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あきらぶくてらきた古墳こふん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
あきらぶくてらきた古墳こふん

墳丘ふんきゅう遠景えんけい
別名べつめい 聖徳太子しょうとくたいし/上城かみしろ古墳こふん[1]
所属しょぞく いそ長谷ながたに古墳こふんぐん
所在地しょざいち 大阪おおさか南河内みなみかわちぐん太子たいしまち大字だいじ太子たいし
あきらぶくてら境内けいだい
位置いち 北緯ほくい3431ふん11.23びょう 東経とうけい13538ふん21.38びょう / 北緯ほくい34.5197861 東経とうけい135.6392722 / 34.5197861; 135.6392722座標ざひょう: 北緯ほくい3431ふん11.23びょう 東経とうけい13538ふん21.38びょう / 北緯ほくい34.5197861 東経とうけい135.6392722 / 34.5197861; 135.6392722
形状けいじょう えんふん
規模きぼ 南北なんぼく43m東西とうざい53m
たかさ11m
埋葬まいそう施設しせつ 横穴よこあなしき石室いしむろ内部ないぶかん3
出土しゅつどひん 夾紵かんかたほか
築造ちくぞう時期じき 7世紀せいき後半こうはん
被葬ひそうしゃ宮内庁くないちょう治定じじょう):聖徳太子しょうとくたいし
考古学こうこがくてき推定すいてい):厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし)・あなあいだじん皇女おうじょ膳部ぜんぶ菩岐々美郎よしろうおんな
陵墓りょうぼ 宮内庁くないちょう治定じじょういそちょうはか
地図ちず
叡福寺北 古墳の位置(大阪府内)
叡福寺北 古墳
あきらぶくてらきた
古墳こふん
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750 m
葉室はむろづか
石塚いしづか
がま戸塚とつか
二子塚ふたごづか
あきらぶくてらきた (聖徳太子しょうとくたいし)
山田やまだ上ノ山うえのやま (孝徳たかのり)
山田やまだ高塚たかつか (推古)
春日かすが向山むかいやま (ようあきら)
.
太子たいし西山にしやま (さとしたち)
聖徳太子しょうとくたいしいそちょうはか はいしょ

あきらぶくてらきた古墳こふん(えいふくじきたこふん)は、大阪おおさか南河内みなみかわちぐん太子たいしまち太子たいしにある古墳こふん形状けいじょうえんふんいそ長谷ながたに古墳こふんぐん構成こうせいする古墳こふんの1つ。

宮内庁くないちょうにより「いそちょうはか(しながのはか)」としてだい31だいよう明天めいてんすめらぎ皇子おうじだい33だい推古天皇すいこてんのう皇太子こうたいし聖徳太子しょうとくたいし厩戸皇子うまやどのおうじはか治定じじょうされている。考古学こうこがくてきにも厩戸皇子うまやどのおうじはか可能かのうせいたか古墳こふんとしてられる。

概要がいよう

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あきらぶくてら金堂こんどうあきらぶくてらきた古墳こふん

大阪おおさか南東なんとう二上山にじょうざん山麓さんろくいそ長谷ながたににおいて、きたからびる丘陵きゅうりょう先端せんたんみなみ斜面しゃめん南面なんめんして築造ちくぞうされた古墳こふんである[1][2]一帯いったいではほん古墳こふんのほか天皇陵てんのうりょう4などの古墳こふん築造ちくぞうされており、いそ長谷ながたに古墳こふんぐんとして認知にんちされる。ほん古墳こふんあきらぶくてら境内けいだい北側きたがわ位置いちし、現在げんざい宮内庁くないちょう治定じじょう皇族こうぞくとして同庁どうちょう管理かんりにあり、これまでに同庁どうちょうによる調査ちょうさ実施じっしされているほか、明治めいじ以前いぜん可能かのうであった時代じだいのこされた絵図えずとうつてされている[3]

