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北条ほうじょうさだあきら

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北条ほうじょう さだあらわ / 金沢かなざわ さだあきら
北条ほうじょうさだあきらぞう称名寺しょうみょうじぞう国宝こくほう
時代じだい 鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき
生誕せいたん 弘安ひろやす元年がんねん1278ねん[注釈ちゅうしゃく 1]
死没しぼつ 元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん5月22にち1333ねん7がつ4にち
別名べつめい 金澤かなざわ金沢かなざわさだあきら越後えちご六郎ろくろう越後えちご左近さこん大夫たいふ将監しょうげんたかしあきら
墓所はかしょ 横浜よこはま金沢かなざわ称名寺しょうみょうじ
官位かんい 左衛門尉さえもんのじょう東二条ひがしにじょういん蔵人くろうどしたがえみぎ近衛このえすすむかんひだり近衛このえすすむかんしたがえじょう中務なかつかさ大輔だいすけ越後えちごもりせいみぎけんあたま武蔵むさしもりしたがえよんしたがえよんじょう修理しゅうりけん大夫たいふ
幕府ばくふ 鎌倉かまくら幕府ばくふ ろく探題たんだい南方みなかた寄合よりあいしゅうさんばん引付ひきつけあたまじん寄合よりあいしゅう兼帯けんたいばん引付ひきつけあたまじんろく探題たんだい北方ほっぽう連署れんしょ志摩しま守護しゅごだい15だい執権しっけん
主君しゅくん 久明ひさあき親王しんのうまもりくに親王しんのう
氏族しぞく 北条ほうじょう金沢かなざわりゅう
父母ちちはは ちち北条ほうじょうあらわときはは遠藤えんどうためしゅんむすめいれ殿どの[注釈ちゅうしゃく 2]
兄弟きょうだい あらわべんあらわ時雄ときおあらわけいさだあきら名越なごししつ千葉ちばたねむねしつ足利あしかがさだむろ釈迦堂しゃかどう殿でん
つま 正室せいしつ北条ほうじょうむらむすめ
側室そくしつ薬師やくしどう殿どの吉田よしだけいちょう一族いちぞく
あらわすけさだしょうあらわめぐみさだふゆさだただしさだだか貞助さだすけみちあらわ
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北条ほうじょう さだあきら(ほうじょう さだあき)は、鎌倉かまくら時代ときよ末期まっき武将ぶしょう北条ほうじょう一門いちもん鎌倉かまくら幕府ばくふだい12だい連署れんしょ在職ざいしょく正和しょうわ4ねん1315ねん7がつ12にち - よしみれき元年がんねん1326ねん3月16にち)、だい15だい執権しっけん在職ざいしょく正中せいちゅう3ねん3月16にち1326ねん4がつ19にち) - 正中せいちゅう3ねん3月26にち(1326ねん4がつ29にち))。

ちち金沢かなざわりゅう北条ほうじょうあらわときはは摂津せっつ御家人ごけにんである遠藤えんどうためしゅんむすめいれ殿どの金沢かなざわ文庫ぶんこ有名ゆうめい北条ほうじょうみのるときまごたる。金沢かなざわ さだあきら(かねさわ さだあき)ともばれる。

生涯しょうがい

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家督かとく相続そうぞく

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さだあらわ北条ほうじょう貞時さだときの「さだ」とあらわの「あらわ」をわせたものといわれる[2]えいひとし2ねん1294ねん)12月26にち左衛門尉さえもんのじょう東二条ひがしにじょういん蔵人くろうどに輔任された。ただしこの官職かんしょく北条ほうじょう一門いちもんではひくいほうで庶子しょしあつかいであり、出仕しゅっしが17さいときというのもおそいものである。これは弘安ひろやす8ねん1285ねん)11月の霜月しもづき騒動そうどうちちあらわ連座れんざして失脚しっきゃくあらわ正室せいしつ安達あだち泰盛やすもりむすめ安達あだち千代野ちよのである)していたことが影響えいきょうしていたとされる。えいひとし4ねん1296ねん)4がつ12にちしたがえじょされ、4がつ24にち右近うこん将監しょうげんに輔任されるにおよんで、ようやく他家たけ嫡子ちゃくしなみあつかわれることになった。5月15にちには左近さこん将監しょうげん転任てんにんされたため、通称つうしょう越後えちご左近さこん大夫たいふ将監しょうげんしょうされることになる。

