(Translated by https://www.hiragana.jp/)
加賀騒動 - Wikipedia コンテンツにスキップ

加賀かが騒動そうどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

加賀かが騒動そうどう(かがそうどう)とは、江戸えど時代じだい加賀かがはんこったいえ騒動そうどうのこと。伊達だて騒動そうどう黒田くろだ騒動そうどうまたは仙石せんごく騒動そうどうとともにさんだいいえ騒動そうどうばれる[1]

解説かいせつ

[編集へんしゅう]

騒動そうどう背景はいけい

[編集へんしゅう]

加賀かがはん前田まえだだいだい藩主はんしゅとなった前田まえだ綱紀つなのり藩主はんしゅによる独裁どくさい体制たいせいをめざし、藩政はんせい改革かいかくすすめた。

一方いっぽう加賀かがはん財政ざいせい元禄げんろく以降いこう、100まんせき家格かかく維持いじするための出費しゅっぴ増大ぞうだい領内りょうないかね銀山ぎんざん不振ふしんにより悪化あっか一途いっと辿たどっていた。

とおる8ねん1723ねん)、藩主はんしゅ綱紀こうき隠居いんきょ息子むすこ前田まえだ吉徳よしのりだいろくだい藩主はんしゅとなった。吉徳よしとくはより強固きょうこ藩主はんしゅ独裁どくさい目指めざした。足軽あしがる三男さんなん居間いま坊主ぼうずにすぎなかった大槻おおつき伝蔵でんぞう側近そっきんとして抜擢ばってきし、吉徳よしとく大槻おおつきのコンビで藩主はんしゅ独裁どくさい体制たいせい目指めざ一方いっぽうはん財政ざいせい改革かいかくにも着手ちゃくしゅする。大槻おおつきべい相場そうばもちいた投機とうき新税しんぜい設置せっち公費こうひ削減さくげん倹約けんやく奨励しょうれいおこなった。しかし、それらによりはん財政ざいせい悪化あっかまったものの、回復かいふくにはいたらなかった。さらに、悪化あっかめたことをしとした吉徳よしとく大槻おおつき厚遇こうぐうしたことで、身分みぶん制度せいど破壊はかい既得きとくけんうばわれた門閥もんばつ重臣じゅうしんや、倹約けんやく奨励しょうれいにより様々さまざま制限せいげんされた保守ほしゅてき家臣かしんたちの不満ふまんはますますつのり、前田まえだ直躬なおみふくはんない保守ほしゅたちは、吉徳よしとく長男ちょうなん前田まえだはじめたつ大槻おおつき非難ひなんする弾劾だんがいじょうよんにわたって差出さしだすにいたった[2]

のべとおる2ねん1745ねん)6がつ12にち大槻おおつきささつづけた藩主はんしゅ吉徳よしとく病死びょうしし、そうたつだいななだい藩主はんしゅとなった。その翌年よくねん吉徳よしとくいち周忌しゅうきぎたのべとおる3ねん1746ねん)7がつ2にち[3]大槻おおつきは「吉徳よしとくたいする看病かんびょう不充分ふじゅうぶんだった」などの理由りゆうそうたつから蟄居ちっきょめいぜられた。さらにのべとおる5ねん1748ねん)4がつ18にちにはろく没収ぼっしゅうされ、越中えっちゅう五箇山ごかさん配流はいるとなる。

加賀かが騒動そうどう

[編集へんしゅう]