ふんがた楕円だえんがたで、直径ちょっけい南北なんぼくやく43メートル東西とうざいやく53メートルをはか[4]墳丘ふんきゅうは3だんちくなり[4]墳丘ふんきゅう外表そとおもて葺石いしみとめられていない[4]埋葬まいそう施設しせつ横穴よこあなしき石室いしむろで、みなみ方向ほうこう開口かいこうする[2]玄室げんしつ内部ないぶにはかんえたかんだい3のこり、かんだい周辺しゅうへんでは夾紵かんへん残存ざんそんみとめられている[4]。また後世こうせいくわえられた改変かいへんとして、墳丘ふんきゅうすそ周囲しゅういには「結界けっかいせき」としょうされる列石れっせきが2じゅうめぐらされているほか、開口かいこうには「御霊屋おたまや」としょうされる唐破風からはふ屋根やねくつがえ建立こんりゅうされている[2]

築造ちくぞう時期じきは、古墳こふん時代じだい終末しゅうまつ飛鳥あすか時代ときよ7世紀せいき後半こうはんころ推定すいていされる[3]被葬ひそうしゃは、宮内庁くないちょうでは聖徳太子しょうとくたいし厩戸皇子うまやどのおうじ622ねん薨去こうきょ)に治定じじょうされ[2]考古学こうこがくてきにも厩戸皇子うまやどのおうじあなあいだじん皇女おうじょよう明天めいてんすめらぎ皇后こうごう皇子おうじはは)・膳部ぜんぶ菩岐々美郎よしろうおんな皇子おうじ)ら3にんごうそうさんほねいちびょう)の可能かのうせいたかいと推定すいていされる[2][3][5]被葬ひそうしゃあきらかな古墳こふんとして、古墳こふんへんねんにおける1つの基準きじゅんとして重要じゅうようされる古墳こふんになる。なお、いそ長谷ながたにでは聖徳太子しょうとくたいしのほかさとしたちもちいあきら推古孝徳天皇こうとくてんのうりょうつたわっており、これらは「うめはち御陵ごりょう」と総称そうしょうされる。

遺跡いせきれき

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墳丘ふんきゅう

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あきらぶくてらきた古墳こふん航空こうくう写真しゃしん
(1985年度ねんど
古墳こふんくさむら南半みなみはん)の南側みなみがわあきらぶくてら伽藍がらん立地りっち国土こくど交通省こうつうしょう 国土こくど地理ちりいん 地図ちず空中くうちゅう写真しゃしん閲覧えつらんサービス空中くうちゅう写真しゃしんもと作成さくせい

墳丘ふんきゅうについて、2007年度ねんど平成へいせい19年度ねんど)の宮内庁くないちょうしょりょうによる測量そくりょう調査ちょうさでは、楕円だえんがたで3だんちくなりとし、直径ちょっけい南北なんぼくやく43メートル・東西とうざいやく53メートル、たかさはやく11メートルをはかるとする[4]。1だん・2だん墳丘ふんきゅうかんしゅうせず、1だん南半みなみはんのみとし、2だん墳丘ふんきゅう北側きたがわ途切とぎれる[4]やませのため南北なんぼく非対称ひたいしょう形状けいじょうになるが、本来ほんらい墳丘ふんきゅうみなみ半分はんぶん整美せいび円形えんけいであったとされ、正面しょうめんかんとしては左右さゆう東西とうざい対称たいしょうとされる[4]

墳丘ふんきゅうすそでは後世こうせい碑石ひせきが2じゅう列立れつりつされており、内側うちがわ列石れっせき外側そとがわ列石れっせきはそれぞれ「中段ちゅうだん結界けっかいせき」・「下段げだん結界けっかいせき」と呼称こしょうされる。かく結界けっかいせき詳細しょうさいつぎとおり。