えいひとし6ねん1298ねん)11月24にち清原きよはら直隆なおたかより『古文こぶんこうけい』を伝授でんじゅされる。正安まさやす2ねん1300ねん)10がつ1にちしたがえじょう昇進しょうしんし、これにより霜月しもづき騒動そうどう以来いらい昇進しょうしんおくれをもどした。正安まさやす3ねん1301ねん)3がつちち死去しきょすると、北条ほうじょう貞時さだときよりあにらをえて嫡子ちゃくし抜擢ばってきされて家督かとく相続そうぞくめいじられた。これはちちあらわたいする貞時さだとき信任しんにんあつさとさだあらわ器量きりょうあによりうえみとめられた処置しょちとされる[3]

ろく探題たんだい南方なんぽう

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正安まさやす4ねん1302ねん)7がつろく探題たんだい南方なんぽう就任しゅうにんし、7がつ7にちに1000ひきいて鎌倉かまくら出立しゅったつし7がつ26にち入洛にゅうらくした[4]。8月11にちには中務なかつかさ大輔だいすけ転任てんにんする。よしみもと元年がんねん1303ねん)に探題たんだい北方ほっぽう北条ほうじょうはじめときから北条ほうじょうはん交代こうたいすると、事実じじつじょう執権しっけん探題たんだいとして京都きょうと政務せいむ仕切しきった[5]よしみもと2ねん1304ねん)6がつ2にち越後えちごもり転任てんにんする。

在京ざいきょう時代じだいには叔父おじ鎮西ちんぜい探題たんだいであった北条ほうじょうみのるせい死去しきょしたため金沢かなざわ一門いちもん訃報ふほうつたえたり、こう深草ふかくさいん崩御ほうぎょによりときはんとも弔問ちょうもんおとずれたりしてこう伏見ふしみ上皇じょうこうより勅語ちょくごさずかったりしている。またおおくの公家くげ僧侶そうりょ交遊こうゆうして書写しょしゃ活動かつどうおこなうなど文化ぶんかてき活動かつどう精力せいりょくてきおこなっている。

だがよしみもと3ねん1305ねん)4がつ22にち鎌倉かまくらにて、連署れんしょさだあらわしゅうとたる北条ほうじょうむら貞時さだときの「おおせ」とするとくむね被官ひかん御家人ごけにんによりたれるよしみもとらんこる。ろく探題たんだいへの第一報だいいっぽうでは「どきむらが誅された」とあり、がつ騒動そうどう連想れんそうしたさだあらわろく探題たんだい南方なんぽうでは北方ほっぽうからの攻撃こうげきおそれて戦々恐々せんせんきょうきょうであったとされ、さだあらわ祐筆ゆうひつであったくら栖兼ゆうによると南方なんぽうは「恐怖きょうふちょうきもこうき」であったという。だが5がつときむら誅伐ちゅうばつ北条ほうじょう宗方むなかた陰謀いんぼうであったとする「関東かんとう御教書みぎょうしょ」が早馬はやうまによりとどき、どきむらころした宗方むなかたらが殺害さつがいされてさだあらわには連座れんざおよばず無罪むざいとされた[6]

徳治とくじ2ねん1307ねん)1がつ29にちせい昇進しょうしんする。だがこの昇進しょうしんたいして北条ほうじょう一門いちもんから異論いろんされるなどしている。また8がつ14にち北方ほっぽうときはん死去しきょして探題たんだい北方ほっぽう不在ふざいとなったため、しばらくは南方なんぽうさだあらわ単独たんどく京都きょうと政務せいむ担当たんとうすることになった。

のべけい元年がんねん1308ねん)12月、大仏だいぶつさだぼう交替こうたいしてろく探題たんだい南方なんぽう辞任じにんのべけい2ねん1309ねん)1がつ鎌倉かまくら帰還きかんした[注釈ちゅうしゃく 3]

執権しっけんになるまで

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のべけい2ねん1309ねん)1がつ21にち北条ほうじょうだか元服げんぷくしき御剣みつるぎやく元服げんぷくするものはたけんしてひかえるやく)をつとめた[注釈ちゅうしゃく 4]。このやく北条ほうじょう一門いちもんなかでも要人ようじんつとめることがつねであったため、さだあらわ北条ほうじょう一門いちもんなか重要じゅうよう人物じんぶつられていたことがわかる。その、3月には引付ひきつけあたまじん3ばん任命にんめいされたが、ろく探題たんだい辞任じにんして鎌倉かまくら帰還きかんして3ヶ月かげつほどのさだあらわ引付ひきつけ3ばんであることやあにあまなわあらわ(7ばん)より上位じょういにあることはさだあらわ北条ほうじょう一門いちもんなかでも特別とくべつ待遇たいぐう地位ちいにあったことを物語ものがたっている。4月9にちには北条ほうじょうひろしときとも寄合よりあいしゅう任命にんめいされ、引付ひきつけ寄合よりあい兼務けんむにより幕府ばくふ中枢ちゅうすう担当たんとうする一員いちいんになった。