そのそうたつ藩主はんしゅいてわずか1ねんはん病死びょうしし、異母弟いぼてい前田まえだしげるひろしだいはちだい藩主はんしゅいだ。のべとおる5ねん6がつ26にちおよび7がつ4にち藩主はんしゅじゅう熙ときよしたまいんへの毒殺どくさつ未遂みすい事件じけん発覚はっかくする。きよしたまいんそうたつ生母せいぼであり、じゅう熙の養育よういくまかされていた人物じんぶつである。はんない捜査そうさした結果けっか、これはおく女中じょちゅう浅尾あそお犯行はんこうであり、さらにこの事件じけん主犯しゅはん吉徳よしとく側室そくしつだった真如しんにょいんであることが判明はんめいした。これをけて真如しんにょいん居室きょしつ捜索そうさくしたところ、大槻おおつきからの手紙てがみつかり不義ふぎ密通みっつう証拠しょうことしてげられ、一大いちだいスキャンダルとなる。寛延かんえい元年がんねん1748ねん)9がつ12にち真如しんにょいん身柄みがら拘束こうそくされたことをいた大槻おおつき五箇山ごかさん配所はいしょ自害じがいした。寛延かんえい2ねん1749ねん)には禁固きんこちゅう浅尾あさお殺害さつがいされ、真如しんにょいん前田まえだ利和としかずいきおい)は幽閉ゆうへいされていたが、真如しんにょいんみずか絞殺こうさつのぞんでそのとおりにころされたという。大槻おおつき一派いっぱたいする粛清しゅくせいたかられき4ねん1754ねん)までつづいた。

しかし、真如しんにょいん主犯しゅはんであったことを裏付うらづける証拠しょうこもなければ、真如しんにょいん居室きょしつつかったとされる大槻おおつき手紙てがみ内容ないようもわかっていない。ちまた実録じつろくほんでは真如しんにょいん大槻おおつき結託けったくし、みずからのんだである利和としかず藩主はんしゅけることをねらった暗殺あんさつ未遂みすいであったとするが、当時とうじはんによる取調とりしらべでは真如しんにょいん大槻おおつきとの不義ふぎ密通みっつうみとめたものの、毒殺どくさつ未遂みすい事件じけん関与かんよについては否定ひていしており、また真如しんにょいん取調とりしらべるがわ犯行はんこう動機どうきについては追及ついきゅうすることなく、うやむやにしている。そもそも不義ふぎ密通みっつうについても、大名だいみょう妻妾さいしょうむ「おくき」は江戸城えどじょう大奥おおおく同様どうよう藩主はんしゅ以外いがい男子だんし立入たちいりがきんじられており、大槻おおつき人知ひとしれず真如しんにょいんとそのような関係かんけいむすぶことはありえなかった。さらに実録じつろくほんでは、毒殺どくさつ未遂みすい大槻おおつき指示しじにより浅尾あさおこされたとするが、当時とうじ大槻おおつきすで五箇山ごかさんながされきびしい監視かんしにあり、そのような指示しじ不可能ふかのうである。また、さかのぼって吉徳よしとくそうたつ大槻おおつき殺害さつがいしていたなどともいているが、みずからにとって最大さいだい庇護ひごしゃであるはずの吉徳よしとくうしなったのちどうなるか、大槻おおつきめないはずはなく、これもありないはなしである。現在げんざい吉徳よしとくそうたつ事件じけんせいはなく、じゅう熙およびきよしたまいん毒殺どくさつ未遂みすい事件じけんも、守旧しゅきゅう中心ちゅうしん人物じんぶつであった前田まえだ直躬なおみらが大槻おおつき一掃いっそうするためにでっちげたものだとかんがえるせつがある。

巷説こうせつの「加賀かが騒動そうどう

[編集へんしゅう]

現代げんだいでは加賀かが騒動そうどうという「大槻おおつき一派いっぱによる計画けいかく」は存在そんざいせず、大槻おおつき伝蔵でんぞう失脚しっきゃくさせるためのでっちげであり、大槻おおつき伝蔵でんぞうについてもはんなおしの功労こうろうしゃであったとかんがえるせつがある[4]