中段ちゅうだん結界けっかいせき
内側うちがわ墳丘ふんきゅう中腹ちゅうふくめぐらされた列石れっせきで、448確認かくにんされる[6]かくいしながれもんがんしつ凝灰岩ぎょうかいがんせいほう柱状ちゅうじょうで、たかやく100センチメートルはばやく30センチメートル、奥行おくゆきやく20センチメートルをはか[6]いし頭部とうぶには聖観音しょうかんのん意味いみする梵字ぼんじ(サ)」の1陰刻いんこくされる[6]列立れつりつ時期じきについては、太子たいし自身じしんはこんだとする伝説でんせつ空海くうかい寄進きしんとする伝説でんせつがある[6]宮内庁くないちょうしょりょうによる調査ちょうさではよしみろく元年がんねん1225ねん以降いこう列立れつりつ可能かのうせいたかいとされ、江戸えど時代じだいとおる年間ねんかん1716-1736ねん以降いこうなおされたと推定すいていされる[6]
下段げだん結界けっかいせき
外側そとがわ墳丘ふんきゅうすそめぐらされた列石れっせきで、478確認かくにんされる[4]かくいしくろ雲母うんも花崗岩かこうがんせいで、たかやく140センチメートル、はばやく30センチメートルをはかり、頭部とうぶ山形やまがた[4]いし上段じょうだんには「」の1中段ちゅうだんには浄土じょうどさんけい下段げだんには施主せしゅとうこくされる[4]列立れつりつ時期じきつまびらかでないが、列石れっせきのうち24では銘文めいぶんとおる19-たかられき12ねん1734-1762ねん)のあいだ年紀としのりみとめられる[4]

なお、墳丘ふんきゅうじょう鎌倉かまくら時代ときよ以降いこうごろからみんとして利用りようされたとられ、宮内庁くないちょうしょりょうによる墳丘ふんきゅう外表そとおもて調査ちょうさでは五輪ごりんとうたから篋印とうぞうこつほねへんみとめられている[6]

埋葬まいそう施設しせつ

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埋葬まいそう施設しせつ横穴よこあなしき石室いしむろで、みなみ方向ほうこう開口かいこうする。この石室いしむろ内部ないぶにおいてかん3安置あんちみとめられる。

石室いしむろ

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石室いしむろ大型おおがた切石きりいし構築こうちくされ、玄室げんしつ羨道せんどうから構成こうせいされる[4]現在げんざい石室いしむろ閉塞へいそくされており内部ないぶつまびらかとしないが、中世ちゅうせい近世きんせいまではりが可能かのうであり、記録きろくすうてんのこされている[1]宮内庁くないちょうしょりょうでは、1879ねん明治めいじ12ねん)の立入たちいり記録きろくの『聖徳太子しょうとくたいしいそちょうはか実検じっけん』と近年きんねん調査ちょうさ結果けっかわせて石室いしむろ規模きぼとしてつぎのように推測すいそくする[4]

  • 石室いしむろ全長ぜんちょう:14.65メートル以上いじょうひがしかべ)、15.15メートル以上いじょう西にしかべ
  • 玄室げんしつ
    • ながさ:やく5.45メートル(1たけ8しゃく
    • はばやく3.03メートル(1たけ
    • たかさ:やく3.03メートル(1たけ
  • 羨道せんどう - 現在げんざい開口かいこうせき本来ほんらい南端なんたんせき不明ふめいのため全長ぜんちょう確定かくてい
    • ひがしかべながさ:9.2メートル以上いじょう
    • 西にしかべながさ:9.7メートル以上いじょう
    • たかさ:やく1.94メートル(6しゃく4すん
あきらぶくてらきた古墳こふん石室いしむろは、岩屋山いわやさん古墳こふん石室いしむろ同様どうよう構造こうぞう岩屋山いわやさんしき石室いしむろ)とされる。

玄室げんしつ側壁そくへき巨石きょせき2だんみで構築こうちくされ、下段げだん切石きりいし3まい上段じょうだん切石きりいし2まいぬのみによる[3]おくかべも2だんみで、それら側壁そくへきおくかべうえ天井てんじょうせき2まいけられる[3]おくかべ墳丘ふんきゅういただき直下ちょっか位置いちする[4]羨道せんどう側壁そくへき切石きりいし4まいにより、そのうえ天井てんじょうせき3まいけられる[3]以上いじょう石室いしむろ構造こうぞうには岩屋山いわやさん古墳こふん奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむら)との酷似こくじ指摘してきされるが[1][4][3]、この「岩屋山いわやさんしき石室いしむろ」の年代ねんだいかんとしては厩戸皇子うまやどのおうじからくだ7世紀せいき後半こうはんごろ位置いちづけられるてん注意ちゅういされる[3][7]。なお近年きんねんでは、厩戸皇子うまやどのおうじおとうとらい皇子おうじ603ねん死去しきょ)のはか塚穴つかあな古墳こふん羽曳野はびきの)も岩屋山いわやさんしき石室いしむろであることが確実視かくじつしされている。

