるにあるロープウェー八幡やはた城址じょうしえき付近ふきん石垣いしがきおおきくくずれており、この付近ふきん存在そんざいしていた可能かのうせい指摘してきされている。

このしろ石垣いしがきは『岩倉いわくら石工せっこう文章ぶんしょう』によると、南方なんぽうやく4kmのにある岩倉山いわくらさんより石材せきざいはこんだという記載きさいがある。

秀次しゅうじ居館きょかん

[編集へんしゅう]

八幡はちまん山城やましろ特徴とくちょうとして山城やましろ部分ぶぶんとはべつきずかれた南山みなみやまふもと居館きょかん部分ぶぶんである。谷地やちがた中央ちゅうおう部分ぶぶん標高ひょうこうやく130mの地点ちてんより雛壇ひなだんじょう曲輪くるわはいされており、さい上部じょうぶ位置いちするのが秀次しゅうじ居館きょかんあとで、巨大きょだいうち枡形ますがたちが虎口ここうがあり、その西側にしがわにはだん東側ひがしがわにはよんだんこう石垣いしがきかまえている。秀次しゅうじ居館きょかんあと石垣いしがきすみ部分ぶぶん算木さんぎみでまれており、直接的ちょくせつてき傾斜けいしゃする。この部分ぶぶんちくいし部分ぶぶんてきではあるが、鏡石かがみいし八幡はちまん山城やましろ石垣いしがき石材せきざいなかで、非常ひじょうおおきないし使つかわれており、権威けんい象徴しょうちょうてき使用しようされている。居館きょかん曲輪くるわ平坦へいたんは、東西とうざい300m×南北なんぼく100mあまりのだい平坦へいたんとなっており、やま斜面しゃめんつちから造成ぞうせいされていることが発掘はっくつ調査ちょうさから判明はんめいした。下部かぶ家臣かしん屋敷やしききょくだれきょかまえていたかは史料しりょうのこっていないため判明はんめいしておらず、また近世きんせい改変かいへんをうけている部分ぶぶんもある。居館きょかんきょくには大型おおがた礎石そせき建物たてものあとかんがえられる礎石そせきれつ、それにともなみぞ建物たてものかれていた金箔きんぱくかわら出土しゅつどしており、はしらあいだやく2mになるもので、ここには書院造しょいんづくり御殿ごてんっていたと推定すいていされている。また居館きょかんには一直線いっちょくせんびる大手おおてどうがあり、安土あづちじょうの2ばいたっするやく270mの距離きょりがある。

山城やましろ部分ぶぶん居館きょかん部分ぶぶんともに、そう石垣いしがきづくり、礎石そせき建物たてもの瓦葺かわらぶ建物たてものなど近世きんせいてき構造こうぞうっている。しかし縄張なわば構造こうぞう石垣いしがき技法ぎほうから山城やましろほうがややあたらしいとの指摘してきがある。「「雉城」じょう突出とっしゅつあな石垣いしがきは、天正てんしょうほかゆたかけい城郭じょうかくられず、文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきやまとじょうやその国内こくない城郭じょうかくおおられる手法しゅほうである。このことから山城やましろ部分ぶぶん京極きょうごく段階だんかい改修かいしゅうされた可能かのうせいかんがえられる」としており、山城やましろ部分ぶぶんやまとじょう城郭じょうかく特徴とくちょう類似るいじてんがあり、京極きょうごく高次こうじ改修かいしゅうかんがえられるとしている[1]

城下町じょうかまち

[編集へんしゅう]

城下町じょうかまちは、安土あづちじょう城下町じょうかまち町民ちょうみんうつしてまちづくりをはじめ、近隣きんりん町村ちょうそんからも移住いじゅううながした。町並まちなみは横筋よこすじ4とおり、たてすじ12とおりを中心ちゅうしん碁盤ごばんじょうつくった。城下町じょうかまち町筋まちすじをジグザグにし防備ぼうび能力のうりょくたかめるのにたいして、八幡山はちまんやま城下町じょうかまちは、商業しょうぎょう振興しんこうだいいち主義しゅぎえた平和へいわてき政策せいさくであったとかんがえられている。ひがしからすじ大工だいくまち鍛冶屋かじやまちたたみまち鉄砲てっぽうまちなどの職人しょくにん居住きょじゅうでしめ、三筋目みすじめから西にしじゅうすじを、仲屋すわい町筋まちすじ為心いしん町筋まちすじ魚屋さかなや町筋まちすじしん町筋まちすじ小幡おばたまちなどの商人しょうにんとした。これら町名ちょうめい安土あづち城下町じょうかまちとの共通きょうつう町名ちょうめいおおい。