加賀かが騒動そうどう顛末てんまつ幕府ばくふなど第三者だいさんしゃ視点してん介入かいにゅうがなく、一方いっぽう守旧しゅきゅう勝利しょうりしたことによりたいかた主張しゅちょうはかきされ、すなわち客観きゃっかんてき事実じじつしめ証拠しょうことぼしい。真相しんそうやみのまま、そのスキャンダラスな表層ひょうそう強調きょうちょうされ、事件じけん実録じつろくほんばれる虚実きょじつまじえたフィクション小説しょうせつとなって流布るふしてゆく。それらによれば、利和としかず大槻おおつき伝蔵でんぞう真如しんにょいんとの密通みっつうによりまれたであり、伝蔵でんぞう主家しゅか簒奪さんだつ企図きとして吉徳よしとくそうたつ藩主はんしゅだいにわたって殺害さつがいしたのち、さらにじゅう熙ときよしたまいんをも殺害さつがいしようとしたところで事件じけん発覚はっかくしたとするもので、前田まえだ直躬なおみ大槻おおつき野望やぼう阻止そしし、加賀かが100まんせきすくった忠臣ちゅうしんとしてえがかれる。また浅尾あさおたいするけい執行しっこうは、すうひゃくひき毒蛇どくへびれた穴蔵あなぐら浅尾あさおはだかにして押込おしこめたとされ、ショッキングでグロテスクな内容ないよう物語ものがたりとなっている。もっとも浅尾あさおへびめについては『大鵬たいほうせん』がしたつくばなしである[5]が、むしろこうしたへびめなどのグロテスクな部分ぶぶん強調きょうちょうされることによって、加賀かが騒動そうどう巷説こうせつとしてその命脈めいみゃくたもってきためんもある。加賀かが騒動そうどうあつかったちまた実録じつろくほん幕府ばくふより版行はんこうきんじられ、写本しゃほんかたちつたわっている。

なお、石川いしかわ県政けんせい記念きねんしいのき迎賓館げいひんかん(かつての石川いしかわ県庁けんちょうまえには大槻おおつき屋敷やしきから移植いしょくしたといわれるシイ巨木きょぼくがあり、「堂形どうがたのシイノキ」とばれているが、このろうとするとたたりがあるといいならわされている。

関連かんれん作品さくひん

[編集へんしゅう]

実録じつろくほん

  • きつね物語ものがたり』(やこものがたり)
  • 越路こしじ加賀見かがみ』(こしじかがみ)
  • 大鵬たいほうせん』(けんごたいほうせん)
    うえみっつははや時期じき成立せいりつした実録じつろくほんで、いずれも作者さくしゃ不明ふめいである。『きつね物語ものがたり』は事件じけん決着けっちゃく直後ちょくご、『越路こしじ加賀見かがみ』はたかられき6ねん1756ねん)に、『大鵬たいほうせん』はたかられき9ねん1759ねん)にきた金沢かなざわ大火たいかののちに成立せいりつしたといわれる。これらをみると、たとえば大槻おおつきがじつは吉徳よしとくそうたつ殺害さつがいしていたとすること、また浅尾あさおへびめにしたことなど、巷説こうせつられる加賀かが騒動そうどう内容ないようがすでにしるされている。『大鵬たいほうせん』は『教育きょういくしゃ新書しんしょ』から現代げんだいやくているが、書名しょめいは『加賀かが騒動そうどう』としている。

講談こうだん

  • 加賀かが騒動そうどう 大槻おおつき伝蔵でんぞう出世しゅっせ

歌舞伎かぶき人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり

映画えいが

史伝しでん

歴史れきし小説しょうせつ

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 青山あおやまかつわたる加賀かが騒動そうどう教育きょういくしゃ教育きょういくしゃ新書しんしょ原本げんぽん現代げんだいやく)32〉、1981ねん 
  • 山本やまもと博文ひろぶみ へんる、む、調しらべる 江戸えど時代じだい年表ねんぴょう小学館しょうがくかん、2007ねん10がつ10日とおかISBN 978-4-09-626606-9 
  • 国史こくしだい辞典じてん編集へんしゅう委員いいんかいへん 『国史こくしだい辞典じてん』(だい3かん) 吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1983ねん ※「加賀かが騒動そうどう」のこう

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]