玄室げんしつないではかんだい3が「しな字形じけい配置はいちされ(後述こうじゅつ)、かんだい周辺しゅうへんではかんへん散乱さんらんみとめられている[3]。また江戸えど時代じだいによる絵図えずでは、玄室げんしつないおくかんかね獅子じし1つい玄室げんしつない北西ほくせい井戸いど鏡台きょうだい日記にっきせき存在そんざいえがかれる[3]。なお開口かいこうくつがえである御霊屋おたまや天保てんぽう15ねん1844ねん)の建立こんりゅうで、内部ないぶにはいし燈籠どうろう1ついてられている[4]

大阪おおさか府立ふりつちか飛鳥あすか博物館はくぶつかん南河内みなみかわちぐん河南かなんまち)では、以上いじょう玄室げんしつ内部ないぶ様子ようす実物じつぶつだい推定すいてい復元ふくげん模型もけい展示てんじされている[3]

かんだいかん

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前述ぜんじゅつのように、玄室げんしつないにはかんだい3が「しな字形じけい配置はいちされる。かくかんだい詳細しょうさいつぎとおり。

おくかんだい
玄室げんしつ最奥さいおう位置いちする。長方形ちょうほうけいで、ちょうあたりおくかべ平行へいこう方向ほうこう東西とうざい方向ほうこう)とする[3]凝灰岩ぎょうかいがんせい推定すいてい)の切石きりいしで、おおきさはながさ2メートル、はば0.76メートル、たかさ0.49メートルをはか[3]側面そくめんはんにくかく狭間はざまにより装飾そうしょくされる(かんだいかく狭間はざま文様もんよう近在きんざいみねさん古墳こふんでもられる)[1][3]上面うわつらは0.18メートルほどのふかさでくぼめられ、くぼりょうはしは0.24メートルほどにふかくしてみずあな穿うがたれる[3]。このくぼみのためにかんだいでなく抜式の石棺せっかんとするせつもあるが[3][5]かんとしてはあさすぎるため、これはかんだい後世こうせい手水ちょうずばち加工かこうされたことによると推測すいそくされる[3]被葬ひそうしゃとしては、最奥さいおう位置いちすることから、厩戸皇子うまやどのおうじははかつ皇子おうじ前年ぜんねん死去しきょしたあなあいだじん皇女おうじょ推定すいていされる[3]
ひがしかんだい
玄室げんしつみぎ手前てまえ位置いちする。長方形ちょうほうけいで、おくかんだいとは垂直すいちょくちょうあたり南北なんぼく方向ほうこうとする[3]凝灰岩ぎょうかいがんせい推定すいてい)の切石きりいしで、おおきさはながさ2.42メートル、はば1.11メートル、たかさ0.61メートルをはか[3]側面そくめんおくかんだい同様どうようはんにくかく狭間はざまにより装飾そうしょくされる[3]被葬ひそうしゃとしては、そのおおきさ(3かんちゅう最大さいだい)および配置はいちおくから高位こうい左側ひだりがわ)から厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし)と推定すいていされるが、その場合ばあいには皇子おうじ正面しょうめんとしないてん注意ちゅういされる[3]
西にしかんだい
玄室げんしつひだり手前てまえ位置いちする。長方形ちょうほうけいで、ひがしかんだい同様どうようちょうあたり南北なんぼく方向ほうこうとする[3]凝灰岩ぎょうかいがんせい推定すいてい)の切石きりいしで、おおきさはながさ2.17メートル、はば0.91メートル、たかさ0.67メートルをはかり、たかさはひがしかんだい共通きょうつうする[3]側面そくめんおくかんだい同様どうようはんにくかく狭間はざまにより装飾そうしょくされる[3]被葬ひそうしゃとしては、膳部ぜんぶ菩岐々美郎よしろうおんな皇子おうじ)と推定すいていされる[3]