8がつ北条ほうじょうひろし引付ひきつけ1ばんから退しりぞいたため、さだあらわは2ばん昇進しょうしんした。12月に越後えちごもり辞任じにんする。のべけい3ねん1310ねん)2がつ18にち引付ひきつけ再編さいへんによりさだあらわ引付ひきつけあたまじん辞職じしょく。6月25にちろく探題たんだい北方ほっぽうとして上洛じょうらく。6月28にちみぎけんあたまに輔任された。おうちょう元年がんねん1311ねん)10がつ24にち武蔵むさしもりに輔任される。なお、文献ぶんけん写本しゃほんにはげみ、金沢かなざわ文庫ぶんこ充実じゅうじつをはかっているものの北方ほっぽう時代じだいには南方なんぽう時代じだいほどの文化ぶんかてき活動かつどう積極せっきょくせいられなかった。

正和しょうわ4ねん1315ねん)7がつ11にち北条ほうじょうはじめとき執権しっけんになるとさだあらわ連署れんしょ就任しゅうにんした。正和しょうわ5ねん1316ねん)7がつ北条ほうじょうだか執権しっけんになると、病弱びょうじゃくこう補佐ほさすることになった。12月14にちしたがえよん昇進しょうしんぶん2ねん1318ねん)2がつ3にちしたがえよんじょう昇進しょうしんぶん3ねん1319ねん)2がつ武蔵むさしもり辞任じにんする。

10日とおか執権しっけん

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正中せいちゅう3ねん1326ねん)3がつ北条ほうじょうだか病気びょうき執権しっけんしょく辞職じしょくして出家しゅっけすると、さだあらわ政務せいむ引退いんたい出家しゅっけのぞむが、慰留いりゅうめいじられる。後継こうけいさだめないこう出家しゅっけ次期じき執権しっけんこうくにときうち管領かんりょう長崎ながさきたかときおとうと北条ほうじょうやすしとききょう)を外戚がいせき安達あだち対立たいりつするとく宗家そうけあらそいに発展はってんする。

3月16にちさだあらわうち管領かんりょう長崎ながさきだかにより、くに成長せいちょうまでの中継なかつぎとして擁立ようりつされて15だい執権しっけん就任しゅうにんする。このときさだあらわは「面目めんぼくきわまりなくこう」と素直すなおよろこび、執権しっけん就任しゅうにんから評定ひょうじょう出席しゅっせきするなど精力せいりょくてき活動かつどうせた[9]

だがさだあらわ執権しっけん就任しゅうにん反対はんたいしたたい出家しゅっけし、それに追従ついしょうしてたい安達あだちつらなる人々ひとびとおおくが出家しゅっけした[注釈ちゅうしゃく 5]。これによりさだあきら暗殺あんさつ風聞ふうぶんまでったため[注釈ちゅうしゃく 6]窮地きゅうちたされたさだあらわ10日とおかの3がつ26にち執権しっけんしょく辞職じしょくして出家しゅっけした(法名ほうみょうたかしあらわ)。

そしてあらたな執権しっけんには4がつ24にち北条ほうじょう守時もりとき就任しゅうにんした。一連いちれん騒動そうどうよしみれき騒動そうどうばれる。

晩年ばんねん最期さいご

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金沢かなざわさだあきら称名寺しょうみょうじうち

出家しゅっけさだあらわ息子むすこさだすすむさだふゆらの栄達えいたつることをたのしみにしていたという[10]ろく探題たんだい南方なんぽうとして在京ざいきょうするさだしょう鎌倉かまくら情勢じょうせいつたえたりする役目やくめつとめている。なお、金沢かなざわりゅうさだあらわ出世しゅっせのため、さだすすむさだふゆ時代じだいにも幕府ばくふ中枢ちゅうすうになうようになっていた。

もととく2ねん1330ねんうるう6がつごろさだあらわびょうわずらっておりうるう6がつ3にちづけ書状しょじょうではさだはたあてにそれをしらせている[11]