またこれも安土あづちじょう同様どうよう中世ちゅうせい特権とっけん商人しょうにん組織そしきであった、はず八幡やはた楽市らくいち楽座らくざとした。これは羽柴はしば秀次しゅうじ築城ちくじょうした翌年よくねん天正てんしょう14ねん1586ねん)6がつおきてしょ発布はっぷした。八幡やはた楽市らくいち楽座らくざれいは、13じょうからの条文じょうぶんっており、安土あづち楽市らくいち楽座らくざれい酷似こくじしている。りょう条文じょうぶんこまかなちがいはあるが、それは歴史れきしてき条件じょうけんちがい、織田おだ信長のぶなが羽柴はしば秀次しゅうじ権力けんりょくちがいによるとかんがえられている。後日ごじつこのより近江おうみ商人しょうにん全国ぜんこく発展はってんすることになり、このとき八幡やはた楽市らくいち楽座らくざれい基礎きそきずいた。

八幡はちまんほり

[編集へんしゅう]

八幡やはたほり琵琶湖びわこからいた八幡やはたまちそとめぐらし、八幡やはたさんふもと八幡はちまんほりるいかこみ、そのなか羽柴はしば秀次しゅうじ居館きょかん武家ぶけ屋敷やしきはいし、防御ぼうぎょ同時どうじ運河うんがとして重視じゅうしした。ながさ6kmにおよ八幡はちまんはいじょう明治めいじ時代じだい大正たいしょう時代じだいまでしょう工業こうぎょう動脈どうみゃくとして役割やくわりたしていた。ほりはば11-18m、ふかさ1.4mの規模きぼっている。琵琶湖びわこから直接ちょくせつ舟入ふないりできるようにし、羽柴はしば秀次しゅうじ時代じだいには往来おうらいするふね八幡やはたらなければならないまりをした。八幡浦やわたうら回船かいせんごういとなむことができるおやうらひとつで、琵琶湖びわこでは大津おおつうら堅田かただうらさんヵ所かしょだけであった。物流ぶつりゅう拠点きょてんひとつであったが、北前きたまえせん開設かいせつにより急速きゅうそく減退げんたいしていった。

城跡じょうせきへのアクセス

[編集へんしゅう]

電車でんしゃでのアクセス

[編集へんしゅう]

くるまでのアクセス

[編集へんしゅう]
八幡やはた公園こうえん無料むりょう駐車ちゅうしゃじょうあり。

ギャラリー

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 図説ずせつ近畿きんき中世ちゅうせい城郭じょうかく事典じてん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 相賀あいが徹夫てつお編著へんちょ近畿きんきしろ』 [しろ5]、小学館しょうがくかん、1981ねん3がつ、86-88ぺーじ 
  • 相賀あいが徹夫てつお編著へんちょ城郭じょうかく城下町じょうかまち』 5 近畿きんき : 滋賀しが京都きょうと大阪おおさか奈良なら和歌山わかやま小学館しょうがくかん、1984ねん4がつ、54-61ぺーじISBN 4-09-569005-4 
  • 滋賀しがけん安土あづちじょう城郭じょうかく調査ちょうさ研究所けんきゅうじょ へん戦国せんごくから近世きんせい城下町じょうかまち 石寺いしてら安土あづち八幡やはた』サンライズ出版しゅっぱん近江おうみたびほん〉、2006ねん10がつ、104-133ぺーじISBN 4-88325-312-0 
  • そうしゃ日本にっぽん城郭じょうかく大系たいけいだい11かん 京都きょうと滋賀しが福井ふくい新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1980ねん9がつ、252-253ぺーじ 
  • 中井なかいひとし近江おうみ山城やましろ ベスト50をあるく』サンライズ出版しゅっぱん、2006ねん10がつ、104-107ぺーじISBN 4-88325-305-8 
  • 西にしたに恭弘やすひろ責任せきにん編集へんしゅう へん秀吉ひでよししろ 戦国せんごくせいした太閤たいこう城郭じょうかくその築城ちくじょう戦略せんりゃく世界文化社せかいぶんかしゃ、1996ねん7がつ、112-115ぺーじISBN 4-418-96118-6 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]