3かんだい周辺しゅうへんでは夾紵かん(きょうちょかん、乾漆かんしつかんへん散乱さんらんみとめられる[3]。夾紵かんとは、または原型げんけいうえぬのをあてて、そのうえうるしってはぬのるという作業さぎょうかえしていたじょう形成けいせいされたかんのことで、飛鳥あすか時代じだい当時とうじでは相当そうとう高位こうい人物じんぶつにのみ使用しようされたかんとされる[8]全国ぜんこくでは7古墳こふん使用しようみとめられており、確実かくじつなものは牽牛けんぎゅうづか古墳こふん奈良ならけん高市たかいちぐん明日香あすかむらしんひとし明天めいてんすめらぎりょうか)と阿武山あぶさん古墳こふん大阪おおさか高槻たかつき藤原鎌足ふじわらのかまたりはかか)でのみられる[8]

安福やすふくてら所蔵しょぞう 夾紵かんへん

あきらぶくてらきた古墳こふんかん関連かんれん遺物いぶつとしては、安福やすふくてら柏原かしわばら所蔵しょぞうの夾紵かんへん柏原かしわばら指定してい有形ゆうけい文化財ぶんかざい)がられる[3][8]。この夾紵かんへんは45まいものきぬかさねて製作せいさくされたもので、現在げんざい残存ざんそんへんながさ94センチメートル、はば47.5センチメートル、あつさ3センチメートル(2センチメートル[3])をはか[8]残存ざんそん縁辺えんぺんからかん小口こぐち部分ぶぶん相当そうとうするとされる[3][8]安福やすふくてらゆかあいだかざられていたのが注目ちゅうもくされるにいたったもので、安福やすふくてら周辺しゅうへんでは終末しゅうまつ古墳こふんられないため元々もともと安置あんちされた古墳こふんつまびらかでない[8]安福やすふくてらあきらぶくてらきた古墳こふんから北方ほっぽうすうキロメートルとはなれて位置いちするが、夾紵かんへん高級こうきゅう絹布けんぷ使用しようされたてん牽牛けんぎゅうづか古墳こふんかん阿武山あぶさん古墳こふんかん麻布まふ)、推定すいていかんあきらぶくてらきた古墳こふんひがしかんだいはば(1.11メートル)におさまるてん江戸えど安福やすふくてらあきらぶくてら交流こうりゅうてんなどから、厩戸皇子うまやどのおうじかん可能かのうせいがあるとして注目ちゅうもくされている[3][8]

被葬ひそうしゃ

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菊池きくち容斎ようさい前賢ぜんけん故実こじつ』。

あきらぶくてらきた古墳こふんについて、宮内庁くないちょうではだい31だいよう明天めいてんすめらぎ皇子おうじだい33だい推古天皇すいこてんのう皇太子こうたいし聖徳太子しょうとくたいし厩戸皇子うまやどのおうじはか治定じじょうしている[2][9][10]考古学こうこがくてきにも厩戸皇子うまやどのおうじはか可能かのうせいたかいとされるが、かん3みとめられることから、厩戸皇子うまやどのおうじくわえて皇子おうじどう時期じきくなったあなあいだじん皇女おうじょよう明天めいてんすめらぎ皇后こうごう皇子おうじはは)・膳部ぜんぶ菩岐々美郎よしろうおんな皇子おうじ)ら3にんごうそうさんほねいちびょう)とするせつ有力ゆうりょくされる[1][2][3][5][7]