元弘もとひろ3ねん/せいけい2ねん1333ねん)5がつ新田にった義貞よしさだ上野うえの挙兵きょへいして鎌倉かまくらせた。このときさだあらわ嫡子ちゃくしさだしょうとその嫡男ちゃくなん北条ほうじょうただしとき金沢かなざわ一族いちぞくおおくはきょぶくりょざか守備しゅびして新田しんでんぐんたたか奮戦ふんせんしたが討死うちじににした。そして5がつ22にちたかしあきらさだあらわこうとも北条ほうじょうとく宗家そうけ菩提寺ぼだいじである鎌倉かまくらひがししょうてらうつ最後さいご拠点きょてんとして北条ほうじょう一族いちぞくおおくととも新田しんでんぐんたたかったのち自刃じじんした(ひがししょうてら合戦かっせん[注釈ちゅうしゃく 7]享年きょうねん56。

系譜けいふ

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同母どうぼけいあまなわあらわ北条ほうじょう時雄ときお異母いぼけいあらわべん北条ほうじょうあらわけいがいる。通称つうしょう越後えちごろくろうであることから、さだあらわは6なんとされている。嫡子ちゃくしろく探題たんだい南方なんぽうとなったさだしょうさだふゆなど多数たすう男子だんしがいる(徳治とくじ3ねん1306ねん)に早世そうせいした男子だんしが1にんいる)。むすめにはよしみれき4ねん1329ねん)3がつに11さい早世そうせいしたむすめほか2人ふたり早世そうせいしたむすめ確認かくにんされる。

人物じんぶつ逸話いつわ

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金沢かなざわ文庫ぶんこ古文書こもんじょなかにはかれ書状しょじょうが642つう書状しょじょう復元ふくげん作業さぎょうなどから566つうとも)現存げんそん[13]、これは鎌倉かまくら時代じだい後期こうき末期まっき情勢じょうせいつたえるうえ貴重きちょう史料しりょうとなっている[14]

さだあらわ当時とうじでは一流いちりゅう文化ぶんかじんであり、探題たんだい時代じだいおおくの文化ぶんかじん交遊こうゆうして書写しょしゃおこなったりした。鎌倉かまくら帰還きかん親王しんのう将軍しょうぐんをもてなすために京都きょうと銘茶めいちゃ道具どうぐるいそなえるなどしている[15]さだあらわ政治せいじとしての評価ひょうかは「とく宗家そうけ強大きょうだい権力けんりょくにひれした」としてひく[16]。しかしこれはさだあらわ幕府ばくふ滅亡めつぼうの7ねんまえまで幕府ばくふ中枢ちゅうすう幕政ばくせい仕切しきっていたため(幕府ばくふ滅亡めつぼうまでも一定いってい影響えいきょうりょくはあったとおもわれる)という結果けっかろんであり、実際じっさいさだあらわ先例せんれいうんおもんじる常識じょうしきじん周囲しゅういたいする配慮はいりょおこたらない調整ちょうせいやくだったという[17]

また病弱びょうじゃくこう連署れんしょとしててる一方いっぽう安達あだちあらわ長崎ながさき高綱たかつなという2人ふたり巨頭きょとう権力けんりょくあらそいにクッションの役割やくわりつとめてたかとき政権せいけん大過たいかささえた功労こうろうしゃである[17]優秀ゆうしゅう人物じんぶつではあったが、革新かくしんてき思考しこう武断ぶだんてき手腕しゅわんにはとぼしく、気配きくばり・調整ちょうせいによって政権せいけん維持いじする人物じんぶつであった[14]永井ながいすすむ以下いかのようにひょうしている。

成熟せいじゅくはいった組織そしき運営うんえいをすることのむずかしさをものであれば、「おまえの苦労くろうはよくわかる」と共感きょうかんのもてる史料しりょうおお[14]