文献ぶんけんられる厩戸皇子うまやどのおうじかか出来事できごとつぎとおり。

  • 推古天皇すいこてんのう29ねん621ねん)12月21にちあなあいだじん皇女おうじょ崩御ほうぎょ
    ちゅう天寿てんじゅこく繡帳・『上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』による。法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう釈迦三尊しゃかさんぞんぞう光背こうはいめいでは12月の崩御ほうぎょとする。
  • 推古天皇すいこてんのう30ねん622ねん)2がつ21にち膳部ぜんぶ菩岐々美郎よしろうおんな薨去こうきょ
    ちゅう法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう釈迦三尊しゃかさんぞんぞう光背こうはいめい・『上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』による。
  • 推古天皇すいこてんのう30ねん(622ねん)2がつ22にち厩戸皇子うまやどのおうじ聖徳太子しょうとくたいし)の薨去こうきょ
    ちゅう法隆寺ほうりゅうじ金堂こんどう釈迦三尊しゃかさんぞんぞう光背こうはいめい天寿てんじゅこく繡帳・『上宮かみみや聖徳せいとく法王ほうおうみかどせつ』による。『日本書紀にほんしょき[げん 2]では推古天皇すいこてんのう29ねん(621ねん)2がつ5にち薨去こうきょとする。

厩戸皇子うまやどのおうじはかについて、『日本書紀にほんしょき[げん 3]では「いそちょうりょう(しながのみささぎ)」にほうむったとえるが、ごうそうむね記載きさいはない[2][7]。『延喜えんぎしきしょりょうりょう[げん 4]ではどおはかの「いそちょうはか」として記載きさいされ、河内かわうちこく石川いしかわぐん所在しょざいで、ちょういき東西とうざい3まち南北なんぼく2まちもり3けむり毎年まいとしあてるとするが、こちらにもごうそうむね記載きさいはない[2][7]同書どうしょではははあなあいだじん皇女おうじょはかについても大和やまとこく平群へぐりぐん所在しょざいの「龍田たつた清水しみずはか」として記載きさいされるてん注意ちゅういされる(比定ひていには異説いせつもある[ちゅう 1][11]。そのも、厩戸皇子うまやどのおうじはや段階だんかいから神聖しんせいされた関係かんけい伝承でんしょう途切とぎれることなくまもられており、陵墓りょうぼとはことなり現在げんざいでも皇子おうじはか可能かのうせいたかいとされる[3]。しかしながら、前述ぜんじゅつのように石室いしむろ年代ねんだいかんとしては皇子おうじからはん世紀せいきくだる7世紀せいき後半こうはんごろ位置いちづけられるてんとう問題もんだいてんのこ[3][7]、これについて天武天皇てんむてんのう改修かいしゅう改葬かいそう推測すいそくするせつとうげられている[3]

なおあきらぶくてらきた古墳こふん包摂ほうせつするあきらぶくてらは、てらでんでは推古天皇すいこてんのうによる聖徳太子しょうとくたいしはか守護しゅごのための開基かいきで、かみひさし元年がんねん724ねん)に聖武天皇しょうむてんのう勅願ちょくがんによって伽藍がらん整備せいびされたという[12]てらでん史実しじつせいつまびらかとしないが(飛鳥あすか時代ときよ奈良なら時代じだい寺院じいんけい遺物いぶつ遺構いこう検出けんしゅつされていない[13])、正面しょうめんあきらぶくてらきた古墳こふんえる伽藍がらん配置はいちであり、このてんでも厩戸皇子うまやどのおうじまつるため建立こんりゅうされた寺院じいんであることがみとめられる[3]

以上いじょうのほか、聖徳太子しょうとくたいし伝記でんきのうち『上宮かみみや聖徳太子しょうとくたいしでん闕記』では、推古天皇すいこてんのう27ねん(619ねん)にはすでに皇子おうじみずか当地とうち墓所はかしょきずいていたとする[12]

うめはち御陵ごりょう関係かんけい系図けいず
いしひめ
太子たいし西山にしやま古墳こふん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29 欽明
 
 
 
蘇我そが
しょうあねくん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
蘇我そが
けんしおひめ
 
 
 
 天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
こうひめ
 
 
 
30 さとしたち天皇てんのう
太子たいし西山にしやま古墳こふん
 
 
 
33 推古天皇すいこてんのう
山田やまだ高塚たかつか古墳こふん
31 よう明天めいてんすめらぎ
春日かすが向山むかいやま古墳こふん
 
 
 
あなあいだじん皇女おうじょ
あきらぶくてらきた古墳こふん
32 たかしたかし天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
押坂彦人大兄たいけい皇子おうじ竹田たけだ皇子おうじ
山田やまだ高塚たかつか古墳こふん
ぜん
ぜん郎女いらつめ
あきらぶくてらきた古墳こふん
 
聖徳太子しょうとくたいし
あきらぶくてらきた古墳こふん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
かや渟王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
36 孝徳天皇こうとくてんのう
山田やまだ上ノ山うえのやま古墳こふん
35 すめらぎごく天皇てんのう /
37 ひとし明天めいてんすめらぎ
 
34 舒明天皇てんのう
 

現地げんち情報じょうほう

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所在地しょざいち

交通こうつうアクセス

関連かんれん施設しせつ

  • 大阪おおさか府立ふりつちか飛鳥あすか博物館はくぶつかん南河内みなみかわちぐん河南かなんまち) - あきらぶくてらきた古墳こふん玄室げんしつ内部ないぶ推定すいてい模型もけい実物じつぶつだいとう展示てんじ
  • 太子たいし町立ちょうりつ竹内たけうち街道かいどう歴史れきし資料しりょうかん太子たいしまち山田やまだ) - あきらぶくてらきた古墳こふん石室いしむろ推定すいてい模型もけいとう展示てんじ

周辺しゅうへん

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

  1. ^ 延喜えんぎしきしょりょうりょうでは龍田たつた清水しみず被葬ひそうしゃを「あいだじん女王じょおう」と記載きさいするため、これをあなあいだじん皇女おうじょでなくあいだじん皇女おうじょ孝徳天皇こうとくてんのう皇后こうごう)に比定ひていするせつもあるが、『日本書紀にほんしょき』ではあいだじん皇女おうじょひとしあきら天皇陵てんのうりょうごうそうされたとあって異同いどうする(「竜田たつた清水しみずはか」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん。)。

原典げんてん

  1. ^ えんたいれき貞和さだかず4ねん(1348ねん)2がつ3にちじょう。 - えんたいれき まきふとしようしゃ国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)159コマ参照さんしょう
  2. ^ 日本書紀にほんしょき推古天皇すいこてんのう29ねん(621ねん)2がつ癸巳きし(5にちじょう
  3. ^ 日本書紀にほんしょき推古天皇すいこてんのう29ねん(621ねん)2がつこれがつじょう
  4. ^ 延喜えんぎしきまき21(治部じぶしょうしょりょうりょうじょう

出典しゅってん

  1. ^ a b c d e f 聖徳太子しょうとくたいし平凡社へいぼんしゃ) 1986.
  2. ^ a b c d e f g h i j k いそちょう国史こくし.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am 猪熊いのくまけんかち 2014.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v しょりょう紀要きよう だい60ごう 2009.
  5. ^ a b c 聖徳太子しょうとくたいし古墳こふん) 1989.
  6. ^ a b c d e f g h しょりょう紀要きよう だい57ごう 2006.
  7. ^ a b c d e いそちょう古代こだい) 2006.
  8. ^ a b c d e f g 安福やすふくてら所蔵しょぞう夾紵かん柏原かしわばらホームページ)。
  9. ^ みや内省ないせいしょりょうりょうへん陵墓りょうぼ要覧ようらん(1934ねん国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)12コマ。
  10. ^ 陵墓りょうぼ地形ちけい集成しゅうせい 縮小しゅくしょうばん宮内庁くないちょうしょりょう陵墓りょうぼへん学生がくせいしゃ、2014ねん、p. 407。
  11. ^ 戸原とばら純一じゅんいつ竜田たつた清水しみずはか」『国史こくしだい辞典じてん吉川弘文館よしかわこうぶんかん
  12. ^ a b あきらぶくてら平凡社へいぼんしゃ) 1986.
  13. ^ おうりょうたにいそ長谷ながたに古墳こふんぐん 1994, pp. 17–20.
  14. ^ いそ長山ながやま あきらぶくてらしん西国さいこく霊場れいじょうホームページ)。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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