経歴けいれき

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日付ひづけ旧暦きゅうれき

  • 1294ねんえいひとし2ねん)12月16にち左衛門尉さえもんのじょう任官にんかんし、東二条ひがしにじょういん蔵人くろうど補任ほにん
  • 1296ねんえいひとし4ねん)4がつ21にちしたがえ叙位じょい。 4がつ24にちみぎ近衛このえすすむかん転任てんにん。 5月15にちひだり近衛このえすすむかんに遷任。
  • 1300ねん正安まさやす2ねん)10がつ11にちしたがえじょう昇叙しょうじょひだり近衛このえ将監しょうげん如元。
  • 1302ねんいぬいもと元年がんねん)7がつ7にちろく探題たんだい南方なんぽう就任しゅうにん。8月11にち中務なかつかさ大輔だいすけ転任てんにん
  • 1304ねんよしみもと2ねん)6がつ2にち越後えちごもりに遷任。
  • 1307ねん徳治とくじ2ねん)1がつ29にちせい昇叙しょうじょ越後えちごもり如元。
  • 1308ねんのべけい元年がんねん)12月、ろく探題たんだい退任たいにん
  • 1309ねんのべけい2ねん)3がつ15にちさんばん引付ひきつけあたまじん就任しゅうにん。4月9にち寄合よりあいしゅう兼帯けんたい。8月、ばん引付ひきつけあたまじん異動いどう。 10月2にち越後えちごもり辞任じにん
  • 1310ねんのべけい3ねん)6がつ25にちろく探題たんだい北方ほっぽうとして再度さいど赴任ふにん。6月28にちみぎけんあたま任官にんかん
  • 1311ねんおうちょう元年がんねん)6がつみぎけんあたま辞任じにん。10月24にち武蔵むさしもり任官にんかん
  • 1314ねん正和しょうわ3ねん)12月、ろく探題たんだい退任たいにん
  • 1315ねん正和しょうわ4ねん)7がつ11にち連署れんしょと就る。
  • 1316ねん正和しょうわ5ねん)12月11にちしたがえよん昇叙しょうじょ武蔵むさしもり如元。
  • 1319ねんもとおう元年がんねん)2がつ武蔵むさしまもり辞任じにん
  • 1320ねんもとおう2ねん)10がつ2にちしたがえよんじょう昇叙しょうじょ
  • 1322ねんげんとおる2ねん)9がつ17にち修理しゅうりけん大夫たいふ任官にんかん日付ひづけしょう志摩しま守護しゅご就任しゅうにん
  • 1326ねんよしみれき元年がんねん)3がつ16にち執権しっけんと就る。3月26にち執権しっけん退任たいにん出家しゅっけ法名ほうみょうたかしあらわ
  • 1333ねん元弘もとひろ3ねんせいけい2ねん)5がつ22にち鎌倉かまくら幕府ばくふ滅亡めつぼうさいひがししょうてら北条ほうじょうだからと自刃じじん享年きょうねん56。

参考さんこう資料しりょう北条ほうじょう時政ときまさ以来いらい後見こうけん次第しだい東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ所蔵しょぞうかげうつし)、鎌倉かまくら年代ねんだい増補ぞうほぞく史料しりょう大成たいせい)、尊卑そんぴ分脈ぶんみゃくしんてい増補ぞうほ国史こくし大系たいけい)、金沢かなざわ文庫ぶんこ古文書こもんじょ武家ぶけ年代ねんだい増補ぞうほぞく史料しりょう大成たいせい)、

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ けんちょう7ねん1255ねん)とのせつもある[1]
  2. ^ 鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん』でははは安達あだち泰盛やすもりむすめとしている。
  3. ^ さだあらわ北方ほっぽう転任てんにんするといううわさがあったが、本人ほんにん長期ちょうきわた在京ざいきょう不満ふまん所領しょりょう問題もんだいから「だい訴」として鎌倉かまくら帰還きかんつよ要望ようぼうした。なお、さだあらわは12月24にちまで南方なんぽうつとめている[7]
  4. ^ 1がつ17にちづけ書状しょじょうさだあらわがこのやくえらばれたことをよろこんでいたむねしるされている[8]
  5. ^ れきあいだ』には「関東かんとうさむらいいたるはもうすにおよばず、じゅうろくななわかものどもまで、みな出家しゅっけ入道にゅうどうす、いまいましくも不思議ふしぎ瑞相ずいそうなり」とある。
  6. ^ 3月20にちづけさだはたあて書状しょじょうさだあらわは「やがてやがて、火中かちゅうれられこうべくこう」と危険きけんかんじていたことをしめしている一文いちぶんがある[9]
  7. ^ 太平たいへい』には「金沢かなざわ大夫たいふ入道にゅうどうたかしあらわ」としてえ、こうとも自刃じじんしたとしている[12]

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 永井ながいすすむ金沢かなざわさだあらわ吉川弘文館よしかわこうぶんかん人物じんぶつ叢書そうしょ〉、2003ねんISBN 4-642-05228-3 
  • 細川ほそかわ重男しげお鎌倉かまくら政権せいけんとくむね専制せんせいろん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2000ねんISBN 4-642-02786-6 
  • 安田やすだ元久もとひさ へん鎌倉かまくら室町むろまち人名じんめい事典じてん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1985ねん 

関連かんれん作品さくひん

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ドラマ

関連かんれん項目こうもく

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